第35話 英雄工程表(挿絵有)
翌朝。
良樹は、いつもより少しだけまともな顔で起きてきた。
少なくとも、目の下の影は昨日より薄い。
歩き方も、ふらついてはいない。
髪は少し乱れているが、徹夜明けの死人のような顔ではなかった。
食卓についたリシアが、腕を組んで頷く。
「よし」
カレンも、小さくほっとしたように息を吐いた。
「昨日より、お顔色がいいです」
クラリスは、良樹の顔をじっと見た。
目の下。
呼吸。
肩。
指先。
歩き方。
椅子に座る時の動き。
そして、静かに頷いた。
「睡眠不足は残っていますが、昨日より改善しています」
「朝食後に無理をしなければ、今日の活動は可能です」
「……監査が厳しい」
良樹がぼそりと言うと、リシアが胸を張った。
「家庭内安全審査よ」
「家庭内って言葉が強い」
カレンの顔が、ぱっと赤くなる。
クラリスは平然としていた。
「事実ですので」
リシアとカレンが同時にクラリスを見た。
「……それは言えるんだ」
「そこは、言えるんですね……」
クラリスは不思議そうに首を傾げる。
「良樹くんの英雄の妻たるなら、当然の管理です」
「朝から強いな……」
良樹は椅子に腰を下ろしながら、軽く額を押さえた。
昨日、三人に決められた。
夜更かし禁止。
正確には、完全禁止ではない。
時間制限。
休憩義務。
食事優先。
翌朝のクラリス診断。
作業者の健康管理としては、間違っていない。
間違っていないのが、余計に逃げ道を潰してくる。
良樹は、出された朝食を見た。
パン。
スープ。
焼いた肉。
少し多めの野菜。
水。
「食え、という圧を感じる」
「食べなさい」
「食べてください」
「食べてください」
三方向から言われた。
「はい」
良樹は素直に匙を取った。
◇
朝食後。
良樹は、昨夜清書した紙を机の上に置いた。
羊皮紙に、何本もの線と文字。
題は、こう書かれている。
英雄への道。
リシアが、それを見て少しだけ笑った。
「何度見ても、すごい題ね」
「俺も書いてて少し変な気分にはなった」
「でも、書いたんですね」
カレンが言う。
「ああ」
「口で言っただけで終わらせる気はない」
良樹は紙を畳み、腰袋とは別に丁寧にしまった。
「ガレスに見せる」
「英雄になる条件を聞いたのはあいつだ」
「俺なりに整理した結果が、現場側から見てどうなのか確認する」
「私たちも行くわ」
リシアが即答した。
良樹は顔を上げる。
「いや、俺一人でも――」
「駄目」
「まだ最後まで言ってない」
「言わなくていいわ」
リシアは立ち上がった。
「三人を正式に妻にするための工程表でしょ」
「私たちも関係者よ」
カレンも、胸元で両手を握りながら頷く。
「はい」
「私たちも、良樹さんを英雄にする側です」
クラリスは、いつものように穏やかに微笑んだ。
「良樹くんの英雄の妻たるなら、工程確認にも同席すべきです」
リシアとカレンが、またクラリスを見る。
「……それは言えるんだ」
「やっぱり、そこは言えるんですね……」
「事実ですので」
良樹は、少しだけ天井を見た。
「工程表を持ってギルドに行くだけで、朝から圧が強い」
「圧に負けて倒れないように管理してるのよ」
「そういう意味じゃない」
良樹は息を吐いた。
それから、紙を持つ手に少しだけ力を入れる。
「分かった」
「四人で行く」
三人が、それぞれに頷いた。
◇
街は、朝から動いていた。
店先では野菜が並べられ、布屋の女が反物を広げている。
荷車が通り、鍛冶屋の方から金属を打つ音が聞こえた。
冒険者らしき男たちが、眠そうな顔でギルドの方へ向かっている。
良樹は、その中を歩きながら、頭の中で工程表の内容を確認していた。
武功。
救助・防衛。
技術・仕組み。
それぞれの利点。
欠点。
積み上げ方。
記録。
責任。
そして、端子台通話の応用。
短文信号。
危険。
敵。
右。
左。
下がれ。
負傷。
撤退。
応援。
会話ではない。
警報器に近い。
登録した二点間だけで、短い合図を送る。
そこまでなら、可能性がある。
良樹は、歩きながら眉間にしわを寄せていた。
「……これ、見せていいのか」
