第60話 リシア(挿絵有)
朝から、リシアは落ち着かなかった。
三人部屋の窓から差し込む光は、いつもと同じだった。
町の音も、いつもと同じだった。
階下から聞こえてくる良樹の足音も、いつもと同じだった。
なのに、自分の胸の内側だけが、まったくいつも通りではなかった。
リシアは、衣装箱の前で腕を組んでいた。
白と青を基調にした、軽い服。
水辺へ行くにはちょうどいい。
動きやすく、裾も長すぎない。
風を受けても邪魔にならない。
ただ、胸元だけは、普段より少し開いている。
露出が多いわけではない。
下品な服でもない。
鎖骨が見える。
喉元から、胸の上あたりまでが見える。
それだけだ。
それだけ、のはずだった。
「……」
リシアは、その服を見て、また腕を組み直した。
水辺に行くから。
風と水を扱うから。
暑いかもしれないから。
動きやすい方がいいから。
理由はいくらでも並べられる。
並べられるが、全部ではない。
本当の理由は、最後にひとつだけある。
良樹に、分かってほしい。
自分がどれだけ平気ではないのか。
強がっているだけなのか。
最後まで待った自分が、どれだけ胸を鳴らしているのか。
それを、分かってほしい。
「……何を考えてるのよ、私は」
リシアは小さく呟いた。
その背後で、カレンが両手を胸元で握っていた。
「リシア」
「何よ」
「すごく、綺麗です」
即答だった。
リシアは振り返る。
「言わないで」
「でも、本当に綺麗です」
「だから言わないでって言ってるでしょ」
カレンは少し困ったように笑った。
その隣で、クラリスも穏やかに微笑んでいる。
「はい」
「最後の番に相応しいと思います」
「クラリスまで」
「事実です」
「事実を言えばいいってものじゃないわよ」
リシアは顔を逸らした。
耳が熱い。
クラリスは、そんなリシアを静かに見ていた。
「水辺へ行くのですね」
「……ええ」
カレンが目を瞬かせる。
「最初の場所、ですか?」
「完全に同じ場所じゃないわ」
「でも、近く」
リシアは衣装箱を閉じた。
「最初に、良樹と会った場所」
「最悪の事故が起きた場所」
カレンは少しだけ表情を引き締めた。
クラリスも、微笑みを柔らかくする。
「リシア」
カレンが言った。
「大丈夫です」
「何が」
「良樹さんは、逃げません」
リシアの動きが止まる。
クラリスが続けた。
「そして、嫌がりません」
「二人して言わないでって、昨日も言ったでしょ」
「はい」
「言われても、必要なら言います」
「そういうところだけ、二人とも良樹に似なくていいのよ」
カレンは少しだけ笑った。
クラリスも微笑む。
リシアは二人を見た。
クラリスは、ちゃんと受け止められて帰ってきた。
カレンも、ちゃんと受け止められて帰ってきた。
良樹は逃げなかった。
嫌がらなかった。
二人がそれを伝えてくれた。
それは嬉しかった。
嬉しかったし、心強かった。
それでも。
リシアは小さく息を吐いた。
「私が一番最初に会ったのに」
声は、小さかった。
「最後なのは、ちょっと納得いかないわ」
カレンは何も言わなかった。
クラリスも、茶化さなかった。
リシアは、自分で言ってから少しだけ苦笑した。
「分かってるわよ」
「決めたのは私たちだもの」
「クラリスが悪いわけでも、カレンが悪いわけでもない」
「良樹が悪いわけでもない」
そこで一度、言葉を切る。
「でも」
リシアは、白と青の服を手に取った。
「最後まで待ったんだから」
「少しくらい、特別でもいいわよね」
カレンは、嬉しそうに頷いた。
「はい」
クラリスも、静かに頷く。
「もちろんです」
リシアは顔を赤くしながら、二人から視線を逸らした。
「……二人とも」
「変な顔で見送らないでよ」
「変な顔ではありません」
「応援している顔です」
「それが恥ずかしいのよ」
◇
リシアが一階へ降りると、良樹は作業場の机の前にいた。
手記は閉じられている。
紙も広げられていない。
腰袋は身につけているが、工具を出している様子はない。
それだけで、リシアは少しだけ安心した。
