第18話 見つけてもらう日(挿絵有)
その夜、クラリスはなかなか眠れなかった。
宿の小さな部屋。
窓の外では、町の灯りが少しずつ落ちていく。
昼間の喧騒は遠く、聞こえるのは、時折吹く風の音と、建物のどこかが小さく軋む音だけだった。
白い頭布は、椅子の背に掛けてある。
金の髪はほどいたまま、肩から胸元へ流れていた。
クラリスは、両手を膝の上に置いていた。
癒やす手。
壊す手。
そのどちらでもある、自分の手。
きっと私は、ずっと泣いていたのかもしれません。
ふと、そんなことを思った。
痛かった。
怖がられることも。
距離を置かれることも。
助けた相手の目が、感謝ではなく怯えに変わることも。
痛くて。
痛くて。
だから、清楚に振る舞うようになった。
穏やかに笑って。
柔らかく話して。
人を癒やす僧侶として、怖くない顔を前に出す。
その習慣は、きっとこれからも変わらない。
私は僧侶ですから。
誰かが傷つけば、治すことはできる。
痛みを和らげることも。
血を止めることも。
壊れた場所を繋ぎ直すことも。
けれど。
私の心が傷ついても。
私も、他の誰も、それを治すことはできなかった。
治す術を知っているはずの私が。
自分の傷だけは、どうしていいか分からなかった。
なのに。
あの人は。
ぶっきらぼうな言葉で。
乱暴なくらい真っ直ぐな言い方で。
ただ、逃げずに傍にいてくれただけで。
こんなにも、私を治してしまった。
回復魔法ではない。
祈りでもない。
浄化でもない。
今の私では、きっと真似のできない回復魔法。
クラリスは、自分の胸元にそっと手を当てた。
まだ、そこに温かいものが残っている気がした。
「本当に、ずるいです」
小さく呟く。
誰にも聞こえない声だった。
「こんなことをされたら、私はもう」
クラリスは、目を伏せた。
「良樹くんのことしか、見えません」
◇
翌朝。
宿の食堂には、いつもの匂いがしていた。
焼いたパン。
薄いスープ。
煮込んだ豆。
冒険者たちの声。
椅子を引く音。
皿が卓に置かれる音。
良樹がいつもの卓へ向かうと、そこにはすでに三人がいた。
リシアは頬杖をつきながら、湯気の立つ杯を見ている。
カレンは両手で杯を持ち、どこか落ち着かない様子で背筋を伸ばしている。
そしてクラリスは、良樹の分の皿を静かに卓へ置いていた。
「おはようございます、良樹くん。ご飯、準備しておきました」
「おはよう、クラリス」
良樹は席に着きかけて、ふとクラリスを見た。
「……なんか雰囲気、変わったか?」
クラリスは、きょとんと首を傾げる。
「? いえ、特に何も。いつも通りだと思いますけど」
「んー、なんていうのかな」
良樹は少し考えた。
「今までは綺麗、だったんだけど」
「今は少し、可愛いというか」
クラリスの動きが止まった。
次の瞬間、白い頬がみるみる赤く染まっていく。
「……良樹くん」
「あ」
良樹は、自分が何を言ったのか一拍遅れて理解した。
「悪い。今のは、その、変な意味じゃなくてだな」
「変な意味では、ないのですか?」
「いや、変ではないが、そういう意味でもなくて……」
「そういう意味、とは?」
「待て。誘導尋問するな」
クラリスは赤い顔のまま、口元に手を添えた。
嬉しそうだった。
昨日までの、清楚に整えられた微笑みとは違う。
少し照れて、少し困って、それでも隠しきれていない笑み。
リシアは、その顔を見て匙を止めた。
確かに、違う。
昨日の練武場の後から、クラリスの雰囲気は少し変わった。
綺麗で、穏やかで、清楚な僧侶。
それは変わらない。
でも、その奥にあった硬さが、少しだけ解けている。
ずるい。
リシアはそう思った。
クラリスさん、昨日だけでどれだけ進んだのよ。
だが、リシアはまだ耐えられた。
良樹の最初を知っているのは自分だ。
良樹の隣で魔導盤を見るのも自分だ。
良樹が変なことを考えている時、最初に突っ込むのも自分だ。
だから、焦る。
焦るが、まだ立っていられる。
問題は、カレンだった。
カレンは、杯を両手で持ったまま固まっていた。
クラリスさんが、可愛い。
良樹さんが、そう言った。
昨日から雰囲気が変わったことは、カレンにも分かっていた。
練武場で二人きりになった後。
戻ってきたクラリスは、どこか柔らかかった。
清楚な僧侶のままなのに。
