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第25話 だから、英雄になる(挿絵有)

 古い水路跡から戻った四人は、そのままギルドへ向かった。


 濡れた靴。

 泥のついた裾。

 石の粉が残った袖。

 暗渠の湿った匂い。


 全員、無事だった。


 それだけで、良樹は何度か息を吐きたくなった。


 だが、依頼は戻って終わりではない。

 報告して、初めて終わる。


 ギルドの受付で簡単に事情を伝えると、すぐにガレスが奥から出てきた。


「戻ったか」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「古い水路跡に、コボルドの侵入痕跡あり」

「実際に群れと遭遇した」

「奥の床下が抜けてる場所もある」

「後方からの奇襲もあった」

「少人数で不用意に奥へ入るのは危ない」

「先に封鎖か、専門の確認班を入れた方がいい」


 良樹は、見たことを順に並べた。


 感情は混ぜない。

 大げさにも言わない。

 軽くも言わない。


 暗い。

 狭い。

 濡れている。

 足場が悪い。

 退路が限られる。

 敵は前だけとは限らない。


 それだけで十分危ない。


 ガレスは腕を組み、黙って聞いていた。


「奥までは追わなかったんだな」


「追ってない」


「理由は」


「確認依頼だからだ」

「コボルドを一体逃がしたが、あそこで追えば、こっちが誘い込まれる」

「床下が抜けてる場所もあった」

「水路の枝道も見えた」

「こっちは地形を知らねえ」

「奥へ行く理由がない」


 ガレスは、少しだけ口の端を上げた。


「無理に奥まで行かなかったのは正解だな」


「確認依頼で死にに行く趣味はない」


「仕事向きの嫌な顔だ」


「だから嫌な顔だって言ってんだろ」


 リシアが小さく息を吐いた。

 カレンは少しだけ困ったように笑う。

 クラリスはいつものように、穏やかに微笑んでいた。


 ガレスは良樹を見た。


 それから、ふと目を細める。


「……腹、決まったか?」


 良樹は、ほんの一瞬だけ動きを止めた。


「何の話だ」


「とぼけんな」


 ガレスは短く言った。


「まあ、いい」

「若造が逃げねえ顔をしてる時は、邪魔しねえ方がいい」


 良樹は返事をしなかった。


 否定もしなかった。


 ガレスはそれだけで十分だと言わんばかりに、依頼書へ印を入れる。


「報酬は通常通り出す」

「追加の危険報告分は、こっちで上に回す」

「お前らは今日はもう休め」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「そうする」


 踵を返す。


 その背中へ、ガレスの声が飛んだ。


「良樹」


「何だ」


「逃げるなよ」


 良樹は振り返らなかった。


 ただ、短く答えた。


「そのつもりだ」


   ◇


 作業場付きの貸家へ戻る道は、いつもより少し静かだった。


 誰も、余計なことを言わなかった。


 リシアは良樹の少し斜め後ろを歩いている。

 カレンは胸元で手を握りながら、時折良樹の横顔を見ていた。

 クラリスは全員の歩き方を見ている。


 いつも通りの距離。

 いつも通りの四人。


 けれど、空気だけが違っていた。


 良樹は、前を見て歩いた。


 古い水路跡で言った。


 戻ったら、話がある。


 逃げずにする話だ。


 言った以上、逃げるわけにはいかない。


 作業場の扉を開ける。


 中には、まだ新しい木の匂いが少し残っていた。


 試験台。

 水桶。

 火床。

 立入禁止線。

 退避経路。

 壁際に置いた予備の板材。

 端にまとめた工具。


 危ないものを、危なくない形で試すための場所。


