第2話 魔力回路が、読める?
寒い。
痛い。
そして、気まずい。
上村良樹は、川の中で胸元まで氷漬けにされていた。
水面は白く凍り、濡れたツナギの表面まで薄い氷が張っている。
足元は完全に固定されていた。
動こうと思えば動けないこともなさそうだが、無理に動かせば足首か膝をやる。
それは良くない。
足回りを壊すと、逃げられない。
逃げられないと、死ぬ。
異世界初日の学習速度としては、なかなか悪くない。
代償が大きすぎるが。
「まず、説明してください」
川岸に立つ女が言った。
濡れた黒髪は、今は肩の後ろへ流されている。
白と青を基調にした法衣のようなものを羽織り、胸元もきちんと隠れていた。
さっきまでの状態を思い出しそうになって、良樹は慌てて視線を逸らした。
いけない。
今それを考えるな。
凍結温度が一段下がる。
「あなたは何者ですか。どこから来ましたか。なぜ空から川へ落ちてきましたか。なぜ最初に腰袋を確認しましたか。なぜ私の……」
女はそこで言葉を切った。
青い瞳が、細くなる。
「……水浴び中のところへ、飛び込んできたのですか」
「順番に言う。まず、悪かった」
良樹は頭を下げた。
氷漬けなので、首から上しか動かない。
謝罪としてはかなり不格好だった。
「見るつもりはなかった」
そこで一度、言葉を切る。
違う。
それだけでは足りない。
「いや、違う。見た。見たのは事実だ。悪い」
女は黙っていた。
沈黙が冷たい。
いや、物理的にも冷たい。
「覗こうとしたわけじゃない。けど、見たことはごまかさねえ」
「事故だった、と?」
「事故だった」
「事故だったことは、ひとまず理解します」
女は冷えた声で言った。
「ですが、見たことを許したわけではありません」
「はい。すみません」
即答した。
ここは反論してはいけない。
現場でもそうだ。
やらかした事実がある時に、先に言い訳を始める奴は大抵さらに怒られる。
良樹は、慎重に息を吐いた。
「俺は上村良樹。二十八。日本って国で、FA技術者をやってた」
「えふえー?」
「工場の機械を動かす電気屋だ。制御盤とか、配線とか、PLCとか……いや、分からねえか」
「分かりません」
「だよな」
良樹は諦めた。
「さっきまで、客先の工場で夜間工事してた。親父と盤の前にいた。そしたら急に真っ暗になって、気がついたら森にいた」
「森に?」
「ああ。で、変な獣に追いかけられた」
「魔物です」
「あれ魔物でいいのか」
「普通は、見れば分かります」
「普通の範囲が今日の俺には広すぎる」
女は少しだけ眉を寄せた。
呆れたのか、疑っているのか。
たぶん両方だ。
「逃げてる途中で、変な力が出た」
「変な力?」
「脚が速くなった……いや、違うな」
良樹は、自分の言葉を探した。
速くなった。
それは間違いではない。
だが、正確ではない。
「脚が勝手に動いた。走ったっていうより、走らされた」
「走らされた」
「ああ。逃げることはできた。けど、止まれなかった」
「止まれなかった?」
「止め方を作ってなかった。だから止まれずに、あの崖から放り出された」
「放り出された」
「ああ。落ちたっていうより、放り出された」
女は少しだけ黙った。
良樹を見ている。
服装。
腰袋。
濡れたツナギ。
安全靴。
そして、氷漬けのまま真面目に説明している顔。
「……それで、私の《ライトカーテン》の内側に直接入ってきた、と」
「ライトカーテン?」
良樹は思わず聞き返した。
光の幕。
言葉の意味だけなら分かる。
だが良樹にとってライトカーテンとは、設備の危険領域に人が入ったことを検知して、機械を止めるための安全装置だった。
光を遮ったら止める。
少なくとも、水浴び中の目隠しにつける名前ではない。
「その名前、だいぶ物騒だな」
「物騒?」
