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第26話 英雄になるには(挿絵有)

 行くぞ。


 英雄ってやつに。


 そう言ったあと、作業場にはしばらく声がなかった。


 夕方の光が、試験台の上に長く伸びている。

 水桶の水面が、橙色に染まっている。

 火床は冷えていて、立入禁止線も退避経路も、そのままだ。


 リシアは、良樹の右側にいた。

 カレンは、胸元で両手を握ったまま、少し前にいた。

 クラリスは、左側で静かに良樹を見ていた。


 先程、言った。


 三人とも好きだと。

 三人を嫁にもらうと。

 そのために英雄になると。


 そして三人は、それを受け入れた。


 受け入れてしまった。


 良樹は、その現実を頭の中で何度か確認した。


 確認したが、処理は追いついていなかった。


 リシアが自分を見る目。

 カレンが泣きそうに笑った顔。

 クラリスが静かに頷いた瞬間。

 三人同時の「はい、喜んで」。


 どれも、胸の奥に残っている。


 心臓に悪い。


 とても悪い。


 ただし、嫌ではない。


 嫌ではないのが、一番まずい。


 良樹は、ゆっくり息を吐いた。


「俺は、ガレスのところへ行ってくる」


 三人が同時に固まった。


 リシアが、少し遅れて口を開く。


「……今から?」


「ああ」


「今、この流れで?」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「英雄になるって言った以上、まず条件を確認しねえと話にならん」


 リシアが、目を瞬かせた。


 カレンも、胸元で握った手に力を込める。


「条件、ですか」


「そうだ」


 良樹は答えた。


「勢いで言って終わりにする気はない」

「どうすれば届くのか」

「何が足りないのか」

「まず聞いてくる」


 クラリスが、少しだけ目を細めた。


「良樹くんらしいですね」


「そうか?」


「はい」


 クラリスは微笑んだ。


「言葉にした直後に、実現条件を確認しに行くところが」


「言っただけでできるなら苦労しねえだろ」


 良樹は腰袋を確かめた。


 工具はある。

 意味はない。

 だが、身につけていないと落ち着かない。


 リシアが、小さく息を吐いた。


「余韻とか、ないの?」


「ある」


 良樹は即答した。


「あるの?」


「かなりある」


「なら、もう少し浸ってもいいんじゃないの?」


「浸ったら動けなくなる」


 リシアは、一瞬だけ黙った。


 カレンの顔が、また赤くなる。

 クラリスの微笑みが、ほんの少し深くなった。


 良樹は、自分で言ってから気づいた。


 今のは余計だった。


「……悪い」


「謝らなくていいわよ」


 リシアはそっぽを向いた。

 耳が赤い。


「そういうところも、まあ」

「良樹だし」


「どういう評価だ」


「良い意味と悪い意味の半々」


「最近そればっかだな」


「実績よ」


 カレンが、小さく一歩前に出た。


「あ、あの」


「何だ」


「行ってらっしゃい、です」


 その言葉に、良樹は一瞬だけ動きを止めた。


 行ってらっしゃい。


 普通の言葉だ。


 けれど、帰る場所があるように聞こえた。


 退路は塞ぎました。


 逃げなくていいように、です。


 先程、カレンはそう言った。


 良樹は、短く頷いた。


「ああ」

「行ってくる」


 クラリスが、静かに言った。


「お帰りを、お待ちしています」


「……ああ」


 リシアが腕を組む。


「ちゃんと帰ってきなさいよ」


「ギルドに行くだけだぞ」


「良樹の場合、ギルドに行くだけで変な仕事を拾って帰ってきそうなのよ」


「否定しきれねえな」


「否定しなさいよ」


 良樹は、少しだけ笑った。


 それから作業場の扉へ向かう。


 扉を開ける前に、振り返った。


 三人がこちらを見ていた。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 先程まで三人を抱き返していた。

