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第30話 噂と後始末(挿絵有)

 翌朝。


 作業場付きの貸家には、いつもより少しだけ妙な空気が流れていた。


 朝食の匂い。

 木の床を踏む音。

 水場で誰かが顔を洗う音。

 椅子を引く音。


 それらは、いつもと同じだった。


 けれど、四人の距離だけが少し違っていた。


 リシアは、いつものように何でもない顔をして席に着いている。

 カレンは、いつものように少し緊張した顔でパンを持っている。

 クラリスは、いつものように清楚に微笑んでいる。


 良樹も、いつものように木の杯を手にしていた。


 ただ、目が合うたびに、三人の頬がわずかに赤くなる。


 良樹も、同じだった。


 昨日の夜。


 三人部屋から聞こえてしまった声。

 英雄になったら。

 正式に三人とも妻になったら。

 誰かを最初にしない。

 誰かを後にもしない。

 三人とも、同じ日に、同じ夜に。


 それを聞いてしまった。


 聞いてしまって、逃げなかった。


 焦るつもりはない。

 けれど、そこまで待たせるつもりもない。

 悪いが、少しだけ時間をくれ。


 そう言った。


 そして三人は、少しだけ、と返した。


 良樹は、木の杯を置いた。


 今、その言葉がまだ胸の中に残っている。


 だが、残っているからこそ、動く必要があった。


「今日は、昨日の現場確認に戻る」


 三人の視線が、良樹へ集まった。


「足跡周辺、柵の破損、農家への聞き取り」

「採石場跡の砲撃痕も確認する」

「それから、ガレスに追加報告だ」


 リシアが、少しだけ眉を寄せた。


「朝一でそれなのね」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「昨日の夜に、少しだけ時間をくれって言った」

