第36話 最初の中継点(挿絵有)
翌朝。
良樹たちは、旧街道沿いへ向かっていた。
空は晴れている。
風は弱い。
見通しも悪くない。
調査日和、と言えば聞こえはいい。
だが良樹は、歩きながら空ではなく地面を見ていた。
道幅。
轍。
ぬかるみの跡。
草の倒れ方。
森との距離。
荷車が通った時の逃げ場所。
人が走った時に詰まりそうな場所。
見るものはいくらでもあった。
「良樹」
右側からリシアが声をかける。
「地図、見ながら歩いて大丈夫?」
「地図だけ見てるわけじゃない」
「そうでしょうけど」
「道も見てる。森も見てる。足場も見てる。逃げ道も見てる」
「見すぎじゃない?」
「足りないよりいい」
良樹は短く答え、粗い羊皮紙に書き込みを入れた。
旧街道。
見張り台。
町側。
森。
斜面。
古い高台。
その位置関係を、まだ大ざっぱな線で描いている。
今日の仕事は、討伐ではない。
現地調査だ。
見張り台からギルドまで、どうすれば危険信号を早く届けられるか。
人が走らなければ届かない場所を、どうやって減らすか。
鐘、旗、煙、灯り。
そして、端子台通話を応用した魔石信号器。
そのために、まず現場を見る。
良樹にとっては、それが始まりだった。
「それで、私は何を見ればいいの?」
リシアが尋ねる。
「高い場所から、魔力の流れを見てほしい」
「昨日も言ってたわね」
「ああ。見張り台側と町側で、魔力の揺れ方がどう違うか。魔石同士を同調させるなら、どの辺りが通りやすいか。風がどう抜けるか。煙や旗がどこで見えなくなるか。その辺りだ」
「つまり、上から見る役ね」
「そうだ」
「任せなさい」
リシアは少しだけ胸を張った。
それから、隣を歩くカレンを見る。
「カレンは?」
「私は……怖い場所、ですよね」
「ああ」
良樹は頷く。
「襲われやすい場所」
「逃げる時に詰まる場所」
「荷車や子どもや老人がいたら危ない場所」
「反応が遅れそうな場所」
「カレンが怖いと思ったところは、全部言ってくれ」
「はい」
カレンは胸元で両手を握った。
昨日の町中での一件から、カレンは少しだけ良樹の近くにいる。
近い。
ただし、何となく近いのではない。
人通りが増える場所では、少し袖をつまむ。
男たちの視線がある時だけ、後ろ手でスカートを軽く押さえる。
良樹の前では押さえない。
良樹は、そこにまだ深く踏み込んでいなかった。
踏み込んだら、何かが爆発する気がしたからだ。
「クラリスは」
良樹が言うより先に、クラリスが微笑んだ。
「負傷者が出やすい場所、ですね」
「ああ」
「転落」
「崩落」
「足場不良」
「逃げ遅れる導線」
「それと、俺たち自身の負荷も見てくれ」
「はい」
クラリスは穏やかに頷く。
「特に良樹くんですね」
「俺だけじゃない」
「良樹くんは、ご自分を除外しがちです」
「除外してない」
「優先順位が低いだけです」
「似たようなものではあるな」
「認めましたね」
「言い方を間違えた」
リシアが小さく笑った。
カレンも少しだけ口元を緩める。
良樹は、咳払いをして前を見た。
「とにかく、今日は調査だ」
「戦闘が目的じゃない」
「危ないところを見る」
「信号が届かないところを見る」
「人が走らなきゃいけない理由を見る」
そこで一度、言葉を切る。
「現場を見ないと、机の上で考えた仕組みはだいたい外れる」
「机の上?」
カレンが首を傾げる。
「作業場の試験台みたいなものだ」
「紙の上なら何でも通る」
「でも、実際の道は濡れる」
「足場は崩れる」
「人は焦る」
「夜は見えない」
「鐘は聞こえないことがある」
「旗は森で隠れる」
「煙は風で流れる」
「だから、現場を見る」
リシアが、少しだけ良樹を見た。
「良樹らしいわね」
「何が」
「夢のある通信網の話をしてるのに、最初に濡れた足場を見るところ」
「そこを見ないと人が落ちる」
「はいはい」
リシアは呆れたように言った。
だが、口元は少し笑っていた。
◇
旧街道は、町から離れるにつれて人通りが少なくなった。
道そのものは残っている。
荷車も通れる。
だが、場所によっては幅が狭い。
片側は森。
もう片側は低い斜面。
雨が降れば、土が流れそうな場所もある。
大きな岩で見通しが切れる場所もある。
草が伸び、森側から何かが近づいても分かりにくい場所もあった。
良樹は立ち止まり、地図へ書き込む。
「ここ、荷車が二台すれ違えないな」
「そうね」
リシアが道幅を見る。
「片方が待つしかないわ」
「待つならどこだ」
「……少し戻ったところかしら」
「だな」
「ここで待つと、森側が近すぎる」
良樹は書く。
荷車すれ違い不可。
待避場所、町側へ少し戻る。
森側接近注意。
カレンが、その場所をじっと見ていた。
「カレン」
「はい」
「どう見える」
カレンは少し怯えたように森を見る。
「ここ、怖いです」
「理由は」
「荷車がいたら、逃げる先がありません」
「森から何かが出てきた時、横に逃げると斜面です」
