第56話 英雄候補(挿絵有)
翌朝。
良樹は、作業場の机の前で止まっていた。
机の上には、昨夜、藤田から渡された包みが置かれている。
古い布。
古い紙。
六十年分の手記。
ただの資料ではない。
藤田吾郎という一人の日本人が、この世界で六十年を生き、失敗し、直し、作り、積み上げてきた記録。
《魔導工廠》。
その入口。
良樹は、それを見ていた。
見ているだけだった。
開いてはいない。
開いてはいないが、手は何度も伸びかけた。
「……一頁だけ」
「駄目」
即答したのはリシアだった。
良樹は、机の前で固まる。
「まだ何も言ってない」
「言ったわよ」
「一頁だけだ」
「良樹の一頁だけは、一頁で終わらないでしょ」
カレンが胸元で両手を握りながら、こくこくと頷いた。
「はい」
「良樹さんの一頁だけは、たぶん一頁では終わりません」
クラリスも静かに頷く。
「実績があります」
「信用がない」
「実績があるのよ」
リシアが言った。
良樹は反論できなかった。
手記を読みたい。
今すぐ読みたい。
昨夜、藤田が見せた機械要素。
軸。
歯車。
カム。
リンク。
クラッチ。
保持。
位置決め。
動力伝達。
良樹の《魔導盤》とは違う。
だが、根は同じかもしれないと言われた力。
その六十年分の記録が、目の前にある。
開きたいに決まっている。
だが、今日は藤田に呼ばれている。
昨日、三人を連れて来いと言われた。
なら、手記を読むのは後だ。
良樹は深く息を吐き、包みをもう一度布で包み直した。
「……帰ってから読む」
「そうしなさい」
「ただし、今日は夜更かし禁止です」
クラリスが言った。
良樹は顔をしかめる。
「読み始める前から制限をかけるな」
「かけます」
「良樹くんは、制限をかけないと止まりません」
「止まる」
「止まりません」
カレンが、おずおずと手を上げた。
「あ、あの」
「私も、夜更かしは駄目だと思います」
「三対一か」
「いつものことね」
リシアが少しだけ笑った。
その笑いで、朝の空気がわずかに軽くなった。
昨夜、良樹は三人に詳しい説明をできなかった。
藤田吾郎。
昭和二十年の日本。
六十年。
《魔導工廠》。
クラッチ。
手記。
話そうとすれば、いくらでも話すことはあった。
だが、言葉にならなかった。
一人の技術者の魂を受け継いでしまった。
結局、言えたのはそれだけだった。
三人は、それ以上を聞かなかった。
無理に聞こうとしなかった。
良樹は、それに救われていた。
◇
ギルドへ向かう道中、四人はあまり話さなかった。
リシアは、良樹の横を歩いていた。
良樹の顔は、昨夜より落ち着いている。
だが、完全に軽くなったわけではない。
何かを受け取った男の顔だった。
それを、今すぐ言葉にしろと言うべきではない。
リシアはそう思った。
カレンは、良樹の少し斜め後ろを歩きながら、何度か良樹の手元を見た。
いつもの腰袋。
いつもの歩き方。
いつもの良樹。
でも、少しだけ違う。
背負っているものが増えたように見えた。
なら、せめて横にいたいと思った。
クラリスは、良樹の肩と呼吸を見ていた。
眠れている。
完全ではないが、倒れるほどではない。
足取りも悪くない。
ただ、意識が深いところへ沈みやすい。
注意は必要。
そう判断した。
良樹は、三人が黙って横にいることを感じていた。
何があったのかを、急かされない。
それだけで、少しだけ歩きやすかった。
◇
ギルドに着くと、ガレスが待っていた。
「来たか」
「ああ」
ガレスは良樹の顔を見て、軽く眉を上げる。
「寝たか?」
「寝た」
リシアが横から言った。
「寝かせたわ」
カレンも続く。
「工具も預かりました」
クラリスも穏やかに言う。
「紙も没収しました」
ガレスは、一拍置いてから笑った。
「嫁候補ども、強いな」
「嫁候補だ」
良樹は律儀に訂正した。
「まだ候補だ」
「そうか」
ガレスは、妙に含みのある笑みを浮かべた。
「まあ、今日の爺さん次第だな」
「何の話だ」
「行けば分かる」
ガレスはそれ以上説明しなかった。
軽口はある。
だが、今日はいつもより少しだけ姿勢が正しい。
グランドマスターの場。
そういうことなのだろう。
良樹は、三人と共にギルドの奥へ進んだ。
◇
昨日と同じ部屋だった。