 魔導盤を安全に失敗させるための場所。


 良樹は、しばらくそれを見ていた。


 失敗するための場所。


 そう思った。


 危険なものを、何も考えずに使えば事故になる。

 だから、距離を取る。

 逃げ道を作る。

 止める条件を作る。

 最初から全開にしない。

 何かあった時に、壊れる前に止める。


 それが、この場所だった。


 だが、今から話すことは、魔導盤より危ない。


 良樹は、ゆっくり息を吐いた。


「話がある」


 三人は、驚かなかった。


 水路跡の出口で、すでに聞いていたからだ。


 リシアは表情を引き締めた。


「……分かった」


 カレンは胸元で両手を握る。


「はい」


 クラリスは静かに良樹を見た。


「聞きます」


 良樹は三人の前に立った。


 古い水路跡では、三人が前にいた。

 良樹は後ろを見ていた。


 前は任せた。

 後ろは俺が見る。


 そう言った。


 だが今は違う。


 今度は、自分が前に出る番だ。


 良樹は三人を見た。


「まず、先に謝る」


 リシアの眉がわずかに動いた。

 カレンの手に力が入る。

 クラリスは、微笑まなかった。


 良樹は続けた。


「これから言うことは、たぶん都合がいい」

「普通に聞けば、最低だ」

「三人とも好きだなんて、誰も選べない言い訳に聞こえると思う」

「俺自身、そう思われても仕方ねえと思ってる」


 声は震えていなかった。


 震わせる資格もないと思った。


「誰か一人を選べなかった」

「そのせいで、待たせた」

「期待させた」

「不安にさせた」

「たぶん、傷つけた」


 良樹は、頭を下げた。


「だから、先に謝る」

「すまん」


 作業場が静かになる。


 水桶の水面が、わずかに揺れていた。

 外から遠く、人の声が聞こえる。

 だが、この場所だけは切り離されたように静かだった。


 三人は、すぐには止めなかった。


 謝らなくていい、とも言わなかった。

 そんなことない、とも言わなかった。


 ただ、良樹が頭を下げるのを見ていた。


 リシアが、小さく息を吸う。


「……続けて」


 良樹は、ゆっくり顔を上げた。


「ああ」


 そして、三人を見た。


「リシアが好きだ」


 リシアの息が止まった。


 良樹は視線を逸らさない。


「カレンが好きだ」


 カレンが目を見開いた。


 胸元で握った手が、かすかに震える。


「クラリスが好きだ」


 クラリスの微笑みが消えた。


 清楚な仮面ではない。

 穏やかな余裕でもない。


 ただ一人の女として、良樹の言葉を聞いていた。


「三人が三人とも、選べないくらい好きだ」


 良樹は、逃げずに言った。


「この言い方が都合よく聞こえるのは分かってる」

「けど、嘘をついて一人だけ選ぶ方が、俺には不誠実だ」


 言葉を切る。


 息を吸う。


「誰かを選んで、他の二人を泣かせることも」

「誰も選ばずに、三人を待たせ続けることも」

「どっちも違う」


 リシアは黙っていた。

 カレンも、クラリスも。


 良樹は、胸の奥で何かが鳴るのを聞いた気がした。


 主幹ブレーカーではない。

 非常停止でもない。


 むしろ、切れなかったものが入る音だった。


「だから、決めた」


 間。


 良樹は言った。


「俺は英雄になる」


 三人が固まった。


 リシアの目が見開かれる。

 カレンは、言葉の意味を理解するまでに一拍遅れた。

 クラリスは、静かに良樹を見ていた。


 良樹は、もう一度言う。


「俺は英雄になる」

「それで、お前ら三人を嫁にもらう」


 言った。


 言ってしまった。


 だが、引っ込めるつもりはなかった。


「誰か一人を選ぶんじゃない」

「三人とも選べるところまで、俺が行く」