小さく呟く。
リシアが横から言った。
「今さら?」
「いや、英雄になるための工程表って、冷静に考えると相当変だろ」
「冷静に考えなくても変よ」
「否定しないのか」
「でも、良樹らしいわ」
カレンも頷く。
「はい」
「良樹さんらしいと思います」
クラリスは少し考えてから言った。
「英雄になるための段取りを隠しても仕方ありません」
「英雄になるための段取りって言葉がもう変だろ」
「でも、あんたはそういう人でしょ」
リシアの声は、呆れているようで、どこか柔らかかった。
良樹は答えなかった。
その時、道の向こうから歩いてきた冒険者の一人が、良樹たちを見た。
「あれ、大型トロル倒した四人組じゃねえか?」
「変な盤出す奴だろ」
「あの女三人、全員やばいやつらしいぞ」
「やばいって何が」
「強さも顔も」
「そりゃ目立つわ」
声は小さい。
だが、聞こえないほどではなかった。
良樹は気づいていないようだった。
正確には、言葉の中身よりも、ギルドへ提出する工程表の方に意識が寄っている。
だが、三人は気づいた。
リシアは、少しだけ視線を細める。
カレンは肩を小さく揺らす。
クラリスは、穏やかに周囲を観察した。
大型トロル。
生活圏防衛。
変な盤。
美人三人を連れた男。
まだ英雄ではない。
けれど、噂はもう動き始めていた。
◇
ギルドに着くと、朝の依頼を探す冒険者たちでざわついていた。
掲示板の前。
受付の前。
酒場へ繋がる扉の近く。
その中を、良樹たちはまっすぐ奥へ向かう。
受付の女性が、良樹たちに気づいて軽く会釈した。
「良樹さん。ガレスさんですか?」
「ああ」
「いるか?」
「奥にいます。呼びますね」
しばらくして、ガレスが出てきた。
いつものように腕を組んでいる。
面倒そうな顔。
だが、良樹たちを見る目は、以前より少しだけ真面目だった。
「朝から四人揃って何だ」
「また変な仕事でも拾ってきたか」
「今日は拾いに来たんじゃない」
「ほう」
良樹は、畳んだ紙を出した。
「見てもらいたいものがある」
ガレスは紙を見る。
「何だ」
「英雄への道の工程表だ」
ガレスは、数秒動かなかった。
その後、ゆっくりと目を細める。
「……英雄になる奴が、工程表を持ってきたのは初めてだ」
リシアが横で口元を押さえた。
カレンは少し恥ずかしそうに俯く。
クラリスは、どこか誇らしげに微笑んでいた。
良樹は真顔だった。
「段取りなしに英雄になれるなら苦労しないだろ」
「普通は、もう少し夢とかロマンとかを語るもんだ」
「夢は語った」
「三人を嫁にもらう」
「今は、それを現実にする段取りをしてる」
ガレスは片手で顔を覆った。
「そこだけは豪快なのに、やることは地味なんだよな、お前」
「現場が壊れたら英雄も死ぬ」
「それはそうだがな」
ガレスは息を吐き、顎で奥を示した。
「来い」
「その変な紙を見せろ」
◇
奥の小部屋。
以前、良樹が英雄になる条件を聞いた場所だった。
古い机。
壁の地図。
いくつかの依頼書。
討伐記録。
窓から入る朝の光。
ガレスは机の向こうに座り、良樹たちはその前に座った。
良樹は工程表を広げる。
ガレスは、それをしばらく黙って読んだ。
「武功、救助と防衛、技術と仕組み」
「……俺が話した三つを、よくまあここまで現場臭く書き直したな」
「英雄になるための工程表だからな」
「普通は工程表にしねえんだよ」
ガレスは呆れたように言いながらも、紙を放り投げはしなかった。
「武功は狙いに行かない」
「救助と防衛を主軸にする」
「技術は、まだ個人技能だから過信しない」
「で、実績は依頼と報告で残す」
「ああ」
「悪くねえ」
「悪くないのか」
「ああ」
「お前には合ってる」
「強い魔物を探して突っ込む馬鹿よりは、よほど信用できる」
ガレスは紙の端を指で叩いた。
「ただし、三つ足せ」
「防衛実績は必ず記録に残せ」
「危険度ごとの対応区分を作れ」
「それと、魔石信号器ができても最初はギルド管理だ」
「登録制、用途制限、停止条件、誤報時の責任、悪用防止か」
「ほらな」
「やっぱり面倒くせえ」
「必要だろ」