奥の静かな部屋。
机。
椅子。
古い紙。
棚。
窓から入る朝の光。
藤田吾郎は、そこにいた。
昨日の夜よりも、少しだけ疲れて見えた。
だが、目は鋭い。
好々爺ではない。
英雄と呼ばれた老人。
日本から来た先達。
この町のグランドマスター。
そのすべてを背負った目だった。
「来たか」
藤田は言った。
「はい」
良樹が答える。
藤田は、まず三人を見た。
リシア。
カレン。
クラリス。
昨日、報告書では見た。
良樹の口からも聞いた。
だが今日は、本人たちを見る。
「よく来たの」
「昨夜は、良樹を借りた」
リシアは、まっすぐ藤田を見た。
「……何があったのかは、まだ聞いていません」
「聞かなんだか」
「良樹が、まだ言葉にできない顔をしていましたから」
カレンも小さく頷く。
「無理に聞くべきではないと思いました」
クラリスは静かに続けた。
「話せる時に、話してくれると思いました」
藤田は三人を順に見た。
そして、少しだけ頷いた。
「急かさなんだか」
「よい」
良樹は、少し居心地が悪くなった。
三人は待った。
それは信頼だった。
そして、待つ覚悟でもあった。
◇
藤田は、椅子に深く座ったまま、三人へ問いかけた。
「お主らは、良樹について行くつもりか」
最初に答えたのはリシアだった。
「はい」
「ただ守られるつもりはありません」
「良樹の盤に、私の魔法を入れます」
「良樹の設計を、私の魔法で成立させます」
次に、カレンが両手を胸元で握った。
「はい」
「私は怖いです」
「でも、怖い場所を見るのは、私の役目です」
「良樹さんが進むなら」
「私は、怖い場所を見ます」
最後に、クラリスが静かに一礼した。
「はい」
「私は、良樹くんの身体と、皆の負荷を見ます」
「止めるべき時は、止めます」
「良樹くんが進むためにも、壊さないように見ます」
藤田は黙って聞いていた。
三人とも、ただ「ついて行く」とは言わなかった。
自分の役割を言った。
リシアは共同制御者。
カレンは危険を見る者。
クラリスは身体と負荷を見る者。
飾りではない。
燃料でもない。
横に立つ者たちだった。
「よい」
藤田は短く言った。
そして、良樹を見る。
「上村良樹」
「はい」
「昨夜、ワシは君に入口を渡した」
「手記も渡した」
「じゃが、勘違いしてはならん」
「はい」
藤田の声が、少しだけ重くなった。
「君は、まだ英雄ではない」
良樹の胸が、一瞬だけ止まった。
昨夜、入口を渡された。
手記を渡された。
三人も呼ばれた。
グランドマスターの部屋で、改めて向き合わされている。
だから、ほんの一瞬だけ。
もしかして。
そんな考えが、胸の奥をかすめた。
だが、すぐに恥じた。
何を期待した。
入口を渡されただけだ。
手記を預かっただけだ。
まだ何も成していない。
大型トロルを倒した。
魔石通信を形にした。
町の防衛に関わり始めた。
それでも、まだ足りない。
英雄と呼ばれるには、軽すぎる。
良樹は、その期待を飲み込んだ。
藤田は、静かに良樹を見ていた。
「その顔は」
「少しだけ期待した顔じゃな」
良樹は、言い訳をしなかった。
「……しました」
「一瞬だけ」
「そして、すぐ恥じた顔でもある」
「はい」
藤田は、薄く笑った。
「なら、まだ大丈夫じゃ」
「本当に危ない者は、そこで恥じん」
良樹は何も言わなかった。
藤田は続ける。
「英雄とは、自分で名乗るものではない」
「人が後から、勝手に呼ぶものじゃ」
その言葉は、昨日も聞いた。
だが、今日は三人も聞いている。
「ワシも、英雄になろうとして英雄になったわけではない」
「死なせたくない者がおった」
「壊れた場所があった」
「動かさねばならん門があった」
「運ばねばならん怪我人がおった」
「それを一つずつ直しておったら、いつの間にかそう呼ばれただけじゃ」
藤田は良樹をまっすぐ見た。
「君は、英雄ではない」
「まだ足りん」
「背負った数も」
「残した結果も」
「失敗の量も」
「直した数も」
「泣かせた者の数も」
「助けた者の数も」
「何もかも、まだ足りん」
「はい」
良樹は短く答えた。
その返事に、逃げはなかった。
藤田は頷いた。
「そして」
「英雄ではない男が、複数の女を娶ることはできん」
