第37話 クラリスの番(挿絵有)
翌朝。
作業場付きの貸家には、いつもより妙な緊張感があった。
朝食を終えたあと、良樹は試験台の前に立っていた。
昨日の高台調査で得た情報を、地図へ書き写している。
見張り台。
旧街道。
第一中継候補地。
高台。
見通し。
魔力流路。
足場危険。
補修必須。
端部立入禁止。
単独作業禁止。
それから、少しだけ筆が止まる。
転落時、重大接触事故の可能性あり。
良樹は、その一文を見て眉間を押さえた。
「……これは必要な記録だ」
誰に言うでもなく、そう呟く。
昨日、リシアは怒った。
当然だ。
良樹も、あの体勢を正確に思い出すと、処理系が一瞬止まる。
だが、事故は事故だ。
再発防止には記録が要る。
目の前いっぱいに青。
頬に柔らかい白。
良樹は、静かに地図を閉じた。
「ログを開くな」
自分に言い聞かせる。
階段の上から声が聞こえたのは、その少し後だった。
◇
前日の夜。
二階の部屋では、当然のように妻会議が開かれていた。
議題は、下着選びに気が抜けないことについて。
発端は、もちろん昼間の高台事故である。
リシアが足場を崩し、良樹が助けようとし、結果として二人で崩れた。
良樹が下敷きになり、リシアが上に乗った。
目の前いっぱいに青。
頬に柔らかい白。
そして良樹は、それを冷静に事故記録へ書いた。
リシアとしては、許しがたい。
いや、記録としては必要かもしれない。
必要かもしれないが、書き方というものがある。
「転落時、重大接触事故の可能性あり、って何よ」
リシアが膝を抱えて唸る。
「現場記録としては、間違っていません」
クラリスが穏やかに言った。
「間違ってないから腹が立つのよ」
「良樹さんらしいです……」
カレンは困ったように笑った。
だが、笑ってばかりもいられない。
事故は起こる。
戦闘中も、調査中も、訓練中も。
そしてその時、見える可能性がある。
リシアは見られた。
カレンも見られた。
クラリスも、事故で見られたことがある。
ならば、気が抜けない。
「普段から、もう少し考えた方がいいのよ」
リシアが真面目な顔で言う。
「下着を?」
カレンが小さく聞く。
「そうよ」
リシアは頷いた。
「事故は防ぐ。これは当然」
「でも、完全にゼロにはできない」
「なら、万が一見られた時にどうするかも考えるべきよ」
「リシア、だいぶ良樹くんに染まっていますね」
クラリスが微笑む。
「染まってないわよ」
「リスクアセスメントです」
「言わないで」
リシアは額に手を当てた。
カレンは、自分の膝の上で両手を重ねていた。
「でも……その、分かります」
小さな声だった。
「良樹さんに見られたいわけではないんです」
「でも、もし見えてしまうなら」
「変ではないものがいいというか……」
「カレン」
リシアが半眼になる。
「はい」
「それ、もうだいぶ強いわよ」
「えっ」
カレンは真っ赤になった。
「ち、違います」
「剣士として、装備の確認を」
「はいはい」
リシアは軽く流した。
クラリスは、二人のやり取りを微笑んで見ていた。
いつものように穏やかに。
けれど、どこか少しだけ寂しそうに。
カレンは、それに気づいた。
クラリスは、自分の服の袖をそっと撫でている。
白い法衣。
清楚で、落ち着いていて、僧侶として人を安心させる服。
クラリスに、よく似合っている。
けれど。
「……私の服では」
クラリスが、小さく言った。
「良樹くんには、見てもらいづらいですから」
部屋の空気が、少しだけ止まった。
リシアは、すぐには何も言わなかった。
クラリスの法衣は、清楚だ。
肌を見せすぎない。
身体の線を出しすぎない。
人を安心させる。
クラリス自身も、それを嫌っているわけではない。
けれど、良樹に女の子として見てもらいたいと思う時。
その服は、少しだけ困る。
クラリスは、ただ露出で負けたと思っているわけではない。
そんな浅い話ではない。
私も、良樹くんに女の子として見てもらいたい。
けれど、私の服も、立場も、それを隠す形をしている。
そういう顔だった。
リシアは、その顔を見て、静かに息を吐いた。
少し前までのクラリスだったら、こんなことをしようとは思わなかった。
クラリスは、いつも清楚で、穏やかで、余裕があった。
良樹をからかう時も、リシアやカレンを揺さぶる時も、どこか一枚上手だった。
恋敵として見れば、厄介な相手だった。
油断できない相手だった。
強敵だった。
けれど、今のクラリスは違う。
良樹に勝ちたいのではなく、良樹に見てほしい顔をしている。
リシアは、クラリスの過去を全部知っているわけではない。
けれど、少しは聞いている。
清楚な僧侶として見られたこと。
外見だけを見て近づかれたこと。
本当の強さや怖さを見られて、離れられたこと。
きっとクラリスは、普通の女の子として生きた時間が少なかったのだと思う。
誰かに可愛い服を選んでもらって。
好きな人に見てほしくて。
似合うかどうかを気にして。
目を逸らされたら、それを嬉しいと思ってしまう。
そんな普通の女の子みたいな時間を。
今だけは、クラリスはそれを欲しがっている。
なら。
今回だけは、自分が背中を押してやる。
恋敵ではある。
負ける気もない。
良樹を簡単に譲る気もない。
でも、それとこれとは別だ。
今、クラリスが一人で俯くなら。
今、クラリスが普通の女の子になりたいなら。
その背中くらい、押してやる。
一方、カレンもクラリスを見ていた。
クラリスは、いつも綺麗で、お淑やかで、強くて。
カレンにとっては、憧れのお姉さんのような人だった。
自分が怖がってしまう場面でも、クラリスは前へ出る。
人を治す手を持っていて、同時に人を止める強さも持っている。
けれど、そのクラリスが今、ほんの少しだけ俯いていた。
私の服では、良樹くんには見てもらいづらいですから。
その言葉を聞いた時、カレンは見てしまった。
いつもの余裕のあるクラリスではない。
好きな人に見てもらいたい。
でも、どうしたらいいか分からない。
