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第45話 争奪戦(挿絵有)

 魔石信号器は、届いた。


 届いたから、間に合った。


 その事実は大きかった。


 第一中継点で、カレンが違和感に気づいた。

 ニルが信号を送った。

 良樹が斥候盤で先行した。

 リシアが長距離から撃った。

 クラリスが到着して、抜けようとした魔物を止めた。


 全部が繋がった。


 だから、カレンとニルは孤立しなかった。

 信号器は魔物を倒したわけではない。

 けれど、危険を一人で抱え込ませなかった。


 そこまではよかった。


 そこまでは、間違いなく前進だった。


 だが。


 良樹は、拠点の作業場で試験記録を書きながら、筆を止めた。


 試験台の上には、粗い紙が広げられている。


 魔石信号器。

 第一中継点。

 実戦信号。

 カレン危険感知。

 ニル送信補助。

 要対応。

 森側。

 不明接近。

 良樹、斥候盤にて先行。

 リシア、長距離エレメンタルストライク。

 クラリス、後続制圧。


 そこまでは、淡々と書けた。


 問題は、その次だった。


 良樹は、少しだけ眉間に皺を寄せて、新しい行を書いた。


 第一到着者の自己防御能力不足。


「……」


 書いてから、少しだけ黙る。


 嫌な言葉だった。


 だが、書かないわけにはいかない。


 良樹は、続けて書いた。


 敵位置は認識。

 斥候盤による検知は有効。

 ただし、複数対象への即時対応は不可。

 索敵可能であっても、身体的対応が追いつかない場面あり。

 リシアの狙撃がなければ、良樹負傷の可能性。


 そこまで書いた時、背後から声がした。


「それ、あんたのことよね」


 リシアだった。


 作業場の入口近くに立ち、腕を組んでいる。


 その後ろには、カレンとクラリスもいた。


 カレンは少し不安そうに胸元で手を握っている。

 クラリスは、いつものように穏やかに微笑んでいた。


 ただ、その目だけは少し静かだった。


 良樹は、紙から目を上げた。


「ああ」

「俺のことだ」


 リシアの眉がわずかに動いた。


「昨日、危なかったってこと?」


「危なかった」


 良樹は即答した。


 カレンの指が、胸元でぎゅっと握られる。


「良樹さん……」


「見えてはいた」

「斥候盤は拾ってた」

「敵の数も、位置も、遅れて入ってきた一体も、認識はしてた」


 良樹は紙の上に指を置いた。


「だが、身体が足りなかった」

「俺は一人しかいねえ」

「見えることと、止められることは別だ」


 クラリスの表情が、ほんの少しだけ変わった。


「リシアの狙撃がなければ」


「ああ」

「普通に裂かれてた可能性がある」


 カレンの顔が青くなる。


 リシアは、少しだけ唇を結んだ。


「だから言ったでしょ」

「一人で突っ込む気かって」


「突っ込んだつもりはねえ」

「孤立させないために繋ぎに行った」

「ただ」


 良樹は、筆を置いた。


「繋ぎに行った本人が落ちたら意味がねえ」

「魔導盤だけで自分の身まで守れると思ったら危ない」

「最低限、一拍死なない術がいる」


 作業場に、短い沈黙が落ちた。


 一拍。


 リシアが口を開いた。


「なら、魔術ね」


「剣術だと思います」


「体術ですね」


 三つの声が、ほぼ同時に重なった。


 良樹は、三人を見た。


「……何で三方向から来る」


 リシアは当然のように腕を組み直した。


「良樹は魔導盤を使うでしょ」

「だったら、魔術と組み合わせるのが一番自然よ」


 カレンは一歩前に出る。


「で、でも良樹さんは、昨日みたいに前に出ます」

「怖い方向に何かを置けないと、間に合いません」

「剣なら、一拍作れます」


 クラリスは静かに微笑んだ。


「敵が待ってくれるとは限りません」

「魔術を組む前に掴まれることもあります」

「剣を抜く前に倒されることもあります」

「最後に必要なのは、身体の逃がし方です」


 三人とも、言っていることは正しかった。


 良樹はそれを認めた。


 認めた上で、嫌な予感もした。


「……全員、理屈は分かる」


「でしょう?」


 リシアはすぐに言った。


「魔術なら、風で距離を作れる」

「光で視界をずらせる」

「足元を崩せる」

「敵に触られる前に逃げ道を作るのが一番安全よ」


「倒すためではなく、止めるための剣もあります」


 カレンも、真面目な顔で続ける。


「怖い方向に剣を置いて、踏み込みを止める」

「相手の攻撃を受け止めるのではなく、逸らす」

「良樹さんなら、斥候盤で見えた方向に置けるはずです」


「ですが、剣を持っていない時もあります」


 クラリスが続けた。


「掴まれた時」

「倒された時」

「押さえ込まれた時」

「その時に必要なのは、受け身と掴み外しです」

「身体で覚えるべきです」


「そこまでは分かる」


 良樹は言った。


「そこまでは、な」


 三人が、少しだけ止まった。


 良樹は目を細める。


「で」

「誰が教えるか、って話だよな」


 三人は黙った。


 黙った。


 だが、否定はしなかった。


 リシアが、少しだけ視線を逸らす。


「魔術は、魔力の流れを見る必要があるわ」

「危ないから、近くで見るのは当然よ」


「近くで、ですか」


 カレンが小さく言う。


