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第127話 今日は、我慢したくありません

 昼下がり。


 良樹たちの家の居間で、クリスは優雅に茶を飲んでいた。


「お前、まだ居たのか……」


 良樹の一言に、クリスの笑顔が僅かに引きつる。


「ふ、ふふ……今のは効いたよ」

「我が家秘伝の透勁よりも、ね」


「打たれ弱すぎるだろ」


「良樹くん」


 クラリスが困ったように微笑む。


「兄様は、このように扱われることには慣れていないのです」


「いや、男には大体こう思われてるんじゃねえのか」


 良樹はクリスを指差した。


「見境なく女を褒めまくる危険人物だ」


「非道いね、良樹くん」


 クリスは心外だと言わんばかりに首を振る。


「僕は口説いているのではなく、美しいものをただ美しいと表現しているだけだと言ったはずだよ?」


「知ってる」

「だが、それを他の男がどう捉えるかは別の話だ」


 ははっ、僕は罪な男だ。


 そう言わんばかりに、クリスが長い金髪をかき上げる。


「そういう所だぞ」


「褒め言葉として受け取っておこう」


「褒めてねえよ」


 良樹は呆れたように息を吐いた。


「俺だって、お前らと結婚してなけりゃ警戒してたぞ」

「……クラリスは大丈夫か。妹だしな」


 良樹に悪気はなかった。


 実の妹を口説く男など、物語の世界でしか見たことがないからだ。


 だから、良樹には悪気はまるでなかった。


 しかし。


 クラリスの乙女心への配慮も、まるでなかった。


 ――ずきん。


 クラリスの胸の奥が、痛んだ。


 私では、嫉妬する理由にもならないのでしょうか。


 兄様の妹だから。


 女として見る必要すらない、と。


 そこまで考え、クラリスは慌てて首を振った。


 違います。


 そういう意味ではありません。


 兄様が実の妹を口説くような人間ではない、というだけです。


 ええ。


 そうですとも。


 そう自分へ言い聞かせている間にも、クラリスの顔はどんどん赤くなっていく。


「クラリス?」


 良樹が怪訝そうに眉を寄せた。


「どっか調子が悪りいのか?」


「え?」


 良樹は片手を自分の額へ当てる。


 そして、もう片方の手をクラリスの額へ触れさせた。


「熱は……無えな」

「大丈夫か?」


「――っ」


 クラリスの身体が固まった。


 近い。


 良樹の顔が、すぐ目の前にある。


 額へ触れる手が温かい。


 心配そうに自分だけを見つめる瞳から、目を逸らすことができない。


 何故。


 何で今更、こんなことで――。


 何度も抱いてもらった。


 何度も求め合った。


 妻として、何度も愛していただいた。


 なのに。


 なぜ今さら、このようなことで私は――。


「クラリス」


 その様子を見ていたクリスが、穏やかに微笑んだ。


「それは恋だね」


「兄様!?」


「いいことじゃないか」

「妻になってからも恋ができる夫がいるというのは、素晴らしいことだよ」


「この世界にも鯉がいるのか」


 良樹が感心したように呟いた。


「まだ見たことねえな」


 クリスは数秒、義弟の顔を見つめた。


「義弟くん」

「君は時折、難聴になるのかな?」


「兄様!」

「やめてください……!」


「おや」


 クリスは楽しそうにクラリスを見る。


「僕の可愛い妹が」

「照れて、茹でダコのようになっているね」


 ――刹那。


 クラリスの右拳が、無拍子で放たれた。


 クリスの目が見開かれる。


「――っ!」


 避けようと考える暇すらなかった。


 身体に染みついた反射だけで、上体を無理やり横へ折る。


 腰掛けていた椅子が大きく傾いた。


 クリスは片足で床を蹴り、倒れ込むようにして拳の軌道から逃れる。


 クラリスの拳が、脇腹すれすれを突き抜けた。


 外套の布が裂ける。


 拳圧に撫でられた肌へ、細い赤い線が走った。


 椅子が派手な音を立てて倒れる。


 クリスは床へ片手をつき、どうにか転倒だけは免れた。


 いつも整えられている金髪が頬へかかり。


 その顔からは、一瞬だけ余裕の笑みが完全に消えていた。


 挿絵(By みてみん)