少しだけ、女の子になっていた。
リシアさんは、良樹さんの隣にいる。
クラリスさんは、良樹くんと呼び、昨日から少し変わった。
では、自分は。
カレンは、胸の奥で小さく息を吸った。
前へ。
それは、剣を構えて魔物の前に出る時だけの言葉ではなかった。
怖い。
声が震える。
断られたらどうしようと思う。
リシアさんとクラリスさんに見られている。
良樹さんに変に思われるかもしれない。
でも。
怖い場所を見ているだけでは、前には出られない。
戻れる道を確認して。
足を残して。
それでも、半歩だけ前へ。
カレンは杯を置いた。
ことん、と小さな音がした。
「よ、良樹さん!」
声が、少し裏返った。
良樹が顔を上げる。
「何だ?」
「あ、あ、あの」
カレンは胸元で両手を握った。
何を言うつもりだったのか。
何をどうしたかったのか。
頭の中には何もまとまっていなかった。
ただ、クラリスが少し変わった。
リシアは良樹の隣にいる。
自分だけが、何もしていない気がした。
だから。
前へ。
「今日、もし時間があったら」
一度、言葉が詰まる。
リシアが目を見開いた。
クラリスも、ほんの少しだけ口元の笑みを止めた。
カレンは、良樹を見る。
「お買い物に、付き合ってくれませんか!」
言った。
言ってしまった。
カレンは、その瞬間に理解した。
何を買うか。
どこへ行くか。
何を話すか。
何も決めていない。
完全に、勢いだった。
「ん? 構わねえよ」
良樹は、あっさりと言った。
「いつから行くんだ?」
カレンの思考回路が、そこで焼けた。
構わない。
良樹さんが。
構わない、と言った。
一緒に買い物に行ってくれる。
自分と。
今日。
買い物に。
どうしよう。
何も考えていない。
今すぐ行きたい。
今すぐは無理。
準備がいる。
心の準備もいる。
服も。
何を買うかも。
そもそも何を買えばいいのかも。
会いたい。
いや、目の前にいる。
でも、今すぐ二人で歩きたい。
違う。
落ち着け。
落ち着いてください、私。
「お、お昼からでお願いします!」
声がまた裏返った。
良樹は普通に頷く。
「分かった。昼飯の後だな」
「は、はい!」
カレンは、なんとか時間を稼ぐことに成功した。
リシアは、何も言わなかった。
言おうと思えば、言えた。
私も行くわ。
四人で行きましょう。
カレンだけずるい。
いくらでも言えた。
けれど、言わなかった。
昨日までの自分を思い出したからだ。
自分は、良樹と二人で魔法を見せた。
隣で出力を通した。
良樹に、リシアの制御が必要だと言われた。
あの時間を、誰にも邪魔されたくなかった。
なら、今のカレンの一歩を邪魔するのは違う。
リシアは、杯を持つ指に少しだけ力を込めた。
良樹が好きだ。
良樹の隣にいたい。
けれど。
良樹には、ちゃんと見てほしい。
自分だけではなく。
クラリスも。
そして、カレンも。
その上で、自分を選んでほしかった。
それは、悔しいくらい本音だった。
クラリスもまた、止めなかった。
良樹くんしか見えない。
昨夜、そう思った。
今朝も、その気持ちは少しも薄れていない。
むしろ、良樹くんに可愛いと言われてから、胸の奥はずっと落ち着かない。
それでも。
クラリスは、カレンを見ていた。
震える声で、前へ出た女の子。
何も決めていないまま、それでも良樹に手を伸ばした剣士。
止める理由はなかった。
自分も、昨日、順番をもらった。
清楚な僧侶の顔だけではなく。
癒やす手も。
壊す手も。
泣きそうな顔も。
良樹くんは、見てくれた。
なら今は、カレンさんの番です。
クラリスは、静かに微笑んだ。
リシアとクラリスの視線が、ほんの一瞬だけ合った。
言葉はない。
けれど、二人とも分かっていた。
止めない。
今日は、カレンが自分で前へ出た日だから。
◇
カレンは、部屋の中を何度も行ったり来たりしていた。
買い物。
良樹さんと、買い物。
自分で言った。
自分の口で言った。
良樹さんは、構わねえよ、と言ってくれた。
そこまではよかった。
問題は。
「……何を、買えばいいのでしょう」
何も決めていなかった。
革紐。
剣帯。
木剣の手入れ油。
予備の布。
髪紐。
小物入れ。
訓練用の手袋。
いくらでも候補はある。
けれど、どれも違う気がする。
剣士として必要なものなら、いつも通り一人で買えばいい。
