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第58話 クラリス(挿絵有)

 翌朝。


 三人部屋の中で、クラリスは衣装箱の前に座っていた。


 箱の中には、いつもの法衣が畳まれている。

 予備の法衣。

 動きやすく整えた外出用の服。

 以前、良樹と街を歩くために買った、少しボーイッシュな私服。


 そして、その下に。


 一着の白いワンピースがあった。


 クラリスは、それを両手で持ち上げた。


 柔らかな白。

 派手ではない。

 装飾も多くはない。

 けれど、襟元と袖口には少しだけ可愛らしい縁取りがあり、腰の辺りは細く、裾は歩くとふわりと揺れる形になっている。


 法衣ではない。


 僧侶として着る服ではない。

 治療役として動く服でもない。

 戦闘時に、袖や裾を気にせず動ける服でもない。


 ただ、女の子として着る服だった。


「それ、着るのね」


 背後からリシアの声がした。


 クラリスは振り返った。


 リシアは寝台に腰掛け、クラリスの手元を見ている。

 隣では、カレンが胸元で両手を握っていた。


「……うん」


 クラリスは、少しだけ頷いた。


 自分の返事に、自分で少しだけ驚く。


 いつもなら、はい、と答えていた。


 けれど今日は、少し違う言葉を使いたかった。


「着ます」


 言ってから、少しだけいつもの自分が戻った。


 リシアはそれを見て、ふっと笑った。


「似合うわよ」


 カレンも、真剣な顔で頷く。


「はい」

「クラリス、とても似合います」


「……ありがとう」


 クラリスは、白いワンピースを膝の上に置いた。


 この服は、以前リシアとカレンに服を選んでもらった時に買ったものだった。


 あの時、クラリスは動きやすい服を選んだ。


 法衣ではない。

 けれど、歩きやすく、良樹と街を歩いても落ち着ける服。

 少しだけ少年のようで、けれど女の子らしさも残った服。


 それで終わるはずだった。


 少なくとも、クラリスはそう思っていた。


 しかし、リシアとカレンは終わらせなかった。


 リシアが差し出したのが、この白いワンピースだった。


 ――これも着てみなさい。


 そう言われた時、クラリスは本気で迷った。


 可愛すぎる。

 自分には少し、可愛すぎる。

 そう思った。


 けれどリシアは、だからいいのよ、と言った。


 カレンは、クラリスにとても似合うと思います、と言った。


 結局、買った。


 だが、あの日は着なかった。


 着られなかった。


 まだ、その服で良樹の前に立つ勇気がなかった。


 確認期間中のデートだった。

 良樹に見てもらいたかった。

 けれど、そこまで女の子として見られたいと示すには、少し怖かった。


 だから、しまっていた。


 今日まで。


「クラリス」


 リシアが呼んだ。


「はい」


「今日は、クラリスの番よ」


 その言葉に、クラリスの指先が少しだけ震えた。


 昨日の夜。

 婚約者会議。

 抜け駆け禁止。

 良樹を追い詰めない。

 良樹を壊さない。

 三人の誰かを泣かせる勝ち方はしない。

 本番はまだ駄目。

 けれど、婚約者として自然な接触は一部解禁。

 キスまでは可。


 そして。


 順番。


 クラリス。

 カレン。

 リシア。


 初回の個別時間も。

 初回のキスも。


 クラリスが一番になった。


 それを思い出すだけで、耳が熱くなる。


「……うん」


 クラリスは、白いワンピースを抱きしめるように持った。


「行ってきます」


 カレンが少しだけ身を乗り出した。


「クラリス」


「うん」


「良樹さんは、きっと……その、とても驚くと思います」


「そう、かな」


「はい」

「とても」


 カレンは真剣だった。


 その真剣さが、少しだけ可笑しくて、少しだけ心強かった。


 リシアも頷く。


「あんた、今日は法衣じゃないんだから」

「ちゃんと見てもらいなさい」


「……うん」


 クラリスは小さく頷いた。


 そして、白いワンピースを持って衝立の向こうへ入った。


   ◇


 着替え終えたクラリスは、鏡の前に立った。


 白いワンピース。

 いつもより柔らかく見える肩。

