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第49話 足元を見る日(挿絵有)

 翌朝。


 良樹は、普通に起きた。


 額は重くない。

 頭の奥に残っていた細い熱も、もうほとんどない。

 魔導盤へ意識を向けても、昨日のように眉間の奥が痛むことはなかった。


 つまり、良樹の基準では復帰可能だった。


 歩ける。

 喋れる。

 考えられる。

 記録もできる。

 ならば仕事に戻れる。


 そう判断して、良樹はギルドへ向かった。


 もちろん、一人ではない。


「本当に大丈夫なのよね」


 隣を歩くリシアが、横目で良樹を見る。


「ああ」


「顔色は?」


「悪くない」


「頭は?」


「重くない」


「魔導盤は?」


「開ける」


「開けないで」


「確認だろ」


「今ここで確認しなくていいの」


 リシアは即座に止めた。


 カレンは良樹の反対側を歩きながら、少し心配そうに顔を覗き込む。


「良樹さん、歩き方は昨日よりしっかりしています」


「だろ」


「でも、無理していないとは限りません」


「信用がねえな」


「昨日倒れましたから」


「それを言われると弱い」


 後ろを歩くクラリスは、いつもの清楚な顔で頷いた。


「脈も呼吸も落ち着いています」

「ただし、魔導盤の長時間展開はまだ禁止です」


「禁止が増えたな」


「医療的工程管理です」


「言葉だけ俺の世界に寄せてくるな」


 そんなやり取りをしながら、四人はギルドへ入った。


 朝のギルドは、すでに人が多かった。


 依頼を確認する冒険者。

 荷の確認をする職員。

 壁の掲示板の前で話し込む護衛たち。

 その中を通ると、何人かがこちらを見た。


 以前とは、少しだけ空気が違う。


「良樹さん、おはようございます」


 受付近くの若い職員が、自然に声をかけてきた。


 良樹は一瞬だけ足を止めた。


「……俺か」


「はい」

「昨日は、その……ありがとうございました」


「俺だけじゃねえ」

「リシアとカレンとクラリスがいた」


「はい」

「四人で守ってくれたって聞いています」


 職員はそう言って、今度は三人にも頭を下げた。


「リシア、カレン、クラリスも。ありがとうございました」


 リシアは少し照れたように肩をすくめる。

 カレンは慌てて頭を下げる。

 クラリスは穏やかに微笑んだ。


 良樹はまだ、その空気に慣れない。


 名前を呼ばれる。

 礼を言われる。

 自分がどこかで、誰かの記憶に残っている。


 変な感じだった。


 奥の扉が開いた。


「戻ったか」


 ガレスだった。


 腕を組み、いつものように少し険しい顔をしている。

 だが、怒っている顔ではない。


「戻った」


 良樹は短く答えた。


「体は」


「戻ってる」


「自分の判断か」


「三人の監視付きだ」


「なら、多少は信用できるな」


「俺の判断は信用なしか」


「昨日鼻血出した奴の安全判断を信用しろって方が無理だろ」


「目尻も少しな」


「自慢みてえに言うな」


「記録だ」


「それが駄目なんだよ」


 ガレスは呆れたように息を吐いた。


 良樹は、昨日の追加報告を淡々と伝えた。


 中継小屋防衛の追加記録。

 オークキング相当個体の動き。

 岩を投げたこと。

 小屋狙いだったこと。

 カレンの斬撃で最後に撃退したこと。

 信号器通信が機能したこと。

 そして、自分の制御負荷が大きかったこと。


「主回路は落ちてない」

「ただ、制御側が落ちた」

「動力は引ける」

「でも、どこへ流すか、いつ切るか、どれだけ絞るかは俺の中の魔力を使う」

「そこを使いすぎた」


 ガレスは、黙って聞いていた。


「つまり、お前自身の限界が見えたってことか」


「ああ」

「そこは次で改善する」


 良樹は、当然のように言った。


 ガレスの眉が、少しだけ動いた。


「で?」


「次に俺たちへ回せる依頼はあるか」


 その場の空気が、一拍止まった。


 リシアが横目で良樹を見る。

 カレンが小さく息を呑む。

 クラリスは、微笑んだまま少しだけ目を細めた。


 ガレスは、良樹をまっすぐ見た。


「ない」


「……ない?」


「ない」

「今のお前らに回す依頼はねえ」


 良樹の眉が寄った。


「評価を下げられたのか」


「馬鹿言え」


 ガレスは即答した。


「使えねえって話じゃねえ」

「むしろ逆だ」

「使えるから、今は使わねえ」


「どういう意味だ」


「お前、焦ってねえか」


「そんなことはねえ」


 返事は早かった。


 早すぎた。


 リシアも、カレンも、クラリスも、何も言わなかった。


 だが、三人の視線が良樹へ向く。


 ガレスは静かに言った。


「前を向くのは大事だ」

