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第64話 怖い場所に置く剣(挿絵有)

 カレンは、衣装箱の前で少しだけ迷っていた。


 今までなら、迷わなかった。


 白。

 水色。

 薄い緑。

 少しだけ可愛い桃色。


 そういう、安心できる色を選んでいたと思う。


 清潔で。

 目立たなくて。

 自分らしくて。

 何も考えずに済む色。


 けれど今日は、手がそこで止まった。


 婚約者。


 その言葉が、胸の奥で小さく鳴る。


 良樹さんの、婚約者。


 そう思った瞬間、いつもの色では少しだけ足りない気がした。


 可愛いと思われたい。

 それは、ある。


 昨日のことも、まだ少し残っている。


 小さいわけじゃない。

 がっかりなんかしていない。


 良樹は、そう言ってくれた。


 嬉しかった。

 恥ずかしかった。

 でも、それだけではなくて。


 リシアのようにはなれない。

 クラリスのようにもなれない。


 そう思ってしまった自分がいた。


 だからこそ、今日は。


 剣を見てもらいたかった。


 足を。

 目を。

 怖い場所を見ていることを。

 怖くても、そこへ踏み込むことを。


 媚びなくていい。

 横に立て。


 ノーラの言葉が、胸に残っている。


 リシアのように強気には言えない。

 クラリスのように余裕を持って近づくこともできない。


 でも、剣なら。

 怖い場所を見ることなら。

 怖くても足を置くことなら。


 カレンにも、できる。


 良樹の横に立つために。

 婚約者として。

 仲間として。

 剣士として。


 カレンは、白の隣に畳まれていた布へ手を伸ばした。


 青。


 今まで選んできた水色よりも、少しだけ深い。

 けれど、暗くはない。

 濁ってもいない。


 空に近い青。


 晴れた日に見上げた先にあるような、澄んだ青だった。


 派手ではない。

 勝負、というほどでもない。


 けれど、いつもの自分よりは、ずっと勇気がいる色だった。


 カレンは、その青を手に取った。


 誰に見せるつもりでもない。

 見せるために選んだわけでは、絶対にない。


 でも。


 良樹さんに、少しだけ大人っぽいと思ってもらえたら。


 そう思ってしまったことだけは、否定できなかった。


   ◇


 野原には、まだ少しだけ熱が残っていた。


 魔法の熱ではない。

 事故の熱である。


 リシアは、草の上に座ったまま、まだ少しだけ頬を赤くしていた。


「……良樹」


「何だ」


「さっきのことは忘れなさい」


「記録には残さない」


「記憶にも残すなって言ってるでしょ」


「無理な要求だ」


「努力しなさい」


「努力で消える記憶と、消えない記憶がある」


「燃やすわよ」


「黙る」


 良樹は正座に近い姿勢で座っていた。


 妙に背筋が伸びている。

 手は膝の上。

 視線は正面。

 誰が見ても反省の姿勢だった。


 ただし、反省しているのは事故そのものか、事故後の言動か、あるいはその両方かは分からない。


 クラリスは、そんな良樹の横で静かに微笑んでいた。


「良樹くん」

「事故後の姿勢としては、非常に良いと思います」


「評価するな」


「はい」

「ただ、今後の講習では、密着時の重心管理に注意が必要ですね」


「記録するな」


「記録はしません」

「ですが、記憶には残します」


「そこを戻せ」


 リシアが額に手を当てた。


「ああもう」

「この会話ごと忘れたいわ」


 カレンは、少し離れた場所でそのやり取りを聞いていた。


 昨日までなら、きっと小さく笑っていただけだった。


 けれど今日は違う。


 次は、自分の番だ。


 リシアは、魔法使いの視界を良樹に見せた。


 火。

 水。

 風。

 土。

 撃つ前に、もう半分終わっていること。

 魔法は出力ではなく、見て、怖がって、止めて、その上で形になるものだということ。


 良樹は、それをちゃんと見た。


 なら、自分は。


 カレンは、剣の柄に手を添えた。


「あ、あの」


 三人の視線がカレンへ向く。


 カレンは一瞬だけ肩を揺らした。

 それでも、目を逸らさなかった。


「次は、私の番ですよね」


 良樹が頷く。


「ああ」

「ただ、無理しなくていいぞ」

「さっきので色々あったし」


「いえ」


