第48話 英雄の名前(挿絵有)
町へ戻った時、朝の光はもう高くなり始めていた。
旧街道沿いの中継小屋から町までの道は、来た時よりも長く感じた。
負傷者は、町側から出た迎えの荷車に乗せられている。
ギルド職員も、荷運び人も、補修職人も、若い護衛たちも、誰も欠けていない。
死者なし。
それを確認した時、良樹はようやく少しだけ息を吐いた。
ただ、身体は重かった。
足は動く。
視界も揺れてはいない。
会話もできる。
だが、頭の奥に、細い熱が残っていた。
魔導自立盤を開けば、まだ構成は見える。
端子台も、切替モードも、信号器の回路も、頭の中には残っている。
だが、そこへ意識を向けると、眉間の奥が少しだけ痛んだ。
良樹は、それを表に出さないようにした。
隣を歩くクラリスが、ちらりと良樹の顔を見た。
「良樹くん」
「何だ」
「顔色が悪いです」
「眠いだけだ」
「昨日、同じようなことを言った人がいました」
「誰だ」
「良樹くんです」
「なら、信用できねえな」
良樹がそう言うと、リシアが横から半眼を向けた。
「自分で言ってどうするのよ」
「信用できねえものを信用できねえと言っただけだ」
「その中に自分を入れるなって言ってるの」
カレンは少しだけ心配そうに、良樹の横顔を見ていた。
「良樹さん、本当に大丈夫ですか?」
「ああ」
「歩ける」
「喋れる」
「報告もできる」
「それ、大丈夫の説明ですか?」
「現場復帰基準としては、最低限通ってる」
「もっと悪いです……」
カレンが小さく眉を下げる。
良樹は返事をしようとして、やめた。
言い返すには、少し頭が重かった。
◇
ギルドの扉を開けた瞬間、良樹は足を止めた。
いつもより、視線が多い。
冒険者。
受付の職員。
荷運び人らしい男。
依頼掲示板の前にいた若い女。
酒場側の椅子に座っていた数人。
誰も騒いではいない。
ただ、良樹たちが入ってきた瞬間、空気が少しだけ変わった。
良樹は眉を寄せた。
「……何だ」
リシアが隣で小さく息を吐いた。
「知らないわよ」
「でも、たぶん昨日の件でしょ」
「昨日の件って言われてもな」
「中継小屋を守った件よ」
「依頼だろ」
「その依頼で、死者なしだったんでしょ」
良樹は少しだけ黙った。
その時だった。
受付の近くにいた若い男が、一歩こちらへ来た。
良樹の知らない顔だった。
少なくとも、良樹の記憶にはない。
依頼で組んだ覚えもない。
訓練場で話した覚えもない。
その男が、少し緊張したように頭を下げた。
「良樹さん、お疲れ様です」
良樹は、足を止めたまま男を見た。
「……俺か?」
男は一瞬だけ驚いた顔をした。
「はい」
「旧街道の中継小屋を守ったって、聞きました」
「ありがとうございました」
良樹は返事に困った。
「いや」
「俺だけじゃねえ」
「前で止めたのはリシアとカレンとクラリスだ」
男は、すぐに頷いた。
「はい」
「聞いてます」
「リシアの魔法も、カレンの盾も、クラリスの……その、拳も」
クラリスが少しだけ微笑んだ。
「拳、で構いません」
「は、はい」
男は少し慌ててから、また良樹を見た。
「でも、良樹さんの指示があったって」
「小屋にいた人が言ってました」
良樹は、言葉に詰まった。
指示。
確かに指示はした。
逃げ道を空けた。
荷車の位置を変えた。
信号器を立てた。
敵数を読んだ。
出力を切り替えた。
だが、それは守るために必要だっただけだ。
礼を言われるようなものだろうか。
良樹が返せずにいると、リシアが横で少しだけ笑った。
「名前、覚えられたみたいね」
良樹は眉を寄せた。
「変な感じだな」
「慣れなさいよ」
「慣れるもんなのか」
「知らないわよ」
その後も、何人かが声をかけてきた。
「リシア、お疲れ」