「……今のは」


 クリスは脇腹へ手を触れる。


 裂けた布と、その下に残った赤い跡を確かめてから、ゆっくり息を吐いた。


「本当に、危なかったよ」

「クラリス」


 ようやく身体を起こす。


 けれど、その目だけは既に武人のものへ変わっていた。


「素晴らしい抜拳術だ」

「この僕ですら、その起こりをほとんど感じ取れなかった」


「避けられたのは、見えたからではない」

「ただ、身体が先に動いただけだ」


 クリスは倒れた椅子を見下ろし、苦笑する。


「あと僅かに遅れていれば」

「今頃、そこで楽しく会話を続けてはいられなかっただろうね」


「よく鍛錬している」


「……今の見えたか?」


 良樹が、隣にいたリシアへ尋ねる。


「見えるわけないでしょ」

「私、魔法使いよ?」


 リシアは当然のように答え、カレンを見る。


「カレンは?」


「……怖いと思う前に、もうクラリスの拳が突き抜けていました」


 カレンは目を丸くしたまま、クラリスを見つめている。


「すごいです、クラリス」


「ありがとうございます」


 クラリスは清楚な笑みを浮かべた。


 顔は真っ赤なまま。


 右拳も、まだ固く握られている。


「お父さ……先生の居合と同じくらい速いです」


「……お前の父さん、一撃必殺だけじゃなく居合までやるのかよ」


 良樹は遠い目をした。


「どういう流派だ」


「色々と教えていただきましたので……」


「色々で済ませていい範囲じゃねえだろ」


「カレンのお父様、本当に何者なのよ」


「剣士です」


「それは分かってるわよ」


 その会話の横で、クリスは改めてクラリスを見る。


「それにしても」

「随分と殺気を隠すのが上手く――」


 そこまで言いかけ。


 クリスは、微笑んでいるクラリスの顔を見た。


 清楚で。


 上品で。


 けれど、兄を仕留める気だけは一切隠していない。


「……いや」

「隠す気は、ないようだね」


「何のことでしょうか」


 クラリスは微笑んだ。


「怖いなぁ」


 クリスは肩をすくめると、ゆっくり立ち上がった。


「では、そろそろ僕は失礼するとしよう」

「これ以上は、命の危険になりかねないね」


「どう見ても、お前の自業自得だな」


「つれないことを言うね、義弟くん」


 クリスは戸口へ向かう。


 そして扉を開けたところで、楽しそうに振り返った。


「では――」

「早く、甥か姪の顔を見せてくれたまえよ!」


「良樹くん!」


 クラリスが叫んだ。


「魔導自立盤を!」

「私に小手と具足を!」

「出力最大でお願いします!」


「やるわけねえ!」


 良樹が即座に拒否した時には。


 クリスはもう、笑いながら扉の向こうへ逃げ出していた。


 扉が閉まる。


 居間に、何とも言えない沈黙が残った。


 クラリスは真っ赤な顔のまま、扉を睨みつけている。


「……次は」

「本当に外しません」


「まあ、兄様のことは置いておくとして」


 リシアが何気ない調子で言った。


「置いておけません」


「今は置いておきなさい」

「それより――」


 リシアは、少しだけ楽しそうに目を細めた。


「甥か姪の話だけど」


 クラリスの右拳が動いた。


「冗談よ!」


 リシアは素早く両手を上げる。


「私、魔法使いなんだから」

「そんな拳、避けられるわけないでしょ」


「でしたら、言わないでください」


「でも」


 リシアは、クラリスの真っ赤な顔を見つめた。


「今夜は、クラリスの日なんでしょ?」


 クラリスの動きが止まる。


「……はい」


 小さな返事だった。


 先ほどまで兄へ向いていた怒りが。


 その一言だけで、別の熱へと変わっていく。


 今夜。


 良樹の部屋へ行く。


 良樹が、自分だけを妻として見てくれる。


 何度も経験していることだった。


 何度も抱いていただいた。


 それなのに。


 改めて言葉にされただけで、胸の奥が苦しいほど鳴った。


「今夜のこと、急に意識しちゃった?」


「リシア……」


「図星ね」


「もう……」


 クラリスは俯く。


「良樹さんに、クラリスだけを見てもらう日なんですよね」


 カレンも頬を赤くしながら、柔らかく微笑んだ。


「きっと、喜んでくださいます」


「カレンまで……」


「だったら」


 リシアが立ち上がる。


「準備しないとね」


「準備、ですか?」


「良樹に、可愛いって言わせたいんでしょ?」


 クラリスは良樹を見る。


「何だ?」


 何も分かっていない良樹が、首を傾げた。


