第55話 クラッチを繋ぐ日(挿絵有)
「ワシは、昭和二十年の日本から来た」
その言葉が、夜のギルドの奥に落ちた。
良樹は、しばらく何も言えなかった。
日本。
この世界ではない国。
自分が来た場所と、同じ名前。
だが、同じではない。
昭和二十年。
終戦の年。
焼け野原。
空襲。
学徒動員。
歴史の教科書で見た言葉が、目の前の老人の口から、ただの過去として出てきた。
「……日本人、なんですか」
ようやく、それだけを言った。
グランドマスターは、少しだけ目を細めた。
「そうじゃ」
そして、ゆっくりと背筋を伸ばした。
その仕草だけで、好々爺の空気が少し薄れた。
「名乗っておこう」
老人は、良樹を真正面から見た。
「藤田吾郎」
「それが、ワシの日本での名じゃ」
藤田吾郎。
良樹は、その名前を胸の内で繰り返した。
グランドマスターでもない。
英雄でもない。
ギルドの頂点でもない。
日本から来た、一人の男の名前。
「上村良樹です」
良樹も、自然と名乗り直していた。
「知っておる」
藤田は、少しだけ笑った。
「じゃが、今の名乗りは、それでよい」
同じ国から、違う時代にこの世界へ落ちた者同士が、初めて名前を置いた瞬間だった。
藤田は、椅子に深く腰を下ろしたまま、良樹を見ていた。
好々爺のような笑みはない。
ただ、長い時間を生きた者の目があった。
「驚いた顔をしておるの」
「……しますよ」
「こちらへ来た時は、まだ戦争は終わっておらなんだ」
藤田は、静かに言った。
「ワシは十七じゃった。学徒動員での。軍需工場におった」
「工場……」
「ああ。お主が言う、えふえー技術者、とは違うじゃろうがな。ワシらの時代の工場じゃ。機械を回し、部品を作り、手を動かし、怒鳴られ、殴られ、覚える。そういう場所じゃった」
良樹は何も言えなかった。
自分がいた現場とは、何もかも違う。
だが、完全に違うとも思えなかった。
「空襲警報が鳴っての」
藤田は、遠くを見るように言った。
「爆音がして、工場が揺れた。焼夷弾か爆弾か、今となっては分からん。天井が光ったように見えてな。ああ、死んだと思った」
藤田は、乾いた笑いを漏らした。
「じゃが、目を開けたら森じゃった」
良樹は、息を呑んだ。
「……俺も、工場から森でした」
「そうじゃろうな」
藤田は頷いた。
「お主の目を見れば分かる。あれは、帰る場所を置いてきた者の目じゃ」
良樹は、視線を落とした。
父の声が、まだ耳の奥に残っている。
動かす前に、止め方を考えろ。
あれが、現実で聞いた最後の声だった。
「この世界へ来て、六十年になる」
藤田は言った。
「若い頃は、まあ荒れた。力もあった。スキルもあった。言葉も通じた。死ぬ気で覚えれば、生きることはできた」
「六十年……」
「ああ」
「長いぞ、六十年は」
その声は、誇っているようにも、疲れているようにも聞こえた。
「ワシはこの世界で、英雄と呼ばれた」
藤田は、少しだけ鼻で笑った。
「壁に掛かっとったじゃろう。若い頃の絵が」
「……はい」
「あれがワシじゃ」
良樹は、ギルドの壁に掛かっていた絵を思い出した。
若い英雄。
鋭い目。
人を従える力を持った男。
あれが、この老人。
「英雄とは、自分で名乗るものではない」
藤田は言った。
「あとから人が勝手に呼ぶものじゃ」
「ワシは、剣が誰より強かったわけではない」
「魔法で山を吹き飛ばしたわけでもない」
「ただ、戦える現場を作った」
「戦える現場……」
「橋を直した」
「門の開閉機構を変えた」
「荷を運ぶ巻上機を作った」
「壊れた馬車を直した」
「籠城戦で、罠と搬送路と退避路を組んだ」
「怪我人を運ぶ台車も作った」
「冒険者が死なずに済む仕組みを、少しずつ作った」
藤田の声は低かった。
「剣を振る者だけが英雄ではない」
「剣を振れる場所を作る者も、英雄になることがある」
「もっとも、本人がそれを望むかどうかは別じゃがな」
良樹は、黙って聞いていた。
「お主を見に来た理由を、話そう」
藤田が言った。
部屋の空気が、少し変わった。
「表向きは、噂の若造を見に来たグランドマスターじゃ」
「表向きは、ですか」