良樹さんに付き合ってもらう理由が弱い。
では、服。
服は無理。
無理です。
良樹さんに服を選んでもらうなんて、それはもう買い物ではなく何か別の試練です。
髪飾り。
カレンは、その言葉を思い浮かべて、両手で顔を覆った。
「む、無理です……」
無理ではない。
たぶん。
他の女の子なら普通にできるのかもしれない。
でも、自分には無理だった。
良樹さんに、似合うかどうかを聞く。
良樹さんに、見てもらう。
良樹さんに、選んでもらう。
考えただけで、胸の奥が熱くなる。
けれど。
それが、してみたいのだと気づいてしまった。
カレンは、ベッドに腰を下ろした。
すぐに立ち上がった。
また部屋を歩いた。
何を着ていくかも決まっていない。
剣士らしい服。
動きやすい服。
可愛い服。
可愛い服。
その単語だけで、また顔が熱くなる。
「ち、違います。買い物です。普通の、買い物です」
誰も聞いていない部屋で、カレンは小さく言い訳をした。
気づけば、朝食からかなりの時間が過ぎていた。
窓の外では、朝の光が高くなっている。
宿の下から聞こえていた朝食の声はもうなく、代わりに昼前の仕込みを始める音が聞こえ始めていた。
このままでは、昼になってしまう。
何も決めていないまま。
何を買うかも。
どこへ行くかも。
どう歩くかも。
その時。
こん、こん。
部屋の扉が、控えめに叩かれた。
「ひゃいっ!?」
カレンは、変な声を出した。
慌てて部屋を見回す。
椅子の背に掛けた訓練用の上着。
ベッドの上に並べた革紐。
机の上の木剣用の油。
なぜか取り出してしまった髪紐。
そして、開いたままの小箱。
カレンは、小箱を両手で掴んで閉じた。
「カレン、入っていい?」
リシアの声だった。
「リ、リシアさん?」
「私もいます」
続いて、クラリスの柔らかな声が聞こえる。
「ク、クラリスさんまで!?」
「ええ」
「ま、待ってください! 少しだけ! 少しだけ待ってください!」
「待たないわよ」
「待ってください!」
「では、三呼吸だけ待ちます」
「クラリスさん、優しい声で短いです!」
カレンは慌てて小箱を布の下へ押し込み、髪紐を掴んで机の端へ寄せ、革紐をなぜか剣帯の上に重ねた。
何も片付いていない。
むしろ、悩んでいた証拠だけが部屋中に散らばっている。
「い、今開けます……」
カレンは顔を真っ赤にしたまま、扉を開けた。
扉の向こうには、リシアとクラリスが立っていた。
リシアは腕を組んでいる。
クラリスはいつものように穏やかに微笑んでいる。
二人とも、部屋の中を一目見た。
そして、何も言わなかった。
何も言わなかったことが、逆にすべてを語っていた。
「……決まってないのね」
リシアが言った。
「……はい」
カレンは消えそうな声で答えた。
「勢いだけで誘ったのですね」
クラリスが優しく言った。
「……はい」
「知ってたわ」
「分かっていました」
「そ、そんなに分かりやすかったですか……?」
リシアとクラリスは、同時に頷いた。
「分かりやすかったわ」
「とても」
カレンは両手で顔を覆った。
「うう……」
リシアは小さく息を吐き、部屋へ入った。
クラリスも続く。
「このままだと、剣士の買い出しね」
「そ、それでは駄目ですか?」
「駄目ではないわ」
リシアは腕を組んだ。
「でも、今日やりたいのは、それだけじゃないんでしょ」
カレンの顔が赤くなる。
「……はい」
クラリスは、穏やかに微笑んだ。
「では、まず服からですね」
「ふ、服ですか」
「はい。良樹くんに見つけてもらう日ですから」
「み、見つけ……」
カレンは言葉を失った。
リシアは、部屋の隅に掛かっていた服へ目を向ける。
「いつもの訓練服は駄目ね」
「だ、駄目ですか」
「悪くはないわ。でも、いつものカレンすぎる」
「いつもの私……」
「そう。良樹はもう、剣士のカレンは見てる」
リシアは、カレンを見た。
「今日は、少し違うところを見せなさい」
クラリスが一着のワンピースを手に取った。
淡い色の、膝丈より少し下まであるワンピース。
派手ではない。
けれど、いつもの短い訓練用スカートとはまるで違う。
「こちらはどうでしょう」
「わ、ワンピースですか!?」
「はい」
クラリスはにこりと笑う。
「普段のカレンさんは、動きやすさを優先しています」
「ですから、今日は少しだけ、女の子らしく」