「次を見るのも大事だ」

「昨日より今日を良くしようとするのも、お前の強みだ」


 そこで一度、言葉を切る。


「だがな」

「時には止まって、足元を見るのも仕事だ」


 良樹は黙った。


 ガレスは続ける。


「安全確認、だろ?」


 その言葉はずるかった。


 良樹が、反論できない言葉だった。


 動かす前に止め方を見る。

 その先に何があるかを見る。

 足元を見る。


 それを否定することは、良樹にはできなかった。


「今日は依頼じゃねえ」

「町でも歩いてこい」

「お前らが守った場所の先に、何があるか見てこい」


「……ギルド長権限か」


「年長者権限だ」


「職権乱用だろ」


「そうだな」

「文句があるなら、倒れずに文句を言えるようになってから来い」


 リシアが頷いた。


「正論ね」


 カレンも頷く。


「はい」


 クラリスも、清楚に微笑んだ。


「完全に正論です」


 良樹は眉間を押さえた。


「四対一が多すぎる」


   ◇


 ギルドを出て、良樹は自然に拠点の方向へ足を向けた。


 リシアがその腕を掴む。


「どこへ行くのよ」


「作業場だ」

「次のために整理する」


「今、何を言われたのか覚えてる?」


「足元を見ろ、だろ」


「なら何で作業場なのよ」


「作業場で足元を――」


「それは足元じゃなくて盤でしょ」


 リシアは切り捨てた。


 カレンが少しだけ前に出る。


「あの……街も、足元だと思います」


 クラリスも続く。


「良樹くんが守ったものを、良樹くん自身が見る日です」


 良樹は黙った。


 言葉としては、ガレスの言い方よりさらに逃げ場がなかった。


「いいじゃない」


 リシアは良樹の腕を引く。


「街、歩きましょうよ」


 カレンが小さく手を上げた。


「食べ歩き、とか……」


 クラリスは頷く。


「良樹くんの回復確認にもなります」

「歩行、視線、反応速度、食欲を確認できます」


「デートを診察にするな」


「では、診察を兼ねたデートです」


「悪化したな」


 結局、良樹は押し切られた。


 四人で街を歩くことになった。


   ◇


 町は、いつも通りに見えた。


 屋台からは焼いた肉の匂いがする。

 果物を並べる店の前では、店主が声を張っている。

 荷車が石畳を鳴らして進み、子どもがそれを避けて走る。

 井戸の近くでは、町娘たちが桶を持って話している。


 何も特別な景色ではない。


 けれど、昨日良樹たちが守った中継小屋の先に、この景色があった。


 荷を運ぶ人。

 小屋を直す職人。

 旧街道を使う者。

 その先にある、この町。


 良樹は、少しだけ黙って歩いた。


「良樹さん」


 通りの向こうから、若い男が手を上げた。


「昨日の話、聞きました」

「中継小屋、守ってくれてありがとうございます」


 良樹はいつものように返す。


「俺だけじゃねえ」

「四人で守った」


 男は、三人にも頭を下げる。


「リシア、カレン、クラリスも。ありがとう」


 リシアは、少しだけ胸を張る。


「どういたしまして」


 カレンは真っ赤になりながら会釈する。


「あ、あの……無事でよかったです」


 クラリスは静かに微笑む。


「怪我が悪くならなくて、何よりです」


 良樹は、また少し変な感じがした。


「名前、覚えられたみたいね」


 リシアが横で言う。


「ああ」

「変な感じだな」


「悪い感じですか?」


 カレンが聞く。


「いや」

「悪くはねえ」


 クラリスが穏やかに言った。


「良樹くんが守ったものの、返事だと思います」


 良樹は返事をしなかった。


 少しだけ、喉の奥に言葉が詰まったからだ。


 だが、そこに浸るほど、この日の町歩きは静かではなかった。


「せっかくだし、服を見ましょう」


 リシアが言った。


「服?」


「そうよ」

「町に出たんだから、少しくらい見てもいいでしょ」


「俺は外で待ってる」


「何でよ」


「女物の服を見る店だろ」

「俺がいても邪魔だ」


 クラリスがにこりと微笑む。


「良樹くんに見てもらう服もあります」


「見てもらう前に選べばいいだろ」


 カレンが、少し赤くなって言った。


「あ、あの……見せる前の確認も、あります」


「俺に見せる前の確認を、俺の前でやらないのは分かる」

「だが、俺は何の立場で外に出されるんだ」


 リシアは短く答えた。


「待つ立場」


「雑だな」


   ◇


 服飾店の中は、良樹にとってほとんど未知の設備だった。


 布。

 紐。

 飾り。

 髪留め。

 腰帯。

 薄い上着。

 柔らかそうなスカート。


 機能はある。

 あるにはある。

 だが、どれも良樹が普段見る機能とは違う。


 耐熱。

 耐水。

 耐摩耗。

 防塵。

 絶縁。

