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第62話 若い女職人

 翌朝。


 藤田吾郎は、町を去ることになった。


 来た時も突然だった。


 そして、帰る時も早かった。


 ギルドの前には、良樹たち四人とガレスがいた。


 藤田は、いつもの好々爺のような顔で杖をついている。

 けれど、その目の奥には、昨日と同じ重さが残っていた。


 昭和二十年の日本から来た男。

 この世界で六十年を生きた男。

 英雄と呼ばれた男。

 そして、一人の技術者として、良樹に手記を渡した男。


 良樹は、自然と背筋を伸ばしていた。


「手記は読め」


 藤田が言った。


「じゃが、手記だけで分かった気になるな」


「……はい」


 良樹は短く答えた。


 藤田は、少しだけ目を細める。


「紙は、壊れん」


 その一言で、良樹は息を止めた。


「手は、怪我をする」

「物は、思った通りには逃げてくれん」

「現物は、現物を扱う者に聞け」


 紙は壊れない。


 だから、紙だけを読んで分かった気になるな。


 昨日、藤田手記を一頁だけ読んだ。

 まず、壊れ方を見よ。


 あの言葉は重かった。


 だが、藤田はさらにその先を釘で打った。


 紙に書かれた失敗は、失敗の跡だ。

 実際に力が逃げ、削れ、熱を持ち、折れ、割れ、手を怪我するのは現物の上だ。


 良樹は、深く頷いた。


「職人に、ですか」


「そうじゃ」


 藤田は頷いた。


「この町にも、腕のよい職人はおる」

「ワシの六十年は、入口じゃ」

「今のこの町で物を作っておる者の手も、見ておけ」


 良樹は、少しだけ視線を落とした。


 手記を読め。


 だが、手記だけで分かった気になるな。


 現物は、現物を扱う者に聞け。


 それは、良樹にとって痛いほど分かる言葉だった。


 図面だけで分かった気になるな。

 盤の中だけを見るな。

 その先に機械がある。

 機械の前には人がいる。


 父の声と、藤田の声が重なる。


「……はい」


 良樹は、もう一度答えた。


「ちゃんと、現物を見ます」

「扱ってる人に、聞きます」


「よい」


 藤田は満足そうに頷いた。


 それから、リシア、カレン、クラリスを順に見た。


「お主らもじゃ」


 三人の表情が引き締まる。


「この男は、放っておくと紙にも現物にも潜る」

「潜るだけならまだよい」

「息継ぎを忘れる」


 リシアが、真顔で頷いた。


「はい」

「分かっています」


 カレンも胸元で手を握る。


「止めます」


 クラリスも静かに微笑んだ。


「身体と負荷を見ます」


「うむ」

「ならばよい」


 藤田は、ふっと好々爺の顔に戻った。


「次に会うときは、お主を英雄認定するときじゃのう」


 良樹の胸が、一瞬だけ詰まった。


 藤田は楽しそうに笑う。


「それまでこのじじいが生きとれば、の話じゃが」

「ほっほっほ」


 軽い冗談のように言った。


 だが、軽くはなかった。


 六十年。


 この世界で六十年を生きた老人が、次に会う時のことを笑って言った。


 良樹は、すぐには言葉を返せなかった。


 藤田は、そんな良樹を見ている。


 急かさない。

 笑っている。

 けれど、逃がさない。


 良樹は、ゆっくり頭を下げた。


「……その時までに」


 声が、少し低くなった。


「ちゃんと、そこまで行きます」


 藤田は、目を細めた。


「なら、壊れ方をよく見よ」

「動かせることに酔うな」

「止め方を忘れるな」

「そして、分からんことを、分かった顔で踏むな」


「はい」


「よい返事じゃ」


 藤田は笑った。


 そして、本当にそれだけで背を向けた。


 ガレスが何かを言おうとして、やめた。


 良樹も、呼び止めなかった。


 リシア、カレン、クラリスも、頭を下げた。


 藤田は、振り返らない。


 好々爺のような背中だった。

 だが、その背中は軽くなかった。


 六十年分の失敗と、六十年分の現物を背負って歩いている。


 良樹は、その背中が通りの向こうに消えるまで、ずっと見ていた。


   ◇


「なら、工房だな」


 藤田が見えなくなったあと、ガレスが言った。


 良樹は顔を向ける。


「工房?」


「ああ」

「魔石固定具やら、小物機構やら、細かい噛み合わせを見るなら、腕のいい奴がいる」


 良樹の目が、すぐに変わった。


「魔石固定具か」

「昨日の試作でも、力が逃げた」

「軸も逃げた」

「支点も甘い」

「受けもずれた」

「止めた瞬間に跳ねる」

「そういうのを見られる職人か?」


 ガレスは、少しだけ笑う。


「食いつくのが早いな」


「今の話の流れなら、食いつくだろ」


「まあ、そうだな」

「若いが腕はいい」


 その瞬間。


 三人の空気が止まった。


 リシアの眉が、わずかに動く。


「……若い」


 カレンが、小さく呟く。


「職人……」


 クラリスが、静かに確認する。


「その方は、女性でしょうか」


