第53話 仕事ではなく、趣味です(挿絵有)
翌朝。
良樹は、作業場へ向かおうとして、三人に止められた。
「今日は駄目」
リシアが、階段の前に立っていた。
いつもの杖は持っていない。
代わりに、腕を組んでいる。
その横にカレン。
少し不安そうに胸元で両手を握っている。
反対側にクラリス。
いつもの清楚な微笑みを浮かべているが、目は笑っていない。
良樹は足を止めた。
「何がだ」
「作業」
リシアが即答する。
「昨日の設置位置と光量の件、忘れる前に書いておきたい」
「雨天時の確認もいる」
「あと復唱確認の遅れが――」
「駄目」
「いや、忘れる前に」
「駄目」
リシアの返事は短かった。
良樹はカレンを見る。
「あ、あの……良樹さん」
「昨日も、ずっと考えていました」
カレンは言いづらそうに、けれどしっかりと言った。
「作業場から戻ってきた後も、紙を見ていました」
「寝る前も、たぶん考えていました」
「寝る前に考えるくらい普通だろ」
「普通ではありません」
クラリスが静かに言った。
「疲労が残っています」
「休むべきです」
「疲れてねえ」
「「「疲れてる」」」
三人の声が揃った。
良樹は眉間に皺を寄せた。
「息ぴったりだな」
「良樹が分かりやすいのよ」
「分かりやすい、です」
「分かりやすいですね」
「そこまでか」
良樹は自分の手を見た。
震えてはいない。
頭も回る。
体も動く。
問題ない。
少なくとも、本人の自己診断では。
「大丈夫だ」
「今日はまとめだけだ」
「設置台の高さと光量、あと送信元の札の位置を――」
「座る」
リシアが言った。
「いや」
「座る」
「作業場で座る」
「そこじゃない」
リシアは良樹の腕を取り、半ば強引に居間の椅子へ座らせた。
カレンがすぐにお茶を持ってくる。
クラリスは良樹の横へ回り、顔色を見た。
「目の下が少し重いです」
「肩にも力が入っています」
「呼吸も浅いです」
「そこまで見なくていい」
「見ます」
「身体を見るのが私の役目ですから」
クラリスは、さらりと言った。
良樹は反論しようとしたが、カレンに茶を差し出されて止まった。
「あ、あの」
「まず、飲んでください」
「……助かる」
良樹は茶を受け取り、一口飲んだ。
熱い。
だが、落ち着く。
落ち着くのだが、頭の中では昨日の配置図がまだ回っていた。
八つの灯り。
ギルド本部。
正門。
西門。
旧街道側監視所。
外縁農家方面。
臨時待機所。
治療所。
冒険者詰所。
信号が見えにくかった場所。
復唱が遅れた場所。
符号表の置き方。
光量。
雨天。
霧。
夜間。
紙に書きたい。
今、書きたい。
良樹の手が、無意識に腰袋へ伸びた。
リシアが、その手を叩く。
「こら」
「何もしてねえ」
「今、筆を取ろうとした」
「取ってねえ」
「取ろうとした」
「……まあ」
「ほら」
良樹は観念して手を戻した。
だが、視線は作業場の方へ向く。
椅子に座っているのに、足が少し浮いている。
立ちたい。
行きたい。
書きたい。
リシアはそれを見て、少しだけ眉を寄せた。
「……もしかして」
「何だ」
「何もしない方が休めないの?」
良樹は黙った。
カレンもクラリスも、良樹を見る。
良樹は少しだけ視線を逸らした。
「……まあ」
「何もするなって言われると、逆に落ち着かねえ」
「面倒ね、あんた」
「否定はしねえ」
カレンが少し考え込む。
「では、良樹さんが休めることをしましょう」
「良樹が休めること?」
リシアが聞き返す。
クラリスが頷いた。
「仕事ではなく、良樹くんが楽しいことですね」
「責任ではなく」
「納期でもなく」
「誰かに頼まれたわけでもないこと」
三人の視線が良樹に集まる。
「それは何?」
良樹は、少しだけ考えた。
そして、あまりにも普通のこととして答えた。
「工具屋とか」
「金物屋とか」
「鍛冶屋とか」
