表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

23/112

第23話 普段着に戻っても

 翌朝。


 作業場付きの貸家は、宿の部屋とは違う匂いがした。


 乾いた木の匂い。

 古い棚に染みついた埃の匂い。

 土間に近い床の冷たさ。

 まだ誰の癖もついていない、空っぽに近い作業場の空気。


 昨日、川原で焼き物をした。

 リシアも、カレンも、クラリスも水着になった。

 良樹も川へ落とされ、上半身を脱ぐ羽目になった。


 見た。

 見られた。


 事故ではない形で、三人を女として見た。

 自分もまた、三人から男として見られた。


 その翌朝。


 三人は、普段着に戻っていた。


 リシアはいつもの服。

 カレンも動きやすい服に剣を吊っている。

 クラリスは、白い法衣をきちんと着ている。


 水着ではない。

 川原でもない。

 濡れてもいない。

 昨日のような事故も起きていない。


 それなのに、良樹は妙に落ち着かなかった。


「……作業場を先に整える」


 良樹は、そう言って作業場の中央に立った。


 腰袋はいつも通り身につけている。

 手には、簡単な木片と紐。

 床へ印をつけるためのものだ。


 リシアが首を傾げる。


「朝から?」


「ああ」


「昨日の片付けで疲れてないの?」


「疲れてはいる」


「なら休めばいいじゃない」


「休んでから試すと、また条件がずれる」


「条件?」


 リシアの眉が少し寄る。


 良樹は作業台にする予定の机へ手を置いた。


「今まで、宿の部屋、訓練場、町外れ、河原で魔導盤を開いてきた」

「毎回、場所が違う。姿勢が違う。距離が違う。周りにいる人間も違う」

「それだと、何が変わったのか分からねえ」


 良樹は机の高さを手で測るように見た。


「試験するなら、条件を揃える」

「ここは、魔導盤を安全に失敗させる場所だ」


 カレンが、小さく反応した。


「失敗させる場所、ですか?」


「ああ」


 良樹は頷く。


「失敗しない前提で試す方が怖えよ」

「失敗しても壊れない。怪我しない。燃え広がらない」

「そういう場所を先に作る」


 クラリスは、少しだけ目を細めた。


「良樹くんらしいですね」


「そうか?」


「はい。失敗しない方法より先に、失敗した時に壊れない場所を作ろうとしています」


「止められないもんは危ないからな」


 リシアが呆れたように笑う。


「また止める話なのね」


「だいたい全部、最後はそこに行く」


 良樹は木片を床に置いた。


「まず、ここが俺の基本位置だ」


   ◇


 作業場の床に、簡単な印が増えていった。


 良樹の基本位置。

 魔導盤を開く作業台の位置。

 試験中に入らない範囲。

 水桶を置く位置。

 火を使う場所からの距離。

 工具を置く棚。

 軽い材料を置く棚。

 重いものを置く下段。

 入口までの退避経路。


 良樹は紐を張り、木片を置きながら説明する。


「ここから内側は、試験中に入らない」

「入るなら、一回止める」

「止めてから入る」


 カレンは、その言葉を繰り返した。


「止めてから、入る」


「ああ」


 良樹は、カレンを見た。


「動いてるものの近くに、後から入るのが一番危ねえ」

「魔導盤でも、火でも、工具でも同じだ」

「止める。確認する。それから入る」


「はい」


 カレンは真剣に頷いた。


 リシアは、良樹が置いた木片を見ながら言う。


「私の位置は?」


「右寄りだな」


「右?」


「ああ」

「出力を見る時、俺の横からの方が魔力の流れを見やすいだろ」

「ただし、近すぎると俺が止まる」


「何で止まるのよ」


「昨日の異常履歴が開く」


 リシアの目が細くなった。


「閉じなさい」


「努力する」


「努力じゃなくて閉じなさい」