「そうじゃ」
藤田は、良樹の目を真正面から見た。
「実際は、危険なら潰すつもりで来た」
良樹の喉が、わずかに鳴った。
冗談ではなかった。
「上村良樹」
藤田は、名前を口にした。
「明らかに日本人の名」
「異常な技術系スキル」
「急速に発展する魔導盤」
「魔石通信」
「三人の女を連れている」
「英雄になると言っている」
藤田の声は淡々としていた。
「聞くだけなら、危うい」
「力に酔った転移者の小僧が、女を侍らせ、英雄ごっこを始めたようにも見える」
良樹は反論しなかった。
「もし、お主が力に酔っておったなら」
「女を飾りか燃料のように扱っておったなら」
「失敗を記録せず、止め方も考えず」
「英雄という言葉を、自分を飾るために使っておったなら」
藤田は、静かに言った。
「ワシは、お主を止めた」
殺す、とまでは言わなかった。
だが、良樹には意味が分かった。
「……でしょうね」
「怖くないのか」
「怖いですよ」
「ただ、筋は通ってます」
「ほう」
藤田の目が、わずかに細くなった。
良樹は、言葉を選んだ。
「俺が、危ない異世界人だった場合」
「この町にとって危険です」
「リシアたちにとっても危険です」
「この世界にとっても、たぶん危険です」
良樹は一度、息を吐いた。
「なら、止める人間が要る」
「あなたがその立場だった」
「それだけでしょう」
藤田は、しばらく良樹を見ていた。
それから、喉の奥で低く笑った。
「本当に、現場の人間じゃの」
「褒めてますか」
「褒めておる」
「かなりな」
藤田は、机に置かれた紙へ視線を落とした。
そこには、良樹が持ってきた報告書の写しがあった。
「お主は、失敗を書いておる」
「止め方を書いておる」
「撤退を書いておる」
「誰がどこで何をするかを、書いておる」
藤田は、次に良樹を見た。
「三人のことも見た」
「リシアは魔法の共同制御者」
「カレンは怖い場所を見る者」
「クラリスは身体と負荷を見る者」
「飾りではない」
「燃料でもない」
「それぞれ、形がある」
良樹は黙っていた。
「直結禁止」
「個別インバータ」
「共通ブレーカー」
「切断手順確認」
藤田は、古い声でその言葉を並べた。
「お主は、繋ぐ前に切ることを考えておる」
「動かす前に、止めることを考えておる」
良樹の胸の奥で、父の声が鳴った。
止められて初めて設計だ。
「なら、話が変わる」
藤田は言った。
「お主は力に酔ってはおらん」
「現場の人間じゃ」
「失敗を怖がっておる」
「そして、それでも前へ進もうとしておる」
藤田は、ゆっくり背もたれから身を起こした。
「だから、託せるかもしれんと思った」
良樹は、喉の奥が乾くのを感じた。
託す。
その一語だけで、部屋の空気が重くなった。
「藤田さん」
「うむ」
「あなたのスキルは、何なんですか」
藤田は、少しだけ笑った。
「ようやく聞いたの」
そして、右手を机の上に置いた。
皺の深い手。
骨ばった指。
老人の手。
その手の下に、淡い光が灯った。
良樹は、息を止めた。
魔導盤ではない。
線ではない。
端子台ではない。
接点でもない。
そこに現れたのは、機械だった。
軸。
歯車。
カム。
リンク。
ばね。
爪。
押し板。
送りねじ。
保持具。
位置決めの当たり。
どれも、半透明の光でできている。
だが、良樹には分かった。
これは盤ではない。
回路ではない。
機械要素だ。
「ワシのスキルは、《魔導工廠》」
藤田は言った。
「お主の《魔導盤》と、たぶん同じ根から出たものじゃろう」
「じゃが、お主は電気屋」
「ワシのは機械が殆どじゃ」
「……魔導工廠」
良樹は呟いた。
「軸、歯車、カム、リンク、クラッチ、ベルト、クランク、送り機構、治具、保持、位置決め、動力伝達」
「そういうものを扱う」
藤田の手の上で、歯車がゆっくり回った。
「若い頃は、もっと出せた」
「門を動かす機構も作った」
「巻上機も作った」
「防衛用の罠も作った」
「壊れた橋の補強もした」
「荷を運ぶ仕組みも作った」
「人を生かすためなら、何でも作った」
歯車の光が、少し揺れた。
「今はもう、長くは保たん」