 ガレスは何気なく頷いた。


「ああ」

「女職人だな」


 三人が、同時に沈黙した。


「「「……」」」


 良樹は三人を見る。


「何だ?」


 リシアは、ほんの少しだけ視線を逸らした。


「何でもないわ」


 カレンも慌てて頷く。


「は、はい」

「何でもありません」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


「少々、前夜の会議内容と一致しただけです」


「何の会議だ」


「婚約者会議よ」


 リシアが即答した。


 良樹は一拍置いた。


「……なら、聞かない方がいいな」


「そうね」


「はい」


「賢明です」


 三人の返事が揃った。


 ガレスは、その様子を見て口元を歪める。


「何か知らんが、大変そうだな」


「大変なのは、たぶん俺じゃない」


 良樹はそう言ってから、すぐに工房の方へ意識を戻した。


「で、その工房はどこだ」


   ◇


 工房へ向かう道中、良樹の頭の中は昨日の試作でいっぱいだった。


 藤田手記は、まだほとんど読んでいない。


 読んでいないが、昨日見た《魔導工廠》の機械要素は、まだ目の奥に残っている。


 軸。

 支点。

 受け。

 クラッチ。

 力の伝達。

 止めた時の戻り。


 自分の知識だけで小さく触ってみた結果、いかに自分が機械屋の仕事を分かった気になっていたかを思い知った。


「固定は、締めればいいって話じゃない」

「締めたら割れる」

「緩ければ逃げる」

「逃げを殺せば熱や歪みが残る」

「昨日の小さい軸も、止めた瞬間に跳ねた」


 良樹は歩きながら呟く。


 完全に技術の顔だった。


 その少し後ろで、三人は別の顔をしていた。


「……若い女職人」


 リシアが低く言う。


「腕がいいそうです」


 カレンが胸元で手を握る。


「現物を扱う方です」

「良樹くんの知らない技術を持っている可能性が高いです」


 クラリスが静かに分析する。


「高警戒ね」


「はい……」


「姉御肌で教え上手なら、災害級です」


 リシアは、少しだけ喉を鳴らした。


「見られることを気にしないタイプなら?」


「厄災級です」


 クラリスは即答した。


 カレンが、小さく震える。


「厄災級……」


 良樹が振り返った。


「お前ら、さっきから何の等級を話してるんだ」


 リシアは一瞬で表情を整えた。


「防災よ」


「防災なら大事だな」


「大事です」


 カレンも強く頷く。


「とても大事です」


 クラリスも微笑む。


「命に関わる場合があります」


「そうなのか」


 良樹は真面目に受け取った。


 そしてまた前を向く。


「なら、後で共有してくれ」

「俺も危険分類は知っておきたい」


 三人は黙った。


 リシアが、小さく呟く。


「共有できるかしら、これ」


「難しいと思います……」


「良樹くん本人が危険対象ですからね」


「何か言ったか?」


「何でもないわ」


   ◇


 ガレスに教えられた工房は、通りの奥にあった。


 大通りに面した派手な店ではない。


 少し奥まった場所にあり、入口の横には鉄の輪、革紐、木枠、小さな金具が吊るされている。


 中からは、乾いた金属音が聞こえた。


 かん。

 かん。

 ぎり。

 こつ。


 鉄を叩く音。

 削る音。

 何かを締める音。


 良樹は入口の前で足を止めた。


 匂いが違った。


 藤田手記の古い紙と油の匂いではない。


 ここは、今、物を作っている場所だった。


 金属。

 油。

 革。

 木材。

 魔石。

 熱。

 汗。

 削り粉。


 良樹は、小さく息を吸った。


「……いい匂いだな」


 リシアが半眼になる。


「良樹にとっては、なのよね」


 カレンは少しだけ鼻を動かした。


「普通は、少し強い匂いだと思います」


 クラリスは微笑む。


「良樹くんは作業場の匂いが好きですから」


「落ち着くだろ」


「落ち着くのね……」


 リシアは呆れたように言ったが、その顔には少しだけ笑みがあった。


 良樹は入口から中を覗く。


「すみません」


 奥から声が返った。


「親方はいないよ」

「用なら、あたしが聞く」


 声は若かった。


 少し低く、よく通る声。


 奥から、一人の女が出てきた。


 作業ズボン。

 上はタンクトップ。

 腕と肩が出ている。

 髪は邪魔にならないよう雑にまとめられている。

 額には汗。

 手には小さな傷や火傷の跡。


 色気を出すための服ではない。


 暑い工房で動くための服。

 汗をかく場所で、布を引っかけず、腕を動かすための格好。


 それでも、露出は高かった。


 三人の空気が、また止まった。


 女は良樹たちを見て、顎を少し上げた。


「あんたら、ガレスの紹介かい?」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「魔石固定具と、力の逃げについて相談したい」