「そうよ」


「どれくらい近くですか」


「必要なだけ」


「便利ですね、必要」


 クラリスが微笑んだ。


「あなたに言われたくないわよ」


 リシアが即座に返す。


 カレンも、木剣を持っているわけでもないのに、胸元で手を握った。


「剣術なら、構えを見る必要があります」

「手首、肩、腰、足の位置」

「崩れていると危ないので、ちゃんと触って直します」


「今、ちゃんと触ってって言ったわね」


 リシアの目が細くなる。


「必要です!」


 カレンは赤くなりながらも言い切った。


「剣は構えが崩れると危ないんです」

「だから、手を取るのは必要です」

「腰の向きを直すのも必要です」

「良樹さんと正面から向き合うのも、必要です」


「最後のやつ、少し気持ちが混ざってない?」


「混ざってません!」


「少しも?」


「……少しです!」


「認めたわね」


 クラリスは、そこで静かに一歩前へ出た。


「お二人とも、甘いです」


「何がよ」


「体術は、身体で覚えるものです」

「説明だけでは危険です」

「掴んで、外して、崩して、支える」

「直接触れます」


 リシアとカレンの目が、同時にクラリスへ向いた。


「直接?」

「直接、ですか?」


「はい」


 クラリスは清楚に頷いた。


「直接です」


 良樹は、眉間を押さえた。


「お前ら、俺の命を守る話をしてるんだよな?」


「もちろんよ」

「もちろんです」

「もちろんです」


 三人の返事は揃っていた。


 だが、三人とも、目が少し妙だった。


 妙に真剣で。

 妙に期待していて。

 妙に、こちらを見ていた。


「目が護身術じゃねえ」


「そんなことないわ」


「ないです」


「ありません」


 返事が早かった。


 早すぎた。


   ◇


「そもそも」


 クラリスが、静かに言った。


「護身術は、一日で身につくものではありません」


 その声に、リシアとカレンがぴたりと止まった。


「反復が必要です」

「定期的な確認が必要です」

「良樹くんの身体の動きが変わったかどうか、継続して見る必要があります」


 良樹は、普通に頷いた。


「まあ、それはそうだな」


 その瞬間だった。


 空気が変わった。


 本当に、少しだけ。


 だが、変わった。


 リシアの目が一瞬だけ細くなる。

 カレンの指が、胸元でぎゅっと握られる。

 クラリスの微笑みが、ほんの少しだけ深くなる。


 良樹は、それを見逃さなかった。


「……お前ら、今何を考えた」


「何も」

「何も考えていません」

「大切な確認だと考えました」


「三人目だけ少し具体的だな」


 クラリスは微笑んだ。


「大切です」

「定期的な確認ですから」


「定期的……」


 リシアが小さく呟く。


「反復……」


 カレンも小さく呟く。


 良樹は、嫌な予感がした。


「お前ら、何か急に空気変わってねえか」


「変わってないわ」

「変わってません」

「変わっていません」


 また返事が早かった。


 良樹は、作業台に片手をついた。


「俺の護身術の話だよな」


「そうよ」

「そうです」

「そうです」


「じゃあ、何でお前ら、訓練日程を考える顔になってる」


 三人は黙った。


 リシアが先に口を開く。


「魔術は、週に三回は確認した方がいいわね」

「魔力の流れは、その日の体調で変わるもの」


「三回は多いです」


 カレンが、思わずというように言った。


「剣術も反復が必要です」

「構えは毎回確認しないと崩れます」

「怖い方向に置く感覚は、一度では覚えられません」


「体術は毎日少しずつが理想です」


 クラリスが、さらりと言った。


 リシアとカレンが振り向く。


「毎日!?」

「毎日、ですか!?」


「はい」

「受け身は毎日でもよいくらいです」

「良樹くんの身体を守るためです」


「身体を守るって言えば何でも通ると思わないで」


 リシアが言う。


 クラリスは、清楚に頷いた。


「通ると思っています」


「認めました……!」


 カレンが震える。


 良樹は額に手を当てた。


「俺の護身術の話だよな?」


「そうよ」

「そうです」

「そうです」


「じゃあ、何で訓練日程の奪い合いになってる」


 三人はまた黙った。


 そして、リシアが少しだけ視線を逸らしながら言った。


「……必要だからよ」


「……必要です」


 カレンも小さく言う。


「……必要です」


 クラリスも続いた。


 良樹は深く息を吐く。


「便利だな、必要」


   ◇


 結局、話し合いだけでは収まらなかった。


 いや、収まるはずがなかった。


 リシアは魔術を譲らない。

 カレンは剣術を譲らない。

 クラリスは体術を譲らない。


 良樹はしばらく三人の言い争いを聞いていたが、やがて片手を上げた。


「分かった」


 三人が同時に良樹を見る。


「一回ずつ試す」

「魔術、剣術、体術」

「それぞれやってみる」

「何が俺の初動に使えるか見る」


 三人の顔が、明らかに明るくなった。


「最初は魔術ね」


 リシアが即座に言う。


「剣術も、ちゃんとお願いします」


 カレンが真面目に続ける。


「体術は最後で構いません」

「最後の方が、良樹くんの身体の疲労も見られますから」


 クラリスが穏やかに言った。


