第29話 我慢も段取り(挿絵有)
拠点へ戻ると、空気が一気に緩んだ。
外の緊張。
ギルドの視線。
ガレスの評価。
討伐の重さ。
それらが、扉を閉めた瞬間に少しだけ遠くなる。
試験台。
水桶。
火床。
立入禁止線。
壁際の工具。
リビングの椅子。
二階へ続く階段。
良樹は腰袋を外しながら言った。
「明日、足跡周辺の確認は必要だな」
「農家にも一応、警戒を伝えた方がいい」
「採石場跡の地形も記録しておく」
「砲撃盤の撤収手順も見直し――」
「良樹」
リシアが低い声で遮った。
「帰ってきて最初にそれ?」
「報告は終わったが、再発防止はまだだ」
「休むのも仕事よ」
クラリスが静かに続けた。
「良樹くん」
「今日は休むのも仕事です」
「二人で言うな」
「必要だから言っているのよ」
リシアは椅子に腰を下ろした。
その動きが、少し重い。
良樹は気づいた。
「リシア」
「何?」
「疲れてるだろ」
「少しね」
「少しじゃねえだろ」
「……少し多めにね」
リシアはそう言って、椅子の背にもたれた。
牽制。
エレメンタル・ストライク。
風遮膜。
余波処理。
ギルドでの報告。
体力も魔力も、かなり使っているはずだった。
カレンがお茶を淹れようとして立つ。
「あ、あの、お茶を――」
「カレンさんも座ってください」
クラリスが止めた。
「今日は全員、休む日です」
「でも」
「休む日です」
「はい……」
クラリスの声に、カレンは素直に座り直した。
良樹は軽く息を吐き、水を一杯飲んだ。
その間に、リシアのまぶたが落ちていく。
「リシア」
「起きてるわよ」
「嘘つけ」
「起きて……」
言葉が消えた。
リシアは、椅子にもたれたまま眠っていた。
良樹は少しだけ黙る。
起こすか。
このまま寝かせるか。
だが、夜のリビングでそのまま寝れば身体を冷やす。
「悪い。運ぶぞ」
良樹は小さく言い、リシアを抱き上げた。
軽い。
いや、実際に軽いかどうかではない。
腕の中に収まる重さが、妙に現実的だった。
リシアの髪が、良樹の腕に触れる。
顔が胸元の近くに来る。
リシアは、わずかに身じろぎした。
起きたか。
良樹は一瞬そう思ったが、リシアは目を開けなかった。
実際には。
リシアは半分、起きていた。
完全に、とは言えない。
だが、良樹の腕に抱えられていることだけは分かった。
なら、仕方ない。
寝ている。
疲れている。
良樹が勝手に運んでいる。
これは役得ではない。
不可抗力だ。
そういうことにした。
◇
良樹は二階へ向かう。
カレンが慌てて立ち上がった。
「あ、あの、私が先に扉を開けます」
「頼む」
カレンが階段を先に上がる。
良樹はリシアを抱えたまま、その後に続いた。
階段。
カレンが先。
良樹が後ろ。
ミニスカートの剣士。
今日も動きやすい服装。
そして、階段。
カレンは三段ほど上がったところで、その事実に気づいた。
自分が前。
良樹さんが後ろ。
階段。
今日の、下着。
顔が、一気に熱くなる。
だが、今さら立ち止まるわけにもいかない。
良樹はリシアを抱えている。
道を塞げば危ない。
カレンは、なるべく普通に上がった。
普通に。
普通に。
普通に。
そう思うほど、歩き方がぎこちなくなる。
二階へ上がったところで、カレンは振り返った。
良樹は、バツの悪そうな顔をしていた。
目を逸らしている。
明らかに逸らしている。
見えた。
たぶん、見えた。
カレンは、後ろ手でスカートを押さえた。
顔が真っ赤になる。
そして、何を思ったのか。
「きょ、今日はピンクです!」
言った。
自分で言った。
言ってから、カレンは完全に固まった。
良樹も固まった。
腕の中のリシアも、目を閉じたまま内心で叫んだ。
今、何て?
