第1話 主幹が落ちたと思ったら異世界だった(挿絵有)
夜の工場は、昼間とは違う顔をしている。
昼間は人の声がある。
ラインの音がある。
フォークリフトの警告音があり、エアの抜ける音があり、誰かが怒鳴る声がある。
けれど夜間工事の工場は、そういうものが少し遠い。
照明の落ちた通路。
非常灯の薄い光。
稼働を止めた設備の沈黙。
その中で、制御盤の中だけが白く照らされている。
上村良樹は、盤の前にしゃがみ込んでいた。
作業用ツナギ。
ミドルカットの安全靴。
腰には工具の詰まった腰袋。
肩から胸にかけてはフルハーネス安全帯が走っている。
ヘルメットの縁に、盤内照明の光が当たった。
「良樹」
背後から声がした。
父の声だった。
上村十鉄。
自営のFA電気屋。
屋号は上村電装。
口が悪い。
目も悪い。
いや、視力の話ではない。
人の甘さや現場の危なさを見つける目が、やたらと悪い意味で良い。
良樹は端子台の前で手を止めた。
「何」
「そこ、何を見て結線した」
「図面」
「図面のどこだ」
「ここの、運転許可信号」
「じゃあ、その先は何だ」
良樹は図面へ目を落とした。
シーケンスを追う。
接点を辿る。
出力の先にある機器を見る。
「インバータの運転入力」
「その先は」
「モータ」
「その先は」
「コンベア」
「その先は」
良樹は少しだけ顔をしかめた。
「……ワーク搬送」
「その先は」
「作業者」
「そうだ」
十鉄は、盤の横に置いた折りたたみ椅子へ腰を下ろした。
疲れているはずなのに、声だけは妙にはっきりしている。
「盤の中だけ見るな。その先に機械がある。機械の前には人がいる。図面は紙じゃねえ。未来の自分と、後から触る誰かに宛てた詫び状だ」
「詫び状って」
「綺麗な恋文だとでも思ってたのか」
「思ってねえよ」
「ならいい」
十鉄は鼻を鳴らした。
「動かすだけなら猿でもできる」
出た。
良樹は心の中でそう思った。
十鉄の説教は、大抵この言葉から始まる。
「止められて初めて設計だ。止まらねえ設備は、動かねえ設備よりたちが悪い」
「分かってる」
「分かってるなら、停止条件を先に見ろ」
「見てる」
「見てる顔じゃねえ」
「顔で分かるのかよ」
「分かる」
十鉄は即答した。
こういう時の父は面倒くさい。
だが、間違っていない。
良樹は図面をもう一度追った。
運転条件。
自己保持。
停止入力。
非常停止。
安全リレー。
インターロック。
動かす条件よりも、止める条件。
それは父に叩き込まれた考え方だった。
小学生の頃から、良樹は父の作業場や現場へ連れ回されていた。
線番チューブを並べた。
インシュロックの端を切った。
図面をコピーした。
盤内の掃除をした。
客先工場で夜間工事の空気を吸った。
危ない手を出せば、ヘルメット越しに工具で小突かれた。
感情で殴られたわけではない。
止められた。
理由を言われた。
次にどうするかを渡された。
そうやって、身体に覚え込まされた。
古い。
乱暴。
今なら怒られる。
それでも、良樹はその教えで何度も助かってきた。
「良樹」
「今度は何」
「動かす前に、止め方を考えろ」
「だから分かってるって」
「分かってねえ奴ほど、そう言う」
「親父、俺もう二十八だぞ」
「二十八でも馬鹿は馬鹿だ」
「実の息子に言うか」
「実の息子だから言うんだよ」
良樹はため息をついた。
けれど、口元は少しだけ緩んでいた。
このやり取りも、いつものことだった。
何度も聞いた。
何度も言われた。
何度も腹が立った。
それでも、自分の中に残っている。
自分が設計者として立っていられる根の、かなり深いところに。
「じゃあ、確認する」
良樹は図面を指で押さえた。
「運転許可はこの接点。自己保持はここ。停止条件は停止PB、異常、扉インターロック、安全リレー。非常停止が落ちたら問答無用で遮断。復帰は手動リセット。勝手に再起動しない」
「よし」
「よしなら最初からそう言えよ」
「言ったら覚えねえだろ」
「面倒くせえ親父だな」
「面倒くせえから飯が食えてんだ」
その時だった。
盤内照明が、ふっと消えた。
「ん?」
良樹は反射的に顔を上げた。
工場全体が暗い。
非常灯も見えない。
さっきまで遠くで微かに聞こえていた空調の音もない。
完全な闇だった。