「なら、少しだけを短くするために、今日から動く」


 三人が固まった。


 カレンのパンが、手元で止まる。


「き、聞こえて……」


「聞こえてた」

「悪い」


 良樹は正直に答えた。


 カレンの顔が、一気に赤くなる。


 クラリスは口元に手を添え、少しだけ目を伏せた。


「いえ」

「聞かせるつもりはありませんでしたが、聞かれて困る結論でもありません」


「朝から強いわね」


 リシアが低く言った。


 クラリスは、にこりと微笑む。


「昨夜の時点で、もう十分強い結論でしたから」


「クラリス」


「はい」


「朝食中よ」


「存じています」


 カレンは、真っ赤な顔のまま小さく言った。


「わ、私も……困るわけでは、ないです」

「ただ、その……聞こえていたと思うと……」


「悪い」


「謝らないでください」

「……言ったのは、私たちなので」


 良樹は、少しだけ息を吐いた。


 逃げ道はない。


 逃げなくていいように塞がれている。


 なら、進むしかない。


「今日やることは後始末だ」

「大型トロルは倒した」

「でも、生活圏に近づいた原因、周辺の危険、農家への注意喚起、採石場跡の確認は残ってる」

「報告までが仕事」

「回収までが戦闘」

「後始末までが、たぶん一件だ」


 リシアは、少しだけ表情を緩めた。


「本当に、そういうところは良樹ね」


「良い意味か?」


「半分くらい」


「残り半分は」


「呆れてる」


「だろうな」


 カレンが小さく笑った。


 クラリスも穏やかに頷く。


「ですが、良樹くん」

「今日は無理をしないことも、条件に入れてください」


「入れる」


「本当ですか?」


「昨日撃った後のことは分かってる」

「今日は砲撃盤の再現はしない」

「見るだけだ」


 リシアが目を細める。


「本当に?」


「本当に」


「たぶん、じゃないのね」


「たぶん、じゃない」


 リシアは、ようやく頷いた。


「ならいいわ」


   ◇


 町の北西へ向かう道は、朝の光で白く見えた。


 旧街道へ続く道。

 その脇に広がる畑。

 低い柵。

 納屋。

 遠くに見える森の縁。


 昨日の夕方、ここは緊張で満ちていた。


 大型トロルの足跡。

 折れた柵。

 生活圏のすぐそばまで迫っていた巨体。


 今朝は、空だけ見れば穏やかだった。


 だが、地面にはまだ跡が残っている。


 良樹は、折れた柵の前で足を止めた。


「やっぱり近いな」


 リシアが頷く。


「昨日見た時より、朝の方が分かりやすいわね」

「家から近すぎる」


 カレンは、畑と納屋を見た。


「ここまで来ていたんですね」


「ああ」


 良樹は、足跡の向きと深さを見る。


 大型トロルが、森から出て、柵の近くを通り、旧街道側へ向かった跡。

 それは人の生活と重なっていた。


 クラリスは、足跡の縁を見ながら言った。


「昨日見た通り、古くありません」

「この辺りは、警戒を上げた方がよいですね」


「農家に話す」


 良樹は近くの家へ向かった。


 煙突から薄く煙が出ている。

 家の前には、年配の男と女がいた。

 良樹たちを見て、少し警戒したように顔を上げる。


「すみません」


 良樹は、できるだけ穏やかに声をかけた。


「昨日、ここの近くで大型トロルの足跡を確認しました」

「討伐は済んでます」

「ただ、近くまで来ていたので、しばらく夜間は外に出ない方がいい」

「柵も直した方がいいです」


 男の顔色が変わった。


「大型トロル……?」

「ここまで、来ていたんですか」


「ああ」


 良樹は折れた柵と足跡を指した。


「森の中じゃない」

「もう生活圏のすぐそばです」


 女が口元を押さえた。


「昨日の夜、うちの子が納屋に行っていたんです」

「火種を取りに……」

「もし、一日遅れていたら……」


 言葉が途切れた。


 良樹は、何も言えなかった。


 昨日、自分たちは間に合った。


 それだけだ。


 間に合わなかった可能性は、足跡の深さと同じくらい現実的にそこにあった。


「間に合っただけです」


 良樹は言った。


「柵は直した方がいい」

「できれば、しばらく夜に一人で外へ出ないように」

「森の縁にも近づかない方がいいです」

「ギルドにも追加報告します」


 男は深く頭を下げた。


「ありがとうございます」

「本当に、ありがとうございます」


 女も、何度も頭を下げる。


 良樹は、その感謝を受けて、少しだけ居心地が悪くなった。


 大型トロルを倒した。

 それは事実だ。


 だが、誇る気にはなれなかった。


 人が死ぬ前に止めた。


 ガレスに言われた言葉が、今になって重くなる。


 カレンは、そんな良樹を見ていた。


 怖かった。

 昨日の大型トロルは、本当に怖かった。


 けれど、自分たちが怖いから見て、怖いから動いて、怖いから止めた結果、今ここで頭を下げている人がいる。


 怖いから見ます。


 その言葉が、少しだけ違う重さを持った。


 クラリスは、良樹の横顔を見ていた。


 感謝されるのが苦手な人。

 自分の功績を、自分のものとして受け取り慣れていない人。

 けれど、逃げずに受け止めようとしている人。


 リシアは、折れた柵の向こうの森を見ていた。


 結果論だ、と良樹は言っていた。


 確かに結果論だ。


 けれど、結果を出さなければ、この家は結果論では済まなかった。


   ◇


 採石場跡に着くと、昨日の痕跡はまだはっきり残っていた。


 削れた地面。

 砕けた石。

 大型トロルが吹き飛ばされた跡。

 砲撃の軌道に沿って抉れた土。


 朝の光の中で見ると、それはさらに大きく見えた。


 良樹は黙って、その跡を見た。


「……大きいわね」


 リシアが呟いた。


 エレメンタル・キャノン。


 昨日、良樹が撃った四魔素砲弾。


 リシアの四魔素穿弾とは違う。

 細く通すのではなく、太く押す。

 穿つのではなく、吹き飛ばす。


 同じ四魔素。

 だが、全く違う形。


 良樹はしゃがみ込み、地面の削れ方を見た。


