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第41話 使う場所で試す(挿絵有)

 翌朝。


 良樹は作業場の試験台の前に立っていた。


 試験台の上には、昨日使った魔石信号器が置かれている。

 左右に二つずつ、合計四つの小さな魔石。

 それぞれに簡単な接点と、押し込むための小さな板。

 背面には、急ごしらえの反射板のような薄い金属片。


 その横には、符号表が何枚も広げられていた。


 昨日の符号表は、使えないことはなかった。

 ただし、小さい。

 遠い。

 緊急時に読むには、まだ弱い。


 良樹は新しい符号表へ線を引いた。


 左二個。

 危険種別。


 右二個。

 緊急度。


 文字だけに頼らない。

 枠で分ける。

 印を入れる。

 実物の魔石配置と、符号表の配置を完全に合わせる。


 左上が光れば、符号表の左上を見る。

 右下が光れば、符号表の右下を見る。


 人間は、焦ると読む場所を間違える。

 だから、迷わない配置にする。


 良樹は、昨日の記録をもう一度見た。


 魔石信号器は最大五百メル相当まで届いた。

 ただし光量低下あり。

 反応遅れあり。

 符号表改善要。

 斜め視認、未確認。

 高台現地、未確認。

 夜間、雨天、未確認。


 その下に、少しだけ筆圧の違う文字があった。


 未命名。

 クラリス協力時、スキャナー波状化。

 発動条件、要追加確認。

 本人の精神的負荷に注意。


 さらに、その端に。


 実験項目に公平性を混ぜるな。


 そして、その横に別の筆跡で。


 必要な場合を除く。


 良樹は、そこを見て眉間を押さえた。


「……必要な場合、なあ」


 その時、作業場の入口から声がした。


「今日は本当に仕事に戻るのね」


 リシアだった。


 続いてカレン。

 最後にクラリス。


 三人とも、すでに外へ出る支度をしている。

 リシアは杖を持ち、髪を後ろで軽く整えていた。

 カレンは剣を帯び、符号表を入れるための革袋を胸元に抱えている。

 クラリスはいつもの白い法衣だが、袖と裾を少しだけ動きやすいように整えていた。


 良樹は顔を上げた。


「戻るも何も、昨日も試験だっただろ」


 三人が、微妙に目を逸らした。


 リシアは窓の外を見る。

 カレンは胸元の革袋を少し握る。

 クラリスは清楚に微笑む。


 良樹は、少しだけ間を置いた。


「……昨日の一部は、試験だったはずだ」


「一部はね」


 リシアが言った。


「必要な確認でした……」


 カレンが小さく続ける。


「とても大切な確認でした」


 クラリスが穏やかに締めた。


 良樹は、試験台の上の魔石信号器を掴んだ。


「高台へ行くぞ」


 逃げた。


 少なくともリシアの目には、そう見えた。


   ◇


 四人は、町を出て旧街道側へ向かった。


 目的地は、第一中継候補地の高台だった。


 旧街道沿いの見張り台から町へ直接信号を送るには、距離と地形の問題がある。

 だから、途中の高台で一度信号を受ける。

 そこから町側へ送る。


 それができれば、旧街道側で何かあった時、町へ知らせるまでの時間を短くできる。


 ただし、できるかどうかは分からない。


 昨日の原っぱでは届いた。

 だが、原っぱは原っぱだ。


 遮る木も少ない。

 足場も比較的ましだった。

 距離も、良樹を中央に置いて試す形にできた。


 本番とは違う。


 道中、良樹は魔石信号器を背負い直しながら言った。


「原っぱで五百メル届いた」

「ああ」

「でも、ここで届くとは限らねえ」


 リシアが隣を歩きながら頷く。


「地形が違うから?」


「ああ」


 良樹は指を折る。


「高さが違う」

「木も岩もある」

「魔力の流れも違う」

「風も違う」

