第38話 届くことと使えること(挿絵有)
翌朝。
クラリスは、いつもの法衣に戻っていた。
白い布。
落ち着いた袖。
昨日の淡い杏色のスカートも、白い肩開きブラウスもない。
けれど、髪には小さな髪飾りがあった。
昨日、良樹が選んだものだ。
「その髪飾り、今日も付けてるんだな」
良樹が言うと、クラリスは柔らかく微笑んだ。
「はい」
「良樹くんが選んでくださいましたから」
「……そうか」
良樹の返事が、少し遅れた。
リシアが向かいで頬杖をつく。
「朝から強いわね」
カレンは、少し眩しそうにクラリスを見た。
「でも、似合っています」
「ありがとうございます」
クラリスは素直に礼を言った。
その穏やかな顔を見た瞬間、良樹の脳裏に昨日の出来事が一瞬よぎる。
市場。
泥棒。
クラリスの制圧。
跳ねたスカート。
ピンク。
良樹は、即座に匙を置いた。
「……異常ログを開くな」
リシアの目が細くなる。
「今、何を思い出したの?」
「仕事の話をするぞ」
「逃げたわね」
「切り替えだ」
クラリスが静かに微笑む。
「良樹くん」
「何だ」
「開いてはいけない記録もあります」
「分かってる」
「ですが、消してはいけない記録もあります」
「……仕事の話をするぞ」
カレンが小さく笑った。
昨日の余韻は、まだ少し残っている。
けれど、それで止まっているわけにはいかない。
良樹は、粗い紙を卓の上に広げた。
旧街道。
見張り台。
町。
途中の高台。
第一中継候補地。
簡単な線と印が並んでいる。
「今日は、これをガレスへ報告する」
空気が、少しだけ変わった。
リシアが身を乗り出す。
「第一中継点の話ね」
「ああ」
良樹は地図の上を指でなぞった。
「見張り台から町へ、直接危険信号を届けるのは難しい」
「途中の高台を第一中継点にすれば、成立する可能性はある」
「ただし、足場が悪い」
良樹は、高台の印を指で叩いた。
「補修なしの運用は危険」
「端に人を立たせる前提も駄目だ」
「単独作業も駄目」
「雨や夜も危ない」
リシアが、少しだけ視線を逸らした。
「……足場の話よね」
「足場の話だ」
「昨日みたいに、とは言わないのね」
「今は言ってない」
「今は、ね」
カレンが真面目な顔で言う。
「高い場所でしたから」
「足を滑らせたら、危ないです」
「危ないじゃ済まねえ」
良樹は短く言った。
「落ちれば死ぬ」
「死ななくても、大怪我になる」
「そして、そういう事故はだいたい、慣れた頃に起きる」
クラリスが静かに頷く。
「だから、人が端へ行かなくても信号を確認できるようにするのですね」
「ああ」
良樹は地図に短い線を引いた。
「人が高台の端に立たないと見えない信号は、仕組みとして弱い」
「晴れた昼ならできる、は運用条件じゃねえ」
「雨でも、夜でも、疲れてても、なるべく同じように分かる形にする」
リシアが腕を組む。
「つまり、魔石信号器ね」
「ああ」
「それを作る」
◇
ギルドは、朝からそれなりに人がいた。
依頼を探す冒険者。
昨日の成果を報告する者。
荷物を背負って町を出ようとする者。
そのざわめきの中を、良樹たち四人は進んだ。
受付に声をかけると、すぐにガレスが奥から出てきた。
「来たか」
「ああ」
「旧街道見張り台と第一中継候補地の報告だ」
ガレスは良樹を見た。
次にリシアを見た。
なぜか少しだけ眉を上げた。
「……何かあったな」
リシアが即座に反応する。
「何もないわ」
「聞く前から否定する奴は、大抵何かある」
「何もありません」
カレンが少しだけ視線を逸らした。
クラリスは静かに微笑んだ。
良樹は咳払いをした。
「足場の危険を確認した」
ガレスが目を細める。
「確認した、ねえ」
「高台は使える」
「だが、そのまま使う場所じゃない」
良樹は、地図を広げた。
「旧街道沿いの見張り台から町へ、直接信号を届けるのは難しい」