「射線は、昨日の判断で間違ってなかった」

「外したとしても、農家側には飛んでない」

「ただ、余波が思ったより横に出てる」

「風遮膜がなかったら、石片がこっちへ飛んでたな」


 リシアが少しだけ眉を寄せる。


「じゃあ、私の風遮膜は必須?」


「ああ」

「少なくとも今のエレメンタル・キャノンには必須だ」


 リシアは、少しだけ視線を逸らした。


「……そう」


 良樹は続けて、三人の退避位置を確認した。


「カレンとクラリスは、ここから抜けた」

「リシアは俺の前に出て風遮膜」

「俺はここに盤を据えた」


 足で、昨日の位置を示す。


「問題は、撃った後だ」

「俺は動けなかった」

「盤を畳むまで、周辺確認もできなかった」

「追加個体が来てたら危なかった」


 クラリスが頷く。


「昨日は私たちで確認しました」

「ですが、毎回そうできるとは限りません」


「ああ」


 良樹は、砲撃痕を見た。


「撃てたことより、撃った後だ」

「ここを詰めないと、次は死ぬ」


 リシアが、小さく息を吐く。


「本当に、勝った後の話ばかりするわね」


「勝った後に死んだら負けだ」


「それは、その通りです」


 クラリスが即答した。


 カレンは、採石場跡の端を見ていた。


「私、もっと退避の合図を早くできるようにします」

「それと、戻る場所も」

「昨日は、良樹さんの射線から外れるので精一杯でした」


「頼む」


 良樹はカレンを見た。


「怖いから見られるお前にしか拾えないものがある」


 カレンの顔が、一気に赤くなった。


「は、はい」


 リシアの目が細くなる。


「朝から二発目ね」


「何がだ」


「何でもないわ」


 クラリスは、にこりと微笑んだ。


「カレンさん、とても大事な役割ですね」


「は、はい……」


 カレンは胸元で手を握った。


 怖いから見える。


 良樹は、それを弱さではなく役割として見てくれる。


 そのことが、嬉しかった。


   ◇


 町へ戻る頃には、昼前になっていた。


 市場には人が増え始めている。

 荷車。

 布を広げる商人。

 干し肉の匂い。

 果物を並べる声。

 子どもの走る音。


 その中で、四人に向けられる視線は、昨日までより明らかに増えていた。


「ほら、あの四人だろ」

「大型トロルを倒したって」

「魔法使いの嬢ちゃんたちと、変な男の」

「変な男って言うなよ。あいつが撃ったらしいぞ」

「でも、前に出てた女の子たちも相当だったって」

「農家が助かったらしい」

「ガレスが評価したって聞いたぞ」

「新しい四人組だろ」

「本物かもしれねえな」


 英雄。


 その言葉はまだ聞こえない。


 それでいい。


 良樹はそう思った。


 まだ英雄ではない。

 まだ一回だ。

 大型トロルを止めた。

 それだけだ。


 だが、町は四人を見始めている。


 リシアは少し居心地悪そうに横を向いた。


「……見られてるわね」


「だな」


「良樹は平気なの?」


「平気じゃない」

「でも、昨日のギルドよりはマシだ」


「基準がおかしいわよ」


 カレンは、少し肩を縮めていた。


 だが、以前ほど俯いてはいない。


 見られている。

 怖い。


 けれど、今は四人で歩いている。


 クラリスは清楚に微笑んでいる。


 ただし、通りの向こうから「あの僧侶、杖より拳が怖いらしいぞ」という声が聞こえた瞬間、クラリスの微笑みがほんの少し固まった。


「……噂というものは、不思議ですね」


「事実じゃないの?」


 リシアが言う。


「杖も使います」


「そこじゃないわよ」


 良樹は、何も言わなかった。


 言うと巻き込まれる気がした。


 その時、通りの向こうから軽い声が飛んできた。


「良樹さん!」


 振り返ると、ニルが手を振っていた。


 いつもの軽い調子。

 けれど、目は楽しそうだ。


「昨日の話、もう広がってますよ」


「もう広がってるのか」


「広がってますね」

「大型トロルを倒した四人組ってのもありますけど」

「男連中の間だと、そっちより別方向で燃えてます」


「別方向?」


「三人娘を侍らせる変な男、爆発しろ方面っす」


「俺は爆発物じゃねえ」


「周囲から見ると危険物っすよ」


「理不尽だろ」


「いや、三人連れてる時点で爆発案件っす」


 ニルは悪びれずに言った。


 良樹は眉間を押さえる。


「その評価、討伐と関係あるか?」


「ありますあります」

「だって大型トロルを倒したうえに、リシアさん、カレンさん、クラリスさんの三人と一緒にいるんすよ?」

「男連中からしたら、強い、羨ましい、爆発しろ、の三点セットっす」


「嫌な三点セットだな」


 リシアが顔を赤くしながら腕を組む。


「侍らせるって言い方、やめなさい」


「すみません。でも、町ではそんな感じに見えてますよ」


 カレンが小さく身を縮める。


「そ、そんなふうに……」


「悪い意味ばかりじゃないっすよ」

「三人とも、前より表情が柔らかくなったって言われてます」

「元々美人とか可愛いとかは言われてたんすけど、近寄りにくい感じがあったんで」


 リシアの眉が動く。


「近寄りにくい?」


「リシアさんは、まあ、怒られそうで」


「怒るわよ」


「ほら」


 ニルは笑った。


「でも、良樹さんといる時は怒ってても楽しそうって言われてます」


 リシアの顔が赤くなる。


「言われてないわよ」


「言われてます」


「誰が」


「色んな人が」


「色んな人って誰よ」


「噂の出所を明かすのは危険っす」


「逃げたわね」


 ニルはそこで、少しだけ視線を逸らした。


「あと、最近はちょっと別方向でも話題っすね」


「別方向?」


「なんか、殺意高めの魔法を覚えたとかで、少しビビられてます」


「えええええ!?」


 リシアの声が、通りに響いた。


「殺意高めって何よ!」

「私は別にそんな物騒な魔法を覚えたわけじゃ――」


 良樹は、少しだけ視線を逸らした。


 エレメンタル・ストライク。

 風遮膜。

 そして、良樹のエレメンタル・キャノン。


 正確にはリシアの魔法ではない。