 カレンは、首を横に振った。


「やります」


 声は小さかった。

 けれど、逃げてはいなかった。


「私も」

「良樹さんに、見てほしいです」


 言ってから、カレンは自分の言葉に気づいた。


 見てほしい。


 何を。

 どこを。

 どう見てほしいのか。


 剣の話だ。

 剣の話のはずだ。


 なのに、自分で言って、顔が熱くなる。


 リシアが半眼になる。


「カレン」

「今の言い方、かなり危険よ」


「ち、違います」

「剣の話です」

「剣の話、ですけど……」


 カレンは両手を胸元で握った。


「でも」

「私が、どこを見ているのか」

「どこに足を置いているのか」

「どうして、そこに剣を置くのか」


 一度、息を吸う。


「そこまで」

「見てほしいです」


 クラリスが、口元に手を添えた。


「そこまで、ですね」


「クラリス」

「広げないでください……!」


「広げてはいません」

「確認です」


「確認しないでください……」


 良樹は、カレンを見ていた。


 いつものように、少し眉間に皺が寄っている。

 だが、からかう顔ではない。

 事故を期待する顔でもない。


 現場を見る顔だった。


「見る」


 良樹は言った。


「ただし、分かった気にならないように見る」


 カレンの胸の奥が、少しだけ熱くなった。


「……はい」


   ◇


 カレンは、訓練用の木剣を手に取った。


 良樹にも木剣を渡すか少し迷ったが、最初は渡さなかった。


「まずは、見てください」


「ああ」


 カレンは野原の中央に立った。


 足を前後に開く。

 膝を少しだけ柔らかくする。

 肩に力を入れすぎない。

 腰を固めすぎない。


 剣先は、相手に向けるのではない。


 相手が来る線へ置く。


「良樹さん」


「何だ」


「剣は、斬るためだけにあるんじゃありません」


 良樹の目が、少し細くなった。


「どういうことだ」


「怖い場所に、先に置くんです」


 カレンは木剣をゆっくり前へ出した。


「そこに何かが来た時」

「私の身体じゃなくて、剣が先に受けるように」


 良樹は剣先を見た。


「……ガードか」

「センサーじゃなくて、物理的なインターロックに近いのか」


「たぶん違います」


「違うか」


「でも、少しだけ分かります」


 カレンは、小さく笑った。


「剣を置く前に、足を置きます」

「足が決まらないと、剣は間に合いません」

「目を逸らすと、剣を置く場所が分かりません」


 木剣を戻す。


 そして、もう一度構える。


「私は、怖いです」


 言葉にすると、少しだけ喉が震えた。


「魔物も」

「剣も」

「飛んでくる魔法も」

「怖くないわけじゃありません」


「ああ」


 良樹は短く頷いた。


 否定しなかった。

 そんなことはないと言わなかった。


 それだけで、カレンは少しだけ息がしやすくなった。


「でも」

「怖いから、見ます」

「怖い場所を見ないと、剣を置けません」


 カレンは、良樹を見た。


「だから」

「怖いままでも、守れます」


 風が、草を揺らした。


 リシアは黙っていた。


 クラリスも、静かにカレンを見ていた。


 良樹は、カレンの構えを見たまま、小さく息を吐いた。


「怖いから、先に見る」

「怖いから、先に置く」


「はい」


「なるほどな」


 良樹は、少しだけ腰を落とした。


「続けてくれ」


   ◇


「剣先だけ見ないでください」


 しばらくして、カレンはそう言った。


 良樹は、剣先から視線を上げる。


「剣の講習だろ」


「剣は、手だけで持っていません」


 カレンは、自分の足元を示した。


「足と」

「腰と」

「目で置いています」


 良樹は少しだけ驚いた顔をした。


「手じゃないのか」


「手だけだと、間に合いません」

「怖い場所に置く前に、身体がそこへ向いていないと駄目です」


 カレンは、もう一度構える。


「良樹さん」

「私の足を見てください」


 言ってから、顔が熱くなった。


 しまった、と思った。


 しかし、言ったことは正しい。

 踏み込みの話だ。

 剣の話だ。


 リシアの声が飛ぶ。


「カレン」


「ち、違います!」

「踏み込みの話です!」


 クラリスが静かに頷いた。


「ですが、正しい指示です」

「剣は足からですから」


「そうです!」

「足です!」


 カレンは必死に頷いた。


