第34話 恋は診断できない(挿絵有)
良樹は寝坊した。
朝食の準備が終わる頃になっても、二階から降りてこない。
台所には、焼いたパンの匂いと、温め直したスープの湯気があった。
皿が並び、匙が置かれ、カップに水が注がれる。
リシアは、階段の方を一度見た。
「……まだ寝てるわね」
「はい」
カレンが、小さく頷いた。
「昨日も、遅くまで作業場にいました」
クラリスは、皿を並べながら静かに言った。
「端子台通話の整理をしていました」
「三系統供給の負荷配分も」
「それから、次に受ける依頼の候補も」
「見てたの?」
リシアが聞く。
クラリスは、何でもないことのように頷いた。
「はい」
「良樹くんが、自分の身体を見ていませんでしたので」
リシアは、少しだけ苦笑した。
「そこは見るのね」
「見ます」
即答だった。
「良樹くんは、ご自分のことになると信用できません」
「実績、ですね」
カレンが小さく言う。
「はい。実績です」
三人は、少しだけ笑った。
けれど、階段の方を見る目は、責めるものではなかった。
良樹が何のために夜更かしをしているのか。
三人は、もう分かっている。
端子台通話。
魔導盤。
索敵。
配分。
戦闘中の声。
次の依頼。
功績の積み重ね。
それらは全部、ただの技術ではない。
良樹が英雄になるための段取りだ。
そして。
三人を、正式に妻にするための段取りだった。
「怒る気には、ならないわね」
リシアが、小さく言った。
「怒りたい理由はあるけど」
「ありますね」
クラリスが頷く。
「睡眠は大切です」
「でも」
カレンは、階段の方を見たまま言った。
「良樹さんは、言ったことを本当にしようとしているんですよね」
三人は、少し黙った。
英雄になる。
三人を嫁にもらう。
俺を英雄にしてくれ。
あの日の言葉は、勢いでは終わらなかった。
良樹はその次の日から、本当に動き始めた。
条件を聞き。
依頼を見て。
危険を確認し。
大型トロルを止め。
生活圏へ流れる魔物を止め。
そして今も、次の一歩を考えている。
「……そうね」
リシアは、少しだけ頬を赤くした。
「あいつ、本当にやる気なのよね」
「はい」
カレンは、柔らかく笑った。
「私たちを、お嫁さんにするために」
口にしてから、自分で赤くなる。
クラリスは、湯気の立つ椀を静かに置いた。
「でしたら」
いつもの、穏やかな声だった。
「良樹くんの、英雄の妻たるなら」
「支えるのが、私たちの使命です」
リシアとカレンの手が止まった。
「……」
「……」
二人は、ゆっくりクラリスを見た。
クラリスは、何かおかしなことを言ったでしょうか、という顔で首を傾げる。
「どうかしましたか?」
リシアが、少し引きつった笑みを浮かべた。
「……それは言えるんだ」
カレンも、真っ赤になりながら小さく頷いた。
「す、すごいです」
「そこは、言えるんですね……」
クラリスは、穏やかに微笑んだ。
「はい」
「事実ですので」
「事実」
リシアが額に手を当てる。
「そこを事実として扱えるのが強いのよ」
クラリスは、不思議そうに瞬きをした。
「リシア」
「何?」
「良樹くんの妻に、ならないのですか?」
「なるわよ!」
反射だった。
リシアは叫んでから、自分で固まった。
耳まで赤くなる。
カレンも肩を跳ねさせた。
クラリスは、にこりと微笑む。
「では、事実です」
「……そういうところよ」
リシアは顔を赤くしてそっぽを向いた。
カレンは胸元で両手を握り、消えそうな声で言った。
「私も……なります」
「はい」
クラリスは、今度はカレンへ微笑んだ。
「では、三人で支えましょう」
カレンは赤い顔のまま、こくりと頷いた。
「はい」
「三人で」
そこまでは、クラリスは平然としていた。
良樹くんの妻になる。
英雄の妻として支える。
良樹くんのために戦う。
良樹くんを守る。
そういう、大きな覚悟の話なら、クラリスは言える。
清楚に。
自然に。
まるで、朝食の皿を並べるのと同じくらい当然のこととして。
だが。
クラリスは、食器を運ぶ途中で、壁に掛けられた小さな鏡の前を通った。
