第33話 端子台の声(挿絵有)
大型トロルの一件から、数日が過ぎた。
大きな戦闘はなかった。
ただ、仕事はあった。
旧街道沿いの農家へ行き、壊れた柵の場所を確認する。
トロルが通った跡を見て、次に魔物が流れ込むならどこかを考える。
家畜小屋の入口。
畑の端。
旧街道へ抜ける細い道。
人が逃げるなら、どこを通るか。
逃げ遅れるなら、どこで詰まるか。
そういう、派手ではない確認をした。
そして前回、流れてきた小型魔物の群れを止めた。
灰牙狼。
コボルド。
十数体。
大型トロルを倒した後に、そこで終わりにしなかった。
人の生活圏へ流れてきた小物を、人が死ぬ前に止めた。
ガレスは、それを評価した。
派手ではない。
だが、こういう仕事が一番効く。
そう言った。
良樹は、それを作業場で思い返していた。
試験台の上には、紙が広げられている。
紙、と言っても、良樹の世界のノートほど上等なものではない。
少し粗い羊皮紙に、簡単な図と文字が並んでいる。
スキャナー三基。
平面索敵。
リシア高所索敵。
信号弾。
蒸気ランチャー。
風遮膜による余波制御。
三系統端子台供給。
個別インバータ。
共通ブレーカー。
カレン。
剣への魔力纏い。
刀身延長。
短距離剣閃。
脚力補助。
怖い場所へ間に合う強化。
クラリス。
拳、腕、脚への魔力纏い。
手甲。
具足。
反動吸収。
威力向上ではなく、壊れずに止めるための強化。
リシア。
高所索敵。
信号弾。
風による余波処理。
低出力多数制御。
強く撃てるからといって、強く撃つ必要はない。
そして。
端子台通話。
良樹は、そこで筆を止めた。
「……通話、か」
自分で書いておいて、何か変な言葉だった。
端子台は、電線を繋ぐためのものだ。
少なくとも、良樹の中ではそうだった。
電気を渡す。
信号を渡す。
接続を分ける。
系統を整理する。
後から追えるようにする。
だが、今回の端子台は、ただ魔力を送るだけではなかった。
返ってきた。
リシアから。
カレンから。
クラリスから。
呼吸のようなもの。
気配のようなもの。
要求信号のようなもの。
最初は、ノイズかと思った。
だが違った。
リシアが上空へ浮き、良樹が見上げた時。
その時、リシアの声が端子台に乗った。
声。
いや、声というには、口から出たものではない。
意思が、線に乗った。
良樹。
聞こえた?
今は集中。
その言葉が、良樹の中へ来た。
そして直後、カレンとクラリスまで割り込んだ。
戦闘中にイチャつかないでください。
良樹は、紙に書いた文字を見て眉間を押さえた。
「……事故要因が多すぎる」
「誰のせいかしらね」
横から声がした。
リシアだった。
良樹が顔を上げると、作業場の入口近くに三人がいた。
リシア。
カレン。
クラリス。
リシアは腕を組み、少しだけ頬を赤くしている。
カレンは胸元で両手を握り、何か言いたそうにしている。
クラリスは、いつものように穏やかに微笑んでいた。
穏やかに。
穏やかに、何かを狙っている顔だった。
良樹は、嫌な予感がした。
「……何だ」
「何だ、ではありません」
クラリスが静かに言った。
「端子台通話の検証をするのでしょう?」
「ああ」
「する」
「では、私たちも必要です」
「それはそうだが」
良樹は三人を見た。
「その前に、一つ確認しておく」
「何?」
リシアが首を傾げる。
「戦闘中の端子台通話で、恋愛発言は禁止だ」
リシアが固まった。
カレンが赤くなった。
クラリスが微笑んだまま、小さく首を傾げた。
「原則禁止、でしょうか」
「禁止だ」
「原則は必要だと思います」
「必要ない」
「例外が発生します」
「発生させるな」
クラリスは、穏やかに微笑んだ。
「良樹くんが危険なことをした時、愛の叱責が必要になる場合があります」
「叱責だけにしろ」
「愛を足すな」
「愛があるから叱るのです」
「戦闘中に言うな」
「では、戦闘後にします」
「そういう話でもねえ」
リシアが額に手を当てた。
「最初からこれなのね」
カレンが、小さく頷いた。
「端子台通話、便利ですけど……危ないですね」
「ああ」
良樹は即答した。
「戦闘中に混線すると危ない」
