第63話 専門講習(挿絵有)
工房から戻った夜。
三人部屋の中央にある小さな卓を囲んで、リシア、カレン、クラリスは座っていた。
灯りは一つ。
窓の外はすでに暗い。
一階の作業場からは、良樹が紙をめくる音と、時折小さく工具を置く音が聞こえてくる。
良樹は、今日は手記を開いていない。
藤田の手記ではない。
ノーラの工房で教わったことを、忘れないうちに整理しているだけだ。
そう本人は言った。
リシアは、その言葉を信じていなかった。
整理しているだけ。
確認しているだけ。
一頁だけ。
少しだけ。
良樹のその手の言葉は、大抵少しでは終わらない。
ただ、今日は三人も分かっていた。
書かせないわけにはいかない。
ノーラの手。
魔石固定具。
逃がす方向。
受ける場所。
跳ねる場所。
ケーンの鍛造。
叩いた音。
歪み。
荒さの意味。
良樹にとって、それはただの見学ではなかった。
藤田の手記に繋がる、現物の入口だった。
だから今は、止めない。
止めないが。
こちらはこちらで、会議が必要だった。
「まず確認しましょう」
リシアが、両手を卓の上で組んだ。
「あの人は、恋敵ではなかったわ」
「はい」
カレンが真面目に頷く。
「旦那さんがいました」
「お子さんもいましたね」
クラリスも、いつもの穏やかな顔で続ける。
リシアは、深く息を吐いた。
「既婚者だったわ」
「既婚者でした」
「既婚者でしたね」
三人の間に、少しだけ沈黙が落ちた。
昨日の夜、三人は若い女職人という存在を警戒対象として定義した。
若い。
腕がいい。
良樹の知らない技術を持つ。
教え上手。
姉御肌。
実用服で露出を気にしない。
条件を重ねるごとに危険度は上がり、最後には災害級、厄災級まで分類された。
そして今日、実物が出てきた。
ノーラ。
作業ズボン。
タンクトップ。
汗。
傷のある手。
荒い口調。
厳しい仕事。
教え上手。
姉御肌。
条件は、かなり一致していた。
ただし、既婚者だった。
「私たちは、何と戦っていたのかしら」
リシアが、額に手を当てる。
「仮想災害でしたね」
クラリスが言った。
「仮想災害、既婚だったわ」
「災害にも家庭がありました……」
カレンが小さく呟く。
リシアは、そこで表情を引き締めた。
「でも」
カレンとクラリスが顔を上げる。
「あの人は、危険だったわ」
「別の意味で、ですね」
クラリスが頷く。
「良樹くんが職人に沼る危険です」
「そう」
リシアは、卓の上に指を置いた。
「若い女職人が危険なんじゃない」
「良樹に、知らない現物を見せられる職人が危険なのよ」
「対象範囲が広がりましたね」
「広がらないでほしかったわ」
リシアは、心底そう思った。
ノーラが既婚者で安心した。
旦那がいて、子供もいて、恋敵ではなかった。
そこまではいい。
だが良樹は、ノーラが既婚者だと分かった後、今度はケーンに食いついた。
鍛造。
荒加工。
叩いた音。
歪み。
芯。
仕上げ前提の荒さ。
良樹の目は、明らかに輝いていた。
女かどうかではなかった。
技術かどうかだった。
「ノーラは言ったわ」
リシアは、少し声を落とす。
「若い女職人を怖がるより、あんたら自身が、あの男にとって必要な職人になればいい、って」
カレンが、胸元で両手を握った。
「はい」
「横に立て、とも言っていました」
クラリスが静かに言う。
「そう」
リシアは頷いた。
「媚びなくていい」
「分かったふりをしない」
「分からないからって離れない」
「危ない手順は叱る」
「でも人格は叩かない」
「結果だけじゃなく、そこまで考えたことを見る」
「そして、横に立つ」
三人は黙った。
ノーラの言葉は、軽い恋愛指南のようでいて、そうではなかった。
職人の夫を持つ女の言葉だった。
職人として横に立つ女の言葉だった。
良樹を落とす方法であり。