「必要だから困るんだよ」
リシアが横から小さく笑った。
「でも、そこが良樹です」
カレンも頷く。
「はい」
「安心します」
クラリスが続ける。
「実績です」
「褒められてる気がしない」
「褒めているわよ」
リシアが言う。
「半分くらい」
「残り半分は」
「呆れてる」
「やっぱりか」
ガレスは工程表の下の方を指で押さえた。
「それで、この端子台通話の応用ってのは何だ」
「会話道具じゃない」
「そこまでは無理だ」
良樹はすぐに答えた。
「俺の盤を経由している」
「三人の魔力の癖も、俺が知っている」
「混線したら俺が整理している」
「強い感情が乗ると、全員に漏れることもある」
そこでリシアの耳が赤くなった。
カレンも少し俯く。
クラリスは、なぜか穏やかに微笑んでいた。
ガレスは眉を寄せた。
「最後のは何だ」
「事故要因だ」
「そうか」
「聞かない方がよさそうだな」
「そうしてくれ」
良樹は紙の隅に、短い語を並べた。
危険。
敵。
右。
左。
下がれ。
負傷。
撤退。
応援。
「最初はこれだけでいい」
「登録した二点間で、短い危険信号だけ送る」
「会話じゃない」
「警報器に近い」
ガレスの顔が変わった。
面倒そうな顔ではない。
明らかに、現場の顔だった。
「リシア」
良樹が横を見る。
「魔法側の説明を頼む」
「分かったわ」
リシアは少しだけ背筋を伸ばした。
「良樹の端子台通話は、魔力をそのまま送っているというより」
「言葉に近い形へ整えた魔力の揺れを、相手側へ返しているの」
「たぶん、良樹の盤が間に入って、意味を通る形にしている」
ガレスは黙って聞く。
「同調した魔石に、同じ揺れ方をさせることができれば」
「短い合図くらいなら、送れる可能性はあると思う」
「ただ、誰でもすぐ使えるわけじゃない」
「登録、同調、送る言葉の制限」
「そういうものが必要になるはず」
良樹が頷く。
「段階としては」
「四人の端子台通話を安定させる」
「短文信号だけを切り出す」
「魔石で同じ揺れを再現できるか試す」
「登録した二点間だけで送受信する」
「緊急停止を作る」
「第三者に試させる」
リシアが呆れたように言った。
「英雄になる話をしているのに、試作手順になってるわよ」
「段取りなしに技術は出せねえ」
ガレスは、しばらく黙っていた。
そして、低く言った。
「……それが本当にできるなら、街道警備が変わるぞ」
部屋の空気が、少しだけ重くなった。
「見張り台とギルド」
「農家と街道警備」
「採石場」
「水路」
「夜間の見回り」
「斥候と本隊」
「治療班への負傷連絡」
ガレスは指を折る。
「大声を出せない場所で危険を知らせられる」
「魔物に気づかれずに撤退指示を出せる」
「農家からギルドへ『魔物が出た』だけでも届けば、人が死ぬ前に動ける」
良樹は頷いた。
「完成すれば、だ」
「今は構想でしかない」
「作れるとは限らない」
「作れても安全に使えるとは限らない」
「安全に使えても、誰でも使えるとは限らない」
ガレスが、少しだけ笑った。
「そこで浮かれねえのが、お前だな」
「浮かれて人が死んだら意味がない」
「その辺の英雄志望より、よほど信用できる」
ガレスは立ち上がり、壁の地図へ向かった。
「ちょうどいい」
「なら、現場を見てこい」
良樹の目が変わった。
「現場?」
「ああ」
ガレスは、旧街道沿いの一点を指した。
「旧街道沿いに見張り台がある」
「だが、魔物を見つけてもギルドへ知らせるまでが遅い」
「人を走らせるしかねえからな」
「雨なら遅れる」
「夜ならもっと遅れる」
「途中で襲われることもある」
良樹は地図を覗き込んだ。
「連絡経路の確認か」
「そうだ」
「距離、見通し、途中の危険、逃げ道、知らせる道」
「どこに中継点があれば間に合うか」
「お前の得意分野だろ」
良樹は三人を見た。
リシアが頷く。
「英雄工程表の、最初の現場調査ね」
カレンも、胸元で両手を握った。
「怖い場所を、見ます」
クラリスは静かに微笑んだ。
「壊れる前に、見ましょう」
良樹はガレスを見る。
「受ける」
「だろうな」
