第54話 英雄だった男
その日、ガレスは昼前に拠点へ来た。
いつものように乱暴な足音を立てて、作業場の入口に立つ。
ただし、その顔はいつもより少しだけ嫌そうだった。
良樹は試験台の上に広げていた紙から顔を上げる。
「ガレスさん?」
「ああ」
「いるな」
「見りゃ分かるだろ」
「相変わらずだな、お前は」
ガレスはそう言ってから、少しだけ横へ退いた。
その後ろに、老人がいた。
背は高くない。
痩せている。
髪は白く、顔には深い皺が刻まれている。
杖をついているが、足取りが弱いわけではない。
柔らかく笑っていた。
町で子どもに菓子でも配っていそうな、気のいい老人に見える。
「ほっほ」
「君が、上村良樹くんかの」
その声は穏やかだった。
リシアが少しだけ首を傾げる。
カレンは、老人とガレスを見比べている。
クラリスは、いつもの微笑みのまま、静かに老人を見た。
良樹は立ち上がった。
そして、自分でも少し驚くほど自然に、背筋を伸ばした。
「はい」
「上村良樹です」
「よろしくお願いします」
作業場の空気が、一瞬だけ止まった。
リシアが目を瞬かせた。
「……良樹?」
カレンも小さく息を呑む。
「良樹さんが、最初から敬語……」
クラリスは、興味深そうに良樹を見る。
「珍しいですね」
ガレスは、その反応を見て、口の端を歪めた。
「……分かるのかよ」
良樹は、老人から目を逸らさなかった。
分かる、というほど明確なものではなかった。
ただ、身体が勝手にそうした。
目の前の老人は、怒鳴っていない。
威圧もしていない。
柔らかく笑っている。
だが、良樹は知っている。
現場には、こういう人がいた。
怒鳴る前に見ている人間。
失敗する前に、失敗する場所を見ている人間。
言い訳を始める前に、どこで逃げようとしたかまで分かっている人間。
怒らせたら、駄目なタイプのベテラン。
そういう人間に、初手で雑に入るのは無理だった。
「ガレスさん」
良樹は小さく言った。
「何だ」
「この方が、グランドマスターですか」
「ああ」
「見た目はこんなだがな」
「こんなとは失礼じゃのう」
老人は、楽しそうに笑った。
ガレスは鼻を鳴らす。
「昔を知ってる奴なら、同じことを言う」
「ほっほ」
「昔は少しばかり厳しかっただけじゃ」
「少しで済むか」
ガレスの声には、妙に実感があった。
リシアたちは、そのやり取りを見ていた。
優しそうな老人。
だが、ガレスが嫌そうにしている。
そして、良樹だけが最初から敬語になった。
それだけで、この老人がただの好々爺ではないことは分かった。
◇
グランドマスターは、作業場へ入ると、まず何も言わずに周囲を見た。
試験台。
工具の置き場。
壁際の棚。
紙に書かれた記録。
畳まれた符号表。
魔石信号器の部品。
良樹の腰袋。
ひとつひとつを、ゆっくりと見る。
手を出さない。
勝手に触らない。
ただ、見る。
良樹はそれだけで、余計に背筋が伸びた。
「道具の位置が決まっておるな」
老人が言った。
「はい」
「よく使うものは手前に。危ないものや紛失すると困るものは、奥か固定位置です」
「記録は?」
「作業台の左です」
「未確認事項と失敗記録は、分けています」
「成功記録ではなく、失敗記録か」
「はい」
「成功した時ほど、次に失敗しそうな場所が出ますので」
老人は、そこで少しだけ笑った。
「なるほどのう」
それだけだった。
褒めたのか。
面白がったのか。
何かを測ったのか。
良樹には分からなかった。
グランドマスターは、魔石信号器の部品の前でも足を止めた。
良樹は、説明しようとした。
「これは、昨日ギルドで――」
「八つの灯りの件は、もう聞いておる」
老人は穏やかに言った。
「報告も読んだ」
「ガレスの顔も見た」
「なら、今ここで見る必要はない」
「顔で判断すんな」
ガレスが低く言う。
グランドマスターは、ほっほと笑った。
「お前が面白いものを拾った時の顔は、昔から分かりやすい」
「拾ったんじゃねえ」
「勝手に落ちてきたんだよ」
良樹は思わず口を開きかけたが、閉じた。
ガレスがこちらを見て、少しだけ眉を上げる。
「何だ」
「いえ」
「俺は、落ちてきた側なので」
「そこは否定しろ」
「事実なので」
「本当にお前はそういうところだぞ」
老人は、そんな二人を見ていた。
それから、良樹へ視線を戻す。
「魔石信号器は見ぬ」
「……はい」
「次に見るべきは、君じゃ」
良樹は、老人を見た。