良樹と並ぶ方法でもあった。
「前に一度、私たちも教えようとしたわよね」
リシアが言う。
カレンが、少しだけ目を伏せる。
「はい」
「でも、最初の一拍は……」
「ニルに持っていかれましたね」
クラリスが、穏やかに言った。
リシアは苦笑する。
「あれは悔しかったけど、間違ってはいなかったわ」
「良樹の手が一番知っていたのは、魔法でも、剣でも、体術でもなくて」
「工具だった」
「ロングドライバー、でした」
カレンが言う。
「そう」
「良樹が一拍死なないためには、それが正しかった」
「でも、今回は違う」
リシアは、二人を見た。
「良樹に、私たちの技を持たせる講習じゃない」
「良樹に、私たちの仕事を見てもらう講習よ」
カレンの目が少しだけ変わった。
「仕事……」
「ええ」
リシアは頷く。
「私は魔法」
「カレンは剣」
「クラリスは身体」
「私たちが何を見て、何を怖がって、何を支えて、何を止めているのか」
「それを、良樹に知ってもらう」
「良樹さんが、分かった顔で踏まないために」
カレンが、小さく言った。
「そう」
リシアは、少しだけ笑った。
「良樹は、私たちを軽く見てはいないわ」
「それは分かってる」
「でも、どうしても接続とか、出力とか、逃がしとか、負荷とか」
「そういうところから見る」
「良樹くんらしいですね」
「らしいわ」
「だから、その入口は使う」
「でも、そこで終わらせない」
リシアは、自分の胸元に手を当てた。
「私は魔法ね」
「ただ魔法を見せるだけじゃ駄目」
「良樹はすぐ、出力と流れと立ち上がりを見る」
「そこから入れていい」
「でも、魔法を盤としてだけ見させない」
「私が、どう感じて、どう怖がって、どう立てているか」
「そこまで見せる」
カレンは、剣の柄にそっと手を触れた。
「私は、剣です」
「でも、良樹さんに剣を振らせるのは危ないと思います」
「まずは、どこを見るか」
「なぜそこに剣を置くのか」
「怖い方向」
「間合い」
「足の位置」
「剣の重さ」
「怖くても見ること」
「そこから……だと思います」
クラリスは、両手を膝の上で重ねた。
「私は身体ですね」
「壊し方ではなく、壊れない使い方から教えます」
「重心」
「関節」
「逃がし」
「力を入れない打ち方」
「止める場所」
「良樹くんは、無理に理解しようとすると身体で試しますから」
「そこは止めます」
リシアは、クラリスを見る。
「クラリス」
「壊れない使い方から、よね?」
「はい」
「もちろんです」
「今、一瞬間があったわよ」
「気のせいです」
「気のせいじゃないわよね、カレン」
「え、えっと……少しだけ、ありました」
「カレン」
クラリスが微笑む。
「正直で良いと思います」
「ほ、褒められているのでしょうか……」
リシアは、深く息を吐いた。
「順番を決めましょう」
「順番、ですか」
「ええ」
「最初は私がやるわ」
リシアは即答した。
「魔法は良樹の魔導盤と一番接続が深い」
「入口としては分かりやすいし、危険も抑えやすい」
「はい」
「それがいいと思います」
カレンは頷いた。
「剣は、危ないので後でも……」
「では、身体は最後ですね」
クラリスが静かに言った。
リシアの目が細くなる。
「なぜ最後?」
「良樹くんが疲れて、抵抗が少なくなりますから」
「却下」
「では、最初でも」
「それも危ないわ」
「では、真ん中……?」
カレンが小さく言う。
リシアは、腕を組んだ。
「結局危ないのよ」
「ひどいですね」
「否定できる?」
「しません」
「しなさいよ」
最終的に、順番は決まった。
一番、リシア。
二番、カレン。
三番、クラリス。
クラリスは、少しだけ嬉しそうだった。
「何を企んでるの」
「良樹くんの壊れ方を、きちんと見ます」
「壊れ方を見るな」
「止め方を見なさい」
