第61話 壊れ方を見る日
夜になった。
拠点の二階。
三人部屋には、いつものように小さな灯りが置かれていた。
窓の外は暗い。
一階の作業場からは、まだ大きな音は聞こえない。
けれど、良樹が下にいる気配はあった。
クラリス。
カレン。
リシア。
三人は、中央の卓を囲んで座っていた。
いつもの婚約者会議。
の、はずだった。
けれど今夜は、いつもと少し違った。
誰も、すぐには口を開かなかった。
クラリスは、両手を膝の上で重ねている。
いつもの清楚な微笑みはある。
あるのだが、耳が赤い。
カレンは、胸元で両手を握りしめている。
視線は卓の木目に落ちていて、時々、思い出したように顔を赤くする。
リシアは腕を組んでいた。
組んでいるが、指先が落ち着かない。
頬も、まだ少し熱を持っている。
全員、分かっていた。
クラリスの番が終わった。
カレンの番が終わった。
リシアの番も、終わった。
全員が、良樹と婚約者としてのデートをした。
全員が、良樹に受け止められた。
全員が、良樹とキスをした。
その事実を、誰かが口に出さなければならない。
しかし、口に出すには破壊力が高すぎた。
「……終わったわね」
最初に口を開いたのは、リシアだった。
自分で言って、自分で少し顔を赤くする。
カレンは、肩を小さく震わせた。
「……終わって、しまいました」
クラリスが、静かに頷く。
「はい」
「全員、良樹くんと……」
そこで言葉が止まった。
三人は、ほぼ同時に顔を赤くした。
「最後まで言わなくていいわ」
リシアが早口で言った。
「はい」
「今は、最後まで言わない方がよいと思います」
クラリスも静かに頷く。
カレンは両手で顔を覆った。
「で、でも……言わなくても、分かってしまいます……」
「分かるわよ」
「分かるから困ってるのよ」
リシアは咳払いをした。
そして、少しだけ姿勢を正す。
「では」
カレンとクラリスが顔を上げる。
リシアは、頬を赤くしたまま言った。
「婚約者会議を、再開します」
「はい……」
「はい」
「議題は」
クラリスが静かに言う。
リシアは、一瞬だけ詰まった。
それから、覚悟を決めて言った。
「初回婚約者デート、および初回キスの報告と、今後の距離感について」
沈黙。
カレンが、完全に顔を覆った。
クラリスは清楚に微笑んでいるが、耳は真っ赤だった。
リシアは、自分で言っておきながら卓に額をつきかけた。
「……会議名が強いわね」
「強いです……」
「婚約者ですから」
「そこで正面から受け止めないで、クラリス」
「受け止めるべきことかと」
「そうだけど」
リシアは小さく息を吐いた。
「まず、確認するわ」
二人が頷く。
「良樹は、逃げたか」
部屋の空気が、少しだけ変わった。
その問いは、冗談ではなかった。
良樹は逃げることがある。
嫌だからではない。
責任を感じるから。
誰かを傷つけることを恐れるから。
軽く踏み込むことを嫌うから。
だから、三人は不安だった。
婚約者になった。
キスまでならいいと決めた。
けれど、良樹が本当に受け止められるのか。
逃げずに。
責任だけで固まらずに。
義務のようにではなく。
三人は、それぞれの番を終えた今、確認しなければならなかった。
最初に口を開いたのは、クラリスだった。
「良樹くんは、逃げませんでした」
静かな声だった。
「嫌がりませんでした」
「私が普通の女の子でいようとしても」
「いつもの私を見せても」
「どちらも私だと、受け止めてくれました」
クラリスの指が、少しだけ膝の上で動いた。
「今の私も、いつもの私も、どちらも私だと」
「そう言ってくれました」
カレンは胸元で手を握った。
「良樹さんは、私も見てくれました」
声は小さい。
けれど、逃げていなかった。
「怖がるところも」
「我慢してしまうところも」
「分かりやすいところも」
「ちゃんと見落とさない、と言ってくれました」
カレンの頬が赤くなる。
「それから」