「何より、人が立てる場所が違う」


 カレンが少し反応した。


「人が立てる場所、ですか」


「ああ」


 良樹は、前方に見え始めた高台の稜線を見た。


「見えるからって、崖の端に立たせるなら意味がねえ」

「信号器は、端に立たないために作ってる」


「端に立たないため……」


 カレンは、小さく繰り返した。


 怖い場所を見る。

 危ない方向を見る。

 逃げ遅れそうな場所を見る。


 それが、自分の役目だとカレンは思っている。


 けれど、怖い場所を見ることと、怖い場所の端に立ち続けることは違う。


 良樹は続けた。


「怖い場所を見る奴を、怖い場所の端に立たせ続ける道具じゃない」

「端に出なくて済む位置で、読めるかを試す」


 カレンは、少しだけ胸元の革袋を握った。


「はい」


 その声は小さかったが、逃げてはいなかった。


 クラリスが、そんなカレンを横から見て、柔らかく微笑んだ。


「カレンが読むからこそ、分かることですね」


「わ、私が……ですか」


「はい」

「怖い時に迷うかどうかは、怖い場所を見ている人にしか分かりません」


 良樹も頷いた。


「そうだ」

「俺が読めると思っても意味がねえ」

「使う奴が、怖い時に読めないなら不良だ」


 カレンは一瞬、驚いたように良樹を見た。


 自分の怖さが、また役に立つ。

 怖がることが、邪魔ではなく、評価になる。


 それが少しだけ、胸の奥に入った。


   ◇


 第一中継候補地の高台は、思っていたより足場が悪かった。


 見晴らしはいい。

 町側も、旧街道側も、それなりに開けている。


 だが、足元には低い草が広がっていた。

 その下に石が隠れている。

 土は一部が崩れかけていて、斜面側へ少し逃げている。

 谷側からは時々、強い風が吹き上がった。


 良樹は到着するなり、周囲を見た。


 足場。

 風。

 視界。

 木の枝。

 岩。

 町の方向。

 旧街道の方向。

 人が立つ位置。

 転んだ時に落ちる方向。


「……なるほどな」


 良樹は荷物を下ろした。


「まず配置を決める」


 リシアが周囲を見ながら言う。


「私が流れを見るわ」


「ああ。頼む」


「カレンは受信側?」


「そうだ」


 良樹はカレンを見る。


「符号表を持って、向こう側の見張り台寄りへ移動してくれ」

「ただし、端には立つな」

「見えないなら、見えないって言え」

「無理して読もうとするな」


「はい」


 カレンは真面目に頷いた。


 良樹は次にクラリスを見た。


「クラリスは、俺の足場と身体の使い方を見てくれ」

「設置で無理してたら止めろ」

「右足、膝、腰、肩。この辺りがおかしければ言え」


「はい」


 クラリスは微笑んだ。


「良樹くんを見るのは得意です」


「足場の話だぞ」


「はい」


 クラリスは、穏やかに頷く。


「足場も見ます」


 リシアが半眼になった。


「“も”ね」


 カレンも小さく頷く。


「“も”でした……」


 良樹は息を吐いた。


「試験開始前から退路を崩すな」


「退路は残します」


 クラリスが言う。


「ただし、逃げ切らせません」


「高台に来てもそれか」


 良樹は頭を押さえた。


   ◇


 設置位置の候補は、三つあった。


 一つ目は、高台の端に近い場所。

 見通しは一番いい。

 ただし、足場が悪い。


 二つ目は、少し内側。

 見通しは少し落ちる。

 だが足場はまだましだった。


 三つ目は、さらに内側。

 安全ではあるが、木の枝が邪魔をする。


 良樹は一つ目の場所へ近づき、足元を見た。


 その瞬間、クラリスがすっと横に来た。


「良樹くん、そこは駄目です」


「まだ端じゃねえだろ」


「端かどうかではありません」


 クラリスはしゃがんだ。


 法衣の裾を片手で押さえ、もう片方の手で草を軽く払う。