 ないのだが、元になっているのは間違いなくリシアの四魔素制御だった。


 ニルが、良樹を見る。


「良樹さん、何か心当たりあります?」


「……ないとは言い切れない」


「良樹!」


 リシアが振り向いた。


「お前のエレメンタル・ストライクは、普通に高威力だろ」


「それはそうだけど!」

「殺意高めって言い方はおかしいでしょ!」


 クラリスが穏やかに微笑む。


「威力が高いという意味では?」


「クラリスさんまで!」


 カレンが小さく手を上げる。


「あ、あの……でも、大型トロルの時のリシアさん、とても頼もしかったです」


 リシアは一瞬止まった。


「……それは」

「まあ、ありがとう」


 ニルはにやにやしている。


「ほら、そういうところっすよ」

「怒ってるけど、前より柔らかいって言われるの」


「ニル、あとで覚えてなさい」


「やっぱり怒られるじゃないっすか」


 カレンが、不安そうに自分を指した。


「あ、あの、私は……?」


「カレンさんは、最近ちょっと評判変わってますね」


「変わって……?」


「前は、可愛いけどおどおどしてる子って感じだったんすけど」

「最近は、怖がりながらでも前に出る子って言われてます」

「あと、大型トロル戦で前に出てたって話が広がってて」

「守ってあげたいっていうより、実はめちゃくちゃ強いんじゃないかって」


 カレンは目を見開いた。


「私が……」


「怖がってるのに逃げないの、普通にすごいっすからね」


 カレンは、胸元で手を握った。


 怖いから見ます。


 それを、外の人が少しずつ見始めている。


 クラリスが、にこりと微笑んだ。


「私は、どう見られているのでしょう」


 ニルは一瞬だけ迷った。


「清楚な僧侶さん、です」


「それで?」


「……杖より拳が怖い僧侶さん、とも」


「ニルさん」


「俺じゃないっす! 噂っす!」


 クラリスは清楚に微笑んでいた。


 微笑んでいたが、ニルは一歩下がった。


 良樹は内心で少しだけ同情した。


「お前、よく見てるな」


「人の噂を拾うのは得意っす」

「あと、ガレスさんも期待してるっぽいですよ」

「新進気鋭の四人組って感じで」


「新進気鋭か」


「まだ英雄とかじゃないっすよ」

「でも、あの四人、本物かもな、くらいにはなってます」


「一回だ」


 良樹は低く言った。


「一回うまくいっただけだ」


 ニルは、少し真面目な顔になった。


「その一回で、助かった家があるんすよ」


 良樹は黙った。


 ニルは、すぐに軽い顔へ戻る。


「まあ、それはそれとして、良樹さんは爆発案件っす」


「戻すな」


「いや、そこは譲れないっす」

「三人とも綺麗で可愛くて強いとか、普通に羨ましいっす」


「お前にも彼女がいるだろ」


 ニルは、にっと笑った。


「まあ、俺の彼女の方が可愛いっすけど!」


 良樹は、少しだけ目を瞬かせた。


「そこは譲らないんだな」


「当然っす」


 カレンが、その言葉に少しだけ反応した。


 普通に、彼女を可愛いと自慢する男。

 普通の年頃の恋人同士。


 それが、少しだけ眩しく見えた。


 良樹は、それにまだ気づかなかった。


   ◇


 ギルドへ戻ると、やはり視線が集まった。


 昨日ほど直接的なざわめきではない。

 だが、見られている。


 受付で声をかけると、すぐにガレスが奥から出てきた。


「来たか」


「ああ」


 良樹は、追加確認の内容を順に報告した。


 折れた柵。

 足跡の位置。

 農家への聞き取り。

 子どもが夜に納屋へ行っていたこと。

 採石場跡の砲撃痕。

 余波の方向。

 追加個体の痕跡は見つからなかったこと。

 ただし、旧街道と森の縁はしばらく警戒が必要なこと。


 ガレスは腕を組んで聞いていた。


「後始末までやったか」


「昨日の報告だけじゃ足りない」

「農家に警戒も伝えてない」

「採石場跡の痕跡も確認してない」

「追加個体の可能性もゼロじゃない」

「確認できるところは確認した」


 ガレスは、少しだけ口の端を上げた。


「お前らしいな」


「褒めてるのか」


「半分くらいだ」


「残り半分は」


「呆れてる」


「最近そればっかだな」


「実績だ」


 リシアが横で小さく笑った。


 ガレスは四人を見た。


「お前らには、今後こういう仕事が増える」


「こういう仕事?」


 良樹が聞き返す。


「討伐屋じゃねえ」

「危ない場所を見て、人が死ぬ前に止める仕事だ」

「確認」

「警戒」

「防衛」

「避難路の確保」

「危険範囲の調査」

「場合によっては討伐」


 ガレスは良樹を見た。


「嫌か?」


「嫌じゃない」


 良樹は即答した。


「俺たちに近い」


「だろうな」


 ガレスは頷いた。


「大型トロルを倒したからって、強敵狙いの討伐屋になる必要はねえ」

「お前らは、お前らのやり方で積め」

「人が死ぬ前に止める」

「それを積み上げろ」


 良樹は、静かに頷いた。


「ああ」


 英雄になる道。


 それは、派手な討伐だけではない。


 人を死ぬ前に止める仕事。


 その道が、少しだけ具体的になった。


   ◇


 夜。


 拠点へ戻ると、四人は簡単な食事を済ませた。


 昨日ほどの疲労はない。

 だが、一日歩き、確認し、報告し、見られ、噂を聞き、また評価を受けたせいか、空気には少しだけ重さがあった。


 良樹は作業場の試験台に向かっていた。


 紙。

 木炭。

 工具。

 昨日のメモ。


 そこへ、今日の確認内容を書き足していく。


 報告までが仕事。

 回収までが戦闘。

 撃った後に動けないなら、撃った後の担当を決める。

 一人で撃つな。

 四人で撃つ。


 その一行を書いた時だった。


 胸の奥で、何かがかちりと噛み合った。


 良樹は、無意識に右手を上げていた。


 いつものように胸元へ魔導盤を出そうとした。


 だが、光が生まれた場所は違った。


 胸元ではない。


 床の上だった。


 半透明の盤が、そこに立っていた。


 挿絵(By みてみん)


