第59話 カレン(挿絵有)
翌朝。
カレンは、鏡の前で固まっていた。
いつもの黒ではない。
今日、カレンが選んだのは、白いミニスカートだった。
膝より上。
動きやすい。
走れる。
足も上がる。
剣も抜ける。
そういう意味では、いつもの服と大きく違うわけではない。
けれど、色が違った。
白。
いつもの黒よりも、ずっと目立つ。
戦うための服というより、見てもらうための服に近い。
カレンは、指先で裾をそっとつまんだ。
「……短い、です」
分かっていた。
分かっていて、選んだ。
ニーハイは、いつも通り。
お気に入りの水色。
そこだけは、変えなかった。
足元まで全部変えてしまうと、自分ではなくなってしまうような気がした。
淡い色のブラウスを着て、胸元を何度も直す。
派手ではない。
けれど、いつもの戦闘用の服より、ずっと柔らかい。
髪型は、いつものまま。
変えすぎる勇気は、なかった。
けれど。
髪には、以前、良樹に買ってもらった髪留めをつけた。
カレンは、指先でそれに触れる。
良樹さんと、買ったもの。
それを、今日、つけていく。
「……見て、くれるでしょうか」
見てほしい。
けれど、見られるのは怖い。
怖い。
恥ずかしい。
逃げたい。
でも、逃げたくない。
カレンは、鏡の中の自分を見つめた。
白いミニスカート。
水色のニーハイ。
淡いブラウス。
いつもの髪。
良樹に買ってもらった髪留め。
そして、腰にはいつもの剣。
女の子として見てほしい。
でも、怖い時に動けない自分にはなりたくない。
その両方を、今日の服に入れた。
「……大丈夫」
小さく呟く。
「逃げません」
言ってから、カレンはまた顔を赤くした。
誰に向けた言葉なのか、自分でも分かっていたからだ。
◇
「カレン」
背後から声がした。
クラリスだった。
いつもの白い法衣。
いつもの穏やかな微笑み。
けれど、昨日とは少し違う。
昨日、クラリスは自分の番を終えた。
良樹と出かけて。
良樹に見てもらって。
良樹に逃げられなかった。
そして、帰ってきて、言った。
良樹くんは、逃げませんでした。
そして、嫌がりませんでした。
その言葉が、カレンの胸の中で、まだずっと鳴っている。
「……はい」
カレンは振り返った。
クラリスは、カレンの服を上から下まで見た。
その視線は穏やかだった。
評価するようでも、茶化すようでもない。
ただ、カレンが今日のために選んだものを、ちゃんと見ている目だった。
「よく似合っています」
「……っ」
「あ、ありがとうございます」
カレンは、胸元で両手を握った。
そこへ、リシアが入ってくる。
リシアはカレンを見て、一瞬だけ目を丸くした。
「……白」
「は、はい」
「いつもの黒じゃないのね」
「はい」
「良樹に見せるため?」
カレンの顔が、一気に赤くなった。
「そ、そういう言い方は……!」
「違うの?」
「……違いません」
小さな声だった。
リシアは、少しだけ目を細めた。
からかう顔ではなかった。
「そっか」
そう言って、リシアはカレンの前に立つ。
「逃げる?」
カレンの肩が、ぴくりと揺れた。
けれど、答えは決まっていた。
「逃げません」
声は震えていた。
それでも、言った。
リシアは頷く。
「なら、いいわ」
クラリスも、静かに微笑んだ。
「大丈夫です」
「良樹くんは、逃げませんでした」
「そして、嫌がりませんでした」
カレンは、髪留めに触れた。
「……はい」
「それに」
クラリスは続けた。
「カレンは、怖いままでいいと思います」
「怖いまま、ですか」
「はい」
「良樹くんは、カレンの怖さを見落としません」
リシアも頷いた。
「あんたは、怖い場所を見る子でしょ」
「だったら、自分の怖さも、見ないふりしなくていいわ」
カレンは、二人を見た。
胸の奥が熱くなる。
怖い。
けれど、逃げたくない。
「……はい」
カレンは、もう一度、鏡の中の自分を見た。
そして、部屋の扉へ向かった。
◇
良樹は、一階の作業場にいた。
机の上には、藤田から渡された手記がある。
布に包まれたまま。
まだ開かれていない。
良樹はその前で腕を組み、何かを考えていた。
たぶん、読みたいのを我慢している。
カレンは、階段の途中で足を止めた。
良樹の背中を見る。