 三人とも、まだ顔が赤い。

 自分も、たぶん似たような顔をしている。


 だが、行く。


 言葉を現実にするために。


「すぐ戻る」


 三人が頷いた。


 良樹は扉を開け、外へ出た。


 扉が閉まる。


 作業場に、木の音だけが残った。


   ◇


 ギルドは、夕方前のざわめきに包まれていた。


 依頼帰りの冒険者。

 報酬を受け取る者。

 酒場へ流れていく者。

 明日の仕事を探す者。


 良樹は、その中をまっすぐ歩いた。


 受付の女性が良樹を見て、少しだけ目を丸くする。


「あ、良樹さん。ガレスさんですか?」


「ああ。いるか?」


「奥にいます。呼びましょうか?」


「頼む」


 受付が奥へ引っ込む。


 少しして、ガレスが出てきた。


 いつものように口は悪そうで、腕を組んでいて、面倒そうな顔をしている。


 だが、良樹を見る目だけは、少し違っていた。


「来たか」


「ああ」


 ガレスは、良樹の顔をしばらく見た。


 そして、ふっと口の端を上げる。


「迷いは消えたみてえだな、若ぞ……」


 言いかけて、止まった。


 ほんの短い間だった。


 だが、良樹には分かった。


 ガレスは、言葉を選び直した。


「良樹」


 若造ではなく。


 良樹。


 その呼び方が、思ったより胸に来た。


 馬鹿にされたわけではない。

 からかわれたわけでもない。

 年下扱いで片付けられたわけでもない。


 一人の男として、呼ばれた。


 良樹は、少しだけ背筋を伸ばした。


「ああ」

「色々と助かった」


 自然に、言葉が丁寧になる。


「ありがとうございました」


 ガレスは茶化さなかった。


 笑いもしなかった。


「礼を言われるほどのことはしてねえ」

「道があると言っただけだ」


「その道があるって知らなきゃ、俺はたぶん、逃げ道を探してた」


 ガレスは、黙って良樹を見た。


 良樹も視線を逸らさなかった。


「三人に言ったのか」


「ああ」


「何て」


「三人とも好きだ」

「三人を嫁にもらう」

「そのために英雄になる」

「俺を英雄にしてくれ」


 ガレスの眉が、わずかに動いた。


「全部言ったのか」


「ああ」


「馬鹿正直にも程があるな」


「誤魔化したら意味がない」


「だろうな」


 ガレスは短く息を吐いた。


「で」

「三人は何て言った」


 良樹は、少しだけ目を伏せた。


 それから答える。


「はい、喜んで、って」


 ガレスは、しばらく無言だった。


 そして、低く笑った。


「そうか」


「ああ」


「逃げ道、塞がれたな」


「逃げなくていいように、らしい」


「良い女だな」


「三人ともな」


 言ってから、良樹は自分で少し驚いた。


 だが、訂正しなかった。


 ガレスも、そこを茶化さなかった。


「それで、何を聞きに来た」


「英雄になる条件だ」


 良樹は言った。


「英雄になるって言った」

「でも、俺はこの世界で何をすれば英雄として認められるのかを知らない」

「だから聞きに来た」


 ガレスは、しばらく良樹を見た。


 それから、顎で奥の卓を示した。


「座れ」

「少し長くなる」


   ◇


 ギルドの奥の小部屋は、表のざわめきから少し離れていた。


 古い机。

 簡素な椅子。

 壁に掛けられた周辺地図。

 何枚かの依頼書。

 獣皮に書かれた古い討伐記録。


 ガレスは机の向こうに座り、良樹はその正面に腰を下ろした。


「英雄になる方法は、大きく分けりゃ三つある」


「三つ?」


「ああ」


 ガレスは指を一本立てた。


「武功」


