第19話 近くなった分だけ(挿絵有)
翌朝。
宿の食堂は、いつも通り騒がしかった。
焼いたパンの匂い。
薄いスープの湯気。
煮込んだ豆。
冒険者たちの笑い声。
皿が置かれる音。
椅子を引く音。
その中で、カレンはいつもより少しだけ遅れて食堂へ入ってきた。
昨日、良樹と一緒に選んだ髪飾りをつけている。
派手ではない。
けれど、カレンの柔らかい髪色に合う、小さな飾りだった。
カレンは、入口で一度立ち止まり、胸元で両手を握る。
それから、そっと良樹たちの卓へ歩いてきた。
「おはようございます」
「おう」
良樹が顔を上げる。
そして、すぐに気づいた。
「それ、昨日のか」
「あ、はい……」
カレンの声が小さくなる。
リシアの匙が止まった。
クラリスの微笑みが、ほんの少し深くなる。
良樹は、何の気負いもなく言った。
「似合ってるな」
「っ……ありがとうございます」
カレンの顔が、一気に赤くなった。
椅子へ座る動きまでぎこちない。
けれど、髪飾りを外す様子はない。
リシアは、その様子を横目で見た。
「……昨日の続きみたいな顔してるわね」
「えっ」
カレンが肩を跳ねさせる。
クラリスは、穏やかに頷いた。
「はい。とても可愛らしいです」
「あ、あの……昨日、良樹さんに選んでいただいたので……」
カレンは、両手で杯を包み込むように持った。
湯気の向こうで、耳まで赤い。
良樹は、普通に褒めただけのつもりだった。
だが、リシアには分かる。
クラリスにも分かる。
昨日の余韻は、まだ終わっていない。
カレンは昨日、良樹に女の子として見つけてもらった。
その記憶を、今朝も大切に持ってきている。
リシアは、ほんの少しだけ唇を結んだ。
クラリスは、清楚に微笑んでいた。
微笑んでいたが、その目は静かに戦場を見ていた。
「良樹」
「何だ」
「今日は何するの?」
「盤の整理だな」
良樹は、木の匙を置いた。
「食堂でやるには、そろそろ限界だ」
「何が?」
「魔導盤の整理だ。部材も増えたし、紙も増えたし、魔石も増えた。飯食う場所で広げるもんじゃねえ」
「やっと気づいたのね」
「気づいてはいた」
「本当に?」
「気づいてはいた。実行が遅れただけだ」
「それを気づいてないって言うのよ」
リシアが呆れたように言う。
クラリスは少し首を傾げた。
「宿の部屋では駄目なのですか?」
「机が小せえ」
「床があるでしょ」
リシアが何気なく言った。
良樹は、少し考えた。
「あるな」
その言葉に、リシアは嫌な予感を覚えた。
「待って。今、何か良くないことを考えたでしょ」
「床なら広げられる」
「最悪の答えが出たわね」
「現場じゃ床も作業台だ」
「最悪の現場理論ね」
良樹は反論しなかった。
実際、作業場所としては最悪寄りだった。
だが、他に選択肢もない。
食堂で広げるよりはまし。
机が小さいなら床を使う。
それだけの話だ。
良樹の中では。
◇
良樹の部屋は、元々広くない。
ベッド。
小さな机。
椅子。
荷物。
壁際の棚。
そこへ良樹が魔導盤の部材を広げると、床は一気に作業場になった。
半透明の魔導盤。
小さな魔石。
紙片。
木片。
工具。
線のように見える魔力部材。
仮置きした小さな金具。
何かの目印として置いた布切れ。
工具が増えたわけではない。
腰袋に入っている道具は、良樹がこちらへ来た時からほとんど変わっていない。
増えたのは、考えるべき線だった。
仮置きの構成だった。
紙片に書き散らした確認事項だった。
小さな魔石と、盤の中に置くべき役割だった。
良樹は床に座り込み、完全に現場の顔になっていた。
「ここが入力」
「こっちが保持」
「こいつはまだ出力へ繋がねえ」
「危険側だから仮置き」
「停止条件はこっちに逃がして……いや、ここだと近すぎるな」
工具を持つ指だけは妙に丁寧だった。
紙片に書いた記号を見て、盤の中に線を仮置きしていく。
食堂よりは集中できる。
だが、部屋は狭い。
狭い部屋に床作業を持ち込むと、床は床ではなくなる。
良樹の周囲は、ほとんど魔導盤の一部になっていた。
扉が、こんこん、と叩かれた。
「良樹、いる?」
リシアの声だった。
「いる。入っていいぞ」
扉が開く。
リシアが顔を出した。
黒髪を軽く肩の後ろへ流し、いつもの白と青の魔法衣姿で部屋に入る。
そして、足元を見た。
「……何これ」
「盤の整理だ」
「整理?」
「ああ」
「散らかしてるように見えるけど」
「作業中はこうなる」
「床、半分死んでるわよ」
「作業中の床は作業台だ」
