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第17話 癒やす手と、壊す手(挿絵有)

 翌朝。


 ギルド裏の練武場には、まだ人が少なかった。


 朝の空気は少し冷えている。

 踏み固められた土の床には、昨日の誰かの足跡が薄く残っていた。

 壁際には訓練用の木剣と、古びた的。

 隅には水桶と、休憩用の長椅子。


 良樹は、その中央で腕を組んでいた。


 目の前にはクラリスがいる。


 白い法衣。

 穏やかな微笑み。

 柔らかな物腰。


 いつもの清楚な僧侶だった。


 少なくとも、まだ。


「クラリス」


「はい、良樹くん」


「昨日の動き、もう一回見せてくれ」


 クラリスは、ほんの少しだけ首を傾げた。


「昨日の動き、ですか?」


「ああ」

「オーク相手にやったやつだ」

「杖で払って、手放して、拳と蹴りで崩しただろ」


「あれは、護身術です」


「護身の出力じゃねえって昨日も言った」


 良樹がそう言うと、少し離れた場所でリシアが小さく頷いた。


「それは私も思うわ」


 カレンも胸元で両手を握ったまま、こくこくと頷く。


「わ、私も……少し、そう思います」


 クラリスは、二人を見てから、静かに微笑んだ。


「皆さんまで」


「皆が思う程度には護身の範囲を超えてるんだよ」


 良樹は続けた。


「ただ、敵を倒すためじゃねえ」

「お前がどこを使ってるかを見たい」


「身体確認、ですか?」


「ああ」

「今回は、俺がお前を見る」


 クラリスの指が、ほんの少しだけ止まった。


「良樹くんが、私を?」


「変な意味じゃねえぞ」

「手首、肘、肩、腰、膝、足首」

「どこに負荷が乗ってるか見る」

「昨日、リシアの手首を見ただろ」

「お前だって同じだ」


「……はい」

「分かっています」


 分かっています。


 そう言ったクラリスの顔は、分かっているだけの顔ではなかった。


 リシアが、横目でそれを見る。

 カレンも、少しだけ不安そうにクラリスを見た。


 良樹はそこまでは気づかなかった。


 いや、気づいていないことにした。


 今は、見る場所が多すぎる。


「じゃあ、頼む」


「はい」


 クラリスは、杖を壁に立てかけた。


 そして、いつもの白い頭布へ指をかける。


「少し、動きやすくしますね」


「おう」


 良樹は何気なく頷いた。


 頷いてから、すぐに後悔した。


 クラリスが、頭布を外した。


 薄い白布の下から、淡い金の髪がほどける。

 朝の光を含んだような長い髪が、肩から背中へ流れ落ちた。


 いつものクラリスは、清楚な僧侶だった。

 白い法衣。

 穏やかな微笑み。

 柔らかな声。

 髪を隠した、祈る人の姿。


 だが今、目の前にいるクラリスは少し違った。


 頭布を外し、長い金髪を片手でまとめる。

 白い指が髪を梳く。

 細い首筋が露わになる。

 汗の薄い光を帯びた白いうなじが、朝の光を受けていた。


 良樹の視線が、一瞬止まった。


 止まったことに、クラリスは気づいた。


 気づいたうえで、何も言わなかった。


 クラリスは髪紐を口元にくわえ、金の髪を後ろで束ねる。


 両腕が上がる。


 その動きで、白い法衣の胸元がわずかに引かれた。

 首から鎖骨にかけての線が、いつもよりはっきり見える。


 僧侶の服は、露出の多いものではない。

 むしろ肌を隠すための服だ。


 だが、隠しているからこそ。

 普段は見えない場所が少し見えるだけで、妙に目が行く。


 白いうなじ。

 細い首。

 汗ばんだ鎖骨。

 髪をまとめるために上がった腕。

 法衣の奥で、呼吸に合わせてわずかに動く胸元。


 良樹は、見ないようにした。


 見ないようにした時点で、見ているのと同じだった。


 リシアが、少し離れた場所で低く呟く。


「……服を変えないで、あそこまでやるのね」


 カレンが、両手を胸元で握る。


「ク、クラリスさん……大人です……」


 クラリスは、聞こえていないふりをした。


 聞こえていないふりをしながら、最後に髪紐をきゅっと締める。


 金の髪が、高い位置で揺れた。

 白いうなじが、完全に見える。


 良樹は、視線を逸らした。


「良樹くん」


「何だ」


「見るための稽古では?」


「……そうだった」


「では、見てください」


 クラリスは、清楚に微笑んだ。


「どこに力が入るのか」