 二本目。


「救助や防衛」


 三本目。


「それから、世の中を変える技術や仕組みだ」


 良樹は黙って聞いた。


 すぐには頷かない。

 すぐには選ばない。


「全部聞かせてくれ」


 ガレスが、少しだけ目を細める。


「どれか一つでいいんじゃねえのか?」


「いいかどうかは、聞いてから判断する」


 良樹は答えた。


「俺は、自分がどの道に向いてるのかも」

「どの道が一番近いのかも」

「まだ知らねえ」


 間。


「それに、三つあるなら三つとも可能性として見ておく」


 ガレスは短く笑った。


「英雄志望の第一声がそれか」


「何だと思ってたんだ」


「強ぇ魔物はどこだ、とかだな」


「大型機械の前で仕様も見ずに主電源を入れる趣味はない」


「何言ってんのか分からねえが」

「たぶん嫌な例えなんだろうな」


「だいたい合ってる」


 ガレスは椅子にもたれた。


「まず、武功だ」


   ◇


「強い魔物を討つ」

「群れを潰す」

「災害級の脅威を止める」

「誰が見ても、あいつがやった、と分かる功績を立てる」


 ガレスは机の上を指で叩いた。


「一番分かりやすい英雄ルートだ」

「吟遊詩人も語りやすい」

「民衆も分かりやすい」

「王侯貴族も評価しやすい」


「強敵討伐か」


「ああ」


 良樹は少し考えた。


「一番分かりやすいが、俺単体の戦闘力が足りねえ」


「そこから見るのか」


「見るだろ」


 良樹は言った。


「リシア、カレン、クラリスがいれば可能性はある」

「三人とも強い」

「俺一人でどうにもならない相手でも、四人なら戦える場面はあると思う」


「ほう」


「だが、それは三人の戦闘力に俺が乗る形になる」


 良樹は机の木目を見た。


「俺が英雄として認められるには、俺自身の役割が見えねえと弱い」


 ガレスは黙って聞いている。


「それに」


 良樹は続けた。


「三人を嫁にするために英雄になるのに、その三人を危険に突っ込ませて使い潰すのは本末転倒だ」


 ガレスが、低く笑った。


「武功の話をしてるのに、まず味方の消耗を見るのか」


「見るだろ」

「一番大事なところだ」


「敵を倒すことじゃなくてか」


「敵を倒して三人が壊れたら、俺の目的は達成されない」


 良樹は即答した。


「俺は世界を救うために英雄になるわけじゃない」

「三人を泣かせないために英雄になる」

「だから、三人を泣かせる手段は選べない」


 ガレスは、少しだけ目を伏せた。


「……筋は通ってるな」

「綺麗かどうかは知らねえが」


「綺麗な動機じゃないのは自覚してる」


「いや」


 ガレスは短く言った。


「その辺の名誉欲よりは、よほど信用できる」


 良樹は答えなかった。


 ガレスは二本目の指を立てる。


「次だ」

「救助と防衛」


   ◇


「町を守る」

「人を逃がす」

「危ない場所から生きて帰す」

「大きな被害を小さく抑える」

「死ぬはずだった者を死なせずに帰す」


 ガレスは言った。


「派手じゃねえ」

「一発で英雄とは呼ばれにくい」

「だが、積み上がれば英雄になる」


 良樹は、今度はすぐに反応した。


「……俺に一番近いのは、たぶんそれだな」


「だろうな」


 ガレスは頷いた。


「お前は敵をぶっ殺して名を上げるより」

「死ぬはずだった連中を帰して、名が広がる方だ」


「再現性はある」


 良樹は、指を折りながら考える。


「索敵」

「退避」

「封鎖」

「誘導」

「足止め」

「危険範囲の設定」

「見張り」

「後方確認」


 言葉が、次々に出る。


「俺の魔導盤と相性がいい」

