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第57話 婚約者会議(挿絵有)

 ギルドから拠点へ戻る道中、四人はあまり話さなかった。


 まったく喋らなかったわけではない。


 藤田のこと。

 英雄候補のこと。

 手記のこと。

 これから読むべきこと。


 話そうと思えば、いくらでもあった。


 けれど、誰もすぐには言葉にしなかった。


 良樹は、藤田から預かった手記を抱えていた。


 古い布に包まれた、六十年分の記録。

 藤田吾郎という一人の日本人が、この世界で生き、失敗し、直し、積み上げてきたもの。


 それを、今すぐ開きたい。


 開きたいが、開けなかった。


 一人で読むな。


 藤田の声が、まだ残っている。


 そして、その言葉は三人にも届いていた。


 リシアは、良樹の横を歩いている。

 カレンは、少し斜め後ろ。

 クラリスは反対側で、良樹の歩き方と呼吸を見ている。


 三人とも、いつも通りのようで、いつも通りではなかった。


 藤田は言った。


 良樹は、まだ英雄ではない。


 だから、三人を妻にはできない。


 けれど。


 英雄候補として、複数の婚約者を持つことは認める。


 その言葉が、三人の中で、ずっと鳴っていた。


 候補ではない。


 嫁候補ではない。


 婚約者。


 良樹の、婚約者。


   ◇


 拠点へ戻ると、良樹は一階へ向かった。


「俺は下にいる」

「手記は……読む前に呼ぶ」


 リシアは頷いた。


「ええ」

「一人で読んだら怒るわよ」


「分かってる」


 カレンも胸元で両手を握る。


「良樹さん」

「本当に、一人で読まないでくださいね」


「ああ」


 クラリスも静かに微笑んだ。


「約束です」


「約束する」


 良樹はそう言って、一階の作業場へ降りていった。


 三人は、二階の三人部屋へ向かう。


 部屋へ入る。


 扉が閉まった。


 ぱたん。


 良樹の足音が、階下へ遠ざかっていく。


 一段。

 また一段。


 やがて、その音が一階の床板へ消えた。


 三人部屋に、沈黙が落ちた。


 リシアは扉を見たまま立っていた。


 カレンは胸元で両手を握ったまま、動けない。


 クラリスは、いつものように穏やかな微笑みを浮かべている。


 浮かべているが、耳が赤い。


 誰も、すぐには口を開かなかった。


 開けなかった。


 リシアの指が、服の端をぎゅっと掴む。


 カレンの肩が、小さく震える。


 クラリスの微笑みが、ほんの少しだけ揺れる。


 そして。


 リシアが、小さく呟いた。


「……なった」


 カレンが、息を呑む。


「……な、なっちゃいましたね」


 クラリスが、静かに続けた。


「……私たちは、良樹くんの」


 三人は、なぜか互いの顔を見た。


 それから、なぜか互いを指さした。


 クラリスが、耳まで赤くなりながら言う。


「婚」


 カレンが、真っ赤な顔で続ける。


「約」


 リシアが、震える声で締めた。


「者!」


 一拍。


 三人の顔が、一気に赤くなった。


 次の瞬間。


「やったぁぁぁぁ!」


 リシアが叫んだ。


「や、やりましたぁ……!」


 カレンの声が裏返る。


「はい、やりました……!」


 クラリスも、いつもの清楚さを半分ほど忘れた声で言った。


 リシアがカレンへ飛びついた。


 カレンは泣きそうな顔でそれを抱き返す。


 そこへクラリスが近づいた。


 静かな足取りのつもりだったのだろう。


 しかし、いつもより歩幅が大きい。


 そして、二人ごと抱きしめた。


「候補じゃない!」


 リシアが叫ぶ。


「候補じゃ、ないです……!」


 カレンも泣きそうな声で言う。


「私たちは、良樹くんの婚約者です!」


 クラリスが、二人を抱きしめたまま言った。


 三人は、抱き合った。


 誰か一人が勝った喜びではない。


 誰か一人が選ばれた喜びではない。


 三人で、同じ場所へ進めた喜びだった。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人とも、良樹の婚約者になった。