「俺の知ってるライトカーテンは、安全装置だ。人が入ったら機械を止めるやつ」
「止める……?」
女の表情が、少しだけ変わった。
「光の幕で、侵入を検知するということですか」
「そうだ。見えなくするんじゃなくて、遮られたことを見る」
「……あなたの世界にも、光の幕があるのですか」
「ある。魔法じゃねえけどな」
良樹は周囲を見た。
川辺の空気には、まだ薄い霧のようなものが残っている。
ただの霧ではない。
水気が細かく散らされ、空気の層に留められている。
そこに光が揺れて、外からの視線を潰す。
完全に見えなくするのではない。
見えても、像にならないようにしている。
「これ、目隠し用か」
「そうです。光、水、風、火の混合魔法です。外からの視線を散らし、内側は暗くなりすぎないようにします」
「上は採光か」
「……分かるのですか」
「何となくな。外周は視線潰し。上だけ光の入り方が違う。出来がいい」
「感心しないでください」
「はい」
「そもそも、あなたが中へ落ちてこなければ見えませんでした」
「はい。すみません」
女はため息をついた。
少しだけ、氷の冷気が和らいだ気がした。
「私はリシアです」
「リシア」
「呼び捨てはまだ許していません」
「リシアさん」
「はい」
面倒だが、もっともである。
リシアは、良樹をじっと見た。
「あなたの話をすべて信じるわけではありません。ただ、嘘にしては妙です。服装も、持ち物も、魔力の流れも、この辺りの人間とは違います」
「魔力の流れ?」
「あなたには分からないのですか」
「分からない。いや、さっき変な盤みたいなのは見えた。けど、それが魔力かどうかは知らねえ」
「盤?」
「箱だ。中に線があって、接点があって、入ったら出る」
「……本当に分かりません」
「俺もそっちの魔法は分からねえから、お互い様だな」
リシアは少し考えるように黙った。
その間に、良樹は周囲を確認した。
森。
川。
夕方。
魔物。
氷魔法。
魔力。
ライトカーテン。
そして、父はいない。
工場もない。
上村電装のいつもの盤も、工具箱も、軽トラもない。
あるのは、濡れたツナギと安全靴と腰袋。
それから、目の前の魔法使いだけ。
「……戻れるのか?」
良樹は、思わず言った。
リシアは、すぐには答えなかった。
「分かりません」
やがて、そう言った。
「異なる場所から人が現れる話は、伝承や古い記録にはあります。召喚魔法も存在します。ですが、あなたの話はそれとも違います。少なくとも、私には帰す方法は分かりません」
「そうか」
良樹は短く答えた。
胸の奥が、少しだけ重くなった。
親父はどうなった。
工場はどうなった。
あの暗転は何だった。
自分は死んだのか。
それとも、生きたまま別の場所へ飛ばされたのか。
考えることは山ほどあった。
だが、目の前の優先順位は別だ。
ここで凍ったまま夜を迎えるわけにはいかない。
森には魔物がいる。
金もない。
身分もない。
土地勘もない。
「……そういや、言葉通じてるな」
良樹は今さら気づいた。
「そこも不明です」
「今気にしてる場合じゃねえわ」
「切り替えが早いですね」
「気にする順番を間違えると死ぬ」
リシアは、少しだけ目を細めた。
笑った、というほどではない。
だが、怒りだけではない表情だった。
いきなり空から飛び込んできた。
自分の水浴びを見た。
服装も、持ち物も、話す内容も、何もかも怪しい。
変質者。
まず、その評価は消えない。
だが、悪人ではなさそうだった。
見たことを誤魔化さなかった。
借りや迷惑を軽く扱わなかった。
危険の前で、考える順番を間違えない人間でもあるらしい。
放っておけば死ぬ。
放っておくには、情報が惜しい。
そして何より、この男の魔力の流れは、見たことがなかった。
「あなた、行くあてはあるの?」
「……いや、残念なことに俺も状況をちゃんと飲み込めてねえ。行くあてなんかある訳もねえ」