「お、女の子らしく……」
カレンは両手で顔を覆った。
リシアは、その反応を見て少しだけ笑う。
「いいじゃない」
「普段とのギャップは大事よ」
「ぎゃ、ギャップ……」
「そう。良樹に、あれ、と思わせるの」
「良樹さんに、あれ、と……」
カレンの思考回路が、また危なくなった。
クラリスは、今度は髪紐を手に取る。
「髪も変えましょうか」
「髪も、ですか」
「いつもは後ろで結んでいますよね」
「はい。邪魔にならないので」
「今日は、片側に流しましょう」
クラリスは、自分の肩のあたりを指で示した。
「サイドテール、ですね」
「少し低めに結んで、肩の前へ流す形です」
「そ、それは……」
「可愛いと思います」
即答だった。
カレンは完全に赤くなった。
「む、無理です……」
「無理ではありません」
「似合わなかったら……」
「似合います」
クラリスの声は柔らかい。
だが、逃がさない。
リシアも頷いた。
「似合うわよ」
「というか、似合わないなら私たちが止めるわ」
「そ、そういう問題ですか……?」
「そういう問題よ」
その後、カレンはほとんど着せ替え人形になった。
ワンピースを合わせられる。
腰紐を変えられる。
髪をほどかれる。
クラリスの指が慣れた手つきで髪を梳き、リシアが横から少しだけ位置を直す。
「少し右ね」
「こちらですか?」
「そう。肩に落ちる感じで」
「では、ここで結びますね」
「ま、待ってください。そんなに見ないでください……」
「見ないと整えられないでしょ」
「そうです。確認です」
「確認という言葉が最近怖いです……」
クラリスは微笑んだまま、カレンの髪を片側に流して結んだ。
いつもの後ろにまとめた髪ではない。
片側の肩へ落ちるサイドテール。
それだけで、カレンの印象は大きく変わった。
剣を持って前へ出る少女ではなく。
今日だけは、誰かを待つ女の子に見えた。
カレンは、姿見の前に立たされた。
淡いワンピース。
片側に流したサイドテール。
いつもの訓練用の革帯ではなく、細い腰紐。
足元は歩きやすい靴。
そこに映っていたのは、いつもの剣士の自分ではなかった。
弱そうに見える。
守られる側に見える。
落ち着かない。
けれど。
少しだけ、女の子に見えた。
「……変では、ないですか」
カレンが小さく聞く。
「変じゃないわ」
リシアが言った。
「可愛いわよ」
カレンの肩が跳ねた。
クラリスも微笑む。
「はい。とても可愛いです」
「そ、そんな……」
カレンは視線を落とした。
嬉しい。
でも怖い。
この格好で良樹の前に立つ。
良樹さんに見られる。
そう考えただけで、胸が痛いくらい鳴る。
「私、ちゃんと行けるでしょうか」
その声は、剣士のものではなかった。
怖がりの女の子の声だった。
リシアは少しだけ黙った。
クラリスも、すぐには答えなかった。
やがて、リシアが息を吐く。
「頑張りなさい、とは言ってあげられないわ」
カレンが顔を上げる。
「え……」
「だって、私も良樹が好きだもの」
リシアは、まっすぐカレンを見た。
「良樹の隣にいたい」
「良樹に選んでほしい」
「だから、あなたを応援するなんて、そんな綺麗なことは言えない」
カレンは何も言えなかった。
けれど、リシアの声は冷たくなかった。
「でも」
リシアは続けた。
「私には、もう順番が来た」
「良樹は私を見てくれた」
「私の魔法も、私の悩みも」
「隣に立つ私も」
リシアは、少しだけ目を逸らす。
「だから、次はカレンの番よ」
クラリスも、静かに頷いた。
「私も、頑張りなさいとは言えません」
カレンは、クラリスを見る。
クラリスはいつものように微笑んでいた。
けれど、その目は真剣だった。
「私も、良樹くんが好きです」
「良樹くんしか見えないくらいに」
言葉にしてから、クラリスは少しだけ頬を染めた。
「ですから、カレンさんを応援する、と簡単には言えません」
そして、柔らかく笑う。
「でも、私も順番をいただきました」
「清楚な僧侶の顔だけではなく」
「癒やす手も、壊す手も」
「泣きそうだった私も」
「良樹くんは、見てくれました」
クラリスは、カレンの肩にそっと手を置いた。
「だから、あとはカレンさんだけです」
カレンの目が揺れる。
「私だけ……」
「はい」
クラリスは言った。