 良樹は、拳を握った。


「これが、論理的にも、精神的にも、俺の最適解だ」


 リシアが、ようやく声を出した。


「……本気で言ってるの?」


「ああ」


 カレンが、震える声で聞く。


「英雄に、なるんですか」


「ああ」


 クラリスが、静かに言った。


「私たち三人を、妻にするために」


「ああ」

「そのためだ」


 良樹は、恥じなかった。


 恥じるべきことは、別にある。


 曖昧にすること。

 逃げること。

 三人を都合よく近くに置いて、責任を取らないこと。


 そこから逃げる方が、よほど恥ずかしい。


「世界を救いたいとか」

「名を上げたいとか」

「そういう立派な話じゃねえ」


 良樹は三人を見た。


「俺は、お前ら三人を泣かせたくない」

「三人とも、隣にいてほしい」

「でも、曖昧なまま隣に置くのは違う」


 リシアの喉が、小さく動いた。


 カレンは、目を伏せそうになって、踏みとどまった。


 クラリスは、両手を胸の前で重ねた。


「俺の都合で三人を隣に置いて」

「名前も立場も曖昧なままにして」

「周りから好き勝手言われるような形にするのは違う」


 良樹は、はっきり言った。


「俺は、お前ら三人を隠したいわけじゃない」

「誤魔化したいわけでもない」


 胸の奥が熱い。


 怖い。


 とても怖い。


 だが、言う。


「胸を張って、嫁だと言いたい」


 作業場の空気が、変わった。


 水桶の水面が静かになる。

 火床の冷えた灰が、白く見える。

 試験台の上の工具が、やけに現実的だった。


 リシアは、唇を少し噛んでいた。


 カレンは、目に涙を溜めていた。


 クラリスは、まっすぐ良樹を見ていた。


「この世界では、普通は一人しか妻を娶れねえ」

「でも、英雄なら違う」

「英雄なら、複数の妻を娶れる」


 ガレスから聞いた話。

 優秀な血を残すための制度。

 英雄に与えられる例外。


 正直、最初はどこか他人事だった。


 自分が英雄。

 自分が複数の妻。


 馬鹿げている。


 そう思った。


 だが、今は違う。


「その仕組みが、この世界にあるなら」

「三人に恥をかかせず」

「三人に正式な立場を渡せる道があるなら」


 良樹は、三人の前で立っていた。


「俺はそこへ行く」


 リシアが、低く言う。


「簡単じゃないわよ」


「分かってる」


 カレンが、かすれた声で聞く。


「怖く、ないんですか」


「怖い」

「正直、かなり怖い」


 クラリスが問う。


「それでも?」


「ああ」

「それでも行く」


 良樹は、そこで一度だけ視線を落とした。


 試験台。

 水桶。

 火床。

 退避経路。


 安全に失敗するための場所。


 だが、これは一人で試すものではない。


「ただ、すぐにどうこうできる話じゃねえ」

「英雄なんて、明日なれるもんじゃない」

「しばらく待たせることになるかもしれねえ」


 良樹は、もう一度三人を見た。


「だから」


 間。


「お前ら三人、手伝ってくれ」


 三人の表情が変わった。


 置いていくのではない。

 待たせるだけでもない。

 自分一人で何かを成し遂げて迎えに行くのでもない。


 そうではない。


 良樹は、三人に頼んだ。


「俺を、英雄にしてくれ」


 言い切った。


 そして、黙った。


 断られるかもしれない。


 都合が良すぎると言われるかもしれない。

 最低だと怒られるかもしれない。

 軽蔑されるかもしれない。


 それでも、言った以上は逃げない。


 断られたら受け止める。

 怒られたら受け止める。

 殴られるなら、それも受ける。


 ただ、この答えだけは引っ込めない。


 三人を好きだ。

 三人とも嫁にしたい。

 そのために英雄になる。