ガレスは、少しだけ口の端を上げた。
「英雄になる奴が工程表を持ってきて、次にやるのが見張り台の連絡確認か」
「派手な馬鹿なら叱りやすいが、地味に正しい馬鹿は扱いづれえな」
「馬鹿扱いは確定なのか」
「英雄になろうって時点で、だいたい馬鹿だ」
リシア、カレン、クラリスが同時に頷いた。
「否定できません」
「否定できません……」
「否定できませんね」
「おい」
◇
依頼の手続きを終え、良樹たちはギルドの表へ出た。
その時、聞き慣れた声がした。
「良樹さんたち!」
ニルだった。
片手を上げて、こちらへ駆け寄ってくる。
その隣には、若い女の子がいた。
良樹たちよりは少し若い。
ニルと同じくらいだろうか。
まだ大人びきる前の明るさが残っていて、町の娘らしい服装をしている。
ニルは、良樹たちの前で少しだけ照れた顔をした。
「あの、紹介します」
「俺の彼女っす」
カレンの肩が、小さく跳ねた。
彼女。
その言葉が、妙に普通で、妙に眩しかった。
ニルの彼女は、ぱっと顔を上げた。
「初めまして!」
「貴方が噂の良樹さんなんですね!」
良樹は眉を寄せた。
「噂?」
「はい!」
「大型トロルを倒した人ですよね?」
「それに、旧街道の魔物も止めたって」
「あと、変な盤を出す人!」
「最後だけ雑だな」
ニルが慌てて手を振る。
「悪い噂じゃないっすよ」
「良い意味っす」
「いや、変な盤は変な盤っすけど」
「良い意味の変な盤って何だ」
ニルの彼女は、にこにこと笑った。
「でも、みんなそう言ってますよ」
「変な盤を出すけど、ちゃんと助けてくれる人だって」
そこで、彼女は少し身を乗り出した。
「それに、同年代の女の子もみんな言ってるんですよ」
「良樹さん、カッコいいって!」
空気が止まった。
リシアの目が、すっと細くなる。
カレンの肩が跳ねる。
クラリスの微笑みが、少しだけ綺麗になる。
良樹だけが、意味を取り損ねた顔をしていた。
「……何が?」
「何がって、良樹さんがです」
「俺が?」
「はい」
「怖い魔物を倒したから、だけじゃなくて」
「危ないって分かってるのに、人が死ぬ前に動くところが」
「カッコいいって」
良樹は黙った。
彼女は、悪気なく続ける。
「強い人は他にもいますけど」
「ちゃんと怖いって分かってる人の方が、見ていて安心するんです」
その言葉は、ただの噂話ではなかった。
町の若い子たちが、良樹を見ている。
しかも、ただ強い男としてではなく。
怖さを知っていて、それでも動く男として。
リシアは、胸の奥が少しだけざわつくのを感じた。
カレンは、胸元で両手を握った。
クラリスは、穏やかに微笑んでいた。
ただし、目は少しも油断していなかった。
ニルは苦笑した。
「まあ、男連中からは、羨ましい、爆発しろって感じっすけどね」
「結局爆発するのか」
「そこは仕方ないっす」
ニルの彼女が、少しだけ真面目な顔になる。
「爆発はしないでください」
「でも、三人を泣かせたら怒られると思います」
良樹は少しだけ目を伏せた。
「……責任だけ増えていくな」
リシアが即座に言う。
「最初から増やしたのはあんたでしょ」
クラリスも頷いた。
「三人を妻にすると言いましたので」
カレンは真っ赤な顔で俯いた。
「はい……」
ニルの彼女が目を丸くする。
「えっ」
ニルが慌てて手を振った。
「あ、それ本人たちの前では深掘り禁止っす」
「禁止事項が増えたな」
良樹が呟いた。
ニルの彼女は、まだ少し驚いた顔のまま、リシアたち三人を見た。
けれど、すぐに笑った。
「でも、何だか分かります」
「三人とも、良樹さんのこと大事なんですね」
三人の顔が、それぞれに赤くなる。
ニルが隣で慌てた。
「ちょ、あんまり真っ直ぐ言うなって」
「だって、見れば分かるじゃない」
「分かっても言わないやつがあるんだよ」
「そうなの?」
「そうっす」
ニルは照れ隠しのように咳払いをした。
「ま、まあ」
「俺の彼女の方が可愛いっすけど!」
彼女が、ぱっと赤くなる。
「そ、そういうことを急に言わないでよ!」
「いや、言っとかないと」
ニルは照れながら笑った。