自分の服では、自分の立場では、女の子として見てもらえないかもしれない。
そう不安になっている顔。
カレンは、その顔を知っている。
あの時の自分と同じだった。
良樹に見てもらいたくて。
でも恥ずかしくて。
訓練服の丈を少し直して。
下着の色を選んで。
気づいてくれるでしょうか、と小さく呟いた自分。
あの時、リシアとクラリスは止めなかった。
笑わなかった。
馬鹿にしなかった。
背中を押してくれた。
今日は、カレンの番でしょ。
そう言ってくれた。
だから今度は、自分の番だ。
憧れのお姉さんみたいなクラリスが、今だけは普通の女の子みたいな顔をしている。
なら、今度は自分が言う。
「あ、あの……クラリス」
カレンは、少し震える声で言った。
「明日の午前中、三人で服を見に行きませんか」
クラリスが目を瞬かせる。
「服、ですか」
「はい」
カレンは、小さく頷いた。
「クラリスの服を、三人で選びます」
「それで、午後に」
一度、言葉を切る。
「良樹さんと、出かけてください」
クラリスの目が、揺れた。
「私が、良樹くんと」
「そうよ」
リシアが続いた。
「借り物じゃ駄目」
「カレンの服はカレンの服」
「私の服は私の服」
リシアは、少しだけ柔らかく笑った。
「クラリスが良樹に見てもらうなら、クラリスの服じゃないと」
クラリスは、胸の前で両手を重ねた。
「よろしいのですか」
「今回だけはね」
リシアは、少し照れくさそうに視線を逸らした。
「背中を押してあげる」
カレンも、まっすぐクラリスを見た。
「クラリスの番です」
クラリスは、その言葉を小さく繰り返した。
「私の、番……」
◇
翌朝。
三人は午前中から町へ出た。
良樹には、詳しいことを言わなかった。
良樹は何をしに行くのかと聞いたが、リシアは聞かない方が身のためだと答えた。
カレンも顔を赤くして頷いた。
クラリスは、良樹へ午後の時間をもらえるかとだけ言った。
良樹は、服の機能確認かと聞いた。
クラリスは微笑んで、私を良樹くんに見てもらうための機能確認です、と返した。
良樹は処理落ちした。
リシアとカレンは、揃って「強い」と呟いた。
◇
服屋での買い物は、長くはかからなかった。
少なくとも、三人の気持ちの中では長かったが、話としては早かった。
店員に、どなたに見せる服ですか、と聞かれた。
クラリスは、少し照れながら答えた。
「大切な方に、見ていただく服です」
リシアとカレンは撃沈した。
それでも、方針は決まっていた。
法衣ではない。
けれど、清楚さは残す。
動きやすい。
露骨すぎない。
クラリスが、クラリスとして着られる服。
何着か合わせ、店員の意見も聞き、三人で悩んだ。
最終的に選んだのは、淡い杏色のスカートだった。
膝がはっきり見える程度。
ミニスカではない。
けれど、いつもの法衣から考えれば、かなり軽やかだった。
上は白の肩開きブラウス。
完全に肩を出す服ではない。
肩口が少しだけ開き、細い肩の線と、首元の白さがほんの少し見える。
袖は短めで、腕が動かしやすい。
腰には細い白のリボンを結ぶ。
髪はアップにまとめることになった。
小さな白い髪飾りを一つ。
後れ毛を少しだけ残す。
鏡の前に立ったクラリスは、しばらく黙っていた。
法衣ではない。
借り物でもない。
鏡の中にいるのは、知らない女ではなかった。
ちゃんと、自分だった。
「……変では、ありませんか」
クラリスが小さく聞く。
カレンは即座に首を振った。
「変じゃありません」
「すごく、綺麗です」
リシアも腕を組んで頷いた。
「悔しいけど、似合ってるわ」
「良樹は見るわね」
「それで、たぶん目を逸らすわ」
クラリスは、少しだけ頬を染めた。
「目を逸らすのは、見てくださったということでしょうか」
「はい」
カレンは真面目に頷いた。
「良樹さんは、見た時ほど目を逸らします」
「妙な信頼だけど、否定できないのよね」
リシアは苦笑した。
そして買い物を終えた三人は、拠点へ戻った。
◇
帰ってくると、三人はそのままドレッサー室へ入った。
良樹は作業場にいた。
一応、第一中継点のメモをまとめようとしている。
一応。
午前中の間、良樹の集中力は明らかに落ちていた。
危険項目が頭の中に並んでいる。
クラリス服選び。
午後同行。
見てもらうための機能確認。
対策未定。
「……現場の危険より、対人事故の方が予測しにくい」
良樹はそう呟いて、紙の上で筆を止めた。
◇
ドレッサー室では、最後の確認が行われていた。
リシアが髪飾りの位置を整える。
カレンがスカートの裾を直す。
クラリスは鏡の前で、何度も息を吸っていた。
「大丈夫」
リシアが言う。
「クラリスは、ちゃんと綺麗よ」
「良樹さんは、ちゃんと見てくれます」
カレンも言った。
クラリスは頷く。
頷くのだが、足が動かない。
ドアの前まで行く。
けれど、止まる。
いつものクラリスなら行ける。
戦闘なら行ける。
怪我人の前なら迷わない。
良樹が危ないなら、躊躇なく前に出る。
でも今日は違う。
好きな人に、自分を見てもらうために出る。
それが怖い。
「……少しだけ」
クラリスは、ドアの前で小さく言った。
「少しだけ、待ってください」
リシアとカレンは顔を見合わせた。
「私、良樹さんを呼んできます」
カレンが言った。
「カレン」
「大丈夫です」
カレンは、少しだけ笑った。
「クラリスの番ですから」
カレンは部屋を出た。
◇
「良樹さん」
作業場に顔を出したカレンの声は、いつもより少し緊張していた。
「準備が、できました」
良樹は、ゆっくり顔を上げた。
「……何の準備だ」
「クラリスです」
「クラリスが準備されたのか」
「はい」
カレンは真剣に頷いた。
「見てあげてください」
良樹は、立ち上がった。
「分かった」
そして、カレンに案内されて二階へ上がる。
ドレッサー室の前まで来ると、カレンは一度中へ戻った。
クラリスは、まだドアの前で固まっていた。
「……すみません」
クラリスは、真っ赤な顔で俯いた。
「少し、勇気が」
「分かってるわ」
リシアが言った。
「分かります」