「やっぱり最悪の現場理論ね」
リシアは部屋の中を見回した。
椅子は良樹の荷物と紙束で埋まっている。
机も小物と魔石で埋まっている。
床は言うまでもなく死んでいる。
良樹の隣。
いつものように、そこへ座ろうとした。
座ろうとして、足を止めた。
「……座る場所がないんだけど」
「悪い。今ちょっと広げてる」
「ちょっと?」
「必要最小限だ」
「この部屋の床、半分以上死んでるわよ」
「作業性を確保した結果だ」
「居住性を殺してるのよ」
リシアは額を押さえた。
とはいえ、良樹の作業を見たい気持ちはある。
魔導盤。
入力。
保持。
停止条件。
リシア自身の魔法から読み出した赤と青の線。
良樹が何を見て、何を組み替えているのか。
それを見たい。
良樹の隣で。
だが、隣には座れない。
仕方なく、リシアはベッドへ腰を下ろした。
ベッドは良樹の少し横。
良樹よりも高い位置。
床の魔導盤を覗き込むには、少し身を乗り出す必要がある。
「そこから見えるか?」
「見えなくはないわ」
「ならいい」
「よくはないけどね」
リシアは膝を揃えて座った。
膝は閉じている。
だが、ベッドの上なので、膝から下が自然に少し開く。
正面から見れば、足の形がわずかにハの字になる。
本人には、それがどう見えるか分からない。
良樹は床に座っていた。
目線が低い。
魔導盤へ伸ばした手が、一瞬止まった。
「……リシア」
「何?」
「見えてる」
リシアが固まった。
「……何が?」
「言わせるな」
一拍。
リシアの顔が、一気に赤くなった。
「っ……!」
反射的にスカートを押さえる。
「み、見たの!?」
「見えた」
「否定しなさいよ!」
「嘘はつかねえ」
「そこだけ誠実じゃなくていいのよ!」
「いや、そこは誠実であるべきだろ」
「良樹!」
「はい」
良樹は素直に黙った。
リシアは真っ赤な顔で体勢を変えた。
膝をさらにきつく揃え、少し横座り気味になる。
スカートの裾もきちんと押さえる。
「これでいいでしょ!」
「いいと思う」
「思う、じゃなくて!」
「少なくとも今は見えてない」
「今は、を付けるな!」
「状況は変化するからな」
「報告がいちいち最悪なのよ!」
リシアはしばらく良樹を睨んでいた。
良樹は、視線を魔導盤へ戻す。
そして作業を再開した。
「ここに保持を置くと、出力側に近すぎる」
「停止条件をこっちに逃がして」
「リシアの火の変換は……いや、丸ごと置くんじゃない。入口だけだ」
良樹の手元に、赤い線が仮置きされる。
それから、青い線が別の場所へ置かれる。
リシアは、怒っていた。
怒っていたはずだった。
けれど、良樹の手元を見るうちに、少しずつ意識がそちらへ引っ張られていく。
あれは、自分の火炎球を見て作った線だ。
こっちは、氷閃槍の形状固定から来ている。
でも、そのままではない。
良樹の盤の中で、別の役割に変えられている。
見たい。
もっと近くで。
横座りでは、盤の奥が見えにくい。
スカートを押さえたままだと、身体を前へ出しづらい。
リシアは、無意識に少し前へ身を乗り出した。
もう少し。
もう少しだけ。
膝は閉じている。
けれど、足の位置が元に近づく。
身体が前傾する。
ベッドの上で、見やすい姿勢になる。
良樹の手が、また止まった。
「……リシア」
「今度は何?」
「わざとやってんのか」
「何をよ」
「二回目だ」
リシアは、一拍遅れて自分の姿勢を見た。
そして固まった。
「――っ!」
慌ててスカートを押さえる。
「ワザとじゃない!」
「ここしか座る場所がないから!」
「いや、座る場所の問題じゃねえ」
「姿勢の問題だ」
「見えないと盤が見えないのよ!」
「今の発言、かなり危険だぞ」
「盤の話よ!」
「分かってる」
「分かってる顔じゃない!」
リシアは立ち上がった。
「もういい」
「何が」
「そこ、片付けるわ」
「今は作業中で――」
「片付ける」
「いや、線が――」
「片付ける!」
リシアは良樹の周囲へ回り込み、床に散らばっている紙片や小物を寄せ始めた。
雑だった。
ただし、本当に壊してはいけなさそうなものは踏まない。
魔石も避ける。
良樹が何度も見ていた紙片は、端へ丁寧に置く。
怒っている。
恥ずかしがっている。
けれど、良樹の作業を台無しにする気はない。
そこがリシアだった。
「おい、そこはまだ――」
「ここに置けばいいでしょ!」
「ああ、それなら大丈夫だ」
「じゃあ黙ってて!」
「はい」
リシアは良樹の右隣を強引に空けた。