 そういう評価軸ではない。


 見た目。

 似合うか。

 歩き方。

 雰囲気。

 そして、本人がどう見られたいか。


 良樹は、すぐに居場所を失った。


「リシア、これ似合いそうです」


 カレンが淡い布を手に取る。


「私はこっちの方が動きやすそうね」


 リシアが別の服を見る。


「動きやすさでしたら、こちらも」


 クラリスがさらりと短い服を手に取った。


 良樹は、余計なことを言わずに立っていた。


 やがて、三人はそれぞれ試着を始めた。


 最初はリシアだった。


 普段の魔法使いの服ではない。

 町娘風の、少し大人びた服。


 肩口と鎖骨が、いつもより見える。

 胸元は大きく開いているわけではないが、ブラウスの合わせと飾り紐が目につく。

 腰には細いベルトがあり、スカートは膝下で揺れていた。


 良樹は一瞬だけ見て、言った。


「……動きやすそうだな」


 リシアの眉が跳ねる。


「まずそこなの?」


「いや」


 良樹は少しだけ視線を戻した。


「似合ってる」

「普段より……大人っぽい」


 リシアの動きが止まった。


「ふ、普通でしょ」

「町を歩くなら、これくらい別に変じゃないわ」


 言いながら、耳が赤い。


 次はカレンだった。


 淡い色の軽いワンピース。

 膝下からふくらはぎが見える。

 カレンは裾を気にして、落ち着かない様子で立っていた。


「あ、あの……変では、ないですか」


「変じゃねえ」

「むしろ、かなり似合ってる」


「か、かなり……」


 カレンはそこで固まった。


 最後に、クラリスが出てきた。


 良樹は、言葉を失った。


 いつもの法衣ではない。


 髪は高めにまとめられ、ポニーテールになっている。

 上は軽いシャツ。

 下は、かなり短いホットパンツ。


 普段なら法衣の下に隠れている太ももが、はっきり見えていた。

 腰の線も、脚の動きも、いつもよりずっと分かる。


 水着とは違う。

 水辺の服ではなく、街着だ。

 だからこそ、日常の中に突然差し込まれた色気があった。


 リシアが先に反応した。


「クラリス、それ短すぎない?」


「動きやすそうでしたので」


 クラリスは真顔で答えた。


 カレンは両手を胸元で握る。


「く、クラリス……脚が、すごく見えてます」


「はい」

「涼しいです」


「涼しいで済ませる服じゃないわよ」


 良樹は、どうにか言葉を選んだ。


「……格好いいな」


 クラリスの目が丸くなる。


「可愛い、ではなく?」


「可愛くないって意味じゃねえ」

「でも今日は、そっちより格好いい」

「動けそうだ」


 クラリスは一拍黙った。


 それから、いつもの清楚な微笑みではなく、少しだけ照れた顔で笑った。


「……それは」

「かなり、嬉しいです」


 リシアが半眼になる。


「クラリス、それは反則じゃない?」


 カレンも頷く。


「はい……可愛いのに、かっこいいです」


 クラリスは自分の髪の根元に触れた。


「では、採用でしょうか」


「採用って何よ」


「良樹くんに見せる服装の候補です」


 良樹は眉間を押さえた。


「俺を基準に会議するな」


 三人の返答は揃った。


「「「今さら」」」


「三対一の速度が早い」


 その後、三人は小物や髪飾りを選び始めた。


 良樹に見せる前の確認。

 似合うかどうかの確認。

 誰が何を選ぶかの確認。


 良樹は、ついに店の外へ出された。


   ◇


 店先に立った良樹は、通りを見た。


 荷車が一台通れる幅。

 左右に逃げられる路地。

 屋台の火元。

 子どもが走った時にぶつかりそうな段差。

 雨が降れば滑りそうな石畳。


 デート中に見るものではない。


 分かっている。

 分かっているが、目が行く。


「あの……良樹さん、ですよね」


 声をかけられた。


 振り向くと、町娘が一人立っていた。


 年はリシアたちとそう変わらない。

 買い物籠を腕にかけ、こちらを見上げている。

 頬が少し赤い。


 良樹は、自分を指差した。


「……俺か?」


「はい」

「中継小屋を守った、良樹さん」

「噂になってます」

「無名の英雄って」


「俺だけじゃねえ」

「リシアとカレンとクラリスがいた」


「聞いてます」

「でも、良樹さんが魔導盤を出して、皆さんを指揮したって」

「それに、倒れるまで守ったって」


「倒れるまでは余計だな」


「すみません」

「でも、その……すごいなって」


 町娘は視線を下げた。

 それから、勇気を出すように顔を上げる。


「あの」

「今日は、お一人なんですか?」


「いや」

「三人が服を見てる」

「俺は待たされてる」


「待たされてるんですか?」


「そうだ」

「見せる前の確認があるらしい」


 町娘は、くすりと笑った。