 その顔を見た瞬間。


 今夜、この人にどう見られるのか。


 どう触れられるのか。


 その想像が、次々と頭の中へ浮かび始める。


「……リシア」


「何?」


「買い物に」

「付き合っていただけますか?」


 リシアの口元が上がった。


「もちろん」


「私も、ご一緒します」


 三人はそれぞれ席を立ち、出掛ける準備を始める。


「ちょっと私たち、買い物に行くから」

「あんたは家にでも居なさい」


「買い物?」


 良樹が首を傾げた。


「備品も食料品も十分あっただろ」

「何が足りねえんだ?」


「あはは、その、ちょっとですね……」


 カレンが困ったように笑いながら、言葉を濁す。


「補給行動!」

「文句ある?」


 リシアが強引に言い切った。


「誰かさんのせいで物資が不足してるの!」


「訳分かんねえ」

「なんで俺が怒られてるんだ」


「よ、良樹さんのせいでは……」


 カレンは一度、良樹を庇おうとして。


 これまで駄目になった下着の数を思い出した。


「いえ」

「良樹さんのせいです……」


「なんで俺?」


「言わないわよ!」


 リシアは顔を赤くしながら、良樹へ背を向ける。


「さ、鈍感夫は置いておいて」

「たまには妻三人、水入らずもいいじゃない」


「そう、ですね」


 カレンも小さく頷く。


「良樹さん」

「いい子でお留守番しておいてくださいね?」


「理不尽だ」


 良樹は最後まで納得できない顔をしていた。


 クラリスはそんな良樹を見つめ。


 今夜、自分が身につけるものを買いに行くのだと思っただけで、また頬を赤くした。




 店へ入ると、カラン、と小さな鈴が鳴った。


「いらっしゃいませ、奥様方」

「本日もご贔屓いただき、誠にありがとうございます」


 店主がしなやかに一礼する。


「だから、その『奥様方』はやめてって言ったじゃない」


 リシアが苦笑する。


「あら、そう?」


 店主はけろりと笑った。


「じゃあ、いつもの三人でいいわね」


「見事な切り替えです……!」


 カレンが思わず感心する。


「それで今日は、どのようなお品を?」


 店主が三人を見回す。


 すると、クラリスが一歩前へ出た。


「……あ、あの」


 頬がほんのり赤い。


「きょ、今日は……」

「わ、私の番なので……」


 そこで言葉が止まる。


 乙女モード全開で、それ以上続けられない。


「私の番?」


 店主は首を傾げた。


「どういうことかしら?」


「実はね――」


 リシアが事情を説明する。


「……なるほど」


 店主は何度も頷いた。


「つまり今日は、クラリスちゃん用を一式」

「それと、三人とも補充しておきたい、と」


「そ」


 リシアは肩をすくめる。


「良樹がね」

「ほんっとに、すぐダメにしちゃうのよ」


「あはは……」


 カレンが困ったように笑う。


「良樹さん、執着が……ちょっと強いですよね」


「ちょっとじゃ済まないわ」

「予備を買っておかないと安心できないもの」


「なるほどねぇ」


 店主は腕を組み、しみじみと頷く。


「英雄様は国の英雄だけじゃないわ」

「当店にとっても、救世主様ね」


「えっ、何それ」


 リシアが吹き出す。


「初耳なんだけど?」


「最近ね」


 店主は得意げに笑った。


「『英雄様の奥様方と同じものが欲しい』ってお客さんが増えてるのよ」


「えぇっ!?」


 三人の声が揃う。


「だから今じゃ、うちでは勝手に」

「『英雄の奥様ブランド』って呼んでるの」


「勝手にブランド化されてます……」


 カレンが額へ手を当てる。


 クラリスはというと、もう羞恥で限界だった。


「あ、あの……」


 おずおずと店主を見る。


「今日は……」

「私、どういうものを選べばいいのか分からなくて……」


「任せなさい!」


 店主の目が、きらりと光った。


「新しいデザイン、新素材、動きやすいもの、着心地重視、おしゃれ重視――」

「もちろん、殿方に人気のものまで!」


 店の奥を勢いよく指差す。


「当店で揃わない下着はないわ!」


 そしてクラリスの両肩へ手を置き、にっこり笑う。


「今日のクラリスちゃんに、一番似合う一着」

「これから、この私が責任を持って見繕ってあげるわ!」




「まずはこちら!」


 店主は棚から、一組の下着を取り出した。


 淡い花柄があしらわれた、上品で可愛らしい一着だった。


「最近、新進気鋭の職人が仕立てた新作よ」


「あ、可愛いです」