 クラリスが、穏やかに微笑む。


「私はどの位置でしょうか」


「クラリスは、左後方か、少し離れた横だな」


「身体確認しやすい位置ですね」


「やっぱりそこを見るのか」


「はい」


「はいじゃねえ」


 クラリスはにこりと笑った。


「良樹くんは、ご自分の身体負荷を後回しにしがちですから」


「否定できないのが嫌だな」


「では、否定できるようになってください」


「善処する」


「善処では足りません」


「手厳しい」


 カレンは入口近くに立ち、作業場全体を見ていた。


 良樹は、木片を置きながらそれに気づいた。


「カレン」


「はい」


「そこから何が見える」


 カレンは少し驚いたように瞬きをした。


「入口と、火を使う場所と、良樹さんの背中側です」

「あと、奥の棚から戻る道が少し狭いです」


「戻る道?」


「はい」


 カレンは入口から奥の棚へ、視線を動かす。


「もし奥で何かあって、誰かが急いで戻ろうとしたら」

「この木箱があると、少し怖いです」


 良樹は、カレンの指した木箱を見た。


 確かに、そこに置くと動線が狭い。

 普段なら通れる。

 だが、何かを持っている時、火を避ける時、誰かが倒れた時には邪魔になる。


「……そうだな」


 良樹は木箱を動かした。


「そこに箱は置かない方がいい」


 カレンの顔が、少しだけ明るくなる。


「本当ですか?」


「ああ」

「怖い場所を先に見てる」

「それはかなり大事だ」


 カレンは、背中を向けたまま、少しだけ赤くなった。


「怖いので」

「怖くなってから探すと、遅いと思って」


「それでいい」


 良樹は言った。


「怖いから見る」

「それは弱さじゃねえ」


 カレンの肩が、小さく震えた。


   ◇


 作業台の高さを確認していると、リシアが横から近づいてきた。


「この高さでいいの?」


「ああ」


 良樹は机の端に手を置く。


「盤を開いた時に、毎回同じ高さになるようにしたい」

「手元の位置が変わると、見え方も変わる」


「細かいわね」


「細かくしねえと、何が変わったか分からねえ」


 リシアは、いつものように作業台に手をついた。


 そして、前かがみになる。


 魔導盤の位置を見るため。

 机の高さを見るため。

 良樹の手元を覗き込むため。


 それは、いつものリシアの動作だった。


 普段着だった。

 白いビキニではない。

 青いパレオもない。

 胸元が見えているわけでもない。


 なのに、良樹の頭の中に、昨日の光景が勝手に開いた。


 白い水着。

 青いパレオ。

 魚の焼け具合を覗き込んだ、あの前かがみ。

 視界に入った谷間。


 そして、自分の失言。


 思ってたより、胸あるんだな。


 良樹の手が止まった。


 リシアが、すぐに気づく。


「……今、何を思い出したの」


「昨日の異常履歴が開いた」


「閉じなさい」


「閉じてる」


「手が止まってるわよ」


「非常停止中だ」


「動かしなさい」


「再起動に少し時間が要る」


 リシアは良樹を睨んだ。


 睨んだが、少しだけ自分の胸元を意識してしまう。


 昨日、良樹は見た。

 そして、言った。


 思ってたより、胸あるんだな。


 怒った。

 殴った。

 当然だった。


 でも、胸元は隠さなかった。


 それを思い出して、リシアの耳が少し熱くなる。


「……昨日のことは忘れなさい」


「忘れたら怒るだろ」


「都合よく覚えなさい」


「難易度が高い」


「良樹ならできるでしょ」


「俺を何だと思ってる」


「変なことはだいたいできる人」


「評価が雑だな」


「実績よ」


 良樹は返す言葉をなくし、もう一度作業台へ視線を戻した。


 戻した。


 ただし、戻るまでに少し時間がかかった。


   ◇


 次は棚の配置だった。