 細い袖。

 歩くたびに揺れそうな裾。


 髪は、いつものようにすべて下ろさなかった。


 横の髪を少しだけ後ろに流し、バレッタで留める。

 完全にまとめ上げるのではない。

 けれど、いつもより首筋が見える。


 清楚。


 その言葉は、自分でも浮かんだ。


 けれど、いつもの清楚とは違った。


 僧侶としての清楚ではない。

 人を安心させるための清楚でもない。

 治療役として整えるための清楚でもない。


 好きな男に、可愛いと思われたい女の子の清楚。


 そう考えた瞬間、クラリスは顔を赤くした。


「……」


 鏡の中の自分が、少し頼りなく見える。


 いつもの自分なら、ここで姿勢を整える。

 呼吸を整える。

 表情を整える。

 いつも通りに微笑む。


 だが今日は、それだけでは駄目な気がした。


 今日は、良樹くんの婚約者として出かける日。


 クラリスは、鏡の中の自分を見つめた。


 普通の女の子。


 その言葉が、胸の奥にある。


 クラリスにとって、普通の女の子とは、遠い誰かのことではなかった。


 リシアのことだった。


 良樹の隣で怒り、呆れ、拗ね、それでも一番近い場所に立とうとする女の子。


 カレンのことだった。


 怖がりながらも、良樹の言葉を信じて、一歩前へ出ようとする女の子。


 クラリスは、その二人を見てきた。


 可愛いと思った。

 羨ましいとも、少しだけ思った。


 自分は、すぐに確認してしまう。

 診てしまう。

 止めてしまう。

 負荷を考えてしまう。

 必要なら、前へ出て壊す場所を見てしまう。


 それは、自分の役目だ。


 でも今日は。


 良樹くんの前で、リシアやカレンのように。


 普通の女の子を、してみたい。


 クラリスは、胸元に手を当てた。


 鼓動が早い。


 それを診断しようとして、少しだけ止める。


 今日は、そうではない。


「……うん」


 小さく呟いた。


「行こう」


   ◇


 一階へ降りると、良樹は居間の机の前にいた。


 机の上には、藤田の手記がある。

 布は解かれていない。

 その横に、昨日書き始めた英雄候補記録が置かれていた。


 良樹は紙を見ていた。


 手記を読みたい。

 だが、一人では読まない。

 その間で、何かを考えている顔だった。


「良樹くん」


 クラリスが声をかける。


 良樹が顔を上げた。


 そして、止まった。


「……」


 良樹の視線が、クラリスを見る。


 白いワンピース。

 まとめた髪。

 バレッタ。

 いつもより見える首元。

 法衣ではない、柔らかな白。


 良樹は、何かを言おうとして、一度失敗した。


「……今日は」


「はい」


 クラリスは、そこで少しだけいつもの自分を使った。


 緊張しすぎていた。

 だから、いつもの言葉で立つ。


「本日は」

「婚約者として、私と出かけていただけませんか」


「……クラリスと?」


「はい」


「婚約者として?」


「はい」


 良樹は、もう一度クラリスを見た。


 見られている。


 そう意識しただけで、クラリスの耳が熱くなった。


 背後で、リシアとカレンが階段の途中から見ていた。


 リシアは妙に真面目な顔をしている。

 カレンは、なぜか自分まで緊張しているように胸元で手を握っていた。


 良樹は、その二人を見た。


「……何か隠してねえか」


 リシアは即答した。


「隠してないわ」


 カレンも、少し遅れて頷く。


「か、隠してはいません……」


 良樹の眉が寄る。


「今の返事で信用できると思うか」


 クラリスは、少しだけ微笑んだ。


「今はまだ、説明しない方がよいことです」


「隠してるじゃねえか」


「良樹くんの心肺機能保護のためです」


「またそれか」


 良樹は眉間を押さえた。


 リシアが咳払いをする。


「今日はクラリスの番よ」


「番?」


「そういうこと」


「どういうことだ」


「帰ったら分かるわ」


「その言い方が一番怖い」


 カレンが小さく言った。


「あ、あの」

「良樹さん」


「何だ」


「クラリスを、お願いします」


 良樹は少しだけ黙った。


 それから、短く頷いた。


「ああ」


 クラリスの胸の奥が、小さく鳴った。