一度、通り過ぎる。
戻る。
鏡を見る。
淡い金の髪を、指先で少し整える。
法衣の襟元を直す。
袖の皺を払う。
胸元を確認する。
それから、何事もなかったように皿を運ぶ。
少しして、また鏡の前を通る。
また、止まる。
髪を直す。
服を整える。
少しだけ横を向き、乱れがないか確認する。
リシアとカレンは、それを見ていた。
見ていたが、クラリスは気づいていない。
「……可愛い」
「……可愛いです」
二人の声が、綺麗に重なった。
クラリスは皿を置きながら、穏やかに首を傾げた。
「何か言いましたか?」
リシアは軽く咳払いした。
「何でもないわ」
カレンも、少し笑いをこらえながら首を振る。
「はい。何でもありません」
「そうですか」
クラリスは微笑んだ。
そして、何事もなかったように、また鏡の前を通った。
止まった。
髪を直した。
リシアとカレンは、もう一度顔を見合わせた。
「……可愛い」
「……可愛いです」
クラリスは気づかない。
自分が何をしているのか、まだ分かっていなかった。
怪我人を見る時の準備ではない。
戦う前の確認でもない。
治療具を整える感覚でもない。
ただ、良樹くんが起きてくる前に。
髪が乱れていない方がいい。
襟元が曲がっていない方がいい。
袖が変に寄っていない方がいい。
そう思っただけだった。
それだけだった。
だから、クラリスは気づいていない。
それがもう、十分に乙女の動きであることに。
「クラリス」
「はい?」
カレンが、少しだけ照れた顔で声をかけた。
「その……気持ち、分かります」
クラリスの手が止まった。
「……気持ち、ですか?」
「はい」
カレンは胸元で両手を握った。
「見られたいわけでは、ないんです」
「でも」
「見られるなら、ちゃんとしていたいんです」
クラリスは、瞬きをした。
一度。
二度。
それから、自分の手元を見た。
整えた髪。
直した襟元。
払った袖。
ようやく、自分が何をしていたのかに気づいたように。
頬が、ゆっくり赤くなる。
「……私は」
クラリスは、小さく口を開いた。
「ただ、身だしなみを」
「はい」
カレンは、こくりと頷いた。
「身だしなみです」
リシアが横で小さく吹き出しかける。
だが、昨日決めたことを思い出したのか、必死にこらえた。
茶化しすぎない。
乙女クラリスは、成長として扱う。
リシアは、片手で口元を押さえた。
クラリスは、赤くなった顔でカレンを見る。
「……カレン」
「はい」
「その言い方は」
「少し、強いです」
「す、すみません……!」
カレンが慌てて頭を下げる。
リシアは、もう限界だった。
「……可愛い」
「リシア」
「ごめん。今のは無理」
リシアは肩を震わせながら言った。
クラリスは赤い顔のまま、少しだけ視線を落とす。
「……困りました」
「何が?」
「身だしなみの確認だと思っていたのですが」
「お二人に言われると」
「少し、違うものに思えてきます」
「違うもの、というか」
カレンは、胸元で両手を握った。
「たぶん、同じものだと思います」
「同じもの?」
「はい」
「私も、前に似たようなことをしました」
「リシアも、たぶん」
「そこで私を見るのね」
「見ます」
カレンが小さく笑った。
リシアは肩をすくめた。
「まあ、否定はしないわ」
そして、少しだけ照れくさそうに続ける。
「私も前に、良樹の視界に、ちゃんと女の子として入るにはどうしたらいいかって」
「そういうこと、考えたし」
「リシアも、ですか?」
「……悪い?」
「いいえ」
クラリスは、赤みの残る顔で少しだけ微笑んだ。
「少し、安心しました」
リシアは、ふっと息を吐いた。
「形は違うけど」
「たぶん、同じなのよ」
リシアは、指を一本立てる。
「私は、良樹の視界にちゃんと入りたかった」
「カレンは、見られるならちゃんとしていたかった」
「クラリスは、良樹が起きてくる前に髪を直してる」
クラリスの肩が、ぴくりと動いた。
「……私は、身だしなみを」
「ええ」
「身だしなみね」
リシアは笑った。
「でも、誰に見られる身だしなみなのかしら」
