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第21話 恋敵ではあるけれど(挿絵有)

 夜になった。


 作業場付きの貸家は、まだ落ち着かない匂いがした。


 木材。

 古い埃。

 洗ったばかりの布。

 油の染みた床板。

 前の住人が残していった生活の跡。


 一階には、作業場がある。


 良樹はそこにいた。


 今日は引っ越しのようなものだった。

 荷物を運び、部屋を分け、使える家具を確認し、危ない釘を抜き、壊れかけた棚を直し、作業台の脚を締め直した。


 普通なら、そこで終わりでいい。


 けれど良樹は、終わらなかった。


 作業台の前に立ち、腰袋から工具を出し、古い棚の扉を開けたり閉めたりしている。

 魔導盤の確認もしているらしい。

 時々、半透明の光が一階の隙間から漏れていた。


 リシアは、二階の廊下からそれを見下ろして、ため息を吐いた。


「……まだやってる」


 隣に立つカレンが、小さく頷く。


「あ、あの……大丈夫でしょうか」


「放っておくと、朝までやりかねないわね」


「それは駄目です」


 クラリスが静かに言った。


 柔らかい声だった。

 けれど、内容はまったく柔らかくなかった。


「良樹くんは、疲れてくると作業を切り上げる判断が少し遅れます」

「今日は環境も変わりました」

「早めに止めるべきです」


「止めるべき、ね」


 リシアは苦笑した。


「クラリス、本当に良樹の身体を見るわよね」


「はい」

「身体を見るのが私の役目ですから」


「便利ね、それ」


「便利です」


 クラリスは、清楚に微笑んだ。


 カレンは、少しだけ一階の方を見た。


 良樹のいる作業場。

 その奥に、これから四人で使う場所がある。


 宿ではない。

 借り部屋でもない。

 依頼の途中に一時的に使う場所でもない。


 四人の拠点。


 その言葉を考えるだけで、胸の奥が少し落ち着かなくなる。


 良樹さんが、同じ家にいる。


 それだけで、妙に意識してしまう。


「カレン」


「は、はいっ」


 リシアに呼ばれ、カレンは肩を跳ねさせた。


「そんなに固まらなくてもいいでしょ」


「す、すみません」


「謝らなくていいわよ」


 リシアはそう言ってから、二階の奥へ視線を向けた。


「とりあえず、私たちの部屋を片付けましょう」

「そのあとで、必要なら良樹を止めに行く」


「はい」


「分かりました」


 三人は、二階奥の大部屋へ入った。


   ◇


 大部屋には、三つの寝台が置かれていた。


 壁際に一つ。

 窓際に一つ。

 反対側の壁際に一つ。


 中央には、小さな卓。

 その周りに椅子が三脚。

 隅には衣装箱が三つ並び、奥には衝立が置かれている。


 窓は二つ。

 片方を開けると、夜風が少しだけ入ってきた。


 宿の部屋より広い。

 だが、一人部屋ではない。


 三人で使う部屋だ。


 リシアは自分の衣装箱に荷物を入れながら、少しだけ部屋を見回した。


「本当に、一緒の部屋なのね」


「はい」


 クラリスは法衣を畳みながら頷いた。


「三人部屋です」


「分かってるわよ。見れば分かるもの」


「では、実感の確認ですね」


「そういう言い方しないで」


 リシアが少しだけ顔を赤くする。


 カレンは、自分の寝台の上に荷物を置きながら、おずおずと周囲を見た。


「あ、あの……私は、こちらでいいんでしょうか」


「いいんじゃない?」


 リシアは振り返る。


「カレンはその場所で大丈夫?」


「はい。入口が見えるので……落ち着きます」


「そこなのね」


「は、はい」


 カレンの寝台は、扉の斜め向かいだった。


 寝たままでは見えない。

 けれど、起き上がればすぐ入口が見える位置だ。


 リシアは苦笑した。


「本当に危険を見る子ね」


「す、すみません」


「謝るところじゃないわよ」

「助かってるんだから」


 カレンは、少しだけ目を伏せた。


「はい」


 クラリスは、その様子を穏やかに見ていた。


 自分の寝台は、窓際。

 夜風が入りやすい。

 部屋全体も見える。

 カレンの寝台も、リシアの寝台も、扉も見える。


 具合が悪い時。