カレンも言った。
クラリスは、二人を見る。
「私も、そうでした」
カレンは言った。
「見てもらいたいのに、怖かったです」
「でも、二人が背中を押してくれました」
「だから今度は、私たちが押す番」
リシアが続ける。
クラリスの肩が震えた。
「リシア……カレン……」
「大丈夫」
リシアが、クラリスの背中に手を添えた。
「クラリスは、ちゃんと綺麗よ」
カレンも、反対側からそっと手を添える。
「良樹さんは、ちゃんと見てくれます」
強く押すのではない。
突き飛ばすのでもない。
ただ、ほんの少し。
祈るように。
「……がんばれ」
リシアが小さく言った。
「がんばってください」
カレンも言った。
クラリスは息を吸った。
そして、二人はそっと背中を押した。
クラリスは廊下へ出た。
直後、リシアとカレンはドアを閉めた。
扉が閉まる。
クラリスは廊下に一人。
向こうには良樹。
リシアとカレンは、ドレッサー室の中。
もう、助けには出ない。
横に立たない。
言葉も足さない。
だって今日は、クラリスの番だから。
◇
クラリスは、廊下に立っていた。
淡い杏色のスカートは、膝が見えるくらいの丈だった。
短すぎるわけではない。
けれど、いつもの白い法衣を見慣れている良樹からすれば、それだけで十分に違った。
白いブラウスは、肩口だけが少し開いている。
露骨ではない。
だが、細い肩の線と、首元の白さが見える。
髪は、いつものように下ろしていなかった。
後ろで柔らかくまとめられ、白い小さな髪飾りで留められている。
少しだけ残った後れ毛が、耳の横で揺れていた。
清楚だった。
けれど、僧侶の清楚さではない。
良樹に見てもらうために、リシアとカレンに背中を押されて、ようやくここまで来た女の子の格好だった。
良樹は、完全に固まっていた。
カレンの時以上に、ぽかんとしていた。
クラリスは、それを見て少しだけ息を呑む。
良樹の視線が、自分へ向いている。
法衣ではない自分。
借り物でもない自分。
リシアとカレンに選んでもらった、自分のための服を着た自分。
見てくれている。
それは分かる。
分かるのに、言葉が出なかった。
良樹くん。
そこまでは言える。
けれど、その先が出てこない。
これから、私と出かけませんか。
何度も心の中で練習した。
鏡の前でも、小さく口にした。
リシアとカレンにも、頷いてもらった。
言えるはずだった。
魔物の前に出ることは怖くない。
誰かが傷つくなら、自分の身体を前に出せる。
相手の関節も、重心も、壊してはいけない場所も見える。
そこに迷いはない。
なのに。
今は、ただ怖かった。
良樹に見てもらうことが。
良樹に断られるかもしれないことが。
良樹に困った顔をされるかもしれないことが。
怖い。
あれだけ二人に背中を押してもらったのに。
カレンは、ちゃんと言えたのに。
自分は、言えない。
クラリスは、真っ赤になって俯いた。
情けない。
そう思った瞬間、視界が少し滲みそうになった。
「クラリス」
良樹の声がした。
クラリスは顔を上げられなかった。
良樹は、目の前のクラリスを見ていた。
さっきまで、完全に処理落ちしていた。
何を言えばいいのか分からなかった。
似合ってる、でいいのか。
綺麗だ、でいいのか。
機能確認などと言えば死ぬのか。
何も分からなかった。
だが、クラリスが俯いた瞬間。
良樹の頭の中に、父の声が落ちた。
女に恥をかかせるな。
もう一つ。
女を泣かせるな。
十鉄の声だった。
良樹は、息を吸った。
ここでクラリスに言わせるな。
この服を着て、廊下へ出てきて、真っ赤になって俯いている女に。
ここまで頑張って出てきた女に。
さらに全部を言わせるな。
良樹は、拳を握った。
「ク、クラリス」
声が少し裏返った。
クラリスの肩が、小さく揺れる。
良樹は、視線を逸らしかけて、踏みとどまった。
「その、よ」
言葉が下手だ。
分かっている。
気の利いた台詞など出てこない。
だが、出すしかない。
「よ、良かったら」
一拍。
「これから、俺と少し出かけねえか」
クラリスの息が止まった。
良樹は、慌てて続けた。
「いや、その」
「嫌だったら断ってくれていいんだけどよ」
余計だった。
自分でも分かった。
だが、言ってしまった。
それでも、言えた。
クラリスは、俯いたまま動かなかった。
そして、小さく首を横に振った。
良樹の胸が、一瞬だけ冷える。
断られた。
そう思った。
だが、違った。
クラリスは、すぐに首を振り直した。
今度は、縦に。
一度。
もう一度。
小さく、けれど確かに。
良樹は、息を吐いた。
「……行くか」
クラリスは、まだ顔を上げられないまま、小さく頷いた。
「……はい」
声は震えていた。
けれど、嬉しそうだった。
「良樹くんと」
「出かけたいです」
良樹は、何も言えなかった。
ただ、少しだけ手を差し出した。
クラリスは、その手を見た。
そして、そっと取った。
◇
良樹とクラリスの足音が、階段を下りていく。
やがて玄関の扉が開き、閉まった。
家の中が、少し静かになる。
ドレッサー室の中で、リシアは扉にもたれたまま息を吐いた。
「……損な役回りよね、私たち」
そう言ってから、自分で少し笑う。
カレンは、まだ胸の前で両手を握っていた。
クラリスが廊下へ出た瞬間の顔を、思い出している。
真っ赤で。
俯いて。
今にも泣き出しそうで。
それでも、良樹の前に立っていた。
いつもの清楚で強いクラリスではなかった。
普通の女の子みたいだった。
「いえ」
カレンは、小さく首を振った。
「でも、思ったより悪くなかったです」
「そう?」
「はい」
カレンは、少しだけ笑った。
「あんなに可愛らしいクラリスなんて、滅多に見られません」
リシアは、一瞬黙った。
それから、ふっと肩の力を抜く。
「……それは、そうね」
悔しい。
悔しいけれど、可愛かった。
いつも一枚上手で。
清楚に微笑みながら爆弾を置いてくるクラリスが。
今日は、ただの女の子みたいに震えていた。
そして、良樹がそれを見て、ちゃんと動いた。