 その下に、斜めに浮いた石があった。


「右足の下が少し逃げています」

「体重を乗せると、石が動きます」


 良樹は足元を見る。


「……見えにくいな」


「はい」

「草で隠れています」


 クラリスは良樹の右足首へ手を添えた。


 細い指が、安全靴の上から足首の角度を確認する。

 続いて、膝の向き。

 腰の傾き。


 良樹は、少しだけ動きを止めた。


「……今日は、本当に足場確認だよな」


「はい」


 クラリスは顔を上げずに答えた。


 少し間があった。


「今日は、です」


「余計な時制を足すな」


 クラリスは小さく笑った。


「今日は、使わない確認も必要ですから」


「未命名の話か」


「はい」


 クラリスは立ち上がった。


「使わなくても、良樹くんが私を意識してくださっていることは分かりました」


 良樹は、高台の向こうを見た。


「高台の風は冷えるな」


 リシアが呆れたように言う。


「逃げたわね」


 カレンも少し赤くなりながら頷いた。


「逃げました……」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


「はい」

「ですが、逃げ切れてはいません」


 良樹は設置用の杭を手に取った。


「仕事するぞ」


   ◇


 カレンは受信位置の確認のため、少し離れた場所へ立った。


 胸元には大きく書き直した符号表。

 革袋から取り出したそれを、両手で抱えるように持っている。


 高台の風は、町外れの原っぱより強かった。


 リシアの黒髪が横へ流れる。

 クラリスの法衣の裾が静かに揺れる。

 カレンの外套も、風に押されて少し膨らんだ。


 良樹は、カレンの足元を見ていた。


 受信者の立ち位置。

 符号表を持った時の姿勢。

 足元の石。

 風の向き。

 いざという時に逃げる方向。


 その確認のために、視線は自然と下がっていた。


 その時だった。


 谷側から、強めの風が吹き上がった。


「きゃっ……」


 カレンの短い声。


 外套の裾が跳ねた。

 続いて、スカートがふわりと持ち上がる。


 見えた。


 良樹は、反射的に空を見上げた。


 高台の空は、眩しいほど青かった。


 その青空に、ひとつだけ控えめに浮かぶ雲の白さが、やけに印象的だった。


 何の意味もない。

 ただの空だ。

 ただの雲だ。


 そういうことにした。


「……良樹さん」


 カレンの声が、風に揺れた。


「見えました、か」


 良樹は空を見たまま答えた。


「空が青いな」


「答えに、なってません……」


「雲が白い」


「答えに、なってます……!」


 カレンの顔が、耳まで赤くなった。


 リシアが額に手を当てる。


「最悪の詩的表現ね」


 クラリスは口元に手を添え、くすりと笑った。


「記録には残しにくいですが、記憶には残りそうですね」


「残すな……」


 良樹は、まだ空を見ていた。


 眩しいほどの青空。

 ひとつだけ控えめに浮かぶ白い雲。


 今見たものについては、絶対に記録しない。


 そう決めた。


 決めた上で、良樹は試験記録へ真面目に書き込んだ。


 高台、吹き上げ風あり。

 受信者の立ち位置に注意。

 符号表保持姿勢で服装が乱れる可能性あり。

 視線低下時、事前声かけ。

 受信位置は風の逃げを確認。


 リシアが横から覗き込む。


「また変な安全項目が増えたわね」


「必要事項だ」


 クラリスがにこりと微笑む。


「尊厳保護インターロック、高台版ですね」


「その名称はやめろ」


 カレンは符号表を胸元に抱えたまま、真っ赤な顔で小さく言った。


「……今日は、仕事の日なので」


 良樹は、もう一度空を見た。


 高台の空は、やはり青かった。


 挿絵(By みてみん)