「俺、ですか」
「そうじゃ」
「君が何を作れるか」
「何を使えるか」
「そして、何を怖がっておるか」
老人は、笑っていた。
「見せてもらえるかの」
◇
町外れの原っぱへ出た。
良樹はいつものように周囲を確認した。
人影なし。
荷車なし。
家畜なし。
射線の先に道なし。
後方退避位置あり。
風向き確認。
リシアはその横顔を見ながら、小さく息を吐いた。
「いつも通りね」
「ああ」
「見せる相手が誰でも、危ないものは危ない」
「そういうところよね」
カレンは剣に手を添え、少し緊張した顔で立っていた。
クラリスは、良樹とグランドマスターの双方を静かに見ている。
ガレスは少し離れた場所で腕を組んだ。
グランドマスターは、そのすべてを穏やかに眺めていた。
良樹は、自分にできることを一通り見せた。
脚力補助。
索敵。
蒸気破裂による牽制。
魔導自立盤。
端子台による三人への供給。
リシアの魔法への補助。
カレンの剣への魔力纏い。
クラリスの拳と身体への外側支持。
魔動ドライバーから発展した、先端形状保持と可変。
そして、エレメンタル・キャノンの構成。
ただし、最大出力は使わなかった。
撃てることを見せるのではなく、どう扱うかを説明した。
どこで止めるか。
どこへ逃がすか。
誰が退くか。
誰が見るか。
どこから先は使わないか。
良樹は、ひとつひとつを説明した。
グランドマスターは、派手に驚くことはなかった。
リシアの魔法が濃くなっても。
カレンの剣に淡い光が沿っても。
クラリスの拳が藁束を大きく揺らしても。
良樹の自立盤が夕陽を受けて薄く光っても。
老人は、ただ見ていた。
ときどき、良樹を見る。
ときどき、三人を見る。
それから、良樹が説明していない場所を見る。
リシアがどこで風を逃がしたか。
カレンがどこで怖い方向を見たか。
クラリスがいつ良樹の呼吸を確認したか。
ガレスがいつ退避線の後ろへ視線をやったか。
良樹には、その老人が何を見ているのか、完全には分からなかった。
ただ、分かったことがある。
この人は、威力を見ていない。
使った後を見ている。
◇
一通りの説明が終わった頃には、陽が傾いていた。
原っぱの草が、長い影を引いている。
リシアは杖を下ろした。
カレンは剣を鞘へ戻した。
クラリスは、軽く手首を回している。
良樹は、最後に魔導盤を閉じた。
「以上です」
そう言って、良樹はグランドマスターへ頭を下げた。
老人は、しばらく何も言わなかった。
夕方の風が、草を揺らす。
ガレスも黙っていた。
やがて、グランドマスターは静かに頷いた。
「よく分かった」
「……何がでしょうか」
「今日見るべきものは、だいたいじゃ」
答えになっていない。
だが、問い返す空気でもなかった。
老人は、良樹を見た。
「上村良樹くん」
「はい」
「今夜、ギルドへ来なさい」
リシアの眉が動いた。
「今夜?」
「そうじゃ」
「私たちは?」
リシアがすぐに聞いた。
グランドマスターは、穏やかに笑う。
「今日は、彼だけでよい」
カレンが小さく息を呑んだ。
「良樹さんだけ……」
クラリスの目が、静かに細くなる。
「同席できない、ということですね」
「ほっほ」
「少し、聞いておきたいことがあるだけじゃよ」
良樹は三人を見た。
心配している。
不安に思っている。
止めたい気持ちもある。
それは分かった。
だが、ここで逃げる相手ではない。
「分かりました」
良樹は短く答えた。
「夜、伺います」
老人は頷いた。
「待っておる」
◇
夜のギルドは、昼間とは違って静かだった。
酒場側からは、まだ冒険者の声が聞こえてくる。
だが、昼間の受付や依頼掲示のざわめきはない。
灯りの落ちた廊下を、良樹は一人で歩いた。
リシアたちは、拠点で待っている。
リシアは最後まで渋い顔をしていた。
カレンは、何かあったらすぐ呼んでください、と何度も言った。
クラリスは、良樹の顔色と呼吸を確認してから、静かに送り出した。
ガレスは、ギルドの入口で待っていた。
「来たか」
「ああ」
「爺さんは奥だ」
「分かった」
良樹が答えると、ガレスが少しだけ目を細めた。
「俺にはまだタメ口なんだな」
「ガレスさんはガレスさんだろ」
「どういう意味だ、それ」
「怒る理由が見える人、です」
「あ?」
「親父に近いです」
ガレスは、褒められたのか貶されたのか分からない顔をした。
「……よく分からんが、腹立つな」