 それが、良樹の答えだった。


 長い沈黙が落ちた。


 良樹は動かなかった。


 リシアが、ゆっくり息を吐く。


 カレンが、隣のクラリスを見た。


 クラリスが、リシアを見る。


 三人の目が合った。


 そして。


 三人娘は、急に顔を寄せた。


「どうする?」


「ここは――」


「いえでも、良樹くんなら――」


「順番?」


「いえ、ここは同時――」


「は、はい」


「同時ね」


「同時です」


 良樹は固まった。


「……おい」


 三人は、まだ小声で話している。


「タイミングは?」


「せーのでしょうか」


「それだと少し子供っぽくない?」


「でも、合わせるなら分かりやすいです」


「分かりやすさは大事ね」


「はい」


「おい」


 良樹は、少しだけ声を強くした。


「何の会議だ」


 リシアが顔だけこちらへ向けた。


「少し黙ってて」


「俺の人生がかかってる会議じゃないのか」


「だから黙ってて」


「……はい」


 良樹は黙った。


 黙るしかなかった。


 断り方を相談しているのか。

 怒る順番か。

 殴る順番か。

 いや、殴られるなら一発ずつ受けるしかない。


 リシアは右から来るだろうか。

 クラリスは打撃が洒落にならない。

 カレンは泣きながら怒るかもしれない。


 良樹の頭の中で、なぜか被害予測が始まった。


 KYT。


 危険予知。


 今さら仕事をするな。


 やがて、三人は顔を上げた。


 良樹へ向き直る。


 リシアが、一歩前に出た。


「あんた」


「ああ」


「それがどれほど都合がいいか、分かってるのよね」


「ああ」


「一人を選べないから、三人ともなんて」

「普通なら、最低よ」


「ああ」

「分かってる」


 カレンが、少し震えながら言う。


「よ、良樹さんは」

「その道が怖いと、分かってるんですよね」


「ああ」

「怖い」

「正直、かなり怖い」


「英雄になるまで」

「ずっと、頑張らないといけないんですよね」


「ああ」


 クラリスが、静かに良樹を見た。


「良樹くんは」

「それでも、私たち三人とも妻にしたい、と」


「ああ」

「そうだ」

「それが、俺の答えだ」


 三人は、互いに目を合わせた。


 そして、同時に息を吸った。


「なら――」


 三つの声が重なる。


「「「はい、喜んで!」」」


 良樹は、一瞬、何を言われたのか分からなかった。


 はい。


 喜んで。


 断られたのではない。

 怒られたのでもない。

 殴られたのでもない。


 受け入れられた。


 その理解が追いつく前に、リシアが正面から抱きついてきた。


「っ」


 良樹の身体が揺れる。


 続いて、カレンが少し遅れて、けれど逃げずに両腕を回した。


 最後に、クラリスが自然に良樹の背へ腕を回す。


 三人の体温が、同時に来た。


 良樹は、受け止めた。


「……いいのか」


 リシアが、良樹の胸元に額を近づけたまま言う。


「いいから言ったのよ」


 カレンが、震える声で続ける。


「はい」

「怖いですけど」

「でも、嬉しいです」


 クラリスが、柔らかく言った。


「良樹くん」

「私たちも、同じくらい都合のいい未来を望んでいました」


 良樹は、動けなかった。


 三人を抱き返そうとして、手が迷う。


 右にリシア。

 左にクラリス。

 正面近くにカレン。


 全員近い。


 近すぎる。


 だが、今だけは、置き場が分からないなどと言っている場合ではなかった。


 良樹は、三人を抱き返した。


 強すぎないように。

 けれど、逃げないように。


 三人が、少しだけ息を呑んだ。


 その体温を、良樹は確かに感じた。


 挿絵(By みてみん)