「大型機構も難しい」
「年を取った」
「死期も近い」
良樹は、言葉を失った。
藤田は、それを見て笑った。
「そんな顔をするな」
「人は死ぬ」
「それだけじゃ」
「……でも」
「でも、技術は困る」
藤田の声が、低くなった。
「人の死は、仕方がない」
「思い出も、持って逝くしかない」
「ワシには嫁が四人おった」
良樹は目を見開いた。
藤田は、少しだけ遠くを見た。
「みんな、ワシより先に逝った」
「だから、お主が三人を嫁にもらうために英雄になると言った時、笑えんかった」
藤田は、それ以上は語らなかった。
誰だったのか。
どう出会ったのか。
どう愛したのか。
どう見送ったのか。
それは、藤田吾郎の人生だった。
「嫁たちの記憶は渡さん」
「ワシの六十年も渡さん」
「英雄と呼ばれた過去も渡さん」
「そんなものは、ワシのものじゃ」
「ワシが持って逝く」
藤田は、机の上の機械要素を見た。
「じゃが、技術は違う」
良樹の背筋が、自然と伸びた。
「ワシ一人の思い出にしてよいものではない」
「誰かを生かすために積んだものなら」
「現場に、残さねばならん」
藤田の手の上で、一つの部品が形を取った。
軸と軸。
その間に、噛み合う部品。
歯があり、爪があり、ばねがある。
押し付ける面。
逃げる面。
繋ぐ面。
切る面。
良樹は、思わず呟いた。
「……クラッチ」
藤田の目が、わずかに光った。
「ほう」
「今の日本でも、そう呼ぶか」
「呼びます」
「回転を、必要な時だけ繋ぐ部品です」
「繋ぎっぱなしにしない」
「必要な時に噛ませて」
「終わったら、切る」
藤田は、満足そうに笑った。
「なら、話が早い」
机の上のクラッチが、ゆっくり回った。
「ワシの六十年は渡せん」
「経験も、勘も、失敗も、嫁たちとの記憶も、全部ワシのものじゃ」
「持って逝く」
良樹は、黙って聞いた。
「じゃが、最初に与えられた核だけは違う」
「《魔導工廠》の、初期の核」
「ワシが育てる前の種」
「それだけなら、条件が揃えば渡せる」
「条件……」
「同じ日本から来た者」
「技術を技術として扱う者」
「力に酔わず、止め方を考える者」
「そして、受けると決める者」
藤田は、良樹を見た。
「完成形は渡せん」
「ワシの勘も渡せん」
「この音はまずい」
「この振動はまだいける」
「この焼け方は接触不良ではなく負荷側」
「この調整ネジは触る前に印を入れろ」
「そういうものは、渡せん」
良樹の胸に、言葉が刺さった。
図面は残せる。
マニュアルは作れる。
寸法も書ける。
写真も残せる。
だが、現場の勘は渡せない。
「才能の種は渡せる」
「年輪は渡せん」
「傷も渡せん」
「修羅場の判断も渡せん」
「だから、お主は受け取った後、自分で育てるしかない」
藤田は言った。
「それでも、受けるか」
良樹は、藤田を見た。
ここで言うべき言葉はいくつもあった。
だが、それは違う。
先達が、現場に残そうとしている。
失伝させたくないものを、重いと分かった上で差し出している。
それを、若い側が遠慮や値踏みで濁してはいけない。
良樹は、まっすぐ藤田を見た。
「受けます」
藤田は、少しだけ目を細めた。
「遠慮せんのか」
「しません」
良樹は即答した。
「英雄になるために必要です」
「三人を迎えに行くためにも必要です」
「この世界で、俺にできることを増やすためにも必要です」
良樹は、机の上のクラッチを見た。
「それに」
「技術が失伝するのが嫌だって気持ちは分かります」
「俺も、現場の人間です」
良樹は、はっきりと言った。
「技術を、受け継ぎます」
藤田の口元が、ゆっくり上がった。
「よい」
「その言葉が聞きたかった」
藤田の手の上で、クラッチが大きくなった。
良樹の胸の奥で、《魔導盤》が立ち上がる。
端子台。
ブレーカー。
インバータ。
センサー。
切断手順。
その奥に、まだ何も置かれていなかった空間がある。
藤田の《魔導工廠》から、一本の軸が伸びた。
良樹の《魔導盤》の奥に、まだ接続されていない軸受けのようなものが見えた。
表現は違う。
だが、良樹には分かった。
直結ではない。
押し込むのでもない。