「言い方」


 リシアが突っ込む。


「確認です」


「確認って言えば通ると思ってるでしょ」


「はい」


「認めるのが早いのよ」


 良樹は試験用のメモを取り、腰袋を確認した。


 外へ出るなら、いつも通りだ。


 工具。

 ロングドライバー。

 小型ナイフではない。

 あくまで工具。

 それから、簡単な木片と紐。


「町外れの練習場に行く」

「家の中でやる話じゃねえ」


「でしょうね」


 リシアが頷く。


「ここで体術訓練は危ないです」


 クラリスも頷く。


「構えの練習も、広い方がいいと思います」


 カレンも頷いた。


 良樹は三人を見た。


「念のため言っておく」

「護身術の検討だ」

「俺の生存性を上げるためだ」

「変な方向に持っていくな」


「分かってるわ」

「はい」

「はい、良樹くん」


 良樹は、少しだけ目を細めた。


「本当か?」


 三人は、目を逸らした。


 良樹は天井を見た。


「始まる前から不安しかねえ」


   ◇


 町外れの練習場は、昼下がりの光に照らされていた。


 人通りは少ない。

 近くに荷車もない。

 道からは少し外れていて、多少転んでも問題ない草地がある。


 良樹はまず周囲を確認した。


 人影なし。

 家畜なし。

 荷車なし。

 魔物反応なし。

 足元に大きな石なし。

 転倒時の危険物なし。

 背後の退避方向あり。


「よし」

「ここなら試せる」


「本当に毎回それね」


 リシアが呆れたように言う。


「毎回必要だ」

「転ぶかもしれねえ」

「魔術を出すかもしれねえ」

「剣を振るかもしれねえ」

「確認しないで始める方がおかしい」


「分かってるわよ」

「だから良樹らしいって言ってるの」


 良樹は草地の中央に胡座をかいた。


 まずはリシアの魔術護身。


 携行盤を胸の前に薄く展開する。

 大きな盤ではない。

 あくまで携行盤。

 魔力の流れを確認し、小さく逃がすための構成だ。


「良樹」


「何だ」


「肩の力を抜いて」


「抜いてる」


「抜けてないわ」

「盤を見ようとすると、肩が固まるのよ」


 リシアはそう言って、良樹の後ろへ回った。


 両手が、良樹の肩に置かれる。


 細い指。

 けれど、力はしっかりしている。


 良樹は、少しだけ姿勢を正した。


「肩に力が入りすぎ」

「もっと上へ逃がして」

「盤だけ見ないで、自分の魔力の戻りも感じなさい」


「戻り?」


「そう」

「出すだけじゃなくて、返ってくる流れ」

「風で逃がすなら、逃がした先の流れまで感じないと駄目」


 リシアは、良樹の肩に手を置いたまま、片方の肩口から顔を乗り出した。


 良樹の胸元に浮かぶ携行盤を見るためだ。


 顔が近い。


 吐息が近い。


 そして。


 後頭部に、柔らかい感触が触れた。


 良樹の手が止まった。


 一拍。


「……リシア」


「何」


「当たってる」


「何が」


「言わせる気か」


 リシアの動きが、一瞬だけ止まった。


 それから、耳が赤くなる。


 だが、引かない。


「魔力を見るには、この位置が一番いいの」

「必要な接触よ」


 カレンが、少し離れた場所からじっと見ていた。


「必要、ですか」


 クラリスは口元に手を添える。


「リシア、顔が赤いですね」


「魔力を見てるからよ!」


 リシアが叫ぶ。


 良樹は携行盤を見たまま言った。


「魔力を見ると赤くなるのか」


「うるさい!」


「いや、肩に力を入れるなって言ったのはお前だろ」


「良樹が余計なことを言うからでしょ!」


「余計なことというか、当たってるんだが」


「だから!」


 リシアは、良樹の肩を少しだけ強く掴んだ。


「今は魔術の確認!」


「了解」


 良樹は、それ以上言うのをやめた。


 技術の話なら、言う。

 安全の話なら、言う。

 だが、今それ以上言うと、たぶんリシアの顔がさらに赤くなる。


 分かっていて、言わなかった。


 リシアも、少しだけ息を整えた。


「風を小さく作って」

「敵を倒す風じゃない」

「自分の身体から、半歩だけ距離を作る風」


「ああ」


「押し返すんじゃなくて、外す」

「相手の踏み込みを真正面で受けない」

「斜めに逃がす」


 良樹は携行盤に意識を向けた。


 風。

 小さく。

 短く。

 真正面ではなく、斜め。


 指先の前に、ほんの少しだけ空気が揺れた。


「出た」


「弱いけど、出たわ」

「でも遅い」

「盤で組んでから出してる」


「ああ」

「咄嗟には間に合わねえな」


「だから訓練が必要なのよ」


 リシアは、すぐに言った。


「週に三回くらい」


「そこへ戻すな」


「必要な確認よ」


「便利だな、必要」


 良樹は、小さく息を吐いた。


 魔術護身は使える。

 使えるが、初動ではない。


 それは分かった。


 なお、リシアは最後まで後ろから離れなかった。


   ◇


 次はカレンだった。


 カレンは木剣を二本用意していた。


 良樹に一本を渡し、自分も一本を持つ。


「良樹さん」

「剣は、倒すためだけではありません」

「怖い方向に置くものです」


「ああ」

「それは分かる」


「はい」

「まず、構えからです」


 カレンは良樹の前に立った。


 最初は、少し緊張していた。


 近づける。