「途中の高台を第一中継点にすれば、成立する可能性はある」
「見通しはいい」
「魔力流路も、リシアが確認した」
ガレスの視線がリシアへ向く。
「そこは確かよ」
「流れは見えた」
「町側へ抜ける道もある」
「ただし」
良樹が続ける。
「足場が悪い」
「端に人を立たせる運用は反対だ」
「補修、立入禁止、単独作業禁止」
「その辺りは最低条件になる」
ガレスは黙って聞いていた。
良樹の言葉が終わってから、腕を組む。
「つまり、使えそうだが、そのままは使わせねえと」
「ああ」
「お前、本当に見張り台の話をしてるのか」
「まるで工場でも作るみてえだな」
「人が死ぬ場所を作りたくないだけだ」
良樹は即答した。
ギルドのざわめきが、少し遠くなる。
ガレスは、良樹をしばらく見た。
「……そうか」
「ああ」
「で、どうする」
「まず魔石信号器を試作する」
「見張り台からの信号を、高台の安全な位置で受ける」
「それを町へ送る」
「高台の端まで人が行かなくても、信号が分かる形にする」
「できるのか」
「まだ分からん」
良樹は正直に答えた。
「だから試す」
「いきなり高台ではやらない」
「まず作業場で、仕組みそのものを確認する」
ガレスの口元が、少しだけ上がった。
「段階試験か」
「ああ」
「現場でいきなり本番は事故る」
「お前の口から事故って言葉が出ると、妙に説得力があるな」
「実績があるからな」
リシアが小さく抗議する。
「そこで納得しないで」
ガレスは笑った。
「分かった」
「魔石信号器の試作は認める」
「必要な魔石と素材は、ギルドの倉庫から出せる範囲で出す」
「ただし、成果は報告しろ」
「もちろんだ」
「それと、高台の補修条件も書け」
「俺から町へ話を通す」
良樹は頷いた。
「助かる」
「助かるのはこっちだ」
「見張り台の信号が町へ早く届けば、助かる命が出る」
ガレスは地図を見る。
「だが、良樹」
「何だ」
「光ったからといって、使えると思うなよ」
良樹は、少しだけ目を細めた。
「ああ」
「届いたことと、使えることは別だ」
ガレスは満足そうに頷いた。
「ならいい」
◇
作業場へ戻ると、良樹はすぐに試験台を片付けた。
小さな魔石。
紙。
筆。
端子台。
水桶。
リシアが水桶を見て、呆れたように言う。
「魔石の試験でも水桶は置くのね」
「置く」
「何が起きるか分からないうちは、消火と冷却は用意する」
「本当に抜け目ないわね」
「抜けたところから事故る」
良樹は、試験台に一つの魔石を置いた。
「まず、一つの魔石が光るか光らないか」
「これなら情報は二通りだ」
カレンが頷く。
「危険なし、危険あり、みたいなことですね」
「ああ」
「じゃあ、魔石が二つなら?」
「二つ、ですか」
カレンは指を折った。
「どちらも光らない」
「一つ目だけ光る」
「二つ目だけ光る」
「両方光る」
少し考えてから、顔を上げる。
「……四通り、ですか?」
「そうだ」
良樹は頷いた。
「なら、八個なら?」
カレンは固まった。
「八個……」
リシアも眉を寄せる。
「八通りではないの?」
「違う」
良樹が言うより早く、クラリスが静かに口を開いた。
「……二百五十六通りになります」
リシアとカレンが、同時にクラリスを見た。
「えっ」
「はい?」
クラリスは少しだけ首を傾げる。
「一つ増えるごとに、組み合わせは倍になります」
「一つで二通り」
「二つで四通り」
「三つで八通り」
「四つで十六通り」
「八つなら、二百五十六通りです」
良樹は、少しだけ目を細めた。
「やっぱり早いな、クラリス」
「計算だけです」
「十分だ」
良樹は、紙に八つの丸を描いた。
「そうだ」
「操作するのは八個だけ」
「だが、情報の種類は二百五十六通りになる」
「俺がいた世界では、二進数っていう考え方だ」
「にしんすう……」
三人が揃って妙な顔をした。
良樹は、その横にもう一つ言葉を書く。