クラリスは、口元に手を添えて微笑んだ。
「はい」
「止め方も見ます」
「“も”じゃないのよ」
リシアは頭を抱えた。
◇
翌朝。
良樹は、いつものように作業場へ向かおうとして、三人に止められた。
階段の前に、リシア。
その横に、カレン。
反対側に、クラリス。
三人とも、外へ出る支度をしている。
良樹は、足を止めた。
「何かあったか」
「今日は作業場じゃないわ」
リシアが言った。
「昨日の記録を整理したいんだが」
「整理は後」
「忘れる前に書きたい」
「昨日の夜、書いてたでしょ」
「足りねえ」
「足りなくても後」
良樹はカレンを見る。
「あ、あの」
「今日は、専門講習です」
「専門講習?」
クラリスが、いつもの清楚な笑みで続ける。
「婚約者研修も兼ねています」
「後半が不穏だな」
「気にしなくていいわ」
リシアが即座に切った。
「まずは魔法よ」
「魔法か」
良樹は少しだけ考える。
「俺が見ても分かるか?」
「分からないところを、分からないって言うのが今日の条件よ」
その言葉に、良樹は一拍置いた。
藤田の声が、胸の奥で鳴る。
分からんことを、分かった顔で踏むな。
ノーラの声も重なる。
分かったふりはするな。
でも、分からないからって離れるな。
「分かった」
「分かったふりはしない」
「よろしい」
リシアは頷いた。
◇
町外れの野原は、朝の光に包まれていた。
以前、端子台の接続試験をした場所とは少し違う。
人通りは少なく、周囲に燃えやすいものもない。
少し離れたところに古い柵があり、その向こうは緩い斜面になっている。
良樹は、到着するなり周囲を見た。
人影なし。
家畜なし。
荷車なし。
射線の先に道なし。
風向き確認。
退避方向あり。
足元、草に隠れた石あり。
水場は遠い。
消火用の土は使える。
リシアは、それを横で見ていた。
「本当に毎回それね」
「魔法講習だろ」
「何が起きるか分からないなら、外でやる」
「外でやるなら、逃げ道を見る」
「ええ」
「今日は、そこを否定しないわ」
リシアは杖を持ち、良樹の前に立った。
カレンとクラリスは、少し離れて見守る位置に立っている。
「良樹」
「何だ」
「まず言っておくけど」
「魔法は盤じゃないわ」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない」
「顔で分かるのか」
「分かるわよ」
「あなた、今、私の魔法を配線図にしようとしてる顔してるもの」
「……否定はしねえ」
「しなさいよ」
「分かったふりするなって言っただろ」
「そこだけ素直なの、腹立つわね」
リシアは杖を軽く持ち上げた。
「今日は、良樹に魔法を撃たせる日じゃない」
「あなたが魔法使いになる必要はないわ」
「ああ」
「でも」
「私が何を見て、何を怖がって、何を支えているか」
「それを知らないまま、私の魔法を盤に繋がないで」
良樹の表情が、少しだけ変わった。
「……分かった」
「じゃあ、まず見るところから」
リシアは、指先に小さな火を灯した。
火は、ほんの小さな赤い粒だった。
攻撃魔法ではない。
灯りにも足りないほどの、小さな火。
だが、良樹はそれを見た。
火の立ち上がり。
魔力の流れ。
空気の揺れ。
指先の微かな震え。
次に、リシアは水を作った。
小さな水の玉。
火よりも遅く、だが安定して形を保つ。
風。
薄い膜のように空気が動く。
逃げ道を作るように、周囲へ広がる。
土。
地面の表面が、ほんの少しだけ固くなる。
だが固めすぎない。
力を入れすぎれば、割れる。
「火は先に立つと暴れる」
「水は遅れると、圧が逃げる」
「風は逃がしと流れを作る」
「土は固めすぎると割れる」
リシアは、良樹を見た。
「でも、これは部品じゃない」
「私の中で、全部繋がってる」