 手を取れる。

 良樹に、自分の剣を教えられる。


 その事実が、胸の奥を少し熱くしていた。


 だが。


「剣先は、こちらです」

「相手の胸ではなく、踏み込んでくる線に置いてください」

「肩を下げて」

「手首は、こうです」


 教え始めた途端、カレンの目が真剣になった。


 良樹の手首に触れる。

 木剣の角度を直す。

 肘の高さを変える。

 肩を押さえる。


「腰は……あの、少し触りますね」


「ああ」


「身体は逃がします」

「剣だけを前に置く感じです」

「足はここです」


 カレンは、良樹の周りをくるくる動いた。


 正面。

 斜め前。

 横。

 少し後ろ。


 そのたびに、良樹の腕や肩や背中や横腹に、柔らかいものが当たった。


 ふに。


 ふにふに。


 ふに。


 良樹は、しばらく耐えた。


 カレンは真剣だった。

 真剣に、剣を教えている。


 だから、言いづらかった。


「良樹さん、そこは違います」

「怖い方向に置くので、剣先をこちらへ」

「はい」

「肩は下げてください」

「腰は、もう少し――」


「カレン」


「はい、そこは違います。怖い方向に――」


「カレン」


「はい?」


 カレンが顔を上げる。


 良樹は、少しだけ目を逸らした。


「お前、さっきからかなり当たってる」


 カレンが止まった。


 完全に止まった。


「……え」


 それから、自分の位置を確認する。


 良樹との距離。

 自分の胸元。

 腕。

 身体。


 そして、さっきから何度も当たっていた事実。


「ひゃっ!?」


 カレンは飛び退いた。


「す、すみません!」

「教えるのに夢中で……!」


 リシアが腕を組んで見ている。


「夢中だったわね」


 クラリスも微笑む。


「非常に熱心でした」


「ち、違います!」

「最初は少しだけ近くにいたいと思いましたけど」

「途中からは本当に教えていて……!」


 良樹は、木剣を下ろした。


「最初の自白いるか?」


 カレンの顔が、さらに赤くなる。


「……いりませんでした」


 リシアが小さく笑う。


「カレンは正直ね」


「うぅ……」


 カレンは木剣を胸元に抱えた。


 その仕草が、余計に恥ずかしそうだった。


 良樹は、少しだけ間を置いた。


 カレンの目は、本当に真剣だった。


 近くにいたかったのも本当だろう。

 だが、剣を教えようとしていたのも本当だった。


 そこを軽く扱うのは違う。


「カレン」


「はい……」


「怖い方向に置くって考え方は、分かりやすい」

「使える」

「それは覚える」


 カレンの指が、木剣を握る。


 少しだけ、力が戻った。


「はい」


 小さな返事だった。


 でも、顔は少しだけ明るくなっていた。


「ただ」


 良樹は続ける。


「剣は、剣を持ってる前提だ」

「抜く、構える、間合いを作る」

「そこまでできるなら有効だが、咄嗟の初動にはまだ遠い」


「……はい」


 カレンは頷いた。


 残念そうではあった。


 けれど、良樹がちゃんと見たことは伝わったらしい。


 カレンは、木剣を胸元に抱えたまま、少しだけ目を伏せた。


   ◇


 最後はクラリスだった。


 クラリスは袖を軽く整え、良樹の前に立った。


 いつもの法衣。

 いつもの清楚な微笑み。

 いつもの柔らかな立ち姿。


 だが、良樹はもう知っている。


 その手が、魔物を殴り飛ばすことを。

 その足が、攻撃線の外側へ滑り込むことを。

 その目が、骨格と関節と重心を静かに見ていることを。


「まず、掴まれた時の外し方です」

「良樹くん、私の手首を掴んでください」


「俺が掴むのか」


「はい」

「遠慮はいりません」


「遠慮はいります」


 リシアが横から言った。


「は、はい」

「少しは……」


 カレンも頷く。


 クラリスは微笑んだ。


「訓練です」


 良樹は、クラリスの手首を掴んだ。


 細い手首だった。


 だが、掴んだ瞬間、クラリスの重心がわずかに変わった。


「見ていてください」


 クラリスは、力で引かなかった。


 手首を捻ったわけでもない。


 親指側の隙間へ、するりと抜けた。


 良樹の手から、クラリスの手首が消える。


「……今のは分かりやすいな」


「はい」

「力で引くと、相手も力を入れます」

「弱い場所へ抜きます」


「なるほど」


「では次に、良樹くんが掴まれた場合です」

「私が掴みます」


 クラリスは、良樹の手首を掴んだ。


 それだけなら、普通だった。


 次に、肩に触れる。

 腰の向きを見る。

 背中へ手を添える。


「肩を抜いてください」

「腰を少し落として」

「力を入れすぎると、逆に抜けません」

「はい、そのまま」

「もっと近くで大丈夫です」


「近いわよ」


 リシアが言った。


「体術ですから」


 クラリスは平然と答えた。


「クラリス」

「今、胸で押してませんか?」


 カレンが赤い顔で言う。


「体重移動です」


「便利ね、体重移動」


 リシアが額を押さえた。


「便利です」


 クラリスは微笑む。


 良樹は、少しだけ眉を寄せた。


「クラリス」


「はい」


「今のは体術か」


「体術です」


「本当にか」


「かなり体術です」


「かなりって何だ」