「短文のみ」
「敵数」
「方向」
「危険」
「負傷」
「配分要求」
「撤退」
「この辺りを優先する」
「雑談は禁止ね」
リシアが言う。
「ああ」
「恋愛発言も禁止」
「ああ」
「良樹も余計な返しは禁止」
「……ああ」
リシアがじっと見てくる。
「今、少し間があったわよ」
「あったな」
「何で?」
「前回、俺も返したからだ」
カレンが、そっと視線を逸らした。
クラリスが微笑みを深くする。
リシアの耳が赤くなった。
「……あれは、あんたが先に」
「俺も悪かった」
「そういう素直さを今出されると困るのよ」
「困られてもな」
良樹は、紙へ線を一本引いた。
「とにかく、まず低出力で試す」
「接続中だけ通るのか」
「意識した言葉だけ通るのか」
「普通の思考まで漏れるのか」
「三人同士へ届くのか」
「感情が混ざるとどうなるのか」
「そこを確認する」
「良樹くん」
クラリスが言った。
「普通の思考が漏れるかどうかは、重要ですね」
「ああ」
「とても重要ですね」
「何で二回言った」
「確認です」
「怖い確認だな」
リシアとカレンも、少し真面目な顔になった。
これは本当に重要だった。
もし、考えただけで漏れるなら危ない。
戦闘中に余計な情報が混ざる。
動揺も流れる。
恐怖も流れる。
痛みも流れるかもしれない。
そして、恋愛面ではさらに危ない。
何を思ったかが全部漏れるなど、確認期間どころではない。
良樹は魔導盤を出した。
胸の前ではなく、試験台の上に据える。
小さな盤。
低出力。
三つの端子台。
それぞれに細い魔力線を伸ばす。
「まずは弱く繋ぐ」
「痛みや違和感があればすぐ言え」
「はい」
カレンが頷く。
「分かったわ」
リシアも頷く。
「お願いします」
クラリスも静かに手を差し出した。
良樹は、それぞれへ端子を繋いだ。
リシア。
カレン。
クラリス。
三本の線が、薄く光る。
最初に返ってきたのは、やはり気配だった。
リシアは、風のように軽い。
ただし芯が強い。
細く鋭い流れが、いつでも術式へ変わる準備をしている。
カレンは、震えているようで、足元だけが妙に強い。
怖い。
怖いのに、逃げる方向ではなく、踏みとどまる方向へ力が入っている。
クラリスは、静かだった。
静かすぎるほど静かだった。
だが、その奥に、人体の構造をなぞるような細かい感覚がある。
触れた瞬間に、どこを支え、どこを止め、どこを壊してはいけないかを見ている。
良樹は、小さく息を吐いた。
「まず、リシア」
「何か短く送ってみてくれ」
「分かったわ」
リシアは目を閉じる。
声は出さない。
端子台の線が、わずかに震えた。
《良樹》
来た。
耳ではない。
胸の内側でもない。
魔導盤を経由して、頭の奥へ置かれるような感覚。
「届いた」
良樹が言うと、リシアが目を開ける。
「こっちから送った感覚もあるわ」
「言葉を押し込むというより、線に乗せる感じ」
「なるほど」
良樹は紙へ書く。
意識して乗せた言葉は届く。
「次、カレン」
「は、はい」
カレンは目を閉じた。
少し震えている。
線が、細く鳴った。
《良樹さん》
「届いた」
「本当ですか?」
「ああ」
カレンの顔が、ぱっと赤くなる。
「声に出していないのに……何だか、不思議です」
「今のは普通に名前だけだな」
「はい」
良樹は書く。
接続中、個別送信可能。
「次、クラリス」
「はい」
クラリスは、すっと目を閉じた。
線が静かに震える。
《良樹くん》
「届いた」
良樹が言った瞬間。
もう一度、線が震えた。
《好きです》
「待て」
良樹が即座に言った。
リシアが叫ぶ。
「クラリス!」
カレンも真っ赤になる。
「い、今のは検証ですか!?」
クラリスは目を開け、穏やかに微笑んだ。
「はい」
「感情が混ざるとどうなるかの確認です」
「早い」
「早すぎる」
良樹は眉間を押さえた。
「今のは、意識して乗せたんだな?」
「はい」
「普通に考えただけじゃないな?」
「はい」
「普通に思っていることを、意識して乗せました」
「余計に厄介だな」
リシアが頭を抱える。
「普通に思ってることではあるのね」
「もちろんです」
「もちろんじゃないのよ」