「群れを近づけなかったって聞いたぞ」
リシアは少し照れたように視線を逸らした。
「私だけじゃないわ」
「四人で守ったの」
「カレン」
別の若い護衛が、少し緊張した顔でカレンに頭を下げた。
「岩を逸らしたって聞いた」
「中にいた奴ら、本当に助かったって」
カレンは胸元で手を握った。
「いえ」
「あれは、良樹さんが軌道を見てくれて」
「私は、そこへ置いただけです」
「それでも、すごいよ」
カレンは顔を赤くして、少しだけ目を伏せた。
クラリスにも、ギルド職員らしい女が声をかけた。
「クラリス」
「負傷者を見てくれてありがとう」
「足を痛めた職人、悪化してなかったって」
「できることをしただけです」
「それが助かったの」
クラリスは柔らかく微笑んだ。
「そう言っていただけるなら、よかったです」
良樹は、その様子を少し離れて見ていた。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人の名前が呼ばれている。
昨日までと同じ名前のはずなのに、少しだけ重さが違うように聞こえた。
良樹は、自分の名前を呼ばれた時の違和感を思い出した。
良樹さん。
ただ、それだけの呼び方だった。
英雄とも。
勇者とも。
特別な称号とも呼ばれていない。
ただ、名前を呼ばれただけだ。
それなのに、妙に落ち着かなかった。
「戸惑ってんな」
奥から声がした。
ガレスだった。
いつもの調子で歩いてくる。
ただ、目だけはいつもより少し鋭かった。
「戻ったか」
「ああ」
「全員いるな」
「いる」
ガレスは、良樹の顔を見て一瞬だけ眉を動かした。
だが、すぐには何も言わなかった。
「奥へ来い」
「報告を聞く」
◇
奥の部屋へ入ると、良樹は椅子に座る前に口を開いた。
「中継小屋、防衛完了」
「死者なし」
「負傷者悪化なし」
「小屋は無事」
「町側との信号器通信も通った」
ガレスは黙って聞いている。
「敵はオーク複数」
「正面、右低地、左林側から回り込み」
「奥に大型統率個体」
「大型トロル並みの巨体」
「岩を投げた」
「小屋狙いだった」
「オークキングか」
「たぶん、それに近い」
「倒したんだな」
「ああ」
「リシアが群れを払った」
「カレンが岩を逸らした」
「クラリスが大型の足を止めた」
「俺とリシアでキャノンを撃った」
「それでも倒れなかった」
「最後はカレンが斬った」
カレンの肩が、小さく揺れた。
ガレスはカレンを見た。
「斬ったか」
「……はい」
「そうか」
それだけ言って、ガレスはまた良樹へ視線を戻した。
「こっちの損耗は」
「三人は大きな怪我なし」
「ただ、全員疲労あり」
「俺は制御負荷が重かった」
「鼻と目尻から少し出血した」
「今は止まってる」
クラリスが静かに補足した。
「過負荷です」
「命に関わる状態ではありませんが、今日の作業は控えるべきです」
ガレスは良樹を見た。
「だそうだ」
「報告はしてるだろ」
「報告だけで済ませる顔じゃねえ」
「顔で決めるな」
「顔に出てんだよ」
良樹は黙った。
ガレスは腕を組み、しばらく何も言わなかった。
部屋の外のざわめきが、少し遠く聞こえる。
やがてガレスは、深く息を吐いた。
「よく守ったな」
良樹は、反射的に返そうとした。
「依頼だからな」
「違う」
ガレスは短く遮った。
「依頼だからって、全員がそこまでやれるわけじゃねえ」
良樹の言葉が止まる。
ガレスは、良樹だけではなく、リシア、カレン、クラリスを順に見た。
「礼を言う」
「守ってくれて、助かった」
部屋が静かになった。
リシアが、少しだけ目を伏せる。
カレンは胸元で手を握った。
クラリスは静かに頭を下げた。
良樹は、一拍遅れた。