 誰かが寝苦しそうにした時。

 夜中に起きた時。


 この位置なら、見やすい。


「クラリスは、そこ?」


 リシアが聞いた。


「はい」

「ここなら、お二人の様子も見えますから」


「身体確認?」


「はい」


「でしょうね」


 リシアは、呆れたように言った。


 それから、自分の寝台へ腰を下ろす。


 残った場所は壁際。

 入口からは少し遠い。

 だが、一階へ降りる階段には近い。


 良樹が夜中に作業場へ行くなら、気配に気づきやすい位置だ。


 リシアは、それを考えてから、自分で少しだけ顔を赤くした。


 別に。

 良樹の気配を気にしているわけではない。


 ただ、同じ家なのだ。


 何かあったら気づける位置の方がいい。

 それだけだ。


 たぶん。


「リシア?」


 カレンが首を傾げる。


「何でもないわ」


 リシアは即答した。


 即答が、少しだけ早かった。


 クラリスは、口元に手を添えた。


「何でもないのですね」


「何でもないわよ」


「はい」


「その顔、何か分かってる顔よね」


「分かっていませんよ」


「嘘が清楚」


「ありがとうございます」


「褒めてない」


 小さく笑いが起きた。


 夜の部屋。

 三つの寝台。

 三人分の荷物。


 そこに、少しだけ生活の気配が生まれた。


   ◇


 しばらくして、荷物の整理が一段落した。


 三人は中央の小さな卓を囲んで座った。


 窓際の灯りが、柔らかく揺れている。


 下の階からは、時折、木を叩くような音が聞こえた。

 良樹がまだ何かを直しているのだろう。


 リシアは、その音に一度目を向けてから、卓に肘を置いた。


「それで」


 声を少しだけ低くする。


「表のルールは、だいたい決まったわよね」


 カレンが頷く。


「はい」


 クラリスも頷いた。


「良樹くんは一人部屋」

「私たちは大部屋」

「空き小部屋は、ドレッサー兼更衣室」

「作業場と生活空間は分ける」

「入室時は声かけ」

「鍵は任意」

「罰則は設けない」

「事故時は当人同士で確認する」


「生活の余白は残す、もね」


 リシアが付け足した。


「良樹は、最初から全部手順化しようとしてたけど」


「はい」


 カレンは少しだけ苦笑する。


「鍵、札、使用中表示、ノック、確認、罰則……全部決めようとしていました」


「罰則って何よ、罰則って」


 リシアは呆れたように言った。


「良樹らしいといえば、らしいけど」


「事故を防ぎたかったのでしょうね」


 クラリスが言う。


「ただ、完全に防ぎすぎると生活が息苦しくなります」


「そうなのよ」


 リシアは頷いた。


「だから、そこは三対一で緩めた」


 カレンは、その時のやり取りを思い出して、少しだけ口元を緩めた。


 良樹は真面目な顔で言った。


 女部屋を間違えて開けた時に、誰かが寝ていたり着替えていたりしたら、何も言わないのか、と。


 三人は、ほぼ同時に答えた。


「「「それは言う」」」


 良樹は頭を抱えた。


 どうしてこうなった、と。


 思い出した三人は、同時に少し笑った。


「良樹さん、すごく困っていましたね」


「困るわよ、あれは」


 リシアが言う。


「でも、良樹が全部決めるのも違うでしょ」

「私たちも暮らすんだから」


「はい」


 クラリスは穏やかに頷いた。


「そして、良樹くんに聞かせる必要のない確認もあります」


 リシアの動きが止まった。


 カレンも、少しだけ背筋を伸ばす。


「……クラリス」


「はい」


「今、かなり大事なことを言ったわね」


「はい」

「良樹くんに聞かせると、良樹くんが困る確認です」


「言い直しても危険度は変わらないわよ」


「あ、あの……でも、必要だと思います」


 カレンが小さく手を上げる。


「私たちだけで、決めておいた方がいいことは……あると思います」


 リシアは、カレンを見た。


 それから、クラリスを見た。


 二人とも、目を逸らさなかった。


 リシアは小さく息を吐く。


「そうね」


 灯りが揺れる。


 窓の外では、夜風が木の葉を鳴らした。


 リシアは、静かに言った。


「じゃあ、裏ルール会議を始めましょう」


 挿絵(By みてみん)