 リシアが突っ込む。


 クラリスは良樹の腕を取り、身体の向きを変えさせた。


 その動きの中で、また柔らかい感触が触れる。


 明らかに、触れる。


「クラリス」


 リシアの声が低くなった。


「今の、本当に必要?」


「必要です」


 クラリスは、清楚に頷いた。


「体術には、身体を当てる当身もありますから」


 沈黙。


 カレンが、木剣を胸元に抱えたまま固まった。


「か、身体を当てる……」


「はい」


 クラリスは微笑んだ。


「拳や肘だけが当身ではありません」

「肩、背中、腰、体幹」

「身体そのものを使って、相手の姿勢を崩すこともあります」


「説明だけ聞くと正しいのが腹立つわね」


 リシアが額を押さえる。


 良樹は、クラリスを見た。


「で、今のは当身か」


「はい」


「本当にか」


「応用です」


「応用って便利だな」


「便利です」


「褒めてねえ」


 クラリスは、さらに良樹の横へ入った。


「密着状態からの離脱です」

「良樹くん、ここで力を入れると危険です」

「身体を固めずに」

「こちらへ逃がして――」


 そこで。


 クラリスの足運びが、一瞬だけ雑になった。


 当てに行くこと。

 距離を詰めること。

 良樹に触れること。


 その全部を、清楚な顔で成立させようとしすぎた。


 重心が、ほんの少し流れた。


「あ」


 クラリスの身体が傾く。


 良樹は反射で動いた。


 片腕を回し、クラリスの腰を支える。

 もう片方の手で、肩口を受ける。


 クラリスは、良樹の胸元に収まった。


 音が消えた。


 ほんの一瞬。


 クラリスの指が、良樹の服を掴んだ。


 すぐに離そうとした。


 けれど、離せなかった。


 頬が赤くなる。


 先ほどまで、清楚な顔で当てに行っていた人間とは思えないほど、あっさりと。


 クラリスは固まった。


「大丈夫か」


 良樹が聞いた。


「……はい」


「足、捻ってねえか」


「……はい」


「いや、質問に答えてねえ」


「……はい」


 リシアが小さく息を吐いた。


「壊れたわね」


 カレンが頷く。


「乙女の方です……」


 良樹は、クラリスを支えたまま少しだけ黙った。


 いつもなら、倒れた原因を聞く。

 足運びがどう崩れたか確認する。

 危険だった動作を指摘する。


 だが、今それを全部言うのは違う気がした。


 クラリスの指が、まだ服を掴んでいる。


 顔は赤い。

 目は伏せられている。

 そして、呼吸が少し浅い。


 良樹は、短く言った。


「一回休め」


 クラリスは、少し遅れて頷いた。


「……はい」


「教えるどころじゃねえな」


「……はい」


 クラリスの体術指導は、そこで一度止まった。


   ◇


 三つの確認が終わった時、良樹は草地の端に腰を下ろした。


 疲れていた。


 身体よりも、精神が疲れていた。


 リシアは少し不満そうに腕を組んでいる。

 カレンは木剣を抱えたまま、まだ少し赤い。

 クラリスはいつもの清楚な顔に戻ろうとしているが、耳の赤みが残っていた。


 良樹は、三人を見た。


「どれも間違ってねえ」


 三人が顔を上げる。


「魔術はいる」

「剣術の考え方もいる」

「体術も必要だ」


 リシアの表情が少し明るくなる。

 カレンの指に力が入る。

 クラリスが静かに微笑む。


 だが、良樹は首を振った。


「ただ、どれも今の俺の初動じゃねえ」


 三人の動きが止まる。


「考えてから動く」

「それだと遅い」

「咄嗟に出る感じがしない」


「……あれだけやったのに」


 リシアが小さく言った。


「かなり頑張ったんですけど……」


 カレンも呟く。


「私は転びましたのに……」


 クラリスが、少しだけ残念そうに言った。


「最後のはお前の自爆だろ」


 良樹は即座に返した。


 クラリスは、何も言わなかった。


 否定もしなかった。


 その時だった。


「何してんすか?」


 声がした。


 ニルだった。


 通りがかりらしく、肩に荷物を引っかけている。

 何かの届け物か、ギルドの雑用帰りだろう。


 ニルは、良樹たちを見る。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。

 疲れた顔の良樹。


 そして、妙に空気の濃い練習場。


「……なんか、護身術って顔じゃないっすね」


「分かるか」


 良樹が言う。


「分かるっす」


 三人娘の視線が、同時にニルへ向いた。


 ニルは一歩下がった。


「え、俺、何か踏んだっすか?」


「だいぶ踏んだ」


 良樹は答えた。


 ニルは困ったように頭を掻いた。


「で、何してたんすか?」


「護身術選定会議だ」


「大げさっすね」


「実態はもっと大げさだった」


「何すか、それ」


 ニルは苦笑し、それから良樹の腰を見た。


 腰袋。


 そこに収まっている、長い工具。


「良樹さんなら、短剣でいいんじゃないっすか?」


「短剣はなあ……」


 良樹は、少し顔をしかめた。


「俺は剣士じゃねえし、短剣も使ったことねえ」


「ちゃんとした短剣じゃなくてもいいっすよ」

「いつも腰にぶら下げてる、その棒でも」


「棒?」


 ニルが指差した。


 ロングドライバーだった。


 挿絵(By みてみん)