その言葉で、部屋の空気が止まった。
良樹の顔から、血の気が引いた。
分かっていた。
分かっていたはずだった。
英雄になる。
三人を妻にする。
そのために進む。
そう言ってきた。
だが、目の前の老人の口から、制度として、現実として突きつけられると、胸の奥が鈍く沈んだ。
まだ届いていない。
まだ、三人を迎えに行ける場所に立っていない。
良樹は、下を向いた。
唇を噛む。
リシアが息を呑んだ。
カレンの手が胸元で震えた。
クラリスの微笑みが、静かに消えた。
藤田は、その沈黙をしばらく置いた。
それから、ゆっくりと言った。
「ただし」
良樹の肩が、わずかに動いた。
藤田は続ける。
「グランドマスター、藤田吾郎の名において」
「上村良樹を、英雄候補として認める」
部屋の空気が変わった。
「そして」
「英雄候補である上村良樹が、複数の婚約者を持つことを許す」
良樹は、顔を上げた。
「……婚約者」
「妻ではない」
藤田は釘を刺すように言った。
「そこを間違えるな」
「君は、まだ三人を娶れる男ではない」
「英雄ではない」
「だが、英雄を目指す者として、三人を婚約者として横に置くことまでは認める」
良樹は、すぐには答えられなかった。
妻ではない。
だが、候補でもない。
婚約者。
その言葉が、胸の奥に重く落ちた。
藤田は、三人を見る。
「リシア」
「カレン」
「クラリス」
三人が、それぞれ顔を上げた。
「君たちも、それを理解しなさい」
「この男は、まだ君たちを妻にはできん」
「だが、英雄候補の婚約者として、名を置くことはできる」
「それでもよいか」
リシアは、良樹を見た。
良樹は、まだ答えられていない。
悔しさと、安堵と、責任の重さを飲み込もうとしている顔だった。
リシアは、小さく息を吐いた。
「いいわ」
声は、震えていなかった。
「妻になるのがまだ先なら」
「そこまで、連れて行かせるだけよ」
カレンは、胸元で両手を握った。
「はい」
「私は……良樹さんの婚約者に、なりたいです」
「妻になれる日まで」
「ちゃんと、横にいます」
クラリスは、静かに良樹を見ていた。
「はい」
「良樹くんがまだ妻にできないと言うなら」
「妻にできるところまで、私たちも歩きます」
「婚約者として」
藤田は頷いた。
「よい」
そして、良樹を見た。
「上村良樹」
「返事は」
良樹は、三人を見た。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人とも、逃げていなかった。
逃げていないのに、自分だけが下を向いているわけにはいかなかった。
良樹は、深く息を吸った。
「……受けます」
声は低かった。
だが、逃げてはいなかった。
「俺は、まだ三人を妻にできる男じゃありません」
「でも」
「英雄候補として」
「三人を婚約者として、横に置くことを認められるなら」
良樹は、もう一度三人を見た。
「リシア」
「カレン」
「クラリス」
三人の視線が、良樹へ集まる。
「俺の婚約者に、なってほしい」
リシアの目が揺れた。
カレンの顔が、赤く染まった。
クラリスは、ゆっくりと微笑んだ。
「遅いわよ」
リシアが言った。
「はい」
カレンが、小さく、けれどはっきり頷いた。
「喜んで」
クラリスが、静かに答えた。
藤田は、それを見届けてから、短く言った。
「ならば決まりじゃ」
「今日より、上村良樹は英雄候補」
「リシア、カレン、クラリス」
「三名は、その婚約者として扱う」
ガレスが姿勢を正した。
「承知しました、グランドマスター」
「記録しておけ」
「はい」
場は、そこで終わった。
終わった、はずだった。
◇
良樹は、ようやく息を吐いた。
重かった。
英雄ではない。
妻にはできない。
だが、英雄候補として認められた。
婚約者として三人を横に置くことを許された。
まだ何も軽くなってはいない。
むしろ、重くなった。
それでも、道は置かれた。
良樹が、その重さを飲み込もうとした瞬間だった。
「良樹!」
最初に動いたのは、リシアだった。
さっきまで真っ直ぐ立っていた。
藤田の前で。
グランドマスターの前で。
良樹が下を向いた時も、手を伸ばさなかった。
伸ばしたかった。
けれど、伸ばさなかった。
良樹が自分で答える場だったからだ。