廊下に、妙な沈黙が落ちる。
良樹は、リシアを落とさないように抱え直した。
それから、カレンを見る。
「……俺以外の男には見せるなよ」
低い声だった。
怒ってはいない。
責めてもいない。
茶化してもいない。
ただ、漏れた。
カレンの目が、大きく開く。
「は、はいっ」
返事も、ほとんど反射だった。
良樹は、自分の言葉に一拍遅れて気づいた。
今のは何だ。
確認でもない。
注意でもない。
装備の挙動確認でもない。
事故防止でもない。
ただの、独占欲だった。
良樹の耳が熱くなる。
「……悪い」
「今のは」
「い、いえ」
「嫌では、ないです」
カレンは、スカートを押さえたまま小さく言った。
良樹は完全に逃げ場を失った。
腕の中のリシアは、寝たふりを続けた。
聞いていない。
聞かなかった。
聞かなかったことにする。
あとで聞く。
リシアは目を閉じたまま、良樹の胸元へほんの少しだけ顔を寄せた。
良樹はそれに気づいた。
「リシア?」
返事はない。
寝ている。
たぶん。
たぶん、寝ている。
「……今日は助かった」
良樹は、小さく言った。
「お前の風遮膜がなかったら、撃った後が危なかった」
リシアは答えなかった。
答えたら、起きていたことがばれる。
だから、返事の代わりに。
ほんの少しだけ、良樹の胸元へ顔を埋めた。
良樹は、何も言わなかった。
◇
リシアを三人の部屋へ寝かせたあと、良樹は一階へ戻った。
喉が渇いていた。
手も洗いたい。
頭も冷やしたい。
主に、頭を冷やしたい。
水場へ向かう。
扉の前に、使用中の札はかかっていなかった。
良樹は何も考えず、扉を開けた。
そして。
白い肌。
ほどけた金の髪。
胸元を隠す前の、ほんの一瞬。
クラリスが、着替えていた。
良樹は考えるより先に扉を閉めた。
ばたん。
廊下に、重い沈黙が落ちる。
良樹は扉の前で固まった。
主幹。
主幹はどこだ。
この世界にはなぜ主幹ブレーカーがない。
扉の向こうから、少し遅れて声がした。
「……良樹くん?」
「悪い」
「札が出てなかった」
「……すみません」
「忘れていました」
クラリスの声は、いつもより少しだけ低かった。
良樹は、扉の前で額を押さえる。
「見た」
正直に言った。
「すぐ閉めたが、見た」
「悪い」
扉の向こうで、布の擦れる音がした。
「はい」
短い返事。
良樹は、しばらく黙った。
前なら、ここで逃げていた。
見ていない。
事故だ。
忘れろ。
悪い。
それで終わらせようとした。
だが、もう違う。
三人に言った。
三人とも好きだと。
三人を嫁にもらうと。
そのために英雄になると。
なら、自分の欲からも逃げてはいけない。
良樹は、扉を見たまま言った。
「……英雄になれるまでは我慢する」
「だから、気を付けてくれ」
扉の向こうが、静かになった。
長い沈黙ではない。
だが、妙に長く感じる沈黙だった。
やがて、クラリスの声が返ってきた。
「……はい」
「私も、我慢します」
良樹は、廊下で沈んだ。
強い。
その返しは、強すぎる。
今すぐ主幹を落としたい。
この世界には主幹がない。
無念である。
「……着替えが終わったら教えてくれ」
「俺は、少し離れてる」
「はい」
「良樹くん」
「何だ」
「我慢してくださって、ありがとうございます」
良樹は天井を見上げた。
「礼を言われると、余計に困る」
「はい」
「私も、少し困っています」
扉の向こうで、クラリスが小さく笑った気がした。
◇
その夜。
三人の部屋では、嫁会議が開かれていた。
議題は、良樹である。
いつものことだった。
ただし、今回は危険度が違った。
リシアは寝台の端に座り、腕を組んでいる。
カレンは胸元で両手を握り、顔を真っ赤にしている。
クラリスは、いつものように穏やかな顔をしている。
穏やかな顔をしているが、頬は少し赤い。
「あ、あの……」
最初に口を開いたのはカレンだった。
「今日、階段で……」
リシアの眉が動く。
クラリスが静かに見る。
「良樹さんに」