その一拍の間に、頭の中で別の言葉が浮かんだ。
配置が甘かった。
信号器の設置位置はもう少し上げられた。
カレンへの再付与が雑だった。
クラリス百パーセント中のキャノン準備は負荷が高すぎた。
索敵、通信、射線、退避、出力切替を自分が持ちすぎた。
「ただ、課題は――」
「今は受け取りなさい」
リシアが言った。
強くはない。
だが、逃がさない声だった。
カレンも良樹を見た。
「良樹さん」
「今は……はい、でいいと思います」
クラリスは、良樹の顔色を見ながら静かに言った。
「振り返りは明日です」
良樹は、三人を見た。
それから、ガレスを見る。
ガレスは何も言わずに待っていた。
良樹は短く息を吐いた。
「……ああ」
「受け取る」
ガレスは、少しだけ口元を緩めた。
「お前にしちゃ上出来だ」
「褒めてるのか、それ」
「褒めてる」
「なら、もう少し褒め方を考えろ」
「面倒くせえな」
「そっちが言うか」
軽く言い合ってから、ガレスは椅子に腰を下ろした。
「で、何が残った」
「残りすぎてる」
「だろうな」
良樹は、椅子に座った。
座った瞬間、自分が思ったより疲れていることに気づいた。
足に力が入っていない。
だが、口は動く。
「俺が持ちすぎた」
「索敵、通信、射線、退避、出力切替、キャノン準備」
「全部同時に持つと、こっちが詰まる」
「鼻血出してたって聞いたぞ」
「目尻も少しな」
「自慢みてえに言うな」
「自慢じゃねえ」
「記録だ」
クラリスが即座に言った。
「記録は明日です」
良樹はクラリスを見た。
「まだ何も書いてねえ」
「頭の中で書き始めています」
リシアが頷いた。
「顔に出てるわよ」
「出てるか?」
「出てる」
カレンも小さく頷いた。
「良樹さん、今日は休むところまでだと思います」
ガレスはその三人を見て、少し笑った。
「だそうだ」
「四対一だな」
「現場判断を多数決で決めるな」
「今回は決めていい」
「お前の安全判断だけ、信用ならねえ」
「ひどい言われようだな」
「鼻血出して目尻から血を流した奴が言うな」
良樹は反論しようとした。
だが、頭の奥が少しだけ痛んだ。
言葉が一拍遅れる。
リシアが、それを見逃さなかった。
「良樹」
「……何だ」
「帰るわよ」
クラリスも立ち上がる。
「はい」
「今日はもう、良樹くんを休ませます」
カレンもすぐに頷いた。
「はい」
ガレスは椅子の背にもたれた。
「細かい報告は明日でいい」
「帰って寝ろ」
「……分かった」
良樹は立ち上がった。
立ち上がる時、椅子に手をついた。
ほんの少しだけ。
だが、三人の視線が同時に向いた。
「……何でもねえ」
「何も言ってないわよ」
リシアが言う。
「顔が言ってる」
「便利ですね、顔」
クラリスが静かに言った。
「便利じゃねえよ」
良樹はそう返して、部屋を出た。
◇
拠点へ戻る道中、良樹は何度か足を止めかけた。
大きく崩れるほどではない。
ただ、段差の前で一瞬だけ判断が遅れる。
道端の看板の文字を見て、眉間を押さえる。
魔導盤を一度だけ開こうとして、薄い光が揺れ、すぐに消える。
リシアがそれを見た。
「今、開こうとしたわよね」
「確認だけだ」
「禁止」
「まだ禁止されてねえ」
「今したわ」
「後出しだな」
「必要な後出しよ」
カレンは良樹の斜め後ろにいた。
いつでも支えられる距離だった。
「良樹さん、本当に眠いだけですか?」
「たぶんな」
「たぶん、なんですね」
「正直に言うと、頭が重い」
カレンの表情が変わる。
良樹はすぐに続けた。
「動けないほどじゃねえ」
「帰って寝れば戻る」
クラリスが少しだけ目を細めた。
「その言葉、記録しておきます」
「何のために」
「後で照合します」
「怖いな」
「必要です」