「前に荷車、後ろに人がいたら、詰まります」
良樹は即座に書き込んだ。
カレン怖い判定。
逃げ先なし。
荷車時、詰まり発生。
カレンの顔が赤くなる。
「あ、あの……そのまま書くんですね」
「書く」
「怖い判定って……」
「カレンの怖いは情報だ」
良樹は地図から目を離さずに言う。
「怖いと思った場所は、人が事故る場所だ」
「それを拾えるなら、書く」
カレンは、少しだけ目を見開いた。
それから、胸元で両手を握る。
「……はい」
小さな声だった。
だが、嬉しそうだった。
リシアが横で腕を組む。
「良樹、今のかなり強いわよ」
「何が」
「カレンの怖いは情報だ、って」
「事実だろ」
「事実だから強いのよ」
良樹は意味が分からず、クラリスを見た。
クラリスは穏やかに微笑む。
「良樹くん」
「今のはカレンさんの役割を、かなり綺麗に肯定しています」
「ならいいだろ」
「はい」
「だから強いのです」
「分からん」
リシアがため息をついた。
「分からないまま撃つの、本当にやめてほしいわ」
「撃った覚えはない」
「撃ってるのよ」
良樹は首をひねったが、それ以上考えると進まなくなるので、地図へ戻った。
◇
見張り台は、旧街道から少し外れた小高い場所にあった。
古い木材と石で組まれた簡素な塔だ。
高いと言っても、城壁ほどではない。
だが周囲の森や道を見るには十分だった。
番人らしき男が一人いた。
年は四十前後。
日に焼けた顔で、良樹たちを見ると少し驚いたように目を細める。
「ギルドから来たってのは、あんたらか」
「ああ」
「連絡経路の確認に来た」
良樹が答える。
男は頷いた。
「話は聞いてる」
「最近、若いのに妙な道具を使う四人組がいるってな」
「妙な道具は否定しねえ」
「否定しねえのか」
「できる材料がない」
男は少し笑った。
それから、見張り台の上を指した。
「上がるか?」
「上がる」
「ただし、その前に聞きたい」
「今、魔物を見つけた時はどう知らせてる」
男は肩をすくめた。
「晴れてりゃ旗」
「煙を上げることもある」
「近い場所なら鐘」
「夜なら火」
「ただ、町までは直接届かねえことが多い」
「雨は」
「煙は駄目だ」
「旗も見えにくい」
「夜で雨なら、もう人を走らせるしかねえ」
「伝令か」
「ああ」
「それが一番確実だ」
「一番危ないがな」
良樹の眉が動く。
「伝令が通る道は」
「旧街道沿い」
「ただ、途中に森が近い場所がある」
「小型魔物が出りゃ、走る方も命がけだ」
「連絡手段そのものが、危険に巻き込まれるわけか」
「そうだな」
男は苦笑した。
「見張り台で見つけた」
「知らせに走った」
「知らせが届く前に伝令がやられた」
「そうなりゃ、見つけた意味が半分消える」
リシアが小さく息を吐いた。
「だから、短い信号だけでも届けば変わるのね」
「ああ」
良樹は頷く。
「敵、だけでもいい」
「撤退、だけでもいい」
「負傷、だけでもいい」
「応援、だけでもいい」
「それが早く届くだけで、人が走る前に動ける」
カレンが、見張り台の上を見上げる。
「でも、全部の言葉を送るわけではないんですよね」
「ああ」
「万能通話器じゃない」
「むしろ、余計な言葉は邪魔になる」
「緊急信号だけでいい」
クラリスが静かに言う。
「負傷者がいるかどうかが先に分かるだけでも、こちらの準備は変わります」
「そうだ」
「包帯を持つのか」
「担架を持つのか」
「戦闘要員を出すのか」
「避難誘導を出すのか」
「最初の一手が変わる」
番人の男は、少しだけ真面目な顔になった。
「本当に、そんなもんができるのか?」
「まだ分からん」
良樹は即答した。
「だから現場を見てる」
「できるって言わねえのか」
「言えないものを言ったら事故る」
男は、しばらく良樹を見た。
それから、短く笑う。
「気に入った」
「上がって見てくれ」
◇
見張り台の上から見ると、地形は少し分かりやすくなった。
旧街道。
森の切れ目。
町側へ続く道。
途中で小さく盛り上がった高台。
そして、その先にうっすらと見える町の外縁。
良樹は目を細める。
「直接は厳しいな」
「そうね」
リシアも隣で町側を見る。
「晴れていても、途中で木に隠れる場所がある」
「煙なら風で流れる」
「旗は位置が悪いと見えない」
「夜はさらに悪い」
「灯りなら、もしかしたら見える場所はあるけど……」
「それでも、あの高台を挟んだ方がよさそうね」
リシアが指差す。
旧街道から少し外れた、高台。
岩場のようにも見える。
古い見張り台跡かもしれない。
周囲より少し高く、見張り台側と町側の両方が見える位置にある。
良樹は地図へ印をつけた。
「第一中継候補」
カレンが、その高台を見て少し不安そうに眉を寄せる。
「足場、悪そうです」
「見えるのか」
「はい」
「あそこ、草が生えていますけど、岩が出ています」
「端の方、崩れているように見えます」
クラリスも頷いた。