損な役回り。
けれど、悪くない。
リシアは腕を組み、カレンを見る。
「これで私は、二人の背中を押したんだから」
「はい」
「私の時は、頼むわよ?」
カレンは、目を丸くした。
それから、すぐに柔らかく笑う。
「ええ」
そして、少しだけ背筋を伸ばして言った。
「約束ですね」
リシアは、ほんの少し照れたように視線を逸らした。
「……そう」
「約束」
二人は、閉じた扉を見る。
その向こうに、もうクラリスはいない。
良樹と一緒に、町へ出ていった。
今日はクラリスの番。
だから、二人はここで見送った。
恋敵ではある。
譲る気はない。
負ける気もない。
けれど。
背中を押す時は、押す。
泣きそうな時は、支える。
そして、自分の番が来た時は、支えてもらう。
三人で良樹の隣に立つと決めたのなら、きっとそういうことなのだ。
◇
宿の扉を出る。
いつもの町だった。
市場へ続く道。
石畳。
行き交う人。
遠くの店先から聞こえる声。
荷車の車輪の音。
焼き菓子の匂い。
布屋の軒先に揺れる色布。
何度も歩いた道だ。
クラリスは、その道を知っている。
怪我人を診るために歩いた。
薬草を買うために歩いた。
良樹たちと一緒に、依頼帰りに歩いた。
なのに。
今日の道は、まるで知らない森のように見えた。
未踏のジャングル。
どこに足を置けばいいのか分からない。
誰の視線がどこから来るのか分からない。
自分の服がどう見えているのか分からない。
隣にいる良樹が、何を思っているのか分からない。
魔物の気配なら読める。
人の重心なら見える。
怪我の痛みなら、手を添えれば分かる。
けれど、今のこれは分からない。
良樹くんと二人で歩く。
ただ、それだけのことが。
怖い。
クラリスの足が、動かなかった。
新しい服の裾が、風に少しだけ揺れる。
指先が震える。
喉が乾く。
情けない。
そう思った。
さっきも、言えなかった。
これから私と出かけませんか、と。
良樹が言ってくれたから、ここまで来られた。
なのに、また止まっている。
「クラリス」
良樹の声がした。
顔を上げると、良樹がこちらを見ていた。
少し困ったような顔だった。
けれど、呆れてはいない。
笑ってはいるが、馬鹿にしている笑いではない。
苦笑。
困った相手を置いていかない時の顔だった。
良樹は、右手を差し出した。
「行くぞ」
それだけだった。
気の利いた台詞ではない。
甘い言葉でもない。
けれど、差し出された手は、そこにあった。
クラリスは、その手を見た。
良樹くんの手。
工具を扱う手。
魔導盤を組む手。
自分の壊れた手を怒った手。
昨日、自分を支えた手。
クラリスは、恐る恐る手を伸ばした。
指先が近づく。
けれど、掴めなかった。
触れる直前で止まってしまう。
怖い。
握ってしまったら、もう本当に始まってしまう気がした。
良樹くんと二人で歩く時間が。
自分が僧侶ではなく、ただの女の子として隣に立つ時間が。
怖い。
クラリスの指が、空中で震えた。
次の瞬間。
ぱしっ。
良樹の手が、クラリスの手を掴んだ。
「っ」
クラリスの肩が跳ねる。
良樹の手は、強すぎなかった。
逃げられないほどではない。
けれど、迷って止まっている手を、ちゃんと取る強さだった。
「掴めねえなら、こっちで掴む」
良樹は、少しだけ視線を逸らして言った。
「嫌なら離せ」
クラリスは、自分の手を見た。
良樹の手に包まれている。
温かい。
大きい。
そして、離していいと言われているのに、離したくなかった。
クラリスは、ゆっくりと指を動かした。
最初はぎこちなく。
それから、少しだけ力を込めて。
良樹の手を握り返す。
「……嫌では、ありません」
声は小さかった。
「むしろ」
クラリスは、顔を赤くしたまま、目を伏せる。
「離したく、ありません」
良樹の喉が止まった。
「……そうか」
「はい」
クラリスは、もう一度小さく頷いた。
「お願いします」
「このまま、連れていってください」
良樹は、息を吐いた。
「分かった」
そして、手を繋いだまま歩き出す。
クラリスの足が、ようやく一歩動いた。
一歩。
もう一歩。
町は、まだ少し怖い。
でも、良樹の手がある。
それだけで、未踏のジャングルに、一本の道ができた気がした。
◇
町を歩く。
ただ、それだけだった。
けれど、クラリスにとっては大事だった。
いつもなら、怪我人の気配を見る。
薬草の在庫を見る。
人の歩き方を見て、足や腰の具合を考える。
危ない人間がいないか、重心と目線を見る。
今日は、違った。
良樹の手の温度が気になる。
自分の服の裾が気になる。
肩口に風が触れることが気になる。
髪をまとめた首筋を、良樹が見ていないかが気になる。
それだけで、頭がいっぱいになる。
良樹は、何度かクラリスを見た。
そして、そのたびに少し視線を逸らした。
クラリスは、それを見て、胸の奥が小さく跳ねるのを感じた。
見てくれている。
目を逸らすのは、見てくれたということ。
カレンの言葉を思い出す。
良樹さんは、見た時ほど目を逸らします。
本当でした。
クラリスは、そう思って、ほんの少しだけ笑った。
「何だ」
良樹が聞く。
「いえ」
クラリスは首を振る。
「嬉しい確認をしていただいています」
「確認?」
「はい」
クラリスは、良樹の手を少しだけ握った。
「良樹くんが、ちゃんと見てくださっている確認です」
良樹は、何も言えなかった。
◇
小物屋の前で、良樹はふと足を止めた。
軒先には、髪留めや小さな飾り紐が並んでいた。
高価な宝石ではない。
町娘が少し背伸びして買うような、小さな飾りだった。
クラリスは、良樹の視線を追う。
「どうしましたか」
「その髪」
良樹は、少し言いづらそうに言った。
「今日、まとめてるだろ」
「はい」
「なら、これくらいなら邪魔にならねえんじゃないか」
良樹が手に取ったのは、小さな白い花を模した髪留めだった。
中央に、淡い杏色の小石が入っている。
今日のスカートと、よく似た色だった。
クラリスは、それを見て固まった。
「良樹くんが、選んでくださるのですか」