 お願いします。


 まるで送り出されているようだった。

 戦場にではない。

 良樹の隣へ。


 リシアがクラリスを見る。


「行ってきなさい」


 カレンも頷く。


「はい」

「行ってきてください」


 クラリスは二人に向かって、小さく頭を下げた。


「……うん」

「行ってくる」


 言ってから、自分で少し驚く。


 リシアが目を丸くした。

 カレンも一瞬、息を呑んだ。


 けれど二人とも、すぐに微笑んだ。


 良樹は、そのやり取りの意味が分からない顔をしていた。


 クラリスは、良樹の隣へ立つ。


「行きましょう」


「ああ」


 良樹は立ち上がった。


   ◇


 外へ出てしばらくの間、クラリスはいつも通りだった。


 いや、いつも通りにしようとしていた。


 町の朝は明るい。


 露店が開き始め、焼いたパンの匂いが通りに流れている。

 荷車が軋み、子どもが走り、店主が戸板を開けている。


 良樹は、クラリスの隣を歩いていた。


 少しだけ歩幅を落としている。

 クラリスはそれに気づいた。


「良樹くん」


「何だ」


「歩幅を合わせてくださいましたね」


「ああ」

「歩きにくかったか?」


「いいえ」

「嬉しかっただけです」


 言ってから、クラリスは少しだけ顔を赤くした。


 今のは、まだ自然だった。


 けれどそのあと、すぐにいつもの癖が出る。


「右肩に少し力が入っています」

「呼吸は問題ありません」

「昨日の手記の件で、意識が少し深いところに沈みやすくなっているかもしれません」


 良樹が横を見る。


「今日はデートじゃなかったのか」


「はい」

「婚約者としてのデートです」

「ですので、良樹くんの身体を見ることも含まれます」


「含まれるのか」


「含まれます」


 そこまでは、いつものクラリスだった。


 良樹も、いつものように少し呆れた顔をする。


 だが、クラリスの胸の中で、少しだけ引っかかった。


 違う。


 今日は、それだけではない。


 身体を見る。

 負荷を見る。

 止めるべき時は止める。


 それは大事だ。

 これからも変えない。


 でも今日は、それだけをしたいわけではない。


 良樹くんの隣で、普通の女の子をしてみたい。


 リシアのように。

 カレンのように。


 クラリスは、少しだけ黙った。


「……」


「どうした?」


 良樹が足を止める。


 クラリスは、白いワンピースの裾を指先で小さく握った。


 言う。


 言わなければ、いつものままだ。


「……」


「何か言いたいことでもあんのか?」


「…………手を」


 小さな声だった。


 良樹の目が、少しだけ変わる。


 そこまで聞いて、察したのだと思う。


 良樹は、少しだけ息を整えてから言いかけた。


「ああ、つな――」


「繋いで、いい?」


 クラリスは、言い切った。


 言い切ってから、顔が熱くなった。


 俯いたまま、良樹を見られない。

 白いワンピースの裾を握る指に、少しだけ力が入る。


 良樹の言葉が止まった。


 返事がない。


 クラリスは、そっと顔を上げる。


「……良樹くん?」


 良樹は、止まっていた。


 本当に止まっていた。


 目を開いたまま、何かを処理しようとして失敗している顔だった。


 いつもの良樹なら、何か言う。

 身体確認じゃねえのか、とか。

 接触確認じゃねえのか、とか。

 そういうことを言いそうだった。


 けれど、言わなかった。


 言えないように見えた。


「……ああ」


 ようやく、良樹が声を出した。


「いい」


 それだけだった。


 良樹は右手を差し出した。


 クラリスは、おそるおそるその手に触れた。


 指先が触れる。

 少し迷う。

 それから、良樹の手を握る。


 温かい。


 クラリスは、その温かさに小さく息を呑んだ。


「……ありがとう」


 良樹は、何か返そうとして、また失敗した。


 クラリスは、良樹の手を握ったまま歩き出す。


 手を繋いで歩く。


 それだけのことなのに、胸の奥がずっと落ち着かない。


 でも、不思議と嫌ではなかった。


 怖くもない。


 ただ、嬉しかった。


挿絵(By みてみん)