「私が守っていたことにも、気づいてくれました」
「良樹さん以外に見せないようにしていたことも」
リシアは小さく頷いた。
それから、少しだけ視線を伏せる。
「良樹は、私から逃げなかったわ」
言葉にした瞬間、胸の奥が少し熱くなった。
「私がどれだけドキドキしてるか」
「ちゃんと受け止めてくれた」
「押さなかった」
「でも、逃げなかった」
あの時の良樹の手。
声。
息。
短い返事。
全部を思い出して、リシアは顔を赤くする。
「……ずるいわ、あいつ」
「はい」
カレンが小さく頷いた。
「ずるいです」
「良樹くんですから」
クラリスが微笑む。
三人は、しばらく黙った。
それぞれの胸の中に、それぞれの良樹がいる。
強く迫ってくる男ではない。
甘い言葉をいくらでも言える男でもない。
けれど、いざという時に逃げず、相手が差し出したものを壊さないように受け止める男。
だから、好きになった。
クラリスが静かに言う。
「結論です」
「良樹くんは、逃げませんでした」
カレンが続ける。
「嫌がりませんでした」
リシアは、一度だけ目を閉じた。
「……ちゃんと、受け止めたわね」
三人の間に、少しだけ柔らかい沈黙が落ちた。
◇
「次の議題」
リシアは、気を取り直して言った。
「良樹はどこまで分かっているのか」
カレンが首を傾げる。
「どこまで、ですか?」
「ええ」
「キスは分かってると思うのよ」
「そ、それは……分かっていると思います」
カレンは真っ赤になりながら答えた。
クラリスも頷く。
「胸の鼓動を受け止めることも、かなり明確だったと思います」
「そこまで具体的に言わなくていいわ」
「事実ですので」
「事実だけど」
リシアは額に手を当てた。
「でも、たぶん明日には普通に作業場へ行くわ」
沈黙。
カレンが即座に頷いた。
「行くと思います」
クラリスも頷く。
「行きますね」
「婚約者三人とキスした翌日に、手記と工具と魔導盤へ行く男よ」
「良樹さんらしいです……」
「はい」
「そこも含めて良樹くんです」
三人は顔を見合わせて、少し笑った。
良樹は恋愛を軽く見ていない。
それは、もう分かった。
けれど、恋愛だけで頭がいっぱいになる男でもない。
そこが少し悔しい。
そして、そこが好きだった。
「次」
リシアは指を立てた。
「今回のデートに、勝ち負けはありません」
クラリスがすぐに頷いた。
「ありませんね」
カレンも頷く。
「な、ないです」
一拍。
リシアは二人を見た。
「……ないわよね?」
「ありません」
「ありません……!」
三人は、互いの顔を見た。
ない。
ないはずだ。
クラリスは、一目惚れを告げた。
カレンは、健気に守っていたものを良樹に見せた。
リシアは、鼓動まで受け止めさせた。
それぞれ強い。
強すぎる。
もし勝敗判定を始めたら、会議は戦場になる。
「良樹くんは、それぞれ違うものを受け止めてくれました」
クラリスが言った。
「比較するものではありません」
「はい」
「私たちも、違いますから」
カレンも頷く。
リシアは小さく息を吐いた。
「そうね」
「最初の女とか」
「一目惚れとか」
「分かりやすいとか」
「全部、違うものね」
カレンとクラリスの顔が、微妙に赤くなる。
クラリスが、少しだけ目を細めた。
「リシアも、かなり欲張りましたね」
「最後だったんだから、それくらいいいでしょ」
リシアは少し照れながら言った。
カレンは、柔らかく笑う。
「リシアの番でしたから」
その言葉に、リシアは一瞬だけ黙った。
カレンは本当に、そう言ってくれる。
クラリスも、静かに頷いている。
恋敵ではある。
けれど、敵ではない。
その形は、婚約者になっても変わらなかった。
◇
「次は、今後の接触ルール」
リシアは、真面目な顔に戻った。
「本番はまだ駄目」
「これは変えない」
カレンが即座に頷く。
「はい」
「英雄になってから、です」
クラリスも頷いた。
「良樹くんも、そこは守るでしょう」