良樹は、リシアに気づいて顔を上げた。
そして、止まった。
ほんの一瞬。
だが、リシアには分かった。
見た。
良樹が、自分を見た。
リシアは、平静を装って腕を組む。
「……何よ」
「いや」
「言っておくけど、特別に着飾ったわけじゃないわ」
「水辺に行くから、動きやすい服にしただけ」
良樹は、一拍置いた。
「似合ってる」
リシアの耳が熱くなった。
「……そういうのは」
「もう少し、心の準備をしてから言いなさいよ」
「悪い」
「謝るところでもないわよ」
リシアは視線を逸らした。
胸の奥が、少しだけ跳ねている。
やめてほしい。
いや、やめてほしくない。
そういう面倒な気持ちが、朝からずっと胸の中を行ったり来たりしている。
「良樹」
「何だ」
「今日は、私の番でしょ」
「……ああ」
良樹の声も、少しだけ硬い。
リシアはそれを聞いて、少し安心した。
自分だけが落ち着いていないわけではない。
「出かけるわよ」
「ああ」
リシアは、そこで少しだけ息を吸った。
「婚約者として」
良樹が、また一瞬止まった。
リシアは、良樹を見た。
「何よ」
「いや」
「お前は、そういう言い方を逃げずにするんだな」
「逃げたら、最後まで待った意味がないでしょ」
「……そうか」
「そうよ」
言ってから、リシアの顔も熱くなる。
逃げずに言った。
言ったが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「だから」
リシアは、良樹の前に立った。
「今日は、私に付き合いなさい」
良樹は頷く。
「ああ」
「付き合う」
リシアは、少しだけ目を細めた。
「今度は、ちゃんと意味を分かって言ってるのよね?」
「……たぶん」
「そこは断言しなさい!」
「分かってる」
「今日は、お前と出かける」
「婚約者として?」
「婚約者として」
良樹は、少しだけ照れくさそうに言った。
リシアは、それで満足した。
満足したが、顔はさらに熱くなった。
「ならいいわ」
◇
二人は町を出た。
道中、特別なことはなかった。
少なくとも、外から見ればそうだった。
朝の町を抜ける。
露店の準備をしている店主たちが、ちらちらと二人を見る。
冒険者の何人かが、良樹とリシアを見て、にやつきかける。
リシアが一睨みすると、全員が視線を逸らした。
「何で逃げるのかしら」
「お前が睨むからだろ」
「睨んでないわ」
「睨んでる」
「見てるだけよ」
「見られた側がそう感じてねえ」
良樹がそう言うと、リシアは少しだけ口を尖らせた。
「だって、見てくるんだもの」
「そりゃ見るだろ」
「何でよ」
「婚約者になったばかりの男女が、二人で町を出る」
「しかもお前が普段と違う格好をしてる」
「見ない方が不自然だ」
リシアは、言葉に詰まった。
「……そういう分析を、本人の前でしないで」
「悪い」
「だから、すぐ謝らないで」
「難しいな」
「難しい女なのよ、私は」
良樹は、少しだけリシアを見た。
「知ってる」
「そこは否定しなさいよ」
「否定したら嘘になる」
「本当に、そういうところよ」
リシアは顔を逸らした。
けれど、歩幅は少しだけ良樹に近づいた。
手は繋がない。
繋がないが、離れもしない。
肩が触れるほど近くはない。
けれど、少し横を見れば、良樹がいる。
その距離が、今日は妙に心地よかった。
◇
川へ向かう道は、町から少し外れた場所にある。
森へ近づきすぎない。
けれど、川音は聞こえる。
人目も少ない。
最初に良樹が落ちてきた場所そのものではない。
だが、同じ川筋だった。
少し下流。
木々が開け、川面が見える場所。
水は穏やかで、岸辺には柔らかい草が生えている。
夕方になれば、光が水面に反射して綺麗だろう。
リシアはそこで足を止めた。
良樹も足を止める。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
川の音だけがあった。
「ここでいいのか」
良樹が聞いた。
「ええ」
「……近いな」
「覚えてる?」