いつもの背中。
工具。
腰袋。
少し猫背気味に机を見る姿勢。
その背中に、自分から声をかける。
それだけなのに、胸がうるさい。
「あ、あの」
声が出た。
小さい。
けれど、届いた。
良樹が振り返る。
「カレン?」
その瞬間、良樹の動きが止まった。
視線が、カレンを見る。
淡いブラウス。
白いミニスカート。
水色のニーハイ。
腰の剣。
いつもの髪。
そして、髪留め。
良樹は、一瞬だけ何かを言いかけた。
だが、言葉が出なかった。
カレンは、両手を胸元で握った。
「きょ、今日」
「その」
言葉が詰まる。
リシアとクラリスが、二階の廊下から見ている気配がした。
見ている。
たぶん、ものすごく見ている。
でも、今は逃げない。
「私と」
「出かけて、くれませんか」
良樹は、黙って聞いていた。
カレンは、息を吸う。
「婚約者として……です」
良樹の喉が、わずかに動いた。
「……ああ」
短い返事だった。
「行くか」
カレンは、目を丸くした。
「い、いいんですか」
「お前の番なんだろ」
「……はい」
「なら、行こう」
良樹は机の上の手記を見た。
ほんの一瞬だけ。
それから、手を伸ばさず、腰袋だけを軽く確かめる。
そしてカレンの方へ歩いてきた。
良樹は逃げなかった。
その事実だけで、カレンの胸の奥が少しだけ軽くなった。
◇
町へ出ると、朝の空気がまだ少し冷たかった。
露店が開き始めている。
荷車が通る。
水を撒く音。
焼いたパンの匂い。
誰かの笑い声。
カレンは、良樹の横を歩いた。
手は、繋いでいない。
前に、手を繋いだことはある。
その時のことを思い出すだけで、まだ胸が熱くなる。
けれど、今日は違う。
カレンの手には、別の役目があった。
風が吹く。
人がすれ違う。
荷車が横を抜ける。
段差を越える。
そのたびに、カレンは白いスカートの裾をそっと押さえた。
強くではない。
不自然にならないように。
でも、ちゃんと見えないように。
良樹さん以外には、見せない。
良樹に、そう言われたから。
だから、守る。
カレンは真面目に、健気に、その約束を守っていた。
良樹は、最初、それを短いスカートを気にしているのだと思っていた。
「歩きにくいか」
「えっ」
「その服」
カレンの肩が跳ねる。
「だ、大丈夫です」
「走れます」
「足も上がります」
「剣も抜けます」
「そういう確認をしてきたのか」
「はい」
良樹は、少しだけ口元を緩めた。
「カレンらしいな」
その一言だけで、カレンの顔が熱くなる。
「……はい」
少し歩く。
カレンは、やはり周囲を見てしまう。
人通り。
路地。
荷車の車輪。
店の入口。
段差。
良樹の立ち位置。
剣を抜ける距離。
逃げ道。
せっかくのデートなのに。
また、見てしまう。
「す、すみません」
カレンは、小さく言った。
良樹が横を見る。
「何がだ」
「私、今も周りを見ています」
「もっと、普通に歩いた方がいいのに」
「謝ることじゃねえ」
良樹はすぐに言った。
「助かってる」
「……助かってる、ですか」
「ああ」
「俺は見落とす時がある」
「お前が怖い場所を見てくれるから、助かってる」
カレンは、言葉を失った。
怖い場所を見ること。
怖がること。
迷うこと。
それを、良樹はまた責めなかった。
むしろ、必要だと言った。
「……はい」
カレンは、小さく頷いた。
「ちゃんと、見ます」
「頼む」
良樹は、そう言ってから、ふとカレンの髪に目を止めた。
「その髪留め」
カレンの呼吸が止まりかけた。
「前に買ったやつか」
「は、はい」
「良樹さんと、買ったものです」
「そうか」
「大事にしてくれてたんだな」
カレンの顔が、熱くなる。
良樹は、少しだけ目を細めた。
「似合ってる」
「……っ」
カレンは、胸元で両手を握った。
握ってから、すぐに慌てて片手をスカートへ戻す。
風が吹いていた。
良樹が、それを見て少し首を傾げた。
けれど、まだ何も言わなかった。
◇
二人は、軽い食事をとることにした。
露店で焼いたパンと、小さな肉の串。
それから、甘い果実を煮たものを薄い生地で包んだ菓子。
カレンは、良樹と並んで座った。
普通の恋人のように。
その言葉が、胸の奥でふわりと浮かぶ。
ニルが言っていた。
彼女とのデート代。