 良樹は真面目に足元を見る。


 真面目に。


 本当に真面目に。


 カレンの足。

 膝。

 踏み込む前に、一瞬だけ沈む身体。

 そこから前へ出る足。

 止めるために入る太腿。

 逃げ道を残す腰。


 良樹の目が、現場の目になっていく。


「……踏み込む前に、一瞬沈むんだな」

「あとは、足が先に逃げ道を作ってる」

「剣を出す前に、もう戻れる形を残してるのか」


「はい」


「で、止める時は」

「太ももで受けてるのか」


 カレンの顔が、一瞬で赤くなった。


「ふ、太ももって言わないでください……!」


 リシアが即座に良樹を見る。


「良樹」

「女の子の身体を観察した結果を、そのまま出力するのをやめなさい」


「必要な観察だろ」


「分かるけど」

「言い方!」


 クラリスは、少しだけ首を傾けた。


「ですが、カレンの踏み込みは本当に良い太ももです」


「クラリスまで……!」


「褒めています」


「褒められてる気がしません……!」


 良樹は、少し考えたあとで言い直した。


「脚の使い方がいい」


「それなら、まだ……」


「特に太ももの止め方が」


「戻さないでください……!」


 リシアが深くため息を吐いた。


「良樹」

「補習ね」


「何の補習だ」


「女の子の身体観察結果の出力制限」


「専門講習だろ」


「専門講習でも言い方があるのよ」


 カレンは耳まで熱くなりながら、それでも少しだけ嬉しかった。


 良樹は見てくれている。


 胸だけではない。

 可愛いかどうかだけでもない。


 足を。

 踏み込みを。

 怖い場所に向けて身体を置くところを。


 ちゃんと見てくれている。


   ◇


 良樹は、しばらくカレンの動きを見ていた。


 剣先。

 足。

 腰。

 視線。


 カレンは、怖い方向を見てから動く。

 怖い場所を避けるためではない。

 そこへ剣を置くために見る。


 良樹は、ふと眉を寄せた。


「そういえば」


「はい」


「俺、お前の剣を正面から見たことがねえな」


 カレンは瞬きをした。


「正面、ですか?」


「ああ」


 良樹は、自分の位置を示す。


「守られてる側からは見てる」

「横や後ろからも見てる」

「でも、向けられる側からは見てねえ」


 カレンの指が、木剣の柄を少し強く握った。


「怖い場所に置く剣なら」

「置かれる側から見ないと分からねえ」


「……良樹さんに、剣を向けるんですか」


「ああ」


 カレンは迷った。


 良樹に剣を向ける。

 たとえ木剣でも。

 寸止めでも。


 怖い。


 当てたらどうしようと思う。

 自分の踏み込みがずれたら。

 良樹が変な動きをしたら。

 木剣とはいえ、顔や手に当たれば怪我をする。


 でも。


 知ってほしい。


 自分の剣を。

 怖い場所に置くということを。

 怖いまま、それでも守るということを。


「……分かりました」


 カレンは頷いた。


「でも、木剣で」

「寸止めだけです」

「絶対に、無理はしないでください」


「無理はしねえ」

「見るだけだ」


 リシアが、すぐに口を挟んだ。


「良樹」

「見るだけ、って言った時のあんたは危ないわよ」


 クラリスも静かに頷く。


「事故率が上がる言葉ですね」


「見るだけだ」


 良樹は真面目に答えた。


 真面目だから余計に危ない。


   ◇


 手合わせの前に、良樹は周囲を確認した。


 人影なし。

 射線なし。

 足元の石なし。

 草の下の穴なし。

 退避方向あり。

 リシアとクラリスの位置確認。

 木剣の長さ確認。

 カレンの踏み込み距離確認。


 リシアは呆れたように言った。


「手合わせ前にここまで確認する人、初めて見たわ」


「寸止めでも当たれば怪我する」

「剣を持つなら安全確認はいる」


「本当に良樹ね」


「何だそれは」


「褒めてるわよ」

「八割くらい」


「上がったな」


 カレンは、そのやり取りを聞きながら、少しだけ胸が温かくなった。


 良樹は、剣を危ないものとして見ている。


 ただ格好いいものとしてではない。

 ただ強いものとしてでもない。


 当たれば怪我をするもの。

 使い方を誤れば、人を壊すもの。

 だからこそ、見るべきもの。


 そういうふうに見てくれている。


 カレンは木剣を構えた。


「いきます」


 挿絵(By みてみん)