拠点に着くと、良樹は作業場へ向かいかけた。
三人が同時に前へ出た。
道が塞がれた。
「……何だ」
リシアが腕を組む。
「部屋はそっちじゃないわ」
「報告書を少しだけ」
「駄目」
カレンが珍しく、良樹の前に立ったまま動かなかった。
「良樹さん」
「今日は、休んでください」
クラリスも静かに言う。
「盤禁止です」
「分かってる」
「筆も禁止です」
「筆もかよ」
「はい」
「頭の中で報告書を書く方なので」
良樹は少し黙った。
「……三対一か」
リシアが即答する。
「そうよ」
「現場判断を多数決で――」
「今日は生活判断です」
クラリスが言った。
「生活判断ならいいのか」
「はい」
「基準が分からねえ」
「寝てください」
クラリスの声は柔らかかった。
だが、逃げ場はなかった。
良樹は小さく息を吐いた。
「……分かった」
そう言って、自室へ向かった。
扉を閉める前に、三人を振り返る。
「お前らも休めよ」
「良樹が寝たらね」
リシアが言う。
「私たちも、片付けたら休みます」
カレンが頷く。
「私は、あとで様子を見に来ます」
クラリスが当然のように言った。
「来るのか」
「はい」
「寝てるぞ」
「寝ているか確認します」
「そうか」
良樹はそれ以上言わなかった。
扉を閉める。
ベッドに座る。
靴を脱ぎ、上着を脱ぎ、横になる。
頭が重い。
だが、眠れば戻る。
そう思った。
現場でも、そういう夜はあった。
深夜工事の後。
突発トラブルの後。
原因不明の異常を追い続けた後。
帰ったら倒れるように眠る。
それと同じだ。
良樹は、目を閉じた。
眠りは、思ったより早く来た。
◇
翌朝。
食堂に最初に来たのはリシアだった。
次にカレン。
少し遅れてクラリス。
だが、良樹はいなかった。
作業場から光も漏れていない。
机の上に新しい紙が広げられている気配もない。
工具の音もない。
リシアは椅子に座りかけて、止まった。
「……珍しいわね」
カレンも周囲を見た。
「良樹さん、いつも早いですよね」
クラリスは、少しだけ表情を変えた。
「見てきます」
三人は、ほとんど同時に良樹の部屋へ向かった。
扉の前で、クラリスが軽くノックする。
「良樹くん」
返事はない。
もう一度。
「良樹くん」
返事はない。
リシアの眉が寄る。
「良樹?」
やはり返事はなかった。
カレンの顔から、少し血の気が引いた。
「良樹さん……?」
クラリスが一歩前へ出た。
「開けます」
扉を開ける。
良樹は、ベッドの上にいた。
眠っている。
ただ、いつもの眠り方ではなかった。
顔色が悪い。
額に薄く汗が滲んでいる。
眉間には、深くはないが皺が寄っている。
布団の上に出ていた片手が、軽く握られていた。
起きようとして、起きられなかった。
そう見える手だった。
「……良樹」
リシアの声が、低くなる。
カレンは一歩踏み出しかけて、止まった。
クラリスだけが迷わずベッド脇へ膝をついた。
良樹の額に手を当てる。
脈を取る。
呼吸を見る。
「熱は高くありません」
「呼吸も、大きく乱れてはいません」
カレンが震える声で聞いた。
「大丈夫、ですか」
クラリスは少しだけ黙った。
それから、静かに言う。
「命に関わる状態ではありません」
「ただし、起こしてはいけません」
リシアが息を呑んだ。
「昨日の反動?」
「はい」
「魔力切れ、とは少し違います」
「身体を動かす力ではなく、魔導盤を制御するための細い流れが、かなり落ちています」
クラリスは、良樹の手をそっと布団の中へ戻した。
「昨日、良樹くんは動力を使い切ったわけではありません」
「ですが、制御する側を使いすぎました」
リシアは、唇を結んだ。
カレンは、良樹の顔を見つめたまま、小さく言った。