彼女と飯を食うためなら。
あの時、カレンは少し羨ましかった。
普通に街を歩いて。
食事をして。
何でもない話をして。
今、自分はそれをしている。
良樹と。
婚約者として。
「カレン」
「は、はい」
「口についてる」
「えっ」
カレンが慌てる前に、良樹は指で自分の口元を示した。
「こっち」
「あ、ありがとうございます」
カレンは布で口元を押さえた。
良樹は菓子を見て、少し考え込んでいた。
「良樹さん」
「何だ」
「今、お菓子ではなく、屋台の作りを見ていましたか」
良樹の動きが止まる。
「……少し」
カレンは、小さく笑った。
「良樹さんらしいです」
「悪い」
「いえ」
「私も、入口と逃げ道を見ていました」
良樹は、カレンを見た。
それから、少しだけ笑う。
「カレンらしいな」
「……はい」
それだけでよかった。
普通の恋人と同じではないのかもしれない。
でも、自分たちらしい。
カレンは、そう思った。
◇
しばらく歩いた後、二人は人通りの少ない水路沿いへ出た。
町の端に近い、小さな道だった。
低い石造りの柵。
ゆっくり流れる水。
夕方にはまだ少し早い光。
遠くから、町の声だけが薄く届く。
人影は少ない。
カレンは、そこでようやく手を下ろした。
白いスカートの裾から、指が離れる。
良樹は、それを見た。
「……カレン」
「はい」
「さっきまで、ずっと裾を押さえてたな」
カレンの肩が、ぴくりと揺れた。
「は、はい」
「歩きにくかったんじゃないのか」
「いえ」
「その……」
カレンは、少しだけ視線を落とした。
「良樹さんに、言われたので」
「俺に?」
「はい」
カレンは、白いスカートの裾を指先でつまむ。
「良樹さん以外に、見せるなって」
良樹の思考が止まった。
言った。
言った気がする。
いや、言った。
高台だったか。
風だったか。
何かの事故の後だったか。
とにかく、言った。
俺以外に見せるな。
そしてカレンは、それを守っていた。
街中では、良樹以外に見せないために押さえる。
二人きりになったら、押さえない。
真面目に。
健気に。
とんでもない解釈で。
「……それを、守ってたのか」
「はい」
「街中で、ずっと?」
「はい」
「俺の前では、押さえないのか」
カレンの顔が、一気に赤くなった。
「……良樹さん、なので」
良樹は、片手で顔を覆った。
「俺は」
「何てことを言ったんだ」
「えっ」
「わ、悪かったですか」
「悪くねえ」
「悪くねえから困ってる」
「……困りますか」
「困る」
良樹は、視線を逸らしたまま言った。
「俺のために言う」
「少し押さえてくれ」
カレンの指が、白いスカートの裾に触れた。
けれど。
そこで、止まった。
「で、でも」
声が震えていた。
怖い。
恥ずかしい。
言わなければよかったと、もう半分思っている。
それでも、カレンは顔を上げた。
「もう、婚約者なので!」
良樹の動きが止まった。
カレンは、真っ赤な顔のまま続けた。
「良樹さんには」
「堂々と、見てもらいたいです!」
言い切った。
言い切ってから。
カレンの顔が、さらに赤くなった。
「……あ」
自分が何を言ったのか。
今さら、全部理解した顔だった。
「ち、違……」
「違わなくは、ないんですけど」
「その、違います……!」
「どっちだ」
「分かりません……!」
良樹は、しばらく何も言えなかった。
白いミニスカート。
水色のニーハイ。
淡い色のブラウス。
いつもの髪。
良樹が買った髪留め。
そして、震えながらも、逃げずにこちらを見るカレン。
良樹は、深く息を吐いた。
「カレン」
「はい……」
「お前は」
「怖がりのくせに、たまに一番強いな」
「つ、強いですか」
「ああ」
「かなり強い」
カレンは、裾を押さえようとしていた手を、胸元の前でぎゅっと握った。
「でも」
「怖いです」
「知ってる」
「恥ずかしいです」
「それも、見れば分かる」
「でも」
「逃げたくないです」
良樹は、カレンから目を逸らさなかった。
「……それも、分かる」
カレンの目が揺れた。
見てほしかった。
でも、見られるのは怖かった。
褒めてほしかった。
でも、褒められたら、胸の奥が持たなかった。
良樹は、見ないふりをしなかった。
茶化しもしなかった。