「俺以外の男には見せるなって……言われました」
部屋が止まった。
リシアが額を押さえる。
「独占欲じゃない」
クラリスが静かに頷く。
「独占欲ですね」
「ど、独占……」
カレンはその単語で沈んだ。
両手で顔を覆いかける。
「しかも、俺以外」
リシアが低く言う。
「はい」
「男には」
「はい……」
「見せるな」
「はい……」
リシアは、寝台に倒れかけた。
「強い」
「強いですね」
クラリスが同意する。
「良樹くんは、かなり我慢しているようです」
リシアが顔を上げた。
「何かあったの?」
「はい」
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
「水場で、少し」
「少し?」
「使用中の札を、かけ忘れていました」
リシアの目が細くなる。
「本当に?」
「本当に、です」
「本当に本当?」
「……おそらく」
「おそらくって言ったわね」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「良樹くんが入ってきて」
「見られました」
カレンが、ぽん、と音がしそうなくらい赤くなった。
「み、見られ……」
リシアは額を押さえた。
「それで?」
「良樹くんはすぐに扉を閉めて」
「謝って」
「それから」
クラリスは、ほんの少しだけ声を柔らかくした。
「英雄になれるまでは我慢する、と」
「だから気を付けてくれ、と」
今度は、リシアとカレンが止まった。
「我慢……」
カレンが小さく繰り返す。
「はい」
「私も、我慢しますと答えました」
リシアは、両手で顔を覆った。
「駄目」
「それは駄目」
「文章が強すぎる」
クラリスは穏やかに微笑む。
「良樹くんは、逃げませんでした」
「見たことも」
「我慢していることも」
「ちゃんと言いました」
リシアは黙った。
それは、分かる。
良樹は少しずつ変わっている。
前なら逃げた。
事故だと言った。
見ていないことにした。
自分の欲を、危険物として封印しようとした。
でも今は違う。
英雄になるまで我慢する。
つまり。
いつかは、我慢しない。
リシアはそこまで考えて、顔を熱くした。
「……私は」
二人がリシアを見る。
リシアは視線を逸らした。
「抱っこされた」
カレンとクラリスが、同時に目を向ける。
「寝てたのよ」
「寝てたから、仕方なかったの」
クラリスが静かに言った。
「起きていましたね」
「……途中から」
「やっぱり」
カレンが小さく呟いた。
「役得、ですね」
リシアは顔を赤くしたまま、開き直った。
「そうよ」
「役得よ」
「今日くらい、いいでしょ」
「はい」
クラリスは柔らかく頷いた。
「今日くらい、良いと思います」
カレンも、小さく頷いた。
「リシアさん、たくさん魔法を使っていましたから」
リシアは、少しだけ黙った。
それから、ぽつりと言う。
「……良樹がね」
「今日は助かったって」
「風遮膜がなかったら、危なかったって」
カレンの表情が柔らかくなる。
クラリスも静かに微笑む。
「良樹さんらしいです」
「はい」
「ちゃんと、見ていますね」
リシアは、膝の上で手を握った。
エレメンタル・キャノン。
自分のエレメンタル・ストライクから生まれた、良樹の砲撃。
名前を変えず。
形を変えて。
良樹の中で育った技。
腹立たしい。
悔しい。
でも、嬉しい。
それを言葉にするのは、まだ少し難しかった。
◇
しばらく、三人は黙った。
独占欲。
我慢。
抱っこ。
今日一日で、色々なものが進んだ。
大型トロルを倒した。
ギルドで評価された。
新進気鋭の四人組として見られ始めた。
でも、三人にとってはそれだけではない。
良樹が、自分たちを正式に迎えるために英雄を目指している。
そして、自分たちも良樹を英雄にする。
その道の途中で、良樹も我慢している。
自分たちも我慢している。
リシアが、ふと呟いた。
「英雄になったら、なのよね」
カレンが顔を上げる。
「はい」
クラリスも静かに頷く。