 薬箱。

 包帯。

 予備の布。

 水袋。

 小さな魔石。

 工具ではないが、作業中に必要になるかもしれないもの。


 クラリスはそれらを丁寧に分けていた。


「この箱は上でよろしいですか?」


 クラリスが軽い包帯箱を持ち上げる。


 良樹は棚を見た。


「軽いなら上でいい」

「重いものは下だ。落ちたら危ねえ」


「分かりました」


 クラリスは包帯箱を棚の上へ置こうとした。


 棚は、少し高い。


 クラリスが背伸びする。


 普段の法衣だった。

 昨日の黒い水着ではない。

 露出が増えたわけでもない。


 ただ、袖が少し落ちた。

 白い手首が見えた。

 腕が伸びた。

 法衣越しに、身体の線がほんの少しだけ出た。


 良樹は自然に横から手を伸ばし、箱を受け取った。


「無理すんな。取る」


「ありがとうございます、良樹くん」


 クラリスが見上げる。


 良樹は箱を棚に置いた。


 距離が近い。


 それだけだった。


 だが、その距離で、良樹の中に昨日が戻ってきた。


 黒いビキニ。

 白い肌。

 濡れた黒いパレオ。

 視界が黒と白で埋まったこと。

 柔らかいものが二つ、顔を左右から挟んでいたこと。

 普段の法衣では絶対にありえない距離。


 良樹の返事が、一拍遅れた。


「良樹くん?」


「……大したことじゃねえ」


 クラリスは首を傾げる。


「まだ何も聞いていません」


「聞かれる前に止めた」


「止める必要があることを、思い出したのですか?」


「確認しなくていい」


 クラリスは、少しだけ考えた。


 そして、思い当たった。


「あ」


「思い当たるな」


「あれは事故です」


「分かってる」


「身体確認上、良樹くんに負傷はありませんでした」


「精神側の点検が終わってねえんだよ」


 クラリスは、穏やかに微笑んだ。


「では、確認しますか?」


「しない」


「未確認のままでよろしいのですか?」


「確認しなくていい未確認もある」


「良樹くんらしくありませんね」


「俺にも守りたい安全範囲があるんだよ」


 クラリスの微笑みが、ほんの少しだけ深くなる。


「では、その安全範囲は大切にしましょう」


「分かってくれるか」


「はい」


 クラリスは一拍置いてから続けた。


「必要になったら、確認します」


「必要にならないことを祈る」


「祈るだけでは足りませんよ」


「行動で防ぐ」


「はい。良樹くんらしいです」


 良樹は額を押さえた。


   ◇


 一通りの配置が決まった。


 作業台。

 棚。

 火床。

 水桶。

 工具置き場。

 材料置き場。

 退避経路。

 試験中の立入禁止範囲。


 良樹は作業台の前に立つ。


 右にはリシアがいる。

 入口側にはカレンがいる。

 棚の近くにはクラリスがいる。


 それぞれが、自然にそこにいた。


 リシアは、魔導盤の出力と魔力の流れを見る。

 カレンは、入口と逃げ道と危険方向を見る。

 クラリスは、良樹の身体と全員の負荷を見る。


 良樹は、作業台に置いた手を少し止めた。


 これはもう、自分一人の作業場ではない。


 良樹の作業場。

 良樹の魔導盤。

 良樹の試験。


 そのはずだった。


 だが、立ち位置を決めると、自然に三人の場所も決まる。

 退避経路を考えると、カレンの目が要る。

 出力を見るなら、リシアの感覚が要る。

 負荷を見るなら、クラリスの手が要る。


 一人で何でもできる場所ではなく。

 四人で安全に失敗する場所になっていく。


「……一人で使う場所じゃねえな、もう」


 リシアが振り返る。


「何?」


「いや」


 良樹は首を振った。


「作業場の話だ」


 クラリスが微笑む。


「半分くらいは、ですか?」


「……何で分かる」


「顔に出ていました」


 カレンが少し不安そうに聞く。