「婚約者……!」


「良樹さんの……!」


「良樹くんの……!」


 三人は、また抱き合った。


 喜びが、胸の中で弾ける。


 恥ずかしい。

 嬉しい。

 照れる。

 泣きそうになる。


 けれど、それ以上に。


 幸せだった。


 挿絵(By みてみん)

   ◇


 一階。


 良樹は、作業場の机の前に座っていた。


 机の上には、藤田から渡された古い手記がある。


 布はまだ解いていない。


 解くつもりはない。


 ないが。


 表紙だけなら。


 そう思って、良樹の手が少し伸びかけた。


 その瞬間。


 二階から、歓声が聞こえた。


「やったぁぁぁぁ!」


「や、やりましたぁ……!」


「はい、やりました……!」


 良樹の手が止まった。


 さらに二階から声が続く。


「候補じゃない!」


「婚約者です……!」


「良樹くんの婚約者です!」


 良樹は、しばらく黙っていた。


 伸びかけた手を、そのまま止めていた。


 それから、小さく呟く。


「……そんなに喜ぶのかよ」


 良樹は、自分がまだ英雄ではないことを分かっていた。


 妻にはできない。

 まだそこまでは届いていない。

 藤田に言われた通り、今の自分は入口に立っただけだ。


 だから、少し重かった。


 婚約者という言葉も、妻ではないという現実の代わりのように思えた。


 けれど。


 三人は、あんなに喜んでいた。


 候補ではなくなったことを。

 婚約者になったことを。


 あそこまで、喜んでいた。


 良樹は、手記へ伸ばしかけた手を戻した。


「……分かってるよ」


 藤田の声を思い出す。


 一人で読むな。


 良樹は、小さく息を吐いた。


「待つよ」


   ◇


 二階。


 三人は、まだ抱き合っていた。


 しばらくして、リシアがようやく我に返る。


「……聞こえたかしら」


 カレンの肩が跳ねた。


「き、聞こえましたか……?」


 クラリスは少し考えた。


「聞こえたと思います」

「一階まで届く声量でした」


「冷静に言わないで」


 リシアは両手で顔を覆った。


 だが、クラリスは静かに続ける。


「よいのではないでしょうか」


 リシアが顔を上げる。


「よいの?」


「はい」

「良樹くんには、私たちが喜んでいることを知っていただく必要があります」


 その言葉に、リシアもカレンも黙った。


 良樹はきっと、まだ妻にできないことを重く受け止めている。

 まだ英雄ではないことを、誰よりも分かっている。

 だからこそ、婚約者になれたことを三人がどれほど喜んでいるか。


 それは、届いた方がいい。


 リシアは、少しだけ息を吐いた。


「……聞こえたなら、聞こえたでいいわ」


 カレンも、胸元で手を握った。


「私、嬉しいです」

「良樹さんに、聞こえていたなら」


 クラリスは、柔らかく微笑んだ。


「はい」

「では、次です」


「次?」


 カレンが首を傾げる。


 リシアは、その言葉で我に返ったように姿勢を正した。


「会議よ」


「会議、ですか?」


「ええ」


 リシアは、頬を赤くしたまま言った。


「婚約者会議」


 自分で言って、さらに赤くなった。


 カレンは、両手で口元を押さえる。


「婚約者、会議……」


 クラリスは、真剣に頷いた。


「必要です」

「候補だった時の裏ルールを、婚約者用に更新する必要があります」


「そうね」


 リシアは椅子へ座った。


 カレンも座る。


 クラリスも、いつものように静かに席へついた。


 夜の部屋。

 三つの寝台。

 中央の小さな卓。

 その上の灯り。


 第21話の裏ルール会議から、関係は進んだ。


 あの時は、恋敵ではあるけれど、だった。


 今は違う。


 恋敵ではある。


 けれど、三人とも良樹の婚約者になった。


 だから、更新が必要だった。


   ◇


「まず、変えないもの」