「どこが壊れやすいのか」

「ちゃんと、見てくださいね」


 良樹は深く息を吐いた。


 見る。

 見る必要がある。


 手首。

 肘。

 肩。

 腰。

 膝。

 足首。

 重心。

 踏み込み。

 反動。


 見るべき場所はいくらでもある。


 だから、首筋を見る必要はない。

 鎖骨を見る必要もない。

 髪を結び直す時に、法衣の胸元がどう動くかを確認する必要もない。


 ない。


 ないはずだ。


 だが、現場確認というものは、見えたものを見なかったことにしていいわけではない。


「……安全確認が難しすぎる」


「何か言いましたか?」


「何も」


 クラリスは杖を取った。


 さきほどまでの柔らかい空気が、少しだけ変わる。


 白い法衣。

 金の髪。

 汗ばんだうなじ。

 清楚な微笑み。


 そのまま、彼女は杖の石突きを地面に落とした。


 音は小さい。


 だが、良樹の目には分かった。


 立ち方が変わった。


 祈る僧侶の立ち方ではない。

 人を癒やすために膝をつく者の立ち方でもない。


 踏み込める。

 払える。

 崩せる。

 止められる。


 そういう立ち方だった。


「行きます」


「ああ」


 クラリスが動いた。


 杖が横へ流れる。


 速い。

 だが、荒くない。


 打つのではない。

 払う。

 絡める。

 重心を外す。


 仮想の敵の膝を落とし、肩を流し、呼吸の入る場所を潰す。


 その動きの途中で、クラリスは一度杖を手放した。


 良樹の目が細くなる。


 右拳。

 鎖骨下。

 鳩尾。

 肋骨の隙間。


 呼吸音。


「シッ」


 最後に、腰を半歩沈める。

 脇腹へミドルキック。


 空気が鳴った。


 クラリスは、そのまま一歩下がり、杖を拾った。

 金のポニーテールが、遅れて揺れる。


「……僧侶?」


「護身術です」


「だから護身の出力じゃねえ」


 良樹は思わずそう言った。


 クラリスは、ほんの少しだけ楽しそうに微笑んだ。


「良樹くん」


「何だ」


「どこを見ていましたか?」


「手首」

「肘」

「肩」

「腰」

「膝」

「足首」

「最後の蹴りは、反動を腰で受けてる」

「右手首にも少し乗ったな」

「あと、杖を手放す瞬間に肩が一瞬だけ浮く」


 クラリスの目が、ほんの少し見開かれた。


「よく見ていますね」


「見るって言ったからな」


「……はい」


 クラリスは、静かに頷いた。


 嬉しそうだった。


 それから、少しだけ不安そうでもあった。


 良樹はその顔に気づき、言葉を待った。


 クラリスは、杖を両手で持ったまま、少しだけ黙った。


「良樹くん」


「おう」


「少しだけ、二人で話してもいいですか」


 リシアの眉が、わずかに動いた。


 カレンも、クラリスを見る。


 クラリスは、いつもの清楚な微笑みを浮かべていた。

 だが、それは少し薄かった。


 リシアは、小さく息を吐いた。


「カレン」


「は、はい」


「少し、水を取ってきましょう」


「え、でも……」


「これは、クラリスさんの番よ」


 カレンは、はっとしたようにクラリスを見る。


 頭布を外し、髪を結ったクラリス。

 杖を持って立つ、清楚な僧侶ではないもう一つの顔。

 その顔が、少しだけ揺れている。


 カレンは、胸元で両手を握った。


「……はい」

「分かりました」


 それから、クラリスへ向き直る。


「クラリスさん」


「はい」


「……大丈夫です」

「良樹さんは、ちゃんと聞いてくれます」


 クラリスの目が、少しだけ大きくなる。


「ありがとうございます、カレンさん」


 リシアは良樹を見る。


「良樹」


「何だ」


「ちゃんと聞いてあげて」


「ああ」


「変なところで逃げないのは知ってるけど」

「変なところで余計なことは言うから」


「信用されてるのか、されてないのか分からねえな」


「信用はしてるわよ」


 リシアは、少しだけ笑った。


「だから任せるの」


 そう言って、リシアとカレンは練武場を出ていった。


 足音が遠ざかる。


 残ったのは、良樹とクラリスだけだった。


   ◇


 練武場の床は、昼の熱を少しだけ残していた。


 良樹は壁を背にして座っている。

 クラリスは、その隣に座っていた。


 近い。


 肩が触れるほどではない。