「仲がいいんですね」


「まあ、悪くはねえな」


 その返事に、町娘の目が少し揺れた。


「あの」

「良樹さん、よかったら今度――」


「良樹?」


 リシアの声だった。


 良樹が振り向く。


 店の入口に、三人が立っていた。


 リシアは大人っぽい町娘服。

 カレンは淡いワンピース。

 クラリスはポニーテールにホットパンツ。


 三人とも、さっきまで服で盛り上がっていた顔ではなかった。


 良樹は、嫌な予感がした。


「どうした」


「それはこっちの台詞よ」


 リシアが良樹の横へ来る。

 自然に腕を取る。


 カレンは反対側に立った。

 良樹の袖を、控えめに掴む。


 クラリスは一歩後ろ。

 町娘へ清楚に微笑んでいる。


 退路が、消えた。


「良樹に何か用?」


 リシアが聞く。


 町娘は少し慌てた。


「あ、えっと……その、中継小屋のお礼を」


 カレンが頭を下げる。


「ありがとうございます」

「四人で守りました」


 クラリスも穏やかに続ける。


「はい」

「ですので、お礼なら四人で受け取ります」


「いや、俺はそう言ったぞ」


「あんたは黙ってて」


「なぜ」


 カレンが小さく言う。


「良樹さんだからです」


「理由になってねえ」


 クラリスがにこりと笑う。


「良樹くんは、時々自分が声をかけられている意味を理解しませんので」


「礼だろ」


 リシアの目が細くなる。


「その後よ」


「その後?」


 町娘の顔が赤くなる。


 リシアは笑った。

 笑ったが、目は笑っていなかった。


「今度、何かしら?」


「あ、いえ、その……」


 町娘は三人を見た。


 腕を取るリシア。

 袖を掴むカレン。

 一歩後ろで逃げ道を塞ぐクラリス。


 良樹は何も分かっていない顔をしている。


 だが、町娘には分かった。


 ここに入る隙はない。


「あの……やっぱり、今日は大丈夫です」

「お邪魔しました」


「邪魔では――」


 良樹が言いかける前に、リシアが腕を引いた。


「そうね」

「またギルドで会ったら、お礼は受け取るわ」


 カレンがぺこりと頭を下げる。


「ありがとうございました」


 クラリスも清楚に微笑む。


「お気をつけて」


 町娘は、少し赤い顔のまま去っていった。


 良樹は三人を見る。


「……で」

「俺は何で怒られてるんだ」


「怒ってないわよ」


「腕に力が入ってる」


「気のせいよ」


 カレンは袖を掴んだまま、少しだけ俯いた。


「怒っては、いません」

「少しだけ、びっくりしました」


「何に」


「良樹さんが、普通に声をかけられていたので」


「町で礼を言われるのは昨日もあっただろ」


 クラリスが首を振る。


「良樹くん」

「今のは、お礼だけではありません」


「そうなのか?」


 三人が同時にため息を吐いた。


 リシアが低く言う。


「私たちというものがありながら」


「待て」

「俺は何もしてねえ」


 カレンが真面目な顔で言った。


「していないから、困るんです」


「理不尽だろ」


 クラリスが頷いた。


「良樹くんは、無防備に英雄をしていました」


「英雄を無防備にするって何だ」


「今のあんたよ」


   ◇


 その直後だった。


 町娘が去り、四人が歩き出したところで、荷物を抱えた男が横から通った。


 ほんの少し、肩がぶつかった。


 カレンの足元が乱れる。


「きゃっ……!」


 カレンが後ろへ倒れかけた。


 良樹は反射で動いた。


「カレン!」


 抱きとめた。


 間に合った。


 カレンの身体は、石畳に倒れなかった。


 そこまでは良かった。


 ふにん。


 良樹の手のひらには、その感触だけがあった。


 柔らかい。

 小さいわけではない。

 大きいと言うほどでもない。


 だが、確かにそこにある、女の子の膨らみ。


 良樹は、遅れて手の位置を理解した。


「……」


「……」


 カレンの顔が、ゆっくり赤くなっていった。


 良樹も固まった。


 手を離すべきだった。

 だが、離すとカレンが倒れる。

 離せない。

 しかし、このままでは別の意味で死ぬ。


 良樹は、人生でかなり上位に入る難しい制御判断を迫られていた。


「……すまん」


 リシアの声が低くなる。


「良樹」


「待て」

「分かってる」

「事故だ」


「分かってるわよ」

「事故なのは分かってる」


 一拍。


「だから余計に腹が立つのよ」


「理不尽だろ」


 クラリスが、少し赤い顔のまま冷静に言った。


「良樹くん」

「まず、カレンを安全な姿勢に戻してください」

「その後で、きちんと謝罪です」


「正論だな」


 良樹は慎重にカレンを立たせた。

 手を離す。

 すぐに三歩下がる。

 両手を上げる。