 リシアが言った。


「抜け駆け禁止」


「はい」


 カレンが頷く。


「当然ですね」


 クラリスも頷いた。


「良樹を追い詰めない」

「良樹を壊さない」

「三人の誰かを泣かせる勝ち方はしない」

「良樹が一人で背負おうとしたら止める」

「手記は必ず四人で読む」


 リシアは指を折りながら確認していく。


「事故狙いは禁止」

「着替えや入浴の偶然狙いも禁止」

「夜の個室訪問は原則禁止」

「緊急時のみ」


「はい」


 カレンは真面目に頷いた。


「そこは、変えない方がいいと思います」


「私も同意です」


 クラリスは静かに言った。


「婚約者になったからといって、良樹くんを追い詰める理由にはなりません」

「むしろ、責任は重くなります」


「そうね」


 リシアは頷く。


「そこは変えない」


 三人の間に、少しだけ真面目な空気が流れた。


 浮かれている。

 それは間違いない。


 けれど、関係の根を壊す気はなかった。


 誰か一人が勝って、誰かが泣く。

 良樹が潰れる。

 三人が壊れる。


 それは、絶対に避ける。


「次」


 リシアは、少しだけ声を落とした。


「変えるもの」


 カレンの肩が、ぴくりと揺れる。


「変えるもの……」


「婚約者になった以上、候補の時と同じように全部を封印するのは不自然です」


 クラリスが、非常に真面目な顔で言った。


 耳は赤い。


「そうね」


 リシアも耳が赤かった。


「婚約者として、自然な接触は一部解禁」


 カレンが、目を丸くした。


「自然な、接触……」


「手を繋ぐ」


 リシアが言う。


「抱きしめる」


 クラリスが続ける。


「寄りかかる」


 カレンが小さく続けて、すぐに真っ赤になった。


 リシアは咳払いした。


「良樹が疲れている時に支える」

「不安な時に、そばにいてほしいと言う」

「嬉しい時に抱きつく」

「甘える」


「甘える……」


 カレンが、両手で頬を押さえた。


「膝枕は条件付きで可」


 クラリスが言った。


「条件付き?」


 リシアが聞く。


「良樹くんが疲れている時」

「看病時」

「または三人の合意がある時です」


「三人の合意って、重いわね」


「膝枕は重いです」


「重いのね」


「はい」


 カレンは、想像してしまったのか、さらに赤くなっていた。


「それと」


 クラリスの目が少し真剣になる。


「良樹くんを止めるための接触は強化します」

「身体管理権限も、婚約者として強化されるべきです」


「そこはあなたらしいわね」


「はい」

「大事です」


 リシアも頷いた。


「それは認める」

「良樹は放っておくと止まらないもの」


 カレンも頷く。


「はい」

「止めるのは、大事です」


 ここまでは、まだよかった。


 ここまでは。


 問題は、その先だった。


 クラリスが、静かに言った。


「では、キスはどうしますか」


 部屋の空気が止まった。


 リシアの動きが止まる。


 カレンが固まる。


 クラリス自身も、言ったあとで耳まで赤くなっていた。


 灯りが、静かに揺れた。


「……キス」


 リシアが、ようやく繰り返す。


「はい」


 クラリスは、清楚に頷こうとして失敗した。


「婚約者ですので」

「本番はまだ駄目です」

「しかし、キスまでは自然な範囲かと」


 カレンは両手で顔を覆った。


「き、キス……」


 リシアも顔が熱い。


 だが、逃げるわけにはいかない。


 これは婚約者会議なのだ。


「本番は駄目」


 リシアは確認する。


「はい」


 クラリスが頷く。


「良樹が英雄として、私たち三人を妻にできる日まで」

「そこは封印です」


 カレンも、真っ赤な顔で頷いた。


「はい」

「そこは、まだ……駄目だと思います」


「でも、キスまでは可」


 リシアが言った。


 言った本人が、卓に額をつけそうになった。