 いや、正確には、もう何度か触れている。


 白い頭布は、少し離れた長椅子の上に畳まれている。

 クラリスの金の髪は、後ろで一つに結ばれていた。


 いつもの清楚な僧侶とは、少し違う。

 けれど、僧侶でなくなったわけではない。


 祈る人の顔。

 戦う人の顔。

 癒やす人の顔。

 壊す場所を知っている人の顔。


 その全部を、良樹は隣で見ていた。


「前から聞きたかった」


 良樹は言った。


「僧侶ってのは、普通そんな動きをするのか」


「普通ではありません」


「だろうな」


 クラリスは、少しだけ笑った。


「ですが、私の家では普通でした」


「家?」


「はい」

「私の家は、代々、修行僧の家系です」

「癒やしと武を、両方扱う家でした」


「……修行僧」


「神殿で祈るだけではなく、村を巡り、戦場跡へ行き、魔物に襲われた場所へ入り、怪我人のところまで辿り着く」

「そのために、祈りも、回復魔法も、杖も、拳も、足も、全部使います」


「全部盛りか」


「はい」

「全部必要だと教わりました」


 良樹は、クラリスの手を見る。


 白い手。

 細い指。

 僧侶らしい、柔らかな手。


 だが、その手が人の重心を崩し、呼吸を止める場所を知っていることを、良樹はもう知っている。


「それで、子供の頃からか」


「はい」

「歩き方からです」


「歩き方?」


「倒れにくい歩き方です」

「次に、転び方」

「その次に、起き上がり方」

「杖の持ち方」

「人の支え方」

「手首の外し方」

「呼吸の止め方」

「関節の逃がし方」

「骨を折らずに膝を落とす方法」

「骨を折るしかない時の折り方」


「途中から明らかに物騒になったな」


「必要な知識です」


「必要の幅が広すぎる」


 クラリスは、静かに微笑んだ。


「癒やす者ほど、倒れてはならない」

「祈る手は、届かなければ意味がない」

「杖は、祈りの支えであり、歩けぬ者の支えであり、襲う者を退ける支えである」

「そう教わりました」


 良樹は、少しだけ目を細めた。


「いい言葉だな」


「はい」

「私も、そう思っていました」


 その過去形に、良樹は少しだけ引っかかった。


「今は違うのか」


「違う、というより」


 クラリスは、自分の手を見た。


「世に出てみると、思っていたより難しかったのです」


「難しい?」


「若い頃は、役に立ちたいと思っていました」

「怪我人を助けたい」

「仲間を守りたい」

「癒やす手を、届かせたい」

「そう思って、覚えたものをそのまま使いました」


「それで?」


「助けた方に、泣かれました」


「礼を言われたんじゃなくて?」


「泣かれました」

「怖い、と」


 クラリスは、いつものように微笑んだ。


 だが、その微笑みは少しだけ薄かった。


「私に助けられた方が」

「私の手を見て」

「この手で人を治すのですか、と」


 良樹は、何も言わなかった。


「清楚な僧侶として見られることは、ありました」

「綺麗だと、優しそうだと、守ってあげたいと」

「そう言ってくださる方もいました」


「いた、か」


「はい」

「でも、私が杖を振るところを見ると」

「たいてい、目が変わりました」

「守りたい相手ではなく」

「怖いものを見る目に」


 クラリスは、少しだけ目を伏せる。


「ですから、見せない方がいいのだと思いました」

「癒やす顔だけを見せていれば」

「皆、安心してくれますから」


 清楚な僧侶。


 それは嘘ではない。

 クラリスは本当に僧侶だ。

 人を癒やす。

 浄化する。

 祈る。


 だが、それだけではない。


 祈る手の下に、武がある。

 癒やす手の奥に、壊す場所を知る指がある。


 その全部を見せると、人は引く。


 だから隠した。


 良樹は、しばらく黙っていた。


 慰める言葉を探したわけではない。

 安い肯定を返すつもりもなかった。


 ただ、何を見て、何を言うべきかを考えていた。


 クラリスは、少しだけ息を吸う。


「前にも一度、聞きましたけど」


「おう」


「良樹くんは、私に幻滅していないのですか?」


 良樹は、眉を寄せた。


「なんでだ?」


「ですから」


 クラリスは、自分の手を見た。


「私は、修行僧の家系です」

「私の手は、人を治すこともできます」

「けれど、人を壊すことも容易です」


「ああ、知ってる」


 良樹は短く答えた。


「短い付き合いではあるけどな」