「……嫌なら別のにする」
「嫌ではありません」
即答だった。
良樹が少し目を瞬かせる。
クラリスは、慌てて言い直す。
「絶対に、嫌ではありません」
「そうか」
良樹は、店主に代金を払った。
「服に合ってるし、動いても邪魔にならなそうだったからな」
良樹としては、機能面を見たつもりだった。
軽い。
動いても落ちにくい。
派手すぎない。
今日の服に合う。
だが、クラリスにとっては違った。
良樹くんが、私を見て、私に似合うものを選んでくれた。
それだけで十分だった。
「つけるか」
良樹が聞く。
クラリスは、小さく頷いた。
「お願いします」
良樹の手が、クラリスの髪に近づく。
壊さないように。
引っかけないように。
慣れない手つきで、白い髪飾りを留める。
クラリスは、動けなかった。
良樹の指が髪に触れる。
ほんの少し。
それだけで、胸の奥が大きく跳ねた。
「……これでいいか」
良樹が言う。
「はい」
クラリスは、髪飾りへそっと触れた。
「大切にします」
良樹は、視線を逸らした。
「そんな大げさなもんじゃねえだろ」
「大げさです」
クラリスは、柔らかく微笑んだ。
「私には、とても」
◇
甘味屋で休む頃には、クラリスの呼吸も少し落ち着いていた。
木陰の卓。
甘い焼き菓子。
薄い茶。
クラリスは、椅子に座ってから、そっとスカートの裾を整えた。
それも、最初より自然だった。
「本当は」
クラリスが、小さく口を開いた。
「私から言うつもりだったのです」
「何を」
「これから私と出かけませんか、と」
良樹は、黙って聞いた。
「何度も練習しました」
「鏡の前でも」
「リシアとカレンにも、背中を押してもらいました」
クラリスは、少しだけ目を伏せる。
「でも、言えませんでした」
「……そうか」
「魔物の前には立てます」
「怪我人の前でも、迷いません」
「良樹くんが危ない時なら、きっと躊躇なく動けます」
クラリスは、自分の手を見る。
「でも、好きな方と普通に歩く方法を、私はあまり知りません」
良樹は、しばらく考えた。
そして、不器用に言った。
「俺も知らねえ」
クラリスが顔を上げる。
「だから、確認しながらでいいだろ」
「確認、ですか」
「ああ」
良樹は頷いた。
「ただし、危険作業じゃない」
クラリスは、少しだけ笑った。
「はい」
そして、髪飾りに触れる。
「嬉しい確認です」
良樹は、茶を飲んだ。
顔が少し赤かった。
◇
甘味屋を出る頃には、クラリスの足取りは少しだけ軽くなっていた。
行きは、良樹の手を掴むことすらできなかった。
町の道が、未踏の森のように見えた。
けれど今は違う。
まだ緊張はしている。
良樹の手の温度を意識しすぎて、時々歩幅が分からなくなる。
それでも、歩けていた。
良樹くんと歩いている。
ただそれだけのことが、胸の奥で何度も小さく跳ねる。
クラリスは、髪に触れた。
良樹が選んでくれた髪飾り。
小さな白い花を模した髪留め。
中央に、淡い杏色の小石が入っている。
今日のスカートに合うから。
動いても邪魔にならなそうだから。
良樹はそう言った。
けれどクラリスには、それだけで十分だった。
良樹くんが、私を見て選んでくださった。
その事実だけで、何度でも胸が熱くなる。
「クラリス」
「はい」
「帰るか」
良樹が少しだけ言いにくそうに言った。
クラリスは、その顔を見て、小さく笑った。
「はい」
「帰りましょう」
帰る。
その言葉が、少し惜しい。
けれど、嫌ではない。
今日は、たくさん歩いた。
たくさん見てもらった。
たくさん、良樹くんと一緒にいた。
だから、帰ってリシアとカレンに話したい。
そう思った、その時だった。
「泥棒!」
通りの向こうから、女の声が上がった。
クラリスの身体が、反射で動きかける。
だが、一瞬だけ止まった。
今日は。
今日は、デートだ。
普通の女の子として、良樹くんと歩く日だ。
そう思った瞬間、視界の端で小柄な男が人の間を抜けてきた。
手には、小さな革袋。
逃げる先には、子どもがいた。
クラリスの迷いは、そこで消えた。
良樹が動くより早く、クラリスは一歩前へ出た。
「クラリス――」
良樹の声が聞こえた。
けれど、身体はもう止まらない。
男の進路に半歩入る。
正面から受けない。
肩を外し、手首を取る。
肘を殺す。
足を払う。
相手の勢いを地面へ逃がす。
男の身体が、くるりと崩れた。
地面に叩きつけるのではなく、逃げ場を奪って伏せさせる。
腕を背に回し、関節を極めすぎない位置で止める。
必要最小限。
痛みはある。
怪我はない。
クラリスの動きは、いつも通り正確だった。
問題は。
いつも通りではなかった服だった。
踏み込み。
回転。
足払い。
淡い杏色のスカートが、遅れてふわりと跳ねた。
クラリスは、男を押さえたまま固まった。
気づいた。
今の動きで、見えた。
見えた先にいたのは、良樹だった。
良樹は、視線を逸らしていた。
逸らしていた。
つまり。
見た。
「……あ」
クラリスの声が、小さく漏れた。
財布を取られた女性が駆け寄ってくる。
周囲の人が集まる。
男は呻いている。
けれど、クラリスの耳にはあまり入らなかった。
最後の最後で。
失敗した。
今日は、普通の女の子でいたかった。
良樹くんに、法衣ではない私を見てもらいたかった。
リシアとカレンが背中を押してくれた。
服を選んでくれた。
良樹くんは、手を取ってくれた。
髪飾りも選んでくれた。
なのに。
最後の最後で、いつもの私が出てしまった。
人を制圧する私。
壊す場所を知っている私。
そして。
また、見られてしまった私。
クラリスは、財布を女性に返し、男を近くの大人たちへ引き渡した。
礼の言葉も、周囲の感心する声も、ほとんど頭に入らなかった。
良樹の隣に戻る。
けれど、顔を上げられない。
「……すみません」
クラリスは、小さく言った。
「最後の最後で、失敗しました」
良樹は、しばらく何も言わなかった。
クラリスは、さらに俯く。
「今日は」
「普通の女の子で、いたかったのです」
声が震えた。