 カレンの目が輝く。


「私も欲しいかもです」


「でも、クラリスには可愛すぎない?」


 リシアが首を傾げる。


「もっと大人っぽい方が似合いそうだけど」


 クラリスも、こくこくと頷いた。


「そ、その……」

「今日は、その……少しだけ、大人っぽく見られたいので……」


「ふふふ」


 店主は意味ありげに笑った。


「三人とも、甘いわね」


「え?」


「ちゃんと広げてご覧なさい」


 三人は、ブラジャーとショーツを広げる。


「ちょっと、なにこれ!」


 真っ先に声を上げたのは、リシアだった。


「か、可愛いですけど……」

「後ろが……」


 カレンが目を丸くする。


「これだと、ほとんど……」


 クラリスも思わず固まる。


 店主は満足そうに頷いた。


「そう!」


「前から見れば、可憐で清楚」

「でも後ろ姿は、ぐっと印象が変わるの」


 店主は両手を広げる。


「人は正面だけを見るわけじゃないでしょう?」

「前と後ろ、その印象の落差こそが魅力なのよ!」


 三人妻は、思わず顔を見合わせた。


「目を閉じて!」


 店主が勢いよく言った。


「さあ、想像して!」


 三人は圧倒されながらも、言われるまま目を閉じる。


「正面から見れば、可憐で初々しい印象」


「でも後ろ姿は、大人の魅力」


「その二つを、一人の女性が持っているのよ!」


「まず正面から見せる!」


「殿方が可愛いと思った、その直後!」


「くるりと背を向ける!」


「そこで初めて、隠されていたもう一つの魅力に気づくの!」


「この『ギャップ』が、一番心に残るのよ!」


 店主の声に導かれるように。


 三人の頭の中へ、それぞれの良樹が浮かび上がった。




 リシアが想像したのは。


 黒い下着を身につけ、良樹の前へ立つ自分だった。


 良樹は何も言わない。


 ただ、食い入るように自分を見つめている。


 その視線を十分に楽しんでから。


 リシアは、ゆっくりと背を向けた。


『ふふ』


 肩越しに、良樹を見る。


『どうかしら』


『全部、あなたのもの』


 次の瞬間。


『リシアぁぁ!』


 良樹が、抑えきれなくなったように飛びついてくる。


『あんっ』


 強く抱き締められながら。


 リシアは困ったように笑い、良樹の頭を優しく抱き寄せた。


『もう』


『そんなに私が欲しいなんて……』


『困った旦那様だわ』


「……ふふっ」


 リシアの口元が、満足そうに緩んだ。


 妄想の中では。


 良樹はすっかり自分に夢中だった。




 カレンが想像したのは。


 少し控えめな柄の下着を身につけ、良樹の前へ立つ自分だった。


 恥ずかしくて。


 俯いたまま、良樹の顔を見ることができない。


 すると良樹が、ゆっくり自分へ近づいてくる。


『カレン』


『……はい』


『顔を上げろ』


 恐る恐る顔を上げる。


 良樹は、自分の姿をじっと見つめていた。


 そして。


『いつものお前も可愛いけど』


『今日のお前は、大人っぽくて綺麗だぜ、カレン……』


「……っ」


 カレンの頬が、一気に熱くなる。


 想像の中の良樹は。


 そのまま優しく微笑み、自分の頬へ手を添えた。


『俺のために、選んでくれたんだろ?』


『……はい』


『嬉しいぜ』


『すげえ似合ってる』


 カレンは胸の前で、ぎゅっと両手を握る。


「……良樹さん」


 思わず、甘い声が漏れた。




 そしてクラリスが想像したのは。


 今、手にしている下着を身につけ。


 良樹の部屋へ入っていく、自分の姿だった。


 良樹が振り返る。


 自分を見る。


 そして、息を飲む。


『……クラリス』


 名前を呼ばれる。


『似合ってる』


『可愛い』


 それだけで、胸がいっぱいになる。


 けれど。


 店主に教えられた通り。


 勇気を振り絞って、良樹へ背を向ける。


『後ろも……見てください』


 振り返ることはできない。


 ただ、背中へ注がれる良樹の視線だけを感じる。


 しばらく、何も聞こえない。


 やがて。


 先ほどよりも低い声で、自分の名前が呼ばれる。


『クラリス』


 その声だけで分かる。


 良樹が。


 自分を、可愛い妻として見るだけではなく。


 一人の女として、強く求めてくれている。


 想像の中で。


 良樹の手が、自分へ伸びる。


「――っ」


 クラリスは耐えきれず、目を開いた。


 顔だけではない。


 耳まで真っ赤になっていた。


挿絵(By みてみん)