カレンは、両手で頬を押さえた。
「あ、あの……でも、今のは私にも聞こえました」
「こっちにも聞こえたわ」
リシアが言う。
良樹は頷いた。
「やっぱり、俺の盤を経由して共有される」
「個別にしようとしても、強い言葉は他にも乗る可能性がある」
「つまり」
リシアが低く言う。
「戦闘中にクラリスが変なことを言うと、全員に聞こえるのね」
「変なことではありません」
クラリスが抗議する。
「良樹くんへの愛です」
「戦闘中に全員へ流すものじゃないわ」
「愛は全員で共有してもよいのでは」
「よくない」
「原則として」
「原則をつけるな!」
良樹は、紙に大きく書いた。
戦闘中、恋愛発言禁止。
その下に、少し迷ってから追記する。
危険語彙も原則禁止。
クラリスが覗き込んだ。
「原則になっていますね」
「……完全禁止にすると、お前が抜け道を探しそうだからだ」
「信頼されていますね」
「警戒してるんだよ」
クラリスは、満足そうに微笑んだ。
満足するところではない。
◇
検証は続いた。
結果は、おおよそ見えた。
接続中のみ通話可能。
意識して線に乗せた言葉だけが届く。
普通の思考は漏れない。
ただし、強い感情は滲む。
良樹の盤を経由して、三人同士にも共有される。
長文は処理が重い。
戦闘中は短文向き。
良樹は紙へまとめた。
「戦闘中のルール」
三人が姿勢を正す。
「短文のみ」
「敵数、方向、危険、負傷、配分要求を優先」
「雑談禁止」
「恋愛発言禁止」
「誰かが『戦闘中』と言ったら即停止」
「混線したら俺が整理する」
「感情が強すぎる場合は、一時的に絞る」
「良いと思うわ」
リシアが頷く。
「私も、それがいいと思います」
カレンも頷く。
「クラリス」
良樹が見る。
クラリスは、にこりと微笑んだ。
「危険語彙は原則禁止、ですね」
「そこに食いつくな」
「確認です」
「確認するな」
リシアが、そこで咳払いをした。
「それで」
良樹は、嫌な予感がした。
リシアの目が少しだけ泳いでいる。
カレンはなぜか胸元で両手を握っている。
クラリスは、とても清楚に微笑んでいる。
とても清楚に。
つまり、危険だった。
「何だ」
良樹が言うと、クラリスが一歩前に出た。
「では、リシアさんの戦闘中発言について審議します」
「だから、あれは違うの!」
リシアが即座に叫んだ。
良樹は天井を見た。
来た。
来てしまった。
カレンが、おずおずと手を上げる。
「あ、あの……私も、いくらでも、は強いと思います……」
「カレンまで!」
「す、すみません……でも、強かったです……」
クラリスは頷いた。
「はい」
「戦闘中、良樹くんの集中を戻すための注意だったことは理解しています」
「よって重大違反ではありません」
「でしょう?」
リシアが言う。
「ただし」
クラリスの声が静かになる。
「後でいくらでも、は恋愛面において非常に強い発言です」
リシアの顔が赤くなる。
「だから、それは勢いで」
「さらに良樹くんは」
クラリスは良樹を見る。
「英雄になったら堂々と見る、と返しました」
良樹は黙った。
言った。
言ったので、反論しづらい。
カレンが顔を赤くしたまま、こくこく頷く。
「あ、あれも強かったです……」
「俺も悪かった」
良樹は言った。
リシアが目を丸くする。
「また素直に認める……」
「事実だからな」
「そういうところよ」
「どういうところだ」
「分からなくていいわよ」
クラリスが、穏やかに話を進める。
「よって、リシアさんの発言は重大違反ではありません」
「ただし、恋愛面のアドバンテージが発生しました」
「公平処理が必要です」
「待て」
良樹が手を上げた。
「何で俺が処理対象なんだ」
「発端に関与しています」
「俺は見上げただけだ」
リシアが横から言う。
「事故でも見たんでしょう」
「それを言われると弱い」
良樹は眉間を押さえた。
「公平処理って何をする気だ」
「安心してください」
クラリスは微笑む。
「制限があります」
「安心できる言葉のはずなのに、なぜか不安だな」
「今まで良樹くんにしてもらったことの少し延長まで」
「初めての大きな接触は禁止」
「恋人、夫婦段階の行為は禁止」