   ◇


「まず、抜け駆けは禁止」


 リシアは最初にそう言った。


「これは絶対」


 カレンは、膝の上で両手を握った。


「は、はい……抜け駆けは、よくないと思います」


 クラリスも頷く。


「はい」

「関係を壊す踏み込みは避けるべきです」


「具体的には」


 リシアは指を折った。


「夜に一人で良樹の部屋へ押しかけない」

「寝込みを襲わない」

「他の二人に黙って、決定的な約束を取りつけない」

「良樹を追い詰めて返事を迫らない」

「誰か一人を排除するように動かない」


「当然ですね」


 クラリスは静かに言った。


「良樹くんは、そういう迫られ方をすると固まります」


「固まるだけで済めばいいけどね」


 リシアは少しだけ苦い顔をした。


「たぶん、壊れるか逃げるわ」


 その言葉に、カレンが小さく反応した。


「逃げる……」


「その話は後」


 リシアは言った。


「まずは、抜け駆け禁止」


「はい」


「はい」


 三人は頷いた。


 そのあと、妙な沈黙が落ちた。


 リシアは良樹の隣に座ったことがある。

 クラリスは良樹に呼び捨てを求めた。

 カレンは良樹の脚の間に座った。


 全員、思い当たる節がある。


 誰も目を合わせない。


 リシアは咳払いした。


「……過去の確認活動は、今回の対象外とします」


 クラリスは、すぐに頷いた。


「賢明ですね」


 カレンも真っ赤になりながら頷く。


「は、はい……」


「自分たちに甘いわね、私たち」


 リシアが呟く。


「ですが、ここで厳密に過去を裁くと、会議が終わりません」


 クラリスは平然と言った。


「それはそう」


「お、終わらないと思います……」


「じゃあ、次」


 リシアは少しだけ姿勢を正した。


「抜け駆けは禁止」

「でも、正当な理由で良樹に近づくのは可」


 カレンが首を傾げる。


「正当な理由、ですか」


「そう」


 リシアは指を折っていく。


「作業補助」

「魔導盤確認」

「身体確認」

「危険確認」

「食事」

「掃除」

「洗濯」

「寝落ち回収」

「看病」

「相談」

「依頼準備」

「帰還後の確認」


「多いですね」


 クラリスが微笑む。


「多いわよ」

「でも、禁止しすぎると一緒に暮らせないでしょ」


「はい」

「正当な理由は必要です」


 クラリスは頷いた。


「私は身体を見る役ですから、良樹くんの様子を見るのは必要ですね」


「私は共同制御者だから、作業場で隣にいるのは当然」


 リシアが続ける。


 カレンは少し考えたあと、小さく言った。


「私は、危険を見るので……入口や正面の確認は必要です」


 三人は、互いを見た。


 しばらく沈黙。


 リシアが、ぼそりと言う。


「全員、理由が強いわね」


「便利ですね」


 クラリスが言った。


「べ、便利……なんでしょうか」


 カレンが少し困った顔をする。


「便利よ」


 リシアは頷いた。


「怖いくらいにね」


   ◇


「次」


 リシアは、少しだけ声を落とした。


「事故は狙わない」


 カレンの肩が、ぴくりと揺れた。


 クラリスは穏やかに頷く。


「当然ですね」

「品位の問題です」


「そう。品位の問題」


 リシアは頷いた。


「ドレッサー部屋の鍵は任意」

「かけるのも自由」

「かけないのも自由」

「でも、露骨な狙いは駄目」


「露骨な狙い……」


 カレンが小さく繰り返す。


「たとえば」


 リシアは指を立てる。


「ドアを開け放して、無理やり見せる」

「良樹を明らかに呼び込む」

「わざと見える位置で待つ」

「自分でスカートをまくる」

「偶然を装うには無理がある行動」


「それは、駄目です」


 カレンが真剣に頷いた。


「は、はい……それは、駄目だと思います」


「当然ですね」


 クラリスも頷く。


「ただ」


 リシアは、そこで少しだけ視線を逸らした。


「鍵をかけ忘れることはある」


「人間ですから」


 クラリスがすぐに言った。


「人間ですから……」


 カレンも続く。


「急いでいて、閉め方が甘いこともある」