空けた、と言っても、人ひとりが余裕を持って座れるほどではない。
壁。
ベッド。
魔導盤。
工具。
良樹。
残された隙間は、どう見ても狭かった。
それでもリシアは座った。
いや、座ったというより、身体を滑り込ませた。
肩が当たる。
膝が当たる。
太ももが触れる。
黒い髪が、良樹の腕にかかる。
良樹の手が止まった。
「……リシア」
「何」
「近い」
「ここしか座る場所がないのよ」
「ベッドがある」
「さっき事故ったでしょ!」
「それはそうだが」
「だからここに座るの」
「ここはここで事故ってる」
「事故じゃないわ」
「当たってる」
「当たっても、私は構わないの!」
良樹が固まった。
リシアも、自分で言ってから一瞬だけ固まった。
もちろん、普通ではない。
少なくともリシアの知る宿屋の日常に、若い男の隣へ肩と膝を押しつけて座る作法は存在しない。
けれど、今さら退けなかった。
「こっちではこれくらい普通なの!」
「良樹が変に意識しすぎなのよ!」
「その普通、俺の安全基準に入ってねえ」
「入れなさい!」
「安全基準は勢いで改訂するもんじゃねえ」
「良樹は作業に集中して!」
「無理を仰る……」
「無理じゃない!」
「いや、これは無理だろ」
「見えないように座ったんだから、もういいでしょ!」
「代わりに接触事故が発生してる」
「事故じゃないって言ってるでしょ!」
「じゃあ何だ」
「……確認位置よ!」
「便利すぎるだろ、その言葉」
良樹は魔導盤を見た。
入力。
保持。
停止条件。
仮置きの出力。
危険側へ逃がす線。
見るべきものはいくらでもある。
だが、右肩にはリシアの肩が当たっている。
膝も触れている。
少し動くたびに、黒い髪が腕に触れる。
作業に集中しろ。
言葉としては正しい。
現場なら、正しい。
ただし、現場でこんな条件を出されたことはない。
「……作業環境が悪い」
「私のせいみたいに言わないで」
「かなり大きい要因だぞ」
「私は構わないって言ったでしょ」
「俺の構えが追いついてねえんだよ」
「構え?」
「心の安全柵がまだ立ってない」
「何それ」
「俺にも分からん」
リシアは顔を赤くしたまま、少しだけ良樹を睨んだ。
けれど、離れなかった。
良樹も、それ以上は言わなかった。
魔導盤の線を動かす。
「……でも、近い方が見えるのは確かだな」
「何が?」
「盤だ」
「隣にいると、どこを見てるか分かる」
「お前がどこで止まるか、どこで首を傾げるかも見える」
「こっちの説明も早い」
リシアは、少しだけ目を伏せた。
「じゃあ、いいじゃない」
「作業性は上がる」
「なら集中して」
「別の作業性が落ちる」
「落とさないで」
「無理を仰る……」
リシアは小さく息を吐いた。
良樹の隣にいる。
肩が触れている。
膝が当たっている。
髪が腕に触れている。
恥ずかしい。
けれど、嫌ではなかった。
見えたことは嫌だった。
気づかない角度で見られるのは嫌だった。
でも、自分でここに座っている。
良樹の隣に。
良樹の盤が見える位置に。
それは、嫌ではなかった。
◇
扉が、こんこん、と叩かれた。
「良樹さん、いらっしゃいますか?」
カレンの声だった。
続いて、クラリスの柔らかい声も聞こえる。
「ガレスさんがお呼びです。少しよろしいでしょうか」
良樹は、魔導盤から顔を上げた。
「おう、いいぞ」
「ちょ、待っ――」
リシアの制止は、一拍遅かった。
扉が開く。
カレンとクラリスが、部屋の中を見た。
そして、止まった。
床には、工具が散乱していた。
紙片がある。
小さな魔石がある。
魔導盤の部材らしきものがある。
線のような魔力部材が、半透明に光っている。
部屋は狭い。
その狭い部屋の床を、良樹の作業道具が半分以上占拠していた。
そして、その中心に良樹が座っている。
その隣に、リシアがいた。
隣。
隣、というには少し近い。
肩が触れている。
膝が当たっている。
黒い髪が、良樹の腕にかかっている。
リシアは顔を赤くしながらも、退いていない。
良樹は工具を持ったまま固まっていた。
リシアも固まっていた。
カレンとクラリスも固まった。
沈黙。
最初に動いたのは、クラリスの目だった。
部屋を見た。
床を見た。
工具の配置を見た。
紙片の散らばりを見た。
ベッドの位置を見た。
良樹の座る位置を見た。
リシアの座る位置を見た。
そして、すべてを理解した。
これは、作業場ではない。
魔法陣だ。
良樹くんへ近づくための導線を潰し。
第三者の侵入位置を限定し。