「はい」
「英雄になって、正式に三人とも妻になったら、です」
妻。
その言葉に、三人とも一度黙った。
何度聞いても、まだ慣れない。
だが、嫌ではない。
むしろ、胸の奥が熱くなる。
リシアは、少しだけ視線を逸らして言った。
「その……」
「順番は、やっぱり決めた方がいいのかしら」
「じゅ、順番……」
カレンの顔が一気に赤くなる。
クラリスは、少しだけ目を伏せた。
「ですが、順番を決めると、最初の方と後の方ができますね」
部屋が、静かになる。
リシアは唇を結んだ。
「それは……嫌ね」
カレンも、小さく頷く。
「嫌、です」
クラリスも静かに言った。
「私も嫌です」
誰が最初か。
誰が後か。
そんなものを決めるのは、嫌だった。
恋敵ではある。
負けたくない気持ちはある。
譲りたくない気持ちもある。
けれど、誰か一人だけが最初になって、他の二人が後になるのは違う。
良樹は、三人とも選んだ。
三人も、三人で良樹を選んだ。
なら。
カレンが、胸元で両手を握った。
「あ、あの」
リシアとクラリスが見る。
カレンの声は震えていた。
「私は……」
「順番を決めたら、たぶん、譲ってしまいます」
リシアは何も言わなかった。
クラリスも、静かに聞いていた。
「でも、それは嫌です」
「譲りたいわけじゃ、ないんです」
「でも、リシアさんも、クラリスさんも大切で」
「だから、たぶん」
「私、後でいいですって、言ってしまいます」
カレンは、顔を真っ赤にしたまま続けた。
「でも」
「本当は、嫌です」
小さな声だった。
けれど、逃げていなかった。
「だから……」
「一緒が、いいです」
部屋の空気が止まった。
リシアは、しばらくカレンを見ていた。
それから、額に手を当てる。
「……先に言われた」
クラリスが静かに微笑む。
「はい」
「私も、それが一番良いと思っていました」
「思ってたなら言いなさいよ」
「カレンさんが言う方が、良樹くんに効くと思いましたので」
「策士」
「僧侶です」
「僧侶はそういう職業じゃないわよ」
カレンは、真っ赤なまま二人を見ていた。
「い、一緒で……いいんですか?」
リシアは、息を吐いた。
「いいか悪いかで言えば、たぶん普通はよくないわよ」
「そ、そうですよね……」
「でも」
リシアは、カレンを見た。
「私も、それがいい」
カレンの目が揺れる。
クラリスも頷いた。
「私もです」
リシアは、少しだけ顔を赤くしながら言った。
「誰かを最初にしない」
「誰かを後にもしない」
「三人とも、同じ日に」
カレンが、小さく続ける。
「同じ、夜に」
クラリスが、静かに締めた。
「三人で、良樹くんの妻になります」
三人は、同時に黙った。
言った。
言ってしまった。
けれど、誰も否定しなかった。
リシアは赤くなった顔を隠すように腕を組む。
「英雄になったら、よ」
「はい」
「英雄になってから、です」
カレンは慌てて頷く。
クラリスも微笑んだ。
「正式に三人とも妻になってからですね」
「それまでは我慢」
リシアが言う。
「はい」
「我慢します」
カレンが真面目に頷く。
クラリスは、少しだけ目を細めた。
「良樹くんも、我慢してくださっていますから」
三人の間に、また沈黙が落ちた。
我慢。
その言葉は、さっきまでより重かった。
拒絶ではない。
逃避でもない。
先送りでもない。
良樹が三人を正式に妻にするための、待機状態。
待つ。
ただし、いつまでもではない。
「でも」
リシアがぽつりと言った。
「待たせすぎたら、怒るわよ」
「はい」
カレンが小さく頷く。
「私も、怒ります」
「私もです」
クラリスは柔らかく微笑んだ。
「我慢した分は、必ず返していただきます」
リシアとカレンが固まる。
「クラリス」
「はい」
「今の言い方、危ないわよ」
「危ないですね」
「分かってるならやめなさい」
「確認期間ですので」
「便利に使いすぎよ、その言葉」
三人は顔を見合わせた。
そして、少しだけ笑った。
小さな笑い声だった。