「立ち上がり順と応答遅れ」
「あと相互干渉……」
「言い方」
「悪い」
「でも、少し分かる」
「少しでいいわ」
「今日は、分かった気にならなければ合格」
リシアは杖を下ろした。
「ただ、見るだけだと足りない」
「足りない?」
「魔法使いの視界を体感するには、これが一番早い」
「これ?」
良樹が聞き返した時には、リシアは良樹の背後へ回っていた。
「リシア?」
「動かないで」
その声は、妙に落ち着いていた。
リシアの両腕が、良樹の後ろから伸びる。
肩の横を通り、手が前へ出る。
良樹の視界の端に、リシアの指先が入った。
そして。
ぽよん。
背中に、柔らかい感触が当たった。
良樹の思考が、一拍止まった。
「……リシア」
「何」
「これは、本当に専門講習か」
「専門講習よ」
「今、背中にかなり専門外の情報が入力されてる」
「姿勢情報よ」
「姿勢情報か」
「姿勢情報よ」
リシアの声は平然としていた。
ただし、耳は赤かった。
良樹は、前を向いたまま動けなかった。
動けば、背中の情報が変わる。
動かなくても、背中の情報がある。
非常停止がない。
またか。
良樹の頭の中で、遠い父の声がした気がした。
止められて初めて設計だ。
今、この状況を止めるべきなのか。
止めた場合、何を止めたことになるのか。
良樹は判断に詰まった。
少し離れた場所で、カレンが両手で口元を押さえていた。
「り、リシア……」
「それは、その……かなり近いのでは……」
「魔法使いの視界を体感させるには必要よ」
「必要……」
クラリスは、口元に手を添えて微笑んだ。
「理屈は通っていますね」
「通ってしまうんですか……?」
「はい」
「ただし、リシアが少し楽しそうです」
「楽しそうではないわ」
リシアは即答した。
良樹の背中で、リシアの呼吸が少しだけ乱れた。
当てている。
もちろん、当てている。
偶然ではない。
姿勢の都合だけでもない。
良樹に、自分の魔法を見てほしかった。
自分が何を見て、何を感じて、何を怖がっているのかを知ってほしかった。
そして。
仕事だけ見て、本人を見ないのも駄目。
ノーラの言葉を、リシアはかなり都合よく胸の奥へ置いていた。
だから、これは専門講習である。
たぶん。
かなり。
おそらく。
「良樹」
「前だけ見ない」
「……前しか見られねえ状況にしてるのは誰だ」
「私ね」
「でも、前だけじゃ駄目」
リシアは、良樹の肩越しに指を動かした。
「右の木」
「左の岩」
「足元の草」
「風は右から」
「火を立てるなら、逃げは上」
「水を混ぜるなら、足元に落とさない」
「土を立てるなら、足を固めすぎない」
リシアの指先に、小さな火が灯る。
「私は、撃つ前にこれを見てる」
良樹の表情が、少し変わった。
「……多いな」
「多いわよ」
「魔法は、出力じゃない」
「撃つ前に、もう半分終わってるの」
リシアは、小さな火を前へ放った。
火は細く飛び、少し先の空中で消えた。
ただ消えたのではない。
風がその熱を上へ逃がし、水の気配が残り火を抑え、足元の土は揺れなかった。
良樹は目を細めた。
「今、火だけじゃねえな」
「ええ」
「火を撃つ時ほど、火だけ見ない」
「戻りを見るのか」
「戻りも見る」
「逃げも見る」
「味方の位置も見る」
「自分の足元も見る」
次にリシアは、水を混ぜた。
火と水。
普通なら噛み合わない二つを、風で逃がしながら形にする。
小さな蒸気が上へ抜けた。
「こうすると、圧が残る」
「残った圧を、どこへ逃がすか決めてから撃つ」
「撃ってから決めるんじゃないのか」
「遅いわ」
「撃ってから考えたら、もう返ってくる」
良樹は、息を呑んだ。
出力。
立ち上がり。
逃げ。
戻り。
味方。
足元。
風。
距離。
リシアは、それを撃つ前に見ている。
魔法は出力ではない。
撃つ前に、もう半分終わっている。