「手すりはなさそうですね」
「雨の日は危険だと思います」
良樹は書く。
第一中継候補。
見通し良好の可能性。
足場要確認。
端部危険。
リシアが良樹を見る。
「行く?」
「行く」
「現場を見ないと分からない」
「でしょうね」
「リシア」
「何?」
「あそこで魔力の流れを見てほしい」
リシアは、一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、少し得意げに笑う。
「頼まれたわ」
「ああ」
「そこはリシアが一番見える」
リシアの耳が、少しだけ赤くなった。
「……そういうところよ」
「何が」
「何でもない」
良樹は首を傾げた。
カレンは少しだけ頬を膨らませた。
クラリスは清楚に微笑んでいる。
番人の男は、その空気を見て、何かを察したように咳払いした。
「若いな」
「何がだ」
「いや、何でもねえ」
良樹だけが分かっていなかった。
◇
高台へ向かう道は、思ったより悪かった。
旧街道から外れ、草の生えた細い道を上がる。
古い石段のようなものが残っているが、あちこち欠けている。
土が流れて、段差が分かりにくい場所もあった。
高さ自体は、命が一瞬で終わるような崖ではない。
だが、落ちれば怪我をする。
それだけの高さはあった。
「中継点としては良い」
良樹は上がりながら言った。
「ただ、人を立たせる場所としては悪い」
「まだ上がりきってないのに?」
リシアが聞く。
「上がる途中で分かる」
「足場が悪い」
「段が崩れてる」
「濡れたら滑る」
「手すりがない」
「荷物を持った人間が上がるには危ない」
「良樹くん」
クラリスが後ろから声をかける。
「ここは、急いで上がらせてはいけない場所です」
「ああ」
「緊急時に走らせたら転ぶな」
良樹は書く。
上り道、走行禁止。
雨天滑落注意。
補修なし運用不可。
カレンが一段ずつ足元を確かめながら言う。
「怖いです」
「急いでいたら、足を置く場所を間違えます」
「書く」
良樹はまた書く。
カレン怖い判定。
焦ると足位置誤認。
カレンは、少し恥ずかしそうにする。
だが、もう否定はしなかった。
やがて、高台の上へ出た。
風が抜ける。
見晴らしは良かった。
見張り台側も見える。
町側も、木々の間から確認できる。
旧街道も一部見下ろせる。
中継点としては、有望だった。
「……使えるな」
良樹は言った。
リシアも頷く。
「風も通る」
「煙なら、ここで一度上げ直せば見えるかもしれないわ」
「旗も、位置を決めれば何とかなりそう」
「魔力は?」
「見る」
リシアは杖を軽く握り、少し前へ出た。
良樹が即座に言う。
「端には出るな」
「分かってるわよ」
「足場を確認してからだ」
「私だって空を飛ぶ魔法使いなのよ」
「飛べることと、滑らないことは別だ」
「本当に一言多いわね」
「必要な確認だ」
「はいはい」
リシアは少し不満そうにしながらも、足元を確かめた。
高台の端に近い場所。
古い石が露出している。
草が根を張っているが、その下の土は少し削れていた。
リシアは、そこから見張り台側を見る。
そして、町側を見る。
目を細め、魔力の流れを追う。
風が、銀色の髪を揺らした。
良樹は、その少し後ろで足場を見ていた。
石の割れ目。
草の根。
湿った土。
端の欠け方。
良くない。
そう思った瞬間だった。
リシアの足元で、かすかな音がした。
こつ。
小さな音。
だが、良樹の背中に嫌なものが走った。
「リシア!」
「え――」
古い石の端が欠けた。
リシアの身体が、外へ流れる。
リシアも反応した。
風が起きる。
自分を戻すための風。
高台の内側へ押し返す風。
だが同時に、良樹が飛び出していた。
良樹の手が、リシアの腕を掴む。
引く。
リシアの風が、戻す。
崩れた足場が、二人の下でずれる。
力の向きが、噛み合わなかった。
「っ!」
リシアの身体が良樹の方へ来る。
良樹はリシアを落とさないように引く。
だが、足元の草が滑った。
二人の身体が崩れた。
良樹は、とっさに自分が下になるように身体をひねった。
背中が草に落ちる。
衝撃。
息が詰まる。
そして。
良樹の視界が、一瞬、暗くなった。
いや。
暗くなったと思った直後、目の前いっぱいに青が広がった。
透き通るような青。
空ではない。
水でもない。
魔力の光でもない。
青。
青い。
近い。
近すぎる。
そして、頬に何かが触れていた。
柔らかい。
白い。
温かい。
布ではない。
草でもない。
石でもない。
良樹の思考が、そこで完全に止まった。
危険。
退避。
停止。
非常停止。
遮断。
復旧。
いつもなら出てくるはずの言葉が、一つも出てこない。
目の前いっぱいの青。
頬に触れる、柔らかい白。
良樹の中のどの分類にも、これは収まらなかった。
まさしく、トラブルだった。
◇
リシアは、最初に理解した。
落ちていない。
痛みもない。
良樹が引いてくれた。
自分も風を使った。
草の上に倒れた。