最終的に自分だけが良樹くんの隣に座れるよう構築された、極めて高度な空間制御。
いや、違う。
これは、結界。
リシアさんが作り上げた、甘い空間を守るための結界。
クラリスは、心の中で血を吐いた。
清楚な僧侶なので、顔には出さなかった。
出さなかったが、吐いた。
一方、カレンはそこまで高度な空間分析はできなかった。
ただ、見えた。
リシアの座り方。
膝の位置。
スカートの角度。
そして、カレンたちが扉側から見ているこの位置。
見えている。
ほんの少し。
だが、見えている。
カレンは、顔を真っ赤にした。
「あ、あの……」
リシアの肩が跳ねる。
「何」
「その、リシアさん」
「何よ」
「……見えて、ます」
リシアが固まった。
良樹も固まった。
クラリスが、口元に手を添えた。
「なるほど」
「なるほどじゃないわよ!」
リシアは慌ててスカートを押さえた。
「違うの! これは違うの!」
「違うのか」
良樹が言った。
リシアは良樹を睨んだ。
「良樹は黙ってて!」
「はい」
良樹は素直に黙った。
クラリスは、静かに部屋を見回した。
「つまり」
「言わなくていいわ」
「リシアさんは、最初はベッドに座っていたのですね」
「言わなくていいって言ったわよね!?」
「ですが、ベッドに座ると良樹くんから見上げる形になります」
「クラリスさん!?」
「その結果、何らかの事故が発生した」
「何らかって言いながら全部分かってる顔やめて!」
「そして、事故を避けるために床を片付け、良樹くんの隣へ移動した」
「推理しないで!」
「けれど部屋が狭いため、必要以上に密着する形になった」
「必要以上じゃない!」
クラリスは、にこりと微笑んだ。
「では、必要な密着だったのですね」
「言い方!」
リシアの顔が、さらに赤くなる。
クラリスは清楚に微笑んでいた。
微笑んでいたが、心の中ではもう一度血を吐いた。
カレンは、リシアと良樹の距離を見ていた。
肩が触れている。
膝も触れている。
良樹の腕に、リシアの髪がかかっている。
リシアさんは、隣に座っている。
良樹さんの、隣。
しかも、退いていない。
カレンは胸元で両手を握った。
ああいう座り方も、あるんですね。
その学習は、今後の確認期間において非常に危険な意味を持つことになる。
もちろん、良樹はまだ知らない。
「いや、これはだな」
良樹は工具を置いた。
「床に盤を広げてたら、リシアが座る場所がなくてな」
「はい」
クラリスは穏やかに頷いた。
「最初はベッドに座ったんだが」
「はい」
「角度が悪くて」
「はい」
「……」
良樹はそこで止まった。
クラリスは微笑む。
「角度が悪かったのですね」
「……そうだ」
「どのように?」
「聞くな」
「確認です」
「その確認はいらねえ」
カレンは、顔を赤くしたまま小さく言った。
「あ、あの……たぶん、分かります」
「カレンさん!?」
リシアが叫んだ。
「わ、私も、その……動くと、服の角度が変わるので……」
「分からなくていいのよ!」
「で、でも、装備の挙動確認は大事だと良樹さんが」
「今その正論を出さないで!」
クラリスは、もう一度部屋を見る。
工具。
紙片。
魔石。
床を塞ぐ魔導盤。
狭い壁際。
良樹の隣に収まるリシア。
これは偶然でしょうか。
偶然かもしれない。
ですが、結果として完璧です。
リシアさん以外、良樹くんの隣へ座れない。
ベッドに座れば事故が起きる。
入口からは工具が邪魔で近づきにくい。
そして、リシアさんはすでに最適位置を占拠している。
魔法陣。
結界。
陣地。
クラリスは、清楚に微笑んだ。
リシアさん。
恐ろしい方です。
心の中で、三度目の血を吐きながら。
「違うのよ」
リシアは真っ赤な顔で言った。
「これは、そういうのじゃなくて」
「そういうの、とは?」
クラリスが首を傾げる。
「分かってて聞かないで!」
「私はただ、リシアさんが良樹くんの隣にいる理由を確認したいだけです」
「座る場所がここしかなかったの!」
「なるほど」
「本当よ!」
「はい」
「信じてないでしょ!」
「信じています」
「その顔は信じてない顔!」
クラリスは、穏やかに微笑んだ。
「ただ、羨ましいとは思っています」
リシアの言葉が止まった。
カレンも、小さく息を呑んだ。
クラリスは、いつもの柔らかな声で続ける。
「良樹くんの隣に座るために、そこまで自然な状況を作れるのは、少し羨ましいです」
「作ってない!」
「結果として、完成しています」