   ◇


 しばらく二人は、手を繋いだまま歩いた。


 最初、クラリスはどう握ればいいのか分からなかった。


 治療のために手を取ることはある。

 脈を見ることもある。

 関節や筋肉の動きを確認することもある。

 転ばないように支えることもある。


 けれど、これは違う。


 診察ではない。

 支えでもない。

 止めるためでもない。


 手を繋いでいる。


 それだけ。


 クラリスは、少しだけ良樹の手を握り直した。


 良樹の指が、わずかに反応する。


 クラリスの胸が跳ねる。


 リシアなら、もう少し自然にできるのだろうか。


 カレンなら、震えながらでも、もっと素直に喜べるのだろうか。


 クラリスは、そんなことを考えた。


 クラリスにとって、普通の女の子とは、やはり二人だった。


 リシア。

 カレン。


 リシアは、良樹の横で怒れる。

 呆れられる。

 拗ねられる。

 強がれる。

 好きだと分かる距離で、良樹に向かって言える。


 カレンは、怖がりながらも近づける。

 恥ずかしそうに、けれど良樹の言葉を真っ直ぐ受け取れる。

 良樹さん、と呼ぶ声に、いつも少しだけ気持ちが滲んでいる。


 クラリスは二人を見てきた。


 可愛いと思った。

 羨ましいとも思った。


 自分は、すぐに整えてしまう。


 確認します。

 大丈夫です。

 良樹くんの身体を見るのが私の役目です。

 止めるべき時は止めます。


 それは本当だ。

 嘘ではない。


 けれど今日は、少しだけ違うことをしたい。


 良樹くんと手を繋いで歩きたい。


 そう思った。


 そして、言えた。


 クラリスは、良樹の手をもう一度、少しだけ握った。


「クラリス」


「……うん」


「手、痛くねえか」


 良樹が聞いた。


 その言葉に、クラリスは少し笑いそうになった。


 良樹も、いつも通りだった。


 手を繋いでいるのに、最初に痛みを心配する。


「痛くない」


「そうか」


「……うん」

「嬉しい」


 良樹が、また少しだけ黙った。


 クラリスは俯いた。


 言えた。


 今のも、言えた。


   ◇


 通りを抜けたところで、良樹がクラリスの服を見た。


 見た、といっても、遠慮がちだった。


 肩から裾へ。

 それから、すぐに視線を戻す。


 クラリスはそれに気づいた。


「その服」


 良樹が言う。


「前に買ったやつか?」


「……うん」


 クラリスは頷いた。


「前に、リシアとカレンに選んでもらった時に」


「あの時は、別の服を着てなかったか」


「うん」

「あの時は、動きやすい服を着たの」


 クラリスは白いワンピースの裾を少しつまむ。


「でも」

「女の子が服を買いに行って、一着だけで終わるのは、あまりない……です」


 最後だけ、少し戻った。


 説明しようとすると、どうしてもいつもの言葉が出る。


 良樹は少しだけ考えた。


「……そういうもんなのか」


「うん」


 クラリスは、良樹に分かる例えを探した。


 そして、思いついた。


「良樹くんが工具を買う時に、たくさん買うのと同じだよ……です」


 良樹が黙った。


 かなり分かりやすかったのだろう。


「分かりやすい例えを出すな」


「……うん」

「分かってほしかったから……」


 良樹は、それ以上何も言わなかった。


 だが、握った手に、少しだけ力が入った気がした。


 クラリスは、それだけで胸が温かくなる。


   ◇


 少し歩くと、治療道具や薬草、軽い装身具を扱う店が見えてきた。


 店先には小さな薬草束が吊るされている。

 乾いた葉の匂いが通りに流れていた。

 中には手袋、包帯、留め具、杖、簡易の護身具のようなものも並んでいる。


 クラリスは、そこで一度足を止めた。


「ここか?」


「……うん」


 クラリスは頷いた。


「少し、見たかったの」


「薬草か」


「それも」

「でも、今日は少し違う」


 良樹は首を傾げる。


 クラリスは、店の中に入った。