「ただし、目立ちにくい」

「功績として認められるには、規模が要る」


「そうだ」


 ガレスは頷いた。


「一人二人助けても、感謝はされる」

「だが英雄とは呼ばれねえ」

「町一つ」

「街道一本」

「大きな被害を未然に防ぐ」

「そういう積み上げが要る」


「記録は残るのか」


「依頼として通せば残る」

「ギルドも、領主も、見てる奴は見てる」

「ただし、派手な武功に比べりゃ時間はかかる」


「だろうな」


 良樹は納得した。


 地味だ。

 だが、現実的だ。


 敵を倒すより、死なせない。


 逃げ道を作る。

 危険を見つける。

 止める。

 戻す。


 それは、良樹にとって一番自然な道だった。


 ガレスは三本目の指を立てた。


「最後だ」

「技術や仕組み」


   ◇


「新しい魔道具」

「町の防衛を変える仕組み」

「危険地帯の探索方法」

「多数の命を助けるもの」

「世の中の仕組みを変える実用技術」


 ガレスは、良樹の胸元を見る。


 そこに魔導盤があるわけではない。

 だが、見ている場所は明らかだった。


「そういうものを作って広める者も、英雄と呼ばれることがある」


 良樹は、自然に胸元へ手をやった。


「魔導盤か」


「ああ」


 ガレスは言った。


「お前のそれは、まだ俺にもよく分からん」

「だが、使い方次第じゃ、ただの変な術じゃ済まねえ」


「技術ルートは、一番俺向きに見える」


 良樹は言った。


「ただし、一番時間がかかる」


「分かるのか」


「分かる」


 良樹は即答した。


「実用化」

「再現性」

「他人が使えること」

「保守」

「事故時の責任」

「壊れた時の復旧」

「誰が直すのか」

「どこまで説明できるのか」


 ガレスの顔が、少しずつ渋くなる。


「……お前、本当に何者だ」


「FA技術者だ」


「それは何だ」


「現場で動くものを作ったり直したり、安全に使えるようにする仕事だ」


「ざっくり言うと?」


「止まらないものを止められるようにする仕事だ」


「お前らしいな」


「俺の世界じゃ、止められない設備は危ない」


「こっちでも危ねえよ」


「なら同じだ」


 良樹は胸元から手を離した。


「俺だけが使えるうちは、技術じゃなくて個人能力だ」

「魔導盤が本当に技術になるには、他人が使えるか」

「あるいは、俺がいなくても仕組みとして残る必要がある」


 ガレスは腕を組んだまま、しばらく黙った。


「そこまで考えてる英雄志望は、初めて見た」


「英雄志望になったのはさっきだ」


「余計におかしいだろ」


「職業病だ」


「その職業、嫌な病にかかるんだな」


「否定はしない」


 良樹は、三つの道を頭の中で並べた。


 武功。

 救助と防衛。

 技術と仕組み。


 それぞれに利点がある。

 それぞれに欠点がある。


 武功は分かりやすい。

 だが危険が大きい。


 救助と防衛は自分に合う。

 だが積み上げが必要だ。


 技術は根本を変えられる。

 だが時間がかかる。


 なら。


「一つに絞る必要はないな」


 ガレスが眉を上げる。


「何?」


「武功は即効性があるが、危険が大きい」

「救助・防衛は俺に合うが、功績として積み上げる必要がある」

「技術は根本を変えられるが、時間と実績が要る」


 良樹は、机の上に三つの点を置くように指を動かした。


「なら、単独で狙うんじゃなくて、重ねる」


「重ねる?」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「救助と防衛の仕事をこなしながら、魔導盤を実戦で改善する」