 良樹は即座に言った。


「ドライバーはそういうふうに使うもんじゃねえ」


 それは反射だった。


 工具は工具だ。

 ネジを回すためのもの。

 こじるためでも、叩くためでも、ましてや武器にするためのものでもない。


 十鉄に何度も言われた。


 工具で遊ぶな。

 工具を投げるな。

 曲げたら自分で買え。

 目的外で使うな。


 だが。


 良樹の中で、小さな記憶が浮かんだ。


 子供の頃。

 父の作業場。

 長いドライバー。

 剣に見立てて振った。

 当然、怒られた。


 けれど、やった。


 誰だってやる。

 いや、少なくとも良樹はやった。


 長い工具を持てば、剣に見える。

 男児の頭は、安全教育より先に剣ごっこを始める。

 現場猫の素質は幼少期から芽吹く。

 まったく、ろくでもない。


 ニルは、良樹の顔を見て笑った。


「やったことある顔っすね」


「……子供の頃にな」


「ほら」

「使い慣れてるじゃないっすか」


「それを使い慣れてるに入れるな」


「でも、腰から抜くのは慣れてるっすよね」

「握るのも慣れてるっすよね」

「向きを決めるのも、たぶん慣れてるっす」


 良樹は黙った。


 腰袋から、ロングドライバーを抜く。


 握る。


 自然だった。


 あまりにも自然だった。


 重さ。

 長さ。

 握りの感触。

 先端の向き。

 腰から抜いて、手元に持ってくる動き。


 考える前に分かる。


 三人娘が黙った。


 ニルは頷く。


「それっす」

「勝つためじゃないっす」

「嫌がらせでいいんすよ」


「嫌がらせ」


「はい」

「手を払う」

「爪を逸らす」

「踏み込みを止める」

「一瞬嫌がられれば、それで逃げられるっす」


「分かりやすいな」


「短剣も、最初はそんなもんっす」

「深く刺しに行かない」

「大きく振らない」

「手元に置く」

「相手の線に置く」

「嫌がったら逃げる」


 良樹は、ロングドライバーを構えた。


 剣とは違う。

 短剣とも違う。

 だが、手の中にある感覚は、他のどれよりも近かった。


 ニルが、ゆっくりと近づく。


「じゃあ、俺の手を払う感じで」

「刺さなくていいっす」

「当てるだけっす」


「ああ」


 ニルが手を伸ばす。


 良樹は、ロングドライバーの軸をそこへ置いた。


 速い。


 自分でも分かるくらい、自然に出た。


 ニルが目を丸くする。


「良樹さん、上手いっすね」


「いや、技術はねえだろ」


「技術っていうより」

「道具を出して、向きを決めて、狙ったところに置くのが早いっす」

「使い慣れてるんすよ」


 使い慣れている。


 その言葉が、良樹の中へ落ちた。


 魔術ではない。

 剣術ではない。

 体術でもない。


 工具。


 この世界へ来る前から、ずっと腰にあったもの。

 工場でも。

 現場でも。

 盤の前でも。

 脚立の上でも。

 親父に怒鳴られながらでも。


 良樹の手は、これを知っている。


「……使い慣れてる、か」


 リシアが小さく言った。


「確かに」

「魔術より早かったわね」


 カレンも、少し悔しそうに頷く。


「剣より、自然でした……」


 クラリスも静かに見る。


「体術より、初動が早いです」


 三人の声には、納得と不満が混ざっていた。


 良樹は携行盤を開いた。


 胸元に薄く、最小限。


「……工具一本なら」


「良樹?」


 リシアが聞く。


「携行盤でも、これ一本を薄く強化するくらいならできるかもしれねえ」


 良樹は、ロングドライバーに意識を向けた。


 魔剣にするのではない。

 武器化するのではない。

 大出力を流すのでもない。


 表面を少し硬くする。

 軸を曲がりにくくする。

 握った手から飛ばないようにする。

 手首へ返る衝撃を少し逃がす。


 それだけ。


 携行盤の小さな線が、ロングドライバーへ伸びた。


 薄い光が、軸に沿う。


「できた」


 良樹が呟く。


 ニルが目を輝かせる。


「いいじゃないっすか」

「それなら、爪とか刃を少し逸らせるっす」


「武器にするんじゃねえ」


 良樹はすぐに言った。


「工具は武器じゃねえ」

「ただ、工具を持っている時に攻撃を受けた場合」

「防御動作として使う」

「落とさない」

「折らない」

「一拍作る」