 女の目が、わずかに変わる。


「へえ」

「最初からそこを聞くんだ」


「締めればいいって話じゃないのは分かる」

「でも、どう受ければいいか分からない」


 女は、良樹を上から下まで見る。


 作業用の服。

 腰袋。

 手。

 視線。


 それから、にっと笑った。


「悪くないね」

「名前は?」


「上村良樹」


「変わった名前だね」

「あたしはノーラだ」

「固定具なら、あたしの仕事だよ」


 三人の内心が、ほぼ同時に停止した。


 出た。


 本当に出た。


 若い女職人。


 リシアは表情を動かさなかった。

 動かさなかったつもりだった。


 カレンは胸元で両手を握りしめた。

 少し強かった。


 クラリスは清楚に微笑んでいた。

 ただし、目が少しだけ細い。


 ノーラは、その三人の空気に気づいていないように見えた。


 いや。


 少しだけ気づいていたかもしれない。


 だが、今は良樹の話を優先した。


「で」

「何を固定したいんだい」


「魔石だ」

「ただ、普通の魔石固定じゃない」

「魔力の流れが出る」

「場合によっては回転も出る」

「力が逃げるし、止めた時に戻りが跳ねる」


「面倒なやつだね」


「ああ」

「面倒なんだ」


 良樹は、少し嬉しそうに言った。


 リシアが小さく呻いた。


「もう嬉しそう……」


   ◇


 ノーラは作業台の前に立った。


 作業台には、小さな金具や魔石の欠片、革片、細い板、留め具が並んでいる。


 ノーラは一つの保持具を手に取った。


 良樹は、自然とその手元を見た。


 肩ではない。

 胸元でもない。

 汗の浮いた首筋でもない。


 工具の持ち方。

 魔石を押さえる指。

 材料をずらす時の角度。

 力を入れた瞬間の肘。

 逃げる力を腰で受ける姿勢。

 締める前に、一度当たりを見る癖。


 ノーラが、ふっと笑った。


「あんた、胸元じゃなくて手元を見るんだね」


 良樹は、少し眉を寄せた。


「作業中に胸元見て何が分かるんだ」


 ノーラは一拍置いてから、声を上げて笑った。


「ははっ」

「そりゃそうだ」


 三人は、少しだけ肩の力を抜いた。


 リシアが小さく言う。


「女としては見てないわ」


「はい……」


 カレンも頷く。


 クラリスは、穏やかな声で続けた。


「ですが、職人としてはかなり見ています」


 リシアは、すぐに顔を引き締めた。


「それが危ないのよ」


 良樹はノーラを女として見ていなかった。


 それは、鈍いからではない。


 雑に見ないからだ。


 カレンを見るのは、カレンだから。

 リシアを見るのは、リシアだから。

 クラリスに揺れるのは、クラリスだから。


 好きな女が、自分に見てほしいと願う時。

 あるいは、好きな女の姿にどうしようもなく意識が引かれた時。


 良樹は逃げながらも、見たことをごまかさない。


 けれど、好きでもない相手の身体を、作業中に面白半分で見る男ではない。


 そこは安心できる。


 安心できるのだが。


 手元を見ている目が、あまりにも真剣だった。


 それはそれで、三人の心に別の警報を鳴らした。


   ◇


 良樹は、昨日の小さな試作について説明した。


「回転は出せる」

「でも、回せるだけじゃ駄目だった」

「軸が逃げる」

「受けが甘い」

「止めた時に戻りが跳ねる」

「押せば逃げる」

「止めれば戻る」

「固めれば壊れる」

「逃がせば伝わらない」


 ノーラは、腕を組んで聞いていた。


 腕を組むと、肩と腕の筋肉が動く。


 三人は一瞬そこを見た。


 良樹は見ていなかった。


 良樹は作業台の上の金具を見ている。


 ノーラは、にやりと笑った。


「分かってるじゃないか」


「分かってるだけだ」

「できてない」


「いいね」


 三人の心に、かん、と音がした。


「できてないって言える奴は、教えやすい」


 リシアの眉が動く。


「……今、いいねって言ったわ」


 カレンが小さく頷く。


「言いました……」


 クラリスが冷静に分析する。


「初期評価が高いです」


「やめて」

「そこまで分析しなくていいのよ」


 ノーラは、作業台の上から小さな金具を取った。


 輪のような形。