「完成って何よ!」
「結界です」
「結界!?」
良樹は、額を押さえた。
「……俺は魔導盤の整理をしてただけなんだが」
「その結果、リシアさんの結界が完成しました」
「完成してない!」
「私は見えてしまいました……」
「カレンも何を見たか言わないで!」
「見えてしまったなら、事故報告は必要です」
「良樹は黙ってて!」
「はい」
良樹はまた黙った。
◇
クラリスは、少し考えるように目を伏せた。
それから、顔を上げる。
「では、私で検証実験しましょう」
部屋の空気が止まった。
「何を」
良樹が聞く。
「同じ条件で、ベッドに座った場合、本当に見えるのかどうかです」
「やるのか、それを」
「はい」
「私はスカートが長いので、大丈夫ですよ」
クラリスは本気でそう思っていた。
白い法衣は長い。
リシアやカレンのような短いスカートではない。
座り方を整えれば、危険は少ないはずだ。
検証役としては、自分が一番向いている。
「あ、あの……」
カレンが、小さく手を上げた。
「私も、検証なら……」
「カレンは駄目だ」
良樹は即答した。
「えっ」
「検証にならねえ」
リシアが目を細める。
「どういう意味よ」
「座らなくても見える可能性が高い」
「っ……!」
カレンの顔が真っ赤になった。
「良樹!」
「事実確認だ」
「そういうところよ!」
クラリスは穏やかに頷いた。
「カレンさんの場合、条件差が大きすぎますね」
「クラリスさんまで……」
カレンは両手で顔を隠しかけた。
だが、完全には隠さなかった。
恥ずかしい。
でも、何かを学んでいる顔でもあった。
クラリスは、ベッドへ移動した。
丁寧に座る。
膝を揃える。
法衣の裾を整える。
背筋を伸ばす。
「このように座れば、問題ないと思います」
「今は見えてない」
良樹が言った。
「でしょう?」
クラリスは少しだけ胸を張る。
だが、魔導盤を見るには、少し距離がある。
「良樹くん、その赤い線は何ですか?」
「ああ。リシアの火の変換から取った入口だ」
「こっちが保持で、こっちが停止条件」
「なるほど」
クラリスは、少し前へ身を乗り出した。
法衣の裾が膝の上でわずかに引かれる。
ベッドの端。
前傾姿勢。
良樹の低い目線。
床の魔導盤。
条件が変わる。
良樹の手が止まった。
そして、無言で顔を背ける。
クラリスは、その動きで気づいた。
「……良樹くん?」
「……」
「まさか」
「検証結果が出た」
「……見えましたか」
「見えた」
クラリスは反射的に法衣の裾を押さえた。
「っ……!」
顔が赤くなる。
耳まで赤い。
クラリスは、自分から近づくことならできる。
良樹の手を取る。
背後から支える。
身体を寄せる。
腕に当てる。
呼び捨てを求める。
それは、自分で選んだ距離だから。
けれど、今は違った。
自分では大丈夫だと思っていた。
法衣は長い。
座り方も整えていた。
検証役として冷静でいるつもりだった。
それなのに、良樹が顔を背けた。
その瞬間、自分が無防備だったことを知った。
胸倉を掴まれた時とも違う。
戦闘で身体を見られた時とも違う。
これは、清楚な僧侶として整えていたはずの自分が、油断して見られた事故だった。
「ほら!」
「ほら見なさい!」
リシアが勢いよく言った。
「私だけじゃないでしょ!」
「そ、そういう問題ではありません……!」
クラリスは法衣を押さえたまま言う。
カレンは、顔を赤くしたまま呟いた。
「クラリスさんでも、見えるんですね……」
「カレンさん、記録しないでください」
「記録は必要だろ」
三人が同時に良樹を見た。
「良樹」
「はい」
良樹は黙った。
良樹は、心の中で深く息を吐いた。
俺は一体、何の検証に付き合わされてんだよ。
だが、逃げられない。
一応、理屈としては通っている。
良樹が床に座る。
相手がベッド上に座る。
スカート、または法衣。
魔導盤を見るために前傾姿勢になる。
部屋が狭い。
床が工具で塞がっている。
この条件で視線事故が発生するかどうかの再現試験。
現場的には、検証ではある。
内容が終わっているだけで。
◇
クラリスは、まだ少し赤い顔のまま、こほんと咳払いをした。
「では、合意を取りましょう」
「合意?」
良樹が眉を寄せる。
「はい。今後、同じ事故を防ぐための合意です」
「事故って認めるのね」
リシアが腕を組んだまま言った。
「事故です」
クラリスはきっぱり言った。
「ただし、リシアさんだけの問題ではありませんでした」
「そうよ!」
