第21話 恋敵ではあるけれど(挿絵有)
夜になった。
作業場付きの貸家は、まだ落ち着かない匂いがした。
木材。
古い埃。
洗ったばかりの布。
油の染みた床板。
前の住人が残していった生活の跡。
一階には、作業場がある。
良樹はそこにいた。
今日は引っ越しのようなものだった。
荷物を運び、部屋を分け、使える家具を確認し、危ない釘を抜き、壊れかけた棚を直し、作業台の脚を締め直した。
普通なら、そこで終わりでいい。
けれど良樹は、終わらなかった。
作業台の前に立ち、腰袋から工具を出し、古い棚の扉を開けたり閉めたりしている。
魔導盤の確認もしているらしい。
時々、半透明の光が一階の隙間から漏れていた。
リシアは、二階の廊下からそれを見下ろして、ため息を吐いた。
「……まだやってる」
隣に立つカレンが、小さく頷く。
「あ、あの……大丈夫でしょうか」
「放っておくと、朝までやりかねないわね」
「それは駄目です」
クラリスが静かに言った。
柔らかい声だった。
けれど、内容はまったく柔らかくなかった。
「良樹くんは、疲れてくると作業を切り上げる判断が少し遅れます」
「今日は環境も変わりました」
「早めに止めるべきです」
「止めるべき、ね」
リシアは苦笑した。
「クラリス、本当に良樹の身体を見るわよね」
「はい」
「身体を見るのが私の役目ですから」
「便利ね、それ」
「便利です」
クラリスは、清楚に微笑んだ。
カレンは、少しだけ一階の方を見た。
良樹のいる作業場。
その奥に、これから四人で使う場所がある。
宿ではない。
借り部屋でもない。
依頼の途中に一時的に使う場所でもない。
四人の拠点。
その言葉を考えるだけで、胸の奥が少し落ち着かなくなる。
良樹さんが、同じ家にいる。
それだけで、妙に意識してしまう。
「カレン」
「は、はいっ」
リシアに呼ばれ、カレンは肩を跳ねさせた。
「そんなに固まらなくてもいいでしょ」
「す、すみません」
「謝らなくていいわよ」
リシアはそう言ってから、二階の奥へ視線を向けた。
「とりあえず、私たちの部屋を片付けましょう」
「そのあとで、必要なら良樹を止めに行く」
「はい」
「分かりました」
三人は、二階奥の大部屋へ入った。
◇
大部屋には、三つの寝台が置かれていた。
壁際に一つ。
窓際に一つ。
反対側の壁際に一つ。
中央には、小さな卓。
その周りに椅子が三脚。
隅には衣装箱が三つ並び、奥には衝立が置かれている。
窓は二つ。
片方を開けると、夜風が少しだけ入ってきた。
宿の部屋より広い。
だが、一人部屋ではない。
三人で使う部屋だ。
リシアは自分の衣装箱に荷物を入れながら、少しだけ部屋を見回した。
「本当に、一緒の部屋なのね」
「はい」
クラリスは法衣を畳みながら頷いた。
「三人部屋です」
「分かってるわよ。見れば分かるもの」
「では、実感の確認ですね」
「そういう言い方しないで」
リシアが少しだけ顔を赤くする。
カレンは、自分の寝台の上に荷物を置きながら、おずおずと周囲を見た。
「あ、あの……私は、こちらでいいんでしょうか」
「いいんじゃない?」
リシアは振り返る。
「カレンはその場所で大丈夫?」
「はい。入口が見えるので……落ち着きます」
「そこなのね」
「は、はい」
カレンの寝台は、扉の斜め向かいだった。
寝たままでは見えない。
けれど、起き上がればすぐ入口が見える位置だ。
リシアは苦笑した。
「本当に危険を見る子ね」
「す、すみません」
「謝るところじゃないわよ」
「助かってるんだから」
カレンは、少しだけ目を伏せた。
「はい」
クラリスは、その様子を穏やかに見ていた。
自分の寝台は、窓際。
夜風が入りやすい。
部屋全体も見える。
カレンの寝台も、リシアの寝台も、扉も見える。
具合が悪い時。
誰かが寝苦しそうにした時。
夜中に起きた時。
この位置なら、見やすい。
「クラリスは、そこ?」
リシアが聞いた。
「はい」
「ここなら、お二人の様子も見えますから」