 内側に薄い革が当てられている。

 外側には金属の爪が二つ。

 だが、がっちり固定する構造には見えない。


「魔石を固定するっていうと、素人はまず締める」

「強く締めれば動かないと思う」

「でも、魔石は割れる」

「割れないまでも、流れが歪む」


 良樹は身を乗り出す。


「流れが歪む?」


「魔石にも癖がある」

「全部が真円でも均質でもない」

「だから、力を全部殺すと変なところに負荷が溜まる」

「ここは締めるんじゃない」

「逃げる方向を受けるんだよ」


 ノーラは金具を良樹へ近づけた。


「ほら、ここ見な」


 距離が近い。


 ただ、手元を見せるための距離だった。


 良樹は躊躇なく見た。


「……なるほど」

「俺、ここを線でしか見てなかった」

「面で受けてるのか」

「いや、面でもないな」

「逃げる方向を限定してるのか」


 ノーラの目が、さらに楽しそうになる。


「そう」

「全部殺すと割れる」

「全部逃がすと固定にならない」

「だから、逃げていい方向と、逃がしちゃいけない方向を分ける」


 良樹は、息を呑んだ。


「悪い」

「もう一回教えてくれ」


 三人に、二発目が入った。


 カレンが胸元を押さえる。


「良樹さんが、もう一回って……」


 リシアが唇を引き結ぶ。


「目が輝いてるわね」


 クラリスが静かに頷いた。


「かなり刺さっています」


「だから、そこまで分析しなくていいのよ」


 リシアはそう言いながら、視線を良樹から外せなかった。


 良樹は本当に楽しそうだった。


 知らないことを知った時の顔。

 自分の分かっていない場所に指を差された時の顔。

 悔しさと納得が混じった顔。


 それは、三人がよく知る良樹だった。


 そして、前夜の婚約者会議で最も警戒した顔でもあった。


   ◇


 ノーラは、次々に現物を見せた。


 魔石を固定する小さな金具。

 革と金属を組み合わせた保持具。

 わずかに遊びを持たせた押さえ。

 締めすぎないための受け。

 熱を逃がすための隙間。

 ずれを殺さず、暴れない範囲に閉じ込める構造。


「ここで殺す」

「こっちは逃がす」

「で、最後に革で受ける」


 ノーラの指が、迷いなく動く。


 良樹は食い入るように見る。


「革か」

「金属だけで見てた」

「異素材で逃がすのか」


「少しは頭が回るじゃないか」


 三人に、三発目が入った。


 リシアは、ほとんど無言で良樹とノーラの距離を見ていた。


 カレンは少し不安そうにしている。


 クラリスは、穏やかな顔のまま言った。


「現時点では災害級ですね」


「やっぱり?」


 リシアが即答する。


「はい」

「若い」

「女」

「職人」

「腕がいい」

「教え上手」

「姉御肌」

「良樹くんの知らない技術を持っている」

「距離が近い」

「見られることを気にしていない」


「条件が揃いすぎてるわ」


「ただし」


 クラリスは良樹を見る。


「良樹くんが女として見ていないため、厄災級には至っていません」


 カレンが、小さく息を吐く。


「よ、よかったです……」


 リシアは額を押さえた。


「よかったのかしら」

「全然落ち着かないわ」


 その間も、良樹とノーラの会話は進んでいた。


「この遊び、どこまで許してるんだ」

「ずれすぎたら魔石が割れるだろ」


「だから、こっちで殺す」

「こっちは逃がす」

「で、動いた分だけ戻る場所を作っとく」


「戻りも見るのか」


「当たり前だろ」

「押したら戻る」

「戻る時に跳ねる」

「跳ねる場所を見てないと、次に割れる」


 良樹は、悔しそうに笑った。


「……くそ」

「昨日、まさにそれで跳ねた」


「跳ねたなら、いいじゃないか」


「いいのか?」


「見えたんだろ」

「見えないまま割るより、ずっといい」


 良樹は黙った。


 その言葉は、藤田の手記と同じ方向を向いていた。


 まず、壊れ方を見よ。


 跳ねた。

 逃げた。

 戻った。

 それを見た。


 なら、それは失敗であると同時に、次の入口でもある。


「……なるほどな」


 良樹は低く呟いた。


 リシアたちは、その横顔を見ていた。


 良樹がまた、ひとつ現物に繋がった顔だった。


挿絵(By みてみん)