大きな怪我はない。
そこまでは、すぐに理解できた。
だが、一つだけ理解が遅れた。
自分が、どこにいるのか。
いや。
何を、どこに乗せているのか。
リシアの全身が固まった。
下に、良樹がいる。
良樹は仰向けになっている。
そして自分は。
「――っ」
声にならない声が出た。
良樹は動かない。
目を閉じている。
いや、閉じているというより、閉じるしかない位置にいる。
リシアの顔が、一瞬で熱くなった。
「良樹」
「……」
「良樹?」
「……呼吸していいか」
「聞かないで!」
「聞かずにする方が問題だろ」
「そうだけど!」
リシアは慌てて動こうとした。
だが、動こうとして止まった。
下手に動くと、さらに何かが悪化する。
どこをどう逃がせばいいのか分からない。
いや、分かっている。
分かっているが、分かった上で動けない。
完全に事故だった。
「リシアさん!」
「良樹さん!」
カレンとクラリスの声が近づく。
足音。
二人が駆け上がってくる。
そして、高台の上に来た二人は、揃って停止した。
草の上に仰向けの良樹。
その顔の位置に座り込むようなリシア。
乱れたローブ。
跳ねた裾。
真っ赤なリシア。
目を閉じて動かない良樹。
沈黙。
風だけが吹いた。
「あ、あの……良樹さん、生きてますか」
「生きてる」
「しゃべらないで!」
リシアが叫ぶ。
クラリスは、状況を静かに見た。
「はい」
「事故ですね」
「その顔は絶対に信じてない顔よ!」
「信じています」
「嘘!」
「ただ、事故としては非常に強いです」
「強いって何よ!」
クラリスは一歩近づこうとした。
リシアが慌てて片手を出す。
「来ないで!」
「医療確認です」
「医療確認でも見ないで!」
「リシアさんが怪我をしていないか、良樹くんが呼吸できているか、確認が必要です」
「呼吸はしてるわよ!」
「今、してよいか確認していました」
「聞かないでって言ったでしょ!」
カレンは顔を真っ赤にしたまま、両手で頬を押さえている。
「あ、あの……私は、どこを見れば……」
「見ないで!」
「で、でも、怪我が」
「怪我はないから!」
良樹が、目を閉じたまま言った。
「クラリス」
「はい」
「先に足場を見てくれ」
「崩れた場所」
「二次崩落があるかもしれない」
「良樹くん」
「何だ」
「その状況で仕事の話をしますか」
「仕事の話をしないと俺の頭が戻らない」
「なるほど」
「納得しないで!」
リシアが叫んだ。
クラリスは微笑み、まず崩れた足場を確認した。
それからカレンに合図する。
「カレンさん」
「リシアさんの右側を支えてください」
「私は左を見ます」
「良樹くんは動かないでください」
「分かりました」
カレンが慎重に近づく。
「リシアさん、手を」
「う、うん」
リシアはカレンの手を取った。
クラリスが反対側を支える。
何とか、リシアは良樹の上から離れた。
良樹は、しばらく動かなかった。
そして、ゆっくり目を開ける。
最初に見えたのは、空だった。
青い空。
先ほどとは違う青。
「……空って遠いんだな」
「何をしみじみしてるのよ!」
リシアが真っ赤な顔で叫んだ。
良樹は深く息を吸った。
空気が入る。
普通に呼吸できる。
その事実が、なぜか少しありがたかった。
◇
良樹は起き上がると、すぐに崩れた足場を見た。
リシアはまだ顔を赤くしている。
カレンも落ち着いていない。
クラリスだけは、いつものように見える。
ただし、微笑みが少し深い。
「ここは中継点としては使える」
良樹は言った。
リシアが目を剥く。
「今その話するの!?」
「今しないと忘れる」
「忘れて!」
「忘れたら同じ事故が起きる」
「同じ事故は二度と起こさないわよ!」
「起こらない前提で設計すると事故る」
「正論が腹立つ!」
良樹は地図を開いた。
「見通しはいい」
「魔力の流れも見える」
「風も通る」
「だが、足場は駄目だ」
書く。
第一中継候補。
見通し良好。
魔力流路確認可能。
足場危険。
補修必須。
端部立入禁止。
単独作業禁止。
後方支援必須。
そこで、良樹の筆が止まった。
少し考える。
そして、書いた。
転落時、重大接触事故の可能性あり。
「書くなぁぁぁ!」
リシアの叫びが高台に響いた。
カレンが、その文字を見て耳まで赤くなる。
「じゅ、重大接触事故……」
クラリスが真面目な顔で頷いた。
「事故防止接触としては、非常に有効でした」
「分類しないで!」
「リシアさんを落下から守り、良樹くんが衝撃を受け止めました」
「ただし、接触姿勢に大きな問題があります」
「分かってるわよ!」
良樹は、さらに書き足す。
端部作業時、補助者配置。
風魔法使用時、救助手との力方向確認。
救助時、引く方向と戻る方向の干渉注意。
リシアは頭を抱えた。
「良樹」
「何だ」
「お願いだから、今の事故をそんな真面目に分解しないで」
「分解しないと対策できない」
「対策しなくていい部分もあるでしょ!」
「いや、いる」