「良樹くんに、見つけてもらってください」
カレンは、姿見の中の自分を見た。
いつもの自分ではない。
でも、嘘の自分でもない。
リシアとクラリスが整えてくれた自分。
良樹に見つけてもらうために、ほんの少しだけ前に出た自分。
カレンは、胸元で両手を握った。
「……はい」
小さな返事だった。
けれど、逃げてはいなかった。
◇
昼過ぎ。
良樹は宿の食堂へ降りてきた。
約束は昼から。
だが、カレンの姿が見えない。
卓には、リシアとクラリスがいた。
「カレン、見てないか?」
良樹が聞くと、リシアは一拍だけ黙った。
隣でクラリスが、いつものように穏やかに微笑む。
「カレンなら、町の噴水広場で待ってるって言ってたわ」
「噴水広場?」
「はい」
クラリスが頷いた。
「宿の前では、少し恥ずかしいそうです」
「先に行って待っています、と」
「そうか」
良樹は少しだけ首を傾げた。
「一緒に出ればよかったのに」
リシアの眉が、ぴくりと動いた。
「良樹」
「何だ」
「そこは、何も言わずに行きなさい」
「お、おう」
クラリスも微笑んだ。
「良樹くん」
「何だ」
「今日は、ちゃんとカレンさんを見てあげてくださいね」
「見る?」
「はい」
クラリスは、少しだけ目を細める。
「いつもより、少し頑張っていますから」
良樹は、そこでようやく何かを察したような顔になった。
「……分かった」
そう言って、良樹は宿を出ていった。
扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
少しの沈黙。
リシアは、卓に両手をついた。
「……ぐぬぬ」
クラリスも、口元に手を添えたまま静かに息を吐く。
「……ぐぬぬ、ですね」
「あなたも言うのね」
「はい」
「今のは、言う場面かと」
「言う場面よ」
リシアは悔しそうに、良樹が出ていった扉を見た。
「分かってるのよ」
「今日はカレンの番だって」
「あの子が頑張ってるのも分かってるのよ」
「はい」
「でも」
「はい」
「悔しいものは悔しいわ!」
クラリスは、清楚に微笑んだ。
「同感です」
「私も、良樹くんに見ていただきたいです」
「昨日さんざん見てもらったでしょうが」
「リシアさんも、一昨日さんざん隣にいたではありませんか」
「それはそれ、これはこれよ」
「はい」
「それはそれ、これはこれですね」
二人は、しばらく無言で扉を見つめた。
そして、同時に小さく呟いた。
「「ぐぬぬ……」」
それでも、二人は追いかけなかった。
良樹の後を追って、噴水広場へ行くことはできた。
偶然を装って合流することもできた。
いくらでも、邪魔はできた。
でも、しなかった。
今日は、カレンが自分で前へ出た日だから。
悔しくても。
羨ましくても。
ぐぬぬ、でも。
その一歩だけは、踏みにじれなかった。
◇
噴水広場は、昼過ぎの人で賑わっていた。
行商人。
買い物帰りの女たち。
荷物を抱えた少年。
噴水の縁に腰掛けて休む老人。
その周りを走り回る子どもたち。
良樹は、広場の入口で足を止めた。
「噴水広場って、ここだよな」
リシアとクラリスに聞いた場所は間違っていない。
だが、カレンの姿が見当たらなかった。
剣帯。
訓練用の上着。
動きやすい短いスカート。
後ろで結んだ髪。
いつものカレンを探す。
だが、いない。
噴水の近くも見た。
露店の前も見た。
広場の端も見た。
いない。
「……場所、間違えたか?」
良樹はもう一度、広場を見回した。
カレンは目立つ方ではない。
人混みに紛れれば見つけにくいかもしれない。
だが、約束を忘れるような子ではない。
先に帰るとも思えない。
となると。
「……名前、呼ぶか?」
良樹は噴水広場の真ん中で、少しだけ迷った。
この人混みでカレンの名前を叫ぶ。
目立つ。
かなり目立つ。
しかも、カレンはたぶん真っ赤になる。
やめた方がいい気もする。
だが、見つからない。
良樹が息を吸いかけた、その時だった。
「……あ、あの」
すぐ近くから、小さな声がした。
若い女性の声。
良樹は振り向いた。
そこに、一人の女の子が立っていた。
淡い色のワンピース。
片側の肩へ流れるように結ばれた髪。
胸元で握られた両手。
顔は耳まで真っ赤で、視線は地面に落ちている。
可愛らしい女の子だった。
良樹は、一瞬、誰だか分からなかった。