「何度も見た」

「杖で払うところも」

「関節を外すところも」

「急所に拳を入れるところも」

「オークを蹴りで崩すところも」


「……ですから」


「最初はよ」


 良樹は、少しだけ言葉を探した。


「お前が、自分を壊して当然みたいな顔をしてるように見えたんだ」

「治せば済む」

「慣れてる」

「だから平気だって」

「そういう顔に見えた」


 クラリスは、何も言わなかった。


「けど、今思うと違うな」


「……違う、ですか」


「ああ」


 良樹は、隣のクラリスを見た。


「ありゃ、泣きそうになってる顔だったんじゃねえかって」

「今は、そう思ってる」


 クラリスの指が止まった。


 杖を握る手。

 人を癒やす手。

 人を壊す場所を知っている手。


 その手が、ほんの少しだけ震えた。


「良樹くん」


「だからな」


 良樹は顔を上げた。


「お前が杖を使えるとか」

「拳で急所を打てるとか」

「人を壊す場所を知ってるとか」

「そういうのを見て、幻滅したわけじゃねえ」


 そこで良樹は、少しだけ困ったように笑った。


「まあ、怖くはあるぞ」

「あんな動き、怖くないって言ったら嘘だ」


 クラリスは、息を止める。


 けれど、良樹は続けた。


「でもな」


 そして、にかっと笑った。


「そんな泣きそうな顔の奴が何したって」

「俺の親父の方が百倍こええよ」


 クラリスは、完全に言葉を失った。


「……そこで、お父様が出るのですか」


「ああ」

「親父は怖えぞ」

「図面一枚で人間性まで詰めてくる」

「止め方考えずに動かしたら、現場で三日は目を合わせられねえ」

「工具投げる一歩手前の顔で睨んでくる」

「しかも投げねえ」

「投げないから余計に怖い」


「それは……怖いですね」


「怖えよ」

「でも、あの人は俺を壊そうとして怖かったんじゃねえ」

「俺に、生き残れって言ってたから怖かったんだ」


 良樹は、クラリスの手を見た。


「お前の手も、そういうもんだろ」

「壊すためだけに覚えた手じゃねえ」

「誰かを助けるところまで届かせるために覚えた手なんだろ」


 クラリスは、何も言えなかった。


「……はい」


 やっと、それだけを返す。


「なら、幻滅するところじゃねえよ」

「俺が腹立つのは、その手をお前自身が使い潰していいみたいな顔をするところだ」


 良樹は少しだけ真顔に戻る。


「泣きそうな顔で、治せば済むなんて言うな」

「そこだけは、何度でも怒る」


 クラリスは、目を伏せた。


 怖いと言われた。

 知っていると言われた。

 何度も見たと言われた。


 けれど、離れられなかった。

 拒まれなかった。

 幻滅したとも言われなかった。


 怖いものを、怖いと言う。

 そのうえで、見てくれる。


 逃げずに。

 誤魔化さずに。

 綺麗な僧侶の顔だけを選ばずに。


「良樹くん」


「何だ」


「それは、ずるいです」


「何がだ」


「怖いものを怖いと言うのに」

「逃げないところが、です」


「逃げたら確認できねえだろ」


「そういうところです」


 クラリスは、小さく笑おうとした。


 いつものように。

 清楚に。

 何でもないことのように。


 けれど、うまくいかなかった。


 胸の奥が、熱かった。

 喉の奥が、少しだけ詰まった。


 次の瞬間、クラリスは良樹の方へ倒れるように身を寄せていた。


 肩に。

 胸元に。

 顔を、埋めるように。


 自分でも、驚いた。


 これは違う。


 近づこうと思ったわけではない。

 良樹くんを困らせようと思ったわけでもない。

 清楚に攻めようとしたわけでもない。


 ただ、逃げ場がなかった。


 逃げ場がないくらい、嬉しかった。


「……クラリス?」


 良樹の声が、すぐ近くで聞こえた。


 クラリスは、顔を上げられなかった。


「少しだけ」


 声が、布越しにくぐもった。


「少しだけ、このままで」


 良樹は、動かなかった。


 頭を撫でることもできた。

 背中に手を回すこともできた。

 肩を支えることも、たぶんできた。


 けれど、どれも違う気がした。


 今のクラリスは、近づいてきたのではない。

 崩れてきたのだ。


 なら、こちらから形を決めるのは違う。


 良樹は、ただそこにいた。


 逃げずに。

 押し返さずに。

 茶化さずに。


 クラリスが顔を埋めていられるだけの場所として、そこにいた。