   ◇


 その時だった。


 工房の奥から、小さな足音が聞こえた。


 ぱたぱたぱた、と軽い音。


 次に、子供の声。


「母ちゃん、お腹すいたー!」


 三人の動きが止まった。


「「「母ちゃん?」」」


 声が揃った。


 奥から小さな子供が走ってきて、ノーラの足元にしがみついた。


 ノーラは、慣れた手つきでその頭を押さえる。


「こら、客の前だよ」

「ちょっと待ちな」


 良樹は、少しだけ目を瞬かせた。


「子供か」


「ああ」

「うちの子だよ」


 ノーラは何でもないことのように答えた。


 さらに奥から、男の声がした。


「ノーラ、昼飯置いとくぞ」

「そっち終わったら食えよ」


 ノーラが振り返る。


「ありがと」

「あとで行く」


 三人は固まっていた。


 リシアが、ゆっくり口を開く。


「旦那……」


 カレンが、小さく続ける。


「お子さん……」


 クラリスが、静かに締めた。


「既婚者……」


 肩から、力が抜けた。


 目に見えるほど抜けた。


 リシアは、作業台に手をつきそうになった。


「……私たちは、何と戦っていたのかしら」


 カレンは困ったように首を振る。


「わ、分かりません……」


 クラリスは、少しだけ遠い目をした。


「仮想災害でしたね」


「仮想災害、既婚だったわ」


「よ、よかったです……」


「はい」

「非常によかったです」


 恋愛的脅威は、そこで消えた。


 少なくとも、三人の中では消えた。


 だが、安心したのは一瞬だった。


   ◇


 良樹が、奥から出てきた男を見た。


「旦那さんも職人か?」


 リシアの目が細くなる。


「……今度は旦那さんに行ったわ」


 男は、良樹を見て少し笑った。


「ああ」

「主に鍛造と荒加工だな」

「細かい魔石固定具はノーラの方が上手い」


 良樹の目が、また輝く。


「役割分担か」

「荒加工と仕上げで分けてるのか?」


「そうだ」

「俺が形を出して、ノーラが逃げと噛み合わせを見る」


「逃げを見る……」

「悪い、そこ詳しく聞かせてくれ」


 カレンが、ぽつりと言った。


「良樹さん……」


 クラリスは、静かに結論を出した。


「恋愛的危険は消えましたが、技術的没頭危険は倍増しましたね」


 リシアは、両手で顔を覆いかけた。


「若い女職人が危険なんじゃなかったわ」

「腕のいい職人が危険なのよ」


「対象範囲が広がりましたね」


「広がらないでほしかったわ」


 良樹は、もう旦那の話に食いついていた。


 旦那は、奥から粗く打った金具を持ってくる。


「叩けば形は出る」

「けど、叩いた分だけ歪む」

「歪みを読まずに削ると、あとで噛まない」


 良樹は真剣に聞いている。


「……電気で言うと、出力だけ見て負荷側の癖を見てない感じか」


 旦那は少し首を傾げた。


「たぶん違うが、言いたいことは分かる」


 ノーラが笑う。


「違うのに分かるのかい」


「職人同士の変な会話ってのは、だいたいそんなもんだ」


 旦那はそう言って、金具を作業台に置いた。


 良樹はその金具を見た。


 叩かれた跡。

 戻った跡。

 削る前の歪み。

 そこから形を整える前提の余白。


 綺麗ではない。


 だが、ただ雑なわけではない。


 ここからどう逃がし、どう噛ませるかを見越した荒さだった。


「……これ、完成前提で見ると雑に見える」

「でも、仕上げ前提で見ると必要な荒さなのか」


 旦那が、少しだけ目を細めた。


「分かるのか」


「分からない」

「でも、雑じゃないのは分かる」


 旦那は、ふっと笑った。


「なら十分だ」


 三人は、そのやり取りを聞いていた。


 良樹は本当に、腕のいい職人全般に食いつく。


 若い女職人だけではなかった。


 むしろ、性別はほとんど関係なかった。


 それは安心材料であり。


 同時に、とても面倒な事実だった。


   ◇


 ノーラと旦那は、自然に仕事を渡し合っていた。


 旦那が大きな形を見る。

 ノーラが細かい逃げを見る。


 旦那が荒く整える。

 ノーラが噛み合わせを見る。


 ノーラが違和感を言う。

 旦那がすぐに意図を理解する。


「ここ、少し戻るよ」


「なら、削る前に一回叩くか」


「叩くとこっちが浮く」


「じゃあ、こっちを先に逃がす」


「それならいける」


 言葉は短い。


 説明も少ない。


 けれど、通じている。


 どちらかが上ではない。