 薄い円盤。

 細い流路。

 まだ小さい。

 まだ不安定。


 だが、良樹の手元にはない。


「……何?」


 リシアが顔を上げた。


 カレンが目を見開く。


 クラリスも、静かに試験台を見た。


 良樹は、息を止めた。


「俺が、持ってない」


「魔導盤が……立っています」


 カレンが小さく言った。


 クラリスは、良樹の手元と試験台の盤を見比べる。


「良樹くんが、支えていないのですか?」


「支えてはいる」

「たぶん、支えてはいる」


 良樹は慎重に言った。


「でも、手元じゃない」

「胸元でもない」

「その場に、据わってる」


 意識を少し動かす。


 盤が揺れた。

 消えかける。


 良樹は慌てて意識を戻した。


「完全に独立してるわけじゃねえ」

「俺の意識から外れたら崩れる」

「でも、持たなくても立つ」


 リシアが、試験台の盤を見つめた。


「置きっぱなしにできる魔道具、ではないのね」


「ああ」

「これは置いた道具じゃない」

「俺が具現化してる盤だ」

「ただ、手元から離れてる」


 良樹は、左手を動かした。


 いつもの斥候盤を出そうとする。


 出ない。


「……同時には無理か」


「斥候盤は?」


 リシアが聞く。


「出ない」

「こいつを出してる間は、いつもの携行盤が出せねえ」


 カレンが少し不安そうに言う。


「では、自立盤を使っている間は、索敵できないんですか?」


「いや」


 良樹は、自立盤を見た。


「逆だ」

「たぶん、こっちの方が広く見える」

「容量が違う」

「携行盤より、ずっと大きく索敵できる」


 カレンは目を瞬かせた。


「では、危なくないんですか?」


「危ないところは別だ」


 良樹は、試験台の上に立つ盤を指した。


「こいつは、その場に据える盤だ」

「盤の中心は動かない」

「俺も、これを維持してる間は動きにくい」

「広く見える」

「でも、動けない」


 リシアが腕を組む。


「つまり、見張り台みたいなもの?」


「近い」

「高い場所から広く見える」

「ただし、見張り台ごと走ることはできない」


「分かりやすいような、分かりにくいような例えね」


「俺の中では分かりやすい」


「でしょうね」


 クラリスが静かに頷いた。


「良樹くんが自立盤を使う時は、広く見える代わりに、その場所から動けない」

「だから、近づかれた時の護衛と、撤収までの回収が必要になるのですね」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「自立盤は索敵できない盤じゃない」