「でしょうね」
リシアは小さく息を吐いた。
「あなたを、このまま森に置いていくわけにはいきません」
「助かる」
「勘違いしないでください。許したわけではありません」
「はい」
「保護です。観察も含みます」
「観察の比率高くねえか」
「高いです」
「正直だな」
「あなたが怪しすぎるのです」
リシアは指先を動かした。
氷が、ぱき、と音を立てて緩む。
足元の拘束が少しずつ解けていった。
冷たい水が安全靴の周りを流れる。
寒い。
寒い、というより、冷たい。
濡れたツナギの内側から、体温がじわじわ奪われていく。
安全靴の中の水まで、芯から冷えていた。
「町に戻ります。冒険者向けの簡易宿があります。今夜はそこへ」
「金がねえ」
「でしょうね」
「借りになる」
「返してください」
「返す」
即答した。
借りっぱなしは気持ちが悪い。
まして、初対面から最悪の迷惑をかけた相手である。
「なら、私の仕事を手伝ってください。素材採取や調査の依頼があります」
「仕事を手伝えば、宿代を返せるのか」
「すぐには無理でしょうけど、働く意思は確認できます」
「保護観察込みか」
「込みです」
「分かった」
良樹は川から上がった。
不思議なことに、安全靴は水を吸ってぐずぐずになっていなかった。
ツナギも、濡れてはいるが重さがすぐに抜けていく。
泥も、手で払えば落ちる。
「……ん?」
良樹は腰袋を開けた。
中を確認する。
ドライバー。
ニッパー。
ほかも全部ある。
しかも、濡れていない。
「……マジか」
「どうしました?」
「防水だ」
「防水?」
「腰袋の中が濡れてねえ」
「それがそんなに大事なのですか?」
「大事に決まってんだろ。ドライバーもニッパーも、ほかも全部ある。落ちてない。濡れてない。現場屋にとってはそれだけで神だ」
「もういいわ」
リシアは、あきれた顔でそう言った。
先ほどまでの硬い敬語ではなかった。
良樹は、ぴたりと口を閉じた。
「……今、ちょっと砕けなかったか?」
「砕けてません」
「いや、今のは砕けてた」
「砕けてません。続けるなら、もう一度凍らせます」
「すみません」
良樹は素直に黙った。
◇
町は、森からそう遠くなかった。
とはいえ、現代日本の感覚で言う「近い」とは違う。
舗装された道はない。
街灯もない。
ガードレールもない。
足元には石と土と草があり、ところどころぬかるんでいる。
だが、夕闇の中に見えた町の灯りは、良樹にとってかなりありがたかった。
人の生活がある。
壁がある。
屋根がある。
寝る場所がある。
それだけで、だいぶ違う。
リシアが連れていったのは、町外れの簡易宿だった。
冒険者向けらしい。
入口には古びた木の看板が掛かっている。
中に入ると、酒と煮込み料理と湿った革の匂いがした。
いくつかのテーブルには、武器を置いた男や女が座っている。
全員が、ちらりと良樹を見た。
作業用ツナギ。
安全靴。
腰袋。
フルハーネス。
まあ、浮く。
「また面倒なの拾ってきたね、リシア」
受付らしい年配の女が言った。
「拾ったわけではありません」
「じゃあ何だい」
「保護観察です」
「余計面倒じゃないか」
年配の女は笑った。
良樹は頭を下げる。
「上村良樹です。金がないので、宿代はリシアさんに借ります。返します」
「律儀だね」
「借りっぱなしは気持ち悪いんで」
「なら、しっかり働きな。冒険者宿で寝るなら、働かない客はすぐ肩身が狭くなるよ」
「覚えときます」
リシアが宿代を払った。
その横顔を見て、良樹はもう一度頭を下げる。
「助かった。必ず返す」
「返してもらいます。あと、明日は私の仕事についてきてもらいます」
「宿代返済か」
「それもあります。保護観察も兼ねています」
「観察の比率がどんどん上がってるな」