 棚に並ぶ手袋を見る。


 薄い布製。

 革製。

 指先が出るもの。

 手首まで覆うもの。

 装飾があるもの。

 実用一点張りのもの。


 良樹の目が変わった。


 クラリスには、それが分かった。


 仕事の顔ではない。

 戦闘の顔でもない。

 だが、道具を見る目だった。


 良樹は一つの手袋を手に取る。


「これは薄いな」


「薄い?」


「ああ」

「見た目はいい」

「指も動かしやすい」

「でも拳の当たるところが弱い」


 次に別の手袋を取る。


「こっちは厚い」

「ただ、指の動きが鈍る」

「手首の固定も強すぎる」

「固定しすぎると、逆に逃げがなくなる」


 クラリスは、良樹の横顔を見た。


 良樹は白いワンピースのクラリスを見て照れていた。

 手を繋ぐだけで止まっていた。

 けれど、道具を見る時は変わらない。


 クラリスの手を見る。

 拳を見る。

 手首を見る。

 治す手であり、壊す手でもあることを分かった上で、守る道具を見ている。


 クラリスは、胸の奥が少し熱くなった。


「良樹くん」


「何だ」


「それは」

「私の手を、守るため?」


 良樹は当然のように答えた。


「当たり前だろ」


 短い言葉だった。


 それだけで、クラリスは目を伏せた。


 嬉しかった。


 自分の手は、治すための手だ。

 人の痛みを取る手。

 支える手。

 壊れた身体を戻す手。


 けれど、同時に壊す手でもある。


 誰かを守るために、敵を止める手。

 関節を外し、重心を崩し、拳を入れる手。


 その両方を、良樹は見ている。


 そして、守ろうとしてくれている。


「……うん」


 クラリスは小さく頷いた。


「ありがとう」


「まだ買うって決めてねえぞ」


「でも」

「考えてくれた」


 良樹は、少しだけ言葉に詰まった。


 クラリスは、その反応を見て、少しだけ微笑んだ。


 今日は、自分がいつもと違うことをしている。

 それは分かっている。


 けれど、良樹もまた、いつもの良樹だった。


 そのことが、少しだけ嬉しい。


   ◇


 手袋をいくつか見たあと、二人は杖の棚へ移った。


 棚には、僧侶用の細い杖が並んでいた。


 白く塗られたもの。

 先端に小さな飾りがついたもの。

 祈りの文様が彫られたもの。

 軽く、持ちやすく、見た目の良いもの。


 クラリスは、その中の一本に目を留めた。


 細い白い杖だった。

 今日の服には、よく合う。


「これ」


 クラリスは、手を伸ばした。


 良樹も見る。


「見た目はいいな」


「うん」


「ただ、細い」


「……細い?」


「ああ」

「普通に歩く時や、祈る時ならいい」

「でも、クラリスが誰かを守ろうとして前に出た時、この杖が先に負ける」


 クラリスは、あの日を思い出した。


 僧侶用の杖が折れた日。


 良樹を守るために前へ出た。

 取り繕うより先に身体が動いた。

 杖で打ち、払い、突き、絡め、崩し。

 そして折れた。


 あの時、自分は言った。


 やっぱり、僧侶用の杖では駄目ですね、と。


 良樹はそれを覚えている。


「見た目だけ清楚でも、折れたら意味ねえ」


 良樹は、杖を戻した。


「クラリスが守りたい時に、先に道具が負けるのは駄目だ」


 クラリスは、白い杖を見た。


 清楚でいたい。

 可愛く見られたい。

 今日の白いワンピースに似合うものを持ちたい。


 けれど、自分はそれだけではない。


 誰かを守る時、前に出る。

 壊す場所を見てしまう。

 壊さない場所も、同時に見る。


 その自分も、クラリスだ。


「……清楚で」


 クラリスは小さく言った。


「折れないものがいい」


 良樹は頷いた。


「ああ」

「清楚で、折れないやつを探す」


 クラリスは、良樹を見た。


 良樹は本気だった。


 清楚さを捨てろとは言わない。

 戦えることを隠せとも言わない。


 両方必要だと、当たり前のように見ている。


 そのことが、クラリスには少しだけ苦しかった。