「むしろ、見える」

「ただ、見えた危険から俺がすぐ逃げられねえ」


 カレンが胸元で手を握る。


「それなら、私たちが良樹さんを動かせるようにしないといけないんですね」


「頼む」


 良樹は短く答えた。


「一人で使うもんじゃねえ」

「これは、四人で使う盤だ」


 三人は、その言葉を黙って受け取った。


 リシアは、少しだけ頬を赤くする。

 カレンは胸元で手を握る。

 クラリスは、穏やかに微笑む。


 良樹は、盤の中を見た。


 容量が違う。


 携行盤とは比べ物にならない。


 胸元に出して、歩きながら持ち続ける盤とは違う。

 その場に立てることで、流路を広く取れる。

 構成を大きくできる。

 逃がしも、保持も、接続も、今までより余裕がある。


 良樹は、盤の端に並んだ小さな接点を見つけた。


 入力ではない。

 出力でもない。

 信号線でもない。


 接続点。


 端子台。


 そう呼ぶのが、一番近かった。


「……これ、外へ出せるな」


 リシアが眉を寄せた。


「外へ?」


「俺が使ってる魔力だ」

「世界から引っ張ってきてるやつ」

「これを、端子台から外へ流せるかもしれねえ」


 空気が止まった。


 カレンが、小さく息を呑む。


「それは……私たちにも、ですか」


「ああ」

「たぶん」


 クラリスの目が、静かに細くなる。


「危険ですね」


「危険だ」


 良樹は即答した。


「だから、いきなり繋がない」

「まず読む」

「前に読み出しが通ったのは、リシアだけだった」

「今の俺たちで、本当に通るのか確認する」


 リシアは、良樹を見た。


「今なら、通ると思う?」


「思う」

「でも、思うだけじゃ駄目だ」


 良樹は三人を見た。


「確認させてくれ」

「嫌なら止める」

「怖いなら止める」

「少しでも違和感があれば、そこで止める」

「読めたからって、全部読んでいいわけじゃない」

「必要なところだけ見る」


 リシアは、小さく息を吐いた。


「本当に、面倒な男ね」


「悪い」


「褒めてるのよ」


 リシアは、良樹の前に立った。


「読みなさい」

「必要なところだけ」


 良樹は頷いた。


   ◇


 リシアへの読み出しは、以前よりも深く通った。


 最初は、まだ耐えられた。


 触れられている。

 見られている。

 魔力の流れをなぞられている。


 それくらいなら、リシアも顔を赤くするだけで済んだ。


 だが、自立盤の線はそこで止まらなかった。


 火。

 氷。

 風。

 土。


 リシアが普段、感覚で組み替えている場所。

 自分でも言葉にしきれない、魔力を属性へ変える奥の部分。


 そこへ、良樹が入ってきた。


「ひぁっ……!」


 リシアの喉から、普段の彼女なら絶対に出さないような声が漏れた。


「ちょ、良樹、待っ……」

「うぅぅぅ……!」


 本人が一番驚いたように目を見開く。


 次の瞬間、リシアは真っ赤になって良樹を睨んだ。


「痛いか」


「痛くはないわよ!」

「でも、今のは違うでしょ!」


「違う?」


「違うのよ!」

「何か、奥まで来たの!」

「思ったより、ずっと深いのよ!」


「悪い。止める」


「止めなくていい!」


 反射的に言ってから、リシアはさらに赤くなった。


「違う、そうじゃなくて」

「必要なんでしょ」

「なら、見るしかないでしょ」


「嫌なら止める」


「嫌じゃないから困ってるのよ!」


 言ってしまってから、リシアは口を押さえた。


 良樹も固まった。


 自立盤の線は、リシアの魔力の奥に届いている。

 そこは、魔法使いとしての根に近い場所だった。


 リシアにとっては、服の上から触れられるより、よほど近かった。


 良樹は、意識を細くする。


 これ以上押し込まない。

 必要なところだけ見る。


 リシアの属性魔法。

 四魔素の流れ。

 エレメンタル・ストライク。

 風遮膜。

 圧縮。

 保持。

 解放。

 逃がし。


 良樹は、それを見た。


 以前より深く。

 以前より細かく。


 だが、奪えるとは思わなかった。


 これはリシアのものだ。


 リシアが積み上げた制御だ。


 良樹にできるのは、それを自分の盤に合わせることだけだった。


 押し込むのではない。

 奪うのでもない。

 真似るのでもない。


 合わせる。


 良樹は、そこで止めた。


「ここまでだ」


 リシアが息を吐く。


「……もういいの?」


「ああ」

「必要なところは見えた」

「これ以上は、見なくていい」


「……そう」


 リシアの頬は、まだ赤い。


 良樹は、何も言わなかった。


 言えなかった。


 魔力の流れの奥に、熱があった。


 リシアの火魔法ではない。


 もっと別の熱。


 負けたくない。

 置いていかれたくない。

 隣で同じものを見たい。

 最初に見つけたのは自分だという意地。

 怒りにも似た、けれどもっと甘い熱。


 それが、良樹の方へ向いていた。


 良樹は、それを口にしなかった。


 言葉にすれば、リシアのものを奪う気がした。


「通った」


 良樹は、それだけ言った。


「リシアは、問題ない」

「ただし、お前には無理に流さない」

「合わせる方向だ」


「合わせる?」


「ああ」

「お前の魔法に、俺の盤を合わせる」

「押し込んだら崩れる」


 リシアは、少しだけ目を見開いた。


 それから、小さく笑った。


「分かってるじゃない」


「今、読んだからな」


「そこは少し悔しいわね」


「悪い」


「だから、褒めてるのよ」


   ◇


 次はクラリスだった。


 クラリスは、良樹の前に静かに座った。


「お願いします」


「無理はしない」

「嫌なら止める」


「はい」

「でも、良樹くんなら止まってくださると分かっています」


 その信頼が重かった。


 良樹は、自立盤の線をクラリスへ伸ばした。


 回復魔法。

 身体の内側を見る魔力。

 筋肉。

 関節。

 骨の際。

 反動の逃がし方。


 そこまでは、クラリスも耐えられた。


 自分は普段から、人の内側を診る。

 だから、診られることにも覚悟はあった。


 だが、良樹の線は、ただ診るだけではなかった。


 クラリスが自分の身体をどう扱っているか。