「高いと言いました」
通された部屋は、狭かった。
ベッドが一つ。
小さな机。
椅子が二つ。
壁には安物のランプ。
良樹は、そこに座っただけで少し息を吐いた。
屋根がある。
たったそれだけで、さっきまでとは違う。
「それで」
リシアは椅子に座り、良樹を見た。
「さきほどの脚力補助というものを、確認したいのですね」
「ああ」
「危険ではありませんか」
「危険だ。だから、ここではやらねえ」
リシアは、少しだけ眉を上げた。
「ここでは?」
「ああ。宿の中で試すもんじゃねえ。止まるかどうか分からねえ力を、壁と人の近くで動かす馬鹿がいるか」
「川へ飛び込んできた人が言うと、説得力がありますね」
「反省してるんだよ」
良樹は苦い顔で言った。
「自分で切れるかどうか分からないものを、保険もなしに試す馬鹿はいねえ」
「保険?」
「広い場所。人がいない場所。ぶつかるものが少ない場所。それと、最悪止められる人間」
「私ですか」
「今のところ、リシアさんしかいねえ」
リシアは少しだけ黙った。
「……信用しているのですか」
「氷漬けにされた実績があるからな」
「それは信用なのですか?」
「少なくとも、止める腕は信用してる」
リシアは、何とも言えない顔をした。
「褒められている気がしません」
「褒めてる」
「なら、もう少し言い方を考えてください」
「努力する」
◇
夜になる前に、二人は町外れへ出た。
一度だけ確認しておきたかった。
森には魔物がいる。
この世界の常識も分からない。
自分の力も分からない。
分からないまま眠るには、あまりにも不安が多すぎる。
町の外れには、低い草の生えた広い原っぱがあった。
道から少し外れていて、人通りは少ない。
近くに建物はない。
木も遠い。
転んでも、せいぜい草と土だ。
リシアは少し離れた位置に立ち、杖を持っていた。
「本当にここでやるのですね」
「ああ」
良樹は腰袋の位置を確認した。
ドライバー。
ニッパー。
ほかも全部ある。
それだけで、少し落ち着く。
「動くかどうかじゃない。止まるかどうかを見る」
「動くことは、もう分かっているからですか」
「ああ。問題は止め方だ」
良樹は深く息を吸った。
胸の奥に意識を向ける。
あの感覚。
森で聞いた、ガヂンという音。
電磁接触器が入るような、聞き覚えのある振動。
見えた箱。
線。
接点。
入ったら出るもの。
入力。
脚を動かす。
だが、今回は違う。
切る場所を作る。
保持を切る場所を作る。
時間で開く接点を入れる。
「まず一秒」
「一秒?」
「起動して、一秒で勝手に切れるようにする」
「それでは、ほとんど何もできません」
「だからいい。これは走る試験じゃねえ。止まる試験だ」
良樹は、片足を軽く前へ出した。
リシアの杖先に、薄い冷気が集まる。
「もし止まらなければ?」
「凍らせろ」
「本当にいいのですか」
「ぶつかって死ぬよりはいい」
「分かりました」
リシアの声が、少しだけ硬くなった。
良樹は息を整える。
起動。
胸の奥で、何かが鳴った。
ガヂン。
同時に、良樹の腰の左右へ、半透明の輪郭が浮かび上がった。
リシアが息を呑む。
それは、人の身体から出る魔力の光とは違っていた。
術式の円でもない。
魔法陣でもない。
腰の左右に、左右対称の何かがある。
薄い筒のような形。
中で淡い魔力の線が巻き、回っている。
中心から脚へ向かって、細い魔力線が落ちていく。
「なに、それ……」
リシアの声が漏れた。
良樹にも、それは見えていた。
前より、少しだけはっきり見えた。
腰のあたりで、何かが回る。
聞き覚えのある駆動音に似た感覚が、身体の外側に生まれる。
次の瞬間、脚が前へ押し出された。
一歩。
自分で走ったのではない。
走らされた。
だが、一秒後。
ぷつり、と力が切れた。
「っ、と」