 良樹からは、クラリスの顔は見えない。


 泣いているのか。

 笑っているのか。

 困っているのか。


 分からない。


 ただ、さっきまで清楚に微笑んでいた僧侶が、今は何も整えられずに自分へ顔を埋めている。

 それだけは分かった。


「……今のは怖くねえな」


 良樹は、少しだけ笑って言った。


 クラリスの肩が、ぴくりと揺れた。


「良樹くん」


「何だ」


「それは」


 クラリスは、顔を埋めたまま言った。


「それは、本当に、ずるいです」


「さっきも聞いたぞ」


「何度でも言います」


 声が少しだけ震えていた。


「ずるいです」


 良樹は、困ったように笑った。


「分かった」

「じゃあ、今回は俺が悪い」


「はい」


 クラリスは、顔を上げないまま小さく頷いた。


「良樹くんが悪いです」


「それは認める」


「素直ですね」


「現場で間違えたら認めろって親父に叩き込まれてる」


「また、お父様ですか」


「便利だからな」


 クラリスは、顔を埋めたまま小さく笑った。


 その声が、少しだけ震えている。


 良樹は、顔を見ずに言った。


「……また泣きそうなのか?」


 見えていない。

 だから、表情を確認したわけではない。


 ただ、声が少し震えていた。

 良樹の服を掴む指に、少しだけ力が入っていた。

 肩口に触れる額が、ほんのわずかに震えていた。


 それだけで、そう思った。


「いえ」


 クラリスは、顔を埋めたまま答えた。


「でも」


 少しだけ、息を吸う。


「もしそうなら、きっと」

「嬉し泣きです」


 良樹は、しばらく何も言えなかった。


「……そうか」


「はい」


「それは、止めなくていいやつか」


 クラリスは、顔を埋めたまま小さく笑った。


「たぶん」


「たぶんって言うな」

「判断に困る」


「では」


 クラリスの声が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「少しだけ、このままで」


「ああ」


 良樹は、短く答えた。


「少しだけな」


「はい」


 クラリスは、顔を上げなかった。


「少しだけです」


 良樹も、覗き込まなかった。


 ただ、二人はそのまま座っていた。


 良樹は何もしなかった。


 何もしないで、逃げなかった。


   ◇


 どれくらいそうしていたのか、良樹には分からなかった。


 長くはない。

 たぶん、ほんの少しだけだ。


 だが、練武場の外を通る風の音が、一度だけ変わったのは覚えている。

 クラリスの呼吸が、少しずつ落ち着いていったのも分かった。


 やがて、クラリスはゆっくりと顔を上げた。


 目元は、少しだけ赤かった。


 泣いた、と言い切るほどではない。

 けれど、泣きそうだったことを隠しきれるほどでもない。


 良樹は、それを見て、少しだけ困ったように笑った。


「嬉し泣き、だったか?」


「確認しますか?」


「だからその言葉を使うな」


「では」


 クラリスは、いつもの清楚な微笑みを浮かべようとして。

 途中で、少しだけ失敗した。


「少しだけ、そうだったかもしれません」


「そうか」


「はい」


「なら、まあ」

「よかった」


 クラリスは、また目を伏せた。


「良樹くん」


「何だ」


「私が、また治せば済むと言いそうになったら」


「ああ」


「止めてください」


 良樹は短く頷いた。


「止める」

「胸倉掴んででもな」


 クラリスの頬が、ほんの少しだけ赤くなる。


「……その時は」

「できれば、もう少し優しくお願いします」


「善処する」


「善処ですか」


「現場で確約はしねえ」


「良樹くんらしいですね」


 クラリスは、ようやくいつものように微笑んだ。


 けれど、その微笑みは少しだけ違っていた。


 清楚な僧侶が浮かべる、誰かを安心させるための笑みではない。

 良樹に見られて、それでも逃げられなかった女の子の笑みだった。


 良樹は、練武場の床を見た。


 それから、少しだけ魔導盤のことを考える。


「クラリス」


「はい」


「昨日から考えてたんだが」


「はい」


「撃っていいかを決めるには、敵と射線だけじゃ足りねえ」


 クラリスは、少しだけ目を細めた。


 良樹の声が、技術の声に戻り始めている。


 けれど、それが少し嬉しかった。