逃げもしなかった。
「分かった」
良樹は言った。
「見ないふりはしねえ」
「……はい」
「でも」
「雑には見ねえ」
「雑、ですか」
「ああ」
「お前が勇気出して選んだ服だ」
「ちゃんと見る」
「それで、ちゃんと似合ってるって言う」
カレンの目が、大きく揺れた。
「……似合って、ますか」
「ああ」
「似合ってる」
胸の奥が、ぎゅっと詰まった。
カレンは、何度も頷こうとして、うまくできなかった。
「……ありがとうございます」
声が震える。
けれど、逃げなかった。
◇
水路沿いの風は、少しだけ冷たかった。
カレンは、良樹の前に立っていた。
言いたいことがある。
でも、言えない。
クラリスは言えた。
キス、して。
ください。
そう言えた。
カレンには、言えない。
口に出そうとすると、胸が詰まる。
嫌がられたらどうしようと思う。
困らせたらどうしようと思う。
自分だけ舞い上がっていたらどうしようと思う。
でも、逃げたくない。
「良樹さん」
「何だ」
「その……」
言葉が止まる。
良樹は待った。
急かさなかった。
カレンは、もう一度口を開く。
「私……」
また止まる。
怖い。
恥ずかしい。
でも、逃げたくない。
カレンは、小さく息を吸った。
そして。
言葉の代わりに、目を閉じた。
少しだけ顎を上げる。
胸の前で握っていた手が、震える。
怖い。
でも、逃げない。
良樹は、その意味を理解した。
理解してしまった。
ここで聞き返してはいけない。
ここで茶化してはいけない。
ここで気づかないふりをしてはいけない。
女に恥をかかせるな。
そんな声が、胸の奥で短く鳴った。
良樹は、ゆっくり手を伸ばした。
カレンの頬に触れる。
カレンの肩が、小さく跳ねた。
「カレン」
「はい」
反射だった。
カレンは、返事をして目を開けてしまった。
良樹と目が合う。
カレンの顔が、一瞬で真っ赤になる。
「あっ」
「す、すみません」
良樹は、困ったように笑った。
「もう一度、目ぇ閉じてろ」
カレンは、泣きそうな顔で、それでも少しだけ安心したように頷いた。
「……はい」
今度は、目を閉じた。
良樹の手が、頬にある。
あたたかい。
逃げられない。
でも、逃げたくない。
良樹が近づく気配がした。
カレンは、息を止めた。
唇が触れた。
短い。
けれど、確かだった。
怖さが、消えたわけではない。
恥ずかしさも、消えない。
ただ、それでも。
良樹は、逃げなかった。
嫌がらなかった。
カレンの願いを、見落とさなかった。
◇
唇が離れたあと、カレンは固まっていた。
目は開いている。
けれど、何も見えていないような顔だった。
良樹も、少し赤い。
水路の音だけが、二人の間に流れていた。
「カレン」
「……はい」
「お前は一番分かりやすいんだよ」
カレンが、ゆっくり良樹を見る。
「……私、そんなに分かりやすいですか」
「ああ」
良樹は頷いた。
「怖い時も」
「我慢してる時も」
「逃げたくない時も」
「顔に出る」
カレンは、少しだけ目を伏せた。
「す、すみません」
「謝るな」
「だから助かってる」
「助かってる……」
「ああ」
「見落とさずに済む」
カレンの胸の奥が、また熱くなる。
怖いこと。
顔に出ること。
震えること。
迷うこと。
全部、隠した方がいいと思っていた。
強くならなければいけないと思っていた。
怖くない顔をしなければいけないと思っていた。
でも、良樹は違うと言った。
見落とさずに済む。
そう言った。
「……良樹さん」
「何だ」
カレンは、一歩近づいた。
そして、良樹の胸に頭を押し付けるように抱きついた。
顔は見せられない。
でも、逃げない。
胸に押し付けたまま、カレンは震える声で言った。
「……大、好きです」
良樹の身体が、止まった。
水路の音が遠くなる。
良樹は、ゆっくりと息を吐いた。
そして、カレンの背に手を回した。
強くはない。
逃げ道を塞ぐほどではない。
けれど、ちゃんと受け止める手だった。
「……ああ」
良樹は低く言った。
「見落とさねえよ」
カレンは、良樹の胸に額を押し付けたまま、小さく頷いた。
◇
拠点へ戻る頃には、カレンの顔はまだ赤かった。
良樹も、少しだけ目を逸らしがちだった。
二階へ上がると、リシアとクラリスが待っていた。