   ◇


 気を取り直して、一回目の信号試験が始まった。


 高台側には良樹とクラリス。

 少し離れた受信側にカレン。

 リシアは二つの位置の中間寄りで、魔力の流れを見る。


 良樹は魔石信号器を仮置きした。

 杭はまだ浅い。

 角度も仮。

 まずは光が見えるかどうかの確認だ。


「カレン」


「はい」


「見えなければ見えないと言え」

「迷ったら迷ったと言え」

「読めた気がする、は駄目だ」


「はい」


 カレンは符号表を構えた。


 良樹は左上の魔石を光らせる。

 続いて右下。

 少し間を置いて、左下。


 カレンは目を細めた。


「左上、見えます」

「右下も、見えます」

「でも、左下が少し弱いです」


 良樹は魔石の角度を見る。


「木の枝か」


 高台の中腹に伸びた細い枝が、ちょうど左側の魔石の光を少し遮っていた。

 正面からなら見える。

 だが、斜めから見ると弱い。


 リシアが中間位置から声を上げる。


「こっちから見ると、左の流れも少し揺れてる」

「光だけじゃなくて、魔力の通り方も安定してないかも」


「なるほどな」


 良樹は記録する。


 左側魔石、斜め視認弱い。

 枝による遮蔽あり。

 魔力流路、端側で揺れ。


「カレン」


「はい」


「符号表はどうだ」


「昨日より、かなり読みやすいです」

「実物と同じ配置なので、見た場所と読む場所がずれません」


「よし」


 良樹は頷いた。


「でも」


 カレンは少しだけ符号表を握った。


「風で、符号表が揺れます」

「両手で押さえると読めますが、足場が悪いと少し怖いです」


「それも記録だ」


 良樹はすぐに書く。


 符号表、風で揺れる。

 固定紐要。

 受信姿勢、足場条件と連動。


「それから」


 カレンは、少し言いづらそうに続けた。


「読めます」

「でも、少し迷います」

「怖い時なら、迷った分だけ遅れると思います」


 良樹は顔を上げた。


「それが一番大事な報告だ」


「え?」


 カレンは驚いたように見る。


 良樹は真面目な顔だった。


「読めるかどうかじゃねえ」

「怖い時に、迷わず読めるかだ」

「お前が迷うなら、まだ駄目だ」


 カレンは、一瞬言葉を失った。


 怖がることが、また評価になった。

 迷うことを、責められなかった。

 むしろ、必要な報告だと言われた。


「……はい」


 カレンは小さく頷いた。


「ちゃんと、迷ったら言います」


「ああ」

「それでいい」


   ◇


 一回目の結果は、合格ではなかった。


 光は届く。

 読めないわけではない。


 だが、迷う。


 それでは足りない。


 リシアは高台の端側を見ながら言った。


「もう少し端に寄れば、通るわ」

「見通しも良くなるし、魔力の線も一応は繋がる」


「却下」


 良樹は即答した。


 リシアが少し眉を上げる。


「まだ何も言ってないわよ」


「言っただろ」


「提案しかけただけよ」


「端に寄れば見える、は解決じゃねえ」


 良樹は高台の端側を見た。


「端に寄らないと見えない、は不良だ」


 クラリスも頷く。


「ここは危ないです」

「草で隠れていますが、下が少し崩れています」

「慌てて動けば、足を取られます」


「だろうな」


 良樹は杭を持ち直した。


「だから人を立たせる場所じゃない」


 リシアは少し黙った。


 見える場所。

 届く場所。

 でも、人が立つには危ない場所。


 それを使ってしまえば、道具の意味が変わる。


 良樹は、少し内側の足場を選んだ。


「使う場所で試すってのは」


 杭を地面に打ち込む。


「使えない場所を、気合で使うって意味じゃねえ」


 もう一度、足元を確認する。


「人が立っていい場所で、使える形にするって意味だ」


 リシアは、その言葉を聞いて小さく笑った。


「本当に、良樹ね」


「何だそれは」


「褒めてるわよ」


「半分くらいか」


「今日は七割くらい」


「上がったな」


 カレンは、少し離れた場所でそのやり取りを見ていた。


 端に立たなくていい。

 怖い場所の端に、行かなくていい。


 それは、道具の話であり、良樹の考え方でもあった。


   ◇


 設置を修正した。


 杭を少し高くする。

 魔石の角度を、受信側へ向ける。

 背面の反射板を、光が逃げすぎないように調整する。

 左側の魔石が枝に隠れないよう、位置をわずかに上げる。


 符号表には紐をつけた。

 風で飛ばないようにするためだ。


 カレンの立ち位置も少し変えた。

 吹き上げ風の弱い場所。

 足場が平らで、符号表を安定して持てる場所。

 それでいて、端に近づかなくて済む場所。


 リシアは、目を閉じて魔力の流れを見ていた。


「さっきより安定してる」


「端から離れたからか」


「たぶん」


 リシアは目を開けた。


「端の方は魔力が揺れる」

「風が巻く場所みたいに、流れが少し荒い」


「見通しだけじゃねえのか」


「ええ」

「魔力の流れも、端は荒い」

「少し内側の方が安定してる」


 良樹は記録に書き足した。


 端部、魔力流路乱れあり。