「ありますね」


「良樹が間違えて入ってくる可能性を、少しだけ考えてしまうことも」


「心の中までは、罰せられません」


 クラリスは、清楚に言った。


 カレンは耳まで赤くなる。


「き、期待……」


「期待するだけなら?」


 リシアが言う。


「あるでしょ」


「ありますね」


 クラリスは即答した。


 カレンは、しばらくうつむいた。


 それから、小さく。


「……あります」


 リシアは、深く頷いた。


「じゃあ、決まり」

「狙うのはアウト」

「期待するのはセーフ」


 カレンが、真っ赤な顔で頷く。


「期待は、セーフ……」


「はい」


 クラリスも頷いた。


「ただし、判定は当事者以外の二人で行いましょう」


「そうね」


 リシアは同意した。


「自分では分からないこともあるし」


 カレンが、おずおずと手を上げた。


「あ、あの……厳しくしすぎると」


 リシアは、カレンを見る。


 カレンは小さな声で続けた。


「自分に、返ってくると思います」


 沈黙。


 リシアはゆっくり頷いた。


「その通りね」


「公平ですね」


 クラリスが言う。


「公平だけど怖いわね」


「はい」

「怖いくらいに公平です」


 リシアは額を押さえた。


「この会議、思ったより高度ね」


「生活に関わりますから」


「良樹には絶対聞かせられないわ」


「はい」

「聞かせると良樹くんが倒れます」


「倒れるでしょうね……」


   ◇


「事故が起きた場合は?」


 クラリスが切り出した。


「表ルールでは、当人同士で確認する、でした」


「そうね」


 リシアは頷く。


「裏ルールでも、基本はそれでいいと思う」


「怒る」

「謝らせる」

「確認する」

「黙って流す」

「あとで報告する」

「報告しない」


 クラリスは、一つずつ並べた。


「当人同士で解決できる範囲なら、当人に任せましょう」


「でも」


 カレンが小さく言う。


「報告した方がいいことも、あると思います」


「内容によるわね」


 リシアが言った。


「はい」

「内容によります」


 クラリスも頷いた。


「報告義務にしすぎると、生活が息苦しくなります」

「軽い接触や、短時間の二人きりまで全て報告対象にすると、逆に嘘や隠し事が増えます」


「それは嫌ね」


 リシアは腕を組む。


「じゃあ、重大進展だけ報告対象」


「はい」


 クラリスは指を折る。


「良樹くんが三人部屋に入った」

「良樹くんがドレッサー部屋に入った」

「良樹くんの個室に一人で入った」

「良樹くんと二人きりで長時間いた」

「夜間に二人だけで話した」

「良樹くんから明確に恋愛的な話をされた」

「手を握る、抱きしめる、膝枕など、明確に距離が進んだ」

「良樹くんが自分を特別扱いしたと感じた」

「告白に近い発言があった」


 カレンの顔が、みるみる赤くなった。


「こ、告白に近い発言……」


「良樹は無自覚に言うから危険なのよね」


 リシアが真顔で言った。


「お前がいい、とか」


 カレンの肩が跳ねた。


「リ、リシアっ」


「言ったでしょ、良樹」


「言いましたね」


 クラリスが頷く。


「非常に明確な言葉でした」


「言わないでください……」


 カレンは両手で顔を覆った。


 リシアは少しだけ笑ったが、すぐに表情を戻す。


「任意報告は?」


「軽い接触」

「作業中に肩が触れた」

「偶然見えた、見られた」

「短時間の二人きり」

「良樹くんが照れた」

「良樹くんに褒められた」


 クラリスが言う。


「このあたりは本人の裁量で」


「ただし」


 リシアが続ける。


「後から他の二人に知られた時には、説明責任あり」


「説明責任……」


 カレンが震える。


「パーティですから」


 クラリスは清楚に言った。


「便利ね、パーティって言葉」


「はい」

「便利です」


 リシアは、灯りの揺れる卓を見た。


 冗談めいたルール。

 照れ隠しのような線引き。


 けれど、その奥にあるものは軽くない。


 隠して。

 出し抜いて。