「主幹ブレーカーでも落ちたか?」
職業反射で、そう思った。
だが、すぐに違和感が走る。
普通の停電なら、音がある。
誰かが声を上げる。
工具を落とす音がする。
非常灯に切り替わる気配がある。
作業者がざわつく。
何もなかった。
音が消えている。
工場の音だけではない。
空気そのものが止まったようだった。
「親父?」
返事はなかった。
いや。
あった。
「良樹」
十鉄の声がした。
いつもの説教の声ではなかった。
低く、鋭い声。
「手ぇ止めろ」
それが、現実で聞いた最後の声だった。
足元の床の感触が消えた。
落ちる、と思った。
けれど、落下の感覚もなかった。
上下が消える。
左右が消える。
盤も、図面も、父の声も、工場の匂いも。
全部、黒に飲まれた。
◇
最初に感じたのは、土の匂いだった。
次に、湿った草の匂い。
その次に、腐った肉のような臭い。
「……っ」
良樹は目を開けた。
木があった。
工場ではない。
天井ではない。
見知らぬ森だった。
枝葉の隙間から、傾いた陽の光が差し込んでいる。
眩しい。
さっきまで夜の工場にいた目には、その光が妙に現実離れして見えた。
良樹は、しばらく動けなかった。
頭が追いつかない。
盤前にいた。
父がいた。
暗転した。
床が消えた。
そして、森。
「……なんだ、これ」
口に出した瞬間、背後で何かが鳴った。
ばきり、と。
枝が折れる音。
良樹は振り返った。
暗がりの中に、何かがいた。
獣。
いや、獣にしては大きい。
四足。
背中が盛り上がっている。
目が赤く光っている。
口元から、黒い涎のようなものが垂れていた。
工場では見ないタイプの異常だった。
「……魔物、ってやつか?」
冗談めかして呟いた。
自分で言って、自分で少し馬鹿らしくなる。
そんなものがいるはずがない。
いや、目の前にいる。
獣が、口を開いた。
腐った肉のような臭いが、風に乗って届く。
次の瞬間、森を震わせるような咆哮が響いた。
良樹の背筋が、ぞわりと粟立った。
オイオイオイオイ。
死んだわ、俺。
どこかで見たような言い回しが頭をよぎった。
現実逃避にしても、もう少し役に立つものを出してほしかった。
獣が地面を蹴った。
「っ!」
良樹は走った。
考えるより先に身体が動いた。
安全靴が土を踏む。
腰袋が揺れる。
フルハーネスが肩に食い込む。
ツナギの裾が枝に引っかかる。
重い。
現場装備で森を走るものではない。
背後でまた木が折れた。
近い。
「くそっ……!」
息が上がる。
足が遅い。
このままでは追いつかれる。
逃げなければならない。
ただ、それだけだった。
逃げる。
走る。
脚を動かす。
追いつかれるな。
その瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
ガヂン、と。
音がした気がした。
振動を伴う電磁接触器独特の動作音。
何度も聞いた音だ。
見えた。
盤だった。
金属の箱。
端子台。
線。
接点。
コイル。
もちろん、そんなものが目の前にあるわけではない。
けれど良樹の頭の中には、確かにそれが見えた。
入力。
逃げる。
出力。
脚を動かす。
それだけでいい。
それだけで、今はいい。
良樹は、考えるより先に繋いだ。
起動。
保持。
出力。
胸の奥の盤から、一本の線が落ちた。
それは腹の奥を通り、腰へ届いた。
「……腰?」
思った瞬間、良樹の左右の腰骨あたりで、何かが顕現した。
見えるはずのないものが見えた。
半透明の筒。
輪郭だけの軸。
薄く光るコイル。
魔力でできた、モータのようなもの。
それが、腰の左右に一つずつ浮かんでいた。
「なんだこれは……」
良樹は、走りながら自分の腰を見下ろしかけた。
見下ろしている場合ではない。
背後では魔物が木をへし折って迫っている。
それでも、目がそこへ吸い寄せられた。
腰に、モータ。
意味が分からない。
「モータ? なんでこんなもんが俺の腰に――」
言い切る前に。
ぎゅん、と。
左右の魔力モータが、同時に回った。
回転音ではない。
金属音でもない。
けれど良樹には、それがモータの立ち上がる音に聞こえた。
腰から太腿へ。
太腿から膝へ。
膝から足首へ。
魔力線が走る。
筋肉に力が入ったのではない。