「むしろ、危険なのは私たちです」
三人は黙った。
否定できなかった。
「……否定できないわね」
「で、できません……」
「はい」
リシアは咳払いした。
「では、キスについて」
カレンの肩が跳ねる。
「き、キス……」
「解禁でいいわよね」
カレンが耳まで赤くなる。
クラリスは静かに頷いた。
「婚約者ですから」
「婚約者だものね」
リシアも頷いた。
そして、三人は同時に赤くなった。
便利な言葉だった。
婚約者。
その一語で、今までできなかったことが、急に少し許されるような気がしてしまう。
だからこそ、線引きが必要だった。
「ただし、無制限ではないわ」
リシアは指を折る。
「人前では控える」
「他の二人に見せつける形ではしない」
「良樹が疲れている時、作業直後、深夜は無理に迫らない」
「一人が明確に進展したら、後で報告」
「ただし、毎回細かく報告しすぎると全員が死ぬので、報告範囲を決める」
カレンが震える。
「全員が死ぬ……」
「死ぬわよ」
「良樹が少し照れた、とかまで全部報告してたら、毎晩会議が終わらないわ」
「ですが、聞きたいです」
クラリスが静かに言った。
「分かるけど!」
リシアが叫ぶ。
カレンも小さく手を上げた。
「あ、あの……私も、聞きたいです」
「私も聞きたいわよ!」
リシアは顔を赤くした。
「だから困ってるの!」
しばらく三人は真剣に悩んだ。
そして、報告対象を決めた。
良樹からキスされた。
自分からキスして、良樹が受け入れた。
抱きしめられた。
明確に好きと言われた。
婚約者として特別な約束をした。
良樹がかなり照れた。
任意報告は、手を繋いだ、軽く触れた、褒められた、少し照れた、二人きりで作業した程度。
「少し照れた、は任意なのですね」
クラリスが確認する。
「任意よ」
「毎回必須にしたら、たぶん良樹の日常報告になるわ」
「良樹さん、よく照れますから……」
「ええ」
「しかも、照れたことを隠そうとするから余計に分かるのよ」
三人は頷いた。
よく分かっていた。
◇
「それと」
リシアは少しだけ声を落とした。
「良樹を誘う勇気は、認める」
カレンが顔を上げる。
「勇気……」
「そう」
リシアは頷いた。
「良樹は、たぶん自分からはなかなか来ないわ」
「責任を考えすぎるから」
「雑に扱いたくないから」
「軽く踏み込むのは違うと思っているから」
クラリスが頷く。
「良樹くんらしいです」
「だから、待っているだけでは進まない」
「私たちから誘うことは認める」
「ただし、他の二人を排除する誘い方は禁止」
「良樹に返事を迫りすぎない」
「良樹が止まった時は、逃げではなく確認と見る」
「でも、なかったことにはさせない」
カレンは小さく頷いた。
「ちゃんと、戻ってきてもらいます」
「そう」
リシアは微笑んだ。
「それでいい」
クラリスも静かに言う。
「良樹くんが固まった場合は、逃げ道ではなく、考える時間を渡しましょう」
「ただし、逃げ切らせません」
「そこは大事ね」
三人は頷いた。
良樹は逃げる。
けれど、戻ってくる男でもある。
その戻り道を閉ざさないこと。
そして、逃げっぱなしにはさせないこと。
それが、婚約者としての線引きだった。
◇
会議は、少しだけ落ち着いた。
その時だった。
一階から、かすかに音がした。
木を置くような音。
金属ではない。
紙でもない。
そして、良樹の低い声。
「……回転は、出せる」
「いや、違う」
「回せるだけじゃ駄目だ」
三人は、同時に下を見る。
リシアが眉を寄せる。
「……始まってるわね」
カレンが小さく頷く。
「はい……」
クラリスは耳を澄ませた。
「手記を開く音ではありません」
また、良樹の声が聞こえた。
「軸が逃げる」
「支点が甘い」
「力を伝える場所がずれる」
「止めた時に戻りが跳ねる」
しばらく沈黙。
「くっそ、難しいな」
「機械屋は、こんなことやってたのかよ……」
三人は、顔を見合わせた。
リシアは、小さく息を吐く。