「……すごいことを言ってるわね、私」


「婚約者会議ですから」


 クラリスが言った。


「便利ね、その言葉」


「便利です」


   ◇


「問題は、順番よ」


 リシアが言った。


「じゅ、順番……」


 カレンの声が小さくなる。


 クラリスは真剣だった。


「重要です」

「最初のキスを誰がするか」

「これは抜け駆け禁止の原則に関わります」


「言い方が重いのよ」


「実際、重いです」


「そうだけど」


 リシアは頭を抱えた。


 だが、避けられない。


 年齢順。

 出会った順。

 好きになった順。

 くじ引き。

 良樹に選ばせる。

 その時の流れ。


 案はいくつか出た。


 だが、どれも決め手に欠けた。


「好きになった順は証明不能ですね」


 クラリスが言った。


「良樹に選ばせるのは?」


 リシアが言った。


 三人は同時に沈黙した。


 そして、同時に首を振った。


「無理ね」


「無理です」


「良樹さんが倒れます」


 良樹に初回順を選ばせる。


 それはあまりにも負荷が高い。


 心肺機能保護以前の問題だった。


「じゃあ、くじ?」


 カレンがおずおずと言った。


「味気ないわね」


 リシアが眉を寄せる。


「でも、公平ではあります」


 クラリスが言う。


「公平だけど、何か違うのよね」


 リシアは、卓の上に手を置いた。


 しばらく考える。


 そして、静かに言った。


「……仕方ないわね」


 カレンが息を呑む。


「リシア……?」


 クラリスの目が、少し細くなる。


「まさか」


 リシアは、真剣な顔で言った。


「ジャンケンよ」


 空気が変わった。


 カレンの喉が、小さく鳴る。


 クラリスの微笑みが、静かに消えた。


 リシアは卓の上に拳を置く。


「一回勝負では駄目ね」

「全順位を決める必要がある」


「はい」


 クラリスが頷いた。


「異議はありません」


「わ、私も……やります」


 カレンが震える手を出した。


 ジャンケン。


 たった三つの手で勝敗が決まる、単純な遊び。


 けれど、卓を囲む三人の空気は、まったく遊びではなかった。


 リシアは、魔力の揺れを読む。


 指先ではない。

 手の形でもない。


 出す前に、人は必ず揺れる。


 魔法も同じだ。

 火を出す者は、火の前に熱を持つ。

 風を動かす者は、風の前に空気を掴む。


 なら、ジャンケンも同じ。


 出す手の前に、呼吸がある。

 肩がある。

 視線がある。

 魔力の流れがある。


 読む。

 読み切る。

 読み切って、勝つ。


 カレンは、怖い手を見る。


 自分が勝つ手ではない。

 自分が負ける手を先に見る。


 リシアが何を出せば、自分は負けるか。

 クラリスが何を出せば、自分は崩れるか。


 怖い方向を先に見る。

 逃げ道ではなく、危険の形を見る。


 それが、カレンの戦い方だった。


 クラリスは、身体を見る。


 指先。

 手首。

 肘。

 肩。

 呼吸。

 重心。


 人の身体は、嘘をつくのが苦手だ。


 握る手。

 開く手。

 二指を作る手。


 使う筋が違う。

 入る力が違う。

 迷った瞬間に、ほんのわずかに癖が出る。


 クラリスは、清楚に微笑んだまま、二人の身体を見ていた。


 だが。


 三人とも、自分が読まれていることを知っている。


 リシアは、クラリスが指先を見ていることを分かっている。

 クラリスは、リシアが魔力の揺れを読もうとしていることを分かっている。

 カレンは、二人が自分の震えを読むことを分かっている。


 だから隠す。

 だから見せる。

 だから迷わせる。


 読ませる動き。

 捨てる気配。

 本命の手。

 誘い。

 逆読み。


 卓の上に拳が三つ並ぶ。


 ただのジャンケンだった。


 だが、そこにあるのは、剣と魔法の世界で生きてきた三人の戦い方そのものだった。