良樹は少し前につんのめったが、踏みとどまった。
腰の左右に浮かんでいた半透明のものも、薄くほどけるように消えた。
止まった。
川へ落ちていない。
崖から放り出されてもいない。
リシアに凍らされてもいない。
「……切れた」
良樹は、小さく息を吐いた。
「今ので、成功なのですか?」
「成功だ」
「一歩だけですよ」
「一歩でいい。勝手に切れたことが大事だ」
リシアは、良樹の足元ではなく、腰のあたりを見ていた。
「今の……見えました」
「ああ」
「腰の左右に、何かが出ていました。魔法陣ではありません。術式とも違います。回って……いました」
「やっぱり見えたか」
「良樹さんにも見えているのですか」
「見えた。前よりはっきりな」
良樹は、自分の腰のあたりを見下ろした。
「俺の世界で言うなら、モータに近い」
「もー……た?」
リシアが、聞き慣れない音をそのまま繰り返した。
「ああ。俺の世界でそう呼んでる機器だ」
「機器、ですか」
「電気の力を、回転する力に変える機器のことをそう呼んでる。回して、その力で物を動かす」
「電気の力を、回転する力に……」
「そこから説明すると長い。今は、力を回すもの、くらいでいい」
「力を、回すもの」
「ああ。さっきのは、脚が強くなったんじゃない。腰の辺りに、そのモータみたいなものが付いて、脚を外から押し出した感じだった」
「身体強化では、ないのですね」
「たぶんな。少なくとも、俺の感覚では違う」
良樹は、自分の足を見る。
「俺が走ったんじゃない。走らされた」
「そして、それを止める方法を作っていなかった」
「言うな。刺さる」
「大事なことなので」
「親父と同じこと言うな」
リシアは、消えた半透明の輪郭を見つめていた。
魔力は使っている。
それは間違いない。
良樹の身体から魔力が流れ、腰の左右に形を作り、そこから脚へ何かを伝えていた。
だから、魔力現象ではある。
けれど、魔法ではなかった。
少なくとも、リシアの知る魔法とは違う。
詠唱もない。
術式の組み上げ方も違う。
属性を変換して、火や水や風として外へ放つものでもない。
そして、身体強化でもなかった。
身体強化なら、魔力は筋肉や骨格へ染み込む。
身体そのものの出力を上げる。
動きは本人の内側から強くなる。
だが、良樹のそれは違った。
外側に何かを作っていた。
腰の左右に、回るものを作っていた。
それが脚へ線を落とし、脚の動きを押し出していた。
魔力は使っている。
けれど、魔法とも違う。
魔力による身体強化とも、まったく違う。
一体、これは何なのか。
リシアは、良樹を見た。
本人は、成功したかどうかを確かめるように、自分の足元と胸元を交互に見ている。
たぶん、この人自身もまだ分かっていない。
そのことが、リシアには少し怖かった。
そして、それ以上に。
目を離すのが、惜しかった。
「次、三秒」
良樹が言った。
「作り直すのですか?」
「違う。回路はそのまま。時間だけ変える」
「そんなことができるのですか?」
「できる。タイマーってのは、そういうもんだ。回して調整すんだよ」
「回して……」
「分からねえよな。俺も魔法は分からねえ」
良樹は、もう一度意識を向けた。
一秒。
その設定を、変える。
三秒。
つまみを回すように。
いや、本当に回しているわけではない。
けれど、感覚としてはそれに近い。
起動。
ガヂン。
腰の左右に、再び半透明の輪郭が浮かぶ。
淡い魔力線が巻き、回り、脚へ落ちる。
一歩。
二歩。
三秒。
補助が切れる。
腰の輪郭も、ほどけるように消えた。
「よし」
「……本当に時間を変えましたね」
「次、五秒」
「まだやるのですか?」
「五秒入れる。ただし、五秒待たずに自分で切る」
「自分で?」
「停止ボタンを入れた。押せるか試す」
「その、ボタンはどこにあるのですか」
「ここ」