「でも、私は」
「やはり、こういう動きをしてしまいます」
「良樹くんに見ていただきたかった私ではなく」
「いつもの、私が……」
「クラリス」
良樹の声は、思ったより柔らかかった。
クラリスは顔を上げられない。
良樹は、少しだけ息を吐いた。
それは呆れではなかった。
むしろ、安心したような息だった。
「良かった」
クラリスの肩が揺れる。
「……良かった、ですか?」
「ああ」
良樹は言った。
「俺が知ってる、いつものクラリスも居た」
クラリスは、ゆっくり顔を上げた。
良樹は、照れくさそうに視線を少し外していた。
だが、逃げてはいなかった。
「今日のクラリスも、見た」
「その服で、髪をまとめて」
「手も掴めなくて」
「真っ赤になって」
「町に出るだけで震えてたクラリスも見た」
クラリスの目が揺れる。
「でも、今のもクラリスだろ」
良樹は続ける。
「誰かが困ってたら動く」
「怪我をさせないように止める」
「危ないところを、危ないまま放っておかない」
一拍。
「俺が知ってる、いつものクラリスだ」
クラリスは、息を止めた。
「俺は」
良樹は、そこで言葉に詰まった。
言っていいのか。
重すぎないか。
また余計なことにならないか。
そんな顔をしていた。
それでも、言った。
「いつものクラリスも」
「今日のクラリスも」
「俺は両方とも良……」
止まった。
クラリスは、瞬きもできなかった。
良樹は、耳を赤くしながら、言い直した。
「……好きだからよ」
クラリスの思考が止まった。
「だから」
良樹は、困ったように笑う。
「そんな顔すんな」
その瞬間。
クラリスの乙女心は、容赦なく撃ち抜かれた。
何度も。
何度も。
逃げ場がないほど正確に。
さっきまで落ち込んでいた胸の奥が、一気に熱くなる。
今日の私。
いつもの私。
どちらかではない。
どちらも。
良樹くんは、どちらも好きだと言った。
クラリスは、口元を押さえた。
「……良樹くん」
「何だ」
「今のは」
「言うな」
「いえ」
クラリスは、真っ赤になったまま首を振る。
「言わせてください」
「何を」
「今のは」
クラリスは、震える声で言った。
「とても、ずるいです」
良樹は、視線を逸らした。
「……悪い」
「謝らないでください」
クラリスは、そっと良樹の手を取った。
今度は、自分から。
行きとは違う。
震えてはいる。
けれど、掴めない手ではなかった。
「嬉しいので」
良樹は、何も言えなかった。
ただ、その手を握り返した。
クラリスは、頬を真っ赤にしたまま、俯いた。
今日の私も。
いつもの私も。
良樹くんは、どちらも好きだと言ってくれた。
それだけで、胸の奥がいっぱいになる。
失敗したと思った。
最後の最後で、普通の女の子ではいられなかったと思った。
けれど、良樹はそれを失敗だと言わなかった。
いつものクラリスも居た。
そう言ってくれた。
なら。
今日の私は、失敗ではなかったのかもしれない。
クラリスが、そう思いかけた時だった。
「……それと」
良樹が、ぼそりと言った。
クラリスは顔を上げる。
「はい?」
良樹は、少しだけ視線を逸らした。
耳が赤い。
そこで止めればよかった。
止めればよかったのに。
「ピンク、似合うな」
時間が止まった。
クラリスの表情が、完全に固まる。
良樹は、言ってから気づいた。
今のは、言わなくてよかった。
いや、違う。
言ってはいけなかった。
見えた。
見えてしまった。
それは事実だ。
だからといって、色を口に出す必要はない。
記録するな。
口に出すな。
異常ログを開くな。
脳内で警報が鳴る。
だが、もう遅い。
「……良樹くん」
クラリスの声が、静かだった。
静かすぎた。
「はい」
良樹は、なぜか敬語になった。
「見えたのですね」
「……見えた」
「色まで」
「……見えた」
「そして」
クラリスは、にこりと微笑んだ。
清楚だった。
清楚だったが、目が完全に据わっていた。
「口に出したのですね」
「……出した」
「良樹くん」
「はい」
「それは」
クラリスは、繋いでいた手を離した。
そして、両手を軽く握る。
「言わなくてよいことです」
ぽか。
良樹の胸に、小さな拳が当たった。
痛くはない。
もちろん、クラリスが本気で叩けば痛いどころでは済まない。
だが今の拳は、完全に力を抜いていた。
ぽか。
「すまん」
ぽか。
「悪かった」
ぽかぽか。
「本当に悪かった」
「もう」
ぽか。
「どうして」
ぽか。
「そういうことを」
ぽか。
「言ってしまうのですか」
クラリスの顔は真っ赤だった。
怒っている。
恥ずかしがっている。
泣きそうでもある。
けれど、先ほどの落ち込みとは違う。
逃げたいのに、逃げたくない。
恥ずかしいのに、嫌ではない。
好きな人に見られて、褒められて、でもそれを口に出されて、どうしたらいいか分からない。
そんな顔だった。
良樹は、胸をぽかぽか叩かれながら、ただ受けていた。
「悪い」
「悪いと思っているなら」
ぽか。
「もう少し」
ぽか。
「言葉を」
ぽか。
「選んでください」
「努力する」
「努力では足りません」
ぽか。
「実施してください」
「はい」
クラリスは、そこで一度手を止めた。
そして、俯いたまま小さく言う。
「……似合っていましたか」
良樹は固まった。
ここで答えを間違えれば死ぬ。
いや、物理的には死なない。
クラリスは壊さない。
だが、人として何かが死ぬ。
良樹は、慎重に口を開いた。
「……似合ってた」
クラリスの肩が、ぴくりと揺れる。
「本当に?」
「ああ」
「変では、ありませんでしたか」
「変じゃない」
良樹は、今度こそ余計な言葉を削った。
「綺麗だった」
「今日の服にも、合ってた」
クラリスは、真っ赤なまま固まった。
それから、また小さく拳を握る。
ぽか。
「それを」
ぽか。
「最初から」
ぽか。
「そう言ってください」
「すまん」
ぽか。
「でも」
クラリスは、声をさらに小さくした。
「……ありがとうございます」
良樹は、叩かれながら頷いた。
「ああ」