「それだけだ」


「背に腹はかえられないっすからね」


「……それもその通りだ」


 良樹は認めた。


 リシアが、そこで静かに言った。


「待って」


 ニルが振り向く。


「はい?」


「それ、ニルが教えるの?」


「え?」

「まあ、短剣っぽい使い方なら、少しは見られるっすけど」


 カレンが、一歩前に出る。


「少し、ですか?」


「いや、最初は何回か見ないと危ないっすよ」

「変な癖ついたら困るんで」


 クラリスが、にこりと微笑んだ。


「何回か」


 ニルは一歩下がった。


「……え」

「何すか、この空気」


 リシアが静かに聞く。


「定期的に?」


「いや、定期ってほどじゃ……」


 カレンが言う。


「でも、良樹さんに何回か教えるんですよね」


「まあ、必要なら」


 クラリスの微笑みが深くなる。


「必要」


 ニルは良樹を見た。


「良樹さん」

「俺、何かまずいこと言ったっすか」


「ニル」


「はい」


「お前は今、地雷原の真ん中にいる」


「俺、助けに来たつもりだったんすけど!?」


「助けた」

「ただし、別の事故を起こした」


「ひどくないっすか!?」


 良樹は、ロングドライバーを腰袋に戻した。


 そして、三人とニルを見る。


「まず、初動はこれを優先する」


 三人の顔が、少しだけ止まった。


「魔術もいる」

「剣術の考え方もいる」

「体術も必要だ」

「だが、全部を同じ重さで訓練に入れたら、俺の時間と身体が足りねえ」


 良樹は腰袋に手を置いた。


「まずは初動」

「咄嗟に出る一拍」

「そこは、ドライバーを使う」


 リシアが、少しだけ唇を尖らせた。


「魔術は?」


「離脱用に最低限」

「風で外す感覚は覚える」


 カレンが木剣を胸元に抱え直す。


「剣術は……」


「怖い方向に置く考え方は教わる」

「ただし、剣術そのものを今から本格的にやるわけじゃねえ」


 クラリスが微笑んだまま聞く。


「体術は?」


「受け身と掴み外し」

「そこだけは必要だ」

「ただし、毎日密着訓練とかはしねえ」


「密着とは言っていません」


 クラリスが言った。


 リシアが即座に返す。


「言ってたわよ、ほぼ」


 カレンも小さく頷く。


「はい……」


 良樹は続けた。


「全部やる、とは言ってねえ」

「全部捨てるとも言ってねえ」

「必要なところだけ拾う」


 三人は、互いに顔を見合わせた。


 許可は出た。

 けれど、思っていたほど広くない。


 良樹の近くに立つ理由は得た。

 けれど、定期的に好き放題触れる権利までは得ていない。


 つまり。


 争奪戦は、終わっていなかった。


 良樹はそれを知らないまま、ニルを見る。


「ニル」

「ドライバーの使い方は、最初だけ見てくれ」


「最初だけっすね?」


「ああ」

「必要最低限だ」


 ニルは、三人娘をちらりと見た。


「……必要最低限でお願いします」


「賢明ね」


 リシアが言った。


「怖いっす」


 ニルは本音で返した。


   ◇


 その日の夜。


 良樹は作業場で、試験記録をまとめていた。


 護身術方針。


 魔術。

 担当、リシア。

 目的、離脱、距離作成、視界ずらし。

 注意、発動に一拍必要。初動には不向き。必要部分のみ採用。


 剣術。

 担当、カレン。

 目的、怖い方向に置く。踏み込み停止。正面の一拍。

 注意、剣保持前提。構えに時間。考え方を採用。


 体術。

 担当、クラリス。

 目的、受け身。掴み外し。転倒時復帰。

 注意、身体に入るまで反復必要。必要部分のみ採用。初回訓練時、指導者転倒あり。


 そこまで書いて、良樹は少しだけ止まった。


 クラリスの顔を思い出す。


 良樹の服を掴んだ指。

 赤くなった頬。

 同じ返事しかできなくなった声。


 良樹は、筆を止めた。


 書かないことにした。


 代わりに、別の行を書く。


 体術訓練時、転倒対策を追加。


「……これでいいだろ」


 次に、良樹はロングドライバーについて書く。


 短剣術応用。

 担当、ニル。

 対象、ロングドライバー。

 目的、初動防御。

 攻撃ではなく、払う、逸らす、押す。

 爪、刃、手首、踏み込み線に置く。

 深追い禁止。

 刺突禁止。

 勝つためではなく、一拍生き残るため。


 携行盤補助。