 嬉しくて、苦しい。


 胸の奥がいっぱいになる。


「……うん」


 クラリスは、握っている良樹の手に、少しだけ力を込めた。


   ◇


 店を出たあと、二人は人通りの少ない方へ歩いた。


 町の外れに、小さな庭のような場所がある。

 古い礼拝堂の跡だと聞いたことがあった。


 今は壁の一部と、石造りの低い柱だけが残っている。

 その周りには薬草が植えられ、誰かが時々手入れをしているのか、荒れすぎてはいない。


 風は静かだった。


 昼の光が、石の上に落ちている。


 クラリスは、その場所で足を止めた。


 良樹も止まる。


「クラリス?」


 呼ばれて、クラリスは息を吸った。


 手は、まだ繋いだままだった。


 言わなければならない。


 今日のこと。

 婚約者会議のこと。

 キスのこと。


 そして、自分のこと。


「良樹くん」


「ああ」


「今日は」

「私の番なの」


「番」


 良樹が少しだけ眉を寄せる。


「婚約者としての、最初の個別時間」


「……そういう順番だったのか」


「うん」


 クラリスは頷いた。


 いつもの自分なら、ここで正確に説明する。

 会議の結果。

 決定事項。

 順番。

 根拠。


 でも、今日は少しだけ短くしたかった。


「それと」

「もう一つ、決まっていることがあるの」


「何だ」


 クラリスの喉が、少しだけ詰まった。


 顔が熱い。


 言う。


 言わなければ、ここまで頑張った意味がない。


「キスは」

「婚約者として、いいことになったの」


 良樹が止まった。


「……何が?」


「キス」


「……誰が決めた」


「婚約者会議で」


 良樹は、少しだけ空を見た。


「俺の心肺機能保護の詳細未確認事項って、それか」


「一部」


「一部なのか」


「うん」


 クラリスは頷いた。


 良樹は、明らかに処理に困っていた。


 それでも逃げない。


 クラリスは、繋いでいた手をそっと離した。


 両手を前で重ねる。

 白いワンピースの裾が、風で少し揺れる。


「本番は、まだ駄目」


 クラリスは言った。


「良樹くんが英雄として、私たちを妻にできる日まで」

「そこは変えない」


 ここだけは、ちゃんと言う必要があった。


「でも」

「婚約者として」

「キスまでは、自然な範囲だって」

「三人で決めたの」


 言葉が、少しだけ整っていく。


 いつものクラリスに近づく。


 それに気づいて、クラリスは一度、言葉を止めた。


 違う。


 これは説明だ。

 必要な説明ではある。

 でも、これだけではない。


 婚約者会議で決まったから。

 許容範囲だから。

 適切だから。


 それは全部、本当だ。


 けれど今日、自分がここに立っている理由は、それだけではない。


 良樹くんに、してほしい。


 そう思っている。


 クラリスは、良樹を見る。


 逃げない。


 いつもの説明を足したくなる。

 嫌でなければ。

 無理のない範囲で。

 心肺機能に配慮して。

 良樹くんの判断に委ねます。


 いくらでも言葉は出せる。


 でも、出さない。


「良樹くん」


「何だ」


 クラリスは、息を吸った。


「キス、して」


 言った。


 言ってしまった。


 その瞬間、顔が一気に熱くなる。


 胸が苦しい。


 でも、逃げない。


 クラリスは、震える声で付け足した。


「……ください」


 良樹は、完全に止まった。


 その沈黙が怖い。


「良樹くんが、嫌でなければ……」


 言ってしまってから、クラリスは唇を結んだ。


 説明を足さないと決めていた。

 逃げ道を用意しないと決めていた。


 けれど、怖かった。


 良樹に嫌がられることだけは、どうしても怖かった。


 クラリスの目元が、少しだけ揺れた。


 その時、良樹が一歩近づいた。


 クラリスの呼吸が止まる。


 良樹の手が、そっと頬に触れた。


 温かい。


 逃げない手だった。



 挿絵(By みてみん)