「いらない!」
カレンが、おずおずと手を上げた。
「あ、あの……でも、足場は本当に危なかったです」
リシアが止まる。
カレンは、崩れた石を見る。
「良樹さんがすぐ動いてくれなかったら、リシアさんは落ちていたかもしれません」
「リシアさんも風で戻ろうとしていましたけど、力が合っていませんでした」
「だから……対策は、必要だと思います」
リシアは反論しかけて、口を閉じた。
カレンの言っていることは正しい。
そして、カレンは真っ赤な顔で言っている。
見たものをなかったことにしようとしていない。
怖い場所を見ている。
「……分かってるわよ」
リシアは小さく言った。
「足場は、危なかった」
「それは、分かってる」
クラリスが頷く。
「リシアさんに怪我がなくてよかったです」
「……うん」
「良樹くんも、背中を打っています」
良樹が顔を上げる。
「大したことない」
「確認します」
「後でいい」
「今です」
「調査が」
「今です」
クラリスの声が静かに強くなった。
良樹は黙った。
リシアが、まだ赤い顔のまま言う。
「良樹」
「そこは見てもらいなさい」
「……了解」
クラリスは良樹の背中と肩、腕の動きを確認した。
大きな怪我はない。
草と土がついた程度。
ただ、背中に軽い打撲はある。
「今日は無理に追加調査をしないでください」
「見張り台と高台の関係は確認できた」
良樹は地図を見る。
「最低限は取れた」
「見張り台から町へ直接届けるのは難しい」
「中継点を一つ挟めば成立しそうだ」
「ただし、高台は補修必須」
「雨天運用は危険」
「人を端に立たせない配置が必要」
「魔石信号器ができれば、高台端に立たなくても確認できる可能性がある」
リシアは、少しだけ真面目な顔に戻った。
「魔力の流れは、通ってるわ」
「見張り台側からここまでは、わりと素直」
「ここから町側は少し乱れるけど、魔石を置くなら調整できると思う」
「つまり、技術的には試す価値ありか」
「ある」
「最初は、見張り台と高台の二点間試験」
「次に、高台とギルド側」
「いきなり全区間はやらない」
「そうね」
「その方がいい」
良樹は頷いた。
「連絡経路は、地形的にはできそうだ」
「あとは技術実装だな」
リシアが半眼で良樹を見る。
「技術実装って言葉で、今の事故を流さないで」
「流してない」
「記録した」
「だから書くなって言ってるでしょ!」
カレンが小さく笑った。
クラリスも微笑む。
リシアは二人を見る。
「何で笑うのよ」
「い、いえ」
「リシアさんが無事でよかったなって」
「はい」
「そして、良樹くんらしいなと」
「らしくなくていいのよ、こういう時くらい!」
リシアはぷいと顔を逸らした。
しかし、その耳はまだ赤い。
◇
帰り道。
四人は、来た時より少しゆっくり歩いていた。
理由は明確だった。
良樹の背中をクラリスが警戒している。
リシアがまだ少し落ち着いていない。
カレンが足場をいつも以上に慎重に見ている。
高台事故は、調査の山場としては十分すぎた。
追加で森へ入る理由はない。
良樹は地図を畳みながら言う。
「今日見るべきところは見た」
「帰るぞ」
リシアが少し驚いた顔をした。
「え、もう?」
「ああ」
「良樹なら、もう少し見るって言うと思ったわ」
「見たい場所はある」
「だが、事故が起きた後に無理して追加調査をすると、判断が雑になる」
「背中も打った」
「お前も動揺してる」
「今日は切る」
リシアは、一瞬だけ黙った。
それから小さく息を吐く。
「……そう」
「何だ」
「ちゃんと切れるのね」
「切れないと危ない」
「本当に、止めるの好きね」
「好き嫌いじゃねえ」
「はいはい」
リシアは少しだけ笑った。
カレンが、良樹の袖をそっとつまむ。
「良樹さん」
「何だ」
「背中、痛くないですか」
「少し」
「少しでも、痛いなら言ってください」
「ああ」
クラリスが後ろから言う。
「帰ったらもう一度確認します」
「了解」
「拒否しないのですね」
「拒否したら怒られるだろ」
「はい」
「なら最初から従う」
クラリスは満足そうに微笑んだ。
「よろしいです」
「何か、最近俺の扱いが雑になってないか」
リシアが即答した。
「実績よ」
カレンも小さく頷いた。
「じ、実績です」
クラリスも微笑む。
「実績ですね」
「三人で言うな」
良樹はため息をついた。
けれど、足取りは少し軽かった。
通信網は、まだ形になっていない。
だが、最初の中継点は見つかった。
危険も見つかった。
なら、対策できる。
それは良樹にとって、前進だった。
◇
その夜。
作業場付きの貸家。
夕食を終え、良樹は作業場で地図とメモを整理していた。
見張り台。
旧街道。
第一中継候補。
足場補修。
魔石信号器。
短文信号。
雨天時不可。
夜間灯火。
人を走らせない連絡経路。
書くことは多い。
だが、思考は少し落ち着いていた。
事故はあった。
非常に強い事故だった。