 どちらかが従っているのでもない。


 夫婦であり、職人同士。


 リシアは、それを見ていた。


 カレンも見ていた。


 クラリスも、静かに見ていた。


「……夫婦で、仕事をしているんですね」


 カレンが、小さく言った。


「はい」


 クラリスが頷く。


「互いの役割を、よく分かっています」


 リシアは、少しだけ息を吐いた。


「……いいわね」


 それは、本音だった。


 良樹と三人も、いつかこうなれるのだろうか。


 誰かが飾りではない。

 誰かが守られるだけでもない。

 誰かが上で、誰かが下でもない。


 それぞれの役割を持って、横に立つ。


 リシアは魔法で。

 カレンは怖い場所を見る目で。

 クラリスは身体と負荷を見る目で。


 良樹の横に立つ。


 その未来を、少しだけ現物として見た気がした。


 だが、当の良樹は旦那の手元に釘付けだった。


「叩いた音で分かるのか」


「ある程度はな」

「詰まってる音と、逃げてる音は違う」


「音か……」

「電気だと音は異常検知寄りだけど、機械だと加工中の情報でもあるのか」


「また変なこと言ってるな」


「たぶん互いにな」


 リシアは、半眼になった。


「こっちは少し感動してるのに、あいつはもう次の質問してるわ」


 クラリスは微笑んだ。


「良樹くんですから」


 カレンは、少しだけ笑った。


「でも……」

「少し、良樹さんらしくて安心しました」


「まあね」


 リシアは小さく頷いた。


「こういうところが、良樹なのよね」


   ◇


 良樹が旦那に質問攻めをしている間に、ノーラが三人の方へ歩いてきた。


 手には布。

 汗を拭きながら、にやりと笑う。


「あんたらが噂の『英雄候補』の婚約者さん達かい」


 三人は、自然と姿勢を正した。


「ええ」


 リシアが答える。


「は、はい」


 カレンも頷く。


「そうです」


 クラリスも静かに答えた。


 ノーラは、旦那と話し込んでいる良樹を見る。


「なるほど」

「ありゃたしかにいい男だ」


 三人の肩が、わずかに反応した。


 ノーラは笑う。


「で、アタシら側の人間でもある」


 リシアが聞き返す。


「アタシら側?」


「職人側ってことさ」


 ノーラは、作業台に軽く腰を預けた。


「分からないことを、分からないって言う」

「できないところで悔しがる」

「でも、目ぇ逸らさない」

「そういう男は、悪くない」


 三人は、黙った。


 ノーラの言葉には、からかいだけではないものがあった。


 良樹を男として奪おうとしている言葉ではない。


 職人として見ている言葉。

 そして、職人として認め始めている言葉。


 リシアは、少しだけ表情を緩めた。


「そこは、私たちも良いところだと思っているわ」


「だろうね」


 ノーラは笑った。


「あんたら、本気であの男の横に立つ気なんだろ?」


 リシアは、真っ直ぐ頷いた。


「そのつもりよ」


 カレンも、小さく、けれど確かに答えた。


「はい」


 クラリスは、穏やかに言った。


「そのために、私たちは良樹くんの婚約者になりました」


 ノーラは、しばらく三人を見た。


 そして、楽しそうに笑った。


「いいねえ」


 それから、声を少し落とした。


「良かったら」

「あの手の男の落とし方、教えてやろうか?」


 三人の動きが止まった。


 完全に止まった。


 ノーラは親指で旦那を指す。


「ウチの旦那で実証済みだよ」

「なんてね」

「アッハッハ!」


 一拍。


 三人は、ほぼ同時に姿勢を正した。


「「「弟子にしてください!」」」


 声が揃った。


 工房の空気が止まる。


 良樹が振り返った。


「何の話だ?」


 リシアは即答した。


「専門講習よ」


 カレンも必死に頷く。


「と、とても大事な講習です」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


「婚約者として必要な研修です」


 良樹は少し考えた。


「……そうか?」


「そうよ」


「そうです」


「そうです」


 三人が押し切った。


 ノーラは腹を抱えて笑った。


「いいねえ」

「あんた、いい婚約者たち持ってるじゃないか」


 良樹は、三人を見た。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 それから、少しだけ照れたように視線を逸らす。