「忘れられるわけねえだろ」
「異世界初日の事故現場だぞ」
リシアは、川面を見ながら言った。
「私にとっても、忘れられるわけないわよ」
「水浴び中に、男が空から落ちてきたんだから」
「悪かった」
「今は怒ってないわ」
良樹が少しだけ眉を寄せる。
リシアは、横目で良樹を見た。
「少しは、怒ってるけど」
「どっちだ」
「どっちもよ」
良樹は何も言い返せなかった。
リシアは、少しだけ笑った。
あの日は、本当に最悪だった。
知らない男が、空から落ちてきた。
川へ派手に突っ込んできた。
濡れた作業着のまま、まず腰袋を確認した。
自分を見た。
見たことを認めた。
謝った。
凍らせても、変なことを言った。
全部、覚えている。
「最悪だったわ」
リシアは言った。
「本当に、最悪」
「知らない男が空から落ちてきて」
「最初に腰袋を確認して」
「私を見て」
「見たって認めて」
「謝って」
「それで、凍らせても変なことを言って」
「変なことって何だ」
「止め方って大事だな、とか」
「大事だろ」
「ええ」
「そういうところよ」
良樹は、川面を見ていた。
「あの時は、本当に悪かった」
「事故だった」
「けど、見たのは事実だ」
「知ってる」
リシアの声は、静かだった。
「良樹は、最初から逃げ方が下手だったわ」
「逃げ方?」
「言い訳できるところで、しなかった」
「見えただけだとか、事故だから仕方ないとか」
「そう言って逃げられたのに」
「見たって認めた」
「悪いって謝った」
リシアは、足元の草を見た。
「たぶん」
「そこから、変だったのよ」
「変か」
「変よ」
リシアは、少しだけ笑った。
「でも、嫌いじゃなかった」
良樹は、すぐには答えなかった。
それが、リシアには嬉しかった。
茶化さない。
軽く流さない。
あの事故を、ただの笑い話にしない。
良樹は、そういう男だった。
「クラリスも、カレンも」
リシアは続けた。
「ちゃんと受け止められて帰ってきた」
「それは嬉しいわ」
「本当に」
「ああ」
「でも」
「でも?」
リシアは、良樹を見た。
「最初に出会ったのは、私なのよ」
良樹は、リシアを見返した。
「ああ」
「最初に怒ったのも」
「最初に凍らせたのも」
「最初に良樹の変なところを見たのも」
「たぶん、私」
「それは誇っていいのか」
「知らないわよ」
リシアは少しだけ口を尖らせた。
「でも、私なの」
良樹は、小さく頷いた。
「ああ」
「忘れてねえ」
リシアの胸の奥が、少しだけ緩んだ。
「なら、いいわ」
◇
川辺の光が、少しずつ傾いていく。
水面は、朝よりも柔らかい色を帯びていた。
風が吹くたびに、草が揺れる。
川の上を、細かな光が走る。
リシアは、杖を持っていなかった。
今日は戦いに来たわけではない。
作業に来たわけでもない。
検証に来たわけでもない。
それでも、魔法はリシアの中にある。
水。
風。
光。
リシアは手を上げた。
川面の水が、ほんの少しだけ浮き上がる。
細かな水滴になって、風に乗る。
そこへ、夕方の光が入る。
水滴が、薄い幕になった。
きらきらと光る。
強い光ではない。
眩しいわけでもない。
ただ、外から見ると、二人の姿がはっきり見えなくなる。
内側には、柔らかい光だけが残る。
良樹は、静かにその幕を見ていた。
「……綺麗だな」
リシアは、少しだけ胸を張った。
「そう?」
「私の魔法よ」
「ああ」
「お前の魔法だ」
その言い方に、リシアの胸がまた跳ねる。
リシアは、光の幕を見つめたまま言った。
「最初は、何も隠せなかったから」
「……悪い」
「謝るところだけど、今は最後まで聞きなさい」
「ああ」
「あの時は、何も隠せなかった」
「何も選べなかった」
「ただ、事故で」
「見られて」
「怒って」
「凍らせた」
リシアは、自分で張った光の幕を見た。
「だから今日は、私が隠すわ」
「外から見えないように」
「私と良樹だけが、ここにいるように」
良樹は何も言わなかった。
ただ、その幕の内側に立っていた。
逃げなかった。