「その結果として、武功が必要な場面が来たら、三人と一緒に対応する」

「最初から強敵狙いはしない」

「死なせない仕事で実績を積む」


 ガレスはしばらく黙った。


 それから、深く息を吐いた。


「英雄になる相談をしに来た奴が、仕事の段取りを組み始めやがった」


「段取りなしに英雄になれるなら苦労しねえだろ」


「普通は、もう少し夢とかロマンとかを語るもんだ」


「夢は語った」

「三人を嫁にもらう」


「そこだけは豪快なんだよな、お前」


「そのために段取りしてる」


「台無しだ」


「現実にするには必要だ」


 ガレスは、少しだけ笑った。


 呆れたようで。

 だが、どこか楽しそうだった。


「良樹」


「何だ」


「ちょうどいい話がある」


 良樹の目が変わった。


「依頼か」


「ああ」


 ガレスは机の端から一枚の紙を引き寄せた。


「大型トロルらしき目撃情報だ」


   ◇


 良樹は、紙へ視線を落とした。


「大型?」


「ああ」

「小型じゃねえ」

「三メルから四メル級だ」


「メルは、こっちの長さか」


「だいたい人の倍以上と思え」

「本物なら、今のお前ら四人でも正面からやるには重い」


 ガレスは地図を指した。


「町の北西」

「旧街道から少し外れた森」

「その先に採石場跡がある」

「最近、家畜が一頭やられた」

「太い木が折れてる」

「大きな足跡も見つかってる」


「確認か、討伐か」


「まずは確認」


 ガレスは言った。


「ただし、町へ向かうなら討伐に切り替える」


 良樹は地図を覗き込んだ。


「場所は」

「目撃時間は」

「足跡の向きは」

「近くに民家はあるか」

「退避路は」

「開けた場所はあるか」

「こっちが撃てる場所はあるか」


 ガレスは、半眼になった。


「英雄候補の第一声がそれか」


「大型トロル相手に根性論で行く趣味はねえ」


「根性論で行けとは言ってねえ」


「なら情報がいる」


「だろうな」


 ガレスは紙を一枚追加で出した。


「目撃は昨日の夕方」

「足跡は南東方向」

「このまま進めば、旧街道に近づく」

「街道沿いに小さな農家が二軒ある」

「森の中は狭い」

「採石場跡まで引き出せれば、少し開ける」


「採石場跡」


 良樹は地図の該当箇所を見る。


「崩落は」


「古い場所だ」

「奥へ入れば危ない」

「だが手前の広場は使える」


「撃てるか」


「何をだ」


「まだ決まってない」


「決まってないのに撃つ場所を見るのか」


「撃てない場所で戦うよりはマシだ」


 ガレスは、低く笑った。


「お前、本当に英雄になる気か?」


「ああ」


「今のところ、英雄というより現場監督だぞ」


「現場が壊れたら英雄も死ぬだろ」


「違いねえ」


 良樹は依頼書から目を離さない。


「受けるかどうかは、三人と相談する」


「ああ」

「お前一人の仕事じゃねえ」


「分かってる」


 良樹は立ち上がった。


「情報は持ち帰っていいか」


「写しを持っていけ」


「助かる」


 ガレスは、依頼書の写しを良樹に渡した。


 良樹はそれを受け取り、丁寧に畳む。


 そして、一度だけ頭を下げた。


「ありがとう」


「礼は帰ってから言え」


「まだ受けるとは決めてない」


「お前なら受ける」


「決めつけるな」


「町へ向かう危険がある大型トロルを、放っておける顔じゃねえ」


 良樹は、答えなかった。


 否定もできなかった。


 ガレスは、真面目な声で言った。


「良樹」


「何だ」


「英雄になりたいなら、派手な手柄に浮かれるな」

「最初に見るのは、生きて帰る道だ」


 良樹は、まっすぐガレスを見た。


「分かってる」

「俺は、三人を泣かせないために英雄になる」


「なら、まず泣かせるな」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「行ってくる」


「行け」


   ◇


 良樹が作業場を出ていったあと。


 三人は、しばらく扉を見ていた。


 扉が閉まる音。

 外へ遠ざかる足音。

 それが聞こえなくなっても、まだ誰も動かなかった。


 先程、良樹は言った。


 英雄になる、と。

 三人を嫁にもらう、と。

 俺を英雄にしてくれ、と。


 そして今、良樹はもう動き始めている。


 言っただけでは終わらせない。

 勢いで抱きしめて、それで満足する男ではない。

 自分が言った言葉を、どうすれば現実にできるのか。

 それを、もう確認しに行った。


 リシアは、作業場の扉を見つめたまま小さく息を吐いた。


 カレンは、胸元で両手を握ったまま動けない。

 クラリスも、静かに扉を見ていた。


 誰からともなく、三人は部屋へ戻った。


 扉を閉める。


 そして。


「……無理」


 リシアが崩れた。


「無理よ、さっきの良樹」


 挿絵(By みてみん)


 カレンが、こくこくと頷く。


「わ、私も……」

「さっきから、ずっと胸が変です……」


 クラリスは、両手を胸の前で重ねた。


「落ち着きましょう」

「こういう時こそ、冷静に身体の状態を確認して――」


 言いかけて、止まる。


「……無理ですね」


 挿絵(By みてみん)


「クラリスまで!?」


 リシアが顔を上げた。


 クラリスは頬を赤くしたまま、静かに微笑んだ。


「はい」

「無理です」


「そこは冷静枠でいてよ」


「冷静に判断した結果、無理です」


「余計に駄目じゃない」


 カレンは、両手で頬を押さえた。


「英雄に、なるって」

「私たちを、お嫁さんにするって」


 言葉にした瞬間、カレンの耳が真っ赤になった。


「お、お嫁さん……」


 自分で言って、自分で沈む。


 挿絵(By みてみん)