身体の外側から、脚の動きを押し出された。
走ったのではない。
走らされた。
「うおっ!?」
身体が前へ跳ねた。
足が地面を蹴る。
自分の足ではないみたいだった。
いや、足は自分のものだ。
膝も、股関節も、足首も、自分の部品だ。
だが、そこへ流れている力が明らかに違う。
脚力補助。
そう考えた瞬間、良樹は理解した。
今、自分は何かを組んだ。
盤。
回路。
出力。
モータ。
補助。
理屈は分からない。
だが、感覚としては分かる。
これは、制御だ。
魔法か何かは知らない。
異世界かどうかも知らない。
けれど、やっていることは制御だった。
そして、最悪なことに。
直入れだった。
足が速い。
速すぎる。
枝葉が身体のあちこちを叩きつけてくる。
倒木を飛び越える。
ぬかるみを踏んでも沈み切る前に次の足が出る。
背後の獣の音が、少しずつ遠ざかる。
「行ける……!」
良樹は歯を食いしばった。
森の中を走る。
傾いた陽の光が流れる。
呼吸が焼ける。
だが、距離は取れている。
あの獣から逃げ切れる。
そう思った時だった。
木々が切れた。
視界が開ける。
夕陽を受けた水面が、目の前に広がっていた。
川だ。
しかも、足元は川岸より少し高い。
崖というほどではない。
だが、人間が全力疾走のまま突っ込んでいい高さではなかった。
「止まれ!」
良樹は叫んだ。
足は止まらなかった。
「止まれ、止まれ、止まれ!」
止まらない。
むしろ、最後の一歩で地面を強く蹴った。
「なんで加速すんだよ!」
身体が宙に出た。
落ちた、というより、打ち出された。
作業用ツナギ。
安全靴。
腰袋。
フルハーネス。
工具一式。
現場装備を満載した二十八歳男性が、魔力補助付きで川へ射出された。
オイオイオイオイ。
やっぱり死んだわ、俺。
さっき頭をよぎった馬鹿みたいな言葉が、もう一度浮かんだ。
その瞬間、頭の中にさっきの回路が浮かんだ。
入力。
逃げる。
出力。
脚力補助。
保持。
保持。
保持。
「……リセットは!?」
ない。
「停止条件は!?」
ない。
「速度制限は!?」
ない。
「非常停止は!?」
作ってない。
脳内で、父の声がした。
『動かすだけなら猿でもできる。止められて初めて設計だ』
「今それ言うな親父ぃぃぃぃ!」
叫びは、水音に飲まれた。
ばしゃん、と派手な音がした。
◇
冷たい。
重い。
上下が分からない。
水が口に入った。
良樹は反射的に息を止めた。
安全靴が水を噛む。
腰袋が身体を引っ張る。
フルハーネスが濡れて重くなる。
川の流れに揉まれながら、良樹は必死に足を探した。
底。
あった。
膝を曲げ、踏ん張る。
水面へ顔を出した瞬間、肺が空気を吸い込んだ。
「っ、は……!」
咳き込む。
水を吐く。
髪からも、顎からも、ツナギからも水が滴っている。
全身が重い。
最悪だ。
最悪だが、生きている。
「……くそ」
良樹は川の中で膝をつきそうになりながら、まず手足を確認した。
動く。
痛いところはあるが、折れてはいない。
次に腰を触った。
腰袋がある。
「……ある」
慌てて中を探る。
PH2のドライバー。
ニッパー。
圧着ペンチ。
ラジオペンチ。
ネジザウルス。
小型モンキー。
テスター。
ビット。
端子。
インシュロック。
絶縁テープ。
ある。
全部ある。
川に突っ込んだ。
上下も分からないほど揉まれた。
それなのに、工具がひとつも落ちていない。
「いや、そんなわけ……」
良樹は震える手で腰袋を逆さにした。
落ちない。
中身が、まるでそこに固定されているように動かない。
もう一度振った。
落ちない。
「……神か」
心の底から出た声だった。
この異常な状況で、最初に感謝したのが工具の無事であることに、自分でも少し引いた。
だが仕方ない。
工具は命だ。
少なくとも、良樹にとってはかなり命に近い。
その時、水音がした。
自分のものではない。
良樹は顔を上げた。
そこに、人がいた。
女だった。
水面から立ち上がりかけた、若い女。
濡れた黒髪が、白い肩に張りついている。
長い髪だった。
腰まで届きそうな黒髪が、水を含んで艶を帯びている。
夕陽の光が水面で揺れ、その髪と肌に淡く反射していた。
年は、自分より少し下だろうか。
顔立ちは整っていた。
大きすぎない目。
すっと通った鼻筋。