 どこで力を逃がし、どこで魔力を通し、どこで回復を重ねるのか。


 その奥へ、良樹が入ってくる。


「んっ……」


 クラリスの唇から、小さく甘い息が漏れた。


 清楚な微笑みは崩れていない。

 崩れていないはずだった。


 けれど、睫毛が震えている。

 胸元で重ねた指に、少しだけ力が入っている。


「クラリス?」


「大丈夫ですから……」

「そのまま、そのままで……」


「本当に大丈夫か」


「はい」

「魔力回路の奥を診られる感覚が、少し慣れないだけです」

「検査としては、問題ありません」


「検査としては、か」


「はい。検査としては、です」


 クラリスは、ほんの少しだけ頬を染めて微笑んだ。


「診られる側というのは」

「思っていたより、恥ずかしいですね」


「止めるか」


「いいえ」


 クラリスは、静かに良樹を見た。


「止めないでください」

「良樹くんに、ちゃんと診ていただきたいです」


 良樹の喉が詰まった。


「ただし」


「ただし?」


「見えすぎたものは」

「良樹くんの中だけに、置いておいてください」


 良樹は、少しだけ息を止めた。


「ああ」

「言わない」


「はい」

「それなら、大丈夫です」


 良樹は、慎重に読み出しを続けた。


 クラリスの流れは、静かだった。


 回復魔法。

 身体の内側を見る魔力。

 筋肉を通り、関節の際を抜け、骨の手前で返る感覚。

 表面ではなく、奥へ通す感覚。


 透勁に近い、あの技術。

 回復魔法と体術が、同じ根を持っていることが分かる。


 良樹は、そこに以前とは違うものを見た。


 昔のクラリスなら、たぶんこうだった。


 治せるから。

 後で戻せるから。

 必要なら、自分の身体を後回しにする。


 だが、今は違った。


 クラリスの流れは、壊れようとしていなかった。


 むしろ、壊れないようにしている。


 手首。

 膝。

 肩。

 踏み込み。

 打った後の反動。


 そこに、ちゃんと意識が向いている。


 怪我をしたくない。


 その感情があった。


 ただの自己保存ではない。

 いや、自己保存でもある。

 けれど、それだけではない。


 怪我をしたら、良樹くんが悲しむ。


 その柔らかな願望が、魔力の返りに混じっていた。


 良樹は、息が止まりそうになった。


 事実だ。


 クラリスが怪我をすれば、良樹は悲しむ。

 怒る。

 心配する。


 だが、クラリスの中にあるそれは、少しだけ願いに近かった。


 良樹くんに、そう思ってほしい。

 自分が壊れたら、悲しんでくれる人であってほしい。

 自分の身体を、自分以上に大事にしようとしてくれる人であってほしい。


 そして良樹は、その願いに応えられる男でありたいと思ってしまった。


 良樹は、線を引いた。


「……通った」


 クラリスが、静かに良樹を見る。


「何か、分かりましたか?」


「ああ」


 良樹は、少しだけ言葉を選んだ。


 全部は言わない。


 言ってはいけない。


「お前には、反動を逃がす補助を入れる」

「それと、打った後の戻しだ」


「出力ではなく、ですか?」


「出力も少しは入れる」

「でも主目的は、壊れずに届くことだ」


 クラリスの目が、ほんの少し揺れた。


「……はい」

「それが、いいです」


 その返事に、良樹は少しだけ救われた。


 クラリスは、もう壊れるつもりではない。


 届くために、壊れないことを選び始めている。


「良樹くん」


「何だ」


「ありがとうございます」


「まだ何もしてない」


「いいえ」

「もう、していただいています」


 良樹は、答えられなかった。


   ◇


 最後は、カレンだった。


 カレンは、胸元で両手を握っていた。


 顔は少し青い。

 だが、逃げてはいない。


「怖いか」


 良樹が聞くと、カレンは正直に頷いた。


「……はい」

「怖いです」


「なら止める」


「止めないでください」


「無理すんな」


「無理は、少ししています」


 カレンは、顔を赤くしながらも、良樹を見た。


「でも、良樹さんになら」

「見られても、いいです」


 良樹は、しばらく黙った。


 それから、慎重に線を伸ばした。


 端子台接続ではない。

 まだ魔力を流すのではない。

 読み出しだけ。


 浅く触れる。


 カレンの肩が震えた。


 それでも、閉じない。


「少し深くなる」


「……はい」


「嫌なら止める」


「止めないでください」


 良樹は、慎重に線を進めた。


 その瞬間、カレンの身体がびくりと震えた。


「ぁ、んっ……!」


 甘く、怯えたような声が漏れた。


 カレンは慌てて両手で口を押さえた。


 目が潤んでいる。

 顔は耳まで赤い。


「痛いか」


 カレンは首を振る。


「痛く、ないです」

「でも……深い、です」


「止める」


「待ってください!」


 カレンは、口元を押さえたまま、必死に首を振った。


「怖いです」

「恥ずかしいです」

「良樹さんが、奥まで来ます」

「でも……」


 息が震える。


「嫌じゃ、ないです」


 良樹は動けなかった。


「カレン」


「閉じたくないです」

「良樹さんになら」

「ちゃんと、見てほしいです」


 それは、剣技の話だった。

 魔力回路の話だった。

 危機感知の話だった。


 だが、それだけではなかった。


 カレン自身も、それが分かっていた。


 良樹が奥へ入ってくる。

 自分が怖がっている場所まで。

 自分が隠していた弱さまで。


 それでも、閉じない。


「……分かった」

「押し込まない」

「必要なところだけ見る」


「はい」


 カレンは、小さく頷いた。


「見てください」


 良樹は、慎重に読み出しを続けた。


 肩。

 足。

 剣先。

 戻る場所。

 逃げ道。

 危ない方向。


 カレンの剣は、恐怖で鈍っているのではなかった。


 恐怖で、見えている。


 怖いから、見る。

 怖いから、足を残す。

 怖いから、戻る場所を探す。

 怖いから、相手の肩と足と剣先を見る。


 良樹は、そこで理解した。


 この子の恐怖を消してはいけない。


 怖くなくしてしまえば、カレンの目は鈍る。

 カレンの強さを潰す。


 必要なのは、恐怖を消すことではない。