三人は黙った。
沈黙が落ちた。
リシアが、ゆっくり瞬きをする。
「休みの日に?」
「ああ」
「工具を見に行くの?」
「ああ」
カレンが、おずおずと聞いた。
「それは、お仕事ではなく……?」
「違う」
「趣味だ」
良樹は真顔で答えた。
リシアは額に手を当てる。
「休ませるつもりが、工具屋巡りになるのね……」
「工具屋巡りは休みだろ」
「私たちにはまだ分からない感覚ね」
クラリスは、柔らかく微笑んだ。
「良樹くんらしいですね」
「そうか?」
「はい」
「とても」
◇
四人は街へ出た。
朝の町は、昨日とは違う顔をしていた。
昨日はギルド。
魔石信号器。
符号表。
門番。
治療所。
冒険者。
外縁監視役。
ガレス。
ニル。
町が動くための仕組みばかりを見ていた。
今日は違う。
露店が並び始めている。
焼いたパンの匂いがする。
水を撒く音がする。
荷車が軋む。
子どもが走る。
店主が戸板を開ける。
良樹は、その中を三人と歩いていた。
リシアは少し呆れたように言う。
「休ませるって、こういうことなのね」
「歩いてるだけだろ」
「目的地が鍛冶屋じゃなければ、もう少し納得したわ」
「鍛冶屋はいいぞ」
「もう楽しそうなのが腹立つわね」
良樹の視線は、すでに通りの先にある鍛冶屋の看板へ向いていた。
カレンは、その横顔を見ていた。
ニルの言葉が、少しだけ胸の奥に残っている。
彼女とのデート代。
彼女と飯を食うためなら、帳面も走りもやる。
ニルは、何のためらいもなくそう言った。
普通の恋人みたいに。
街を歩いて。
食事をして。
何でもない話をして。
今、自分たちも良樹と街を歩いている。
ただし、良樹の目はすでに鍛冶屋を見ていた。
カレンは小さく笑った。
良樹さんらしい。
けれど、少しだけ。
ほんの少しだけ。
こちらも見てほしい。
クラリスは、良樹の歩き方を見ていた。
「良樹くん」
「何だ」
「肩の力が抜けています」
「呼吸も浅くありません」
「これは、休んでいます」
リシアが半眼で見る。
「鍛冶屋へ向かってるのに?」
「鍛冶屋へ向かっていても、です」
「そういうものなのね……」
「はい」
クラリスは頷いた。
「少なくとも、昨日の良樹くんよりは身体が楽そうです」
「昨日は現場だったからな」
良樹が言う。
「今日は?」
「休みだ」
即答だった。
リシアは、小さくため息を吐いた。
「なら、ちゃんと休みなさいよ」
「仕事に戻る顔になったら止めるから」
「分かった」
「本当に分かってる?」
「たぶん」
「そこは断言しなさい」
◇
鍛冶屋の中は、鉄と炭と油の匂いがした。
壁には短剣や作業用の小刃。
棚には釘、金具、革紐、砥石。
奥には、鍛冶場に続く扉が半分開いている。
火は落ち着いていたが、まだ熱が残っている。
店の中全体に、乾いた熱と金属の匂いがあった。
良樹は、一歩入った瞬間に目を変えた。
仕事の顔ではない。
戦闘の顔でもない。
魔導盤の構成を考える顔でもない。
ただ、好きなものを見つけた顔だった。
「……いいな」
小さく呟く。
リシアはそれを見て、少しだけ口元を緩めた。
本当に楽しそうだ。
店の奥から、太い腕の男が出てきた。
年は四十を越えているだろうか。
肩が厚く、指が太い。
前掛けには煤と鉄粉の跡がある。
「いらっしゃい」
「冒険者か?」
「いや、今日は見るだけ……のつもりだ」
良樹が答える。
リシアが横で小さく言った。
「“のつもり”なのね」
「見てから決める」
「でしょうね」
良樹は、棚の一角で足を止めた。
そこには、小ぶりな刃物が並んでいた。
戦闘用の短剣ではない。
肉厚も薄い。
刃渡りも短い。
柄も、冒険者が腰に吊るすものよりずっと地味だった。
良樹は、その一本の前で完全に止まった。
「……これ、いいな」
鍛冶職人が片眉を上げる。
「そいつは作業用だ」
「獣を捌くとか、紐を切るとか、木を削るとか、そういう刃だぞ」