「三人の前で実行できる内容」
「良樹くんが拒否したら中止」
「あくまで確認期間内の公平処理です」
「規定があるのか」
「あります」
「いつ決めた」
三人が目を逸らした。
良樹は深く息を吐いた。
「俺がいないところで俺に関する規定を増やすな」
「必要な管理です」
「管理されてるのか、俺は」
「安全管理です」
カレンが小さく言った。
「良樹さん、事故が多いので……」
「俺だけのせいじゃないだろ」
三人は黙った。
黙ったが、目は逸らした。
良樹は負けた気がした。
◇
最初は、カレンだった。
カレンは、作業場の椅子の前で立ったまま、顔を真っ赤にしていた。
「あ、あの」
「無理ならやめていいぞ」
「や、やめません」
即答だった。
声は震えている。
だが、逃げない。
カレンは、胸元で両手を握った。
「前に、良樹さんの脚の間に座ったことが、ありました」
「ああ」
良樹は頷いた。
忘れてはいない。
忘れられるわけがない。
「あれの、少し延長です」
「延長」
「はい」
カレンは、さらに赤くなる。
「抱きしめるのでは、なくて」
「その……輪です」
「輪?」
「良樹さんの両腕で、輪を作ってもらって」
「その中に、私が入ります」
良樹は、少し考えた。
「抱擁ではなく、腕で囲う形か」
「はい」
「安全柵みたいなものか」
カレンの顔がぱっと明るくなる。
「はい」
「安全柵、みたいな……」
リシアが小さく呟いた。
「良樹に通じる言葉を選んだわね」
クラリスが頷く。
「良い判断です」
「評価するな」
良樹は言ったが、カレンの希望自体は理解できた。
抱きしめるのではない。
だが、逃げ道を塞ぐ。
閉じ込めるのではない。
だが、そこにいていい形を作る。
カレンは、以前言った。
良樹さんの退路は、塞ぎました。
逃げなくていいように。
今度は、そのカレンが、自分も少しだけ塞いでもらいたいと言っている。
良樹は椅子に座った。
「分かった」
「嫌だったらすぐ言え」
「はい」
カレンは、ゆっくりと良樹の前へ来た。
そして、良樹の脚の間に座る。
背中が近い。
近すぎる。
カレンの肩が震えている。
耳まで赤い。
それでも、逃げない。
良樹は、両腕をゆっくり前へ回した。
触れるか、触れないか。
抱きしめるほどではない。
だが、腕の輪がカレンの前にできる。
カレンは、その中に収まった。
小さく息を吐いた。
「あ……」
「大丈夫か」
「はい」
「大丈夫、です」
声が少し震えていた。
しかし、恐怖ではなかった。
カレンは、少しだけ背中を良樹へ預けた。
ほんの少し。
良樹は動かない。
腕の輪を強くしない。
ただ、そこに置いておく。
カレンは、ゆっくり目を閉じた。
そして、良樹の腕の輪を、下から両手でそっと掴んだ。
きゅっ。
小さく。
けれど、確かめるように。
そこに本当に安全柵があるのか。
逃げなくていい場所が、ちゃんと自分の前にあるのか。
指先で確認するように。
カレンの手は、少し震えていた。
それでも、離さなかった。
「……あります」
カレンが、目を閉じたまま呟いた。
「ちゃんと、あります」
良樹は、返事に迷った。
何を言っても強くなりそうだった。
だから、動かずにいることを選んだ。
カレンは、良樹の腕を両手で掴んだまま、もう一度小さく息を吐いた。
「良樹さんの退路は、塞ぎましたけど」
カレンが言う。
「私も、少しだけ」
「塞いでもらいたかったのかもしれません」
良樹の喉が止まった。
「……それ、かなり強いぞ」
リシアが腕を組んだまま頷く。
「強いわね、カレン」
クラリスも微笑む。
「規定内です」
「規定が強すぎないか」
良樹が言うと、カレンは腕の輪の中で、小さく笑った。
「逃げなくていい場所、みたいです」
良樹は、何も返せなかった。
カレンは怖がりだ。
おどおどしている。
声も小さい。
すぐ赤くなる。
けれど、本当に怖いものから目を逸らさない。
怖い場所を見て、そこへ間に合おうとする。
そのカレンが、今だけは逃げなくていい場所にいる。
良樹は、腕の輪を少しだけ整えた。
触れすぎない。
でも、隙間が不安にならないように。
カレンは、その腕を下から両手で掴んだまま、もう一度小さく息を吐いた。