それから、髪の色を見た。
目元を見た。
赤くなった頬と、震える指先を見た。
そして、ようやく気づく。
「…………カレンか??」
女の子の肩が、びくりと跳ねた。
「は、はい……」
消えそうな声。
間違いなかった。
カレンだった。
「へ、変ですか……?」
カレンが、小さく聞いた。
良樹は答えなかった。
「………………」
ただ、黙ってカレンを見ていた。
カレンの胸の奥が、冷たくなる。
やっぱり。
やっぱり、変だったのだろうか。
いつもの服ではない。
剣士らしくもない。
リシアとクラリスに整えてもらったとはいえ、自分には似合っていないのかもしれない。
「や、やっぱり変ですか」
「いや……そうじゃなくて」
良樹は、ようやく口を開いた。
だが、言葉がすぐに続かない。
「なんて言えば良いのか分からねえ」
「……はい」
「カレンなのに、いつものカレンとは全然違う」
カレンの指が、胸元で強く握られる。
良樹は、視線を逸らしかけて、やめた。
ちゃんと見る。
今日のカレンは、たぶんそのために来た。
「その、なんだ」
良樹は、頭をかいた。
「多分。いや、多分じゃねえ」
一度、息を吐く。
「可愛くて、最初誰だか分からなかった」
「すまねえ」
カレンは、何も言えなかった。
ただ、顔が一気に熱くなる。
変ではなかった。
似合っていないわけでもなかった。
良樹さんは、分からなかったのだ。
いつもの私ではなかったから。
可愛いと、思ってくれたから。
胸の奥で、何かが小さく弾けた。
「……いえ」
カレンは俯いたまま、消えそうな声で答えた。
「よかった、です」
「よかった?」
「はい……」
「見つけてもらえたので」
良樹は、その言葉の意味をすぐには掴めなかった。
けれど、カレンが泣きそうなくらい嬉しそうにしていることだけは分かった。
「……そうか」
「はい」
カレンは小さく頷く。
「その、今日はよろしくお願いします」
「ああ」
良樹は少しだけ照れくさそうに視線を逸らした。
「こちらこそ」
◇
そこからの時間は、驚くほど普通だった。
普通に、二人で歩いた。
市場通りを並んで進み、露店を覗き、小物屋の前で足を止める。
革紐を見て、剣帯を見て、木剣の手入れに使う油を見た。
それは、確かに買い物だった。
ただし、カレンにとっては、何もかもが普通ではなかった。
良樹さんが隣にいる。
それだけで、道の幅が変わったように感じる。
露店の品物を見ているだけなのに、横に良樹がいることが分かる。
声をかけられるたびに、心臓が跳ねる。
「カレン、これ使うのか?」
「え、あ、はい。剣帯の補修に使えます」
「なら買っとくか」
「はい」
普通の会話。
でも、嬉しい。
少し歩いた先で、小物屋に入った。
木の棚には、髪紐や小さな髪飾り、細い革紐、飾り付きの留め具などが並んでいる。
カレンは最初、剣帯に使える革紐を見ていた。
そのはずだった。
けれど、視線はいつの間にか、棚の端に置かれた小さな髪飾りへ向かっていた。
白と青の小さな飾り。
派手ではない。
けれど、今日の自分の髪に合いそうな気がした。
「それ、気になるのか?」
良樹が言った。
「い、いえ。見るだけです」
「見るだけなら、ちゃんと見ればいいだろ」
「ちゃんと……」
「欲しいかどうかは、見てから決めればいい」
良樹は何でもないように言った。
けれど、カレンには少しだけ眩しかった。
欲しいと思っていい。
見たいものを見ていい。
そう言われた気がした。
カレンは、おそるおそる髪飾りに手を伸ばした。
「……可愛い、ですね」
「ああ」
良樹は、少し眺めてから言った。
「これなんか、似合いそうだけどな」
「え」
「今の髪なら、こっち側につけた方がいいんじゃねえか」
良樹は、カレンのサイドテール側を指で示した。
カレンの呼吸が止まる。
「……良樹さんが、選んでくれるんですか」
「嫌ならやめる」
「い、嫌じゃないです!」
声が少し大きくなった。
店主がちらりとこちらを見る。
カレンは慌てて小さくなる。
「す、すみません……」
「いや」
良樹は少し笑った。
「じゃあ、それにするか」
「……はい」
カレンは、髪飾りを両手で持った。
ただの小さな飾りだった。
剣の役には立たない。
防具にもならない。
魔物を倒す力もない。
けれど、今のカレンには、とても大事なものに思えた。