だが、リシアは無事だった。
自分も大した怪我はない。
危険箇所は洗い出せた。
中継点の価値も確認できた。
なら、悪くない。
そう思いかけて、良樹は筆を止めた。
いや。
悪くないで済ませるな。
事故は事故だ。
再発防止が要る。
良樹は、別紙に書いた。
高台作業ルール案。
その時。
二階から、微かな声が聞こえた。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人の声だ。
良樹は一度、筆を止めた。
何かあったのかと思い、耳を澄ませる。
聞くつもりはなかった。
ただ、声が少し大きかった。
「議題」
リシアの声。
「下着選びに気が抜けないことについて」
良樹の手が止まった。
筆先が紙の上で固まる。
聞いてはいけない。
絶対に聞いてはいけない。
良樹の中の危険表示が、全力で点灯した。
だが、耳は勝手に拾う。
上の部屋で、カレンが小さく言った。
「きょ、今日のリシアさんの事故は……その、かなり……」
「言わないで」
リシアの声が低い。
「でも、見えたのは事実です」
クラリスの声は穏やかだった。
「クラリスさん!」
「事実確認です」
「確認しなくていい!」
「高台作業時、服装による事故拡大要因がありました」
「良樹みたいな言い方しないで!」
良樹は天井を見上げた。
俺のせいなのか。
いや、俺のせいもある。
助けた。
下敷きになった。
結果、事故った。
どう考えても当事者だった。
リシアの声が続く。
「あれは、足場が崩れたからでしょ」
「私が選んだわけじゃないわ」
「もちろんです」
クラリスが答える。
「事故です」
「ただし、事故であるからこそ、事前対策が必要です」
「何の対策よ」
「下着選びです」
沈黙。
良樹は筆を置いた。
これ以上書けない。
上では、カレンが消え入りそうな声で言う。
「あ、あの……でも」
「見えてしまうかもしれないなら」
「変ではないものがいい、とは……思います」
「カレン」
リシアの声が震えた。
「あなた、そこで正論を出すの?」
「す、すみません……」
「でも、前から少し思っていて……」
「前から」
クラリスが嬉しそうに繰り返した。
「カレンさんは、前から思っていたのですね」
「ク、クラリスさん!」
「大切な確認です」
「確認しないでください……!」
リシアがため息をつく。
「分かるわよ」
「分かるけど」
「毎回気を抜けないのはおかしくない?」
「良樹くんが事故に遭いやすいので」
「事故に遭ってるのは私たちもよ!」
「はい」
「ですから、私たちも気を抜けません」
クラリスの声は真面目だった。
「良樹くんは、事故で見た場合でも軽く扱いません」
「笑いません」
「茶化しません」
「すぐ目を逸らそうとします」
「そこが余計に困るのよ」
リシアが呻く。
「そうですね」
クラリスが同意する。
「軽い男なら怒って終わりです」
「でも良樹くんは、見た事実を事故として処理しながら、こちらを雑に扱わない」
「そのため、こちら側が準備不足だった場合、こちらの心が負けます」
「言い方!」
カレンが小さく震えながら言う。
「でも……分かります」
「良樹さん、ちゃんと見てしまったことを重く扱うので」
「その……こちらも、ちゃんとしていたくなります」
「そうなのよ」
リシアの声が、少し弱くなる。
「そこなのよ」
「見られたいわけじゃない」
「でも、もし見えてしまうなら、変なのは嫌」
「それで選び始めると、もう気が抜けないのよ」
「はい」
クラリスが頷く気配がした。
「つまり、本日の結論は」
「まだ早いわよ」
「下着選びは安全管理であり、乙女管理でもある」
「まとめないで!」
良樹は、天井を見上げたまま固まっていた。
安全管理。
乙女管理。
聞いてはいけない言葉が増えていく。
上では、カレンが勇気を出したように言った。
「あ、あの」
「でも、リシアさんの青は……その」
「綺麗だったと、思います」
沈黙。
「カレン?」
リシアの声が低い。
「あっ、いえ!」
「私は一瞬しか見ていません!」
「ただ、良樹さんの目の前いっぱいに青が――」
「言わないでぇぇ!」
リシアの叫びが二階から響いた。
良樹は両手で顔を覆った。
忘れろ。
忘れろ。
目の前いっぱいの青。
忘れろ。
頬に触れた柔らかい白。
忘れろ。
非常停止。
遮断。
主幹を落とせ。
しかし、脳内のどこかで異常履歴が保存されている。
削除できない。
良樹は、低く呟いた。
「……俺は何か悪いことをしたか?」
天井は答えなかった。
上では、クラリスの声が楽しそうに響く。
「では次回以降、高所作業時の装備基準について」
「嫁会議で作業基準を作らないで!」
「必要です」
「必要なの!?」
「盾でもあり剣でもあります」
「一理あるわね」
「一理あります」
「二人とも!?」
良樹は、作業場の椅子に深く沈んだ。
今日の調査結果。
第一中継点候補、有望。
足場補修必須。
魔石信号器試験、段階実施。