「……はい」
「これで、大丈夫です」
◇
次は、クラリスだった。
カレンが顔を真っ赤にしたままリシアの隣へ戻ると、クラリスが静かに前へ出た。
良樹は、正直に言って警戒した。
カレンは分かりやすい。
リシアも、何だかんだ言いながら分かりやすい。
クラリスは違う。
静かに、清楚に、穏やかに爆弾を置いてくる。
「クラリス」
「はい」
「何をする気だ」
「過去の事故を、確認し直したいのです」
「事故」
「はい」
クラリスは、作業場の壁際へ歩いた。
そして、そこで立ち止まる。
白い法衣。
淡い金の髪。
穏やかな微笑み。
いつものクラリスだった。
けれど、その頬は少しだけ赤い。
「着替えの時の事故です」
良樹は固まった。
リシアが息を呑む。
カレンも両手で口元を押さえた。
「……あれか」
「はい」
忘れられるわけがなかった。
扉を開けた。
見た。
すぐ閉めた。
謝った。
その時、良樹は言った。
見た。
すぐ閉めたが、見た。
悪い。
英雄になれるまでは、我慢する。
だから、気を付けてくれ。
あの時の言葉を、クラリスは忘れていなかった。
クラリスは、壁に背を向けて立つ。
「良樹くん」
「何だ」
「あの時は、事故でした」
「ああ」
「ですが、私にとっては、大切な記憶でもあります」
良樹は、黙った。
クラリスは続ける。
「良樹くんは、私を見ました」
「そして、誤魔化しませんでした」
「見ていないとは言わず」
「軽く扱わず」
「見た、と認めました」
「そのうえで、我慢すると言いました」
クラリスの声は静かだった。
だが、いつもの危険語彙とは違っていた。
これは冗談ではない。
攻撃でもない。
確認だった。
クラリスが、自分の大切な記憶をもう一度手に取るための。
「だから、今度は事故ではなく」
「私が望んで、受け取り直したいのです」
リシアが、小さく息を吐いた。
「……規定内ね」
カレンも赤い顔のまま頷く。
「今までの、少し延長です……」
良樹は、クラリスを見る。
「本当にいいのか」
「はい」
「嫌なら止める」
「はい」
「俺は、押さえつけるつもりはない」
「分かっています」
クラリスは微笑んだ。
「だから、お願いしています」
良樹は、ゆっくりと立った。
クラリスの前へ歩く。
一歩。
二歩。
近い。
壁際に立つクラリス。
その前に立つ良樹。
良樹は、クラリスの顔の横へ手をついた。
壁を叩くような強さではない。
逃げ道を塞ぐ形。
だが、いつでも退ける距離。
クラリスの目が、少し揺れた。
良樹は、あの時の言葉を思い出す。
そして、言った。
「見た」
クラリスの喉が、小さく動いた。
「すぐ閉めたが、見た」
「……はい」
「悪い」
「はい」
「英雄になれるまでは、我慢する」
クラリスの目が、さらに揺れた。
良樹は、最後の一言を言う。
「だから、気を付けてくれ」
作業場が静かになった。
リシアも、カレンも、何も言わない。
クラリスは、壁に背を預けたまま、良樹を見ていた。
いつもの清楚な微笑みがない。
危険な冗談もない。
余裕のある言葉もない。
良樹くんの愛がどうこうという危険語彙もない。
ただ、一人の女の子が、良樹を見ていた。
「……はい」
クラリスは、小さく言った。
「私も、我慢します」
言った直後。
クラリスの膝から、力が抜けた。
「クラリス?」
良樹が手を伸ばす前に、クラリスは壁に背を預けたまま、すとんと座り込んだ。
両手で顔を覆う。
耳まで赤い。
そして、そのまま横へ、こてん、と倒れた。
「クラリス!?」
良樹が慌てる。
リシアが目を丸くした。
「クラリスが落ちた……」
カレンが口元を押さえたまま呟く。
「クラリス、なんだか可愛いです……」
「カレンはいつもだいたいあんな感じよ」
「リシア!?」
カレンが真っ赤になって抗議する。
床に横になったクラリスが、両手で顔を覆ったまま言った。
「カレン」
「今の私には、その言葉も少し強いです」
良樹はしゃがみ込んだ。
「クラリス、大丈夫か」
「……少し」
「痛いのか」
「痛くはありません」
「具合が悪いのか」
「身体は正常です」
「じゃあ何だ」
「分かりません」
クラリスは、両手で顔を覆ったまま言った。