「身体確認?」
「はい」
「でしょうね」
リシアは、呆れたように言った。
それから、自分の寝台へ腰を下ろす。
残った場所は壁際。
入口からは少し遠い。
だが、一階へ降りる階段には近い。
良樹が夜中に作業場へ行くなら、気配に気づきやすい位置だ。
リシアは、それを考えてから、自分で少しだけ顔を赤くした。
別に。
良樹の気配を気にしているわけではない。
ただ、同じ家なのだ。
何かあったら気づける位置の方がいい。
それだけだ。
たぶん。
「リシア?」
カレンが首を傾げる。
「何でもないわ」
リシアは即答した。
即答が、少しだけ早かった。
クラリスは、口元に手を添えた。
「何でもないのですね」
「何でもないわよ」
「はい」
「その顔、何か分かってる顔よね」
「分かっていませんよ」
「嘘が清楚」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
小さく笑いが起きた。
夜の部屋。
三つの寝台。
三人分の荷物。
そこに、少しだけ生活の気配が生まれた。
◇
しばらくして、荷物の整理が一段落した。
三人は中央の小さな卓を囲んで座った。
窓際の灯りが、柔らかく揺れている。
下の階からは、時折、木を叩くような音が聞こえた。
良樹がまだ何かを直しているのだろう。
リシアは、その音に一度目を向けてから、卓に肘を置いた。
「それで」
声を少しだけ低くする。
「表のルールは、だいたい決まったわよね」
カレンが頷く。
「はい」
クラリスも頷いた。
「良樹くんは一人部屋」
「私たちは大部屋」
「空き小部屋は、ドレッサー兼更衣室」
「作業場と生活空間は分ける」
「入室時は声かけ」
「鍵は任意」
「罰則は設けない」
「事故時は当人同士で確認する」
「生活の余白は残す、もね」
リシアが付け足した。
「良樹は、最初から全部手順化しようとしてたけど」
「はい」
カレンは少しだけ苦笑する。
「鍵、札、使用中表示、ノック、確認、罰則……全部決めようとしていました」
「罰則って何よ、罰則って」
リシアは呆れたように言った。
「良樹らしいといえば、らしいけど」
「事故を防ぎたかったのでしょうね」
クラリスが言う。
「ただ、完全に防ぎすぎると生活が息苦しくなります」
「そうなのよ」
リシアは頷いた。
「だから、そこは三対一で緩めた」
カレンは、その時のやり取りを思い出して、少しだけ口元を緩めた。
良樹は真面目な顔で言った。
女部屋を間違えて開けた時に、誰かが寝ていたり着替えていたりしたら、何も言わないのか、と。
三人は、ほぼ同時に答えた。
「「「それは言う」」」
良樹は頭を抱えた。
どうしてこうなった、と。
思い出した三人は、同時に少し笑った。
「良樹さん、すごく困っていましたね」
「困るわよ、あれは」
リシアが言う。
「でも、良樹が全部決めるのも違うでしょ」
「私たちも暮らすんだから」
「はい」
クラリスは穏やかに頷いた。
「そして、良樹くんに聞かせる必要のない確認もあります」
リシアの動きが止まった。
カレンも、少しだけ背筋を伸ばす。
「……クラリス」
「はい」
「今、かなり大事なことを言ったわね」
「はい」
「良樹くんに聞かせると、良樹くんが困る確認です」
「言い直しても危険度は変わらないわよ」
「あ、あの……でも、必要だと思います」
カレンが小さく手を上げる。
「私たちだけで、決めておいた方がいいことは……あると思います」
リシアは、カレンを見た。
それから、クラリスを見た。
二人とも、目を逸らさなかった。
リシアは小さく息を吐く。
「そうね」
灯りが揺れる。
窓の外では、夜風が木の葉を鳴らした。
リシアは、静かに言った。
「じゃあ、裏ルール会議を始めましょう」
◇
「まず、抜け駆けは禁止」
リシアは最初にそう言った。
「これは絶対」
カレンは、膝の上で両手を握った。
「は、はい……抜け駆けは、よくないと思います」
クラリスも頷く。
「はい」