 完全に、現行犯の姿勢だった。


「悪い」

「助けるつもりだった」

「いや、助けたのは事実だが」

「触ったのも事実だ」

「本当に悪い」


 カレンは、胸元を両手で押さえたまま俯いていた。


「……はい」

「分かって、ます」

「良樹さんが助けてくれたのは、分かってます」


 声が震えている。


「でも」


 一拍。


「……小さくて、がっかりしませんでしたか」


 沈黙。


 良樹は、ここで止まるべきだった。

 慰めるにしても、言葉を選ぶべきだった。


 だが、良樹は正直だった。


 正直すぎた。


「そんなことはねえよ」

「しっかりあると思うぜ」


 沈黙。


 カレンの顔が、耳まで赤くなった。


 リシアの目が据わる。


「良樹?」


 クラリスの微笑みが、すっと深くなる。


「良樹くん?」


 良樹は、三拍遅れて自分の発言を理解した。


「……今のは」

「慰めのつもりだった」


 リシアが低い声で言う。


「慰めに実感を乗せるな」


 クラリスも静かに続ける。


「今の発言は、触れた上での評価に聞こえます」


「違う」

「いや、違わない部分があるから困るが、違う」


 カレンは、胸元を押さえたまま、小さく呟いた。


「しっかり……」


 そして、完全に赤面して動かなくなった。


   ◇


 一度落ち着くため、四人は人通りの少ないベンチのある場所へ移動した。


 落ち着くためだった。


 そのはずだった。


 クラリスは、低いベンチに腰かけていた。


 いつもの法衣ではない。

 髪はまとめられ、上は軽いシャツ。

 下は、かなり短いホットパンツ。


 立っている時でも十分に危なかった。

 だが、座るとさらに危なかった。


 普段は布の下に隠れている太ももが、はっきり見える。

 膝から上。

 ホットパンツの裾。

 そこから伸びる白い肌。


 良樹は、なるべく見ないようにしていた。


 見ないようにしていた。

 見ないようにしていたのだが。


 良樹は三人分の買い物袋を持っていた。


 足元が見えにくかった。


 近くを通った子どもを避けようとして、足元の石に足を取られる。


「あ」


 身体が前へ傾いた。


 両手には荷物。

 とっさに手をつけない。


 倒れる先には、座っているクラリスがいた。


「良樹く――」


 クラリスの声が途中で止まった。


 次の瞬間。


 良樹の顔が、クラリスの太ももに埋まった。


 時間が止まった。


 良樹は動けなかった。


 柔らかい。

 温かい。

 普段、法衣の下に隠れている場所だ。


 理解してはいけない情報が、顔面から直接入ってくる。


 良樹の脳内で、非常停止が落ちた。

 主幹も落ちた。

 制御電源も落ちた。

 復帰手順は、どこにもなかった。


 クラリスも固まっている。


 いつもの清楚な微笑みはない。

 冷静な診察役の顔もない。

 ただ、真っ赤になって、膝元に落ちてきた良樹を見下ろしている。


 清楚なクラリスであれば、わざとらしく恥ずかしがったり、余裕を持って受け流すこともできただろう。


 戦うクラリスであれば、良樹の身体を傷めないよう、瞬時に姿勢を逃がすこともできたかもしれない。


 診るクラリスであれば、まず頭部打撲の有無を確認し、呼吸と首の角度を見ただろう。


 しかし。


 今のクラリスは、乙女だった。


 良樹に似合っていると言われた。

 可愛いではなく、格好いいと言われた。

 普段とは違う服を見られた。

 その直後に、良樹の顔が、自分の太ももに落ちてきた。


 処理できなかった。


 隠さなければ。

 見えないようにしなければ。

 この状況を、どうにかしなければ。


 そう思ったクラリスは、反射的に両手を伸ばした。


 そしてなぜか。


 良樹の後頭部を、上から押さえつけた。


「んぐっ」


 良樹の声が、クラリスの太ももに吸われた。


 ――白。


 ――柔。


 ――すべ。


 良樹の頭の中も、それだけになった。


 思考が落ちた。

 制御電源が落ちた。

 倫理回路も、警告灯も、全部まとめて落ちた。


 ただ、白くて。

 柔らかくて。

 すべすべしていた。


 それ以上の情報を、良樹は処理してはいけなかった。


「クラリス!?」


 リシアが叫んだ。


「何してるの!?」


 カレンも真っ赤になって両手で口元を押さえる。


「お、押さえています……!」

「クラリスが、良樹さんを……!」


 クラリスの顔は耳まで赤い。


「ち、違います」

「これは、その」

「見えないようにしようとして」


「押し込んでるわよ!」


「……はい」

「押し込んでいますね」


 良樹が太ももの中でくぐもった声を出す。


「……んむ」


「まず離しなさい!」


「は、はい!」


 挿絵(By みてみん)