高所作業時、単独作業禁止。
そして。
下着選びに気が抜けない。
良樹は、そこだけは絶対に紙へ書かなかった。
書いたら終わる気がした。
だが、忘れられる気もしなかった。
まさしく、トラブルだった。
◇
二階の部屋では、リシアが枕に顔を埋めたまま動かなくなっていた。
カレンはまだ頬を赤くしている。
クラリスは、いつものように穏やかに微笑んでいた。
いつものように。
少なくとも、そう見えた。
「……でも」
クラリスが、小さく言った。
リシアが枕から片目だけ出す。
「何?」
「リシアさんは、今日、良樹くんに見られました」
「言わないでって言ってるでしょ……」
「カレンさんも、良樹さんに見てもらう服を、自分で選べます」
「わ、私は、その……装備確認で……」
「はい。装備確認です」
クラリスは微笑んだ。
けれど、その声は少しだけ小さかった。
「でも、私は」
言葉が、そこで少し止まる。
「私の服では、良樹くんには見てもらいづらいですから」
部屋が静かになった。
リシアが枕から顔を上げる。
カレンも、クラリスを見る。
クラリスは、いつものように微笑んでいた。
でも、その微笑みは少しだけ困っていた。
「この法衣は、僧侶としての服です」
「清楚に見えるように」
「肌を見せすぎないように」
「身体の線を出しすぎないように」
「人を安心させるように」
クラリスは、自分の袖をそっと撫でた。
「それは、大切なことです」
「私も、この服は嫌いではありません」
そこで、ほんの少しだけ目を伏せる。
「でも、良樹くんに女の子として見てもらいたいと思う時」
「少しだけ、困ります」
カレンは、胸元で両手を握った。
分かる。
分かる気がした。
自分の時を思い出した。
良樹さんと二人で町を歩いた日。
下着を選ぶ時、どうしたらいいのか分からなくなった日。
勇気を出して、訓練用のスカートを少しだけ整えた日。
あの時、リシアさんとクラリスさんは止めなかった。
見ていた。
気づいていた。
でも、止めなかった。
カレンの番だから、と。
なら今度は、自分が言う番だ。
「あ、あの……クラリスさん」
「はい」
「よければ、私の服……着てみますか?」
クラリスが、目を瞬かせた。
「カレンさんの服を、ですか?」
「はい」
カレンは顔を赤くしながらも頷いた。
「私の服なら、少し動きやすいですし」
「その……良樹さんに見てもらう時の服としては」
「法衣とは、違うと思います」
リシアが、完全に顔を上げた。
そして少しだけ笑う。
「それ、いいわね」
「リシアさん」
「カレンのだけじゃ偏るわ」
「なら、私のも貸す」
クラリスは、今度こそ固まった。
「リシアさんの服も、ですか?」
「嫌なら無理にとは言わないわよ」
「嫌では、ありません」
クラリスは、自分の法衣をそっと掴んだ。
「ただ、少し……驚きました」
カレンが小さく笑う。
「私の時、二人は助けてくれました」
「だから、今度はクラリスさんの番です」
リシアも頷く。
「恋敵ではあるけどね」
「こういう時に一人で悩ませるほど、狭くはないわ」
「リシアさん」
「何よ」
「今の、少し格好いいです」
「茶化さないで」
「本気です」
クラリスは、二人を見た。
いつものように微笑もうとして。
少しだけ、失敗した。
頬が赤くなる。
「……では」
「お言葉に、甘えます」
◇
最初は、カレンの服だった。
訓練用の上着。
軽い胸当て。
腰に巻く革帯。
動きやすいスカート。
カレンが普段、剣の稽古や街歩きの時に使っている服だ。
クラリスは、法衣を脱ぎ、カレンの服へ袖を通した。
少しして、衝立の向こうから出てくる。
リシアとカレンは、同時に黙った。
似合っていた。
ただし、カレンとは全く違った。
カレンが着ると、怖がりながらも前へ出ようとする剣士の服になる。
けれどクラリスが着ると、清楚な顔のまま人を制圧できる女の服になった。
短めのスカートから伸びる脚は、細いのに妙に安定している。
腰の位置が高い。
胸当ての下の布は、少しだけ苦しそうだった。
カレンが、顔を赤くする。
「あ、あの……少し、胸のところが……」
「少し、苦しいですね」
クラリスは自分の胸元に手を添え、首を傾げた。
リシアが半眼になる。
「少し?」
「はい」
「本当に少し?」
「少しです」
カレンは、静かにうつむいた。
「……私の服なのに」
「カレンさん?」
「い、いえ。何でもありません」
リシアは腕を組み、クラリスを上から下まで見る。
「悔しいけど、似合うわね」
「ありがとうございます」
「ただ、良樹に見せたら処理落ちするわ」
「処理落ち、ですか」
「ええ」
「カレンの服だと思って油断したところに、クラリスさんが出てくるのよ」
「危険度が高いわ」
クラリスは、少しだけ頬を染めた。
「良樹くんは、見てくださるでしょうか」
「見ます」
カレンが即答した。
リシアも頷く。
「見るわね」
「そして目を逸らすわ」
「それは、見てくださったということでしょうか」