「関係を壊す踏み込みは避けるべきです」
「具体的には」
リシアは指を折った。
「夜に一人で良樹の部屋へ押しかけない」
「寝込みを襲わない」
「他の二人に黙って、決定的な約束を取りつけない」
「良樹を追い詰めて返事を迫らない」
「誰か一人を排除するように動かない」
「当然ですね」
クラリスは静かに言った。
「良樹くんは、そういう迫られ方をすると固まります」
「固まるだけで済めばいいけどね」
リシアは少しだけ苦い顔をした。
「たぶん、壊れるか逃げるわ」
その言葉に、カレンが小さく反応した。
「逃げる……」
「その話は後」
リシアは言った。
「まずは、抜け駆け禁止」
「はい」
「はい」
三人は頷いた。
そのあと、妙な沈黙が落ちた。
リシアは良樹の隣に座ったことがある。
クラリスは良樹に呼び捨てを求めた。
カレンは良樹の脚の間に座った。
全員、思い当たる節がある。
誰も目を合わせない。
リシアは咳払いした。
「……過去の確認活動は、今回の対象外とします」
クラリスは、すぐに頷いた。
「賢明ですね」
カレンも真っ赤になりながら頷く。
「は、はい……」
「自分たちに甘いわね、私たち」
リシアが呟く。
「ですが、ここで厳密に過去を裁くと、会議が終わりません」
クラリスは平然と言った。
「それはそう」
「お、終わらないと思います……」
「じゃあ、次」
リシアは少しだけ姿勢を正した。
「抜け駆けは禁止」
「でも、正当な理由で良樹に近づくのは可」
カレンが首を傾げる。
「正当な理由、ですか」
「そう」
リシアは指を折っていく。
「作業補助」
「魔導盤確認」
「身体確認」
「危険確認」
「食事」
「掃除」
「洗濯」
「寝落ち回収」
「看病」
「相談」
「依頼準備」
「帰還後の確認」
「多いですね」
クラリスが微笑む。
「多いわよ」
「でも、禁止しすぎると一緒に暮らせないでしょ」
「はい」
「正当な理由は必要です」
クラリスは頷いた。
「私は身体を見る役ですから、良樹くんの様子を見るのは必要ですね」
「私は共同制御者だから、作業場で隣にいるのは当然」
リシアが続ける。
カレンは少し考えたあと、小さく言った。
「私は、危険を見るので……入口や正面の確認は必要です」
三人は、互いを見た。
しばらく沈黙。
リシアが、ぼそりと言う。
「全員、理由が強いわね」
「便利ですね」
クラリスが言った。
「べ、便利……なんでしょうか」
カレンが少し困った顔をする。
「便利よ」
リシアは頷いた。
「怖いくらいにね」
◇
「次」
リシアは、少しだけ声を落とした。
「事故は狙わない」
カレンの肩が、ぴくりと揺れた。
クラリスは穏やかに頷く。
「当然ですね」
「品位の問題です」
「そう。品位の問題」
リシアは頷いた。
「ドレッサー部屋の鍵は任意」
「かけるのも自由」
「かけないのも自由」
「でも、露骨な狙いは駄目」
「露骨な狙い……」
カレンが小さく繰り返す。
「たとえば」
リシアは指を立てる。
「ドアを開け放して、無理やり見せる」
「良樹を明らかに呼び込む」
「わざと見える位置で待つ」
「自分でスカートをまくる」
「偶然を装うには無理がある行動」
「それは、駄目です」
カレンが真剣に頷いた。
「は、はい……それは、駄目だと思います」
「当然ですね」
クラリスも頷く。
「ただ」
リシアは、そこで少しだけ視線を逸らした。
「鍵をかけ忘れることはある」
「人間ですから」
クラリスがすぐに言った。
「人間ですから……」
カレンも続く。
「急いでいて、閉め方が甘いこともある」
「ありますね」
「良樹が間違えて入ってくる可能性を、少しだけ考えてしまうことも」
「心の中までは、罰せられません」
クラリスは、清楚に言った。
カレンは耳まで赤くなる。
「き、期待……」
「期待するだけなら?」
リシアが言う。
「あるでしょ」
「ありますね」
クラリスは即答した。
カレンは、しばらくうつむいた。
それから、小さく。
「……あります」
リシアは、深く頷いた。