リシアが勢いよく頷く。
「私だけが悪いわけじゃないのよ!」
「座り方は要因だったけどな」
「良樹」
「はい」
良樹は黙った。
クラリスは指を一本立てる。
「まず、良樹くんが床で作業している時、ベッド上から魔導盤を覗き込む行為は危険です」
「角度的にか」
「はい」
「……俺は一体、何の安全会議に参加してんだ」
良樹は小さく呟いた。
だが、誰も拾わなかった。
拾ってくれなかった。
「次に、不慮に見えてしまった場合、良樹くんは嘘をつかない」
「そこは大事ね」
リシアが言う。
「ですが、報告の仕方には配慮してください」
「具体的には?」
「“見えた”までは仕方ありません」
「仕方ないのか」
「仕方ありません」
クラリスは少しだけ耳を赤くした。
「ですが、“作業性が落ちる”や“二回目だ”や“わざとやっているのか”は不要です」
「全部俺の発言じゃねえか」
「はい」
「議事録みたいに残すな」
「必要な記録です」
「不要だろ……」
良樹は額を押さえた。
その時、カレンが小さく手を上げた。
「あ、あの……」
「カレンさん?」
「根本原因は、その……部屋が狭いからでは、ないでしょうか」
全員が、カレンを見た。
カレンは慌てて両手を胸の前で握る。
「い、いえ、もちろん座り方とか、角度とか、そういうのもあると思うんですけど」
「でも、そもそも部屋が狭くて」
「床に工具があって」
「ベッドも近くて」
「良樹さんの隣に座る場所も、あまりなくて……」
そこで、カレンの声が少し小さくなる。
「だから、その……」
「もう少し広い場所なら」
「みんなが、ちゃんと座れるのでは……」
リシアが、少しだけ目を細めた。
クラリスも、静かにカレンを見た。
良樹だけが、普通に頷いた。
「まあ、それはそうだな」
「作業場所としては完全に狭い」
「床に盤を広げる時点で無理がある」
「はい……」
カレンは頷いた。
頷きながら、ほんの少しだけ視線を良樹の隣へ向けた。
リシアが今座っている場所。
肩が触れる距離。
膝が当たる距離。
ここしかない、と言える距離。
カレンは思った。
広い場所があれば。
ちゃんと座る場所があれば。
自分も、良樹さんの近くに座れるかもしれない。
でも、広すぎると。
近づく理由がなくなる。
だから、広い場所がほしい。
けれど、近くに座ってもおかしくない配置もほしい。
カレンは、自分が何を考えているのかに気づいて、顔を赤くした。
「カレン」
リシアの声が低い。
「今、何を考えたの?」
「な、何も考えていません」
「嘘ね」
「嘘では……」
クラリスが穏やかに微笑む。
「カレンさんは、根本原因を指摘しただけですよ」
「クラリスさん?」
「部屋が狭いから事故が起きる」
「それは確かです」
「ええ」
「そして、部屋が狭いからこそ、リシアさんは良樹くんの隣に座る理由を得ました」
「クラリスさん!」
「つまり、広い場所が必要です」
「ただし、近くに座る理由がなくならない程度に」
カレンの肩が跳ねた。
「そ、そこまでは言ってません……!」
「言っていませんね」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「ですが、思ってはいそうです」
「クラリスさん……!」
カレンは真っ赤になった。
良樹は眉間にしわを寄せる。
「……何の話だ?」
三人が同時に良樹を見た。
「良樹は作業場所の話だけしてて」
「はい」
良樹はまた黙った。
「では、合意です」
クラリスは、少しだけ姿勢を正した。
「一つ。良樹くんが床作業をする場合、ベッド上から覗き込むのは禁止」
「二つ。不慮に見えた場合、良樹くんは嘘をつかない。ただし余計な分析をしない」
「三つ。良樹くんの隣に座る場合、接触が避けられない時は、座る本人の意思を確認する」
「四つ。根本対策として、作業場所を考える」
「四つ目が一番まともだな」
良樹が言った。
「全部まともです」
クラリスは即答した。
「三つ目、まともか?」
「まともです」
リシアが顔を赤くしたまま言う。
「当たっても構わない場合があるんだから、確認は必要でしょ」
「お前が言うと破壊力が高いな」
「良樹は黙ってて」
「はい」
カレンは小さく手を上げた。
「あ、あの……三つ目は、私も必要だと思います」
リシアとクラリスが、カレンを見た。
カレンは真っ赤になりながらも続ける。
「嫌な時は、嫌と言える方がいいです」
「でも、その……嫌じゃない時も、あると思うので」
良樹の処理が止まった。