「少しだけ、待ってください」
良樹は動けなかった。
クラリスが分からないと言った。
あのクラリスが。
身体のことならすぐに見る。
痛みなら場所を言う。
負荷なら説明する。
戦闘中なら、関節と重心と呼吸を冷静に見る。
そのクラリスが、自分の状態を分からないと言った。
リシアが、静かに近づく。
「クラリス」
「はい」
「立てる?」
「立てます」
「本当?」
「……たぶん」
「たぶんって言ったわね」
クラリスは、顔を覆ったまま頷いた。
「言いました」
良樹は手を差し出した。
「立てるか」
クラリスは、指の隙間から良樹の手を見る。
その瞬間、また赤くなった。
「……少しだけ、待ってください」
「手を取るだけだぞ」
「はい」
「手を取るだけです」
「なら」
「それが、今は強いのです」
良樹は固まった。
リシアが額に手を当てる。
「これは……」
カレンが小さく言う。
「恋、ですね……」
クラリスは、両手を少しだけ下ろした。
「恋」
「はい」
カレンは赤くなりながらも、なぜか少しだけ真剣だった。
「たぶん、恋です」
「私は良樹くんを愛していますが」
「そ、それとは別で……」
カレンは必死に言葉を探す。
「手を取られると、胸が跳ねるとか」
「名前を呼ばれると、顔が熱くなるとか」
「そういう……」
クラリスは、良樹の手を見た。
そして、そっと指を伸ばす。
指先が触れる。
それだけで、クラリスの肩が跳ねた。
「……なるほど」
「何がなるほどなんだ」
良樹が聞くと、クラリスは真顔で言った。
「これは、戦闘中とは違います」
「そりゃそうだろ」
「治療中とも違います」
「だろうな」
「身体確認とも違います」
「一緒にされても困る」
クラリスは、良樹の手を取った。
指が少し震えている。
良樹は、ゆっくり引いた。
クラリスが立ち上がる。
立ち上がった。
が。
膝に力が入らなかった。
「あ」
クラリスの身体が、前へ崩れる。
良樹は反射的に受け止めた。
肩と腰を支える。
倒れないように。
それだけだった。
狙ったわけではない。
クラリスが狙ったわけでもない。
良樹が狙ったわけでもない。
本当に、足元が崩れた。
だが、結果として。
クラリスは、良樹の腕の中にいた。
「……」
「……」
良樹も、クラリスも止まった。
リシアとカレンも止まった。
クラリスの顔が、ゆっくり赤くなる。
さっきよりも赤い。
「クラリス」
「……少しだけ、待ってください」
「今度は何だ」
「今、何かされたら」
クラリスは、良樹の腕の中で言った。
「たぶん、清楚ではいられません」
リシアが口元を押さえた。
カレンが真っ赤になった。
良樹は、本気で困った。
「それは困るのか」
「困ります」
「何で」
「まだ、英雄になっていませんので」
リシアが呆れたように言う。
「そこは守るのね……」
カレンが小さく頷く。
「我慢、してます……」
良樹は天井を見た。
「俺はどうすればいい」
「クラリスが立てるまで支えてなさい」
リシアが言う。
「そ、それが安全だと思います」
カレンも続ける。
クラリスは、良樹の腕の中で小さく頷いた。
「安全確認としては、正しいです」
「ただし、私の心臓には安全ではありません」
「どうすればいいんだよ」
「分かりません……」
クラリスは、本当に困っていた。
その顔を見て、良樹はようやく理解した。
これはいつものクラリスではない。
危険語彙をしれっと言うクラリスではない。
戦闘中に良樹の愛を感じますと言い切るクラリスではない。
拳に魔力をまとい、僧侶用の杖で魔物を殴り飛ばすクラリスでもない。
これは、良樹の手を取るだけで胸が跳ねる女の子だった。
◇
クラリスが何とか椅子に座れるようになった後、妻会議が始まった。
良樹は、なぜか作業場の隅に追いやられた。
「俺も関係者じゃないのか」
「関係者だからこそ、少し離れていて」
リシアが言った。
「追加入力が入ると危ないわ」
「追加入力って何だ」
「今のクラリスに良樹が余計なことを言うことよ」
「俺は質問してるだけだ」
「その質問が強いのよ」
「理不尽だろ」
「恋はだいたい理不尽よ」
良樹は黙った。
反論材料がなかった。