 共同制御者は、流れを読む。

 怖い場所を見る少女は、負ける形を先に見る。

 身体と負荷を見る僧侶は、動きの前兆を読む。


 三人とも本気だった。


 良樹の初回順だからだ。


 良樹の婚約者としての個別デート順だからだ。


 負けても終わりではない。

 勝っても奪い取るわけではない。


 それでも。


 これは、女の戦いだった。


「最初は、グー」


 三人の声が揃う。


 拳が握られる。


 その瞬間、三人は互いの拳を見ていなかった。


 見ていたのは、その前。


 呼吸。

 肩。

 指。

 魔力。

 恐怖。

 覚悟。


「ジャン」


 空気が詰まる。


「ケン」


 思考が走る。


 読む。

 隠す。

 誘う。

 逃げない。


「ぽん」


 手が出た。


 一拍。


 灯りが、揺れた。


 結果は決まった。


 クラリス、カレン、リシア。


 初回の順番は、そう決まった。


   ◇


「……私が、一番ですね」


 クラリスが言った。


 声は静かだった。


 だが、耳が赤い。


「私が……二番……」


 カレンは自分の手を見たまま、呆然と呟いた。


 リシアは、卓に額を近づける。


「最後……」

「私、最後なのね……」


「締めですね」


 クラリスが言った。


「言い方!」


 リシアが顔を上げる。


 真っ赤だった。


 カレンも、胸元で両手を握りしめる。


「あ、あの」

「この順番は、その……」

「キスだけ、ですか?」


 リシアとクラリスが同時に止まった。


「……どういう意味?」


 リシアが聞く。


 カレンは恥ずかしそうにしながらも続けた。


「キスの順番を決めても」

「その時だけだと、また次に決めることになります」

「だから」

「婚約者になってからの、次のデートの順番も」

「同じにした方がいいんじゃないかなって……」


 沈黙。


 リシアは額に手を当てた。


「カレン」


「は、はい」


「あなた、時々すごく大事なところを突くわね」


「す、すみません」


「謝るところじゃないわ」


 クラリスも頷いた。


「合理的です」

「初回の順番と、婚約者としての個別時間の順番を別にすると、再び争点が発生します」


「争点って言い方」


「婚約者会議ですので」


「本当に便利ね」


 リシアは、小さく息を吐いた。


「じゃあ、決定」


 三人が、互いを見る。


「初回キス順」

「それから、婚約者としての個別デート順」

「どちらも、クラリス、カレン、私」


 言った瞬間、また空気が熱くなった。


 クラリスは耳まで赤いのに、清楚な微笑みだけは保とうとしていた。


「承知しました」

「婚約者として、最初の個別時間をいただきます」


「言い方!」


 カレンは両手を胸元で握った。


「私が、二番……」

「婚約者としての、デート……」


 リシアは卓に額を近づけた。


「私、最後……」

「キスも最後で、デートも最後……」


「締めですね」


「だから言い方!」


 だが、リシアは怒っているわけではなかった。


 最後。


 待つ時間は長い。

 見せつけられる時間も長い。

 不安にもなる。


 けれど、最後には最後の意味がある。


 良樹がこの世界で最初に出会ったのは、自分だ。

 良樹が最初に手を伸ばした相手も、自分だ。

 良樹が最初に、その盤を必要とした相手も。


 なら。


 婚約者として最後に向き合うのも、悪くない。


 悪くない。


 たぶん。


「……分かったわよ」


 リシアは小さく息を吐いた。


「最後は最後らしく、きっちり締めるわ」


「はい」


 クラリスが頷く。


「リシアなら、できます」


 カレンも少しだけ笑った。


「そこ、応援されると余計に恥ずかしいのよ」


 リシアは顔を逸らした。


 だが、口元は少しだけ緩んでいた。


   ◇


「待って」


 リシアが言った。


「もう一つ、大事なこと」