「読んではいないわね」
「はい」
「ですが、始めています」
クラリスが言う。
カレンは胸元で手を握った。
「良樹さんらしいです……」
「手記を読まなければいい、という話ではないのよ」
リシアは立ち上がった。
カレンも立つ。
クラリスも静かに続いた。
ただし、怒鳴り込むためではない。
止めるため。
見守るため。
そして、良樹が何に躓いているのかを見るため。
三人は、階段へ向かった。
◇
階段の途中で、三人は足を止めた。
良樹は一階の作業台の前にいた。
藤田から渡された古い布包みは、机の端に置かれている。
開かれていない。
紐もそのままだ。
約束は破っていない。
だが、作業台の上には、小さな半透明の軸が浮いていた。
その横には、支点らしきもの。
受けのようなもの。
押し板のようなもの。
どれも、魔導盤の線とは違う。
機械要素の、真似事だった。
良樹はその小さな軸を睨んでいた。
回転はする。
けれど、真っ直ぐ伝わらない。
軸が逃げる。
支点がぶれる。
力を入れた瞬間、別の場所に負荷が逃げる。
止めれば反動が戻る。
戻りを殺せば、今度は保持側に無理が出る。
良樹は奥歯を噛んだ。
「……盤の中なら、線を引けばいい」
「入力、出力、戻り、停止」
「まだ見える」
軸が、小さくぶれた。
「でも、力は違う」
「押せば逃げる」
「止めれば戻る」
「固めれば壊れる」
「逃がせば伝わらない」
半透明の軸が、ぱきりと音もなく崩れた。
良樹は、それを消さなかった。
崩れた形のまま、じっと見ていた。
「……舐めてたな」
「いや、舐めてたつもりはねえ」
「でも、分かった気になってた」
階段の途中で、リシアは目を細めた。
「……ああいうところよね」
カレンが、良樹の背中を見る。
「ああいうところ、ですか?」
「ええ」
「鍛冶屋に行った時もそうだったわ」
「店の主人に、ちゃんと教えてもらうように聞いてたもの」
リシアは、少しだけ口元を緩めた。
「あいつ、自分の知らない仕事を、知った顔で踏まないのよ」
「面倒くさいくらい、ちゃんと聞く」
「ちゃんと悔しがって」
「ちゃんと頭を下げる」
クラリスは、静かに微笑んだ。
「良樹くんらしいですね」
カレンも頷く。
「良樹さんは、できないことを、できるふりしません」
「そこが、良樹のいいところよ」
リシアはそう言った。
そこで、三人は同時に黙った。
良樹は知らない仕事を軽く見ない。
職人が積み上げたものを、知った顔で踏まない。
そこは、本当に良いところだ。
ただし。
魔法には。
剣術には。
体術には。
三人は、ほぼ同時に顔を見合わせた。
「「「あまり興味が無い」」」
声が、綺麗に重なった。
リシアは額に手を当てた。
「……そうなのよね」
カレンは少し困ったように笑う。
「良樹さん、私の剣の流れは見てくれます」
「怖い場所を見ることも、ちゃんと役目だと言ってくれます」
「でも、剣術そのものには……」
クラリスも穏やかに続ける。
「良樹くんは、私の身体の使い方や負荷には強い関心を持ちます」
「ですが、体術の型や技そのものには、あまり……」
リシアも小さく息を吐いた。
「私の魔法もそう」
「出力、流れ、立ち上がり、逃がし方、盤との接続」
「そこには食いつくわ」
「でも、魔法そのものを極めたい、という感じではないのよ」
三人は、一階の良樹を見る。
良樹はまだ、半透明の軸を睨んでいた。
「回転じゃねえ」
「支持だ」
「支点が逃げるなら、受け側を……いや、そこを固めると今度は戻りが……」
「くっそ、難しいな。機械屋はこんなことやってたのかよ……」
本当に悔しそうだった。
そして、本当に楽しそうだった。
リシアは半眼になった。
「……悔しいけど、あれが良樹なのよね」
カレンは小さく頷く。
「はい」
「でも、少しだけ……」
「剣のことも、知ってほしいです」
クラリスは微笑んだ。
「では、今度はこちらから教えましょう」