だから。
終わった瞬間、その我慢が切れた。
リシアが正面から良樹へ飛び込んだ。
「うおっ」
良樹が受け止める。
その横から、カレンが一拍遅れて動いた。
「良樹さん……!」
怖がりなのに。
人前なのに。
ギルドなのに。
それでも、止まれなかった。
カレンは良樹の服をぎゅっと掴み、腕にしがみついた。
反対側から、クラリスが静かに寄り添う。
落ち着いているように見えた。
だが、逃がさない力だった。
「良樹くん」
「お、お前ら」
「ここ、ギルドだぞ」
「知ってるわよ」
リシアは顔を赤くしながら、それでも離れなかった。
「でも、今は無理」
カレンは涙目で笑っていた。
「良樹さんの、婚約者……」
「私が……」
クラリスは、良樹の胸元に額を寄せたまま言った。
「婚約者ですから」
「婚約者って、そういう権限なのか」
「そうよ」
「はい」
「そうです」
三人の返事が重なった。
良樹は天井を見た。
正面からリシア。
横からカレン。
反対側からクラリス。
三方向から完全に塞がれている。
柔らかい。
温かい。
近い。
考えるな。
どこが、とは考えるな。
ふに。
きゅっ。
ぽよん。
良樹の脳内に、記録してはいけない異常ログが三件追加された。
消したい。
だが、消えない。
人間の記憶には、非常停止が付いていない。
「……おい、ガレス」
「何だ」
「これは止めるべきか」
ガレスは、額に手を当てた。
「俺に聞くな」
「俺も判断に困ってる」
良樹は三人に抱きつかれたまま、低く言った。
「ギルドの登録って、こういうものなのか」
「違う」
ガレスは即答した。
「普通は違う」
「だが、お前らに普通を期待した俺が悪かった」
◇
藤田は、その光景を見ていた。
三人に抱きつかれて固まる良樹。
正面からリシア。
横からカレン。
反対側からクラリス。
若い。
ただ、それだけではない。
この若者たちは、ようやく得た場所へ身体ごと飛び込んでいる。
日本。
その名は、昨夜から胸の奥で少しだけ揺れていた。
焼けた空。
軍需工場。
油と鉄の匂い。
空襲警報。
十七で途切れた、あちらの人生。
だが、藤田吾郎の日本は十七年だ。
この世界で生きた時間は、六十年になる。
戦った。
作った。
直した。
失敗した。
英雄などと呼ばれた。
嫁たちに叱られ、笑われ、支えられた。
仲間を送り、嫁たちを送り、老いた。
悔いがないと言えば、嘘になる。
一つだけ、残っていた。
技術だ。
自分がこの世界で作ったもの。
失敗したもの。
人を生かすために積み上げたもの。
《魔導工廠》という形で得て、六十年かけて汚し、直し、使い込んだもの。
それを、誰にも渡せずに逝くことだけが、少し惜しかった。
だが昨夜。
目の前の若い男は、迷わず言った。
受け継ぐ、と。
分かっていない顔ではなかった。
欲に濁った顔でもなかった。
重さを知って、それでも受け取る顔だった。
ならば、よい。
種は渡した。
あとは、この若者が。
この若者たちが、勝手に育てればよい。
藤田は、少しだけ目を細めた。
良いものを見た。
そう思った。
藤田吾郎の人生は、これでひとまず完成した。
老兵は死なず。
ただ、去るのみ。
藤田は、そう思ってから、ふっと鼻で笑った。
「止めるな」
ガレスが藤田を見る。
「よろしいので?」
「よい」
「若い者が、ようやく得た場所じゃ」
「今だけは、好きにさせてやれ」
ガレスは、苦笑した。
「爺さんも、甘いですね」
「大甘採点と言ったじゃろう」
藤田は、良樹たちを見たまま言った。
「それに」
「こういう時に抱きついてくれる者がおるなら、抱きつかれておけ」
「後で、どれだけありがたかったか分かる」
良樹は、その言葉に少しだけ顔を上げた。
藤田の目は笑っていた。
だが、その奥には、長い時間を生きた者だけが持つ静けさがあった。
リシアも。
カレンも。
クラリスも。
その言葉だけは、茶化さなかった。
ただ、良樹に抱きつく腕の力が、少しだけ強くなった。
藤田は、それを見届けてから、もう一度鼻で笑った。
「まあ」
「ワシは四方からじゃったがの」
場が止まった。
良樹が固まる。
リシアが目を瞬かせる。
カレンが顔を真っ赤にする。
クラリスが、口元に手を添えて微笑む。
ガレスが、呆れたように言った。