それだけで、リシアの胸はまた強く鳴った。
「良樹」
「何だ」
リシアは、良樹の方を向いた。
強気に見せる。
いつものように立つ。
リシアらしく、真っ直ぐに。
そう思っていた。
けれど、思っていたよりずっと、胸がうるさい。
良樹が、少しだけ眉を寄せた。
「リシア」
「大丈夫か」
「大丈夫じゃないわよ」
答えは、ほとんど反射だった。
良樹が止まる。
リシアは、自分の胸に手を当てかけて、やめた。
違う。
自分で確かめても意味がない。
分かってほしいのは、良樹だ。
リシアは、良樹の手を取った。
良樹の指が、少しだけ強張る。
「リシア?」
「分かってほしいの」
「何を」
「私が」
「どれだけ平気じゃないか」
リシアは、良樹の手を導いた。
鎖骨の下。
胸元。
心臓に近い場所。
白い肌の上に、良樹の手が触れた。
触れた瞬間、リシアの肩が小さく震えた。
良樹が、慌てて手を引こうとする。
リシアは、その手を両手で押さえた。
「逃げないで」
一度、言葉が切れた。
強気なはずの声が、少し震えていた。
「お願い……」
良樹の手のひらに、リシアの鼓動が伝わる。
速い。
熱い。
隠しようがないほど、強く。
リシアは顔を赤くしていた。
恥ずかしい。
とても恥ずかしい。
自分でやっておいて、今すぐ川に沈みたいくらい恥ずかしい。
でも、逃げなかった。
「私がどれだけドキドキしてるか」
「分かってほしいの」
「リシア、でもこれは――」
「婚約者なんだから」
リシアの声が、また少し震えた。
「これくらいは、……いいでしょ?」
良樹は動けなかった。
動けば逃げになる。
動かなければ、触れている。
どちらも危険だった。
リシアには、それが分かった。
良樹が困っていることも。
良樹が自分を雑に扱う男ではないことも。
だからこそ、逃げようとしたことも。
全部、分かる。
分かるから、リシアは手を離さなかった。
「お嫁さんになれたら」
そこで一度、言葉が止まった。
自分で言った言葉に、顔がさらに熱くなる。
それでも、リシアは目を逸らさなかった。
「ちゃんと触らせてあげるから」
良樹の目が、わずかに揺れた。
リシアも、自分の言葉で限界に近かった。
けれど、ここで逃げたら、最後まで待った意味がない。
「今は、これで我慢」
そして、少しだけ拗ねたように。
「ね?」
良樹の手のひらに、鼓動が伝わり続けている。
速い。
強い。
震えている。
強がりなど、少しも残っていない鼓動だった。
良樹は、リシアを見ていた。
目の前の女は、逃げていなかった。
恥ずかしさで震えながら。
顔を赤くしながら。
それでも、自分の鼓動を良樹へ渡していた。
良樹の中で、短い声が鳴った。
――この女から、逃げるな。
良樹は、手を引かなかった。
ただし、押さない。
握らない。
求めない。
そこにある鼓動を、ただ受け止めた。
「……速いな」
良樹が言った。
リシアは、少しだけ唇を噛んだ。
「そうよ」
「ずっと、こうだったの」
「ずっと?」
「クラリスが帰ってきた時も」
「カレンが帰ってきた時も」
「今日、服を選んでる時も」
「良樹に、婚約者として出かけるって言った時も」
「この川に来た時も」
リシアは、良樹の手を押さえたまま言った。
「ずっと、こうだったのよ」
「……そうか」
「平気なわけ、ないじゃない」
良樹は、少しだけ目を伏せた。
「悪い」
「謝らないで」
リシアは首を振った。
「今は、謝ってほしいんじゃないの」
光の幕が揺れる。
川面の音が、少し遠くなる。
リシアは、良樹の手を少しだけ離した。
けれど、完全には離さない。
指先だけ、良樹の手に残る。
「良樹」
「……何だ」
リシアは、真正面から良樹を見た。
最初に出会った男。
最悪の事故で落ちてきた男。
見たことを認めた男。
謝った男。
凍らせても、変なことを言った男。
魔力回路を読んだ男。
自分の風を必要だと言った男。
自分の魔法を、自分の魔法として使えと言った男。
三人を飾りにしなかった男。
英雄になると決めた男。
そして、今、自分の鼓動から逃げなかった男。