「良樹く――」


 呼びかけようとした声は、途中で消えた。


 良樹が顔を近づける。


 クラリスは目を閉じた。


 ほんの短い時間だった。


 唇に触れた感触は、静かだった。


 強くもない。

 急でもない。

 けれど、確かにそこにあった。


 クラリスは動けなかった。


 動き方が分からなかった。

 でも、嫌ではなかった。

 怖くもなかった。


 ただ、胸の奥が熱かった。


 良樹が離れる。


 クラリスは、すぐには目を開けられなかった。


 開けた時、良樹の顔も赤かった。


 良樹は視線を少しだけ逸らし、それでも逃げずに言った。


「……嫌なわけ、ねえだろ」


 クラリスの目が揺れた。


「そこは、分かっててくれ」


 胸の奥で、何かがほどけた。


「……うん」


 クラリスは小さく頷いた。


「分かった」

「今ので」

「ちゃんと、分かった」


 言葉が震えていた。


 けれど、泣きそうな震えではなかった。


 良樹は嫌がらなかった。

 逃げなかった。

 言葉ではなく、行動で答えてくれた。


 そして、そのあとで、不器用に言葉を置いてくれた。


 それが、クラリスには届いた。


   ◇


 しばらく、二人は何も言わなかった。


 古い礼拝堂跡の石の上を、風が静かに流れていく。


 クラリスは、自分の唇に触れかけて、途中で止めた。


 触れると、また意識してしまいそうだった。


 良樹も、何を言えばいいのか分からない顔をしている。


 その顔を見て、クラリスは少しだけ笑いそうになった。


 良樹くんも、余裕がない。


 それが、少し嬉しかった。


「良樹くん」


「何だ」


「私」

「今日、普通の女の子みたいにできてた?」


 良樹は、一瞬言葉に詰まった。


「……普通かどうかは、分からねえ」


「……うん」


「でも」


 良樹は、逃げずにクラリスを見た。


「今日のクラリスは、なんか、その」

「すげえ女の子らしくて」

「可愛かった」


 クラリスの呼吸が止まる。


「そっちのクラリスも、好きだ」


 良樹は、少しだけ苦しそうに言葉を続けた。


「でも」

「俺が惚れたのは、いつものクラリスだからな」


 その瞬間。


 クラリスの中で、何かが静かに落ちた。


 今日一日、普通の女の子をしようとしていた。


 リシアのように。

 カレンのように。


 良樹くんの前で、照れて、迷って、勇気を出して。

 可愛いと言われたい女の子として。


 それを、良樹は見てくれた。


 可愛いと言ってくれた。

 好きだと言ってくれた。


 その上で。


 いつものクラリスに惚れた、と言った。


「……良樹くん」


「ああ」


「それは」

「少し、ずるいです」


 声は、いつものクラリスに戻っていた。


 柔らかく。

 丁寧で。

 少しだけ整った声。


 けれど、頬はまだ熱い。


「悪い」


「謝らないでください」


 クラリスは、ようやく微笑んだ。


 いつもの、清楚な微笑みだった。


 けれど、今はそれだけではなかった。


「嬉しいので」


 そう言ってから、クラリスは一歩近づいた。


 良樹が少しだけ身構える。


 クラリスは、もう確認していなかった。


 良樹の呼吸を見るためではない。

 肩の力を確かめるためでもない。

 疲労を診るためでもない。

 止めるためでも、支えるためでもない。


 ただ、近づいた。


 そして、良樹の胸に、そっと身を寄せた。


「クラリス?」


「少しだけ」

「このままで、いさせてください」


 声はいつものクラリスだった。


 けれど、その行動は、好きな男に甘える普通の女の子のものだった。


 クラリスは、もう真似をしていなかった。


 リシアのようにでもなく。

 カレンのようにでもなく。


 いつものクラリスのまま、自然に、良樹へ抱きついていた。


 良樹の腕が、少し迷ってからクラリスの背中へ回る。


 白いワンピースの布越しに、その手の温かさが伝わる。


 クラリスは目を閉じた。


 二人は、しばらくそのままでいた。


 何も言わなかった。


 言葉にすると、少しだけ壊れてしまいそうだった。


   ◇


 どれくらい、そうしていただろう。


 クラリスは、良樹の胸に額を寄せたまま、小さく口を開いた。


「良樹くん」


「どうした」


「今まで、黙っていたことがあるの」


 良樹の身体が、わずかに固まった。


「……何だ」


 少し警戒した声だった。


 クラリスは、それに気づいて、小さく笑った。


 そして、抱きついたまま言った。


「初めて会った時から、私」


 一拍。


「一目惚れだったの」


 良樹の呼吸が止まった。


 クラリスは、良樹の服を少しだけ握った。


「黙ってて、ごめんね」


 挿絵(By みてみん)