「……すげえ」
良樹は、思わず声を漏らした。
リシアの身体が、背中でわずかに揺れた。
「分かった?」
「ああ」
「これは凄え」
良樹は、完全に技術の顔になっていた。
「リシア」
「これ、凄えな!」
興奮したまま、振り向いた。
それが、いけなかった。
良樹の背中には、リシアがいた。
いや、正確には。
良樹の背中へ、リシアが身体を寄せていた。
理由はあった。
魔法使いの視界を体感させるため。
姿勢を合わせるため。
魔力の立ち上がりを、同じ向きで感じさせるため。
理由はあった。
理由はあったが、距離は近かった。
「きゃっ」
リシアの声がした。
良樹の肩が、リシアの腕に当たる。
リシアの杖先が、良樹の脇に引っかかる。
良樹の足が、半歩だけ後ろへ逃げる。
その逃げた先に、リシアの足があった。
「あ」
良樹が気づいた時には、もう遅かった。
二人の重心が、同時に崩れた。
「待っ――」
「良樹、止まっ――」
止まらなかった。
良樹は反射的にリシアを支えようとした。
リシアも、良樹を押し返そうとした。
その結果、二人は支え合うどころか、互いに互いの逃げ道を塞いだ。
草の上に、二人分の身体が倒れ込む。
どさり。
衝撃は、思ったより軽かった。
下が草だったこと。
リシアが咄嗟に風で受けたこと。
良樹が腕を突かずに肩から逃がしたこと。
いくつかの偶然と、いくつかの訓練の成果が重なった。
だから、怪我はなかった。
怪我は。
なかった。
ただ。
むにん。
良樹の右手に、柔らかい感触があった。
時間が止まった。
良樹は、地面を見ていた。
いや、見ようとしていた。
だが、視界の端にリシアの顔があった。
リシアは、仰向けに倒れていた。
上着の前が、なぜか少しだけはだけていた。
なぜか。
たぶん、杖の飾り紐が引っかかった。
たぶん、倒れた時に留め具が外れた。
たぶん、良樹の肘が布を押した。
原因候補はいくつかあった。
だが、今それを分析している場合ではなかった。
良樹の右手は、リシアの胸元にあった。
正確に言えば。
あるべきではない場所で。
あるべきではない感触を。
明確に取得していた。
むにん。
二回目の入力が、良樹の脳内に記録された。
まずい。
良樹の頭の中で、警報が鳴った。
危険。
倫理的危険。
婚約者的危険。
説明困難。
右手撤去要。
ただし急撤去時、追加接触リスクあり。
良樹は、動けなかった。
動くと、まずい。
動かなくても、まずい。
詰んでいた。
リシアも、動けなかった。
胸元が熱い。
顔も熱い。
耳も熱い。
良樹の手が、ある。
ある。
あり得ない場所に、ある。
怒るべきだった。
氷で固めるべきだった。
風で吹き飛ばすべきだった。
だが、良樹の顔が完全に死んでいた。
悪意はない。
欲も、たぶんない。
いや、まったくないかと言われると、それはそれで少し腹が立つ。
事故。
完全に事故。
そして、自分が距離を詰めた。
当てていた。
確信犯で当てていた。
その結果、これである。
「……良樹」
「はい」
「手」
「はい」
「どけなさい」
「はい」
良樹は、慎重に右手を浮かせようとした。
しかし、慎重に動かしすぎた。
指先が、布に引っかかった。
「ひゃっ」
リシアの声が跳ねた。
良樹の動きが止まる。
「止まらないで!」
「止まった方が安全かと!」
「安全じゃないわよ!」
「急に動くと二次災害が!」
「今が一次災害よ!」
「分かってる!」
「り、リシア……!」
カレンが両手で口元を押さえていた。
顔は真っ赤だった。
「良樹さんの右手が……」
「リシアの……」
「言わないで!」
クラリスは、少しだけ首を傾げた。
「これは、事故ですね」
「見れば分かるわよ!」
「ただし、かなり高度な事故です」
「高度って何よ!」
「姿勢、重心、衣服、魔法、興奮、密着」