「作業場、使いにくいですか?」


「逆だ」


 良樹は答えた。


「たぶん、前より使いやすい」


 カレンは、ほっとしたように胸元で手を握った。


 良樹は作業台に手を置いたまま、少しだけ黙る。


 三人は普段通りだった。


 リシアは、いつものように前かがみで覗き込んだ。

 カレンは、いつものように怖い場所を見て立っていた。

 クラリスは、いつものように身体確認と片付けをしていた。


 三人は何も特別なことをしていない。


 水着に戻ったわけではない。

 事故が起きたわけでもない。

 露骨に迫ってきたわけでもない。


 それでも、良樹は昨日を思い出した。


 白と青。

 青い水着。

 黒と白。


 前かがみ。

 後ろ姿。

 見上げる顔。


 変わったのは三人ではない。


 自分の見方だ。


 仲間。

 魔法使い。

 前衛。

 僧侶。

 共同開発者。


 それだけでは済まなくなっている。


 三人は女で。

 自分は男で。


 昨日、それを互いに確認してしまった。


「……普段着に戻っても、戻らねえもんがあるな」


 リシアが首を傾げる。


「何が?」


「こっちの話だ」


 カレンが不安そうに聞く。


「作業場の話ですか?」


「半分くらいは」


 クラリスが静かに言う。


「残り半分は?」


「確認中だ」


 リシアが呆れたように息を吐いた。


「また確認なのね」


「確認しないと事故るんだよ」


 クラリスが、にこりと微笑む。


「昨日のように?」


「頼むから今は言わないでくれ」


 良樹は額を押さえた。


   ◇


 昼前。


 作業場の最低限の配置が決まったところで、良樹たちはギルドへ向かった。


 目的は二つ。


 作業場付き貸家の状況を軽く報告すること。

 そして、次の依頼について相談すること。


 町を歩く三人は、やはり普段通りだった。


 リシアは良樹の隣を歩く。

 カレンは少し前や横を見て、通りの人や荷車の動きを確認している。

 クラリスは少し後ろから、全員の歩き方や疲労を見ている。


 普段通り。


 なのに、良樹には少しだけ違って見えた。


 それを、もう否定できなかった。


 ギルドに入ると、ガレスはいつものように受付奥の机にいた。


 依頼書を整理していた手が止まる。

 ガレスは良樹を見た。


「お前、休んだんじゃなかったのか」


「休んだはずなんだけどな」


「休んだ奴の顔じゃねえ」


「俺もそう思う」


「何をした」


「作業場を整えた」


「それで何でそんな顔になる」


 良樹は少し黙った。


「普段通りに戻したはずなんだけどな」


 ガレスは目を細める。


「戻ってねえ顔だな」


「……だな」


 ガレスは、良樹の後ろにいる三人を見た。


 リシアは良樹の隣にいる。

 カレンは半歩下がった位置で、入口と周囲を見ている。

 クラリスは良樹の肩や手首の疲れを見ている。


 妙に自然な距離だった。


 ガレスは、鼻で笑った。


「で」


「何だよ」


「お前、誰にするつもりなんだ?」


 良樹は、一瞬だけ意味が分からなかった。


「何の話だ」


「とぼけんなよ」


 ガレスは机に肘をつく。


「周りから見てて、分からねえと思ってるのか?」


 良樹は黙った。


 ガレスは、その沈黙だけで十分だと言わんばかりに鼻を鳴らした。


「図星か」


「……」


「まあ、そりゃ選べねえわな」

「どの子も魅力的すぎる」

「その上、いい子ばかりだ」


 良樹は、さらに黙った。


 反論できなかった。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 誰か一人。


 その言葉を頭の中に置いただけで、胸の奥が鈍く沈む。


 誰かを選ぶ。

 それは、誰かを選ばないということだ。