「それは、まあ」

「そうだな」


 三人の顔が、少し赤くなった。


 ノーラはその反応を見て、また笑った。


   ◇


 ノーラの講習は、色仕掛けではなかった。


 もっと現実的で、もっと職人寄りだった。


「あの手の男はね」


 ノーラは布を肩にかけたまま言った。


「仕事を馬鹿にされるのが一番嫌いだ」

「でも、仕事だけ見られて、本人を見てもらえないのも駄目だ」


 三人は、真剣に聞いていた。


「分からないなら、分からないって言いな」

「分かったふりはするな」

「でも、分からないからって離れるな」

「横で見てな」

「何を見てるのか、少しずつ聞きな」


 リシアは頷いた。


 分からないことを、分かったふりしない。


 それは、良樹自身が大切にしていることだった。


「放っておくと、飯も寝るのも忘れる」

「そういう時は、怒る前に飯を出す」

「それでも戻らないなら、首根っこを掴め」


 リシアが、小さく呟いた。


「そこは得意かもしれないわ」


 カレンが少し笑う。


「リシアは、得意だと思います」


 クラリスも頷く。


「はい」

「非常に適性があります」


「どういう意味よ」


「褒めています」


 ノーラは笑いながら続けた。


「危ない手順をやったら叱れ」

「ただし、人格を叩くな」

「手順を叱れ」

「危ないものは危ないって言え」


 クラリスの目が、少しだけ真剣になる。


「それは、大切ですね」


「だろ」

「それから、褒める時は結果だけじゃない」

「そこまで考えたことを褒めな」

「完成品だけ見てすごいって言われるより」

「そこへ行くまでに見たものを分かってくれる方が、刺さる」


 カレンは、小さく繰り返した。


「見たもの……」


「そうさ」


 ノーラは、良樹の方をちらりと見た。


「あの男は、たぶん」

「自分の仕事を理解しようとしてくれる相手に弱い」

「でも、媚びなくていい」

「横に立て」


 三人は黙った。


 横に立て。


 その言葉は、静かに刺さった。


 リシアは、良樹の作業を止めることが多い。

 危ない時は叱る。

 出力を見て、魔法の流れを見る。


 カレンは、怖い場所を見る。

 分からないままでも、怖いと伝える。

 良樹の道具が本当に使えるかを、自分の怖さで確認する。


 クラリスは、身体と負荷を見る。

 良樹が壊れないように、皆が壊れないように止める。


 三人には、すでに役割がある。


 ノーラは、それを見抜いたように言った。


「あんたらは、もうそれぞれ役割があるんだろ」

「なら、それを磨きな」

「若い女職人を怖がるより、あんたら自身が、あの男にとって必要な職人になればいい」


 リシアは、息を止めた。


 カレンは、胸元で手を握った。


 クラリスは、静かに目を細めた。


 若い女職人を警戒していた。


 良樹が知らない技術を持つ女を怖がっていた。


 だが、ノーラは笑って言った。


 自分たちが、良樹にとって必要な職人になればいい。


 リシアの魔法。

 カレンの剣。

 クラリスの体術。


 良樹がまだ、接続や出力や負荷として見がちな三人の専門。


 そこを、ちゃんと見せればいい。


 良樹に、分かった顔で踏ませない。

 自分たちの積み上げを、ちゃんと教える。


 それは、前夜の婚約者会議で三人が辿り着いた答えでもあった。


 リシアは、静かに頷いた。


「……弟子入りして正解だったわ」


 ノーラは笑う。


「早いねえ」


「ええ」

「かなり刺さったもの」


   ◇


 工房を出る前、良樹はノーラ夫妻に頭を下げた。


「助かった」

「手記だけ読んでも、たぶんここは分かった気になってた」

「現物を見てよかった」


 ノーラは、にっと笑う。


「分かった気になる前に来たなら、悪くないよ」

「また詰まったら持ってきな」


 旦那も頷いた。


「ただし、壊していい試作品にしとけ」

「いきなり本番部品を持ってくるなよ」


「それはやらない」

「壊れ方を見る段階だ」


 ノーラが目を細める。


「いい言葉じゃないか」


「受け売りだ」

「でも、今は大事な言葉だと思ってる」


「なら、大事にしな」


 良樹はもう一度頭を下げた。


 三人も頭を下げる。


 ノーラの子供が、良樹の腰袋をじっと見ていた。


 良樹は少しだけ笑って、腰袋を軽く叩く。


「これは駄目だぞ」

「工具は命だからな」


 子供はよく分かっていない顔で頷いた。


 ノーラが笑う。


「変な兄ちゃんだね」


「よく言われる」


「だろうね」


 工房を出る時、ノーラは三人へ片手を振った。


「頑張んな、婚約者さん達!」


 三人は、少し赤くなりながら頷いた。


   ◇


 帰り道。


 三人は少し疲れていた。