 勝って。

 誰かを泣かせる。


 そうならないための、ルールだった。


   ◇


「次は、良樹の線引き」


 リシアはそう言った。


 部屋の空気が、少しだけ変わった。


「良樹は鈍いけど、馬鹿じゃない」


「はい」


 クラリスが頷く。


「良樹くんは、私たちの気持ちにまったく気づいていないわけではありません」


 カレンは、膝の上の手を握った。


「……はい」


「だから」


 リシアは、少しだけ目を伏せた。


「良樹は、自分から簡単に誘わない」

「思わせぶりなことをしないようにしてる」

「たまに事故るけど」


「事故りますね」


 クラリスが微笑む。


「事故ります……」


 カレンも小さく頷いた。


「でも、あれは良樹なりの筋なのよ」


 リシアは言った。


「誰かに答えを出せないまま、軽く踏み込むのは違うと思ってる」

「そういうところは、たぶん誠実」


「はい」


 クラリスは、少しだけ表情を柔らかくした。


「良樹くんは、逃げる時もありますが、不誠実に逃げる人ではありません」


「逃げる時もあるけどね」


「はい」

「逃げますね」


 カレンが小さく言う。


「でも……嫌で逃げている感じでは、ないです」


「そう」


 リシアはカレンを見た。


「だから、良樹が距離を取っても、嫌われたって短絡しない」

「逃げたからって、終わったと思わない」

「ただし、なかったことにはさせない」


「はい」


「はい」


 三人は頷いた。


「それと」


 リシアは続ける。


「良樹が自分から誘わないなら、こっちから言う勇気は認める」


 カレンの肩が揺れる。


「勇気……」


「そう」


 リシアは、カレンをまっすぐ見た。


「カレンがデートに誘う」

「私が作業後に隣で休む」

「クラリスが体調確認を理由に近づく」

「誰かが良樹に相談を持ちかける」


「はい」


 クラリスが頷く。


「明確な抜け駆けでなければ、勇気は尊重しましょう」


「あとで責めるのは無し」


 リシアが言う。


 カレンは、少しだけ不安そうに視線を落とした。


「……言えるか、分かりません」


「その時は練習ね」


「練習……」


「はい」


 クラリスが微笑む。


「必要なら私も付き合います」


「あなたが付き合うと、別の練習になりそうだから待って」


「そうでしょうか」


「そうよ」


 リシアは即答した。


 カレンは、少しだけ笑った。


 それだけで、部屋の空気が少し和らいだ。


   ◇


「それから」


 クラリスが、静かに声を落とした。


「良樹くんを壊さないこと」


 笑いが消えた。


 リシアも、カレンも、自然にクラリスを見る。


 クラリスの表情は穏やかだった。


 だが、その目は真剣だった。


「恋愛的に攻めることは、悪いことではありません」

「照れさせることも、困らせることも、全部が悪いとは思いません」


「うん」


 リシアが頷く。


「でも」


 クラリスは言った。


「良樹くんを追い詰めるのは駄目です」

「照れさせるのと、壊すのは違います」


 カレンは、胸元で手を握った。


「はい」


「特に、深夜作業後は危険です」

「疲れている時」

「寝不足の時」

「魔導盤の調整で集中しすぎた後」

「そういう時に、答えを迫ったり、強く揺さぶったりしてはいけません」


「結局そこに戻るのね」


 リシアが苦笑する。


「戻ります」


 クラリスは即答した。


「良樹くんは、自分の疲労を後回しにします」

「そして、責任を感じるとさらに動こうとします」

「私たちが、それを利用する形になってはいけません」


 リシアは、少しだけ黙った。


 一階から、また小さく木の音がした。


 まだ作業している。


 良樹らしい。

 だが、良樹らしいからこそ危うい。


「そこは同意」


 リシアは言った。


「はい」


 カレンも頷く。


「良樹さんが、壊れるのは嫌です」


「はい」


 クラリスは、少しだけ目を細めた。


「良樹くんを止めるのは、私の役目でもあります」

「ですが、止めなければいけない状況を、私たちが作ってはいけません」