「複数要因が重なっています」
「事故調査しないで!」
良樹は、まだ右手を浮かせたまま固まっていた。
「クラリス」
「はい」
「手順をくれ」
「俺が動くと悪化する」
「分かりました」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「まず、良樹くんは目を閉じてください」
「閉じた」
「次に、リシアは深呼吸を」
「できると思う!?」
「では、浅く呼吸してください」
「指示が現実的で腹立つわね!」
ようやく、良樹の右手が離れた。
良樹はすぐに身体を起こし、リシアから距離を取った。
膝をつき、頭を下げる。
「悪い」
「完全に事故だ」
「だが、触ったのは事実だ。すまん」
リシアは、はだけた上着を押さえながら真っ赤な顔で睨んだ。
「正直に言えばいいってものじゃないのよ!」
「悪い」
「良樹!」
「今のは、今のは駄目だから!」
リシアの声は、怒っている。
怒っているのだが、いつもの氷のような怒りではなかった。
顔は赤く、耳まで赤く、目は完全に泳いでいた。
クラリスが、静かに首を傾げた。
「ですが、リシア」
「以前、良樹くんには胸元を触れさせていましたよね」
「クラリス!?」
リシアの声が裏返った。
「あ、あの……」
「私も、少しだけ思いました」
「リシアは、その……キスの時に……」
「カレンまで!?」
リシアは、上着を押さえたまま二人を見た。
顔がさらに赤くなる。
「違うのよ!」
「あれは、触らせたの!」
「これは、触られたの!」
沈黙。
良樹が、眉間に皺を寄せた。
「……違うのか」
「違うの!」
リシアは叫んだ。
「触らせるのと、触られるのじゃ、違うのよ!」
また沈黙。
カレンは真っ赤な顔でうつむいた。
クラリスは、少しだけ考えてから、穏やかに頷いた。
「つまり」
「あの時は、リシアが良樹くんに触れてほしいと思い、許可した接触」
「今回は、リシアの心の準備がない状態で発生した事故接触」
「ということですね」
「そう!」
「それ!」
リシアは勢いよくクラリスを指さした。
「言葉にすると恥ずかしいけど、それ!」
「なるほど」
「では、リシアは良樹くんに触られたのが嫌だった、と」
「違うわよ!」
反射だった。
自分でも驚くほど早く否定していた。
良樹の動きが止まる。
カレンの顔が、さらに赤くなる。
クラリスは、いつもの清楚な微笑みを浮かべていた。
浮かべていた。
だが、リシアには見えた。
その目が言っている。
私は平気ですけどね。
良樹くんなら、触れてくださって構いませんけどね。
むしろ、もう少し踏み込んでいただいても構いませんけどね。
そういう目だった。
「クラリス」
「あなた、今、何か余計なことを考えているでしょう」
「いいえ」
「私は、リシアの言葉を確認しただけです」
「その確認の仕方が余計なのよ!」
クラリスは、口元に手を添えて微笑んだ。
「ですが、大切な確認です」
「嫌だったのか」
「嫌ではなかったのか」
「そこを曖昧にすると、良樹くんが距離を取ってしまいます」
リシアは言葉に詰まった。
それは、困る。
ものすごく困る。
良樹が真面目に反省して、
以後、リシアに触れないようにします、
などと現場改善してしまったら。
困る。
かなり困る。
「……嫌では」
「なかったわよ」
リシアは、真っ赤な顔で言った。
良樹は、何も言わなかった。
何も言わなかったが、少しだけ息を吐いた。
たぶん、安心した。
それを見て、リシアはさらに顔を赤くした。
その横で、カレンは一人、別の方向に沈んでいた。
リシアは、触らせるのと触られるのは違うと言っている。
クラリスは、嫌だったのですか、と清楚な顔で追い詰めている。
良樹は、どう動けば二次災害を防げるのか分からず、完全に停止している。