良樹さんが、選んでくれたもの。
その後、二人は甘味屋へ寄った。
リシアとクラリスが、買い物の後に行くならこの店が良い、と教えてくれた場所だった。
薄く焼いた生地に、果物を煮詰めた甘いものを包んだ菓子。
上には白いクリームのようなものが少し乗っている。
カレンは、向かいの席でそれを小さく切った。
緊張しすぎて、大きく口を開けられない。
良樹は一口食べて、少し目を丸くした。
「うまいな、これ」
「はい」
「カレン、甘いの好きなのか?」
「……好き、です」
「なら、来てよかったな」
「はい」
それだけの会話だった。
けれど、カレンは泣きそうなくらい嬉しかった。
甘いものを好きだと言った。
良樹さんが、来てよかったと言った。
たったそれだけ。
でも、良樹さんが自分の好きなものを一つ知ってくれた。
「カレン」
「はい?」
「口元」
「えっ」
良樹は自分の口元を指で示した。
「こっち」
カレンは慌てて布で口元を拭う。
「と、取れましたか」
「逆」
「ひゃいっ」
今度は反対側を拭く。
「取れた」
「す、すみません……」
「謝ることじゃねえだろ」
良樹はそう言って、また菓子を食べた。
カレンは布を握ったまま、しばらく動けなかった。
恥ずかしい。
恥ずかしいけれど、嫌ではなかった。
◇
日が傾き始める頃、町の通りは少しずつ色を変えていた。
昼間は白く見えた石畳が、橙色に染まっている。
露店の店主たちは片付けを始め、子どもたちの声も少し遠くなっていた。
カレンは、胸元で小さな包みを抱えていた。
良樹が選んでくれた髪飾り。
それから、予定になかった小さなリボン。
革紐と、木剣の手入れ油も買った。
ちゃんと買い物はできた。
できた、はずだった。
楽しかった。
とても。
けれど、ふと不安になった。
自分は楽しかった。
では、良樹さんは。
「よ、良樹さん」
「おう」
「あ、あの」
カレンは包みを抱く手に、少し力を込めた。
「良樹さんは、今日、楽しかったですか」
良樹は、すぐには答えなかった。
「…………いや」
「正直いうとな」
カレンの胸が、冷たくなる。
「楽しくはあったんだけどよ」
「はい…………」
だめだった。
そう思った。
楽しくはあった。
けれど、それだけ。
自分が緊張しすぎて。
うまく話せなくて。
良樹さんを困らせてばかりで。
カレンは、包みを抱く手に力を込めた。
「その、な」
「なんつーか、緊張しちまってよ」
「緊張、ですか?」
「ああ」
「カレンだけど、カレンじゃないというか」
「俺も、こういうのにそこまで慣れてねえから」
良樹は頭をかいた。
「だから緊張しちまった」
「心配させて悪い」
カレンは、ゆっくり顔を上げた。
「緊張、ですか」
「それは、怖いということですか?」
「あー、いや、その」
良樹は少し困った顔をした。
「そりゃ、こんな可愛い子とデートなんてしたことねえから」
「緊張くらいするわ」
「ッッ……!」
カレンは声にならない声を漏らした。
可愛い子。
デート。
良樹さんが、そう言った。
楽しくなかったのではなかった。
困らせただけではなかった。
良樹さんも、緊張していた。
理由は。
自分を、可愛い子として見てくれていたから。
カレンは、胸の前で包みを抱いたまま、しばらく俯いていた。
心臓がうるさい。
今日、何度も思った。
言えない。
無理。
怖い。
ここまでで十分。
でも。
良樹さんも、緊張していた。
怖いのは、自分だけではなかった。
それなら。
最後に、もう一つだけ。
「あ、あの、良樹さん」
「おう」
「最後に一つだけ、お願いしてもいいですか」
「おう、いいぜ」
良樹は、少し冗談めかして笑った。
「役得だ」
その笑顔に、カレンの胸がまた苦しくなる。
逃げるなら、今だった。
笑って、何でもありませんと言えばいい。
でも、カレンは逃げなかった。
「…………宿の近くまで」
一度、言葉が震える。
「手を繋いで帰ってもらえませんか」
良樹の笑顔が、固まった。
良樹の頭の中で、何かが静かに詰んだ。
将棋で言うなら、詰み。
チェスで言うなら、チェックメイト。
逃げ道はない。
いや、逃げ道を探すこと自体が間違っている。
カレンは、真正面からお願いしている。
顔を真っ赤にして。
声を震わせて。
それでも逃げずに。
手を繋いで帰ってほしいと、言っている。