クラリスは、言葉を失った。
カレンが、優しく言う。
「クラリス」
「たぶん、恥ずかしいことではないと思います」
「……そうでしょうか」
「はい」
「私も、そうでした」
カレンは胸元で両手を握る。
「見られたいわけではなくて」
「でも、見られるなら、ちゃんとしていたくて」
「それを自分でも、うまく説明できませんでした」
クラリスは、赤くなった顔でカレンを見る。
「カレンも」
「はい」
リシアが肩をすくめる。
「私もよ」
クラリスは、二人を見る。
リシア。
カレン。
二人とも、少しだけ赤い。
けれど、笑っていた。
からかっているのではない。
呆れているだけでもない。
同じ場所を通った者として、見ている。
「……形は違っても」
クラリスは、小さく言った。
「同じ、なのですね」
「ええ」
リシアが頷いた。
「同じ」
「はい」
カレンも頷く。
「同じです」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
「不思議ですね」
「何が?」
「恋敵、という言葉だけなら」
「もっと、張り合うものだと思っていました」
リシアは少し笑った。
「張り合ってるわよ」
「はい」
カレンも小さく頷く。
「張り合っています」
「ですが」
クラリスは、赤みの残る顔で微笑んだ。
「こうして、同じ気持ちを話せるのは」
「少し、楽しいです」
リシアとカレンが、一瞬だけ黙る。
それから、リシアがふっと笑った。
「……そうね」
「なんか、楽しいわ」
カレンも、柔らかく笑う。
「はい」
「三人で、こういうことを言える関係になれて」
「良かったです」
クラリスは、ほっとしたように微笑んだ。
「私もです」
「少し恥ずかしいですが」
「一人で分からないまま抱えているより、ずっと良いです」
「でしょ」
リシアは笑った。
「恋敵ではあるけど」
「それだけじゃないもの」
カレンが、小さく頷く。
「はい」
「一緒に、良樹さんの隣に行く人たちです」
クラリスは、少しだけ目を伏せる。
「そして」
「一緒に、良樹くんを困らせる人たちですね」
「そこは否定しなさいよ」
「否定できる材料がありません」
「……それはそうね」
三人は、顔を見合わせた。
そして、小さく笑った。
その時、二階から床板の軋む音がした。
三人は、同時に顔を上げた。
良樹が起きてくる。
クラリスは反射的に、もう一度髪へ手を伸ばした。
リシアとカレンは、それを見た。
見たが、今度は笑わなかった。
ただ、二人とも少しだけ優しい顔をした。
「大丈夫」
リシアが言う。
「十分、可愛いわ」
「はい」
カレンも頷いた。
「十分です」
クラリスは、耳まで赤くなった。
「……少し待ってください」
「まだ何も起きてないわよ」
「もう、少し起きています」
その直後、扉が開いた。
寝不足の良樹が、少しぼさっとした顔で顔を出す。
「……おはよう」
三人は、同時に振り返った。
「「「おはよう」」」
良樹は、数秒だけ固まった。
リシアの顔が赤い。
カレンの顔も赤い。
クラリスは、何故か耳まで赤い。
朝食の匂い。
並べられた皿。
湯気の立つ椀。
整えられた卓。
どう見ても、朝食前だ。
だが、空気だけがおかしい。
「……何かあったか」
「何もないわ」
「何もありません」
「身だしなみの確認をしていました」
「そうか」
良樹は頷いた。
頷いてから、眉を寄せた。
「……身だしなみの確認で、何で全員顔が赤いんだ」
三人は、何も答えなかった。
◇
「……寝坊したか」
良樹が言うと、リシアは椀を置きながら答えた。
「したわね」
責める声ではなかった。
「悪い」
「怒ってないわよ」
良樹は少し眉を寄せた。
「怒ってないのか」
「怒る理由はあるけど」
「怒らない理由もあるから」
「何だそれ」
カレンが、おずおずと椅子を引く。
「朝食、できています」
「まず、食べてください」
「いや、先に昨日のメモを――」
「良樹くん」
クラリスの声が静かに入った。
「座ってください」
「……はい」
良樹は座った。
逆らえなかった。
クラリスは良樹の顔を見る。