 それは、今日ずっと頑張っていた言葉とは少し違っていた。


 頑張って崩した言葉ではない。

 真似した言葉でもない。

 普通の女の子になろうとして選んだ言葉でもない。


 ただ、安心したクラリスから、自然にこぼれた言葉だった。


 良樹は何も返さなかった。


 返せなかったのだと思う。


 クラリスは、良樹の胸元で続けた。


「きっと」

「今の私も」

「いつもの私も」

「どっちも私」


 声は静かだった。


「だから」

「今の私も好きって言ってくれて」

「嬉しかった」


 クラリスは、少しだけ顔を上げた。


 良樹は、まだ固まっていた。


 完全に、何かを失っている顔だった。


「でも」


 クラリスは微笑む。


「いつもの私に惚れたと言ってくれたのは」

「もっと、嬉しかったです」


 良樹は、ようやく息をした。


「……クラリス」


「はい」


「それを今言うのは」

「かなり、ずるい」


 クラリスは、良樹の胸に額を戻した。


「はい」

「でも、言いたかったので」


 そこで、完全にいつもの口調に戻っていることに気づき、クラリスは小さく笑った。


 良樹は、天を仰ぎたそうにした。


 だが、腕の中にクラリスがいる。


 だから、仰げなかった。


 代わりに、クラリスの背中へ回した手に、少しだけ力を込めた。


   ◇


 拠点へ戻った時、リシアとカレンは一階の居間にいた。


 二人とも、何かをしていたようで、実際には何も手についていなかった。


 リシアは茶器の前にいる。

 カレンは布を畳んでいる。


 しかし、茶はほとんど減っていない。

 布も、同じものを何度も畳み直したような形になっていた。


 クラリスが入る。


 良樹が、その少し後ろに入る。


 リシアとカレンが同時に顔を上げた。


 そして、クラリスの顔を見る。


 クラリスは、いつものように微笑んだ。


 ただし、耳が赤かった。


 カレンが息を呑む。


「クラリス……」


 リシアも、ゆっくりと言った。


「……行ったのね」


 クラリスは、清楚に頷いた。


「はい」

「行ってまいりました」


「言い方!」


 リシアが即座に言った。


 良樹は、そこでようやく少しだけ現実に戻ったような顔をした。


「俺は下にいる」


 それだけ言って、作業場の方へ逃げるように向かった。


 逃げた。


 少なくともリシアには、そう見えた。


 けれど、今日の逃げ方は悪いものではなかった。


 処理しきれないものを抱えて、少し一人になりに行っただけだ。


 カレンは、クラリスを見つめたままだった。


「つ、次は……私……」


 声が震えている。


 クラリスは、カレンへ歩み寄った。


 そして、その手を取る。


「カレン」


「は、はい」


「大丈夫です」


 クラリスは、柔らかく微笑んだ。


「良樹くんは、逃げませんでした」


「逃げない……」


「はい」

「そして、嫌がりませんでした」


 カレンの顔が、みるみる赤くなる。


 その言葉が、胸に刺さったのだと分かった。


 次は、自分。


 カレンは、両手を胸元で握った。


「……はい」


 小さく、けれど逃げない声だった。


 リシアは、その横で腕を組んだ。


「私は最後なのよね……」


 クラリスが微笑む。


「締めです」


「だから言い方!」


 リシアは顔を赤くして叫んだ。


 カレンは緊張したまま、少しだけ笑う。


 クラリスも笑った。


 白いワンピースの裾が、静かに揺れる。


 今日一日、クラリスは普通の女の子になろうとした。


 リシアのように。

 カレンのように。


 けれど最後に分かった。


 今の自分も。

 いつもの自分も。


 どちらも自分だった。


 そして良樹は、そのどちらも見てくれた。


   ◇


 一階の作業場。


 良樹は、机の前に座っていた。


 英雄候補記録が開かれている。


 筆を取る。


 だが、しばらく動かなかった。


 記録は大事だ。


 失敗も、気づきも、確認事項も。

 残しておかなければならない。


 だが、今日のことは、どこまで書けばいいのか分からなかった。


 良樹は、しばらく筆先を見つめていた。


 そして、紙に短く書いた。


 第一回。

 クラリス。


 それだけ。


 それ以上は、書けなかった。


 良樹は筆を置き、自分の右手を見た。


 手を繋いだ感触が、まだ残っている気がした。


 白いワンピース。

 まとめた髪。

 赤くなった顔。

 繋いで、いい、と言った声。

 キス、して、と言った声。

 胸元で、一目惚れだったの、と言った声。


 良樹は、机に額をつけそうになって、どうにか耐えた。


「……心肺機能保護って」


 小さく呟く。


「何だったんだよ」


 答える者はいなかった。


 ただ、二階からは、リシアとカレンとクラリスの声が聞こえていた。


 次は誰の番か。


 その答えは、もう決まっている。

ここまでお読みいただきありがとうございます。


ここから三話は、クラリス、カレン、リシア、それぞれの個別回になります。


今回はクラリスの番でした。


清楚で、少し危うくて、でも良樹の前では普通の女の子でいたい。

そんなクラリスを少しでも可愛いと思っていただけましたら、ぜひ応援していただけると嬉しいです。


本来、毎話続けて評価やブックマークをお願いするのは控えめにしたいところなのですが、この三話だけは、三人それぞれへの応援も兼ねて、続けてお願いさせてください。


クラリスを応援したい。

カレンも見たい。

リシアの番も待っている。


そう思っていただけましたら、評価やブックマークで背中を押していただけると励みになります。


次回はカレンの番です。

よろしくお願いします。


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