「ああ」


 最初の一歩は、ゆっくりだった。


 踏み込む。

 剣を出す。

 良樹の少し手前に置く。


 良樹は動かない。

 木剣の先端が、目の前に来る。


 良樹の目が細くなる。


「……なるほど」

「怖いな」


「はい」

「怖い場所に、先に置きます」


「これ」

「斬るより先に、止めてるんだな」


「はい」

「止められれば」

「斬らなくて済むこともあります」


 良樹は小さく頷いた。


「もう一回」


「はい」


 カレンは何度か繰り返した。


 正面。

 少し右。

 少し左。

 足を変える。

 剣先の高さを変える。


 良樹は、最初は動かなかった。


 しかし、何度目かで、半歩だけ横へ動いた。


 それ自体は、おかしくない。

 避けるための動きなら、自然だ。


 だが、次の一歩がおかしかった。


 良樹は、避けたはずなのに、少し入った。


 逃げるのではない。

 受けるのでもない。

 剣先を避けたあと、カレンの足と腰を見るために、半歩だけ踏み込んだ。


 カレンは、思わず剣を止めた。


「良樹さん」


「何だ」


「今の動き」

「剣士の動きではありません」


「だろうな」

「俺は剣士じゃねえ」


「だから、少し怖いです」

「次にどこへ動くか、分かりにくいです」


「それは悪い」


「いいえ」


 カレンは首を振った。


「でも」

「だからこそ、見てほしいです」

「怖い場所は、一つではないので」


 良樹は黙って、カレンを見た。


「次は、少しだけ動きを入れます」


「動き?」


「はい」

「剣が来る場所を、一つに見せて」

「本当の剣を、別の線に置く動きです」


 カレンは、ゆっくりと構える。


「当てません」

「でも、動かないでください」


「ああ」

「正面から見る」


 リシアの声が飛ぶ。


「良樹、本当に動かないでよ」


 クラリスも続ける。


「カレンも、無理はしないでください」


「はい」


 カレンは息を整えた。


 剣を握る手。

 足の位置。

 良樹との距離。

 踏み込みの線。

 外すための線。

 止めるための位置。


 全部を、見る。


 怖い。


 けれど、怖いから見る。


「いきます」


「ああ」


 カレンが、地面を蹴った。


 一歩。

 沈む。

 回る。


 剣先が、良樹の正面から消えた。


 良樹の目には、カレンの身体が一瞬だけ横へ流れたように見えた。


 違う。

 横ではない。


 前だ。


 剣が来る。


 良樹は、それを見ようとした。


 剣だけではない。

 足。

 腰。

 肩。

 視線。

 逃げ道。

 剣が置かれる場所。


 全部を見ようとした。


 その結果、剣士ならしない半端な一歩を入れた。


 逃げるでもない。

 受けるでもない。

 固まるでもない。


 確認するために、入った。


「良樹さんっ」


 カレンの声が跳ねた。


 寸止めの線が、崩れる。


 剣が、良樹に当たる。


 そう判断した瞬間、カレンは剣を外した。


 当てないために。

 良樹を傷つけないために。


 無理に、外した。


 足が流れる。

 腰が崩れる。

 剣を逃がした分、身体の芯がずれる。


 良樹が手を伸ばした。


「っ!」


 掴んだ。

 支えた。


 支えたはずだった。


 だが、二人分の重心は、もうどこにも残っていなかった。


 カレンの回転。

 良樹の半歩。

 伸ばした手。

 外した剣。


 全部が、最悪の形で噛み合った。


 草の上で、身体が回った。


 どさり、と音がした。


   ◇


 空は、青かった。


 二人の頭上に広がる青。