「それから」
「どの組み合わせが、どういう意味を持つか」
「それをあらかじめ決めて通信する」
「俺の世界では、これを符号化通信と呼んでる」
「「「ふごーかつーしん」」」
三人の声が、綺麗に重なった。
リシアは眉を寄せ、カレンは口の中で言葉を転がし、クラリスは少しだけ目を細めている。
「別に、そこまで大したことじゃねえ」
「呼び方の話だ」
良樹は、八つの丸を指で示した。
「やってることは、今話した通りだ」
「どの組み合わせが、どういう意味を持つか」
「それを、あらかじめ決めておく」
リシアが、紙に描かれた八つの丸を見た。
「でも、それだと組み合わせの種類が多すぎて覚えられないんじゃない?」
「そのままならそうだ」
良樹は即答した。
「だから最初から八個はやらない」
良樹は、八つの丸のうち半分に線を引いた。
「初号機は四個」
「二個ずつに分けてやるのがいい」
カレンが首を傾げる。
「なんで、二個ずつなんですか?」
「二個なら、組み合わせは四通りだ」
「四通りなら、意味を一枚の紙に書いて、信号器の横に貼っておける」
「見た人間がすぐ分かる」
良樹は、紙に四つの丸を描き直した。
「左二個は、危険の種類」
「右二個は、緊急度」
リシアが覗き込む。
「危険の種類?」
「魔物」
「火事」
「怪我」
「他にも色々あるな」
そこで、良樹は筆を止めた。
「今ここで全部決める必要はない」
「大事なのは、種類と急ぎ具合を分けて送れるってことだ」
カレンが小さく言う。
「怖い時に、細かい表を探すのは難しいと思います」
「そこだ」
良樹はカレンを見る。
「八個全部で二百五十六通りにすると、紙の中から組み合わせを探す時間が増える」
「緊急時に、ええとこの光り方は何番だ、なんてやってたら遅い」
「だから最初は少なくする」
「情報量より、読み間違えないことを優先する」
クラリスが静かに微笑んだ。
「使える情報が多いことと、安全に使えることは別ですね」
「ああ」
「現場で使える最小から始める」
リシアが少し笑う。
「良樹らしいわね」
「作れる最大じゃなくて、使える最小」
「最大機能を最初から使い切ろうとすると、だいたい事故る」
「その言い方、誰かに怒られそうね」
「俺も怒る側だった」
「でしょうね」
良樹は、四つの魔石を試験台に並べた。
「次は操作だ」
リシアが魔石を見る。
「どうやって光らせるの?」
「触れると光る」
「もう一度触れると消える」
「それだけ?」
「それだけだ」
良樹は魔石の一つに指を置いた。
魔石が、ぽうっと光る。
カレンが小さく息を呑んだ。
「光りました……」
良樹は、もう一度同じ魔石に触れた。
光が消えた。
「消えました……」
「ああ」
「触れば入る」
「もう一度触れば切れる」
リシアが眉を上げる。
「ずっと魔力を流し続けなくていいの?」
「ああ」
「触った時だけ切り替える」
「光る状態を保持する」
カレンが小さく首を傾げる。
「保持、ですか?」
「一度入れたら、その状態を残す」
「扉の鍵みたいなもんだ」
「一回かけたら、手を離しても鍵はかかったままだろ」
「もう一回操作したら、外れる」
「あ、分かります」
カレンが頷いた。
「光らせ続けるために、ずっと触っていなくていいんですね」
「そうだ」
「見張り台でずっと魔石に手を置く運用は駄目だ」
「人が縛られる」
「疲れる」
「手が離れたら信号が消える」
「それは危ない」
クラリスが静かに頷いた。
「怪我をして手が離れた時に、信号が消えてしまうのは危険ですね」
「ああ」
「だから状態を保持する」
リシアが腕を組む。
「でも、消し忘れたら?」
「それも危険だ」
良樹は即答した。
「だから、信号を送った後は必ず消す」
「最後に全部消えているか確認する」
「全消灯確認だ」
リシアが呆れたように笑う。
「結局、終わらせ方の話になるのね」