「……だから、起きてこなかったんですね」
「はい」
クラリスの声は静かだった。
「今日は、盤も、筆も、報告も禁止です」
◇
三人は、そのまま良樹の部屋に残った。
リシアは水を汲み、布を濡らして絞った。
少し乱暴に見える手つきだった。
だが、良樹の額に置く時だけは、驚くほど静かだった。
この男は、いつもそうだ。
大丈夫だ。
問題ない。
次は直す。
そう言って、自分の痛みまで不具合みたいに扱う。
リシアは、布を替えながら小さく息を吐いた。
「……馬鹿」
声は小さかった。
良樹には届かない。
カレンは、ベッド脇に座っていた。
良樹の手は、布団の中に戻されている。
それでも、カレンはその上からそっと手を添えた。
昨日、自分は言った。
私にください。
あの一撃は必要だった。
きっと良樹もそう言う。
リシアも、クラリスも、そう言ってくれると思う。
それでも。
カレンの手が、少しだけ震えた。
次に同じことを言う時、自分は怖がらずに言えるだろうか。
良樹がまたこうなるかもしれないと知っていて。
カレンは、声を出さなかった。
出したら、泣きそうだった。
クラリスは、良樹の呼吸を見ていた。
熱は高くない。
脈も危険な乱れではない。
命に関わる状態ではない。
診断としては、そう言える。
けれど、それで終わらせていいわけではなかった。
良樹くんは、自分の異常を最後に回す。
人数。
負傷者。
火元。
信号器。
リシア。
カレン。
クラリス。
その後に、自分。
クラリスは、良樹の手首に指を添えたまま、少しだけ目を伏せた。
見つける前に、言ってほしかった。
その言葉は、胸の奥にだけ置いた。
代わりに、クラリスは静かに言った。
「今日は、起きてはいけません」
◇
良樹が目を開けたのは、昼前だった。
最初に見えたのは、天井だった。
次に、リシアの顔。
カレンの顔。
クラリスの顔。
三人とも、揃ってこちらを見ていた。
「……何時だ」
リシアが即答した。
「寝てなさい」
「時間を聞いたんだが」
「寝てなさい」
「返答が同じだな」
カレンが、少しだけほっとした顔で言った。
「昼前です」
「寝すぎたな」
クラリスが静かに首を振った。
「足りません」
良樹は起き上がろうとした。
三方向から手が伸びた。
リシアが肩を押さえる。
カレンが手を握る。
クラリスが布団の端を押さえる。
良樹は止まった。
「……包囲されてるな」
「看病よ」
リシアが言う。
「医療的包囲です」
クラリスが続ける。
「逃がしません」
カレンが小さく言った。
「お前ら、言葉が強くなってねえか」
「良樹さんが逃げようとするからです」
「起きようとしただけだ」
「同じです」
良樹は、目を閉じて少しだけ息を吐いた。
「報告は」
「終わってるわ」
リシアが言う。
「改善点は」
「明日です」
クラリスが言う。
「盤は」
「禁止」
リシア。
「筆は」
「禁止です」
カレン。
良樹は少しだけ黙った。
「……完全停止か」
「はい」
クラリスが頷いた。
「再投入禁止です」
良樹は、薄く目を開けた。
「……制御電源、落ちたか」
リシアが眉を寄せる。
「また分からない言い方をしてるわよ」
「大きい魔力は、外から引っ張れる」
「でも、どこへ流すか、いつ切るか、どれだけ絞るか」
「そこは俺の中の魔力でやってる」
「昨日は、そこを使いすぎた」
クラリスが頷く。
「はい」
「なので、再投入禁止です」
「設備みたいに言うな」
「制御電源が落ちた設備を動かす人を、良樹くんは信用しますか」
良樹は、少し黙った。
「……しない」
「では、寝てください」
「はい」
素直に返した。
リシアが少しだけ目を丸くする。
「素直ね」
「自分の言葉で殴られたからな」
「便利ですね」
クラリスが微笑む。