 遠くて、広くて、どこまでも澄んだ青。


 良樹は、それを知っていた。


 けれど今、良樹の視界いっぱいに広がっていたのは、頭上の空ではなかった。


 青だった。


 今までのカレンが選んできた水色よりも、少しだけ深い。

 けれど、濁ってはいない。

 晴れた日の空に近い青。


 二人の頭上に青は棲んでいた。


 良樹の視界いっぱいにも、青は棲んでいた。


 どちらの青も、澄んでいた。


 良樹は、即座に目を閉じた。


 遅かった。


 人間の視界に、非常停止は付いていない。


「……良樹さん」


 カレンの声が震えていた。


「はい」


「今」

「どこを、見ていましたか」


 良樹は、目を閉じたまま黙った。


 答えられなかった。


 答えたくなかった。

 だが、嘘もつけなかった。


 その沈黙だけで、カレンは全部を理解した。


「……っ」


 声にならない声が、カレンの喉から漏れた。


 良樹は、動けなかった。


 動けば、二次災害になる。

 動かなければ、現在進行形で災害である。


 視線は閉じた。

 だが、遅かった。


 見えなかったことには、できない。


「カレン」


「は、はい……」


「動けるか」


「い、息が……」


 良樹は一瞬だけ緊張した。


「苦しいのか」


「違います……」

「その」

「良樹さんの息が」

「近くて……!」


 良樹は完全に停止した。


「分かった」

「呼吸を止める」


「止めないでください!」

「でも、当てないでください……!」


 リシアの声が、少し遠くから飛んだ。


「良樹」

「動かないで」

「喋らないで」

「でも死なないで」


「要求が多い」


「この状況で文句を言える立場だと思ってるの!?」


「思ってない」


 クラリスの声は、妙に落ち着いていた。


「状況を整理します」


「整理しないでください……!」


「良樹くんの視界は危険域」

「カレンの衣服保持は不完全」

「呼吸接触による羞恥反応あり」

「動作順序を誤ると二次災害が発生します」


「整理しないでくださいぃ……!」


 リシアが深く息を吐いた。


「良樹、目は閉じたまま」

「カレン、できる範囲で押さえなさい」

「クラリス、良樹の肩を固定」

「私がカレンを起こす」


「了解」


 良樹は即答した。


 カレンは真っ赤な顔で震える。


「作業手順みたいにしないでください……!」


「今回ばかりは手順が必要よ」


 リシアは真顔だった。


「下手に動いたら、本当に終わるわ」


「もう終わってます……!」


「まだ終わらせないわよ!」


 クラリスが良樹の肩をそっと押さえた。


「良樹くん」

「動かないでください」


「動かねえ」


「呼吸はしてください」


「さっき止めるなと言われた」


「はい」

「ですが、可能な限り静かに」


「呼吸制御まで要求されるのか」


「はい」


 良樹は、目を閉じたまま小さく息をした。


 カレンがびくりと震える。


「ひゃっ……」


「悪い」


「謝らないでください……!」

「いえ、謝ってください……!」


 リシアがカレンの肩を支えた。


「カレン、起こすわよ」

「三、二、一」


 カレンの身体が、ようやく良樹の上から離れた。


 良樹は目を閉じたまま、しばらく動かなかった。


「もういいわよ」


 リシアが言う。


 良樹は、慎重に目を開けた。


 最初に見えたのは空だった。


 頭上の青。


 さっきからそこにあった、本来見るべき青。


 良樹は、小さく息を吐いた。


「……空は青いな」


 リシアが低く言う。


「今それを言うと燃やすわよ」


「黙る」


挿絵(By みてみん)