クラリスは、もう一度だけ良樹の胸を叩いた。
ぽか。
それから、今度は自分から良樹の手を取った。
「帰りましょう」
「ああ」
「リシアとカレンには」
クラリスは、真っ赤な顔で良樹を見た。
「この件は、言わないでください」
「言わねえ」
「絶対にです」
「言わねえ」
「もし言ったら」
「言わねえ」
「……なら、いいです」
クラリスは、良樹の手を握り直した。
その指先は、まだ熱かった。
良樹は、今度こそ余計なことを言わないように口を閉じた。
だが、胸の奥では思っていた。
いつものクラリスも。
今日のクラリスも。
そして、こうして真っ赤になってぽかぽか叩いてくるクラリスも。
全部、クラリスだった。
◇
夕方、二人が拠点へ戻ると、リシアとカレンが待っていた。
クラリスの顔を見ただけで、二人は察した。
クラリスはいつものように微笑んでいる。
だが、違う。
満たされている。
法衣ではない服。
良樹に選んでもらった髪飾り。
良樹と繋いだ手。
そして、その表情。
リシアは腕を組んだ。
「……良い顔してるわね」
カレンも、嬉しそうに言った。
「クラリス、すごく嬉しそうです」
クラリスは、静かに頷いた。
「はい」
一拍。
「良樹くんと、歩いてきました」
カレンは胸元で両手を握った。
「よかったです……」
リシアは、クラリスの髪を見た。
「それ、朝はなかったわよね」
クラリスの手が、髪飾りに触れる。
「はい」
頬を赤くしながら、微笑む。
「良樹くんが、選んでくださいました」
「良樹が?」
リシアが良樹を見る。
カレンも目を輝かせる。
「良樹さんが……!」
良樹は少し視線を逸らした。
「服に合ってて、動いても邪魔にならなそうだったからな」
リシアは額に手を当てた。
「あんたは本当に……」
カレンは、しかし柔らかく笑った。
「良樹さんらしいです」
「はい」
クラリスも頷いた。
「良樹くんらしくて、とても嬉しかったです」
良樹は、もう何も言えなかった。
◇
その夜。
二階の部屋では、当然のように妻会議が開かれていた。
議題は一つ。
クラリスの番、その結果報告。
クラリスは、いつもの法衣に戻っていた。
けれど、髪にはまだ、良樹に選んでもらった髪飾りがついている。
リシアとカレンは、それを見逃さなかった。
見逃すはずがなかった。
クラリスは、二人の前に座ると、深く頭を下げた。
「今日は、本当にありがとうございました」
声は静かだった。
けれど、隠しきれないほど柔らかかった。
「二人が背中を押してくれなければ」
「私は、廊下に出ることもできなかったと思います」
リシアは腕を組んだまま、少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
カレンは胸元で両手を握り、嬉しそうに微笑んでいた。
そして二人は、ほとんど同時に片手を上げた。
親指を立てる。
無言のサムズアップだった。
クラリスは、目を瞬かせた。
それから、小さく笑った。
「……ありがとうございます」
そこで、リシアの目が変わった。
カレンの姿勢も、すっと正される。
空気が変わった。
感謝の時間は終わった。
ここからは、事情聴取である。
「それで」
リシアが言った。
「どこまで行ったの?」
クラリスは、首を傾げた。
「町までですが」
「場所の話じゃないわ」
「では、何の話でしょうか」
「分かってて言ってるわよね?」
「少しだけ」
クラリスは、清楚に微笑んだ。
リシアは額に手を当てた。
「戻ってきたわね、いつものクラリス」
カレンが、小さく手を上げる。
「あ、あの」
「まず、良樹さんはちゃんと見てくれましたか?」
クラリスの頬が、すぐに赤くなった。
「……はい」
「どう見たの?」
リシアが身を乗り出す。
「どんな顔だった?」
「目は逸らした?」
「何て言った?」
クラリスは、両手を膝の上で重ねた。
「最初は、固まっていました」
「でしょうね」
「良樹さんらしいです」
「それから、私が言えなくなってしまって」
カレンが、はっとした顔になる。
「言えなかったんですか?」
「はい」
クラリスは目を伏せた。
「これから私と出かけませんか、と」
「何度も練習したのですが」
「どうしても、言えませんでした」
「それで?」
リシアの声が少し柔らかくなる。
「良樹くんが、言ってくださいました」
カレンの目が輝く。
「良樹さんが?」
「はい」
クラリスは、頬を赤くしたまま、少しだけ声を真似るように言った。
「ク、クラリス」
「その、よ」
「良かったら、これから俺と少し出かけねえか」
「嫌だったら断ってくれていいんだけどよ」
リシアは、胸を押さえた。
「……不器用」
カレンも、両手を口元に当てた。
「でも、良樹さんです……」
「はい」
クラリスは、小さく頷いた。
「とても、良樹くんでした」
リシアは、悔しそうに息を吐いた。
「それは効くわね」
「はい」
「とても」
「それで、クラリスは何て答えたの?」
カレンが聞く。
クラリスは、少しだけ恥ずかしそうにした。
「最初、首を横に振ってしまいました」
「横に?」
「断ったの?」
「いいえ」
クラリスは慌てて首を振る。
「違う、という意味で」
「嫌ではない、という意味で」
「ですが、言葉が出なくて」
リシアが、にやりとした。
「慌てて縦に振ったのね」
「……はい」
カレンは、胸元で両手を握った。
「クラリス、可愛いです」
「カレン」
「はい」
「今日のカレンは、少し強いです」
「えっ」
クラリスは、少しだけ頬を膨らませた。
それを見て、リシアは床を軽く叩いた。
「よし」
「続き」
「続き、ですか」
「当たり前でしょ」
「手は繋いだの?」
クラリスの肩が、分かりやすく跳ねた。
リシアとカレンの目が同時に細くなる。
「繋いだのね」
「繋ぎました」
「どっちから?」
「……良樹くんからです」
カレンが小さく息を呑んだ。
「良樹さんから……!」
「私が、掴めなかったので」
「掴めなかった?」
「はい」
クラリスは、自分の手を見る。
「手を差し出してくださったのですが」