一瞬だけ繋ぎ、必要なものだけを渡して、切る。
やっていることは、自分が三人へしてきた接続に近い。
「噛ませるぞ」
藤田が言った。
「一瞬だけじゃ」
「受けろ」
「受けます」
クラッチが動いた。
軸と軸が近づく。
歯が合う。
爪が乗る。
ばねが押す。
そして。
がちん。
音がした。
金属音ではない。
魔力の音でもない。
だが、良樹には、それが確かに機械音に聞こえた。
何かが流れ込んだ。
藤田の六十年ではない。
英雄の記憶ではない。
四人の妻の顔でもない。
来たのは、もっと小さいものだった。
けれど、確かに入口だった。
良樹の魔導盤の奥に、今までなかった場所が開く。
理解したわけではない。
使いこなせるわけでもない。
ただ、見えるようになった。
入口が、開いた。
次の瞬間。
クラッチが外れた。
「切った」
藤田が言った。
息が少し荒い。
だが、その声には満足があった。
「繋ぎっぱなしにはしておらん」
「機械屋が、クラッチを切り忘れるわけにはいかんからの」
良樹は、胸を押さえた。
重い。
だが、押し潰される重さではない。
工具を渡された時の重さに近かった。
「……ありがとうございます」
良樹は、深く頭を下げた。
藤田は、しばらく黙っていた。
そして、机の下から大きな包みを出した。
古い革紐で縛られた、分厚い束だった。
紙。
手記。
帳面。
図。
文字。
日本語と、この世界の文字が混ざっている。
「こっちが本体じゃ」
「本体?」
「今渡したのは、入口じゃ」
藤田は、その束を机の上に置いた。
どさり、と重い音がした。
「こっちは、ワシが六十年かけて書き残した失敗じゃ」
良樹は、息を呑んだ。
手記の端に、荒い字が見える。
転移直後。
材料差。
木材の強度。
魔力軸の保持失敗。
巻上機破損。
門機構改善。
搬送台車。
歯車欠け。
人を挟みかけた治具。
防衛戦時臨時架台。
橋梁補修。
ギルド倉庫改善。
若いガレス。
完成された教科書ではなかった。
失敗の山だった。
線は荒い。
字も荒い。
書き直しもある。
当時は正しいと思ったらしい記述の横に、後年の訂正が入っている。
これは、英雄譚ではない。
「経験は渡せん」
藤田は言った。
「じゃが、記録なら渡せる」
「読め」
「疑え」
「試せ」
「間違っておれば、直せ」
藤田は、良樹を見る。
「それが技術伝承じゃ」
良樹は、手記に手を置いた。
重い。
さっき受け取ったスキル核より、こちらの方が重いかもしれなかった。
「……やってみせます」
「よい」
藤田は頷いた。
「それでよい」
良樹は、手記を抱えた。
一人の老人の六十年分の失敗。
それを抱えている。
「さて」
藤田は、少しだけ表情を戻した。
好々爺に近い顔。
しかし、完全には戻っていない。
「明日、三人を連れてもう一度来なさい」
良樹は、顔を上げた。
「三人を?」
「そうじゃ」
「リシア、カレン、クラリス」
「全員連れて来るがよい」
「理由を聞いても?」
「明日話す」
良樹は、聞きたくなった。
だが、聞かなかった。
今夜、これだけのものを受け取った。
この老人は、渡すものと渡さないものを分けている。
なら、今聞かない方がいい。
良樹は、短く答えた。
「分かりました」
「うむ」
「明日、三人を連れて来ます」
「それでよい」
藤田は、少しだけ笑った。
「今日は寝ろ」
「受け取ったばかりで、作業などするでないぞ」
良樹は、一瞬だけ黙った。
「……善処します」
「嘘が下手じゃの」
「よく言われます」
「三人に止めてもらえ」
「たぶん、止められます」
「なら安心じゃ」
藤田は、手を振った。
「行け」
良樹は、もう一度深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
そして、手記を抱えて部屋を出た。
◇
ギルドの廊下は、夜の匂いがした。
昼間の喧騒はない。
酒場の方から、わずかに低い声と木杯の音が聞こえるだけだった。
ガレスが、壁にもたれて待っていた。
腕を組んでいる。
目は閉じているが、眠ってはいない。
「終わったか」
「ああ」
良樹は頷いた。