「……カレン?」
「は、はい」
「今のは、かなり重要入力なんだが」
「重要入力……」
「いや、すまん。今の言い方も駄目だな」
良樹は額を押さえた。
「俺は一体、何の安全会議に参加してんだ……」
クラリスは微笑んだ。
「確認期間の安全会議です」
「名称が最悪だ」
「ですが、必要です」
リシアが頷く。
「必要ね」
カレンも小さく頷く。
「必要、だと思います」
良樹は床に散らばった工具を見た。
魔導盤。
紙片。
魔石。
部屋の狭さ。
隣に座るリシア。
赤くなっているカレン。
清楚に議事進行するクラリス。
何も分からない。
ただ一つ分かるのは。
「……作業場所、要るな」
それだけだった。
◇
「ところで」
リシアが、急に低い声で言った。
良樹は嫌な予感がした。
「何だ」
「見えたって、どこまで?」
「確認しなくていい」
「確認よ」
「その確認は本当に要らない」
「良樹」
リシアの声がさらに低くなる。
クラリスも、まだ耳を赤くしたまま口を開く。
「私も、確認は必要だと思います」
「クラリスさんまで」
「事故の範囲を把握しないと、対策が立てられません」
「もっともらしいことを言うな」
カレンは、胸元で両手を握ったまま、小さく言った。
「あ、あの……私のも、ですか」
良樹は黙った。
答えたくない。
だが、見えていないと嘘をつくのも違う。
見えたことを軽く扱うのも違う。
だからと言って、正確に答えれば状況はさらに悪化する。
詰んでいる。
現場なら、ここで主幹を落とす。
しかし人生には、都合のいい主幹がない。
「……色」
良樹は観念して言った。
部屋の空気が止まった。
「色まで!?」
リシアが叫ぶ。
「では、私のは」
クラリスが、赤い顔のまま聞いた。
「言わせるのか」
「確認です」
「なんか、つるっとした紫」
クラリスが固まった。
「……つるっとした」
「ああ」
「紫」
「ああ」
「良樹くん」
「何だ」
「もう少し、言い方があったのではありませんか」
「布の名前なんか知らねえよ」
「そういう問題ではありません」
「じゃあどういう問題なんだ」
「乙女心です」
「難易度が高すぎる」
クラリスは清楚に微笑もうとした。
だが、耳まで赤かった。
「じゃあ、私のは」
リシアが、腕を組んだまま言った。
「聞くのか」
「ここまで来て、私だけ聞かないのも腹立つのよ」
「理不尽だな」
「いいから」
「……薄い黄色」
リシアの顔が赤くなる。
「なんで覚えてるのよ!」
「見えたからだろ」
「正論で返さないで!」
カレンは、胸元で両手を握っていた。
「あ、あの……私のも、ですか」
「カレンは……薄い水色」
「……はい」
カレンは真っ赤になった。
けれど、その返事は、どこか小さく嬉しそうだった。
良樹はそれを見て、頭の中で警報が鳴った。
今の反応は、何だ。
確認してはいけない。
深掘りしてはいけない。
リシアは、カレンの反応を見た。
「カレン」
「は、はい」
「今、ちょっと嬉しそうだったわよね」
「そ、そんなことは……」
「嘘ね」
「嘘では……」
クラリスが、まだ赤い耳のまま微笑んだ。
「薄い水色は、お気に入りなのですね」
「クラリスさん……!」
カレンは両手で顔を覆った。
「では、合意事項を追加します」
クラリスが言った。
良樹は額を押さえる。
「まだ増えるのか」
「はい。不慮に見えてしまった場合、色を問うのは禁止です」
「賛成」
リシアが即答した。
「さ、賛成です」
カレンも頷く。
「俺も賛成だ」
良樹も言った。
リシアは良樹を睨む。
「良樹は答えた側でしょ」
「答えさせられた側でもある」
「正論っぽく言わないで」
「ただし」
クラリスが、静かに続けた。
良樹は顔を上げる。
「ただし?」
「本人が確認したい場合は、別途協議とします」
「何で余地を残すのよ!」
リシアが叫んだ。
カレンは、赤い顔のまま小さく視線を逸らす。
「あ、あの……そこは、その……」
「カレン!?」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「確認期間ですから」
良樹は天井を見上げた。
「確認期間、危険すぎるだろ……」
◇
その時、廊下の向こうから宿の主人の声が飛んできた。
「おい、そこの部屋!」
「床に工具を広げるなって言っただろ!」
四人が同時に固まった。
クラリスが微笑む。
「結界、外部から破られましたね」
「結界じゃないって言ってるでしょ!」
リシアが叫ぶ。
良樹は床の工具を見た。