「装いは、自分を表現するもの!」


 そんな三人の妄想など知らず。


 店主の熱弁は、なおも続いていた。


「その一着が!」


「今日という日を、もっと特別にしてくれるのよ!」


 最後は両腕を高々と広げる。


 熱弁を終えた店内には、一瞬だけ静寂が流れた。


「……」


「……」


「……」


 三人妻は、誰一人として店主の顔を見ていなかった。


 それぞれが。


 今しがた想像した良樹の反応から、まだ戻ってこられずにいた。


「す、すごい熱量です……」


 カレンが真っ赤な顔で呟く。


「この人、本当に下着が好きなのね……」


 リシアも苦笑している。


 ただし、その口元は先ほどから僅かに緩んだままだった。


 クラリスは何も言えず。


 胸の奥で何度も繰り返される良樹の声を聞きながら、手の中の一着を見つめていた。


 ――似合ってる。


 ――可愛い。


 そして。


 低く、自分を求める声で呼ばれる名前。


 クラリスは真っ赤な顔のまま、その下着を強く抱きしめた。


「こ、これにします!」


「私も!」


 リシアがすぐに手を挙げる。


「クラリスとは色違いってある?」


「もちろんあるわ!」


 店主は即答した。


「赤、紺、黒、深緑」

「どれも人気色よ」


「じゃあ私は黒!」


「わ、私は……」


 カレンも慌てて手を伸ばす。


「私も買います!」

「柄は、もう少しシンプルなものがあれば……」


「あるある!」


 店主は嬉しそうに、棚から次々と箱を取り出す。


「毎度あり!」


 そして、にっこりと笑った。


「でも、一着じゃ足りないわよね?」


 三人妻は同時に固まる。


「予備も必要でしょう?」


「それは……」


 リシアが苦笑する。


「否定できないわね」


「でしょう?」


 店主は得意げに胸を張った。


「じゃあ次はこっち!」


 さらに別の箱を開ける。


「普段使いしやすいもの」

「替えを多めに持っておきたい人向け」

「そしてこちらは、特別な夜向け」


 次から次へと並べられる商品に、三人妻は圧倒されていく。


「あとはねぇ……」


 店主はクラリスをじっと見つめた。


「今日は、クラリスちゃんの日なんでしょう?」


「は、はい……」


「だったら、この下着に合わせるなら」

「ネグリジェかベビードールも一着あると映えるわね」


「ね、ねぐりじぇ……」


 クラリスの耳まで真っ赤になる。


 店主は、にやりと笑った。


「だって英雄様」

「脱がせるのがお好きなんでしょう?」


 三人妻の動きが、ぴたりと止まった。


「最初から全部見せるより」

「少し隠れているものを、一枚ずつ脱がせる」


「その時間ごと楽しむ殿方って、結構いらっしゃるのよ」


 リシアは思わず吹き出した。


「あー……」

「否定できない」


「良樹さんらしいです……」


 カレンも苦笑しながら頷いた。


 クラリスだけは両手で顔を覆い、


「そ、そんなところまで分かってしまうんですか……」


 と、小さく呟くしかなかった。