 クラリスは慌てて手を離した。


 良樹は、ようやく顔を上げた。


 顔が赤い。

 目が死んでいる。

 荷物は奇跡的に落としていない。


 良樹は一歩、いや三歩下がった。


 両手を上げる。


 今日、二度目の現行犯姿勢だった。


「……事故だ」


「分かってるわよ!」


「俺は何もしてねえ」


 カレンが震える声で言う。


「してないです」

「してないですけど……」


 クラリスは、まだベンチに座ったまま、太ももの上に両手を置いていた。

 顔は真っ赤だった。


「良樹くん」


「はい」


「今のは」

「私も悪かったです」


「いや、倒れたのは俺だ」


「ですが、押さえました」


 リシアが頷く。


「そうよ。押さえたわよ」


 クラリスは俯いたまま、小さく言った。


「隠そうとしたら、余計に沈めてしまいました」


「言い方をやめろ」


 少し経って、クラリスは自分のホットパンツの裾をそっと押さえた。


「この服は」

「座っている時の安全評価が必要ですね」


「候補から外せ」


「似合っていませんでしたか?」


 良樹は黙った。


 リシアが目を細める。


「良樹?」


 カレンも小さく呼ぶ。


「良樹さん?」


 良樹は、ものすごく慎重に言った。


「……似合っては、いる」

「ただ、安全ではない」


 クラリスは真っ赤なまま、少しだけ微笑んだ。


「では、要改善ですね」


「採用前提で話すな」


   ◇


 さすがに、人目がある場所は危ない。


 四人は、少しだけ人通りの少ない場所へ移動した。


 店裏に近い小さな広場。

 屋台の喧騒は少し遠い。

 周囲に人はいない。


 良樹はもう疲れていた。

 倫理回路は焼けている。

 だが、荷物は持っている。


 リシアは内心で少し落ち着かなかった。


 カレンは胸を認識された。

 クラリスは太ももに沈めた。


 自分だけ何もない。


 いや、何もない方がいい。

 事故など起きない方がいい。


 そう思っている。


 思っているのに、なぜか落ち着かない。


「……何よ」

「別に張り合ってるわけじゃないわよ」


 リシアが小さく呟いた。


 良樹が振り向く。


「何の話だ」


「何でもないわよ!」


 その直後だった。


 良樹が足元の小さな段差につまずいた。


「っ――」


 こけた。


 目の前にはリシア。


 良樹は不意に、何かを掴もうと手を伸ばした。


 掴んだものは、リシアのブラウスだった。


 掴んだ瞬間、良樹は理解した。


 違う。

 これは駄目だ。

 これは支えにならない。


 成人男性一人分の体重を、薄い町娘服のブラウスが支えられるわけがない。


 布が、小さく悲鳴を上げる。


「え」


 リシアの声。


 次の瞬間。


 ブラウスが、下へ落ちた。


 するりと。

 いや、すとん、と。


 肩から。

 胸元から。

 腰のあたりへ。


 良樹はそのまま前へ倒れ、石畳に手をついた。

 どうにか顔面から突っ込むことだけは避けた。


 そして、顔を上げた。


 視界に入ったのは、透き通るような空の青。


 そして、存在を主張するようにそびえる二つの山。


 そして、空の色と同じ、もうひとつの青。


 それだけだった。


「……」


「……」


 良樹の脳内で、主幹が落ちた。


 遅れて、リシアの声が降ってくる。


「……良樹」


「はい」


「見た?」


 良樹は、視線を逸らした。


 遅かった。


「……見えた」


「正直に言うなぁぁぁぁ!」


 リシアの声が、誰もいない小さな広場に響いた。


 リシアは動けなかった。


 怒ることも。

 叫ぶことも。

 風を出すことも。

 氷を作ることも。


 一瞬、何もできなかった。


 自分のブラウスが落ちている。

 良樹が目の前にいる。

 見られた。


 そこまで理解して、ようやく顔が赤くなる。

 一気に。

 耳まで。

 首筋まで。


 良樹は両手を上げた。


「悪い」

「完全に俺が悪い」

「転んだ」

「掴んだ」

「支えにならなかった」

「結果として、見た」


「全部説明しないで!」


「説明しないと状況が」


「状況は分かってるわよ!」

「分かってるから怒ってるの!」


 カレンは両手で口元を押さえていた。


「リ、リシア……」

「その、上……」


「言わないで!」


 クラリスも固まっていた。

 さすがのクラリスも、これはすぐには処理できなかった。


 数拍遅れて、ようやく動く。


「良樹くん」

「まず後ろを向いてください」


「向いてる」