「ああ」
「だからいい」
良樹は手に取らず、まず刃の形を見た。
刃先。
背。
厚み。
柄の角度。
親指を置く場所。
「先が細すぎない」
「刃が入りすぎない」
「柄も滑りにくい」
「こりゃあ、いい電工ナイフになるぜ……」
「でんこう?」
リシアが首を傾げる。
「電線の被覆を剥いたり、ケーブルを切ったりする仕事用のナイフだ」
「戦う刃じゃねえ」
「仕事する刃だ」
鍛冶職人の目が、少し変わった。
「戦う刃じゃねえ、か」
「ああ」
「こういうのは、手を切らずに、切りたいものだけ切れるのがいい」
「刃が良すぎても危ない」
「滑って入りすぎる」
「止まるところがある刃がいい」
職人は、しばらく良樹を見ていた。
それから、低く笑った。
「面白ぇ客だな」
「刃物を見て、斬れ味より先に止まり方を見るのか」
「止まらねえ刃物は危ねえだろ」
良樹が当然のように言うと、職人はさらに笑った。
「気に入った」
「そいつ、持ってみろ」
「いいのか」
「見るだけじゃ分からんだろ」
「助かる」
良樹は刃物を受け取った。
握る。
重心を見る。
親指の置き場所を確かめる。
刃先を光にかざす。
顔が、完全に輝いていた。
「……すげえな」
「手でここまで出してんのか」
「この町の鍛冶屋、腕いいな」
職人は鼻を鳴らした。
「分かるのか」
「俺は作る側じゃねえ」
「部品を組んで使う側だ」
「だからこそ、使う奴の手を考えてある道具は分かる」
「ほう」
「これは使う人間の手を見てる」
「飾りじゃねえ」
「仕事道具だ」
職人は、良樹を見る目を変えた。
リシアたちも、それを見ていた。
良樹はこの世界を下に見ていない。
自分の世界の工具だけが正しいとは思っていない。
良いものを見て、良いと言っている。
職人の手仕事に、本気で感嘆している。
それは、少し誇らしいような。
少し悔しいような顔だった。
◇
カレンは、良樹の横顔を見た。
良樹は、作業用の小刃を見ていた。
目が輝いている。
完全に、楽しんでいる顔だった。
それは嬉しい。
嬉しい、のだが。
少しだけ、面白くなかった。
良樹さんが楽しそうなのは嬉しい。
でも。
少しだけ、こちらも見てほしい。
カレンは、小さく息を吸った。
店の中は狭い。
刃物の並んだ棚の前には、良樹がいる。
隣に立つだけでは、よく見えない。
だから、少しだけ身を乗り出す。
少しだけ。
良樹の腕に、自分の上半身が柔らかく触れた。
ふにふに。
「……っ」
自分でやっておいて、顔が熱くなる。
けれど、今日はそこで終わらせなかった。
棚を覗き込むために、さらに一歩。
良樹の脚に、自分の太ももがそっと触れる。
触れた。
というより、寄せた。
ただし、あくまで自然に。
狭い店内で、横から身を乗り出した結果、そうなったように。
カレンは、自分の心臓の音が聞こえそうだった。
これは、さすがに気づく。
良樹さんも、さすがに――
「カレン、見てみろ」
「は、はいっ」
良樹は刃物を見たまま言った。
「この刃先、入りすぎない形してる」
「こういうのは切れすぎても危ないんだ」
「止まるところがある刃がいい」
「は、はい……」
「たとえば、被覆を剥く時に刃が入りすぎると芯線を傷つける」
「切りたいものだけ切れるのが一番いい」
「怖い方向を見て、止まる場所を決める感じだな」
カレンは、一瞬だけ目を見開いた。
怖い方向を見て。
止まる場所を決める。
それは、自分の剣にも似ていた。
「……はい」
「分かる気がします」
「だろ」
良樹は嬉しそうに頷いた。
だが、気づいていない。
上半身にも。
太ももにも。
まったく気づいていない。
カレンは、真っ赤な顔で小さく息を吐いた。
負けた。
かなり頑張ったのに、負けた。
でも、良樹が自分に刃物を見せて、怖い方向と止める場所の話をしてくれたことは嬉しかった。