カレンは、それを見ていた。
普通の恋人。
町の中で。
隣にいて。
紹介されて。
少しからかわれて。
それでも、自然にそこにいる。
自分たちは、良樹の妻になる未来を目指している。
でも。
そういう普通の恋人らしい時間が、少しだけ眩しく見えた。
◇
ニルとその彼女に別れを告げたあと、四人は街を歩いた。
良樹はいつも通りだった。
「見張り台から町まで、人を走らせるなら途中で一度詰まる」
「高台を一つ挟めば、旗か煙なら届くかもしれねえ」
「ただ、夜と雨が問題だ」
「鐘は距離と風向き次第」
「魔石信号器は、最初は二点間だけに絞って――」
ぶつぶつと、ほとんど独り言のように言う。
いつもの良樹だった。
だが、三人はいつも通りではなかった。
店先で布を選んでいた若い娘が、良樹を見た。
その隣の友人に、何かを小さく囁く。
友人も良樹を見る。
視線が、良樹の顔から、腰袋へ。
それから、良樹の隣にいる三人へ移る。
何でもない視線だったかもしれない。
けれど、ニルの彼女の言葉を聞いた後では、何でもなく見えなかった。
同年代の女の子もみんな、カッコいいって言ってるんですよ。
リシアは、自然を装って良樹の右側へ半歩寄った。
「良樹」
「何だ」
「明日の高台確認、私が見るわ」
「魔力の流れを見るなら、私が一番向いてるでしょ」
「ああ」
「頼む」
良樹は普通に頷いた。
だが、周囲の若い娘たちには、少し違って見えたかもしれない。
名前を呼ぶ距離。
当たり前に頼られる距離。
当たり前に隣へ寄る距離。
リシアは、それに気づいていて、気づいていないふりをした。
カレンは、良樹の少し内側に入った。
人混みではぐれないため。
そう言えるくらいの距離で。
けれど、良樹の袖をほんの少しだけつまんでいた。
きゅっ。
本当に、少しだけ。
良樹が横を見る。
「カレン?」
「……人が、多いので」
「そうか」
「なら内側を歩け。荷車も通る」
「はい」
カレンは小さく頷いた。
袖は、離さなかった。
クラリスは、少し後ろを歩いていた。
ただし離れているわけではない。
三人と良樹をまとめて見られる位置。
若い娘たちの視線も、道の危険も、全員の歩き方も見える位置だった。
「良樹くん」
「何だ」
「戻ったら、今日の疲労も確認しますね」
「工程表の相談で、少し緊張していたようですから」
「そこまで見るのか」
「見ます」
「良樹くんは、ご自分の疲労を軽く見ますので」
「信用がない」
「実績です」
若い娘たちの視線が、また動いた。
良樹くん。
疲労確認。
当たり前に身体を気にする声。
それは、ただの冒険仲間の距離ではなかった。
良樹だけが、それに気づいていなかった。
「……お前ら、近くないか」
「人が多いのよ」
「はぐれると危ないです」
「安全確保です」
「最後だけ理由が違うな」
「「その通り」」
リシアとカレンが、同時に頷いた。
「違わないのか」
「違わないわ」
「違いません」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「良樹くんの安全を確保しています」
「俺の安全なのか」
「はい」
「若い娘の視線から?」
「はい」
「危険扱いするな」
「危険です」
リシアとカレンが、また同時に頷いた。
「「危険です」」
良樹は、少しだけ空を見た。
「……俺は何の現場にいるんだ」
リシアは目を逸らした。
カレンは袖をつまんだまま俯いた。
クラリスは清楚に微笑んだ。
その中で、リシアはもう一つ気づいた。
カレンの手だ。
通りの向こうから若い男たちが歩いてくる。
その時だけ、カレンの両手がそっと後ろへ回る。
スカートの後ろを、押さえるように。
ほんの少し。
目立たないように。
けれど、確かに。
男たちとすれ違う。
視線が通り過ぎる。
すると、カレンの手はまた自然に戻る。
そして、良樹の前を歩く時。
カレンは、押さえなかった。
短い訓練用のスカート。
歩けば、裾はわずかに揺れる。
風が吹けば、布は軽く動く。
それでも、良樹の前では押さえない。
リシアは、目を細めた。
――あの子。
気づいた瞬間、胸の奥が少しだけ鳴った。