「便利じゃねえよ」
良樹はそう言って、また目を閉じかけた。
だが、その前に小さく言った。
「悪い」
「心配かけた」
部屋の空気が、少し変わった。
リシアの眉が動く。
「心配かけた、じゃないわよ」
良樹は目を開けた。
リシアは、良樹を睨んでいた。
けれど、その目の奥は赤かった。
「あんた、自分を後ろに置きすぎ」
「後ろに置いたんじゃねえ」
「順番を間違えなかっただけだ」
リシアの口が止まる。
カレンの手に、少し力が入った。
クラリスは、良樹の脈を取る指を離さなかった。
良樹は、天井を見たまま言った。
「人がいた」
「負傷者がいた」
「小屋があった」
「お前らが前に出てた」
「そこで俺が先に膝をついてどうする」
リシアは何も言わない。
良樹は続けた。
「英雄になるって言ったんだ」
「三人を嫁にもらうって言ったんだ」
一拍。
「あそこで無理を通せない奴が、英雄になれるかよ」
リシアが、息を止めた。
カレンも。
クラリスも。
良樹の言葉は、静かだった。
大声ではない。
怒鳴ってもいない。
格好つけてもいない。
ただ、本気だった。
だから、余計に。
リシアの目に、涙が溜まった。
「……じゃあ」
声が震えた。
「英雄になってよ」
良樹の目が、リシアへ向く。
リシアは、涙をこぼさないように睨んでいた。
「本当は、そんなこと言いたくないわよ」
「無理しないでって言いたい」
「倒れないでって言いたい」
「私たちの前でくらい、弱いところを見せなさいよって、言いたい」
良樹は、何も言えなかった。
「でも、それじゃあんたには届かないんでしょ」
「あそこで無理を通せない奴が英雄になれるかよって」
「そう言うんでしょ」
リシアは、袖で目元を拭わなかった。
「なら、英雄になってよ」
「あんなことでビクともしないくらい、凄い英雄になってよ」
声が、少しだけ崩れた。
「早く来なさいよ」
「私たちを迎えに来るんでしょ」
良樹は、息を吸うことも忘れていた。
カレンが、良樹の手を握ったまま俯いた。
「私も……本当は、無理しないでほしいです」
涙が、良樹の手の甲に落ちた。
「でも、良樹さんは」
「必要だったって、言うから」
「カレン」
「私が、また」
「くださいって言えるくらい」
「良樹さんが、ちゃんと立っていられるくらい」
カレンは、声を詰まらせた。
「凄い英雄に、なってください」
握る手が、震えている。
「良樹さんが来てくれるって」
「私が、怖がらずに待てるようにしてください」
クラリスは、良樹の手首に指を添えたままだった。
その指先が、少しだけ震えていた。
「私も、本当は止めたいです」
声は穏やかだった。
けれど、いつものように整ってはいなかった。
「英雄でなくてもいいから、生きていてくださいと」
「無理をしないでくださいと」
「そう言いたいです」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
「でも、それでは良樹くんには届かないのでしょう」
良樹は返せなかった。
「なら、良樹くんの言葉で言います」
クラリスの目にも、涙が滲んでいた。
「英雄になってください」
「私たちが、安心して待てるくらいの英雄に」
一拍置いて。
「途中で倒れず、私たちのところまで来てください」
「私たちが待つ場所まで、ちゃんと辿り着いてください」
部屋は静かだった。
良樹は、しばらく何も言わなかった。
三人は、良樹の覚悟を否定しなかった。
否定しないまま。
良樹が逃げられない言葉で、返してきた。
それが、一番堪えた。
「……悪い」
今度の声は、軽くなかった。
三人が良樹を見る。
「今度のは、俺が悪かった」
リシアが、涙の溜まった目で睨む。
「……今度のは?」