「そうよ」
カレンが小さく笑う。
「良樹さんは、見てしまった時ほど目を逸らします」
クラリスは、胸元に手を添えたまま、少しだけ目を伏せた。
「……そうですか」
その声は、少し嬉しそうだった。
◇
次は、リシアの服だった。
魔法使い用の軽いローブ。
法衣よりは丈が短く、袖も動かしやすい。
腰に紐を巻き、魔石袋や小物を下げられる。
リシアが普段着ているものより少し予備の簡素なものだが、それでもリシアらしい服だった。
クラリスが着替えて出てくると、今度はリシアが黙った。
白い法衣の時とは違う。
リシアの服を着たクラリスは、どこか知的で、大人っぽかった。
魔法使いというより、魔法も体術も使う危険な僧侶に見える。
淡い色の布が、クラリスの金髪とよく合っていた。
ただし。
「……入るのね」
リシアが低く呟いた。
「はい」
クラリスは頷く。
「少しだけ、胸元が」
「そこは言わなくていいわ」
「はい」
カレンがぽつりと言う。
「綺麗です……」
クラリスが目を瞬かせる。
「ありがとうございます、カレンさん」
「本当に」
「いつものクラリスさんと違って」
「でも、クラリスさんです」
リシアは、少し悔しそうに腕を組んだ。
「それなのよね」
「服が変わっても、クラリスさんはクラリスさんなのよ」
「そうでしょうか」
「そうよ」
「清楚な僧侶じゃなくても」
「法衣じゃなくても」
「ちゃんとクラリスさん」
クラリスの表情が、ほんの少し変わった。
いつもの微笑みではない。
少し驚いて。
少し照れて。
それから、少しだけ嬉しそうに。
「……そうですか」
「そうよ」
リシアは視線を逸らした。
「だから、良樹も見るわ」
「服じゃなくて」
「クラリスさんを」
部屋が静かになった。
カレンが、小さく頷く。
「はい」
「良樹さんなら、きっと」
クラリスは、借りたローブの袖をそっと握った。
しばらく、三人とも黙っていた。
そして、リシアが小さく息を吐く。
「借り物じゃ、駄目ね」
クラリスが顔を上げた。
「駄目、でしょうか」
「駄目というより」
「これはカレンの服で、こっちは私の服でしょ」
「はい」
「クラリスさんが良樹に見てもらうなら」
「クラリスさんの服じゃないと」
カレンが、ぱっと顔を上げた。
「それ、いいと思います」
「でしょう?」
リシアは頷く。
「借りた服でも分かった」
「法衣じゃなくても、クラリスさんはクラリスさん」
「なら次は、クラリスさん自身の服を選ぶ番よ」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
「私自身の服……」
「はい」
カレンは胸元で両手を握った。
「明日の午前中、三人で買いに行きませんか?」
「三人で、ですか」
「はい」
「クラリスさんの服を、三人で選びます」
「それで……午後に」
カレンは、そこで少し顔を赤くした。
「良樹さんと、出かけてください」
クラリスが固まった。
リシアは腕を組んで、少しだけ笑う。
「カレン、言うようになったわね」
「わ、私の時、二人が助けてくれましたから」
「ええ」
「なら今回は、クラリスさんの番ね」
クラリスは、二人を見た。
いつもの清楚な微笑みを作ろうとして。
けれど、少しだけ失敗した。
頬が赤い。
「……良いのでしょうか」
「良いのよ」
リシアが言った。
「恋敵ではあるけど」
「こういう時に一人で悩ませるほど、狭くはないわ」
カレンも頷く。
「クラリスさんの番です」
クラリスは、自分の胸元に手を添えた。
「私の番」
小さく、そう呟く。
その声は、いつもの僧侶の声ではなかった。
清楚な余裕も。
静かな微笑みも。
身体を見る者の冷静さも。
少しだけ、薄れていた。
そこにいたのは、明日好きな人に見てもらう服を選ぶ、ただの女の子だった。
「では」
クラリスは、ゆっくり顔を上げた。
「明日の午前中、お願いします」
「そして午後は」
一拍。
「良樹くんに、見ていただきます」
リシアとカレンは、同時に頷いた。
「ええ」
「はい」
三人の間で、明日の予定が決まった。
午前。
嫁三人で、突貫服選び。
午後。
クラリスの番。
◇
その頃、階下の作業場で。
良樹は、天井を見上げたまま固まっていた。
聞こえた。
聞こえてしまった。
カレンの服。
リシアの服。
クラリスが着た。
胸元が少し苦しい。
良樹くんは見てくださるでしょうか。
そして、明日。
午前中、三人で服を買いに行く。
午後、クラリスと出かける。
良樹は、ゆっくり両手で顔を覆った。
「……何だ、この高難度連続試験は」
答える者はいなかった。
机の上には、今日の調査メモが残っている。
第一中継点。
足場補修。
魔石信号器。
短文信号。
高所作業基準。
そして良樹の頭の中には、新しい危険項目が追加されていた。
クラリス、他二名の服を着用。
クラリス用の服、突貫選定。
午後、同行。
危険度、極めて高い。
対策、未定。