目の下。
肌色。
呼吸。
肩の落ち方。
指先の動き。
「睡眠不足です」
「ですが、今すぐ倒れるほどではありません」
「食事後、追加で休んでください」
「診断が早いな」
「見ていますので」
「俺は患者か」
「今は、少し」
「少しなのか」
「少しです」
「ただし、放置すると大きくなります」
良樹は黙った。
リシアが湯気の立つ皿を置く。
「ほら、食べなさい」
「英雄になる前に倒れたら、三人とも嫁にできないわよ」
良樹は動きを止めた。
その言い方は強かった。
かなり強かった。
「……それを言われると弱い」
「知ってる」
リシアは少し笑った。
「だから言ったの」
カレンが水を差し出す。
「無理をしているかどうかは、ちゃんと言ってください」
「してない」
三人が同時に良樹を見た。
「……少ししてる」
「はい」
クラリスが頷く。
「その答えなら信用します」
良樹は、木の匙を手に取った。
「……朝から包囲されてるな」
「良樹が寝坊したからよ」
「怒ってないんじゃなかったのか」
「怒ってないわ」
「管理してるだけ」
「管理されてるのか、俺は」
カレンが小さく笑う。
「安全管理です」
良樹は、深く息を吐いた。
「またそれか」
「実績です」
クラリスは、穏やかに微笑んだ。
良樹は反論しようとして、やめた。
勝てない。
朝食は、温かかった。
焼いたパン。
薄いスープ。
少し塩気のある肉。
煮込んだ豆。
水。
特別なものではない。
だが、寝不足の身体にはやけに染みた。
良樹が黙って食べ始めると、三人は少しだけ安心したように息を吐いた。
その様子を見て、良樹は匙を止める。
「……本当に怒ってないんだな」
リシアは、少しだけ視線を逸らした。
「怒ってないわけじゃないわよ」
「身体を壊すようなことをしたら怒る」
「はい」
カレンも頷いた。
「でも、良樹さんが何のために夜更かししているのかは」
「分かっています」
クラリスも静かに続ける。
「端子台も、魔導盤も、次の依頼の確認も」
「全部、私たちとの未来を言葉だけで終わらせないためですよね」
良樹は、少しだけ視線を逸らした。
「……まあ」
「そうだな」
三人は、黙って良樹を見た。
責める目ではない。
笑う目でもない。
受け取る目だった。
良樹は、もう一口スープを飲んだ。
「だから、倒れない程度にやる」
「程度を自分で決めないで」
リシアが即座に言う。
「そうです」
カレンも言う。
「良樹くんは、ご自分の程度判定が甘いです」
クラリスも言う。
良樹は三人を見た。
「……そこまでか」
「そこまでよ」
「そこまでです」
「そこまでです」
「分かった」
「善処する」
三人が同時に目を細めた。
「……努力する」
まだ見てくる。
「……相談する」
三人は、ようやく頷いた。
「最初からそう言いなさい」
「はい」
「良いと思います」
良樹は、匙を持ったまま呟いた。
「英雄になる前に、家庭内安全審査が厳しいな」
「家庭内」
カレンが真っ赤になった。
「今のは、良樹から言ったわね」
リシアも赤くなりながら言う。
クラリスは、微笑んだ。
「事実ですので」
「それは言えるんだよな、お前」
「はい」
クラリスは、当然のように頷いた。
だが、良樹が何気なくクラリスを見ると、クラリスは少しだけ視線を落とした。
「……どうした」
「いえ」
「今、良樹くんに見られた気がしまして」
「見たが」
「少し待ってください」
「だから何をだ」
リシアとカレンは、顔を見合わせた。
乙女クラリスは、朝から忙しかった。
◇
朝食の後。
良樹は、作業場の試験台に紙を広げた。
昨夜、書き散らしたものだ。
端子台通話。
三系統供給。
端子台通話の短文ルール。
強感情時の絞り。
次の依頼候補。
大型魔物への対応。
生活圏防衛。
救助。
技術化。
そして、一番上に大きく書かれていた文字。
英雄への道。
リシアが、その文字を見て腕を組む。
「朝から重いわね」
「昨日の夜から重い」
「でしょうね」
カレンは、少し真剣な顔で紙を見ている。
「英雄に、なるための整理ですか」
「ああ」