その中で、カレンはそっと自分の胸元に手を当てた。
触らせる。
触られる。
その前に。
触ってもらえるだけのものが、私には。
そこまで考えて、カレンは小さく肩を落とした。
「……うぅ」
誰にも聞こえないくらいの、小さな声だった。
だが、リシアは見逃さなかった。
「良樹!」
「何だ」
「あんたのせいで、カレンがしょんぼりしてるじゃない!」
「少しはフォローしなさいよ!」
「俺のせいか!?」
「だいたいあんたのせいよ!」
「だいたい!?」
良樹は反射的に言い返したが、すぐにカレンを見た。
カレンは、自分の胸元にそっと手を当てたまま、しょんぼりしていた。
顔は赤い。
目は伏せている。
肩が少しだけ落ちている。
これはまずい。
リシアは怒っている。
クラリスは清楚に微笑んでいる。
カレンは沈んでいる。
そして良樹は、どう見ても逃げ場を失っていた。
「ええと」
良樹は考えた。
カレンを落ち込ませない言葉。
比べない言葉。
嘘ではない言葉。
具体的で、伝わる言葉。
余計な事故を増やさない言葉。
ない。
いや、あるはずだ。
工具でも設備でも、トラブル対応ではまず事実を確認する。
感情論ではなく、事実。
事実を元に、相手が誤解している点を正す。
カレンは、自分が小さいと思って落ち込んでいる。
しかし、事実として、カレンは小さいわけではない。
ならば。
良樹の頭の中で、危険な接点が繋がった。
繋がってしまった。
「カレン!」
「は、はいっ」
カレンが肩を跳ねさせた。
良樹は、追い詰められた男の真剣な顔で言った。
「この前、倒れそうになった時に分かったけど」
「お前だって、小さいわけじゃねえ!」
空気が死んだ。
完全に死んだ。
リシアの口が、半分開いたまま止まる。
クラリスの微笑みが、一瞬だけ深くなる。
カレンの顔が、湯気でも出そうなほど赤くなった。
「……え」
カレンが、か細い声を漏らした。
良樹は、その反応を見て、ようやく自分の発言の危険度を理解した。
遅かった。
「いや、違う」
「違わないが、違う」
「良樹」
リシアの声が低い。
「あんた今」
「何を」
「どういう記憶から」
「どういう判断で言ったの」
「フォローしろって言っただろ!」
「フォローにも角度ってものがあるのよ!」
「事実を言った!」
「事実なら何でも言っていいわけじゃない!」
カレンは、胸元を押さえたまま、真っ赤な顔で震えていた。
「あ、あの」
「良樹さん……」
「いつ、分かったんですか……?」
良樹の喉が詰まった。
「それは」
「以前、カレンが倒れかけた時の接触事故ですね」
クラリスが、しれっと言った。
「クラリスさん!?」
「該当事例としては、それしかありません」
「該当事例って言わないでください……!」
カレンは両手で顔を覆った。
リシアは、良樹を睨む。
「良樹」
「覚えてたの?」
「記録には残してねえ」
「記録に残してたら、今ここで燃やすわよ」
「残してねえ」
「ただ……記憶には、まあ」
「残ってるんですね……」
カレンの声が小さくなった。
良樹は、完全に詰んだ顔になった。
「いや」
「その」
「悪い」
「だが、誤解は正したかった」
「誤解……?」
カレンが、指の隙間から良樹を見る。
良樹は、一度深く息を吸った。
「お前が、リシアやクラリスと比べて落ち込む必要はねえ」
「小さいとか」
「がっかりするとか」
「そういうふうには、見てねえ」
そこまでは、良かった。
リシアも、クラリスも、黙った。
カレンの目が、少しだけ揺れた。
良樹は、もう一歩だけ言葉を足しかけた。
「だから」
「この前の感触で言うなら、ちゃんと――」
「良樹!」
リシアが叫んだ。
「そこで止まりなさい!」
良樹は止まった。
止まった。
今度は止まれた。
少し遅かったが、まだ致命傷の手前だった。
「……悪い」