   ◇


 事故処理は終わった。


 だが、空気は終わっていなかった。


 カレンは草の上に座り込み、顔を両手で覆っていた。

 耳まで真っ赤だった。

 首筋まで赤かった。


 良樹は少し離れた場所で正座している。

 先ほどよりさらに姿勢が正しい。


 リシアは腕を組み、半眼で良樹を見ていた。


 クラリスは穏やかに微笑んでいる。

 ただし、その目は完全に事故処理班の目だった。


「悪い」


 良樹は、まずそう言った。


「完全に事故だ」


「はい……」


 カレンの声は、ほとんど消えかけていた。


「ただ」


 良樹は、一度言葉を止めた。


 言うべきか。

 言わないべきか。


 言わなければ、誤魔化しになる。

 言えば、さらに刺さる。


 良樹は、結局、いちばん良樹らしい方を選んだ。


「見えなかったとは、言えねえ」

「すまん」


「言わないでくださいぃ……!」


 カレンの声が裏返った。


 リシアが即座に良樹を指さす。


「良樹」

「それ以上、具体的に言ったら燃やすわ」


「言わねえ」


「記録にも残さない」


「残さねえ」


「記憶は」


「……努力する」


「燃やすわよ」


「最大限努力する」


 クラリスが静かに頷いた。


「事故内容は詳細記録禁止ですね」

「視認範囲は未記載」

「当人の羞恥反応は重大」

「二次確認は禁止」


「記録に残さないでください……!」


「記録には残しません」

「ですが、対応手順は残した方がよいかもしれません」


「やめてくださいぃ……!」


 カレンは両手で顔を覆ったまま、頭の中で同じ言葉を繰り返していた。


 今日に限って。


 今日に限って、いつもの白を選ばなかった。

 今日に限って、水色でも、薄い緑でも、淡い桃色でもなかった。


 青。


 婚約者として。

 良樹さんの横に立つために。

 子どもっぽいままではなく、少しだけ前へ進むために。


 その青を選んだ。


 その青が、今。


 最悪の形で、良樹さんの視界いっぱいに広がってしまった。


「きょ、今日は」


 カレンは、顔を覆ったまま呟いた。


 良樹が見る。


「違うんです……」


「何がだ」


「聞かないでください!」


「分かった」


「でも、いつもと違うんです……!」


「聞かない方がいいんだよな」


「はい!」

「でも、違うんです……!」


 リシアがカレンの肩に手を置いた。


「カレン」

「一回落ち着きなさい」

「気持ちは分かるけど、今の説明は自分で傷を広げてるわ」


「はいぃ……」


 クラリスが微笑む。


「今日のカレンは、とてもよく頑張っています」


「今言わないでください……!」


「はい」

「あとで言います」


「あとでも恥ずかしいです……!」


 良樹は、目を伏せた。


「カレン」


「はい……」


「事故の話はいったん置く」


「置けません……」


「置く」


「強いです……」


「俺が悪いところは、後で怒られる」

「燃やされるかもしれねえ」

「それは受ける」


「燃やさないわよ」

「たぶん」


 リシアが言った。


「たぶんか」


「今後次第よ」


 良樹は頷いた。


「分かった」

「ただ」

「今の剣で、分かったことがある」


 カレンの手が、少しだけ下がった。


「……分かった、こと?」


「ああ」


 良樹は、自分が半歩入った位置を見た。


「俺が変な一歩を入れた」

「剣士ならしねえ動きだったんだろ」


 カレンは、顔を赤くしたまま頷いた。


「……はい」

「受けるでも、避けるでもなく」

「良樹さんは、見ようとして入ってきました」


「ああ」

「それで、お前の寸止めの線が崩れた」


「はい」


「でも、お前は当てなかった」

「当てないために剣を外した」

「そのせいで、自分が崩れた」


 カレンは黙った。


 あの瞬間の感覚が戻る。


 当てるわけにはいかない。

 良樹を傷つけるわけにはいかない。

 だから外した。

 外した瞬間、身体が崩れた。


 怖かった。


 でも、それでも当てたくなかった。


 良樹は、カレンをまっすぐ見た。


「お前の剣は」

「怖い場所に置く剣だ」


 カレンの胸が、静かに揺れた。


「でも、それだけじゃねえ」

「相手を壊さない場所まで、見てる」


「……良樹さん」


「怖いまま見る」

「怖いまま置く」

「それでも、守る相手には当てない」


 良樹は、短く息を吐いた。


「カレン」

「お前の剣は、優しい剣だ」


 カレンの目が、潤んだ。


 恥ずかしい。

 まだ恥ずかしい。

 今すぐ穴を掘って埋まりたいくらい恥ずかしい。


 それでも。


 良樹は、見てくれた。


 事故だけではなく。

 最悪の体勢だけではなく。


 カレンの剣を。

 怖い場所を見る目を。

 当てないために外したことを。

 怖いまま、守ろうとしたことを。


 ちゃんと見てくれた。


「……良樹さん」


「何だ」


「それを」

「分かってもらえるの」