「爺さん」
藤田は、どこか得意げに顎を上げた。
「三方で騒いでおるうちは、まだまだ青いわ」
良樹は、三人に抱きつかれたまま黙った。
出たよ。
ベテランの若手いじり。
現場でも、ギルドでも、異世界でも。
理不尽な先達のマウントだけは、どうやら変わらないらしい。
「……そこで張り合うんですか」
「張り合うとも」
「先達とは、背中で語るものじゃ」
「語る背中の種類が違いませんか」
「細かいことを言うな」
藤田は笑った。
ガレスも、とうとう肩を揺らした。
リシアは呆れたように息を吐き、それでも良樹から離れなかった。
カレンは真っ赤な顔のまま、良樹の袖を握り直した。
クラリスは静かに微笑み、良樹の腕に自分の腕を絡めた。
良樹は、もう一度天井を見た。
英雄ではない。
まだ、妻にはできない。
けれど。
英雄候補として。
三人の婚約者として。
歩くことは、許された。
道は遠い。
重い。
それでも、今だけは。
三方向から抱きつかれたまま、良樹は小さく息を吐いた。
「……重いな」
リシアが、すぐに睨んだ。
「誰が?」
「違う」
「そういう意味じゃねえ」
カレンが慌てる。
「あ、あの、私、重いですか……?」
「違うからな」
クラリスがにこりと微笑んだ。
「責任の話ですね」
「ああ」
「責任の話だ」
「では」
クラリスは、さらに少しだけ腕に力を込めた。
「一緒に持ちます」
リシアも頷いた。
「当然でしょ」
カレンも、涙目のまま笑った。
「はい」
「一緒に持ちます」
良樹は、三人を見る。
もう一度、息を吐く。
「……分かった」
藤田は、その光景を見ていた。
ガレスは、記録用の紙を持ったまま、どう書くべきか本気で悩んでいた。
「爺さん」
「何じゃ」
「登録欄に、抱擁三方向って書きますか」
「書くな」
「婚約者三名でよい」
「了解です」
良樹は低く言った。
「そこは書かなくていい」
リシアがぼそりと呟く。
「でも、記念ではあるわね」
「リシア」
「何よ」
「記録するなよ」
「しないわよ」
「たぶん」
「たぶんを付けるな」
カレンが小さく笑った。
クラリスも穏やかに微笑んだ。
藤田は椅子の背にもたれ、ゆっくりと目を細めた。
英雄ではない。
だが、候補ではある。
妻ではない。
だが、婚約者ではある。
未完成。
未達。
途中。
だからこそ、若い。
だからこそ、進める。
その日、上村良樹は英雄になったわけではなかった。
ただ、英雄候補になった。
そして。
三人は、候補ではなくなった。
◇
帰り際、藤田は良樹を呼び止めた。
「良樹」
「はい」
「手記は、急いで読むな」
良樹は一瞬だけ黙った。
「……無理では」
「無理でも、急ぐな」
「難しいですね」
「難しいから言うておる」
藤田は、古い手で机を軽く叩いた。
「技術は、読むものではない」
「使い、失敗し、直し、また使うものじゃ」
「紙だけ追えば、分かった気になる」
「分かった気になった者ほど、危ない」
「はい」
「三人にも話せ」
「一人で抱えるな」
良樹は、三人を見た。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人とも、もう逃げない目で良樹を見ていた。
「分かりました」
「よい」
藤田は頷いた。
「なら、行け」
「英雄候補」
良樹は、その呼び名に少しだけ肩を揺らした。
まだ慣れない。
慣れてはいけない気もする。
それでも、逃げるものではない。
「はい」
良樹は答えた。
「行ってきます」
藤田は、少しだけ笑った。
「うむ」
四人は部屋を出た。
扉が閉まる。
廊下の向こうから、リシアの声が聞こえた。
「良樹、今日は手記一頁までよ」
「一頁は読むんだな」
「読むなとは言ってないわ」
「なら」
「ただし、私たちの前で」
「はい」
カレンの声が続く。
「あの、読む前にお昼も食べましょう」
「飯か」
「はい」
「ちゃんと食べてからです」
クラリスの声も聞こえた。
「夜更かしは禁止です」
「まだ朝だぞ」
「先に言っておきます」
廊下の声が遠ざかる。
藤田は、それを聞いていた。
そして、静かに笑った。
「……青いの」
だが、その声はどこか楽しそうだった。
老兵は、まだ死なない。
ただ、去る準備を一つ終えただけだった。