 リシアも、顔を赤くした。


「改めて言わないで」

「分かってるのに破壊力が上がるから」


 クラリスが、穏やかに言う。


「何度聞いても、良い響きですね」


「クラリス」


「はい」


「今、何でそんなにしれっと言えるの」


「しれっとはしていません」


「してるように見えるのよ」


「内心では、かなり乱れています」


「外に出して」


「少しだけなら」


 クラリスは頬に手を添え、目を伏せた。


「良樹くんが」

「私たち三人を」

「正式に妻にすると」

「胸を張って言ってくださいました」


 部屋が止まった。


 リシアが額を押さえる。


「駄目」

「文章にすると駄目」


 カレンが小さく震える。


「す、すごいです……」

「さっき聞いたのに、またすごいです……」


 クラリスは、微笑んだ。


「はい」

「すごいです」


 リシアは、ベッドの端に腰を下ろした。


「でも、冷静に考えるとおかしいわよね」


「おかしい、ですか?」


 カレンが聞く。


「だって、普通はまず、お付き合いとか」

「そういう段階があるんじゃないの?」


 部屋が止まった。


 カレンも、クラリスも、完全に止まった。


 リシアは、自分で言ってしまったことに気づいた。


 告白。

 お付き合い。

 恋人期間。

 婚約。

 結婚。


 普通なら、そういう流れがある。


 あるはずだ。


 なのに良樹は、告白の場でほぼ結婚宣言まで飛ばした。


 そして自分たちは。


「……でも」


 カレンが、小さく言った。


「私たちも、そのつもりでしたよね」


 リシアとクラリスが固まった。


「カレン」


「は、はい」


「今、ものすごいこと言ったわよ」


「す、すみません……!」


「謝るところじゃないけど」

「ないけど……」


 リシアは両手で顔を覆いかけた。


「そうなのよ」

「そこなのよ」


 クラリスが静かに頷く。


「否定できませんね」


「否定しなさいよ、そこは」


「できません」


「即答しないで」


 クラリスは、少しだけ視線を落とした。


「私も、良樹くんの隣にいる方法を考えていました」

「一時的に、ではなく」

「これから先も、ずっと」


 カレンも、小さく頷いた。


「私も……」

「良樹さんが誰か一人を選んで、私は離れるなんて」

「考えたくありませんでした」


 リシアは、唇を引き結んだ。


 分かっていた。


 自分も同じだった。


 誰か一人が選ばれて。

 残りの二人が笑って祝福する。


 そんな綺麗なことは、自分にはできない。


「つまり」


 リシアは言った。


「良樹だけがすっ飛ばしたんじゃないのよ」

「私たちも、同じところまで考えてたのよ」


 三人は、同時に黙った。


 そして、同時に顔を赤くした。


「何なのよ、もう……」


 リシアが呟く。


「全員、重いじゃない」


「で、でも……」

「そのつもりでしたし……」


 カレンが小さく言う。


「そこなのよ」

「そこが一番駄目なのよ」

「否定できないのよ」


 クラリスが、柔らかく微笑んだ。


「では、良いのではありませんか」


「軽いわね、結論が」


「いえ」

「重い結論を、軽く言っているだけです」


「余計に悪いわよ」


 カレンが、おずおずと手を上げた。


「あ、あの」

「でも……嬉しい、ですよね」


 リシアは黙った。


 クラリスも黙った。


 そして、二人は静かに頷いた。


「……嬉しいわよ」


「はい」

「嬉しいです」


 カレンは、胸元で両手を握った。


「私もです」


   ◇


「でも、よく考えたら」


 リシアは、少しだけ落ち着いた声で言った。


「私たち、良樹が言う前から英雄の話を調べてたのよね」


「……はい」


 カレンが頷く。


「調べていましたね」


 クラリスも頷いた。


 あの時、ガレスから聞いた英雄婚の話。

 英雄ならば、複数の妻を娶れるという例外。

 それを、三人は良樹よりも先に調べ始めていた。


 リシアは、自分の額を押さえた。


「つまり」

「私たちも、お付き合いとか、恋人とか」