 その言葉は、静かに部屋へ落ちた。


   ◇


 しばらく、誰も喋らなかった。


 灯りが揺れる。

 窓の外で、夜風が鳴る。


 リシアは、卓の木目を見つめていた。


 それから、ゆっくり口を開いた。


「たぶん、良樹は逃げるわ」


 カレンが顔を上げる。


「逃げる……ですか」


「うん」


 リシアは頷いた。


「私たちが押し合って、誰か一人を選べって空気にしたら」

「あいつ、答えを出す前に壊れるか、逃げるか、どっちかよ」


 カレンは息を呑んだ。


 クラリスは、静かに目を伏せる。


「……良樹くんは、誰かを軽く選べる人ではありませんからね」


「そう」


 リシアは苦い顔をした。


「誰かを選べば、誰かが傷つく」

「選べなければ、全員を待たせる」

「どっちにしても、自分が悪いって考える」


「良樹さんらしいです」


 カレンが小さく言った。


 その声は、少し震えていた。


 クラリスは、静かに続ける。


「良樹くんは、逃げたいから逃げるのではないと思います」

「誰かを選べば、誰かを傷つける」

「選べなければ、全員を待たせる」

「どちらにしても筋が通らないと考えて、動けなくなる」

「そういう方です」


 リシアは、何も言わなかった。


 カレンも、俯いた。


 しばらくして、カレンがぽつりと言った。


「私、良樹さんに選んでほしいです」


 それは、小さな声だった。


 でも、逃げていない声だった。


「はい」


 クラリスが静かに受け止める。


 リシアも、何も言わずに聞く。


 カレンは続けた。


「良樹さんに、見てほしいです」

「良樹さんの前に、立ちたいです」

「良樹さんに、私を選んでほしいって……思います」


 膝の上の手が、ぎゅっと握られる。


「でも」


 カレンは、リシアを見た。


 次に、クラリスを見た。


「リシアやクラリスが泣くのは、嫌です」


 リシアの表情が、少しだけ揺れた。


 クラリスの微笑みも、一瞬だけ消えた。


 カレンは、また俯く。


「それは、嫌です」

「勝ちたいのに」

「でも、二人がいなくなるのは、嫌です」


 部屋が静かになった。


 恋敵。


 その言葉は、確かにある。


 けれど、カレンは今、それを越えることを言った。


 勝ちたい。

 選ばれたい。

 でも、二人を傷つけたくない。


 それは矛盾している。


 けれど、嘘ではなかった。


「カレン」


 リシアが、少しだけ柔らかい声で呼んだ。


「はい」


「私も、たぶん同じ」


 カレンが顔を上げる。


 リシアは少し照れたように視線を逸らした。


「良樹の隣は、譲りたくない」

「良樹に選んでほしい」

「でも、あんたたちが泣いて離れていくのは、嫌」


 クラリスは、静かに二人を見ていた。


 そして、微笑む。


「私もです」


 声は穏やかだった。


「良樹くんを止める役目は、譲りたくありません」

「良樹くんに、私を見てほしいとも思います」

「ですが」

「リシアやカレンが、良樹くんのそばからいなくなる形は、望みません」


 リシアは、少しだけ息を吐いた。


「厄介ね、私たち」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「とても」


 カレンは、少しだけ泣きそうな顔で笑った。


「でも……少し、安心しました」


「安心?」


「はい」

「私だけ、変なのかと思っていました」


「変よ」


 リシアは即答した。


 カレンが固まる。


 リシアは少し笑った。


「私たち全員、変なのよ」


 カレンは、ほっとしたように息を吐いた。


「はい」


   ◇


 クラリスは、卓の上に置かれた灯りを見つめた。


 それから、静かに言った。


「では、少なくとも」

「私たちが、良樹くんの逃げ道にならないようにしましょう」


 リシアが眉を寄せる。


「逃げ道?」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「良樹くんが『三人のうち誰か一人を選ばなければならない』と思えば、きっと苦しみます」