悔しい。
嬉しい。
両方だった。
◇
クラリスは、カレンの敗北を静かに見ていた。
カレンはかなり勇気を出した。
クラリスには、それが分かった。
そして、良樹がまったく気づいていないことも分かった。
なるほど。
良樹くんは、今かなり深く工具を見ている。
ならば、少しだけ。
本当に少しだけ、分かりやすくしてもよいでしょう。
「良樹くん」
「何だ」
「こちらの小刀は、治療用にも使えそうですね」
そう言いながら、クラリスは良樹の反対側へ立った。
狭い店内。
棚の前。
逃げ場は少ない。
クラリスは、自然に腕を組んだ。
自然に。
だが、浅くはなかった。
良樹の腕を、自分の両腕でそっと抱え込む。
そして、その腕を柔らかな丘の間に収めるように、少しだけ近づく。
ピトッ。
クラリスの頬に、薄く赤みが差した。
清楚な顔は崩さない。
けれど、これは偶然ではない。
かなり、意識している。
カレンが横で息を呑んだ。
リシアも、少しだけ目を細める。
良樹は、刃物を見ていた。
「治療用なら、刃より柄だな」
「柄、ですか」
「ああ」
「血や水がついた時に滑ると危ない」
「あと、力を入れすぎない形がいい」
「手首に負担が来る道具は、長く使うと壊す」
良樹は、刃物の柄を見ながら続ける。
「クラリスは手首を大事にしろ」
「殴る時も治す時も、結局そこに負担が来る」
「……はい」
クラリスは微笑んだ。
微笑んだが、内心では少しだけ目を細めていた。
気づいていない。
負けました。
かなり分かりやすくしたのに、負けました。
ただ、良樹が自分の手首を気にしてくれたことは嬉しい。
悔しい。
嬉しい。
こちらも、両方だった。
「良樹くんらしいですね」
「何がだ」
「いえ」
「何でもありません」
◇
リシアは、二人の敗北を見ていた。
カレンが負けた。
クラリスも負けた。
二人とも、かなり頑張っていた。
少なくともリシアには分かった。
それなのに、良樹は刃物を見ている。
刃先。
刃厚。
柄。
握り。
止まり方。
女の子を見なさいよ。
リシアは、少しだけ自分の胸元を見た。
普段から誇っているわけではない。
そんなことで勝ち負けを考えるのも、どうかと思う。
けれど。
三人の中では、自分が一番大きい。
それは、分かっている。
だから。
少しだけ。
本当に少しだけ。
私なら、負けないはず。
「ちょっと、私にも見せなさいよ」
「ああ」
「これだ」
良樹は棚の刃物を指した。
店内は狭い。
棚と棚の間に、良樹が立っている。
後ろから覗き込むには、近づくしかない。
近づくしかない。
リシアは、自分にそう言い聞かせた。
そして、良樹の背中側から身を寄せる。
ぽよん。
カレンが息を呑んだ。
クラリスが、静かに目を細めた。
リシア本人も、耳まで熱くなった。
これは、さすがに分かる。
さすがに気づく。
気づかなければおかしい。
「……この鍛冶屋、腕いいな」
「そこ!?」
リシアの声が裏返った。
良樹は振り返る。
「何だ」
「何でもないわよ!」
「そうか?」
「いや、でも本当にすげえぞ」
「この厚みで刃筋がここまで真っ直ぐ出てる」
「しかも作業用だから、変に鋭くしすぎてねえ」
「使う奴の手を考えてる」
良樹は、本気だった。
本気で、刃物しか見ていなかった。
リシアは、ゆっくりと額に手を当てた。
「……惨敗だわ」
「はい」
「惨敗ですね」
クラリスが静かに言った。
「さ、惨敗……」
カレンが真っ赤な顔で呟く。
「工具にね」
リシアは小さく言った。
良樹だけが、不思議そうに三人を見ていた。
「何の話だ」
「何でもありません」
三人の声が揃った。
◇
鍛冶屋を出たあと、三人娘は少し悔しかった。
工具に負けた。
全員負けた。
カレンは、かなり勇気を出したのに負けた。
クラリスは、清楚に本気を出したのに負けた。
リシアは、自信のあるところで惨敗した。