けれど、甘かった。
◇
その頃、廊下。
良樹は固まっていた。
聞くつもりはなかった。
なかったのだ。
リシアを寝かせた後、水場の事故があり、頭を冷やそうとして一階へ戻りかけた。
その途中で、三人の部屋の前を通った。
声が聞こえた。
聞こえてしまった。
順番。
一緒。
英雄になったら。
三人とも、同じ日に。
同じ夜に。
主幹はどこだ。
ない。
この世界には、やはり主幹がない。
良樹は廊下で、しばらく動けなかった。
逃げようかと思った。
このまま足音を殺して、一階へ戻る。
聞かなかったことにする。
明日の朝、何も知らない顔をする。
それはできた。
できたが。
違う。
良樹は、廊下の壁に背を預け、ゆっくり息を吐いた。
焦るつもりはない。
勢いで、三人の覚悟に甘えるつもりもない。
英雄にもなっていない。
正式に妻にできる立場も、まだない。
そこを曖昧にしたまま、欲だけ先に通すのは違う。
だが。
待たせ続けるつもりもない。
英雄なんて、いつかなれたらいい。
そんな遠い言葉にして、三人を宙ぶらりんにするつもりもない。
良樹は、拳を握った。
「焦るつもりはねえ」
誰に聞かせるでもなく、呟く。
「けど、そこまで待たせるつもりもねえ」
「悪いが」
「少しだけ、時間をくれ」
部屋の中の三人には、聞こえていない。
聞こえていないはずだった。
だが、リシアの声が、少しだけ止まった。
カレンの息を呑む音がした。
クラリスが、小さく笑った気配がした。
良樹は固まった。
聞こえたか。
いや。
たぶん、聞こえた。
扉の向こうから、リシアの声がした。
「……少しだけ、ね」
カレンの声が続く。
「はい」
「待ちます」
クラリスが、柔らかく言った。
「ですが、良樹くん」
「……何だ」
「少しだけ、ですよ」
良樹は、天井を見上げた。
やはり、この世界には主幹がない。
良樹は、短く息を吐いた。
「ああ」
「少しだけだ」
扉の向こうで、三人が小さく笑った。
その笑い声を背に、良樹は一階へ戻った。
逃げるためではない。
段取りを組むために。
英雄になるまでの、少しだけの時間を。
本当に少しだけにするために。
◇
一階の作業場で、良樹は一人、椅子に座っていた。
寝る前に、今日のことを少しだけ整理しようと思った。
討伐。
報告。
ガレスの評価。
四人の役割。
エレメンタル・キャノンの盤。
撤収手順。
階段。
ピンク。
俺以外の男には見せるな。
水場。
我慢。
順番ではなく、一緒。
良樹は、両手で顔を覆った。
「……情報量が多すぎる」
大型トロルより、別の意味で危険だった。
だが、逃げる気はなかった。
良樹は顔を上げる。
試験台の上には、工具がある。
魔導盤の構成メモがある。
ガレスから受け取った依頼書の写しがある。
報告の控えもある。
英雄への一歩目。
それは、思っていたより地味で。
思っていたより重くて。
思っていたより、甘かった。
良樹は、短く息を吐いた。
「……段取りしねえとな」
誰に聞かせるでもなく呟く。
大型トロルを倒して終わりではない。
評価されて終わりでもない。
三人に好きだと言って終わりでもない。
英雄になる。
三人を嫁にもらう。
そのために、一つずつ現実へ落とし込む。
良樹は、机の上の紙に一行だけ書いた。
――報告までが仕事。
――回収までが戦闘。
――我慢も、段取り。
書いてから、良樹は固まった。
「最後のは違うな」
紙を裏返した。
だが、消えたわけではなかった。
良樹は天井を見上げる。
二階には、三人がいる。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人が、自分を英雄にすると言った。
少しだけ待つ、とも言った。
なら。
自分も、そこへ行くしかない。
英雄への最初の仕事は、終わった。
けれど、英雄への道は、まだ始まったばかりだった。
そして。
待たせる時間を、少しだけにするための仕事も。
今、この瞬間から始まっていた。