 良樹は、決めたくなくて止まっていたわけではない。

 決めなければならないことは分かっていた。


 リシアを選べば、カレンとクラリスを選ばないことになる。

 カレンを選べば、リシアとクラリスを選ばないことになる。

 クラリスを選べば、リシアとカレンを選ばないことになる。


 誰か一人を選ぶことは、誰か二人を泣かせることだった。


 そして、誰も選ばないことは。

 三人全員を、待たせ続けることだった。


 どれを選んでも、どこかが壊れる。


 完全なデッドロックだった。


 ガレスは、そこでわざとらしく視線を外した。


「そういやよ」


「……何だ」


「そこの壁に飾ってる英雄の話を、お前がここに来た時にしたのを覚えてるか?」


 ガレスが顎で示した先には、古い絵が掛かっていた。


 剣を掲げる男。

 背後に立つ仲間たち。

 町を救った英雄だと、以前ガレスが話していたものだ。


「あの時は、興味も無さそうだったがな」


「……覚えてる」


「そうか」


 ガレスは、少しだけ笑った。


「知ってるか?」

「英雄ってのは、妻を何人娶ってもいいんだ」


 良樹は、顔を上げた。


「……何?」


「優秀な血なら、多く残すべきってな」

「まあ、綺麗事も理由もいろいろある」

「町を救った、国を救った、魔物の群れを退けた」

「そういう馬鹿みてえなことをやった奴には、普通の男には許されねえことも許される」


 ガレスは肩をすくめる。


「英雄ってのは、そういうもんだ」


 良樹は、しばらくガレスを見ていた。


「なんで、そんな話を俺にするんだよ」


「さあな?」


 ガレスはいつもの調子で笑った。


「煮詰まってる若造に、年長者からのアドバイスとでも受け取ってくれや」


 その笑い方に、良樹は一瞬、別の男の影を見た。


 十鉄。


 煙草の匂い。

 工具油の匂い。

 無骨で、雑で、けれど妙なところで筋を通す男。


 女に恥をかかせるな。

 女を泣かせるな。


 そう言われているような気がした。


 良樹は、壁の英雄の絵を見た。


 英雄になる。


 そんな方法があるのなら――。


 険しい道だ。

 そんなことは、聞くまでもなく分かる。


 英雄など、なろうと思ってなれるものではない。

 剣もろくに扱えない。

 魔法も、この世界の常識から外れている。

 できることといえば、魔導盤を出して、確認して、止め方を考えることくらいだ。


 それでも。


 リシアを選ぶ。

 カレンを選ぶ。

 クラリスを選ぶ。


 そのどれか一つだけが正解だとは、どうしても思えなかった。


 誰か一人を選ぶことは、誰か二人を選ばないことだ。


 それはきっと、間違っている。

 少なくとも、今の良樹にとっては。


 ならば。


 三人全員に胸を張って手を伸ばせる道があるのなら。


 どれほど険しくても。

 どれほど馬鹿げていても。

 どれほど遠くても。


 それは、良樹にとって、ただ一つの正解に至る道だった。


 そう感じた。


「……英雄、か」


「おう」


「ずいぶん無茶な話だな」


「無茶な状況にいる奴に、普通の答え出してどうすんだ」


 良樹は、少しだけ笑った。


「筋は通ってる」


「納得すんのかよ」


「方法としてはな」


「なるとは言ってねえか」


「まだな」


 まだ。


 そう口にして、良樹は自分でも分かった。


 否定ではない。

 保留だ。


 考えていないふりをやめた時点で、その道はもう、良樹の中に残ってしまっている。


 ガレスは、にやりと笑った。


「それでいい」

「今すぐ言えるようなもんじゃねえ」

「けど、考えてねえふりだけはやめとけ」


 良樹は、もう一度、壁の英雄を見た。


「……ああ」


 短く答えた。


 逃げ道が一つ、消えた気がした。


 代わりに、ひどく険しい道が一つ、見えた気もした。


 挿絵(By みてみん)