「そういう段階をかなり飛ばして」

「三人で良樹の隣にいる方法を調べてたってことよね」


 再び、部屋が止まった。


 カレンが、震える声で言う。


「わ、私たちも……」

「かなり、先まで考えていました……」


「そうですね」


 クラリスが頷く。


「良樹くんだけを責めることは、できません」


「何なのよ、もう」

「全員、重いじゃない」


 リシアは同じ言葉をもう一度言った。


 だが、今度は少しだけ笑っていた。


 カレンも、恥ずかしそうに笑う。


「で、でも」

「そのつもりでしたし……」


「そこなのよ」

「そこが一番駄目なのよ」

「否定できないのよ」


「では、良いのではありませんか」


 クラリスがまた言う。


「クラリス、それ好きね」


「はい」


「否定しないのね」


「できません」


 リシアは、ため息をついた。


 けれど、そのため息は軽かった。


 息苦しさではなく。

 どうしようもない嬉しさを、少し逃がすためのものだった。


   ◇


「リシアは」


 クラリスが、静かに言った。


「どの言葉が一番、残りましたか?」


「私?」


「はい」


 リシアは少し黙った。


 良樹の言葉を思い出す。


 三人とも好きだ。

 英雄になる。

 三人を嫁にもらう。

 俺を英雄にしてくれ。


 全部、残っている。


 だが、特に刺さったのは。


「俺は、お前ら三人を隠したいわけじゃない」

「誤魔化したいわけでもない」

「胸を張って、嫁だと言いたい」


 リシアは、小さくそう言った。


 言っただけで、胸が熱くなる。


「そこ、ですか」


 カレンが言う。


「ええ」


 リシアは頷いた。


「私、最初に良樹を見つけたのよ」


 川へ落ちてきた男。

 水浴び中の自分を見て。

 半氷漬けにされて。

 それでも、最初に考えたのが止め方だった男。


 変な人。


 危ない人。


 目が離せない人。


「普段は鈍いくせに」

「確認とか、停止条件とか」

「そういう話ばっかりしてるくせに」


 リシアは、少しだけ笑った。


「変なところで、逃げないのよ」


 カレンは、静かに聞いていた。


 クラリスも、何も言わなかった。


「隠さないって」

「誤魔化さないって」

「胸を張って言いたいって」


 リシアは、視線を落とす。


「そんなこと言われたら」

「無理よ」


「はい」


 カレンが頷いた。


「無理ですね」


 クラリスも頷いた。


「カレンは?」


 リシアが聞く。


「私は……」


 カレンは、胸元で両手を握った。


「怖いって言ってくれたところが、嬉しかったです」


 リシアが少し驚いた顔をする。


「そこが刺さったの?」


「はい」


 カレンは頷く。


「英雄になるのが怖いって」

「正直、かなり怖いって」

「でも、それでも行くって」


 カレンの目が、少しだけ潤んだ。


「怖くないふりをしないのが」

「良樹さんらしくて」


 リシアは、何も言えなかった。


 カレンは怖い場所を見る子だ。


 足元。

 入口。

 相手の視線。

 戻る道。

 逃げられなくなる場所。


 怖いから見る。

 怖いから止まれる。


 そのカレンにとって、良樹が怖いと言ったことは、弱さではなかった。


「良樹さんが、怖いまま進むなら」


 カレンは、ゆっくり言った。


「私も、怖い場所を見たいです」


 リシアは、小さく息を吐いた。


「……強くなったわね、カレン」


「つ、強くはないです」


「強いわよ」


 クラリスも微笑む。


「はい」

「とても」


 カレンは赤くなった。


「クラリスは?」


 今度はリシアが聞いた。


 クラリスは、少しだけ目を伏せた。


「私は……」


 間。


「“俺を、英雄にしてくれ”です」


 リシアとカレンが黙った。


 クラリスは、自分の手を見た。


 癒やす手。

 壊す手。

 壊れる前に見る手。


 良樹に怒られた手。

 良樹に信じられた手。

 良樹を支えると決めた手。


「守ると言われるだけなら、嬉しいです」

「隣にいてほしいと言われるだけでも、もちろん嬉しいです」