「今のは、止めて正解だった」
「ようやく止め方を覚えたわね!」
クラリスは、口元に手を添えて微笑んだ。
「良い停止判断でした」
「褒められてる気がしねえ」
「褒めています」
「ただし、起動判断が最悪でした」
「それは否定できねえ」
カレンは、両手で顔を覆ったまま、小さく呟いた。
「でも……」
「小さくないって、思ってくれてたんですね……」
良樹は、言葉を探した。
今度は慎重に。
本当に慎重に。
「ああ」
「少なくとも」
「がっかりなんかしてねえ」
カレンの肩が、小さく震えた。
「……はい」
「嬉しいのに、恥ずかしいです……」
「恥ずかしいのに、少し嬉しいです……」
リシアは深く息を吐いた。
「……最悪の入り方だったけど」
「カレンが持ち直したから、今回は最低点で合格にしてあげる」
「合格なのか」
「最低点よ」
クラリスが頷いた。
「補習は必要ですね」
「何の補習だ」
「女性への褒め方です」
「それは本当に必要ね」
リシアが即答した。
良樹は、反論できなかった。
◇
事故処理が一段落した後。
四人は、少しだけ距離を取り直して立っていた。
リシアの上着は直っている。
良樹は、無駄に姿勢が正しい。
カレンはまだ少し赤い。
クラリスは、いつものように清楚に微笑んでいる。
野原の風が、草を揺らした。
「……で」
リシアが、まだ少し赤い顔のまま言った。
「講習に戻るわよ」
「戻るのか」
「戻るわよ」
「これで終わったら、ただの事故じゃない」
「それはそうだな」
良樹は頷いた。
リシアは杖を持ち直した。
「良樹」
「今、何が分かった?」
良樹は、少しだけ考えた。
さっきの感触ではない。
それは絶対に言ってはいけない。
魔法のことだ。
リシアの視界。
リシアの判断。
リシアが撃つ前に見ていたもの。
「魔法は、出力じゃねえ」
良樹は言った。
「撃つ前に、もう半分終わってる」
「リシアは、撃つ方向だけじゃなくて」
「逃げる方向」
「戻ってくる力」
「味方の位置」
「自分の足元」
「風の流れ」
「そこまで見てから撃ってる」
リシアの目が、少しだけ和らいだ。
「ええ」
「俺は、そこを出力として見てた」
「火が立つ」
「水が遅れる」
「風で逃がす」
「土で支える」
「そういうふうに、部品みたいに見てた」
良樹は、自分の手を見た。
「でも、違うな」
「お前が見てる」
「お前が怖がってる」
「お前が先に止めてる」
「その上で、魔法になってる」
リシアは、少しだけ目を伏せた。
「……なら」
「今日の講習は、無駄じゃなかったわね」
「ああ」
「事故は最悪だったが」
「そこは忘れなさい」
「記録には残さねえ」
「記憶にも残すな!」
「それは無理だ」
「努力しなさい!」
リシアの声が、野原に響いた。
カレンは、まだ赤い顔のまま小さく笑った。
クラリスも、口元に手を添えて微笑んだ。
良樹は、もう一度リシアを見た。
「リシア」
「何よ」
「次は、振り向く前に言う」
「そうしなさい」
「あと、二人羽織式は、重心崩れの危険あり」
「衣服の留め具確認」
「接触事故防止」
「心の準備確認」
「心の準備を記録項目に入れないで!」
「重要項目だろ」
「重要だけど!」
リシアは、顔を赤くしたまま叫んだ。
良樹は、少しだけ笑った。
専門講習は、始まったばかりだった。
魔法。
剣。
身体。
良樹が、分かった顔で踏んではいけないものは、まだまだ多い。
だが、少なくとも今日。
良樹は、リシアの魔法を少しだけ見た。
出力ではなく。
盤ではなく。
部品でもなく。
リシアが、何を見て魔法を立てているのか。
その入口に、ようやく立った。
そしてリシアは。
上着の前を押さえ直しながら、心の中で小さく呟いた。
次は、ちゃんと私の心の準備が出来てからにしなさいよ。
もちろん、声には出さなかった。