良樹は、そんな三人の様子に気づかないまま、鍛冶職人から砥石の話を聞いていた。
「荒砥はこっちか」
「仕上げは?」
「このあたりだな」
「ただ、お前の言う使い方なら、あんまり刃を鋭くしすぎるな」
「入りすぎる」
「やっぱりそうだよな」
「止まる刃がいい」
「変なことを言う客だ」
「よく言われる」
良樹は楽しそうだった。
完全に楽しそうだった。
クラリスが、ぽつりと言った。
「良樹くん、楽しそうですね」
リシアが横を見る。
「工具に負けた直後にそれを言う?」
「はい」
「悔しいですが」
「今の良樹くんは、ちゃんと休んでいます」
「鍛冶屋で?」
「鍛冶屋で」
「刃物を見ながら?」
「刃物を見ながら」
リシアは、複雑な顔をした。
カレンは、良樹を見つめた。
「でも」
「良樹さんのこういう顔、初めて見ました」
リシアも、もう一度良樹を見る。
作業で目を輝かせている時とも違う。
戦闘後に笑う時とも違う。
誰かを守ろうとして張り詰めた顔とも違う。
責任も納期もない。
誰かに頼まれたわけでもない。
ただ、好きなものを見ている顔。
「……本当に、好きなものを見てる顔ね」
リシアが言った。
クラリスは微笑む。
「なら、今日は負けでよいのではありませんか」
「よくないわよ」
「よくないけど」
リシアは、小さく息を吐いた。
「……今日だけは、まあいいわ」
カレンも頷いた。
「はい」
「良樹さんが休めているなら」
悔しい。
かなり悔しい。
けれど、悪い気はしなかった。
◇
店の外で、魔石が短く光った。
短灯。
間。
長灯。
近くの門番が顔を上げる。
道具屋の主人も、ちらりと窓の外を見た。
鍛冶職人が、何でもないことのように言った。
「外縁から確認信号だな」
「大騒ぎじゃねえよ」
「確認だ、確認」
良樹の目が、すぐにそちらへ向いた。
「今の、信号器か」
「ああ」
「最近置いたやつだ」
「まだ慣れねえが、見えると安心するな」
「そうか」
良樹は少しだけ黙った。
自分が作ったものが、自分のいないところで町の日常に入っている。
それは、不思議な感覚だった。
作業場で作った。
ギルドで試した。
ガレスたちが運用へ落とし込んだ。
そして今、鍛冶屋の職人が、何でもないことのようにそれを見ている。
使われ始めている。
「今の符号は……」
「今日は見るだけ」
リシアが即座に言った。
良樹は口を閉じる。
「いや、今の符号は確認系で、外縁ならたぶん――」
「今日は、見るだけです」
カレンも言った。
クラリスが良樹の顔を見る。
「仕事に戻る顔になっています」
「……分かった」
良樹は、少しだけ悔しそうに頷いた。
鍛冶職人は、そのやり取りを見て低く笑った。
「女三人に止められるとは、大変だな」
「大変だが、助かってる」
「そうかよ」
職人は、良樹に小刃と砥石を包んで渡した。
「大事に使え」
「ああ」
「刃を殺さないように使う」
「普通は刃を生かすって言うんだがな」
「使う人間を殺さない方が大事だろ」
職人はまた笑った。
「やっぱり変な客だ」
◇
夕方近く。
四人は道具屋巡りを終え、通りの端にある小さな休憩所で足を止めていた。
良樹の手元には、包まれた作業用小刃。
砥石。
小さな金具。
革紐。
そして、何に使うのか分からないが本人が妙に気に入った曲がり金具。
リシアはそれを見て、半眼になる。
「最後のそれ、何に使うの?」
「まだ決めてねえ」
「決めてないのに買ったの?」
「使い道を考えるのが楽しい」
「本当に分からない感覚ね」
その時、通りの向こうからニルが歩いてきた。
歩いていた。
走っていなかった。
良樹は、それに気づいて少しだけ眉を上げた。
「今日は走ってないんだな」
ニルは、ぱっと笑った。
「走ってないっす」
「魔石信号器が仕事したっすから」
「仕事した?」
「はい」
ニルは帳面を開いた。