これを茶化すのは違う。
聞こえなかったふりをするのも違う。
意味を取り違えたふりをして逃げるのは、もっと違う。
――女に恥をかかせるな。
父の声が、頭の奥で鳴った。
上村十鉄は、恋愛の作法を細かく教えるような男ではなかった。
花の贈り方も、気の利いた誘い文句も、息子に教えたことはない。
ただ、ひとつだけ。
勇気を出した女を、笑うな。
差し出された手を、雑に払うな。
断るなら、逃げずに断れ。
受けるなら、ちゃんと受けろ。
女に恥をかかせるな。
その言葉だけは、良樹の中に残っていた。
良樹は、息を吐いた。
「……宿の近くまででいいのか」
カレンの肩が跳ねる。
「え?」
「いや」
「手、繋ぐんだろ」
良樹は、少しだけ視線を逸らした。
「宿の近くまでで、いいのかって聞いただけだ」
カレンの顔が、ゆっくり赤くなる。
「……はい」
小さく頷く。
「今日は、私の番をもらいましたから」
良樹は、その言葉ですぐには理解できなかった。
けれど、カレンの顔を見て、少しだけ分かった。
リシア。
クラリス。
今日、二人はカレンを送り出した。
邪魔をしなかった。
きっと、悔しくないはずがない。
カレンは、それを分かっている。
だから宿までではなく、宿の近くまでと言ったのだ。
自分のわがままを通す。
でも、見せつけるようなことはしない。
怖がりで。
おどおどしていて。
それでも、ちゃんと人の痛みを見る子だった。
「……そうか」
「はい」
「分かった」
「宿の近くまでな」
カレンは、少しだけほっとしたように微笑んだ。
「はい」
「でも」
「え?」
「そこまでは、ちゃんと繋ぐぞ」
良樹は、右手を差し出した。
「途中で遠慮して離すなよ」
「そこまでが、今日の約束だ」
カレンの目が、少しだけ揺れた。
「……はい」
良樹は、右手を差し出したまま言った。
「帰るか」
カレンは、震える手を伸ばした。
指先が触れる。
それだけで、二人とも少し止まった。
それから、良樹がそっと握った。
強すぎず。
弱すぎず。
逃げようと思えば、逃げられる。
でも、離れなくてもいい握り方だった。
カレンは、その手を見た。
大きな手だった。
工具を握る手。
魔導盤を組む手。
自分に戻れる道をくれた手。
今日は、その手が、自分の手を握っている。
カレンは、小さく息を吸った。
怖い。
恥ずかしい。
でも、離したくない。
「良樹さん」
「何だ」
「……ありがとうございます」
「こっちの台詞だろ」
「え?」
「誘ってくれて、ありがとな」
カレンは、もう何も言えなかった。
◇
宿の明かりが見えてきた。
もう少し歩けば、入口が見える。
その少し手前で、カレンは足を止めた。
良樹も、何も言わずに止まった。
手は、まだ繋がれている。
カレンは少しだけ名残惜しそうに、その手を見た。
それから、ゆっくりと指をほどく。
良樹も、無理に引き止めなかった。
ここまで。
それが、カレンの引いた線だった。
今日、自分はたくさんのわがままを言った。
良樹と二人で買い物をした。
良樹に可愛いと言ってもらった。
良樹に髪飾りを選んでもらった。
良樹と手を繋いで帰った。
十分すぎるくらい、順番をもらった。
だから、ここで手を離す。
リシアさんと、クラリスさんのために。
そして、自分が明日も二人の顔をちゃんと見られるように。
カレンは、両手で包みを抱え直した。
「良樹さん」
「おう」
「今日は、ありがとうございました」
「ああ」
良樹は少しだけ照れくさそうに笑った。
「俺も、楽しかった」
カレンの胸が、また熱くなる。
「はい」
小さく頷いた。
宿へ向かって、二人は並んで歩き出す。
手は、もう繋いでいない。
けれど、さっきまで繋いでいた温かさは、まだ掌に残っていた。
今日、自分は前に出た。
剣を抜いてではない。
魔物の前でもない。
ただ、好きな人に声をかけて。
待ち合わせをして。
隣を歩いて。
最後に、手を繋いでほしいと頼んだ。
それだけ。
けれど、カレンにとっては、確かな一歩だった。
怖かった。
今も怖い。
でも。
良樹さんは、手を取ってくれた。
宿の近くまで、ちゃんと繋いでくれた。
カレンは、胸元の包みを抱きしめる。
良樹さんが選んでくれた髪飾り。
今日の自分を、見つけてもらった証。
カレンは、小さく笑った。
今日、カレンは少しだけ、前へ出た。