   ◇


 少し落ち着いてから、四人は試験台の近くに座った。


 座る、と言っても、距離は近い。


 リシアは良樹の右隣。

 カレンは少し前寄り。

 クラリスは左側。


 いつの間にか、いつもの包囲に近い。


 だが、今日の良樹は逃げなかった。


 逃げる話ではない。


 リシアが、少し赤い顔のまま口を開いた。


「それと、良樹」


「何だ」


「英雄の話」

「私たちも、調べてた」


 良樹は目を瞬かせた。


「……知ってたのか」


「知ってたわよ」

「ガレスさんがあんたに話した後、私たちが何も考えないと思った?」


 カレンが小さく頷く。


「はい」

「三人とも、良樹さんの隣にいる方法を」


 クラリスも続けた。


「良樹くんだけが、都合のいい答えを出したわけではありません」

「私たちも、同じくらい都合のいい未来を望んでいました」


 良樹は黙った。


 リシアが、少しだけ笑う。


 泣きそうな顔で、笑っていた。


「誰か一人だけが選ばれて」

「残り二人が笑って祝福するなんて」

「そんな綺麗なこと、できると思う?」


 良樹は、少しだけ考えた。


 考える必要は、ほとんどなかった。


「……思わない」


「でしょうね」


 リシアは、短く言った。


「私も無理」

「そんな綺麗な女じゃない」


 カレンが、胸元で手を握る。


「私も、嫌でした」

「リシアさんか、クラリスさんが選ばれて」

「私は笑っているだけなんて」

「たぶん、できません」


 声は小さい。


 だが、逃げていなかった。


 クラリスが静かに言う。


「私もです」

「お二人を押しのけたいわけではありません」

「ですが、譲って消えられるほど、良樹くんを軽く想ってもいません」


 良樹は、三人を見た。


 三人は聖女ではなかった。


 譲り合って、笑って、身を引くような女たちではなかった。


 リシアは負けたくない。

 カレンも負けたくない。

 クラリスも負けたくない。


 それでも、互いを敵にはしなかった。


 古い水路跡で、三人は前にいた。


 カレンが止めた。

 リシアが照らした。

 クラリスが身体を見た。


 互いを信じていた。


 恋敵ではある。


 だが、敵ではない。


 リシアが言った。


「勘違いしないで」

「私たちは、別に全部を譲り合うつもりじゃないわ」


 カレンも、小さく頷く。


「は、はい」

「負けたくない気持ちは、あります」


 クラリスが微笑む。


「私も、あります」


 良樹は、思わず聞いた。


「あるのか」


 三人は同時に言った。


「「「あります」」」


「そこは揃うのか」


 リシアが肩をすくめる。


「恋敵ではあるわ」


 クラリスが続ける。


「ですが、敵ではありません」


 カレンが、真っ直ぐ良樹を見た。


「一緒に、良樹さんの隣にいたいです」


 リシアが、良樹の目を見る。


「だから、あんたを英雄にする」

「私たち三人で」


「……俺を?」


 クラリスが頷く。


「はい」

「良樹くんが私たち三人を妻にするために英雄を目指すなら」

「私たちは、三人で良樹くんを英雄にします」


 良樹は、言葉を失った。


 自分が英雄になる。


 そう言った。


 だが、三人はそれをただ待つつもりなどなかった。


 リシアは、良樹の盤に火と氷を通す。

 カレンは、怖い場所を見て前を歩く。

 クラリスは、壊れる前に身体を見る。


 三人が、自分を英雄にする。


 英雄になる物語。


 そして、三人娘が良樹を英雄にする物語。


 良樹の胸の奥で、何かが熱くなった。


「あ、あの」


 カレンが、小さく手を上げた。


 良樹はそちらを見る。


「何だ」


 カレンは、顔を赤くしながら、それでも言った。


「退路は、塞ぎました」


 良樹は、しばらく黙った。


「……そうか」


「逃げないでください、という意味ではありません」


 カレンは、両手を胸の前で握った。


 少し間。


「逃げなくていいように、です」


 良樹は、何も言えなくなった。


 古い水路跡。


 暗い。

 狭い。

 濡れている。

 戻りにくい。


 あそこで自分は後ろを見た。

 退路を見た。

 後方から来るものを見た。


 そして今、カレンが退路を塞いだ。


 逃がさないためではない。


 逃げなくていいように。


 リシアが、静かに言う。


「私たちも逃げないわ」


 クラリスが頷く。


「一緒に進みます」


 良樹は、ゆっくり息を吐いた。


「……なら、進むか」


 三人が、同時に頷いた。


   ◇


 良樹は、改めて三人を見た。


「分かった」