「嬉しいです」


 声が震えた。


 今度は、恥ずかしさだけではなかった。


 良樹は頷いた。


「分かった気にならないようにする」

「けど」

「今のは、見えた」


 カレンの顔が、また一気に赤くなった。


「見えた、って言い方が……!」


 良樹は一拍遅れて気づいた。


「剣の話だ」


 リシアが額を押さえる。


「今の良樹は本当に剣の話よ」

「腹立つけど」


 クラリスが静かに言う。


「ですが、事故直後に“見えた”は危険です」


「悪い」


「謝る相手が多いですね」


「本当に悪い」


 カレンは、涙目のまま少しだけ笑った。


   ◇


 その後、講習は一度止まった。


 さすがにすぐ再開するには、全員の精神的負荷が高すぎた。


 良樹は木剣を置き、カレンの方を見た。


 ただし、視線の位置にはかなり気をつけていた。


 気をつけすぎて、逆に不自然だった。


「良樹さん」


「何だ」


「そんなに視線を固定されると」

「それはそれで恥ずかしいです……」


「どこを見ればいい」


「剣です」


「剣は下だが」


「……今は顔を見てください」


「了解」


 良樹はカレンの顔を見た。


 カレンは、まだ赤かった。

 けれど、さっきよりは少し落ち着いていた。


 カレンの中に、青はまだ残っていた。


 恥ずかしくて。

 顔が熱くて。

 今すぐ全部なかったことにしたいくらいだったけれど。


 それでも、青は濁っていなかった。


 良樹が見てくれたのは、事故だけではなかった。


 私の剣。

 私の怖さ。

 私が、怖い場所に置いたもの。


 それも、ちゃんと見てくれた。


 カレンは、木剣を胸元で抱えた。


「良樹さん」


「ああ」


「次は」

「もう少し、距離を取って見てください」


「ああ」

「そうする」


「でも」


 カレンは、少しだけ勇気を出して続けた。


「私の剣は」

「また見てください」


 良樹は、短く頷いた。


「見る」


「剣を、です」


「剣を、だ」


 リシアが横から即答した。


「本当にね」


 クラリスも微笑む。


「確認しました」


 カレンは、赤い顔のまま、小さく笑った。


 怖い場所を見るのは、まだ怖い。


 でも。


 怖いままでも、守れる。


 怖いままでも、踏み込める。


 怖いままでも、剣を置ける。


 そして、少しだけ背伸びした青も。


 まだ、そこにあった。


   ◇


 帰り道、良樹は少しだけ黙っていた。


 リシアが横から言う。


「良樹」


「何だ」


「今日のこと、記録するなら」


「記録しねえ」


「剣の方よ」


「ああ」

「それは記録する」


 カレンがびくりとする。


「じ、事故は……?」


「書かねえ」

「ただし、手合わせ時の注意は書く」


「注意……」


「素人が見ようとして半歩入ると危ない」

「寸止めの線が崩れる」

「カレンは当てないために外せるが、外した側の重心が崩れる」

「距離と停止位置の事前確認が必要」


 カレンは、少しだけ目を伏せた。


「……剣のことですね」


「ああ」

「剣のことだ」


 リシアが半眼になる。


「尊厳保護インターロック、手合わせ版も必要ね」


「その名称はやめろ」


 クラリスが穏やかに頷く。


「ですが、必要です」

「呼吸接触対策も含めて」


「クラリス……!」


「大切です」


 良樹は空を見た。


 野原の空は、まだ青かった。


 遠くて、広くて、澄んでいる。


 良樹は、その青をしばらく見てから、前を向いた。


「カレン」


「はい」


「今日の講習は、無駄じゃなかった」


 カレンの胸が、少しだけ跳ねた。


「……はい」


「剣は、斬るだけじゃねえ」

「怖い場所に、先に置く」

「怖いから見る」

「怖いから間に合う」

「それと」


 良樹は、少しだけ言葉を選んだ。


「守る相手には、当てない」


 カレンは、目を伏せた。


「はい」


「お前らしい剣だ」


 カレンは、もう一度顔を上げた。


 空は青かった。


 今日、自分が選んだ青とは違う。

 けれど、どこか似ている青だった。


 カレンは、木剣を抱える手に少しだけ力を込めた。


「良樹さん」


「何だ」


「次は」

「もっとちゃんと、見てもらえるようにします」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「俺も」

「もっとちゃんと見る」


 リシアが即座に言う。


「場所を選んでね」


「分かってる」


 クラリスが微笑む。


「補習継続ですね」


「何の補習だ」


「見る場所と、言葉の選び方です」


「多いな」


「必要です」


 カレンは、少しだけ笑った。


 怖いまま。

 恥ずかしいまま。

 それでも、少しだけ前へ。


 青は、まだ澄んでいた。


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