良樹は頷いた。
「ガレスから聞いた道は、大きく三つだった」
良樹は紙に三つの項目を書いた。
一、武功。
二、救助・防衛。
三、技術・仕組み。
「英雄になる実績として一番分かりやすいのは、討伐だ」
「大型魔物を倒した」
「危険個体を排除した」
「これは誰にでも分かる」
リシアが頷く。
「大型トロルみたいなものね」
「ああ」
良樹は次の項目を指す。
「次が救助と防衛」
「人を守った」
「街道を守った」
「農家を守った」
「魔物の流入を止めた」
「これは、俺たちの本命に近い」
「本命」
カレンが小さく繰り返した。
「強い魔物を探しに行くより」
「危ない場所に間に合う方が、良樹さんらしい気がします」
「俺らしいか」
「はい」
「怖い場所を、怖いまま見て」
「人が死ぬ前に止める方が」
良樹は、少しだけ黙った。
そして頷く。
「そうだな」
「俺も、そっちの方が近いと思ってる」
クラリスが、静かに言う。
「怪我人を治すより」
「怪我人を出さない方が良い、ということですね」
「そうだ」
「治療が要らないのが一番いい」
「僧侶の仕事を奪う発言ですね」
「悪い」
「いいえ」
クラリスは微笑んだ。
「理想的です」
良樹は、三つ目の項目を見る。
「問題は、技術だ」
リシアが首を傾げた。
「問題?」
「ああ」
「技術で英雄、は今は弱い」
「弱いの?」
「弱い」
良樹は即答した。
「俺の魔導盤は、まだ俺しか使えねえ」
「俺が出して、俺が読んで、俺が止めてる」
「それは技術というより、個人技能だ」
「個人技能……」
「一回できた、は信用しない」
「俺だからできた、も信用しない」
「たまたま上手くいった、なんて一番信用しない」
良樹は紙を指で叩いた。
「現場で使うなら」
「誰が使う」
「どこで使う」
「何を見て止める」
「壊れたらどうする」
「間違えた時にどこまで被害が出る」
「そこまで考える」
リシアは、少しだけ呆れたように息を吐く。
「英雄になる話をしているのに、良樹は本当に良樹ね」
「何だそれ」
「普通なら、俺また何かやっちゃいました、で済ませるところじゃない?」
「済むか」
良樹は即答した。
「俺また何かやっちゃいました、で設備を現場に入れたら事故る」
「設備?」
「こっちの話だ」
「とにかく、驚かれるかどうかは関係ねえ」
「使えるかどうかだ」
クラリスは、少し考えるように目を伏せた。
「一度治せたからといって」
「同じ怪我を誰でも治せるとは限りません」
「治療手順にするには、観察と記録と訓練が必要です」
「そういうことだ」
良樹は頷いた。
「一回できた、は技術じゃねえ」
「何度でも、安全にできて」
「他人に渡せる形になって」
「初めて技術だ」
カレンは、小さく頷いた。
「私も」
「一度避けられたからといって、次も避けられるとは思いません」
「ああ」
「だから、何度も練習します」
「怖い場所を、何度も見ます」
「それも技術だ」
カレンの顔が、少しだけ明るくなる。
良樹は、紙の端に新しく線を引いた。
「それに」
少し間を置く。
「俺は、部品を作る人間じゃねえ」
「部品?」
リシアが首を傾げる。
「ああ」
「俺の世界での仕事は、部品を組むことだった」
「センサー」
「モーター」
「ブレーカー」
「リレー」
「インバータ」
「端子台」
「そういうものを選んで、繋いで、動かして、止める」
「部品を作っていたわけじゃないの?」
「作ってない」
「少なくとも、俺の本職はそこじゃない」
良樹は続けた。
「良い部品を作る奴は別にいる」
「俺は、それを現場で使える形にする」
「どこに置くか」
「どう繋ぐか」
「どこで止めるか」
「壊れた時にどう分かるか」
「誰が見ても追えるようにするか」
「そういう仕事だ」
リシアは、少しだけ目を細めた。
「つまり」
「良樹は魔法そのものを作るんじゃなくて」
「私たちの魔法や力を、使える形に組むのね」
「そうだ」
良樹は頷く。
「リシアの魔法」
「カレンの剣」
「クラリスの診る力」
「ガレスの情報」
「ギルドの記録」
「地形」
「逃げ道」
「信号」