魔導盤。
紙片。
魔石。
工具。
そして、隣に密着したままのリシア。
カレンは入口近くで赤くなっている。
クラリスは清楚に議事進行している。
作業環境は、限界だった。
「……作業場所、要るな」
良樹が呟く。
リシアは顔を真っ赤にしたまま、まだ隣から退かなかった。
◇
その日の夕方。
ガレスに呼び出された良樹たちは、ギルドの奥の部屋にいた。
ガレスは、腕を組んで四人を見た。
「お前ら、最近ずいぶん宿で妙なことをしてるらしいな」
「……魔導盤の整理です」
良樹は少しだけ間を置いて答えた。
嘘ではない。
嘘ではないが、すべてでもない。
それは自分でも分かっていた。
ガレスは目を細める。
「本当にそれだけか?」
リシアが目を逸らした。
カレンが顔を赤くした。
クラリスが清楚に微笑んだ。
良樹は、言葉を選び損ねたまま黙った。
ガレスは、深く息を吐いた。
「……まあいい」
「若い奴らの部屋の中のことまで、俺が細かく言う気はねえ」
「違います」
リシアが即座に言った。
「何が違うかは聞かん」
「聞いて!」
「聞かん」
ガレスは良樹を見る。
「それと良樹」
「はい」
「宿の部屋で盤を広げるのはやめろ」
「宿の親父から苦情が来てる」
「……すみません」
良樹は素直に頭を下げた。
これは、言い訳できない。
食堂では広げにくい。
机が小さい。
床しかなかった。
事情はある。
だが、宿の床を作業場にしたのは自分だ。
「床に工具と魔石を広げるな、だそうだ」
「はい。俺が悪いです」
「分かってるならいい」
ガレスの声は厳しいが、怒鳴るほどではなかった。
良樹は、ガレスのそういうところを少し父親に似ていると思うことがある。
ただ怒るのではない。
駄目なものは駄目だと言う。
理由があっても、迷惑をかけた事実は消えない。
現場の年上の職人に近い。
だから良樹も、そこで茶化す気にはなれなかった。
「魔導盤の構成が増えてきました」
「紙片も、魔石も、仮置きの部材も増えています」
「食堂では広げにくい」
「部屋では狭い」
「……正直、作業場所としては限界です」
ガレスは、机に指を置いた。
「だろうな」
「はい」
「お前の魔導盤、最近大きくなってきてるんだろ」
「はい」
「扱うものも増えてる」
「増えてます」
「仲間も増えてる」
良樹は一瞬だけ黙った。
「……はい」
リシア、カレン、クラリスがそれぞれ少しだけ反応した。
ガレスは、その反応を見なかったことにした。
「なら、宿の部屋じゃ無理が出る」
「食堂も駄目だ」
「他の客がいる」
「床に広げれば宿が怒る」
「お前自身も作業しにくい」
「はい」
「そろそろ、作業場所を考えろ」
良樹は頷いた。
「分かりました」
その返事に、ガレスが少しだけ目を細めた。
「……今日はお前、やたら素直じゃねえか」
「何かあったのか?」
良樹は、一瞬だけ黙った。
宿の床。
散らばった魔導盤。
工具。
紙片。
魔石。
狭い部屋。
赤くなったリシア。
顔を覆ったカレン。
清楚に議事進行したクラリス。
いろいろあった。
ありすぎた。
だが、そこを話す必要はない。
「悪いと思ってたら、それなりの態度になります」
良樹はそう答えた。
ガレスは、少しだけ口の端を上げた。
「そうか」
「はい」
「なら、その態度のまま宿の親父にも謝っとけ」
「分かりました」
「あと、床は片付けろ」
「はい」
「工具は踏まれると危ねえ。魔石も割れると面倒だ。紙片は……まあ、お前にしか分からんだろうが、散らばってりゃ邪魔だ」
「はい。すみません」
ガレスは腕を組み直した。
「分かってるならいい」
「作業場所の件は、少し考えておく」
良樹は顔を上げた。
「いいんですか」
「お前らが宿で妙な結界を張るよりはましだ」
「結界じゃありません」
リシアが即座に言った。
ガレスは聞かなかったことにした。
「とにかく、今日は宿に戻って片付けろ」
「はい」
◇
ギルドを出た後、良樹は宿の方角を見た。
まずは片付け。
それから宿の主人へ謝罪。
そして、作業場所の検討。
今日一日で、痛いほど分かった。
魔導盤が大きくなった。
扱う紙片も、魔石も、仮置きの部材も増えた。
確認することも増えた。
仲間との距離も近くなった。
近くなった分だけ、見えるものが増えた。
近くなった分だけ、当たるものも増えた。
近くなった分だけ、確認しなければならないことも増えた。
そして、一人用の宿部屋で、四人分の距離感を運用するには。
明らかに盤面積が足りなかった。