 最初の警戒とは違う疲れ方だった。


 リシアが、ぽつりと言う。


「……若い女職人は、危険だったわ」


 カレンが頷く。


「はい」

「でも、思っていた危険とは違いました」


 クラリスが静かに言う。


「恋敵ではなく、師匠でしたね」


「それはそれで想定外ね」


「でも、よかったです」


「はい」

「非常によかったです」


 良樹は、三人を見る。


「何の話だ?」


 三人は同時に答えた。


「「「専門講習の話」」」


「そうか」


 良樹は、少しだけ考え込んだ。


 その横顔を見て、リシアが眉を上げる。


「何?」


「いや」


 良樹は歩きながら言った。


「なら俺も、お前らから教わることを考えないとな」


 三人の足が、ほとんど同時に止まった。


 良樹も足を止める。


「どうした」


 リシアは、少しだけ目を見開いていた。


 カレンは、胸元で両手を握っている。


 クラリスは、静かに良樹を見ていた。


 良樹は、言葉を続ける。


「魔法そのもの」

「剣そのもの」

「体術そのもの」

「今まで、俺は接続や出力や負荷ばかり見てた」

「軽く見てたつもりはねえ」

「でも、お前らの仕事を、分かった顔で踏むのは違う」


 三人は、黙って聞いていた。


「すぐには無理だ」

「たぶん、見ても分からないことも多い」

「でも、少しずつ教えてくれ」

「俺も、お前らの専門をちゃんと見たい」


 リシアは、一度目を伏せた。


 前夜、自分たちは決めた。


 良樹が他所の若い女職人に目を輝かせる前に、自分たちの専門にも目を向けさせる。


 魔法。

 剣術。

 体術。


 それを、良樹に教える。


 その答えが、良樹の方から返ってきた。


 リシアは、口元を少しだけ緩める。


「いいわ」

「逃げたら許さないから」


 カレンは、少し照れながら頷いた。


「わ、私でよければ」

「剣のこと、教えます」


 クラリスは、柔らかく微笑んだ。


「体術も、身体の使い方も」

「良樹くんが壊れない範囲で、教えます」


「壊れない範囲で頼む」


 良樹は真顔で言った。


 リシアも真顔で頷く。


「そこは本当に頼むわ」


「はい」

「任せてください」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


 だが、その笑みを見て、良樹は少しだけ不安になった。


「……本当に壊れない範囲だよな?」


「もちろんです」


「そのもちろんが怖いんだよな」


 カレンが、小さく笑った。


 リシアも笑った。


 クラリスも、少しだけ楽しそうに笑った。


 その後ろから、工房の方でノーラの笑い声が聞こえた気がした。


 アッハッハ、と豪快な声。


 頑張んな、婚約者さん達。


 その声が、まだ耳に残っている。


 リシアは、空を見上げた。


 若い女職人は、恋敵ではなかった。


 けれど、確かに危険だった。


 良樹を奪う危険ではない。


 自分たちに、横に立てと突きつけてくる危険。


 そして、その危険は悪くなかった。


「良樹」


「何だ」


「今日から、専門講習よ」


「分かった」


「覚悟しなさい」


「壊れない範囲でな」


「それは保証できないわ」


「保証しろ」


 カレンが慌てて手を振った。


「あ、あの、剣は安全に教えますから」


 クラリスが微笑む。


「体術も安全に教えます」


 良樹は、三人を見る。


「今、一番怖いのは安全って言葉だな」


 三人は、声を揃えた。


「「「大丈夫」」」


「それが一番信用できねえ」


 良樹がそう言うと、三人は笑った。


 藤田が残した手記。

 ノーラ夫妻が見せた現物。

 そして、三人がこれから教える専門。


 良樹の前に、また新しい入口が開いた。


 ただし、今度の入口には、三人が立っている。


 魔法使いとして。

 剣士として。

 僧侶であり、体術使いとして。


 そして、婚約者として。


 良樹は、小さく息を吐いた。


「……忙しくなるな」


 リシアが笑う。


「今さらでしょ」


 カレンも頷く。


「はい」


 クラリスも静かに続けた。


「良樹くんは、最初から忙しいです」


「違いねえ」


 良樹は、少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、三人もまた笑った。


 横に立て。


 ノーラの言葉が、三人の中に残っている。


 だから三人は、良樹の横を歩いた。


 少し近く。


 けれど、押し潰さない距離で。


 同じ道を、四人で歩いた。

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