「全部、役割になる」
「人まで部品扱い?」
リシアが少し目を細める。
「そこは言い方が悪い」
「だから、役割と言い換える」
「今さらね」
「自覚はある」
クラリスが、静かに微笑んだ。
「ですが、分かります」
「治療でも同じです」
「薬草そのものを作る者」
「包帯を織る者」
「道具を作る者」
「そして、それを組み合わせて治療する者がいます」
「近いな」
「良樹くんは、戦場や町の危険に対して」
「治療の前段階を組む人なのですね」
「怪我する前の治療か」
「はい」
「予防です」
良樹は、少しだけ紙を見る。
予防。
悪くない言葉だった。
怪我をしたら治す。
壊れたら直す。
それも大事だ。
だが、一番いいのは、壊れないことだ。
怪我をしないことだ。
死なないことだ。
「俺たちは、強い魔物を探して倒しに行くパーティじゃない」
良樹は、そう言った。
リシアが見る。
「じゃあ、何なの?」
良樹は、三人を見る。
「人が死ぬ前に止めるパーティだ」
作業場が、少し静かになった。
カレンは、胸元で手を握った。
リシアは、ふっと息を吐く。
クラリスは、穏やかに目を伏せた。
「討伐は結果」
「防衛は目的」
「技術は、それを繰り返すための手段」
クラリスが言った。
「そういうことですね」
「かなり近い」
良樹は頷いた。
「英雄になるための点数は討伐や防衛で稼ぐ」
「でも、俺たちらしい勝ち方を作るのは技術と運用」
「そういうことね」
リシアが言う。
「そうだ」
「地味ね」
「地味だな」
「でも、良樹っぽいわ」
「褒めてるのか」
「半分くらい」
「残り半分は何だ」
「好き」
良樹の手が止まった。
「……それは半分に入れるな」
「入れるわよ」
リシアはそっぽを向いた。
耳が赤い。
カレンは真っ赤になって俯き、クラリスはにこりと微笑んだ。
「今のは恋愛発言ですか?」
「戦闘中じゃないからいいでしょ」
「はい」
「記録しておきます」
「しなくていいわよ」
良樹は咳払いした。
「話を戻すぞ」
「戻したいのは良樹でしょ」
「戻す」
良樹は紙へ視線を落とした。
「技術ルートは今は弱い」
「ただし、完全に無理ってわけでもない」
リシアが反応する。
「どういうこと?」
「端子台通話だ」
三人の表情が変わる。
昨日、全員で検証したもの。
声が返る盤。
短文指示。
感情混線。
恋愛事故。
良樹は、その項目を指した。
「端子台通話を、そのまま再現するのは無理だ」
「俺の盤を経由してるから成立してる部分が大きい」
「三人の魔力の癖も、俺が知ってる」
「混線したら俺が整理してる」
「では、無理なのですか?」
クラリスが聞く。
「全部は無理だ」
「でも、一部ならいけるかもしれねえ」
「一部?」
「ああ」
「短い言葉を送る」
「危険、敵、右、下がれ、負傷、撤退」
「その程度の信号に絞る」
リシアが目を細めた。
「通話というより、信号ね」
「そうだ」
「俺の世界で言うなら、トランシーバというより」
「最初は警報器に近い」
「とらん……?」
「気にするな」
「要するに、大声を出さずに、短い危険を伝える道具だ」
カレンが、はっと顔を上げた。
「それがあれば」
「離れた場所でも、危険を知らせられますか?」
「完成すればな」
「街道や、農家でも」
「ああ」
「見張り台」
「農家」
「ギルド」
「採石場」
「水路」
「声が届かない場所で、短い危険信号を送れるなら価値はある」
リシアは、紙に書かれた端子台通話の図を見た。
「良樹の端子台通話は」
「魔力をそのまま渡しているんじゃなくて」
「言葉に近い形へ整えた魔力の揺れを、相手側に返しているのよね」
「たぶんな」
「なら、同調した魔石に同じ揺れ方をさせれば」
「短い合図くらいなら送れるかもしれないわ」
良樹が、リシアを見る。
「できるのか?」
「分からない」
リシアは即答した。
「でも、理屈は見える」
良樹は、少しだけ黙った。
リシアは、良樹の理屈を魔法側へ翻訳できる。
端子台。
インバータ。
ブレーカー。
スキャナー。
信号。
混線。
良樹の世界の言葉を、そのままこの世界に置くことはできない。