「俺は英雄になる」


 リシアが頷く。


「ええ」


 カレンも頷く。


「はい」


 クラリスが微笑む。


「はい、良樹くん」


 良樹は、逃げずに言った。


「それで、お前ら三人を嫁にもらう」


 三人が、同時に赤くなった。


 さっき受け入れたはずなのに。

 抱きついたはずなのに。

 それでも、改めて言われると破壊力が違ったらしい。


 リシアが、少しだけ視線を逸らす。


「……改めて言われると、破壊力あるわね」


 カレンは両手で顔を隠しそうになりながら、なんとか耐えていた。


「は、はい……」


 クラリスは、頬を赤くしたまま微笑む。


「何度でも言っていただいて構いませんよ」


「クラリスさん?」


 リシアが即座に反応する。


 さん付けである。


 礼儀はある。


 ただし、礼儀しかなかった。


 声の中身は完全に、今の発言について詳しく聞かせてもらおうか、だった。


 クラリスは、涼しい顔で答えた。


「大切な確認です」


 良樹は額を押さえた。


「確認期間、まだ続くのか」


 リシアが即答する。


「当たり前でしょ」

「英雄になるまで、確認することだらけよ」


 カレンも、小さく拳を握った。


「わ、私も、頑張ります」


 クラリスが頷く。


「私もです」


 良樹は、少しだけ天井を見た。


 作業場の梁。

 そこに主幹ブレーカーはない。


 いつものように、落とすものはなかった。


「……先が長そうだな」


 リシアがこちらを見る。


「嫌?」


 良樹は、三人を見た。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 古い水路跡で前に立っていた三人。

 自分を前へ出してくれた三人。

 退路を塞いで、逃げなくていいと言った三人。


 良樹は、短く答えた。


「嫌じゃねえよ」


 三人の表情が、少し緩んだ。


 良樹も、ほんの少しだけ笑った。


「ただ、心臓に悪い」


「それは慣れて」


 リシアが言う。


「慣れていいのか?」


 クラリスが微笑む。


「少しずつ慣れましょう」


 カレンが小さく言う。


「わ、私も……慣れたいです」


 良樹は目を閉じた。


「お前ら、俺を何に慣らそうとしてるんだ」


 三人は答えなかった。


 ただ、三人とも少し赤い顔で笑っていた。


   ◇


 夕方の光が、作業場の窓から差し込んでいた。


 試験台の上に、長い影が落ちている。

 水桶の水面が橙色に染まっている。

 火床はまだ冷えている。

 立入禁止線も、退避経路も、そのままだ。


 ここは、魔導盤を安全に失敗させる場所だった。


 危ないものを。

 危なくない形で。

 何度も試すための場所。


 これからは、四人で未来を試す場所にもなる。


 良樹は、試験台に手を置いた。


 世界を救うためじゃない。


 名誉が欲しいわけでもない。


 三人を泣かせないため。

 三人を曖昧な立場に置かないため。

 三人と、胸を張って並ぶため。


 そのために英雄になる。


 そんな動機で英雄を目指す男が、この世界にどれほどいるのかは知らない。


 たぶん、立派ではない。

 清廉でもない。

 人に聞かせれば、呆れられるかもしれない。


 だが、良樹にとってはそれが一番まっすぐだった。


「行くぞ」


 良樹は言った。


 三人がこちらを見る。


 良樹は、少しだけ笑った。


「英雄ってやつに」


 リシアが頷く。


「ええ」


 カレンが、胸元で手を握る。


「はい」


 クラリスが、柔らかく微笑む。


「はい、喜んで」


 良樹は、三人を見る。


 右にリシア。

 前にカレン。

 左にクラリス。


 逃げ道はない。


 けれど、不思議と怖くはなかった。


 いや、怖い。


 怖いものは怖い。


 英雄になるなど、怖いに決まっている。


 だが、古い水路跡でカレンが言った。


 怖いから止まれる。

 怖いから見られる。


 なら、怖いままでいい。


 怖いまま、前へ進めばいい。


 前には、三人がいる。

 後ろも、もう空ではない。


 良樹は、もう一度作業場を見た。


 ここから始める。


 失敗してもいい。

 止まればいい。

 直せばいい。

 もう一度試せばいい。


 一人ではない。


 だから、上村良樹は英雄になることにした。


 理由は、世界を救うためではない。

 名を残すためでもない。


 自分が惚れた、三人の女を。

 誰一人、泣かせないためだった。


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