「でも、私たちが互いを敵として扱わなければ」

「少なくとも、良樹くんが一人で抱える理由は減ります」


 リシアは、少しだけ考えた。


「それって、良樹を逃がさないための話よね」


「そうとも言えます」


 クラリスは、清楚に言った。


 カレンが小さく震える。


「に、逃がさない……」


「でも、分かる」


 リシアは言った。


「誰か一人が勝って、他の二人が離れる形になったら」

「良樹はたぶん、自分から壊しにいく」

「そんな顔、見たくない」


「はい」


 クラリスが頷く。


「ですから、良樹くんが一人で勝手に悪者にならないように」

「私たちの関係を、私たちで整えておく必要があります」


「整える、ね」


 リシアは少しだけ笑った。


「良樹みたいな言い方」


「影響を受けていますね」


「受けすぎじゃない?」


「便利ですから」


「また便利」


 少しだけ笑いが戻る。


 けれど、話の芯は消えていなかった。


 リシアは、静かに言った。


「逃げ道は残す」

「でも、逃げ切らせない」


 クラリスの目が、少しだけ細くなる。


「良い表現ですね」


 カレンは少し青ざめた。


「す、少し怖いです」


「怖くないわよ」

「誠実に待つだけ」


 リシアは言った。


 クラリスが柔らかく微笑む。


「はい」

「誠実に、包囲します」


「包囲……」


 カレンが呟く。


 リシアは即座にクラリスを見た。


「クラリス、言い方」


「良くありませんでしたか?」


「良すぎるのよ」


「ありがとうございます」


「褒めてない」


 カレンは、少しだけ笑った。


 逃げ道は残す。

 でも逃げ切らせない。


 それは、無理やり捕まえるという意味ではない。


 良樹が一人で答えを抱え込まないように。

 誰か一人を選べない自分を責めないように。

 誰か二人を泣かせるくらいなら、自分がいなくなればいいなどと思わないように。


 三人が、三人のまま、良樹のそばにいる。


 そのための、最初の約束だった。


   ◇


 会議は、そこで一段落した。


 卓の上には、紙も筆もない。


 けれど、三人はそれぞれ、決まったことを覚えていた。


 抜け駆けは禁止。

 正当な理由で近づくのは可。

 事故は狙わない。

 期待はセーフ。

 判定は当事者以外の二人。

 重大進展は報告。

 良樹の線引きは尊重する。

 踏み込む勇気は認める。

 良樹を壊さない。

 良樹を一人で逃がさない。


 リシアは、椅子の背にもたれた。


「……思ったより、ちゃんとした会議になったわね」


「はい」


 クラリスが頷く。


「非常に有意義でした」


「有意義って言葉で、今日の内容をごまかしていいのかしら」


「ごまかせていませんね」


「でしょうね」


 カレンは、少しだけ肩の力を抜いた。


「あの……少し、安心しました」


「二回目ね、それ」


 リシアが言う。


「はい」

「一緒の部屋で、よかったです」


 カレンの声は、素直だった。


 リシアは一瞬黙った。


 それから、少しだけ照れたように視線を逸らす。


「……そうね」


 クラリスも微笑む。


「私も、そう思います」


 また、少し沈黙が落ちた。


 今度の沈黙は、重くなかった。


 リシアは、指先で卓を軽く叩いた。


「最後にひとつ」


 クラリスが顔を上げる。


「はい」


 カレンもリシアを見る。


「何ですか?」


 リシアは、少しだけ言いにくそうに口を開いた。


「今更なんだけど」


「はい」


「私たち、もう一緒に住むパーティなんだから」


 リシアは、少しだけ頬を赤くした。


「さん付けとか、やめない?」


 クラリスとカレンが、きょとんとした。


 リシアは、照れ隠しのように早口になる。


「ほら、ずっと一緒に動くわけだし」

「同じ部屋だし」

「さっきみたいな話もしたし」

「今さら、リシアさんとか、クラリスさんとか、カレンさんとか」

「少し、距離があるというか」


 言えば言うほど恥ずかしくなったのか、リシアは途中で口を閉じた。


 カレンは目を丸くしている。


 クラリスは、少しだけ微笑んだ。


「分かりました、リシア」


 リシアの肩が、ぴくりと揺れた。


「……うん」


 カレンも、胸元で両手を握った。


「はい、賛成です」

「リシアさ……リシア」


 言った瞬間、カレンの顔が真っ赤になった。


 リシアも、少しだけ赤くなる。


「うん」


 それから、リシアは二人を見る。


「クラリス」

「カレン」


 クラリスは穏やかに頷く。


「はい、リシア」


 カレンも、少し遅れて。


「はい、リシア」


 言ってから、また顔を赤くする。


 クラリスは、そんなカレンを見て微笑んだ。


 カレンは、おずおずとクラリスを見る。


「あ、あの……クラリス、も」


「はい、カレン」


「っ……」


 カレンは両手で顔を押さえた。


 リシアが呆れたように笑う。


「何で自分で言って照れてるのよ」