「じゃあ、決まり」
「狙うのはアウト」
「期待するのはセーフ」
カレンが、真っ赤な顔で頷く。
「期待は、セーフ……」
「はい」
クラリスも頷いた。
「ただし、判定は当事者以外の二人で行いましょう」
「そうね」
リシアは同意した。
「自分では分からないこともあるし」
カレンが、おずおずと手を上げた。
「あ、あの……厳しくしすぎると」
リシアは、カレンを見る。
カレンは小さな声で続けた。
「自分に、返ってくると思います」
沈黙。
リシアはゆっくり頷いた。
「その通りね」
「公平ですね」
クラリスが言う。
「公平だけど怖いわね」
「はい」
「怖いくらいに公平です」
リシアは額を押さえた。
「この会議、思ったより高度ね」
「生活に関わりますから」
「良樹には絶対聞かせられないわ」
「はい」
「聞かせると良樹くんが倒れます」
「倒れるでしょうね……」
◇
「事故が起きた場合は?」
クラリスが切り出した。
「表ルールでは、当人同士で確認する、でした」
「そうね」
リシアは頷く。
「裏ルールでも、基本はそれでいいと思う」
「怒る」
「謝らせる」
「確認する」
「黙って流す」
「あとで報告する」
「報告しない」
クラリスは、一つずつ並べた。
「当人同士で解決できる範囲なら、当人に任せましょう」
「でも」
カレンが小さく言う。
「報告した方がいいことも、あると思います」
「内容によるわね」
リシアが言った。
「はい」
「内容によります」
クラリスも頷いた。
「報告義務にしすぎると、生活が息苦しくなります」
「軽い接触や、短時間の二人きりまで全て報告対象にすると、逆に嘘や隠し事が増えます」
「それは嫌ね」
リシアは腕を組む。
「じゃあ、重大進展だけ報告対象」
「はい」
クラリスは指を折る。
「良樹くんが三人部屋に入った」
「良樹くんがドレッサー部屋に入った」
「良樹くんの個室に一人で入った」
「良樹くんと二人きりで長時間いた」
「夜間に二人だけで話した」
「良樹くんから明確に恋愛的な話をされた」
「手を握る、抱きしめる、膝枕など、明確に距離が進んだ」
「良樹くんが自分を特別扱いしたと感じた」
「告白に近い発言があった」
カレンの顔が、みるみる赤くなった。
「こ、告白に近い発言……」
「良樹は無自覚に言うから危険なのよね」
リシアが真顔で言った。
「お前がいい、とか」
カレンの肩が跳ねた。
「リ、リシアっ」
「言ったでしょ、良樹」
「言いましたね」
クラリスが頷く。
「非常に明確な言葉でした」
「言わないでください……」
カレンは両手で顔を覆った。
リシアは少しだけ笑ったが、すぐに表情を戻す。
「任意報告は?」
「軽い接触」
「作業中に肩が触れた」
「偶然見えた、見られた」
「短時間の二人きり」
「良樹くんが照れた」
「良樹くんに褒められた」
クラリスが言う。
「このあたりは本人の裁量で」
「ただし」
リシアが続ける。
「後から他の二人に知られた時には、説明責任あり」
「説明責任……」
カレンが震える。
「パーティですから」
クラリスは清楚に言った。
「便利ね、パーティって言葉」
「はい」
「便利です」
リシアは、灯りの揺れる卓を見た。
冗談めいたルール。
照れ隠しのような線引き。
けれど、その奥にあるものは軽くない。
隠して。
出し抜いて。
勝って。
誰かを泣かせる。
そうならないための、ルールだった。
◇
「次は、良樹の線引き」
リシアはそう言った。
部屋の空気が、少しだけ変わった。
「良樹は鈍いけど、馬鹿じゃない」
「はい」
クラリスが頷く。
「良樹くんは、私たちの気持ちにまったく気づいていないわけではありません」
カレンは、膝の上の手を握った。
「……はい」
「だから」
リシアは、少しだけ目を伏せた。
「良樹は、自分から簡単に誘わない」
「思わせぶりなことをしないようにしてる」
「たまに事故るけど」
「事故りますね」
クラリスが微笑む。
「事故ります……」
カレンも小さく頷いた。