いつものように軽い口調だが、どこか少し誇らしそうだった。
「外縁農家の方で、灰牙狼っぽい足跡が出たんすよ」
「いつもなら見つけた奴がギルドまで走って」
「そこから冒険者を呼んで」
「治療所に知らせて」
「農家に戻って、ってなるんすけど」
「今日は?」
「信号が先に来たっす」
ニルは帳面を指で叩いた。
「外縁側から確認信号」
「本部で受信」
「近くの冒険者詰所に確認要請」
「治療所には待機だけ」
「農家の方には、門番経由で子どもを外に出すなって連絡」
「結果は?」
「群れは通り過ぎただけっす」
「戦闘なし」
「怪我人なし」
「出動も最小」
「オレもほぼ走ってない」
ニルは胸を張った。
「マスターが言ってたっす」
「地味すぎて報告書に書きづらいけど、初成果だって」
良樹は、少しだけ黙った。
戦闘なし。
怪我人なし。
出動最小。
ニルも走らず。
何も起きなかった。
だからこそ。
「それが一番いい」
良樹は言った。
ニルが首を傾げる。
「え?」
「何も起きなかった、が一番いい」
「誰も怪我してねえなら、成功だ」
カレンが、小さく頷いた。
「怖い場所が、先に分かったんですね」
「はい」
「外に出る前に止められた子どももいたらしいっす」
カレンは、胸元で手を握った。
「それは、大きいです」
クラリスも静かに言った。
「治療所が準備だけで済んだなら、それも成果です」
「治療する相手がいないことが、一番良いですから」
リシアは良樹を見る。
「良樹が言いそうなことね」
「そうか?」
「ええ」
「言いそう」
ニルは帳面を閉じた。
「それで、マスターが総本部にも報告を上げるらしいっす」
良樹の目が少し変わる。
「総本部?」
「はい」
「これは町だけで抱える話じゃないって」
「……そうか」
良樹は考え始めた。
総本部。
魔石信号器。
運用実績。
報告。
展開。
危険性。
標準化。
「なら、今日の信号経路と確認遅れを記録して――」
「今日は駄目」
リシアが止めた。
「いや、忘れる前に」
「ニルさんが帳面に書いてくれています」
カレンが言う。
ニルは、すぐに帳面を掲げた。
「書いてるっす」
「今日はオレが帳面仕事してるっす」
「良樹くんが今戻ると、休日が終わります」
クラリスが静かに言った。
良樹は少しだけ抵抗する。
「趣味の続きかもしれねえだろ」
「それは嘘」
リシアが即答した。
良樹は言い返せなかった。
自分でも分かっていた。
今のは、趣味ではない。
仕事へ戻る顔だ。
リシアは少しだけ声を柔らかくする。
「信号器が仕事をしたんでしょ」
「なら、良樹も少しは任せなさい」
良樹は黙った。
自分が走らなくても、届いた。
自分がその場にいなくても、人が動いた。
自分が作業場へ戻らなくても、今日は誰も怪我をしなかった。
なら。
「……明日にする」
三人が、ほっとしたように息を吐いた。
ニルは目を丸くした。
「良樹さんが明日にするって言ったっす」
「これ、帳面に書いといた方がいいっすか?」
「書いて」
リシアが即答する。
「書くな」
良樹も即答する。
クラリスが微笑む。
「大切な記録です」
カレンも頷いた。
「はい」
「良い記録だと思います」
「勘弁してくれ」
ニルは楽しそうに笑った。
「いやあ、今日は本当に帳面仕事が多いっすね」
◇
帰り道、四人はギルドの前を通りかかった。
入口に、ガレスが立っていた。
腕を組み、通りを見ている。
いつものように堂々としているが、どこか少しだけ顔が渋い。
「良樹」
呼ばれて、良樹は足を止めた。
「何だ」
「三日後、時間取れるか」
「三日後?」
「ああ」
「総本部から人が来る」
良樹は眉を寄せる。
「魔石信号器の件か」
「それもある」
「それも?」
ガレスは、少しだけ嫌そうな顔をした。
「グランドマスターが来る」
リシアが目を瞬かせた。
カレンが小さく息を呑む。