 工具一本のみ。

 数秒。

 表面補強。

 軸曲がり防止。

 滑り止め。

 手首返り軽減。

 攻撃強化ではなく防御補助。


 そして最後に、少し強い筆圧で書く。


 工具は武器ではない。

 ただし、工具を持っている時に攻撃を受けた場合、防御動作として使用する。


 良樹は、それを見て小さく息を吐いた。


 変な話だった。


 魔導盤。

 魔石信号器。

 端子台。

 エレメンタル・キャノン。

 斥候盤。

 長距離狙撃。

 近接制圧。


 そういうものが増えてきた。


 それでも、最後に自分の手へ戻ってきたのは、腰に下げたロングドライバーだった。


 良樹は、腰袋に手を触れた。


 工具は武器ではない。


 それは譲れない。


 だが。


 工具を握る手は、良樹がこの世界へ来る前から、良樹の手だった。


 なら、まずはその手で、一拍生き残る。


   ◇


 一方、二階の三人部屋では、別の確認が行われていた。


 リシアは腕を組んでいた。


「結局、全部は許可されなかったわね」


 カレンは膝の上で手を握っている。


「はい」

「剣術も、考え方だけ……」


 クラリスは、いつものように穏やかに微笑んでいた。


「体術も、受け身と掴み外しだけになりました」


「だけ、って顔してるわよ」


 リシアが言う。


「必要なものが絞られた、という意味です」


「便利ね、言い換え」


「便利です」


 カレンは、少しだけ困ったように笑った。


「でも、良樹さんらしいです」

「必要なところだけ拾うって」


「そうね」


 リシアは頷いた。


「良樹にとっては、合理的な整理なんでしょうね」


「はい」


 クラリスも頷く。


「ただし」


 リシアが声を落とした。


「争奪戦は、終わってないわ」


 カレンが顔を上げる。


「終わっていない……」


「ええ」

「魔術の確認は残った」

「剣術の考え方も残った」

「体術も必要な部分は残った」


 クラリスが微笑む。


「つまり、機会はあります」


「そういうこと」


 リシアは頷いた。


 そして、少しだけ悔しそうに言う。


「ただ、初動はニルに持っていかれたわ」


 カレンが木剣のない手元を見た。


「ロングドライバー、自然でした……」


 クラリスも静かに頷く。


「悔しいですが、良樹くんの手に馴染んでいました」


 沈黙。


 三人は、互いを見る。


 魔術である必要も。

 剣術である必要も。

 体術である必要も。


 本当は、そこまで大事ではなかった。


 良樹が無事でいてほしい。


 それは本当だ。


 危ない時に、一拍生き残ってほしい。


 それも本当だ。


 けれど。


 良樹に教える理由がほしかった。


 良樹の近くに立つ理由がほしかった。


 手を取り、肩に触れ、腰を支え、呼吸を合わせる。

 それを、堂々とできる時間がほしかった。


 だから、争奪戦だった。


 リシアは、小さく息を吐いた。


「……私たち、ひどいわね」


 カレンは、少しだけ顔を赤くして俯いた。


「で、でも」

「良樹さんを守りたいのは、本当です」


「そうね」


 クラリスが頷く。


「本当です」

「その上で、教えたいのです」


「開き直ったわね」


 リシアが言う。


「はい」


 クラリスは清楚に答えた。


 カレンは、少しだけ笑った。


 それにつられて、リシアも小さく笑う。


「じゃあ、明日から」


「はい」


「はい」


 三人は頷いた。


 良樹の護身術は、ひとまず方向だけ決まった。


 初動は、ロングドライバー。

 携行盤で工具一本を薄く補強し、爪や刃を逸らして一拍作る。


 魔術は、離脱用。

 剣術は、怖い方向に置く考え方。

 体術は、受け身と掴み外し。


 全部をやるわけではない。

 全部を捨てるわけでもない。


 必要なところだけ拾う。


 良樹にとっては、合理的な整理だった。


 だが、リシアにとっては、まだ魔術指導権が確定していないということだった。

 カレンにとっては、剣術稽古が定期化していないということだった。

 クラリスにとっては、体術訓練の範囲が狭すぎるということだった。


 つまり。


 争奪戦は、終わっていなかった。

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