待っていた。
ものすごく待っていた。
リシアは腕を組んでいる。
クラリスは穏やかに微笑んでいる。
だが、二人とも目が真剣だった。
「おかえり」
リシアが言った。
「た、ただいま戻りました」
カレンは、少しだけうつむく。
クラリスが、すぐにカレンの顔を見た。
それだけで分かったように微笑む。
「行ってきましたね」
カレンの顔がさらに赤くなる。
「……はい」
リシアが、少しだけ身を乗り出した。
「良樹は」
そこで言葉を切る。
カレンは、リシアを見る。
クラリスが昨日、自分に渡してくれた言葉。
それを、今度は自分が持って帰ってきた。
「良樹さんは」
「逃げませんでした」
クラリスの目が、柔らかくなる。
カレンは続けた。
「嫌がりませんでした」
リシアの表情が、少しだけ揺れる。
次は自分。
それを理解した顔だった。
カレンは、胸元で両手を握った。
「それと」
二人がカレンを見る。
カレンは、まだ赤い顔のまま、けれど逃げずに言った。
「良樹さんは」
「ちゃんと、見てくれました」
リシアは、息を呑んだ。
クラリスは、静かに微笑んだ。
「よかったですね」
「……はい」
カレンは、小さく頷いた。
良樹は一階に逃げていた。
いや、逃げたというより、記録に戻ったのかもしれない。
◇
一階。
良樹は、作業場の机の前に座っていた。
紙を開く。
筆を取る。
しばらく、何も書けなかった。
書くべきことは山ほどある。
服装。
髪留め。
街中での裾押さえ。
良樹以外に見せないという解釈。
婚約者だから堂々と見てもらいたいという発言。
目を閉じたカレン。
反射で返事をして目を開けたカレン。
もう一度、目を閉じたカレン。
書けるわけがない。
書いてたまるか。
良樹は、しばらく筆を持ったまま固まった。
そして、紙に短く書いた。
第二回。
カレン。
そこで一度止まる。
もう一行だけ、書いた。
怖い時ほど、顔を見ること。
良樹は筆を置いた。
二階から、かすかな声が聞こえる。
リシアの声。
カレンの声。
クラリスの声。
次は、リシア。
良樹は、天井を見上げた。
「……心肺機能保護って」
小さく呟く。
「本当に何だったんだよ」
◇
二階。
リシアは、椅子に座ったまま黙っていた。
クラリスは、そんなリシアを見て穏やかに言う。
「リシア」
「何よ」
「最後です」
「分かってるわよ」
リシアは、少しだけ頬を赤くした。
カレンが、そっと言う。
「リシアなら、大丈夫です」
「……そう?」
「はい」
「良樹さんは、逃げません」
クラリスも続けた。
「そして、嫌がりません」
リシアの顔が、一気に赤くなる。
「二人して言わないで」
けれど、その声は怒っていなかった。
少し震えていた。
少し拗ねていた。
そして、少しだけ嬉しそうだった。
リシアは、窓の外を見る。
町の向こう。
遠くの空。
そのさらに先に、川がある。
最初に出会った場所。
最悪の事故から始まった場所。
リシアは、小さく息を吐いた。
「……次は、私ね」
誰も茶化さなかった。
カレンも、クラリスも、静かに頷いた。
婚約者デート、最後の番。
リシアの番が、来る。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
三人それぞれの個別回、二話目。
今回はカレンの番でした。
怖がりで、おどおどしていて、でも危ない場所を見る目は誰より鋭い。
そんなカレンが、今回はいつもの黒ではなく白を選び、良樹の前で逃げずに立ちました。
怖い。
恥ずかしい。
でも、逃げたくない。
そんなカレンを少しでも可愛いと思っていただけましたら、ぜひ応援していただけると嬉しいです。
本来、毎話続けて評価やブックマークをお願いするのは控えめにしたいところなのですが、この三話だけは、三人それぞれへの応援も兼ねて、続けてお願いさせてください。
クラリスを応援したい。
カレンも頑張った。
リシアの番も見届けたい。
そう思っていただけましたら、評価やブックマークで背中を押していただけると励みになります。
次回はリシアの番です。
最後の番を待っていたリシアが、良樹とどう向き合うのか。
引き続きお付き合いいただけましたら嬉しいです。
よろしくお願いします。