「良樹くんが機械屋に頭を下げるなら」
「私たちの専門にも、頭を下げてもらいましょう」
リシアが顔を上げる。
「いいわね、それ」
カレンの目も、少しだけ明るくなった。
「教える、んですか?」
「ええ」
リシアは、にやりと笑った。
「良樹に、魔法と剣術と体術の基礎講座」
「婚約者三人による、専門分野研修よ」
クラリスが清楚に微笑む。
「まずは、興味を持っていただくところからですね」
カレンは胸元で手を握った。
「が、頑張ります」
その時、リシアは何かに気づいたように動きを止めた。
「……待って」
カレンが不安そうに見る。
「リシア?」
「これ、もしかして」
「私たちの一番危ない相手って」
クラリスの微笑みが、すっと止まった。
「若い女職人、でしょうか」
三人の間に、重い沈黙が落ちた。
「若くて」
「腕がよくて」
「良樹の知らない技術を持っていて」
「しかも姉御肌で」
「教え上手な女職人」
リシアが、一つずつ言葉を置く。
カレンの顔から、少し血の気が引いた。
「良樹さんが、目を輝かせて話を聞く……」
クラリスが静かに頷く。
「分からないので教えてください、と頭を下げますね」
「最悪じゃない」
「最悪です」
「す、すごく危ないです……!」
三人は想像した。
若い女職人。
工房の熱気の中で、腕を出し、工具を握り、良樹の知らない技術を当たり前のように扱う女。
良樹がそれを見る。
胸元ではなく、手元を。
肌ではなく、工具の角度を。
女としてではなく、職人として。
そして、真顔で言う。
すげえな。
もう一回教えてくれ。
俺はそこが分かってなかった。
三人は、同時に身震いした。
「……災害級ね」
リシアが言った。
「はい」
「災害級です」
クラリスが即答する。
「さらに、見られることを気にしない方だった場合は」
「厄災級ね」
リシアが続けた。
カレンは震える声で言う。
「良樹さんは、意中の相手以外を雑に見たりしません」
「でも、逆に言えば……」
「意中の相手になった場合は、逃げずにちゃんと見る」
クラリスが静かに言った。
三人は黙った。
その想像は、あまりにも危険だった。
「決定」
リシアは低く言った。
「若い女職人は高警戒」
「若く、腕がよく、姉御肌で、教え上手なら災害級」
「さらに見られることを気にしないタイプなら厄災級」
「はい……!」
「異議ありません」
「ただし」
リシアは、一階の良樹を見た。
「相手の技術は尊重する」
「嫉妬で職人の仕事を馬鹿にする気はないわ」
「はい」
カレンが頷く。
「良樹さんも、そういうのは嫌がると思います」
「ですが、良樹くんを一人で預ける必要もありません」
クラリスが言う。
「同席は必要ですね」
「必要ね」
リシアは頷いた。
「そして、私たちも教えられる女になる」
「良樹が他所の若い女職人に目を輝かせる前に」
「まず私たちの技術で、あいつの目をこっちに向けさせる」
カレンが、真っ赤になりながら頷いた。
「はい……!」
「良い方針です」
クラリスも微笑む。
「それに、教えるためには近づけます」
「そこは言わなくていいのよ」
リシアが言った。
しかし、否定はしなかった。
◇
「良樹」
リシアが階段を降りた。
良樹は、そこで初めて三人に気づいたように顔を上げた。
少しだけ気まずそうな顔をする。
「読んでねえぞ」
第一声がそれだった。
リシアは半眼で見る。
「でしょうね」
「でも、始めてるわよね」
「……見たものを、忘れる前に確認してただけだ」
「それを始めていると言います」
クラリスが静かに言った。
カレンも心配そうに良樹を見る。
「良樹さん……」
良樹は頭をかいた。
「藤田さんの手記は読んでない」
「あの人の答えは見てない」
「でも」
リシアが促す。
良樹は、作業台の上の崩れた軸を見た。
「昨日見たんだ」
「軸、歯車、カム、リンク、クラッチ」
「盤じゃない」
「線じゃない」
「力を、物理的に伝える形だった」
良樹の声は、少しだけ低かった。