   ◇


「ま、その話は今すぐ答えを出すもんじゃねえ」


 ガレスは、机の上に一枚の依頼書を置いた。


「今のお前に必要なのは、まず目の前の仕事だ」


「……何だ」


「古い水路跡の確認だ」


「水路跡?」


「ああ」


 ガレスは依頼書を指で叩く。


「町の外れに、昔使ってた石組みの排水路がある」

「今はほとんど使われてねえが、一部はまだ残ってる」

「地面の上を流れてる場所もあるし、石蓋の下を通ってる場所もある」

「広い所は立って歩ける」

「狭い所は、腰を屈めねえと通れねえ」


 良樹の顔が、仕事の顔に戻る。


「構造物の中か」


「半分はな」


 ガレスは頷いた。


「で、その近くで小型の魔物の足跡が出た」

「中に入り込んでるかもしれねえ」

「まずは確認だ」


 良樹はすぐに確認項目を並べ始めた。


「暗所」

「狭所」

「水気」

「足場不良」

「逃げ道制限」

「腰を屈めたままの移動」

「前が止まると後ろが詰まる」

「後方から来られたら振り返りにくい」

「最悪だな」


 ガレスが笑う。


「仕事向きの顔になったな」


「嫌な顔の間違いだろ」


「その顔の方が、お前らしい」


 リシアが依頼書を覗き込む。


「暗いなら、光は私が出すわ」


 カレンは少し緊張した顔で言った。


「戻る道を、先に確認します」


 クラリスは静かに頷く。


「足首と膝の負荷に注意ですね」


 良樹は三人を見た。


 作業場で決めた役割が、そのまま次の依頼にも繋がっていく。


「狭い構造物なら、前後を同時に見る必要がある」

「でも、俺の盤を前後両方に厚く回すのはまだ無理だ」


 リシアが聞く。


「じゃあ、どうするの?」


「前は任せる」


 良樹は言った。


「後ろは俺が見る」


 カレンが息を呑む。


「前……」


 良樹はカレンを見た。


「カレン、先頭で怖い場所を見てくれ」

「リシアは光」

「クラリスは二人の身体と足元」

「俺は少し後ろから、背後と退路を見る」


 クラリスが、少しだけ眉を寄せた。


「良樹くんが一人で後ろですか?」


「一人じゃねえよ」


 良樹は答えた。


「前にお前らがいる」


 三人は、少しだけ黙った。


 リシアは良樹を見た。

 カレンは胸元で両手を握った。

 クラリスは、静かに目を細めた。


 前は任せる。

 後ろは自分が見る。


 良樹がそう言ったことの意味を、三人とも分かっていた。


 ガレスは、その様子を見て、少しだけ口元を緩めた。


「決まりだな」


「まだ下見の段階だ」


 良樹は依頼書を受け取る。


「確認する」

「入れるかどうか」

「進めるかどうか」

「戻れるかどうか」

「戦うかどうかは、その後だ」


「お前は本当に確認ばっかりだな」


「確認しないと死ぬだろ」


「まあな」


 ガレスは笑った。


   ◇


 ギルドを出る頃には、昼の光が少し傾き始めていた。


 リシアは、光の出し方について考えていた。

 火を強くすれば明るいが、狭い排水路では熱や空気が問題になる。

 小さく、安定した光が要る。


 カレンは、入口と戻り道のことを考えていた。

 腰を屈めて進む場所。

 足元の水。

 浮いた石。

 前が止まった時、どう止まるか。


 クラリスは、足首と膝と腰を考えていた。

 長く屈んだ姿勢は身体に悪い。

 滑れば捻る。

 湿気があれば体温も奪われる。


 良樹は、後方スキャナーのことを考えていた。


 前方を三人に任せる。

 自分は少し後ろから、背後と退路を見る。


 一人で全部を見る盤ではない。

 四人で安全を作る。


 作業場で整えたことが、そのまま実地確認に繋がっている。


 良樹は、三人を見た。


 普段着。

 いつもの距離。

 いつもの役割。


 だが、もう昨日以前と同じではない。


 普段着に戻っても、昨日の確認事項は消えなかった。

 むしろ、増えていた。


 そして今度は、古い水路跡という新しい未確認が、良樹たちを待っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