 クラリスは、ゆっくりと言葉を選んだ。


「ですが」


 一度止まる。


「俺を英雄にしてくれ、と」

「好ましい殿方から言われたのなら」


 リシアの眉が動いた。

 カレンの肩が跳ねた。


 クラリスは、清楚に微笑む。


「いえ」

「好きな殿方から」


「クラリス」


 リシアが低く言う。


 だが、クラリスは止まらない。


「いえいえ」

「愛している殿方から、そのように頼まれたのなら」


 部屋の空気が止まった。


 クラリスは、静かに言った。


「答えなければ、女が廃るというものです」


 リシアは、しばらく何も言えなかった。


 カレンは、真っ赤になって口元を押さえている。


「あ、愛して……」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「どちらも、偽りありませんので」


「どちらもって何よ」


「好きも、愛しているも、です」


「クラリス」

「今、何段階すっ飛ばした?」


「正直に申し上げただけです」


「正直すぎるのよ!」


 カレンが、震える声で言う。


「こ、告白と宣誓が一緒になってます……」


 リシアも頷いた。


「そう」

「今の、告白っていうより宣誓じゃない?」


「はい」


 クラリスは、まっすぐ答えた。


「どちらも、偽りありませんので」


 リシアは額を押さえた。


「清楚な顔で言うことじゃないわよ」


「清楚な顔でなければ、よろしいですか?」


「そういう問題じゃない」


 クラリスは、少しだけ目を細めた。


「ですから」


 声が、ほんの少しだけ低くなる。


「もう、逃がせません」


 リシアとカレンが固まった。


「逃がす気、あった?」


 リシアが聞く。


「さっきまでは、少しだけ」


「少しだけ……」


「はい」

「今はありません」


 カレンが小さく震える。


「クラリスさん、強いです……」


「ありがとう、カレン」


 リシアは、じっとクラリスを見た。


「やっぱりクラリス、清楚な顔で一番逃がす気ないわよね」


「否定はしません」


「してよ」


「できません」


「今日そればっかりね」


 クラリスは、清楚に微笑んだ。


   ◇


 しばらくして、三人は少しだけ落ち着いた。


 いや、落ち着いたというより、悶える体力が少し切れた。


 リシアは、真面目な顔で二人を見た。


「良樹が本気なら」

「私たちも本気でやる」


 カレンが頷く。


「はい」


 クラリスも頷いた。


「はい」

「良樹くんを、三人で英雄にしましょう」


 リシアは、二人を順に見る。


「譲る気はないわよ」


「私も、ありません」


 クラリスが即答する。


 カレンは、一瞬だけ怯えた。


 でも、目を伏せなかった。


「わ、私も……」

「負けたく、ないです」


 リシアは、その言葉に少しだけ笑った。


「よし」


 そして、はっきり言う。


「恋敵ではある」

「でも、敵じゃない」


 クラリスが頷く。


「はい」

「三人で、良樹くんを英雄にします」


 カレンも、胸元で手を握った。


「はい」

「三人で、良樹さんを」


 部屋に、静かな熱が満ちた。


 誰も譲らない。

 誰も消えない。

 誰も敵にはならない。


 三人で、良樹の隣にいるために。


 三人で、良樹を英雄にする。


 リシアは、ふと扉の方を見た。


 良樹はまだ戻らない。


 今頃、きっとまた難しい顔をしている。

 英雄になるための条件を聞いている。

 そして、聞いたことをどう現実にするか、もう考えている。


 なら、自分たちも考える。


 どうすれば、良樹を英雄にできるのか。

 どうすれば、三人で良樹の隣にいられるのか。

 どうすれば、誰も譲らず、誰も敵にならず、同じ未来を選べるのか。


 答えは、まだ出ていない。


 けれど、決まったことはある。


 良樹が一人で英雄になるのではない。


 三人で、良樹を英雄にする。


 そして、その英雄の隣に。


 三人とも、立つ。


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