「リシアが撃てる状態か」

「カレンが前に出ていい状態か」

「お前が壊れかけてねえか」

「俺が盤に食われかけてねえか」

「そこも見ねえと駄目だ」


「身体を見る、ということですか」


「ああ」

「敵だけ見る盤じゃ足りねえ」

「味方の状態も見ないと、撃つ条件にならねえ」


 良樹は、クラリスを見る。


「そこは、お前の目が要る」


 クラリスは、静かに息を吸った。


 回復魔法が要る、と言われたのではない。

 治療が要る、と言われたのでもない。


 目が要る。


 壊れる前に見る目が要る。


「私の、目」


「ああ」

「お前は、誰がどこを使ったか見える」

「リシアの手首も見た」

「カレンの足も見た」

「俺の手首も見た」

「自分のことは見ねえふりをするが」


「……そこは、努力します」


「努力じゃ足りねえ時は止める」


「はい」


 クラリスは頷いた。


「なら、私も止めます」


「誰を」


「良樹くんを」


 良樹が固まる。


「俺?」


「はい」

「良樹くんが、自分を回路の一部にしようとした時」

「止めます」

「胸倉を掴んででも」


「そこは真似しなくていい」


「必要なら、します」


「……まあ」


 良樹は、少しだけ目を逸らした。


「頼む」


 クラリスの表情が、静かに変わった。


「はい」


 短い返事だった。


 けれど、その声は深かった。


「頼まれました」


 練武場の外から、遠くでリシアとカレンの声が聞こえた。


 水を持って戻ってきたのだろう。

 まだこちらには入ってこない。

 二人とも、少しだけ待ってくれている。


 クラリスは、その気配に気づいて、ゆっくりと立ち上がった。


 白い頭布を取る。

 少し迷ってから、すぐには被らなかった。


 金の髪を結ったまま、杖を持つ。


 清楚な僧侶。

 修行僧。

 癒やす者。

 壊す場所を知る者。


 どれか一つではない。


 良樹が立ち上がる。


「もう一回、動けるか」


「はい」


「無理はするな」


「しません」


「本当だな」


「はい」

「良樹くんが止めてくださるのでしょう?」


「自分でも止まれ」


「努力します」


「努力じゃ足りねえって言ったばっかだろ」


 クラリスは、少しだけ笑った。


 その笑みは、もう泣きそうではなかった。


「では、見てください」


「ああ」


 良樹は頷く。


「見る」


 クラリスは杖を構えた。


 白い法衣が揺れる。

 金のポニーテールが、背中で揺れた。


 その立ち姿は、祈る僧侶だけのものではない。

 戦う修行僧だけのものでもない。


 癒やす手と、壊す手。


 その両方を持ったクラリスが、そこにいた。


挿絵(By みてみん)


   ◇


 クラリスは僧侶だった。


 癒やす者だった。

 人を支える者だった。


 そして、人を壊す場所を知る修行僧でもあった。


 その手は、怪我を治せる。

 痛みを和らげられる。

 浄化もできる。


 けれど同じ手で、急所を打てる。

 関節を外せる。

 呼吸を止められる。


 だから、彼女は隠してきた。


 清楚な僧侶の顔を前に出し、武の顔を奥へしまってきた。


 けれどその日、良樹はその両方を見た。


 怖いと言った。

 知っていると言った。

 何度も見たと言った。


 そして、それでも逃げなかった。


 良樹は、クラリスにもう一つの役目を渡した。


 壊れてから治すのではなく。

 壊れる前に見る役目を。


 誰かを癒やすために。

 誰かを壊さないために。

 そして、いつか良樹自身が自分を壊そうとした時、止めるために。


 クラリスは杖を握り直す。


 癒やす手。

 壊す手。

 止める手。


 そのどれもが、自分の手だった。


 良樹が言った。


「行けるか」


 クラリスは微笑んだ。


「はい」

「壊れない範囲で」


「よし」


 良樹は短く頷く。


「それなら、頼む」


 クラリスの胸の奥に、その言葉が静かに落ちた。


 頼まれた。


 治すことをではない。

 壊れてから戻すことをではない。


 壊れないように、見ることを。


 クラリスは、静かに杖を動かした。


 白い頭布は、まだ長椅子の上に畳まれている。


 金の髪が、朝の光の中で揺れた。


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