カレンは守っているのだ。
良樹に言われたことを。
俺以外の男に見せるな。
その一言を。
カレンは、ちゃんと覚えている。
だから、良樹以外の男がいるところでは押さえる。
でも、良樹の前では押さえない。
良樹なら、いい。
そういうことだ。
リシアは、片手で額を押さえた。
強い。
これは強い。
クラリスも気づいていた。
カレンが、良樹以外の男性の視線がありそうな時だけ、後ろ手にそっと押さえていること。
そして、良樹の前では押さえないこと。
その仕草は、派手な誘いではない。
むしろ逆だ。
隠している。
守っている。
ただし、誰から隠しているのかが問題だった。
良樹くん以外から。
クラリスは、穏やかに微笑んだ。
カレンさん、健気ですね。
そして、少しだけ危険です。
その時、横道から荷車が出てきた。
通りの向こうから、若い男たちが歩いてくる。
カレンは反射的に、両手を後ろへ回していた。
スカートを、そっと押さえる。
良樹以外に見せないように。
その一瞬。
荷台の端が、思ったより外へ振れた。
普段のカレンなら避けられた。
怖い場所を見る。
危ない動きを拾う。
逃げ道を残す。
それはカレンの得意なことだ。
だが、その時のカレンは、後ろ手にスカートを押さえていた。
しかも、気にしていたのは荷車ではなく、反対側から来る男たちの視線だった。
良樹に言われたことを守るために。
だから、反応が一瞬だけ遅れた。
「カレン」
「え?」
良樹の声。
次の瞬間、肩を引かれた。
腰の少し上を支えられる。
身体が、良樹の方へ強く寄せられる。
「っ……!」
荷台の角が、さっきまでカレンのいた場所を通った。
木箱の角が、空気を切る。
良樹の胸元が、すぐ近くにあった。
「大丈夫か」
声が硬い。
完全に、安全確認の声だった。
カレンは、返事をしようとした。
けれど、声が出なかった。
避けられた。
怪我はない。
痛みもない。
だが、良樹の手が肩にある。
腰の少し上にもある。
自分は、良樹の胸元近くに引き寄せられている。
しかも。
後ろ手に押さえていた手は、ほどけていた。
良樹の前でだけ、押さえなくていいはずだった。
なのに今は、良樹に抱き寄せられている。
近い。
近すぎる。
「カレン?」
「あ……はい」
「大丈夫、です」
良樹はカレンの顔を見た。
真っ赤だった。
そこでようやく、自分の手の位置に気づく。
「悪い!」
良樹は慌てて手を離した。
「強く引いた」
「痛めてないか」
「肩とか、腰とか」
カレンは、少しだけ俯いた。
そして、小さく首を振った。
「……悪くないです」
良樹が止まる。
「何が」
カレンは、胸元で両手を握った。
さっきまで後ろでスカートを押さえていた手を、今度は前に持ってくる。
顔は上げられない。
でも、言った。
「その」
「格好良かったです」
空気が止まった。
良樹が固まる。
リシアの足も止まる。
クラリスの微笑みが、静かに深くなる。
通り過ぎようとしていた若い女たちまで、少しだけこちらを見た。
カレンは、言ってから顔をさらに赤くした。
「あ、あの」
「今のは」
「荷車から助けてくれたことが、です」
「変な意味ではなくて」
「いえ、変な意味では、ないんですけど」
「でも、その」
言葉が絡まる。
良樹は、まだ固まっていた。
「……カレン」
「はい」
「それは、俺の処理能力を超える」
「す、すみません……」
「謝ることじゃないが」
良樹は視線を逸らした。
耳が少し赤い。
それを見た瞬間、カレンの胸の奥が、きゅっと鳴った。
リシアは、完全に固まっていた。
良樹に言われたことを守って。
良樹以外の男に見せないようにして。
そのせいで反応が遅れて。
良樹に抱き寄せられて。
最後に、格好良かったです。
これは、強い。
強すぎる。
「カレン」
リシアが低く言った。
「はい」
「今のは強いわ」
「つ、強い、ですか」
「かなり」
クラリスも穏やかに頷く。
「はい」
「良樹くんの言葉を守った結果、良樹くんに助けられ、良樹くんを格好良いと伝える」
「非常に強い流れです」
「せ、説明しないでください……!」