 そして夜。


 コンコン、と良樹の部屋の扉が叩かれた。


「開いてる」


 扉が少しだけ開き、真っ赤になったクラリスの顔が覗く。


「クラリス?」

「どうした?」


 クラリスは、ぎゅっと拳を握る。


 一歩。


 また一歩。


 ゆっくりと部屋へ入った。


 良樹は、その姿を見た瞬間、息を飲んだ。


 昼間、三人で出掛けていた理由が、ようやく分かった。


 ――補給。


 そういうことだったのか。


 自分のためだけに、この姿を選び。


 自分に見せるためだけに、この姿でここまで来てくれた。


 目の前には。


 いつもとは少し違う姿をした、自分の妻がいた。


「……クラリス」


 良樹は静かに笑った。


「似合ってる」


「いつもと違うけど……」

「可愛い」


 その一言で、クラリスの中に残っていた最後の堤防が崩れかける。


 それでも、もう一つだけ。


 見てもらわなければならない。


 クラリスは胸元を抱くようにして、くるりと背を向けた。


「う、後ろも……」

「見てください」


 良樹は、再び息を飲んだ。


 正面から見た時とは、まるで印象が違う。


 挿絵(By みてみん)


 可憐で。


 清楚で。


 それなのに。


 後ろ姿からは、今まで見たことのない大人びた色気が滲んでいた。


 全部、自分のためだった。


 勇気を出して。


 恥ずかしさを押し殺して。


 ここまで来てくれた。


「――クラリス」


 呼び掛けた、その瞬間だった。


 クラリスが弾かれたように振り返り、良樹へ駆け寄る。


 そのまま飛び付き。


 勢いのまま、唇を奪った。


「……っ」


 一度では終わらない。


 何度も。


 何度も。


 昼間からずっと押し殺していた想いをぶつけるように、口づけを重ねる。


 ようやく唇が離れた。


 クラリスは良樹の額へ自分の額を寄せ、小さく笑う。


「……我慢しました」


「とっても」


「でも、もう無理です」


 ――良樹くん。


 ――良樹くん。


 ――良樹くん。


 頭の中が、その名前だけで埋め尽くされる。


 我慢した。


 とても我慢した。


 昼間だって。


 部屋へ来るまでだって。


 扉を叩く瞬間だって。


 でも、もう無理。


 今日は私の日。


 今日は、私があなたを独り占めしていい日。


 私はあなたのもの。


 だから今日は。


 あなたも、私のもの。


 潤んだ瞳が、まっすぐ良樹を見つめる。


「今日は……」

「我慢したくありません」


 その言葉を聞いた瞬間。


 良樹の表情から、昼間の鈍さが消えた。


 目の前にいるのは。


 自分を求めて。


 自分のためだけに着飾り。


 恥ずかしさも、迷いも乗り越えて、ここまで来てくれた妻だった。


 二人は、もう言葉を探さなかった。


 互いを求める気持ちだけが。


 そこにあった。


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