 カレンとクラリスが見る。


「キスを解禁するのは、いいわ」

「順番も決まった」

「でも、最初は駄目よ」


 カレンが首を傾げる。


「駄目、ですか?」


「みんなの前で最初のキスをするのは駄目ってこと」


 カレンの顔が、一気に赤くなった。


「あっ……」


 クラリスも少しだけ目を伏せた。


「それは、そうですね」

「良樹くんも、私たちも、さすがに耐久試験になってしまいます」


「耐久試験って言い方やめなさい」


 リシアは額に手を当てた。


「初回は二人きり」

「これは絶対」

「その人の番のデートで」

「ちゃんと、その人と良樹だけの時間にする」


 カレンは、胸元で両手を握った。


「二人きり……」

「デートの時に……」


 その言葉だけで、限界に近い顔をしている。


 クラリスは清楚に微笑もうとしていた。


 だが、耳が赤い。


「では、順番は初回キス順であり」

「婚約者としての個別デート順でもある」

「ただし、初回は必ず二人きり」

「そういうことですね」


「そう」


 リシアは頷いた。


「クラリス、カレン、私」

「それぞれのデートで、初回は二人きり」

「そのあとなら、四人でいる時に……その、自然にするのは、禁止しない」


 言った本人が赤くなった。


 カレンは両手で頬を押さえる。


「四人でいる時にも……」


「初回以降よ」


「は、はい……初回以降……」


 クラリスは静かに頷いた。


「妥当です」

「初回は、その人だけのものにするべきです」

「ですが、婚約者になった以上、以降すべてを隠す必要もありません」


「そういうこと」


 リシアは小さく息を吐いた。


「ただし、見せつけるのは禁止」

「他の二人を煽るのも禁止」

「良樹を逃げ場のない場所に追い込むのも禁止」


「良樹くんが固まった場合は?」


「停止」


 リシアが即答した。


「即停止ね」


「心肺機能保護ですね」


「それもあるわね」


 カレンが真剣に頷いた。


「大事です」

「良樹さん、たぶん本当に固まります」


「固まるでしょうね」


 クラリスも頷く。


「固まった良樹くんを無理に動かしてはいけません」


「何の注意事項なのよ、これ」


 リシアはそう言いながら、卓の上の紙に決定事項を書いていった。


 婚約者会議。


 決定事項。


 一、抜け駆け禁止は継続。

 二、良樹を追い詰めない。

 三、良樹を壊さない。

 四、三人の誰かを泣かせる勝ち方はしない。

 五、良樹が一人で背負おうとしたら止める。

 六、藤田の手記は必ず四人で読む。

 七、本番は、良樹が英雄として三人を妻にできる日まで駄目。

 八、婚約者として自然な接触は一部解禁。

 九、キスまでは可。

 十、初回キス順は、クラリス、カレン、リシア。

 十一、この順番は婚約者としての個別デート順も兼ねる。

 十二、初回キスは必ず二人きり。

 十三、良樹への通達は保留。

 十四、理由は良樹の心肺機能保護のため。


 リシアは書き終えて、しばらく紙を見た。


「……すごい会議ね、これ」


「婚約者会議ですから」


 クラリスが言った。


「良樹さんには、まだ聞かせられませんね……」


 カレンが小さく言う。


「絶対に無理ね」


 リシアは即答した。


「倒れます」


 クラリスも即答した。


「たぶん、倒れます」


 カレンも真剣に頷いた。


 三人は、しばらく黙った。


 それから、誰からともなく小さく笑った。


 候補ではなくなった。


 婚約者になった。


 それだけで、こんなにも決めることが増えた。


 けれど、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、嬉しかった。


 良樹のそばにいるために。

 三人で壊れないために。

 誰か一人が泣いて終わらないために。


 こうして、また会議をしている。


 それが、三人らしかった。


「じゃあ」