 怖いまま、動けるようにすること。


 そして、その奥から返ってきたものに、良樹は言葉を失った。


 怖い。

 怖い。

 怖い。


 でも、見てほしい。

 怖がっている自分を。

 それでも前に出ようとしている自分を。

 良樹さんの役に立ちたい自分を。


 守られるだけでは嫌。

 後ろに置かれるだけでは嫌。

 良樹さんを英雄にする一人でいたい。


 怖いです。

 でも、好きです。

 怖いまま、好きです。


 その震えが、良樹の線へ返ってきた。


 良樹は、すぐに線を引いた。


「……見えた」


 カレンの目が、大きく開いた。


「本当、ですか」


「ああ」

「怖がってる」

「でも、逃げてねえ」


 カレンの顔が、泣きそうに歪んだ。


「それは……見られるんですね」


「見える」

「だから、無理はさせねえ」


 良樹は、カレンを見る。


「怖いまま動けるようにする」

「怖くなくするんじゃない」

「怖いから見えるお前を、潰さないように繋ぐ」


 カレンの瞳が揺れた。


「怖いままで、いいんですか」


「ああ」

「怖いままでいい」

「ただ、固まりすぎるところだけ支える」

「見えてるのに身体が追いつかないところを補う」

「お前の怖さは、消さない」


 カレンは、両手を胸元で握ったまま、小さく頷いた。


「はい」

「それが、いいです」


   ◇


 三人への読み出しは、通った。


 以前はリシアにしか届かなかった線が。

 今は、三人へ届いた。


 リシアの属性魔法の制御。

 カレンの剣技と危機感知。

 クラリスの回復魔法と魔力身体操作。


 そして、その奥にあるものも。


 リシアの熱。

 クラリスの深さ。

 カレンの震え。


 それは、魔力回路ではなかった。

 技術でもなかった。

 端子台の仕様に書くべきものでもなかった。


 良樹は、それを三人には伝えなかった。


 言えない。


 良樹は、そう思った。


 三人が自分へ向けているものを。

 三人が言葉にしていないものを。

 自分の口から言うべきではない。


 たとえ魔力の返りに乗って流れてきたものだとしても。

 たとえ三人が、自分へ向けて開いてくれた結果だとしても。


 それは、三人のものだ。


 良樹が勝手に取り出して、名前を付けて、確認済みの項目として扱っていいものではない。


 だから、言わない。


 ただ、受け取る。


 自分の中に沈める。


 三人を待たせすぎないための芯として。

 英雄になると決めた自分を、二度と逃がさないための重石として。


「今日は、ここまでだ」


 良樹は言った。


 リシアが眉を寄せる。


「繋がないの?」


「繋がない」

「出力上限も、切断手順も、異常時停止も決めてない」

「この状態で繋ぐのは危ない」


「本当にそれだけ?」


 リシアの問いに、良樹は一拍だけ遅れた。


「ああ」


 嘘ではない。


 危ないのは本当だ。

 手順が足りないのも本当だ。

 今日繋ぐべきではないのも本当だ。


 ただ、全部ではない。


 良樹の胸の奥には、まだ三人の感情が残っていた。


 リシアの熱。

 クラリスの深さ。

 カレンの震え。


 それを、良樹は口にしなかった。


 言葉にすれば、三人のものを奪う気がした。


「明日、端子台の試験をする」

「今日は条件だけ整理する」


 クラリスが静かに頷いた。


「はい」

「良樹くんがそう判断するなら」


 カレンも胸元で手を握った。


「私も、大丈夫です」

「少し怖いですけど……でも、大丈夫です」


 良樹は、カレンを見た。


 怖いまま、閉じない流れ。


 それを思い出しそうになって、視線を少しだけ落とした。


「怖いなら、それでいい」

「怖くなくするために繋ぐんじゃねえ」

「怖いまま、動けるようにする」


 カレンの目が、少し潤んだ。


 リシアが、小さく息を吐く。


「また、そういうことを言う」


「何がだ」


「何でもないわ」


 クラリスは、穏やかに微笑んだ。


「良樹くん」

「明日は、私たちも確認される側ですね」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「三人とも、無理はさせない」

「出力も、接続も、切断も」

「全部、俺が見る」


 そこで一度、言葉を切った。


 胸の奥に沈めたものが、重くなる。


「だから」

「俺も、逃げない」


 三人は、その言葉の意味を完全には知らない。


 知らなくていい。


 良樹はそう思った。


 これは、自分が受け取ったものだ。

 勝手に見えてしまったものだ。

 なら、それをどう扱うかは、自分の責任だ。


 利用しない。

 口にしない。

 軽くしない。


 ただ、背負う。


 英雄になると決めた男の芯にする。


 良樹は、自立盤を消した。


 端子台の光も、ゆっくりと薄れていく。


 試験台の上には、メモだけが残った。


 端子台試験。

 対象、三名。

 接続前確認、完了。

 明日、極小出力から。


 良樹は、その下に少しだけ間を空けて、もう一行を書いた。


 逃げるな。


 その文字を見て、リシアが覗き込む。


「何それ」


「自分用だ」


「ふうん」


 リシアは、勝手にその横へ書き足した。


 少しだけ。


「おい」


「必要仕様よ」


 クラリスも筆を取る。


 丁寧に。


「勝手に増やすな」


「安全条件です」


 カレンは、少し迷ってから、小さく書いた。


 四人で。


 良樹は、その三つの文字を見て、深く息を吐いた。


「逃げ道が完全に仕様で潰されてる」


 リシアが笑う。


「逃げなくていいように、でしょ」


 良樹は返事をしなかった。


 返事の代わりに、三人が書き足した文字を見た。


 少しだけ。

 丁寧に。

 四人で。


 英雄への道は、少しずつ外から見え始めていた。


 そしてその夜。

 良樹の魔導盤もまた、ほんの少し姿を変えた。


 手に持つ盤から。

 その場に立つ盤へ。


 ひとりで扱う術から。

 四人を繋ぐ盤へ。


 良樹が三人を待たせすぎないための段取りは、

 この小さな自立盤から、また一つ先へ進み始めていた。


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