リシアは、小さく息を吸った。
「好きよ」
その言葉は、思っていたより静かに出た。
叫ぶ必要はなかった。
飾る必要もなかった。
水と風と光の幕の中で。
良樹の目の前で。
ただ、そのまま言えばよかった。
良樹は、逃げなかった。
「リシア」
名前を呼ばれる。
それだけで、胸がまた鳴る。
良樹は、少しだけ身をかがめた。
リシアは背伸びをした。
二人の距離が近づく。
水滴の幕が、光を細かく砕いた。
外からは見えない。
内側には、夕方の光だけが残っている。
リシアは目を閉じた。
良樹の手が、今度は胸元ではなく、肩に触れる。
支えるように。
逃げないように。
それでも、押しすぎないように。
唇が触れた。
静かなキスだった。
川の音がする。
風の音がする。
光の幕が揺れる。
リシアは、良樹の服を指先で掴んだ。
逃げないで。
そう言わなくても、良樹は逃げなかった。
◇
キスの後、リシアはしばらく良樹の胸元に額を寄せていた。
自分から踏み込んだ。
自分から言った。
自分から触れさせた。
自分から、好きだと言った。
なのに、終わった後で足に力が入りにくい。
ずるい。
何がずるいのか分からないが、ずるい。
リシアは、良樹の胸元から少しだけ顔を離した。
「……最後でよかったかもしれないわ」
良樹が聞き返す。
「そうなのか」
「ええ」
「待った分、少しだけ欲張れたから」
「欲張りだったか」
「欲張りだったでしょ」
「まあ」
「そこは否定しなさいよ」
「否定したら嘘になる」
リシアは、少しだけ良樹を睨んだ。
睨んだつもりだった。
けれど、顔が赤いので、たぶんあまり迫力はなかった。
「……でも」
リシアは、視線を逸らした。
「もっと早くしてほしかった気持ちも、ちゃんとあるんだから」
「難しいな」
「難しい女なのよ、私は」
「知ってる」
「そこは否定しなさいよ」
「さっきも言ったが、否定したら嘘になる」
「本当に、そういうところよ」
リシアは、今度こそ少し笑った。
良樹も、ほんの少しだけ笑う。
それで十分だった。
リシアは、自分で張ったライトカーテンを見た。
水と風と光の幕。
最初は、何も隠せなかった。
でも今日は、自分で隠した。
自分で選んだ。
自分で、良樹をここへ連れてきた。
あの事故を、なかったことにはしない。
やり直すわけでもない。
ただ、続きにする。
「良樹」
「何だ」
「あの時、落ちてきたのが良樹でよかったわ」
良樹は、少し困ったような顔をした。
「それは、さすがに美化しすぎじゃねえか」
「そうね」
「やっぱり最悪だったわ」
「だろうな」
「でも」
リシアは、良樹を見る。
「今は、良樹でよかったと思ってる」
良樹は、今度は茶化さなかった。
「ああ」
短い返事だった。
それでよかった。
◇
帰り道、リシアはいつもより少し静かだった。
良樹も、あまり喋らなかった。
ただ、二人の距離は行きより少し近かった。
最初は、指先が触れただけだった。
川辺から拠点までの短い道のり。
草の匂い。
水の音が、少しずつ遠くなる。
リシアの指先が、良樹の指に触れた。
良樹の指も、逃げなかった。
どちらからともなく、手が重なった。
握る、というほど強くはない。
引く、というほど弱くもない。
ただ、二人で歩くには、それで十分だった。
リシアは、手元を見なかった。
良樹も、何も言わなかった。
言えば、たぶん恥ずかしくなる。
だから言わない。
けれど、繋いだ手だけは離さなかった。
拠点までの短い道のりを、二人はそのまま歩いて帰った。
◇
拠点へ戻ると、リシアはまっすぐ二階へ向かった。
三人部屋の扉を開ける。
カレンとクラリスが待っていた。
待っていたというより、完全に待機していた。
カレンは胸元で両手を握っている。
クラリスは静かに微笑んでいる。
ただし二人とも、目が真剣だった。
「リシア」
カレンが言った。
「何よ」
「良樹さんは、逃げませんでしたか」
リシアは、顔が熱くなるのを感じた。
それでも、強気に見せようとして腕を組む。
「……逃げなかったわ」