リシア、カレン、クラリスの三人は、試験台の近くに座る。
クラリスはまだ少し顔が赤い。
両手を膝の上で重ね、視線を落としている。
いつもの清楚な姿勢だ。
だが、頬が赤いだけで、まるで違って見えた。
「議題」
リシアが言う。
「クラリスはなぜ、戦闘中には危険な言葉を平然と言えるのに、日常の不意打ちで赤くなるのか」
カレンが真剣に頷く。
「大事な議題です」
クラリスも静かに頷いた。
「私自身も、原因を把握したいです」
良樹は隅から聞いていた。
自分に関する話のはずなのに、発言権がない。
どういう状態だ。
リシアは少し考え、口を開いた。
「普通の恋って、たぶん順番があるのよ」
「順番、ですか?」
カレンが聞く。
「ええ」
リシアは指を折る。
「気になる」
「手が触れて赤くなる」
「優しくされて意識する」
「好きかもしれない」
「好き」
「それから、愛している」
カレンは、耳まで赤くなりながら頷いた。
「たぶん、そうだと思います」
「カレンは今、その順番をかなり丁寧に進んでるわ」
「わ、私ですか!?」
「そうよ」
「怖いけど近づきたい」
「見てほしいけど恥ずかしい」
「逃げ道を塞ぎたいけど、自分も塞いでもらいたい」
「かなり正統派よ」
カレンは顔を覆った。
「せ、正統派……」
「良い意味よ」
リシアは次に、自分を指差す。
「私も、まあ、順番は少しおかしいけど」
「最初に変質者扱いしたり、半氷漬けにしたりしたけど」
「それでも、気になるところから始まってる」
「変な人」
「でも悪い人じゃない」
「見ているものが違う」
「隣で通せる」
「好き」
「そういう順番は、一応ある」
良樹は隅で小さく呟いた。
「半氷漬けは順番に入るのか……」
「良樹は黙ってて」
「はい」
リシアは、クラリスを見る。
「でも、クラリスは違う」
クラリスは静かにリシアを見返した。
「良樹に本質を見られた」
「壊れる戦い方を怒られた」
「治したから大丈夫、ではないと見抜かれた」
「清楚な外側も」
「危険な内側も」
「壊れそうなところも」
「全部見られた」
クラリスの手が、膝の上で少しだけ握られる。
「そのうえで、良樹は普通に隣に置いた」
「怒って」
「謝って」
「壊れるなと言って」
「クラリスと呼んで」
「当たり前みたいに、今も一緒にいる」
リシアは、少しだけ息を吐いた。
「だから、クラリスはたぶん」
「恋の細かい段階をすっ飛ばして」
「いきなり愛まで行ったのよ」
作業場が静かになった。
クラリスは、ゆっくり目を伏せた。
カレンが小さく言う。
「愛は、成熟している」
リシアが頷く。
「でも」
クラリスが続けた。
「恋は、未成熟」
自分で言って、クラリスは少しだけ目を見開いた。
その言葉が、自分の中へ落ちたようだった。
「……そう、かもしれません」
クラリスは、ゆっくり言った。
「良樹くんを大切に思うこと」
「良樹くんのために戦いたいこと」
「良樹くんの妻になりたいこと」
「それは、もう迷っていません」
声は静かだった。
けれど、少し震えていた。
「ですが」
「手を取られて胸が跳ねること」
「名前を呼ばれて顔が熱くなること」
「壁際で逃げ道を塞がれて、立てなくなること」
「そういうものを、私はあまり知りませんでした」
カレンが、柔らかく微笑んだ。
「恋、ですね」
クラリスは、頷いた。
「はい」
「私は、良樹くんを愛しているのに」
「良樹くんに恋をする練習を、まだしていなかったようです」
リシアは、少しだけ笑った。
「なら、異常じゃないわね」
「異常では、ないのですか」
「ないわ」
「遅れてきただけよ」
カレンも頷く。
「はい」
「クラリスの中で、恋が追いついてきたんだと思います」
クラリスは、自分の胸に手を添えた。
「追いついてきた」
「ええ」
リシアは言った。
「だから今後、急に赤くなったり、固まったりしても」
「それは異常じゃない」
「成長よ」
「成長」
クラリスが繰り返す。
カレンが、少し嬉しそうに言った。
「乙女クラリスの成長です」
「乙女クラリス」
クラリスが瞬きをした。
リシアが即座に頷く。
「採用」
「採用されました」
クラリスは、少し困ったように微笑んだ。