クラリスも、少しだけ表情を改める。
良樹だけが、いまいち分かっていない顔をする。
「グランドマスターってのは、偉いのか」
「偉い」
ガレスは即答した。
そして、少し間を置く。
「で、面倒くさい」
「そっちが本音か」
「両方本音だ」
ガレスは腕を組み直した。
「この町に来る」
「ちょっと顔を出せ」
「俺が?」
「ああ」
「お前と、三人もだ」
良樹は三人を見た。
リシアは少しだけ真面目な顔になっている。
カレンは不安そうに胸元で手を握っている。
クラリスは静かに微笑んでいるが、目は鋭い。
「……何の話になる」
「表向きは、魔石信号器と新しい魔導具運用の確認だ」
「表向き?」
ガレスは少しだけ目を細めた。
「さあな」
「爺さんが何を見るつもりかなんざ、来てみねえと分からん」
「嫌な言い方だな」
「俺も嫌なんだよ」
ガレスは、珍しく深いため息を吐いた。
「とにかく三日後だ」
「空けとけ」
「分かった」
良樹が頷く。
ガレスはそこで、少しだけ声を低くした。
「良樹」
「何だ」
「あの爺さんの前で、変に格好つけようとするな」
「たぶん、見抜かれる」
「格好つけるつもりはねえよ」
「ならいい」
ガレスは、ふっと口元を歪めた。
「いつも通り、面倒くせえくらい正直にやれ」
「褒めてんのか、それ」
「評価してる」
良樹は少しだけ考えた。
「それ、ギルドじゃだいたい褒めてるって言うんじゃなかったか」
「ニルの悪影響だな」
ガレスはそう言って、ギルドの中へ戻っていった。
三人娘は、グランドマスターという言葉の重さを感じていた。
良樹はまだ分かっていない。
ただ、ガレスがあれほど嫌そうにする相手だ。
ただの偉い人間ではないことだけは、分かった。
◇
拠点へ戻る帰り道。
良樹は買った作業用小刃、砥石、金具を確認していた。
少し満足している。
かなり満足している。
リシアはそれを横目で見ながら言った。
「結局、休みの日に工具を見て、工具を買って、警戒網の話をして、総本部の話まで出てるじゃない」
「仕事じゃねえ」
「趣味だ」
「差が分からないのよ」
良樹は、少しだけ考えてから言った。
「責任がない」
「納期もない」
「誰かに言われたわけでもない」
「だから趣味だ」
三人は黙った。
それで、少しだけ分かった。
良樹にとって、今日は本当に休日だった。
仕事ではない理由で街を歩き。
誰かを守るためではなく、好きだから道具を見た。
買ったものも、仕事に使えそうではある。
だが、今日の良樹は責任ではなく、楽しさでそれを選んでいた。
カレンが、少しだけ嬉しそうに聞く。
「なら、今日は休めたんですね」
「ああ」
「かなり」
良樹は短く答えた。
クラリスが、微笑む。
「それなら、工具に負けた甲斐がありました」
「工具に?」
良樹が首を傾げる。
リシアは、すぐに言った。
「何でもないわよ」
「そうか」
「そうよ」
良樹はまだ少し不思議そうだったが、それ以上は聞かなかった。
その日、良樹は異世界へ来てから初めて、仕事ではない理由で街を歩いた。
見たのは刃物。
触れたのは金具。
買ったのは砥石と作業用の小刃。
三人からすれば、あまりにも良樹らしい休日だった。
そして、その裏で。
八つの灯りは、町のどこかで短く光っていた。
誰かが走る前に。
誰かが倒れる前に。
危険が、少しだけ早く届いていた。
良樹が休んでいる間にも。
良樹の作った仕組みは、町の中で働き始めていた。
そして、その灯りは。
良樹の知らないところで、町の外へも話を運び始めていた。
Xの方に、第53話のおまけSDキャラ絵も投稿しました。
刃物に惨敗した三人娘と、ひとりだけウッキウキの良樹です。
よろしければ覗いてみてください。
X:@TN7897889746906
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