良樹は胸を軽く叩いた。
「物理的にはない。けど、意識で触れる。たぶん」
「たぶんでやるのですか」
「一秒と三秒は落ちた。五秒で駄目でも最悪五秒で切れる。それに、リシアさんもいる」
「最悪の想定があるのは良いことですが、最悪前提で試験しないでください」
「正論だ」
良樹は少し笑った。
そして、五秒タイマーを入れる。
起動。
ガヂン。
脚力補助が入る。
一歩。
二歩。
三歩。
今度は、五秒を待たない。
良樹は胸の奥の回路へ意識を伸ばした。
停止。
保持を切る。
補助が落ちた。
身体が止まる。
「……切れた」
良樹は、小さく息を吐いた。
ただ止まっただけだ。
けれど、ただ止まったことが、今は大きい。
リシアは黙っていた。
彼女は、良樹の足元を見ていなかった。
良樹を見ていた。
いや、良樹の内側を見ようとしていた。
魔力が流れている。
だが、彼は魔法使いのように魔力を扱っていない。
魔力を肌で感じているのではない。
属性の癖を掴んでいるのでもない。
術式として組み上げているのでもない。
入口を探し、流れを追い、どこで繋がり、どこで切れるのかを確かめている。
ただ見えているだけではない。
読んでいる、の?
「良樹さん」
「何だ」
「あなた、魔力をどうやって見てるの?」
「どうって……線だな」
「線?」
「ああ。流れて、繋がって、切れる線だ」
リシアは、その言葉を胸の中で繰り返した。
線。
魔力を、線として見る。
それは彼女の知る魔法使いの感覚とは違っていた。
「……本当に、変な人」
「それは否定しねえけど、今の流れで言われると複雑だな」
リシアは、ふいと目をそらした。
「だからといって、水浴びを見たことを許したわけではありませんから」
「はい。すみません」
良樹は即座に頭を下げた。
「本当に反省していますか?」
「してる」
「本当に?」
「してる。けどな」
「けど?」
良樹は少しだけ視線を逸らした。
「見たことをなかったことにはできねえし、可愛いと思ったことまで嘘にはできねえ」
一拍。
原っぱの温度が下がった気がした。
「……どちらの意味で?」
「両方」
「凍らせます」
「今のは俺が悪かった」
「今のも、です」
「はい。すみません」
良樹は、今日何度目か分からない謝罪をした。
リシアは呆れたようにため息をついた。
この男は最低だ。
少なくとも、口の選び方はかなり最低だ。
けれど。
リシアは、良樹の胸元を見た。
そこに本当の盤があるわけではない。
金属の箱も、線も、接点も、コイルも見えない。
それでも彼は、そこにある何かを見た。
魔力の流れを追い、切る場所を作り、自分で止めた。
この男を放っておくのは、危険だ。
けれど、目を離すのはもっと惜しい。
「明日は、私の仕事についてきてもらいます」
「宿代の返済か」
「それもあります」
「保護観察か」
「それもあります」
「観察の比率、やっぱ高くねえか」
「高いです」
リシアは、今度こそ少しだけ笑った。
「良樹さんは、危険で、怪しくて、失礼で、変な人ですから」
「評価がひどい」
「事実です」
「返す言葉もねえ」
良樹は腰袋を軽く叩いた。
工具はある。
服もある。
靴もある。
止める回路も、一応作れた。
帰れるかは分からない。
この世界のことも分からない。
親父がどうなったかも分からない。
だが、今日生き延びるために必要なものは、少しだけ見えた。
動かす前に、止め方を考えろ。
父の声が、胸の奥で低く響いた気がした。
良樹は、小さく息を吐いた。
「……まずは宿代返すところからだな」
「はい。しっかり働いてください」
「了解」
異世界初日。
あの崖から放り出され、半氷漬けにされ、宿代の借金を背負い、保護観察対象になった。
ついでに、自分には魔力回路が少しだけ読めるらしい。
情報量としては、やはり過負荷だった。