「たぶん褒めてます」
「たぶんじゃねえ」
そこで、ガレスは奥の扉へ視線を向けた。
「爺さんは違うのか」
良樹は少しだけ黙った。
「違う」
「あの人は、怒る前に全部見てるタイプだ」
ガレスは、わずかに口の端を歪めた。
「本当に、よく初見で分かったな」
「現場にいました。ああいう人」
「そうか」
ガレスは扉を開けた。
「行け」
「俺は外にいる」
「同席しないのか」
「呼ばれてねえ」
「それに、爺さんがお前だけって言ったなら、お前だけだ」
良樹は頷いた。
そして、奥の部屋へ入った。
◇
部屋には、グランドマスターがいた。
机の上には小さな灯り。
茶器。
数枚の紙。
壁には、一枚の肖像画が掛けられている。
若い男の絵だった。
良樹は、その絵を見たことがあった。
ギルドの壁に掛けられていた英雄の肖像。
何度か通るたびに目に入っていた。
若く、鋭い目をした男。
剣士にも魔法使いにも見えるが、それだけではない。
どこか、良樹には引っかかる立ち姿をした男。
その絵の下に、老人が座っていた。
皺。
白い髪。
柔らかい笑み。
杖。
何もかも違う。
それなのに、目だけが似ていた。
いや。
似ているのではない。
同じだった。
「気づいたかの」
老人が言った。
良樹は、肖像画から目を離し、老人を見た。
「……若い頃の、グランドマスターですか」
「そう呼ばれておった時期もある」
「英雄、だったんですか」
「呼ばれただけじゃ」
老人は、茶器に手を伸ばした。
「英雄など、自分で名乗るものではない」
「人が、あとから勝手にそう呼ぶ」
良樹は黙っていた。
老人は、良樹へ椅子を示す。
「座りなさい」
「はい」
良樹は椅子に座った。
背筋は、自然に伸びていた。
グランドマスターは、茶を一口飲む。
そして、静かに切り出した。
「君は、英雄になると言っておるそうじゃな」
「はい」
「なぜじゃ」
問いは短かった。
責める響きはない。
笑う響きもない。
ただ、理由を聞いている。
良樹は、少しだけ目を伏せた。
ここで飾っても意味がない。
この老人に、綺麗な言葉だけを並べても通らない。
そう思った。
「三人を、嫁にもらうためです」
老人は笑わなかった。
呆れもしなかった。
茶化しもしなかった。
ただ、続きを待っていた。
良樹は、息を整える。
「俺は、リシア、カレン、クラリスの三人が好きです」
「三人ともです」
声が、少しだけ硬くなる。
「誰か一人を選んで、他の二人を泣かせるのは嫌です」
「でも、曖昧なまま三人を縛るのも違うと思っています」
老人は黙って聞いている。
「この世界で、三人を妻にできる立場があるなら」
「そこまで行くしかないと思いました」
良樹は、老人を見た。
「だから、英雄になると言いました」
沈黙が落ちた。
灯りの火が、小さく揺れる。
グランドマスターは、良樹の顔を見ていた。
怒っているのか。
呆れているのか。
認めたのか。
否定したのか。
良樹には分からなかった。
やがて、老人は静かに言った。
「そうか」
それだけだった。
良樹は、少しだけ息を吐いた。
だが、老人はまだ話を終えていなかった。
「最後に聞く」
良樹の背筋が、わずかに伸びる。
「はい」
グランドマスターは、茶器を机へ置いた。
ことり、と小さな音がした。
「君は一体、どこから来た」
良樹は、黙った。
胸の奥に、夜の工場が浮かんだ。
照明の落ちた通路。
非常灯の薄い光。
制御盤の中だけが白く照らされていたこと。
父の声。
上村十鉄の声。
手ぇ止めろ。
それが、現実で聞いた最後の声だった。
良樹は、目を伏せた。
隠す理由は、もうなかった。
「日本です」
老人の指が、少しだけ止まった。
良樹は続けた。
「この世界ではない国から来ました」
「俺は、日本でFA技術者をしていました」
「工場の機械を動かす電気屋です」
「夜間工事中に、気がついたらこの世界にいました」
老人は、しばらく何も言わなかった。
驚いたようには見えなかった。
疑ったようにも見えなかった。
笑ったわけでもなかった。
ただ、遠いものを見ていた。
長い長い時間の底に沈んでいた何かを、静かに拾い上げるような顔だった。
そして、老人は言った。
「そうか」
その声は、昼間の好々爺の声ではなかった。
だが、鬼の声でもなかった。
もっと古い。
もっと遠い。
六十年という時間の向こう側から、ようやく届いたような声だった。
「ワシは、昭和二十年の日本から来た」