カレンが小さく言う。
「可愛いです」
クラリスは、顔を赤くしてカレンを見た。
「カレン」
「今の私には、その言葉も強いです」
カレンは慌てる。
「す、すみません」
「ですが」
クラリスは、ほんの少し微笑んだ。
「嫌ではありません」
リシアは腕を組んだ。
「対策を決めましょう」
「対策」
クラリスが頷く。
「必要ですね」
「まず、戦闘中と治療中は今まで通り」
「役割に入っている時のクラリスは強い」
「そこを無理に崩さない」
「はい」
「日常で固まった時は、清楚スマイルで誤魔化さなくていい」
「少し待ってください、と言っていい」
「はい」
「私とカレンは、茶化しすぎない」
カレンが大きく頷く。
「はい」
リシアは良樹の方を見る。
「良樹には、追加入力禁止」
「だから、追加入力って何だよ」
「良樹が無自覚にクラリスをさらに落とすことよ」
「俺は落としてない」
三人が同時に良樹を見た。
良樹は黙った。
何か言うと、また不利になる気がした。
「ただし」
リシアは続ける。
「危険回避で引き寄せることは禁止しない」
「街中で誰かにぶつかりそうになったり、足元が危なかったりしたら、良樹は普通に支えていい」
クラリスの肩が跳ねた。
「それは」
「必要な安全行為よ」
カレンが真面目に言う。
「安全確認です」
「安全確認」
クラリスは、小さく頷いた。
「理解しました」
「ただ、その場合、私の心臓は安全ではない可能性があります」
「それは報告して」
リシアが言う。
「少し待ってください、でいいわ」
「はい」
クラリスは、胸に手を当てた。
「少し待ってください」
練習のように言った。
カレンがにこりと笑う。
「いいと思います」
クラリスの頬がまた赤くなる。
「……今の肯定も、少し強いです」
「クラリス、本当に乙女になってるわね」
リシアが呆れたように、けれど嬉しそうに言った。
◇
一方そのころ。
良樹は、作業場の隅に戻り、端子台通話のメモを整理していた。
妻会議からは、途中で完全に外された。
いや、聞こえてはいた。
聞こえていたので、余計に困った。
愛は成熟している。
恋は未成熟。
乙女クラリス。
追加入力禁止。
何だそれは。
良樹は、紙に書いた。
戦闘中は短文。
恋愛発言禁止。
感情混線注意。
クラリス、追加入力禁止。
書いてから、筆が止まった。
「……追加入力って何だよ」
自分で書いたのに意味が分からない。
良樹は、今日一日を思い返した。
端子台通話の検証をした。
リシアの発言が審議された。
カレンに腕の輪を作らされた。
安全柵と言われた。
クラリスに壁際へ立たれた。
あの時の台詞を言えと言われた。
言ったら、クラリスが床に転がった。
手を差し出したら赤くなった。
立たせたらよろけた。
受け止めたら、清楚ではいられないと言われた。
そして今、自分は追加入力禁止対象らしい。
良樹は、筆を置いた。
作業場の天井を見る。
梁。
木目。
薄暗い影。
当然、答えは返ってこない。
「……俺、何か悪いことしたか???」
天井は答えない。
良樹はしばらく待った。
やはり、答えない。
「……解せねえ……」
作業場の隅で、良樹は一人、深く息を吐いた。
その背後では、三人娘の妻会議がまだ続いている。
端子台は声を返す。
戦場では、判断と要求が返る。
恋愛では、想いと事故が返る。
四人で使う盤は、良樹が三人を動かすためのものではない。
三人の声を聞き。
三人の要求を受け。
三人の判断を返してもらいながら。
四人で、使うものだった。
ただし。
声が返るということは。
恋心の事故も、きっちり返ってくる。
良樹は、もう一度だけ天井を見た。
「……端子台って、こういうものだったか?」
もちろん、天井は答えなかった。
【現場メモ】今回の「端子台通信」は、かなり分かりやすく言えば電話に近いものです。離れた相手と声をつなぎ、こちらの言葉を送り、相手の返事を受け取る。その意味では、信号灯や警報器よりも「通話」に近い仕組みです。
一方、魔石信号器は警報器や表示灯に近い考え方です。長い会話ではなく、危険、敵、撤退といった短い情報を確実に届けることを目的にしています。