「ああ」
「無理を通すところまでは、間違ってねえと思ってる」
リシアの眉が動く。
良樹は、目を逸らさなかった。
「でも」
「倒れたら駄目だな」
カレンの手が、少し強くなる。
「お前が次に、くださいって言うのを怖がるようになったら駄目だ」
「リシアが俺に寄せるのを躊躇するようになったら駄目だ」
「クラリスが、俺が途中で倒れる心配をしながら待つようになったら駄目だ」
良樹は、短く息を吐いた。
「次は、根性じゃなくて設計で通す」
「意地じゃなくて、仕組みで支える」
「お前らが俺に要求しても、怖がらなくていいようにする」
少しだけ間を置く。
「だから」
「待っててくれ」
リシアの涙が、一粒落ちた。
「待ってるわよ」
「だから、早く来なさいよ」
カレンは、涙を拭わずに頷いた。
「待ってます」
「怖がらずに、待てるようにしてください」
クラリスは、静かに微笑んだ。
「はい」
「そのためにも、今日は寝てください」
良樹は、一瞬だけ黙った。
「そこは変わらねえのか」
「変わらないわよ」
リシアが即答した。
「寝てください」
カレンも言った。
クラリスが、良樹の手首を軽く押さえた。
「英雄になるための、本日の作業です」
良樹は、目を閉じた。
「了解」
◇
昼過ぎ、ギルドから使いが来た。
小さな包みがいくつか。
籠に入った果物。
焼き菓子。
薬草茶。
清潔な布。
保存の効く干し肉。
それから、四つの包み。
それぞれに、小さな札が付いていた。
良樹さんへ。
リシアへ。
カレンへ。
クラリスへ。
リシアは、その札を見て少しだけ黙った。
「名前、書かれてるわよ」
カレンは、自分の包みを両手で大事そうに持った。
「私たちにも、あります」
クラリスは静かに頷く。
「四人分ですね」
良樹は眠っていた。
呼吸は落ち着いている。
顔色も朝より少し戻っている。
三人は、良樹の分の包みを机の上に置いた。
良樹さんへ。
英雄とは書かれていない。
勇者とも書かれていない。
特別な称号など、どこにもない。
ただ、名前があった。
誰かを守った者の名前として。
◇
夜になった。
良樹の状態は、だいぶ落ち着いていた。
まだ本調子ではない。
起き上がろうとすれば止められる。
盤を開こうとすれば、たぶん三人に怒られる。
だが、朝のような沈み方ではなかった。
三人は、そのまま部屋に残っていた。
リシアは椅子にもたれていた。
腕を組んだまま、いつの間にか眠っている。
カレンはベッド脇に座り、良樹の手を握ったまま、こくりこくりと頭を揺らしていた。
やがて、そのまま眠った。
クラリスは机に伏せていた。
眠っていても、良樹へ手を伸ばせる位置にいる。
良樹は、夜中に一度だけ目を覚ました。
部屋は静かだった。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人が眠っている。
机の上には、四人分の包みがあった。
良樹さんへ。
リシアへ。
カレンへ。
クラリスへ。
良樹は、それをしばらく見ていた。
名前を呼ばれることには、まだ慣れない。
礼を受け取ることにも。
待たれることにも。
自分の名前に、誰かの期待が乗ることにも。
まだ慣れない。
けれど。
その名前を待っている人たちがいることだけは、分かった。
良樹は、何かを言おうとした。
けれど、言わなかった。
言えば、三人を起こす。
だから、ただ目を閉じた。
手の中には、カレンの指の温度が残っていた。
額には、リシアが替えた布の冷たさが残っていた。
手首には、クラリスが脈を取った感触が残っていた。
良樹は、小さく息を吐いた。
「……待ってろ」
声は、誰にも届かなかった。
それでよかった。
今はまだ。
名前だけでいい。