ガレスは、良樹の抱えている手記を見た。
「何か渡されたか」
「……ああ」
「中身は?」
「今は言えねえ」
ガレスは、良樹の顔を見た。
いつものように食い下がることはなかった。
「そうか」
「ああ」
「爺さんは?」
「疲れてる」
「でも、たぶん大丈夫だ」
「そうか」
ガレスは短く答えた。
それから、少しだけ目を細める。
「顔が変わったな」
「そうか?」
「ああ」
「重いものを受け取った顔だ」
良樹は、手記を抱え直した。
「重くて仕方ねえ。けど、今の俺に必要だ」
ガレスは黙った。
冗談とは受け取らなかった。
「なら、落とすなよ」
「ああ」
「それと」
「何だ」
「今日は寝ろ」
良樹は、少しだけ顔をしかめた。
「みんなそれ言うな」
「言われる顔をしてるんだよ」
「そんなにか」
「そんなにだ」
ガレスは鼻で笑った。
「行け」
「嫁候補どもが待ってるぞ」
「婚約者候補だ」
「細かいな」
「まだ正式じゃねえ」
「なら、明日あたり正式になるといいな」
良樹は返事に詰まった。
ガレスはそれ以上何も言わなかった。
ただ、軽く手を振った。
良樹はギルドを出た。
夜風が、少し冷たかった。
◇
良樹が去ったあと、グランドマスターの部屋には、しばらく沈黙が残った。
藤田吾郎は、机の上に置いた手を見下ろしていた。
皺の深い手だった。
昔は、もっと動いた。
軸も、歯車も、カムも、リンクも、思った通りに噛んだ。
クラッチを繋げば、力が伝わった。
送り機構を組めば、物が動いた。
治具を作れば、人の手が少し楽になった。
今はもう、ほんの短い時間、クラッチを噛ませるだけで息が上がる。
「……あんな若者に」
藤田は、小さく呟いた。
「あんな若者に、この老耄の重さを背負わせねばならんとはのう」
笑ったつもりだった。
だが、口元はうまく動かなかった。
「本当に、すまんのう」
渡したのは、技術だけだ。
そう言い聞かせた。
六十年は渡していない。
嫁たちの思い出も渡していない。
英雄と呼ばれた過去も渡していない。
だが、失伝させたくないという老人の未練だけは、確かにあの若者の手に乗せてしまった。
良樹は、迷わなかった。
値踏みもしなかった。
遠慮もしなかった。
自分などでいいのか、と逃げもしなかった。
ただ、受けると言った。
現場の人間として。
技術を失わせたくない者として。
その恩に、報いねばならない。
「じゃが――」
藤田は、ゆっくり顔を上げた。
その目に、好々爺の柔らかさはもうなかった。
若い冒険者たちを震え上がらせた、かつての鬼の目が、ほんの一瞬だけ戻っていた。
「あれほど迷わず受けてくれた恩には、報いるかの」
明日、三人を連れて来い。
そう言った。
英雄とは、まだ認めん。
あの若者は、まだ英雄ではない。
未熟じゃ。
危うい。
甘い。
焦る。
背負いすぎる。
放っておけば、また自分を削る。
だが。
候補としてなら。
この町とギルドの名で、三人を隣に立たせる道くらいは作れる。
藤田吾郎は、静かに息を吐いた。
「大甘採点じゃ」
「年寄りの、最後のえこひいきよ」
そして、机の上に残った手記の控えに手を置いた。
◇
拠点へ戻ると、灯りがまだ点いていた。
良樹は扉を開ける前に、一度だけ息を吐いた。
手記が重い。
腕ではなく、胸の奥が重い。
扉を開ける。
居間には、三人がいた。
リシア。
カレン。
クラリス。
リシアは椅子に座っていたが、良樹が入った瞬間に立ち上がった。
カレンは胸元で両手を握った。
クラリスは、良樹の顔を見た瞬間、微笑みを少しだけ消した。
「良樹」
リシアが言った。
「何があったの?」
良樹は、三人を見た。
言葉はいくつもあった。
けれど、そのどれもが違う気がした。
今、ここで口にすれば、受け取ったものまで軽くなる。
そんな気がした。
カレンが不安そうに近づいた。
「良樹さん」
「顔が……」
クラリスも静かに言う。
「良樹くん」
「呼吸が、少し違います」
良樹は、手記を抱え直した。
そして、短く言った。
「今は、上手く言葉で伝えれねえ」
三人は、黙った。
三人には、何があったのか分からなかった。