「完全にです」


「これ以上どう向けと」


「壁を見てください」

「心も壁に向けてください」


「心の向きは難しいな」


「喋るな!」


 リシアが叫ぶ。


 良樹は、見ないようにしながら外套を差し出した。

 ただし方向がずれていた。


「こっち!」


「悪い」


 リシアは外套をひったくるように受け取り、肩に羽織った。


 ようやく、少しだけ呼吸が戻る。


 良樹はまだ壁を見ていた。


「……で」


 リシアの声は低い。


「何か言うことは」


「悪かった」


「それは聞いた」


「二度と同じことはしない」


「それも当然」


「……似合ってた服を壊して悪かった」


「そこ?」


 良樹は止まるべきだった。


 だが、今日の良樹はもう三発目だった。

 制御回路が焼けていた。


「いや」

「服も似合ってた」

「その……」

「落ちた後も、変な意味じゃなくて」

「大人っぽかった」


 沈黙。


 リシアが外套を握りしめる。


「良樹?」


 クラリスも微笑む。


「良樹くん?」


 カレンも赤い顔で呟く。


「良樹さん……?」


 良樹は壁を見たまま言った。


「今のは」

「違う」

「違わないが、違う」


 リシアは、外套を握りしめた。


 怒っている。

 間違いなく怒っている。


 転んだ。

 掴んだ。

 落ちた。

 見た。


 怒る理由は山ほどある。


 なのに。


 大人っぽかった。


 その言葉が、胸の奥に妙な刺さり方をした。


「……最低」


「悪い」


「最低だけど」


 少しだけ間が空いた。


「……服は、あとで直すわよ」


「捨てないのか」


「うるさい」


   ◇


 その後、四人はしばらく何も言えなかった。


 良樹の倫理回路は完全に焼けていた。

 カレンは胸元を押さえたまま赤い。

 クラリスは太ももの上に手を置いたまま赤い。

 リシアは外套を羽織ったまま赤い。


 このままでは終われない。


 そう判断したのは、リシアだった。


「……とりあえず、食べるわよ」


 良樹は聞き返す。


「なぜ急に」


「機嫌を直すため」


「誰の」


「私たちの」


「俺、被害者じゃないか?」


 クラリスが静かに言った。


「良樹くん」

「そういう時は、黙って甘いものを買うのが正解です」


「学習項目が増えた」


 四人は屋台の並ぶ通りへ戻った。


 まずリシアが串焼きを買う。


「あんた、これ食べなさい」


「自分で持つ」


「いいから」


 良樹は差し出された串焼きをかじった。


「どう?」


「うまい」


「そう」


 リシアは少しだけ満足そうに頷いた。


 次にカレンが甘い焼き菓子を買った。


「あの、良樹さん」

「これ、甘いですけど……一口、どうぞ」


「一口くれるのか」


「は、はい」


 良樹が普通にかじる。


 カレンは数秒遅れて、自分が先に食べた側を差し出していたことに気づいた。


「……っ」


 リシアが口を開く。


「カレン、今の間接――」


「言わないでください!」


 カレンは真っ赤になって叫んだ。


 最後にクラリスが果物菓子を買う。


「良樹くん、こちらもどうぞ」


「またか」


「回復後の食欲確認です」


「便利だな、診察」


「便利です」


 良樹が食べると、蜜が少し口元についた。


 クラリスが布を出し、すっと近づく。


「動かないでください」

「診察ではありませんが、確認です」


「確認の範囲が広い」


 それでも、良樹は動かなかった。


 四人で一つの大きめの菓子も分けた。


「四人で一つか」


 良樹が言う。


「何よ。不満?」


 リシアが聞く。


「いや」

「こういうのは、悪くねえな」


 カレンが頷く。


「はい」

「私も、楽しいです」


 クラリスも穏やかに微笑んだ。


「依頼ではありませんが、大事な確認ですね」


「何の確認だ」


「良樹くんが、ちゃんと帰る場所を間違えない確認です」


 良樹は返せなかった。


 通りには人がいる。

 屋台がある。

 笑い声がある。

 子どもが走り、店主が声を張り、誰かが良樹たちの名前を呼ぶ。


 昨日守った中継小屋の先に、これがある。


 ガレスの言った、足元。


 良樹は、少しだけその意味を見た気がした。


   ◇


 拠点へ戻るころには、日が少し傾いていた。


 三人は買った服や小物を片付けに行った。

 リシアのブラウスは、直すことになった。

 カレンのワンピースは採用候補になった。

 クラリスのホットパンツは、安全評価が必要という名目で保留になった。