水滴を乗せた睫毛。
驚きにわずかに開いた唇。
瞳は、澄んだ青だった。
川面よりも冷たそうで、空よりも鮮やかな青。
可愛い。
そう思った。
場違いにもほどがある感想だった。
川へ撃ち込まれ、全身ずぶ濡れで、目の前には水浴び中の女性。
どう考えても、最初に考えることではない。
けれど、思ってしまった。
濡れた黒髪も。
驚いた青い瞳も。
白い肩も。
水滴の乗った睫毛も。
可愛い、と思った。
そう思った瞬間、良樹の頭の中で別の警報が鳴った。
違う。
今それを考えるな。
相手は女性。
水浴び中。
こちらは川に突っ込んできた不審者。
しかも、目の前。
状況は最悪だった。
いや、最悪という言葉では足りない。
水面から膝のあたりまで、彼女の身体はほとんど隠れていなかった。
濡れた髪。
白い肩。
細い腕。
水滴の伝う鎖骨。
胸元は、反射的に寄せられた腕と黒髪でかろうじて隠れている。
細い腰。
水面から出た膝。
良樹は、見た。
見えてしまった、では少し足りなかった。
視界に入った、でも足りなかった。
見た。
膝から上まで。
ほとんど全部。
良樹の頭の中で、遅れて警報が鳴った。
危険。
倫理的危険。
社会的危険。
説明困難。
女の顔は、怒りというより驚愕で凍りついていた。
当たり前だ。
水浴び中のところへ、見知らぬ男が空から落ちてきた。
しかも、落ちた直後にまず腰袋を確認し、逆さにして「神か」と呟いた。
不審者である。
どう控えめに見ても、不審者である。
「……」
「……」
目が合った。
良樹は、ゆっくりと両手を上げた。
謝罪。
状況説明。
敵意がないことの証明。
どれを優先すべきか、一瞬だけ迷った。
迷った結果、いちばん短いものを選んだ。
「……見るつもりはなかった」
言った瞬間、良樹は自分の言葉が最低に聞こえた。
違う。
それでは逃げだ。
見たことの言い訳だ。
良樹は歯を噛んだ。
「いや、違う」
女の青い瞳が、揺れた。
「見た。見たのは事実だ。悪い」
女は動かなかった。
悲鳴も出なかった。
魔法も、すぐには出なかった。
ただ、顔から首までが一気に赤くなる。
それから、自分がどこまで見られたのかを理解したように、両腕で身体を隠した。
「……あなた」
声は震えていた。
怒りか。
羞恥か。
恐怖か。
たぶん、全部だった。
「本当に、悪――」
言い終わる前に、川面が白く走った。
ぱき、と音がした。
足元から冷気が這い上がる。
冷たい。
ただの川の冷たさではなかった。
皮膚の表面だけではなく、骨の隙間にまで入り込んでくるような冷たさだった。
水が固まった。
いや、水だけではない。
濡れたツナギの表面まで、薄い氷に覆われていく。
「待て、違――」
言い切る前に、良樹の身体は胸元まで氷に包まれていた。
寒い。
いや、寒いというより、冷たい。
濡れたツナギの内側で体温が奪われていく。
安全靴の中の水まで、じわじわと冷えていく。
痛い。
そして何より、意味が分からない。
「……ですよね」
声が震えた。
寒さのせいだけではない。
目の前の女は、まだこちらを見ている。
怒っている。
恥ずかしがっている。
警戒している。
それは分かる。
分かるのに。
まだ、可愛いと思ってしまった。
最低だな、俺。
目の前の女の指先には、青白い光が集まっている。
その光が川面を伝い、氷を広げていた。
冷却装置。
液体窒素。
いや違う。
配管も、ノズルも、熱交換器もない。
なら、これは。
「……魔法ってやつか」
口に出してみても、現実味はなかった。
だが、目の前で水が凍っている。
自分の腰から下も凍っている。
現象としては、疑いようがない。
良樹は歯を鳴らしながら、妙に冷静な部分で思った。
立ち上がりが早い。
殺すためではない。
拘束だ。
だが、制御は正確だった。
水面だけを凍らせ、身体の動きを止め、呼吸は塞いでいない。
良樹は、凍った川の中で小さく息を吐いた。
魔物から逃げた。
脚力補助を起動した。
停止条件を組んでいなかった。
川へ撃ち込まれた。
工具は無事だった。
そして、水浴び中の女性を膝から上まで見てしまった。
異世界初日の事故記録としては、かなり終わっている。
「……親父」
良樹は、凍った川の中で小さく呟いた。
「止め方って、大事だな」