クラリスが続ける。
「嫌がりませんでしたか」
「嫌がらなかったわよ」
カレンの表情が、ふわりと緩んだ。
クラリスも、柔らかく微笑む。
「よかったです」
「本当に」
リシアは、二人を見た。
「二人して、何よ」
「嬉しいんです」
カレンが言った。
「三人とも、ちゃんと……」
そこで言葉が止まった。
クラリスが静かに続ける。
「良樹くんに、受け止められましたね」
リシアは、何も言えなかった。
クラリスは、逃げませんでした、と言った。
カレンは、ちゃんと見てくれました、と言った。
リシアは、逃げなかった、と言った。
三人とも、それぞれの形で、良樹に受け止められた。
候補ではない。
婚約者。
その言葉が、今さらのように胸に落ちる。
リシアは、小さく息を吐いた。
「……私たち」
「本当に、婚約者なのね」
カレンの目が潤んだ。
「はい」
クラリスも頷く。
「はい」
リシアは、二人に近づいた。
最初にカレンが抱きついた。
次にクラリスが、二人ごと包むように抱きしめた。
リシアも、二人を抱き返した。
婚約者になった日のような大騒ぎではなかった。
叫ばない。
飛び跳ねない。
良樹に聞こえるほど騒がない。
ただ、三人で静かに抱き合った。
嬉しかった。
ちゃんと、嬉しかった。
◇
一階。
良樹は作業場の机の前に座っていた。
手記はまだ開いていない。
紙も、必要最低限だけ。
良樹は、筆を取った。
第一回。
クラリス。
第二回。
カレン。
怖い時ほど、顔を見ること。
その下に、少し間を空ける。
良樹は、しばらく筆を止めた。
川。
光の幕。
リシアの鼓動。
逃げないで。
お願い。
あの声が、まだ手のひらに残っている気がした。
良樹は、ゆっくりと書いた。
第三回。
リシア。
最初の場所から、逃げないこと。
書いてから、良樹は筆を置いた。
最初は事故だった。
だが、事故で終わらなかった。
あの川から、続いている。
リシアがそうしてくれた。
良樹は、二階から聞こえる小さな声に耳を澄ませた。
何を話しているかまでは分からない。
けれど、三人が一緒にいることだけは分かった。
良樹は、小さく息を吐いた。
「……逃げてる場合じゃねえな」
机の上には、藤田の手記がある。
これから読むべきものがある。
進むべき道がある。
英雄候補。
婚約者。
三人を妻にするための道。
良樹は、もう一度、自分の記録を見た。
第三回。
リシア。
最初の場所から、逃げないこと。
それは、今日の記録であり。
これからの工程表でもあった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
三人それぞれの個別回、三話目。
最後はリシアの番でした。
強がりで、面倒見がよくて、いつも良樹に振り回されながら、それでも隣に立とうとする魔法使い。
クラリスの番を見届けて。
カレンの番を見届けて。
最後に自分の番が来たリシアが、良樹から逃げず、良樹にも逃げさせず、ちゃんと向き合いました。
普段は強気で、つい言い返してしまうリシアですが、好きな相手の前では当然ドキドキもします。
それでも、最後の番を待っていた女の子として、良樹に一歩踏み込みました。
そんなリシアを少しでも可愛いと思っていただけましたら、ぜひ応援していただけると嬉しいです。
本来、毎話続けて評価やブックマークをお願いするのは控えめにしたいところなのですが、この三話だけは、三人それぞれへの応援も兼ねて、続けてお願いさせていただきました。
クラリスを応援したい。
カレンも頑張った。
リシアも、ちゃんと見届けた。
そう思っていただけましたら、評価やブックマークで背中を押していただけると励みになります。
三人それぞれの個別回は、これで一区切りです。
次回は、三人がそれぞれの番を終えたあとの話になります。
良樹と三人の関係が、ここからどう進んでいくのか。
引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。
よろしくお願いします。