「怖くて、掴めませんでした」
クラリスは、少しだけ微笑む。
「そうしたら、良樹くんが掴んでくれました」
「掴めねえなら、こっちで掴む、と」
リシアが顔を覆った。
「やるわね、良樹……」
カレンは完全に撃沈していた。
「良樹さん……」
「ただ」
クラリスは、少しだけ首を傾げる。
「嫌なら離せ、とも言っていました」
「良樹さんです……」
「安全設計ね……」
リシアが遠い目をした。
「恋愛でも逃げ道を確保する男……」
クラリスは、柔らかく微笑んだ。
「でも、離したくありませんでした」
リシアとカレンは同時に沈黙した。
クラリスが強すぎた。
少しして、リシアが咳払いをする。
「次」
「その髪飾り」
クラリスの手が、髪に触れた。
白い小さな花の髪飾り。
中央に淡い杏色の小石が入っている。
「良樹くんが、選んでくださいました」
カレンの目が輝く。
「やっぱり!」
リシアも身を乗り出した。
「何て言って選んだの?」
「今日の服に合っていて」
「動いても邪魔にならなさそうだから、と」
リシアは床に手をついた。
「色気がない!」
カレンは、しかし小さく笑った。
「でも、良樹さんらしいです」
「はい」
クラリスは、大切そうに髪飾りへ触れた。
「良樹くんらしくて」
「とても嬉しかったです」
「それは分かるけど」
リシアは顔を上げた。
「他には?」
「甘味屋とか行った?」
「行きました」
「何を話したの?」
クラリスは少し黙った。
それから、ゆっくり話し始めた。
「本当は、私から誘うつもりだったこと」
「でも、言えなかったこと」
「好きな方と普通に歩く方法を、私はあまり知らないこと」
カレンの表情が、やわらかくなる。
「それで、良樹さんは?」
「俺も知らねえ」
「だから、確認しながらでいいだろ、と」
リシアは、少しだけ目を伏せた。
「……そういうところよね」
「はい」
クラリスは、頷いた。
「嬉しい確認でした」
そこで、クラリスの表情が少し変わった。
リシアはすぐに気づいた。
「何かあったわね」
クラリスは、ぴたりと止まった。
カレンも身を乗り出す。
「何かあったんですか?」
「いえ」
クラリスは、視線を逸らした。
「特には」
「クラリス」
リシアの声が低くなる。
「報告」
「義務ですか?」
「妻会議における重要報告義務よ」
「その規定は初耳です」
「今できたわ」
「横暴です」
「話しなさい」
クラリスは、少しだけ困ったように目を伏せた。
そして、観念したように話した。
「帰り道で、泥棒が出ました」
カレンの顔が引き締まる。
「怪我人は?」
「いません」
「制圧しました」
「クラリスが?」
「はい」
リシアは、そこまでは納得していた。
だが、クラリスの顔が赤い。
ただの制圧報告なら、そんな顔にはならない。
「……で?」
リシアが聞く。
「その時、少し」
「服が」
「服が?」
「動きまして」
カレンが、はっとする。
リシアの目が細くなる。
「見えたのね」
クラリスは、両手で顔を覆った。
「……はい」
「良樹に?」
「はい」
カレンは顔を赤くした。
「そ、それは……」
リシアは、腕を組んだ。
「まあ、動けばね」
「そのスカート丈で制圧したら、見えるでしょうね」
「リシア」
「事実よ」
「分かっています」
クラリスは、小さく息を吐いた。
「だから、最後の最後で失敗したと思って」
クラリスは、声を落とした。
「せっかく、普通の女の子でいようと思ったのに」
「いつもの私が出てしまって」
「しかも、また見られてしまいました」
部屋が少し静かになる。
カレンは、そっとクラリスを見た。
「良樹さんは、何て?」
クラリスは、指の隙間から少しだけ目を出した。
「良かった、と」
「良かった?」
リシアが眉を寄せる。
「俺が知ってる、いつものクラリスも居た、と」
二人が黙った。
クラリスは、続ける。
「今日のクラリスも」
「いつものクラリスも」
「両方とも、好きだから」
「そんな顔をするな、と」
リシアは固まった。
カレンも固まった。
しばらくして、リシアが低く言った。
「……あいつ」
カレンが胸元を押さえる。
「良樹さん……」
「そのあと」
クラリスは、さらに顔を赤くした。
「まだあるの?」
リシアが言う。
「はい」
「何」
「ピンクが似合うな、と」
沈黙。
リシアの目が据わった。
カレンは両手で顔を覆った。
「良樹さん……!」
「本当に、良樹……!」
クラリスは、顔を真っ赤にしたまま言った。
「ですので」
「ぽかぽか叩きました」
リシアは、深く頷いた。
「当然ね」
カレンも頷く。
「当然です」
「ただ」
クラリスは、小さな声で続けた。
「その後、もう一度聞いてしまいました」
「似合っていましたか、と」
リシアは、口を開けたまま止まった。
カレンは、目を潤ませながら言った。
「クラリス……強いです」
「強いのは、良樹くんです」
クラリスは、髪飾りへ触れた。
「今日の私も」
「いつもの私も」
「見えてしまった私も」
一拍。
「全部、クラリスだと言われたような気がしました」
リシアは、少しだけ息を吐いた。
「……それは、勝てないわね」
カレンが慌ててリシアを見る。
「リシア?」
「今日だけよ」
リシアはすぐに言った。
「今日だけ、クラリスの勝ちって意味」
クラリスは目を瞬かせた。
カレンは、ふふっと笑った。
「はい」
「今日はクラリスの番でした」
クラリスは、しばらく二人を見ていた。
そして、深く頭を下げた。
「はい」
「今日は、私の番でした」
リシアは、照れ隠しのように腕を組む。
「次は私の番を押してもらうから」
カレンが頷いた。
「約束です」
クラリスも、微笑んだ。
「はい」
「約束です」
三人は、顔を見合わせた。
恋敵ではある。
譲る気はない。
負ける気もない。
けれど、背中を押す時は押す。
泣きそうな時は支える。
そして、自分の番が来た時は、支えてもらう。
三人で良樹の隣に立つと決めたのなら。
きっと、こういうことなのだ。
その夜の妻会議は、いつもより少しだけ甘く、少しだけ騒がしく続いた。