だが、リシアはそれを魔法として受け取り直せる。
良樹だけでは技術にならない。
リシアだけでも、ただの天才魔法になる。
二人が繋げば、少しだけ別のものになる。
「俺一人じゃ技術にはならねえ」
「俺が見て、俺が組んで、俺が止めるだけなら、それは俺の個人技能だ」
良樹は、リシアを見る。
「でも」
「リシアが魔法として説明できるなら」
「カレンが前衛として使えるなら」
「クラリスが負荷を見て、壊れる前に止められるなら」
紙の上に、線を一本引く。
「それは、少しだけ技術に近づく」
リシアは、少しだけ笑った。
「少しだけ?」
「少しだけだ」
「でも、ゼロじゃない」
カレンは、胸元で手を握った。
「一例がないと」
「誰も信じられません」
「そうだな」
「でも、私たちはもう信じています」
良樹は、何も言えなかった。
クラリスが、静かに続ける。
「良樹くんの技術は、良樹くんだけでは広がりません」
「ですが」
「リシアが魔法として説明し」
「カレンが前衛として使い」
「私が身体への負荷を見れば」
「少なくとも、四人で使う手順にはできます」
「世の中を変えるには足りねえな」
「はい」
「ですが、最初の一例にはなります」
良樹は、紙の端に段階を書いた。
一、四人の端子台通話を安定させる。
二、短文信号だけを切り出す。
三、魔石で同じ揺れを再現できるか試す。
四、登録した二点間だけで送受信する。
五、緊急停止を作る。
六、第三者に試させる。
リシアが、半眼になる。
「英雄になる話をしているのに、試作手順になってるわよ」
「段取りなしに技術は出せねえ」
「本当に良樹ね」
「良い意味か?」
「半分くらい」
「残り半分は」
「面倒くさい」
「だろうな」
カレンが、小さく笑った。
「でも」
「良樹さんらしいです」
「そうか」
「はい」
「私は、その方が安心します」
クラリスも頷く。
「はい」
「いきなり完成したと言われるより、ずっと信用できます」
「それはそれで複雑だな」
「実績です」
「またそれか」
良樹は、紙を眺めた。
武功。
救助・防衛。
技術・仕組み。
単独ではない。
重ねる。
討伐で名を上げる。
防衛で信用を積む。
救助で感謝を残す。
技術で、それを再現可能に近づける。
ただし、順番を間違えない。
強敵を探しに行くのではない。
人が死ぬ前に、危険へ間に合う。
良樹は、紙の下に四人の役割を書いた。
「リシアは、広域索敵と魔法側の翻訳」
「上から見て、信号を返す」
「それと、俺の理屈を魔法に近づける役」
リシアが少し赤くなる。
「……それ、私のことかなり買ってない?」
「他にできる奴がいるのか」
「そういうところよ、良樹」
「何がだ」
「分からなくていいわよ」
良樹は、次にカレンを見る。
「カレンは、怖い場所を見る役」
「前で危険を拾う」
「戻る場所を残す」
「俺の盤じゃ拾えない、人の感覚の危険を見る」
カレンは、少しだけ目を見開いた。
「私の、怖い、が」
「ああ」
「情報になる」
カレンは、胸元で両手を握った。
「それなら」
「私は、ちゃんと怖がります」
「怖がるなとは言わねえ」
「怖い場所を見てくれ」
「はい」
カレンの返事は、小さいが、逃げていなかった。
良樹は、次にクラリスを見る。
「クラリスは、壊れる前に見る役」
「三人の負荷」
「怪我」
「無理」
「あと、俺も含めて」
「俺は含めなくていい」
「含めます」
即答だった。
「良樹くんは、ご自分のことになると本当に信用できませんので」
「そこまで言うか」
「実績です」
良樹は負けた。
「分かった」
「俺も含める」
「はい」
クラリスは満足そうに頷いた。
「俺は、組む」
「見るものを整理する」
「連絡を整理する」
「止める条件を作る」
「必要なら撃つ」
「撃った後、ちゃんと畳む」
そう書いたところで、リシアが筆を取った。
「夜更かししすぎない」
「おい」
カレンも頷く。
「それも役割です」
クラリスも微笑む。
「良樹くんの禁止事項です」
「そこに入れるな」
「入れます」
「入れます」
「入れます」