「それがどれだけ難しいのか」
「手記を読む前に、少しだけ触っておきたかった」
「少しだけ?」
リシアが聞く。
「少しだけだ」
三人は黙って良樹を見た。
良樹は少しだけ視線を逸らした。
「……少しだけのつもりだった」
「よろしい」
「正直で」
リシアは言った。
それから、作業台の上を見る。
「それで、どうだったの」
「難しい」
即答だった。
「回すだけなら、できる」
「でも、回せるだけじゃ駄目だ」
良樹は半透明の軸をもう一度浮かべた。
小さく回る。
しかし、受けを付けた瞬間、軸がぶれる。
「支える場所がいる」
「力を受ける場所がいる」
「逃げる場所もいる」
「止めた時に戻る力もある」
軸がまた崩れる。
「人や武器に使う段階じゃねえ」
「机の上で、壊していいものからだ」
クラリスが静かに頷いた。
「良い判断です」
カレンも胸元で手を握る。
「危ないところに、いきなり使わないんですね」
「ああ」
「これはまだ、人に触らせるもんじゃねえ」
リシアは半透明の軸を見た。
「回した瞬間、力が外へ逃げてる」
「火球の形が崩れる時と少し似てるわ」
「中心が残ってない」
良樹の目が動く。
「中心か」
カレンも、小さく手を上げた。
「あの……止めた瞬間、こっちに跳ねています」
「見えないですけど、怖い方向が変わります」
「戻りか」
良樹はすぐに頷いた。
クラリスは作業台へ近づき、軸と支点を見た。
「良樹くん」
「今の形、人の関節に近い場所へ使うのは危険です」
「支える側に負荷が残ります」
「だよな」
良樹は小さく息を吐いた。
「俺だけで見ると、回るかどうかに寄る」
「三人が見ると、逃げと怖さと負荷が出る」
リシアは少しだけ口元を緩めた。
「必要でしょう?」
「ああ」
「必要だ」
即答だった。
リシアは、その返事に少しだけ頬を赤くした。
カレンも、クラリスも、柔らかく微笑んだ。
◇
良樹は、藤田の手記を見た。
古い布に包まれたままのそれ。
六十年分の記録。
読めば、答えがあるかもしれない。
だが、今の試験で分かった。
答えだけを拾ってはいけない。
「……手記を読む前に分かってよかった」
良樹は呟いた。
リシアが聞く。
「何が?」
「これを攻略本みたいに読んだら駄目だ」
良樹は布包みを見たまま言った。
「答えだけ拾ったら、たぶん事故る」
「これは、たぶん藤田さんの六十年分の失敗だ」
「壊して」
「直して」
「また壊して」
「どこが先に逃げるか」
「どこが先に割れるか」
「どこなら壊れてもいいか」
「そういうのを残したものだ」
クラリスが静かに言った。
「失敗の記録なのですね」
「ああ」
「それが一番ありがたい」
良樹は頷いた。
「完成した形だけ見たら、たぶん真似する」
「でも、失敗の順番があれば」
「何を怖がればいいか分かる」
カレンは、小さく息を呑んだ。
「怖がる場所を、先に知るんですね」
「ああ」
「お前と同じだな」
カレンの目が、少しだけ潤んだ。
良樹は気づいていない。
ただ技術の話として言った。
それでも、カレンには刺さった。
リシアは小さく息を吐いた。
「読む?」
「読む」
「ただし、少しだけ」
「読む場所を決める」
「試すのは明日以降」
「今日、読んでそのまま試作には入らねえ」
リシアは目を細めた。
「今の言葉、記録していい?」
「信用ねえな」
「あります」
「でも、記録は必要です」
カレンが真面目に言った。
クラリスも頷く。
「良樹くん自身を守るための記録です」
良樹は、しばらく三人を見ていた。
それから、諦めたように頷く。
「……分かった」
「書いとけ」
リシアが勝った顔をした。
「では、決定」
「今日は読むだけ」
「試作は明日以降」
「眠る時間も決める」
「そこまでか」
「そこまでよ」
クラリスがにこりと微笑む。
「婚約者ですから」
良樹は何も言い返せなかった。
◇
四人は、作業台を囲んだ。
古い布包みが、中央に置かれる。