「止められない信号は危ない」
「はいはい」
「良樹らしいわ」
良樹は残り三つの魔石にも順に触れた。
一つ目。
二つ目。
三つ目。
四つ目。
光る。
消える。
光る。
消える。
四つの魔石は、触れるたびに状態を変えた。
良樹は、今度は二つ同時に光らせた。
次に一つを消し、別の一つを光らせる。
さらに、四つすべてを光らせる。
試験台の上に、小さな光の組み合わせが生まれては変わっていく。
カレンが、じっとそれを見ていた。
「これなら、組み合わせを作れますね」
「ああ」
リシアも頷く。
「左二つと右二つに分ければ、確かに読みやすいわ」
クラリスは、魔石の横に置いた紙を見る。
「この横に符号表を貼るのですね」
「そうだ」
「大きく」
「見やすく」
「間違えにくく」
「雨で濡れても読めるようにする」
リシアが少し笑った。
「魔石の話から、紙の貼り方になったわね」
「そこが大事なんだよ」
良樹は真面目に返した。
「どれだけ凄い魔道具でも、横に貼った紙が読みにくかったら現場では使えねえ」
「文字が小さい」
「表が細かい」
「似た組み合わせが並んでる」
「暗いと読めない」
「濡れたら破れる」
「それだけで事故る」
カレンが妙に納得した顔で頷いた。
「分かります」
「怖い時に小さい文字は、たぶん読めません」
「だろうな」
良樹はカレンに頷き返した。
「だから、カレンにはそこを見てほしい」
「怖い時でも分かるか」
「一瞬で読めるか」
「間違えそうな組み合わせがないか」
「はい」
「見ます」
クラリスが続ける。
「私は、信号器を見るための姿勢を見ます」
「身を乗り出さないと読めない位置では意味がありませんから」
「頼む」
リシアが、四つの魔石を見ながら言った。
「私は、魔石が四つになっても安定して光るかを見るのね」
「ああ」
「光る順番じゃなく、状態で読む」
「だから四つ同時に見える必要がある」
「分かったわ」
良樹は、紙の端に書いた。
魔石信号器初号機。
魔石四個。
左右二個ずつ。
触れると点灯。
再度触れると消灯。
状態保持。
符号表を横に貼る。
使用後、全消灯確認。
良樹は四つすべての魔石を消した。
「最後は全消灯確認」
「信号は送って終わりじゃない」
「消したことを確認して終わりだ」
クラリスが静かに微笑んだ。
「やはり、終わらせ方なのですね」
「止められない信号は危ない」
リシアが小さく笑った。
「本当に良樹らしいわ」
カレンは、消えた四つの魔石をじっと見ていた。
「でも」
「これで、言葉になるんですね」
良樹は、少しだけ考えてから頷いた。
「短い言葉だ」
「魔物か、火事か、怪我か」
「急ぐのか、待てるのか」
「そういう短い言葉を、光で送る」
作業場の試験台に、四つの魔石が並んでいる。
まだ、遠くへは届いていない。
まだ、雨の中でも使えるか分からない。
まだ、見張り台と町を繋ぐ仕組みにはなっていない。
けれど。
触れれば入り。
もう一度触れれば切れる。
信号を作るための、最初の形はできた。
良樹は、紙に短く書いた。
四点トグル確認。
次回、距離試験。
「次は、離して試す」
リシアが頷く。
「届くか、ね」
「違う」
良樹は、消えた魔石を見た。
「届いて」
「読めて」
「消せるかだ」
信号は、光ればいいわけではない。
入れて。
伝えて。
読んで。
消す。
そこまでできて、初めて使える。
魔石信号器の最初の試験は、ようやくそこまで進んだ。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
届くことと、使えること。良樹たちの実験は、少しずつ「作れた」から「現場で使えるか」へ進んでいます。
この先も、魔導盤と安全確認と三人ヒロインとの距離感事故を積み上げていきます。少しでも楽しんでいただけましたら、ブックマークや評価で応援していただけると嬉しいです。