 リシアは顔を上げた。


 まだ頬は赤い。


 けれど、目は少しだけいつもの強さを取り戻していた。


「行きましょう」


「はい」


 カレンが頷く。


「良樹くんを、待たせすぎましたね」


 クラリスも立ち上がった。


 三人は、部屋を出た。


   ◇


 一階へ降りると、良樹は作業場の机の前に座っていた。


 机の上には、藤田から渡された手記が置かれている。


 古い布に包まれた、六十年分の記録。


 良樹は、それを開いていなかった。


 ただ、手を置いていた。


 読むつもりはある。

 今すぐ読みたい。


 それは、顔を見れば分かる。


 だが、開いてはいない。


 良樹は三人が降りてきたことに気づき、顔を上げた。


「終わったのか」


「終わったわ」


 リシアが答える。


「必要なことは決まったわ」


「何を決めた」


 三人が、一瞬だけ止まった。


 リシアが視線を逸らす。


「今は言わない」


 カレンも、耳まで赤くなりながら言った。


「い、今は言えません……」


 クラリスは、いつもの清楚な微笑みを取り戻していた。


 ただし、やはり耳は赤い。


「良樹くんの心肺機能保護のためです」


「何を決めたんだお前ら」


 良樹は眉間を押さえた。


「俺の心肺機能に関わる会議って何だ」


「今は知らない方がいいわ」


「余計に怖い」


「大丈夫です」


 クラリスが言う。


「危険ではありません」

「ただ、高負荷です」


「危険じゃねえか」


 カレンは、両手を胸元で握りながら小さく言った。


「あ、あの」

「でも、良樹さんが嫌なことではないと思います」


「なおさら何だ」


 三人は答えなかった。


 答えられるわけがなかった。


 良樹は深く息を吐いた。


「……まあいい」

「今聞くと、たぶん手記どころじゃなくなるんだろ」


 三人は黙った。


 その沈黙だけで、良樹はだいたい察した。


 察したが、踏み込まなかった。


 今は、手記だ。


 藤田が渡したもの。

 一人で読むなと言ったもの。

 六十年を生きた技術者の記録。


 良樹は、手記へ視線を落とした。


「読んでねえ」


 短く言う。


「分かってるわ」


 リシアが、良樹の隣に立った。


「手記は、四人で読む」


「ああ」


 カレンは良樹の少し斜め後ろへ立つ。


 クラリスは、良樹の反対側へ回り、机の上の灯りを少し近づけた。


 四人で、机を囲む。


 良樹は、古い布をほどいた。


 紙の匂いがした。


 乾いた匂い。

 古い木箱のような匂い。

 油と煤と、長い時間を吸った匂い。


 表紙には、飾り気のない文字があった。


 藤田吾郎。


 その下に、小さく。


 魔導工廠 記録。


 良樹は、しばらく表紙を見つめていた。


 それから、ゆっくり一頁目を開いた。


   ◇


 一頁目に書かれていたのは、英雄譚ではなかった。


 綺麗な成功記録でもなかった。


 そこには、短い文字が並んでいた。


 初日、失敗。


 走行補助、停止せず。


 水場へ落下。


 停止機構を先に作ること。


 出力を身体へ直結しないこと。


 痛みは後から来る。


 生きていれば記録せよ。


 良樹は、固まった。


「……この人もやってる」


 声が漏れた。


 リシアが、手記を覗き込む。


「良樹と同じじゃない」


「同じ、というか」


 良樹は、一頁目の文字から目を離せなかった。


「ほぼ同じだ」


 森。

 水場。

 停止しない補助。

 直結。

 痛み。

 記録。


 違う時代。

 違うスキル。

 違う人間。


 それでも、最初にやらかしたことは、あまりにも似ていた。


 カレンが小さく息を呑む。


「藤田さんも、最初から英雄だったわけではないんですね」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「最初から英雄だった人間の手記じゃねえ」