カレンは両手で顔を覆った。
良樹が首を傾げる。
「俺の言葉?」
リシアが、額に手を当てた。
「ああもう」
「健気が強い」
「何がだ」
「分からなくていいわ」
「またそれか」
クラリスが微笑む。
「良樹くん」
「カレンさんは、良樹くんの言いつけをとてもよく守っています」
「言いつけ?」
カレンが真っ赤になって俯いた。
「く、クラリスさん……」
良樹はしばらく考えた。
そして、少しだけ思い出したように目を細める。
「……俺以外の男に見せるな、ってやつか」
カレンの肩が跳ねた。
リシアが目を閉じる。
「あ、気づいた」
クラリスは口元に手を添えた。
「気づかれましたね」
カレンはもう完全に真っ赤だった。
「わ、私は」
「その」
「言われたので……」
良樹は、少しだけ黙った。
それから、真面目な顔で言った。
「守ってたのか」
「……はい」
「そうか」
良樹は、そこで一度だけ視線を逸らした。
「悪い」
「ありがとな」
カレンは、顔を上げた。
良樹は耳を赤くしたまま、街道の方を見ている。
カレンの胸の奥が、もう一度鳴った。
「……はい」
小さく答える。
リシアが、深く息を吐いた。
「カレン、今日は本当に強いわ」
「強くないです……」
「強いです」
クラリスも頷く。
良樹だけが、よく分からない顔をしていた。
「荷車を避けただけだろ」
三人は同時に良樹を見た。
「「「そういうところです」」」
「何がだ」
◇
その後、良樹は自然に道の外側を歩くようになった。
荷車が通る側。
横道から人が出てくる側。
木箱や樽が積まれている側。
そこに自分が立ち、カレンを内側へ入れる。
「次から、道の外側は俺が歩く」
「荷車が出てくる側にカレンを置くのは危ない」
「外側……」
「お前は内側を歩け」
カレンの指が、胸元で止まった。
内側。
良樹さんの内側。
その言葉が、さっきの「格好良かったです」よりも、自分の胸に残った。
「……はい」
カレンは、小さく頷いた。
「内側を、歩きます」
リシアが小さく呟く。
「また強い言葉を拾ったわね」
クラリスが頷く。
「カレンさんは、今日は強いですね」
「つ、強くないです……」
「強いわよ」
「強いです」
良樹は、相変わらずよく分からない顔をしていた。
ただ、歩く位置だけは変えなかった。
外側に良樹。
その内側にカレン。
反対側にリシア。
少し後ろにクラリス。
四人は、そのまま拠点へ向かって歩く。
良樹の頭の中は、もう次の現場に戻り始めていた。
見張り台。
旧街道。
高台。
中継点。
雨。
夜。
鐘。
旗。
煙。
魔石信号器。
人が走らなくても、危険を届けられる仕組み。
人が死ぬ前に、知らせる仕組み。
良樹は、歩きながら小さく呟いた。
「まずは、現場を見ないとな」
リシアが横目で見る。
「明日?」
「ああ」
「見張り台から町まで、実際に歩く」
「距離」
「見通し」
「途中の危険」
「中継できそうな高台」
「全部見る」
カレンは、良樹の内側を歩きながら頷いた。
「怖い場所を、見ます」
クラリスも静かに続ける。
「壊れる前に、見ましょう」
リシアは、少しだけ空を見上げた。
「魔力の流れを見るなら、高い場所も要るわね」
良樹が頷く。
「頼む」
「そこはリシアが一番見える」
リシアの頬が、ほんの少し赤くなる。
「任せなさい」
四人の前に、旧街道へ続く道が伸びていた。
英雄への道は、紙の上に線を引くだけでは進まない。
現場へ行き。
見て。
測って。
危ない場所を洗い出し。
人が死ぬ前に、知らせる方法を考える。
良樹は、工程表を入れた腰袋に手を添えた。
次に書くのは、理想ではない。
現場の距離と。
逃げ道と。
連絡の遅れと。
そして、声が届かない場所へ危険を届けるための、最初の線だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
英雄になる、という言葉が、ただの勢いや願望ではなく、少しずつ工程になってきました。
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