「な、慣れてなくて……」


「では、慣れましょう」


 クラリスは穏やかに言った。


「そうね」

「これから同じ部屋なんだし」


「はい」


 カレンは、小さく頷いた。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 ただ、さん付けを外しただけ。


 それだけなのに、部屋の空気が少し変わった。


 近くなった。


 危ういほどではない。

 馴れ合いすぎてもいない。

 けれど、確かに一歩、近づいた。


   ◇


 その時、一階から大きめの音がした。


 ごとん、と何かが落ちるような音。


 三人は同時に反応した。


「良樹?」


「良樹さん?」


「良樹くん?」


 三人の呼び方が、綺麗に分かれた。


 一瞬、三人は互いを見た。


 それから、少しだけ笑った。


「行くわよ」


 リシアが立ち上がる。


「はい」


 カレンも立ち上がる。


「止めに行きましょう」


 クラリスも立つ。


 三人は部屋を出た。


 二階の廊下を抜け、階段を降りる。


 一階の作業場では、良樹が棚板を片手で支えながら固まっていた。


 足元には、外れかけた木箱が落ちている。


「良樹!」


 リシアが声を上げる。


 良樹は振り返った。


「悪い。起こしたか?」


「起きてたわよ」

「何してるの」


「棚の高さを変えようと思ったら、箱が落ちた」


「夜にやることじゃないわね」


「明日の方がいいと思ったのは、落ちた後だ」


「遅いのよ」


 カレンは、すぐに周囲を見る。


「怪我はありませんか?」

「足元、釘が出ています」


「おっと」


 良樹が足を引く。


 クラリスは良樹の手元を見た。


「右手、見せてください」


「怪我はしてない」


「見せてください」


「はい」


 良樹は素直に右手を出した。


 クラリスは指先、手首、腕の力の入り方を見る。


「大きな怪我はありません」

「ですが、今日はもう終わりです」


「いや、あと少しだけ」


 三人の視線が、同時に良樹へ向いた。


 良樹は口を閉じた。


「……終わります」


「よろしい」


 クラリスが頷く。


 リシアは棚板を支え、カレンは足元の木箱をどけた。


「明日の朝にしましょう」


 カレンが言う。


「明るい方が危なくないです」


「それはそうだな」


 良樹は素直に頷いた。


 リシアは少しだけ目を細める。


「今日はやたら素直ね」


「三対一で正論を言われると、逆らう理由がない」


「分かってるなら最初から寝なさい」


「返す言葉もねえ」


 良樹は工具を腰袋へ戻した。


 その手つきだけは、疲れていても丁寧だった。


 クラリスは、それを見届けてから言う。


「良樹くん」


「何だ」


「寝てください」


「命令形か」


「はい」


「分かった」


 良樹は小さく息を吐き、作業場の灯りを落とした。


 その背中を、三人は見ていた。


 リシアは隣を見る。


 カレンがいる。

 クラリスがいる。


 恋敵。


 その言葉は、間違っていない。


 けれど、敵ではない。


 少なくとも今、三人は同じ方向を見ている。


 良樹を止める。

 良樹を壊さない。

 良樹を一人で逃がさない。


 そのために、三人で立っている。


   ◇


 夜更け。


 三人は大部屋へ戻り、それぞれの寝台に入った。


 灯りは落とした。

 窓から月明かりが入っている。


 最初に聞こえたのは、カレンの小さな声だった。


「リシア」


「何?」


「クラリス」


「はい」


「……おやすみなさい」


 少しだけ間があった。


 それから、リシアが答える。


「おやすみ、カレン」


 クラリスも続いた。


「おやすみなさい、カレン」

「おやすみなさい、リシア」


「おやすみ、クラリス」


 それだけのやり取りだった。


 けれど、カレンは布団の中で小さく笑った。


 リシアは、少し照れたように寝返りを打った。


 クラリスは、二人の呼吸を聞きながら静かに目を閉じた。


 三人は恋敵である。


 でも、敵ではない。


 同じ家で。

 同じ部屋で。

 同じ男を見て。

 同じ現場で動く。


 良樹が一人で答えを抱えて逃げ出さないように。

 誰か一人の勝利で、誰か二人が傷つかないように。


 三人は、まだ答えの名前を知らない。


 それでも、その夜、最初の約束をした。


 さん付けをやめた三人の距離は、少しだけ近くなった。


 同じ部屋で眠るには、十分なくらいに。


ここまで読んでいただきありがとうございます。


恋敵ではあるけれど、敵ではない。

そんな三人の関係が少し見えてくる回でした。


良樹本人の知らないところで、今後もいろいろな確認項目が増えていきます。


夜な夜な妻会議を行うヒロインたちを、どうか応援してあげてください。

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