「失敗して、生き残って、書いた人間の記録だ」


 クラリスは、静かに言った。


「だから、手記なのですね」

「成功の記録ではなく」

「失敗の記録」


 良樹は、次の行を見た。


 字は古い。

 ところどころ擦れている。

 だが、力があった。


 同じ失敗をする者が、いつか読むかもしれない。


 そんな前提で書かれた文字だった。


 良樹は、胸の奥が少し熱くなるのを感じた。


 藤田吾郎は、英雄としてこれを書いたのではない。


 十七歳の異世界人として。

 工場から森へ落ちた若造として。

 止め方も知らずに動かして、水場へ落ちた馬鹿として。


 そして、生き残った技術者として。


 書いた。


「……そうか」


 良樹は呟いた。


「読むだけじゃ駄目だ」


 三人が良樹を見る。


 良樹は、手記の横に新しい紙を置いた。


 まだ白い紙。


 何も書かれていない。


 良樹は、腰袋から筆を出した。


「俺たちも書く」


 リシアが小さく頷く。


「英雄候補の記録ね」


「候補の失敗記録だ」


 良樹は即答した。


 カレンが首を傾げる。


「失敗から、ですか?」


「ああ」


 良樹は白い紙を見た。


「そこからじゃないと信用できねえ」


 クラリスは、少しだけ微笑んだ。


「とても良樹くんらしいです」


「成功だけ書いても役に立たねえ」

「何を間違えたか」

「どこで止め損ねたか」

「誰に助けられたか」

「次に何を変えるか」


 良樹は、筆を紙に置いた。


「そこまで書いて、やっと記録だ」


 リシアは、良樹の横顔を見た。


 英雄候補。


 藤田はそう認めた。


 けれど、良樹はまだ英雄ではない。


 本人も、それを分かっている。


 だから、一頁目に成功を書かない。


 称号も書かない。


 失敗を書く。


 そこから始める。


 カレンは、白い紙を見ていた。


 怖い場所を見ること。

 逃げないこと。

 それを、これからも書いていくのだと思った。


 クラリスは、良樹の手元を見ていた。


 筆を持つ指。

 肩。

 呼吸。


 少しだけ力が入っている。

 けれど、壊れそうではない。


 四人で読む。

 四人で書く。


 それなら、きっと止められる。


 良樹は、一行目を書いた。


 英雄候補記録。


 その下に、少しだけ間を空ける。


 そして、次の行。


 第一頁。


 婚約者三名を得る。


 その瞬間、三人の動きが止まった。


「良樹」


 リシアの声が低くなる。


「何だ」


「そこから書くの?」


「重要事項だろ」


「重要だけど!」


 カレンは真っ赤になって両手で顔を覆った。


「こ、婚約者三名……」


 クラリスは、口元に手を添えた。


「事実ではあります」


「クラリス、冷静に受け止めないで」


「ですが、記録としては正確です」


「正確だけど!」


 良樹は真面目な顔で続けた。


「英雄候補になった」

「婚約者が三人になった」

「手記を受け取った」

「四人で読むことにした」

「俺たちの記録を始めた」


 そこで、少しだけ筆を止める。


「これが今日の記録だ」


 リシアは何か言いかけて、やめた。


 カレンも、顔を赤くしたまま、少しだけ笑った。


 クラリスは静かに頷いた。


「はい」

「正しい記録です」


 良樹は、もう一行書いた。


 ただし、手記は一人で読まないこと。


 その下に。


 心肺機能保護のため、詳細未確認事項あり。


「ちょっと待ちなさい」


 リシアが即座に止めた。


「何だ」


「それは書かなくていい!」


「いや、重要そうだったから」


「重要だけど書かなくていい!」


 カレンは両手で顔を覆ったまま、ぷるぷる震えていた。


「良樹さん……」

「それは、その……まだ……」


 クラリスは、清楚に微笑んだ。


「機密事項ですね」


「婚約者会議の機密事項か」


「はい」


「なるほど」


 良樹は、その行を見た。


 そして、線を引いた。


 消したのではない。


 取り消し線だった。


「消しなさい!」


「記録は消すな」


「そういうところだけ技術者にならないで!」


 リシアの声が作業場に響いた。


 その声に、カレンがついに小さく笑った。


 クラリスも微笑む。


 良樹も、少しだけ口元を緩めた。


 重い手記の横で。

 六十年分の失敗記録の隣で。


 新しい紙には、まだ拙い一頁目が置かれていた。


 藤田吾郎の手記。

 その隣に、上村良樹たちの記録。


 英雄候補の道は、称号から始まらなかった。


 綺麗な勝利からでもなかった。


 まず、失敗を読むことから始まった。


 そして、自分たちの失敗を書き始めることから始まった。


 その記録の隣には、三人の婚約者がいた。


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