 良樹は作業場にいた。


 考えていた。


 オークキングを撃退した時のことを。


 決して、先ほど四人で街へ出かけた時のことを考えていたわけではない。


 カレンが転びかけた時のことでもない。

 クラリスのホットパンツでもない。

 リシアのブラウスが落ちた瞬間でもない。


 断じて違う。


 なぜなら、良樹は二十八歳の健全な男である。


 健全な男である以上、考えることは当然、魔導盤の反動についてだった。


「……反動だ」


 良樹は紙を広げた。


 オークキングを撃退した時。


 エレメンタル・キャノンは撃てた。

 リシアと合わせて、撃てた。

 命中した。

 押し返した。


 だが、その後。


 鼻血。

 目尻の出血。

 頭の奥の熱。

 翌朝まで残った制御魔力の落ち込み。


 あれは魔力切れではない。


 主回路は落ちていない。

 動力魔力は、外から引けている。


 落ちたのは制御側。


 制御電源。

 信号処理。

 出力切替。

 安全確認。

 退避確認。

 射線確認。

 三人への配分。

 キャノンの構成。


 全部を持った結果、良樹自身の制御魔力が落ちた。


 良樹は、自分を削ったつもりではなかった。


 捨て身。

 献身。

 自己犠牲。


 そういう言葉で片づけるには、少し違う。


 良樹はただ、見ていなかった。


 敵を見た。

 射線を見た。

 退避経路を見た。

 防衛対象を見た。

 リシアを見た。

 カレンを見た。

 クラリスを見た。


 だが、それら全部を見ている自分自身を、観測対象に入れていなかった。


 今までは、無反動で使えていた。


 魔導盤は、組めば動いた。

 流せば届いた。

 止めれば止まった。

 負荷が重ければ、盤の構成を変えればよかった。


 だから、自分自身にも限界があるとは思っていなかった。


 正確には、思う必要がなかった。


 しかし今回、初めて限界が現れた。


 反動。


 撃った魔法の反動ではない。

 流した魔力の反動でもない。


 制御したことの反動。


 良樹は、紙に書いた。


 自分を、観測対象に入れる。


 その下に、項目を並べる。


 制御魔力残量。

 制御負荷。

 連続展開時間。

 多重処理数。

 端子台通信負荷。

 三人配分負荷。

 キャノン共同制御負荷。

 戦闘後確認負荷。

 警告域。

 停止域。

 再投入禁止時間。


 書けば書くほど、今まで抜けていたものが見えた。


 現場なら、怒鳴られる。


 制御盤の電源電圧を見ずに設備を動かしていたようなもの。

 PLCの負荷率を見ずに処理を増やしていたようなもの。

 安全リレーの状態を見ずに、動けばいいで済ませていたようなもの。


「……親父に見られたら、殴られるな」


 そこで一瞬、白い太ももが頭をよぎった。


 良樹は筆を止めた。


「違う」


 胸元の柔らかさもよぎる。


「違う」


 リシアの真っ赤な顔もよぎる。


「……違う」


 違う。

 今は反動の話だ。

 魔導盤の反動の話だ。


 決して、街での事故を思い返しているわけではない。


 二十八歳の健全な男として、仕方のない脳内ノイズはある。

 だが、それは制御対象外の外乱である。


「外乱処理も要るな……」


 書きかけて、良樹はその行を消した。


 今それを正式な項目に入れたら終わる。


 ガレスは言った。


 足元を見ろ、と。


 良樹は今日、町を歩いた。

 守った街を見た。

 名前を呼ぶ人を見た。

 隣を歩く三人を見た。


 そして今、ようやくもう一つの足元に気づく。


 自分自身だ。


 魔導盤を動かしている、自分。

 制御している、自分。

 反動を受ける、自分。


 そこを見ずに、次へ進もうとしていた。


 良樹は紙の端に、小さな赤い灯りを描いた。


 警告灯。


 守る側を守るための灯り。


 根性ではなく。

 意地でもなく。

 倒れてから謝るのでもなく。


 落ちる前に、止める。


「……足元、か」


 今日一日、散々転んだ。

 掴んだ。

 沈んだ。

 落とした。


 そのどれも、足元を見ていなかったから――ではない。


 ない、はずだった。


 良樹はその行を書きかけて、やめた。


「違う」

「今は魔導盤の話だ」


 最後に、紙の一番上へもう一度書く。


 自分を、観測対象に入れる。


 止まるのも、仕事だ。


 そして。


 足元を見るのも、仕事だった。

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