「でも、あれは良樹なりの筋なのよ」
リシアは言った。
「誰かに答えを出せないまま、軽く踏み込むのは違うと思ってる」
「そういうところは、たぶん誠実」
「はい」
クラリスは、少しだけ表情を柔らかくした。
「良樹くんは、逃げる時もありますが、不誠実に逃げる人ではありません」
「逃げる時もあるけどね」
「はい」
「逃げますね」
カレンが小さく言う。
「でも……嫌で逃げている感じでは、ないです」
「そう」
リシアはカレンを見た。
「だから、良樹が距離を取っても、嫌われたって短絡しない」
「逃げたからって、終わったと思わない」
「ただし、なかったことにはさせない」
「はい」
「はい」
三人は頷いた。
「それと」
リシアは続ける。
「良樹が自分から誘わないなら、こっちから言う勇気は認める」
カレンの肩が揺れる。
「勇気……」
「そう」
リシアは、カレンをまっすぐ見た。
「カレンがデートに誘う」
「私が作業後に隣で休む」
「クラリスが体調確認を理由に近づく」
「誰かが良樹に相談を持ちかける」
「はい」
クラリスが頷く。
「明確な抜け駆けでなければ、勇気は尊重しましょう」
「あとで責めるのは無し」
リシアが言う。
カレンは、少しだけ不安そうに視線を落とした。
「……言えるか、分かりません」
「その時は練習ね」
「練習……」
「はい」
クラリスが微笑む。
「必要なら私も付き合います」
「あなたが付き合うと、別の練習になりそうだから待って」
「そうでしょうか」
「そうよ」
リシアは即答した。
カレンは、少しだけ笑った。
それだけで、部屋の空気が少し和らいだ。
◇
「それから」
クラリスが、静かに声を落とした。
「良樹くんを壊さないこと」
笑いが消えた。
リシアも、カレンも、自然にクラリスを見る。
クラリスの表情は穏やかだった。
だが、その目は真剣だった。
「恋愛的に攻めることは、悪いことではありません」
「照れさせることも、困らせることも、全部が悪いとは思いません」
「うん」
リシアが頷く。
「でも」
クラリスは言った。
「良樹くんを追い詰めるのは駄目です」
「照れさせるのと、壊すのは違います」
カレンは、胸元で手を握った。
「はい」
「特に、深夜作業後は危険です」
「疲れている時」
「寝不足の時」
「魔導盤の調整で集中しすぎた後」
「そういう時に、答えを迫ったり、強く揺さぶったりしてはいけません」
「結局そこに戻るのね」
リシアが苦笑する。
「戻ります」
クラリスは即答した。
「良樹くんは、自分の疲労を後回しにします」
「そして、責任を感じるとさらに動こうとします」
「私たちが、それを利用する形になってはいけません」
リシアは、少しだけ黙った。
一階から、また小さく木の音がした。
まだ作業している。
良樹らしい。
だが、良樹らしいからこそ危うい。
「そこは同意」
リシアは言った。
「はい」
カレンも頷く。
「良樹さんが、壊れるのは嫌です」
「はい」
クラリスは、少しだけ目を細めた。
「良樹くんを止めるのは、私の役目でもあります」
「ですが、止めなければいけない状況を、私たちが作ってはいけません」
その言葉は、静かに部屋へ落ちた。
◇
しばらく、誰も喋らなかった。
灯りが揺れる。
窓の外で、夜風が鳴る。
リシアは、卓の木目を見つめていた。
それから、ゆっくり口を開いた。
「たぶん、良樹は逃げるわ」
カレンが顔を上げる。
「逃げる……ですか」
「うん」
リシアは頷いた。
「私たちが押し合って、誰か一人を選べって空気にしたら」
「あいつ、答えを出す前に壊れるか、逃げるか、どっちかよ」
カレンは息を呑んだ。
クラリスは、静かに目を伏せる。
「……良樹くんは、誰かを軽く選べる人ではありませんからね」
「そう」
リシアは苦い顔をした。
「誰かを選べば、誰かが傷つく」
「選べなければ、全員を待たせる」
「どっちにしても、自分が悪いって考える」
「良樹さんらしいです」
カレンが小さく言った。