けれど、今すぐ聞いていい顔ではないことだけは分かった。
「明日」
良樹は続けた。
「三人も呼ばれてる」
「グランドマスターに、全員で来いって言われた」
「私たちも?」
「ああ」
「理由は?」
「明日話すって言われた」
リシアは、少しだけ眉を寄せた。
「聞かなかったの?」
「聞かなかった」
「そう」
リシアは、それ以上聞かなかった。
良樹が聞かなかったなら、理由がある。
そう思った。
良樹は、手記を机の上に置いた。
「今日は寝る」
三人が固まった。
最初に反応したのは、カレンだった。
「良樹さんが」
「自分から寝るって……」
リシアが、真顔で言った。
「明日は槍でも降るかしら」
「降らねえよ」
クラリスは、静かに頷いた。
「いえ」
「今夜は、寝かせるべきです」
「そうね」
リシアは即答した。
「工具も紙も没収」
「そこまではしなくていい」
「するわよ」
リシアは、良樹の腰袋へ視線を向けた。
「上手く言葉にできないほど重いものを抱えた男が、寝不足で倒れたら洒落にならないでしょ」
良樹は、一瞬だけ黙った。
「……それは困るな」
「でしょう」
カレンが、少しだけほっとしたように笑った。
「あ、あの」
「手記は、ここに置いておきますか?」
「ああ」
「濡れない場所」
「火の近くは駄目だ」
「あと、絶対に汚すな」
「はい」
「大切なものなんですね」
「かなりな」
カレンは真剣に頷き、手記の周囲に布を敷いた。
クラリスは良樹の横に立ち、顔色を見た。
「今日は、説明しなくていいです」
「ですが、明日以降、必要な分は聞かせてください」
「ああ」
「それと」
「今夜は、眠れなくても横になってください」
「分かった」
「本当ですね?」
「……分かった」
「今、少し間がありました」
リシアが腰袋を奪った。
「あ」
「没収」
「筆だけでも」
「没収」
「メモを一行」
「没収」
「厳しくないか」
「甘いくらいよ」
カレンが、おずおずと両手を出した。
「あの、良樹さん」
「工具も……」
「工具は命だ」
「でも、今日は……」
カレンの声は弱い。
だが、逃げていない。
「今日は、寝てください」
良樹は、カレンを見た。
それから、腰袋を外した。
「……頼む」
「はい」
カレンは、大事そうに腰袋を受け取った。
まるで、良樹の一部を預かるように。
クラリスが、少しだけ微笑んだ。
「では、良樹くん」
「寝室へ」
「護送か」
「はい」
「護送です」
「俺は囚人か」
「寝不足の常習犯です」
「否定しづらいな」
リシアが先に立つ。
カレンが腰袋を抱える。
クラリスが良樹の横に付く。
良樹は、三人に囲まれるようにして階段へ向かった。
部屋へ入る直前、良樹は一度だけ振り返った。
机の上の手記。
藤田吾郎の六十年分の失敗。
それを見て、短く息を吐く。
「明日から、読まなきゃな」
「明日から」
リシアが言った。
「今日は寝る」
「ああ」
良樹は頷いた。
「今日は寝る」
◇
良樹が部屋に入ったあと、三人はしばらく廊下に立っていた。
扉の向こうで、布団が動く音がした。
それから、静かになった。
カレンは、胸元で腰袋を抱いたまま言った。
「良樹さん」
「本当に、何か重いものを受け取ったんですね」
「ええ」
リシアは、扉を見た。
「でも、今は聞かない」
「明日、私たちも呼ばれてるんだから」
「はい」
クラリスは、静かに頷いた。
「今夜は、寝かせましょう」
「良樹くんが自分から寝ると言ったのです」
「それだけで、相当です」
「そうね」
リシアは小さく笑った。
「明日は本当に槍が降るかもね」
「降ったら、良樹さんが対策を考えそうです」
カレンが言うと、三人は少しだけ笑った。
重い夜だった。
何が起きたのか、まだ分からない。
けれど、良樹が一人で何かを受け取ってきたことだけは分かった。
そして明日。
自分たちも、グランドマスターに呼ばれている。
リシアは、階下の机の上に置かれた手記を思い浮かべた。
カレンは、胸に抱えた腰袋を少しだけ強く持った。
クラリスは、扉の向こうの良樹の呼吸を聞いていた。
夜は、静かだった。
その静けさの中で。
ひとつのクラッチが、確かに繋がった。