良樹は、すぐには手を伸ばさなかった。
一人で読まない。
答えだけ拾わない。
誰かの六十年を、軽く扱わない。
それを、自分の中で確認する。
リシアは良樹の横に立つ。
カレンは少し斜め後ろで、胸元で両手を握っている。
クラリスは反対側で、良樹の呼吸と目を見ている。
良樹は、小さく息を吐いた。
「読むぞ」
「藤田さんの六十年を」
「ええ」
リシアが答える。
「はい」
カレンが頷く。
「一緒に読みましょう」
クラリスが静かに言った。
良樹は布を解いた。
古い紙の匂いがした。
油のような匂いも、少しだけ混じっている。
長い時間、工具や機械のそばにあった紙の匂い。
表紙には、古い字で名前があった。
藤田吾郎。
良樹は、その名前を指でなぞらなかった。
触れれば、それだけで何かを軽く扱ってしまう気がした。
ただ、見た。
そして、最初の頁を開いた。
そこには、短い一文があった。
『まず、壊れ方を見よ。』
良樹の手が止まった。
止め方ではない。
壊れ方。
父の声が、胸の奥で重なる。
――動かす前に、止め方を考えろ。
十鉄は、電気の側からそれを言った。
藤田は、機械の側からそれを書いている。
言葉は違う。
だが、根は同じだった。
動かせることに酔るな。
力を出せることに酔るな。
まず、危ない場所を見ろ。
良樹は、静かに笑った。
「……親父」
「機械屋は、壊れ方かららしいぞ」
リシアは、その横顔を見ていた。
カレンは、手記の文字をじっと見る。
クラリスは、良樹の呼吸が少し落ち着いたことを確認した。
良樹は、次の行へ目を落とす。
『機械は、思った通りには壊れぬ。
だが、力の逃げ道を見れば、壊れる順は見えてくる。』
『完成した形だけを写すな。
壊れた形を見よ。
折れた場所を見よ。
削れた場所を見よ。
熱を持った場所を見よ。』
『そこに、機構の本音がある。』
良樹は、その一文をしばらく見つめていた。
機構の本音。
盤の中の線ではない。
魔力の流れだけでもない。
力が逃げ、曲がり、割れ、削れ、熱を持つ場所。
そこに、本音がある。
良樹は、小さく息を吐いた。
「……すげえな」
「これ、図面集じゃねえ」
リシアが聞く。
「どういうこと?」
「完成品の形だけじゃない」
「壊れた場所と、理由と、直し方が書いてある」
「成功した形より先に、失敗した形がある」
良樹は手記を閉じなかった。
だが、ページを急いでめくることもしなかった。
「属人知を、無理やり言葉にしてる」
「藤田さんが六十年かけて身体で覚えた壊れ方を」
「後から来る奴でも辿れるようにしてる」
カレンが、静かに言った。
「それは……すごいことなんですね」
「ああ」
良樹は頷いた。
「すごい」
「そして、怖い」
クラリスが少しだけ首を傾げる。
「怖い、ですか」
「ああ」
「読めば読むほど、たぶん作りたくなる」
「でも、作りたくなった時が危ない」
良樹は、手記の最初の頁へもう一度目を落とした。
「だから、今日はここまでだ」
リシアが驚いたように見る。
「本当に?」
「ああ」
「一頁だけで止まるの?」
「止まる」
「今は、止まる」
良樹は手記を閉じた。
その手は、少しだけ震えていた。
読みたい。
続きが知りたい。
藤田の六十年を、今すぐ追いたい。
だが、止めた。
十鉄の声がある。
藤田の文字がある。
三人が横にいる。
なら、止まれる。
リシアは、少しだけ目を細めた。
「……本当に止まったわ」
「信用ねえな」
「今、少し増えたわ」
「少しかよ」
「少しずつよ」
カレンは、ほっとしたように笑った。
「良樹さん」
「今日は、ちゃんと止まれました」
「ああ」
クラリスも柔らかく微笑む。
「良い停止です」
「その言い方は何か変だな」
「良樹くんに合っているかと」
良樹は苦笑した。
そして、手記をもう一度布で包んだ。
藤田吾郎の六十年。
その入口は、開かれた。
だが、踏み込むのは明日からだ。
今夜は、まず止まる。
それが、最初の学びだった。