その声は、少し震えていた。
クラリスは、静かに続ける。
「良樹くんは、逃げたいから逃げるのではないと思います」
「誰かを選べば、誰かを傷つける」
「選べなければ、全員を待たせる」
「どちらにしても筋が通らないと考えて、動けなくなる」
「そういう方です」
リシアは、何も言わなかった。
カレンも、俯いた。
しばらくして、カレンがぽつりと言った。
「私、良樹さんに選んでほしいです」
それは、小さな声だった。
でも、逃げていない声だった。
「はい」
クラリスが静かに受け止める。
リシアも、何も言わずに聞く。
カレンは続けた。
「良樹さんに、見てほしいです」
「良樹さんの前に、立ちたいです」
「良樹さんに、私を選んでほしいって……思います」
膝の上の手が、ぎゅっと握られる。
「でも」
カレンは、リシアを見た。
次に、クラリスを見た。
「リシアやクラリスが泣くのは、嫌です」
リシアの表情が、少しだけ揺れた。
クラリスの微笑みも、一瞬だけ消えた。
カレンは、また俯く。
「それは、嫌です」
「勝ちたいのに」
「でも、二人がいなくなるのは、嫌です」
部屋が静かになった。
恋敵。
その言葉は、確かにある。
けれど、カレンは今、それを越えることを言った。
勝ちたい。
選ばれたい。
でも、二人を傷つけたくない。
それは矛盾している。
けれど、嘘ではなかった。
「カレン」
リシアが、少しだけ柔らかい声で呼んだ。
「はい」
「私も、たぶん同じ」
カレンが顔を上げる。
リシアは少し照れたように視線を逸らした。
「良樹の隣は、譲りたくない」
「良樹に選んでほしい」
「でも、あんたたちが泣いて離れていくのは、嫌」
クラリスは、静かに二人を見ていた。
そして、微笑む。
「私もです」
声は穏やかだった。
「良樹くんを止める役目は、譲りたくありません」
「良樹くんに、私を見てほしいとも思います」
「ですが」
「リシアやカレンが、良樹くんのそばからいなくなる形は、望みません」
リシアは、少しだけ息を吐いた。
「厄介ね、私たち」
「はい」
クラリスは頷いた。
「とても」
カレンは、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「でも……少し、安心しました」
「安心?」
「はい」
「私だけ、変なのかと思っていました」
「変よ」
リシアは即答した。
カレンが固まる。
リシアは少し笑った。
「私たち全員、変なのよ」
カレンは、ほっとしたように息を吐いた。
「はい」
◇
クラリスは、卓の上に置かれた灯りを見つめた。
それから、静かに言った。
「では、少なくとも」
「私たちが、良樹くんの逃げ道にならないようにしましょう」
リシアが眉を寄せる。
「逃げ道?」
「はい」
クラリスは頷いた。
「良樹くんが『三人のうち誰か一人を選ばなければならない』と思えば、きっと苦しみます」
「でも、私たちが互いを敵として扱わなければ」
「少なくとも、良樹くんが一人で抱える理由は減ります」
リシアは、少しだけ考えた。
「それって、良樹を逃がさないための話よね」
「そうとも言えます」
クラリスは、清楚に言った。
カレンが小さく震える。
「に、逃がさない……」
「でも、分かる」
リシアは言った。
「誰か一人が勝って、他の二人が離れる形になったら」
「良樹はたぶん、自分から壊しにいく」
「そんな顔、見たくない」
「はい」
クラリスが頷く。
「ですから、良樹くんが一人で勝手に悪者にならないように」
「私たちの関係を、私たちで整えておく必要があります」
「整える、ね」
リシアは少しだけ笑った。
「良樹みたいな言い方」
「影響を受けていますね」
「受けすぎじゃない?」
「便利ですから」
「また便利」
少しだけ笑いが戻る。
けれど、話の芯は消えていなかった。
リシアは、静かに言った。
「逃げ道は残す」
「でも、逃げ切らせない」
クラリスの目が、少しだけ細くなる。
「良い表現ですね」
カレンは少し青ざめた。