 見通し最良点と通信安定点は一致しない。

 設置位置は安全足場、視認性、流路安定の三条件で決定。


「現地で試して正解だったな」


「そうね」


 リシアは頷いた。


「原っぱでは、分からなかったわ」


「だから使う場所で試す」


 良樹は短く言った。


   ◇


 二回目の試験が始まった。


 良樹は魔石信号器の前に立つ。

 クラリスは少し横で、良樹の足元と姿勢を見ている。

 リシアは中間位置。

 カレンは受信側で符号表を持つ。


「送るぞ」


「はい」


 良樹は左上を光らせた。

 続いて右上。

 一拍置いて、左下。

 さらに右下。


 カレンは、符号表を見て、魔石を見て、また符号表を見る。


 昨日より大きく書かれた文字。

 実物と同じ左右配置。

 紐で固定され、風に揺れにくくなった符号表。


 カレンは、少しだけ目を見開いた。


「読めます」


 良樹は黙って続きを待つ。


「さっきより、迷いません」

「危険種別と緊急度が、分けて見えます」


「反応遅れは」


「少しあります」

「でも、分かっていれば待てます」


「光量は」


「この明るさなら大丈夫です」

「でも、夕方や雨だと、確認が必要だと思います」


 良樹は頷いた。


「よし」

「第一中継候補としては、一旦合格」


 カレンの表情が、少し明るくなる。


 だが、良樹はすぐに続けた。


「ただし、夜間、雨天、疲労時、複数信号時は未確認」

「それと、符号表を持てない状況も未確認」

「受信者が怪我している場合も未確認」


 リシアが苦笑した。


「また確認項目が増えたわね」


「増えない試験は信用できねえ」


 良樹は即答した。


 クラリスが柔らかく微笑む。


「良樹くんらしいです」


 カレンは符号表を胸元に抱え直した。


「でも、分かります」


 良樹が見る。


 カレンは、少しだけ高台の端を見た。


「今日、ここで試さなかったら」

「私は、読めると思ったまま、怖い時に迷ったかもしれません」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「それが一番危ねえ」


 カレンは、小さく息を吐いた。


「はい」


 怖い時に迷う。

 それを先に知れた。


 それだけで、今日の試験には意味があった。


   ◇


 試験を終えたあと、四人は高台から町と旧街道を見た。


 町は遠い。

 人の生活は、ここから見ると小さかった。


 旧街道は、その反対側へ伸びている。

 木々の間を抜け、見張り台の方へ向かっている。


 魔石信号器は、杭に固定されていた。

 まだ仮のものだ。

 反射板も、角度も、符号表も、全部が初号機の域を出ていない。


 それでも、昨日の原っぱで届いた道具は、今日初めて、使う場所で使う道具になり始めていた。


 良樹は、それを見ながら言った。


「届く道具じゃ足りねえな」


 カレンが顔を上げる。


「え?」


「使える道具にしないと駄目だ」


 リシアが頷く。


「そのために、使う場所で試す」


「ああ」


 クラリスが続ける。


「そして、端に立たなくて済むように」


 良樹は、短く頷いた。


 端に立てば見える。

 端に立てば届く。

 端に立てば、何とかなる。


 それは設計ではない。


 危ない場所に人を立たせない。

 怖い場所を見る人間を、怖い場所の端に置き続けない。

 そこまで含めて、使える道具にする。


 良樹は、魔石信号器の杭を軽く叩いた。


「まだ改修だらけだな」


「でも」


 カレンが、少しだけ笑った。


「昨日より、使えます」


「ああ」


 良樹も小さく頷いた。


「昨日よりはな」


 その時、クラリスが良樹の横へ来た。


「良樹くん」


「何だ」


「今日は、未命名は使いませんでしたね」


 良樹の動きが止まった。


「使わねえって言っただろ」


「はい」


 クラリスは微笑む。


「でも、使わなくても」

「良樹くんが私を気にしてくださっているのは、分かりました」


 良樹は道具をまとめ始めた。


「仕事は終わった」

「帰るぞ」


 リシアが呆れたように言う。


「逃げたわね」


 カレンも少し赤くなりながら頷く。


「逃げました」


 クラリスは、嬉しそうに微笑んだ。


「はい」

「でも、逃げ切れてはいません」


 三人が笑った。


 良樹は高台の空を見上げた。


 眩しいほどの青空。

 ひとつだけ控えめに浮かぶ白い雲。


 それを、今日の記録には書かないことにした。


 ただし。


 拠点へ戻ってから試験記録を整理した時、記録の端に、なぜかこう追記されていた。


 吹き上げ風注意。

 受信者の尊厳保護。


 良樹は筆を止めた。


「……誰だ、これを書いたのは」


 三人は誰も答えなかった。


 リシアは窓の外を見た。

 カレンは符号表を整理していた。

 クラリスは清楚に微笑んでいた。


 誰も答えなかった。


 ただ、高台から持ち帰った風の匂いだけが、作業場の隅で静かに揺れていた。


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