「……三人で言うな」
良樹は紙を見た。
英雄への道。
四人の役割。
端子台通話。
魔石信号器の可能性。
夜更かし禁止。
最後だけ妙に生活感があった。
良樹は、筆を持ったまま少し迷う。
そして、紙の一番上に、改めて題を書いた。
英雄への道。
その下に、目的欄を作る。
筆が止まる。
三人が見ている。
リシア。
カレン。
クラリス。
良樹は、小さく息を吐いた。
そして書いた。
三人を、正式に妻にするため。
書いた瞬間、作業場の空気が止まった。
リシアの顔が赤くなる。
カレンは俯いた。
クラリスは、すっと微笑んだ。
「事実ですので」
リシアとカレンが、同時にクラリスを見る。
「……それは言えるのよね」
「すごいです……」
「はい」
クラリスは当然のように頷いた。
だが。
クラリスは、紙に書かれた文字を見た。
三人を、正式に妻にするため。
良樹くんが書いた文字。
良樹くんの手で書かれた目的。
自分たちを妻にするため、という言葉。
それを、リシアも見ている。
カレンも見ている。
自分も見ている。
愛としては言える。
使命としては言える。
英雄の妻として支える、なら言える。
けれど。
良樹くんが、自分を妻にするためと書いた。
それを見た瞬間、クラリスの頬がゆっくり赤くなった。
「……少し」
クラリスが、小さく言った。
「少しだけ、待ってください」
良樹は顔を上げる。
「自分で事実だって言っただろ」
「言いました」
「言いましたが」
「書かれると、また違います」
「違うのか」
「違います」
リシアとカレンが、同時に頷いた。
「違うわ」
「違います」
良樹は、紙を見る。
「……英雄工程表の話だよな?」
「違うわ」
「違います」
「少し違います」
「分からん」
クラリスは、自分の胸元に手を当てた。
「身体反応としては」
「心拍上昇」
「顔面の熱」
「呼吸の乱れ」
「指先の震え」
「膝の力の低下」
「分析するのか」
「はい」
クラリスは真面目だった。
「ただし、損傷はありません」
「痛みもありません」
「魔力の乱れも軽微です」
「治療対象でもありません」
良樹は眉を寄せた。
「じゃあ何だ」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
「……分かりません」
リシアが、優しく言った。
「恋よ」
カレンも、小さく頷く。
「恋です」
クラリスは、赤い顔で二人を見る。
それから、少しだけ笑った。
「恋は」
「診断できないのですね」
作業場に、少しだけ静かな空気が流れた。
良樹は、紙を見る。
英雄への道。
恋は診断できない。
けれど、危険は分解できる。
役割は組める。
声は信号にできるかもしれない。
三人の声を聞き。
三人の力を組み。
三人と一緒に生きて帰るための仕組みを、一つずつ作る。
それなら、少しだけ進める気がした。
良樹は、工程表の端に小さく書いた。
乙女クラリス。
要、段階的慣らし運転。
書いてから、筆が止まる。
「……人に書く言葉じゃねえな」
それでも、消さなかった。
クラリスが覗き込む。
「良樹くん」
「何だ」
「段階的慣らし運転とは、どういう意味ですか」
「……安全確認だ」
「私に対する、ですか?」
「たぶん」
クラリスの顔が、また赤くなる。
「……少し待ってください」
「またか」
「はい」
「今のも、少し強いです」
リシアとカレンは、同時に笑った。
良樹は、天井を見た。
「……俺、今日まだ何もしてなくないか」
天井は答えなかった。
ただ、試験台の上には、確かに紙があった。
英雄への道。
その下に書かれた目的。
三人を、正式に妻にするため。
良樹は、それを見てもう一度息を吐いた。
「……まずは、寝不足対策からか」
三人が、同時に頷いた。
「「「はい」」」
「そこだけ息を合わせるな」
だが、三人は笑っていた。
恋は診断できない。
それでも。
その診断できないものを抱えたまま、四人は少しずつ、英雄への道を工程表にしていく。
実に、色気のない英雄譚だった。
けれど良樹には、たぶんそれくらいがちょうどよかった。