「す、少し怖いです」
「怖くないわよ」
「誠実に待つだけ」
リシアは言った。
クラリスが柔らかく微笑む。
「はい」
「誠実に、包囲します」
「包囲……」
カレンが呟く。
リシアは即座にクラリスを見た。
「クラリス、言い方」
「良くありませんでしたか?」
「良すぎるのよ」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
カレンは、少しだけ笑った。
逃げ道は残す。
でも逃げ切らせない。
それは、無理やり捕まえるという意味ではない。
良樹が一人で答えを抱え込まないように。
誰か一人を選べない自分を責めないように。
誰か二人を泣かせるくらいなら、自分がいなくなればいいなどと思わないように。
三人が、三人のまま、良樹のそばにいる。
そのための、最初の約束だった。
◇
会議は、そこで一段落した。
卓の上には、紙も筆もない。
けれど、三人はそれぞれ、決まったことを覚えていた。
抜け駆けは禁止。
正当な理由で近づくのは可。
事故は狙わない。
期待はセーフ。
判定は当事者以外の二人。
重大進展は報告。
良樹の線引きは尊重する。
踏み込む勇気は認める。
良樹を壊さない。
良樹を一人で逃がさない。
リシアは、椅子の背にもたれた。
「……思ったより、ちゃんとした会議になったわね」
「はい」
クラリスが頷く。
「非常に有意義でした」
「有意義って言葉で、今日の内容をごまかしていいのかしら」
「ごまかせていませんね」
「でしょうね」
カレンは、少しだけ肩の力を抜いた。
「あの……少し、安心しました」
「二回目ね、それ」
リシアが言う。
「はい」
「一緒の部屋で、よかったです」
カレンの声は、素直だった。
リシアは一瞬黙った。
それから、少しだけ照れたように視線を逸らす。
「……そうね」
クラリスも微笑む。
「私も、そう思います」
また、少し沈黙が落ちた。
今度の沈黙は、重くなかった。
リシアは、指先で卓を軽く叩いた。
「最後にひとつ」
クラリスが顔を上げる。
「はい」
カレンもリシアを見る。
「何ですか?」
リシアは、少しだけ言いにくそうに口を開いた。
「今更なんだけど」
「はい」
「私たち、もう一緒に住むパーティなんだから」
リシアは、少しだけ頬を赤くした。
「さん付けとか、やめない?」
クラリスとカレンが、きょとんとした。
リシアは、照れ隠しのように早口になる。
「ほら、ずっと一緒に動くわけだし」
「同じ部屋だし」
「さっきみたいな話もしたし」
「今さら、リシアさんとか、クラリスさんとか、カレンさんとか」
「少し、距離があるというか」
言えば言うほど恥ずかしくなったのか、リシアは途中で口を閉じた。
カレンは目を丸くしている。
クラリスは、少しだけ微笑んだ。
「分かりました、リシア」
リシアの肩が、ぴくりと揺れた。
「……うん」
カレンも、胸元で両手を握った。
「はい、賛成です」
「リシアさ……リシア」
言った瞬間、カレンの顔が真っ赤になった。
リシアも、少しだけ赤くなる。
「うん」
それから、リシアは二人を見る。
「クラリス」
「カレン」
クラリスは穏やかに頷く。
「はい、リシア」
カレンも、少し遅れて。
「はい、リシア」
言ってから、また顔を赤くする。
クラリスは、そんなカレンを見て微笑んだ。
カレンは、おずおずとクラリスを見る。
「あ、あの……クラリス、も」
「はい、カレン」
「っ……」
カレンは両手で顔を押さえた。
リシアが呆れたように笑う。
「何で自分で言って照れてるのよ」
「な、慣れてなくて……」
「では、慣れましょう」
クラリスは穏やかに言った。
「そうね」
「これから同じ部屋なんだし」
「はい」
カレンは、小さく頷いた。
リシア。
カレン。
クラリス。
ただ、さん付けを外しただけ。
それだけなのに、部屋の空気が少し変わった。
近くなった。
危ういほどではない。
馴れ合いすぎてもいない。
けれど、確かに一歩、近づいた。
◇
その時、一階から大きめの音がした。
ごとん、と何かが落ちるような音。
三人は同時に反応した。
「良樹?」
「良樹さん?」
「良樹くん?」
三人の呼び方が、綺麗に分かれた。
一瞬、三人は互いを見た。
それから、少しだけ笑った。
「行くわよ」
リシアが立ち上がる。
「はい」
カレンも立ち上がる。
「止めに行きましょう」
クラリスも立つ。
三人は部屋を出た。
二階の廊下を抜け、階段を降りる。
一階の作業場では、良樹が棚板を片手で支えながら固まっていた。
足元には、外れかけた木箱が落ちている。
「良樹!」
リシアが声を上げる。
良樹は振り返った。
「悪い。起こしたか?」
「起きてたわよ」
「何してるの」
「棚の高さを変えようと思ったら、箱が落ちた」
「夜にやることじゃないわね」
「明日の方がいいと思ったのは、落ちた後だ」
「遅いのよ」
カレンは、すぐに周囲を見る。
「怪我はありませんか?」
「足元、釘が出ています」
「おっと」
良樹が足を引く。
クラリスは良樹の手元を見た。
「右手、見せてください」
「怪我はしてない」
「見せてください」
「はい」
良樹は素直に右手を出した。
クラリスは指先、手首、腕の力の入り方を見る。
「大きな怪我はありません」
「ですが、今日はもう終わりです」
「いや、あと少しだけ」
三人の視線が、同時に良樹へ向いた。
良樹は口を閉じた。
「……終わります」
「よろしい」
クラリスが頷く。
リシアは棚板を支え、カレンは足元の木箱をどけた。
「明日の朝にしましょう」
カレンが言う。
「明るい方が危なくないです」
「それはそうだな」
良樹は素直に頷いた。
リシアは少しだけ目を細める。
「今日はやたら素直ね」
「三対一で正論を言われると、逆らう理由がない」
「分かってるなら最初から寝なさい」
「返す言葉もねえ」
良樹は工具を腰袋へ戻した。
その手つきだけは、疲れていても丁寧だった。
クラリスは、それを見届けてから言う。
「良樹くん」
「何だ」
「寝てください」
「命令形か」
「はい」
「分かった」
良樹は小さく息を吐き、作業場の灯りを落とした。
その背中を、三人は見ていた。
リシアは隣を見る。
カレンがいる。
クラリスがいる。
恋敵。
その言葉は、間違っていない。
けれど、敵ではない。
少なくとも今、三人は同じ方向を見ている。
良樹を止める。
良樹を壊さない。
良樹を一人で逃がさない。
そのために、三人で立っている。
◇
夜更け。
三人は大部屋へ戻り、それぞれの寝台に入った。
灯りは落とした。
窓から月明かりが入っている。
最初に聞こえたのは、カレンの小さな声だった。
「リシア」
「何?」
「クラリス」
「はい」
「……おやすみなさい」
少しだけ間があった。
それから、リシアが答える。
「おやすみ、カレン」
クラリスも続いた。
「おやすみなさい、カレン」
「おやすみなさい、リシア」
「おやすみ、クラリス」
それだけのやり取りだった。
けれど、カレンは布団の中で小さく笑った。
リシアは、少し照れたように寝返りを打った。
クラリスは、二人の呼吸を聞きながら静かに目を閉じた。
三人は恋敵である。
でも、敵ではない。
同じ家で。
同じ部屋で。
同じ男を見て。
同じ現場で動く。
良樹が一人で答えを抱えて逃げ出さないように。
誰か一人の勝利で、誰か二人が傷つかないように。
三人は、まだ答えの名前を知らない。
それでも、その夜、最初の約束をした。
さん付けをやめた三人の距離は、少しだけ近くなった。
同じ部屋で眠るには、十分なくらいに。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
恋敵ではあるけれど、敵ではない。
そんな三人の関係が少し見えてくる回でした。
良樹本人の知らないところで、今後もいろいろな確認項目が増えていきます。
夜な夜な妻会議を行うヒロインたちを、どうか応援してあげてください。




