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126話 幕間「グレッグ」

 ガレスから、英雄が天才と見込んだ男の教師になってほしいと言われた。


 正直なところ、最初は半信半疑だった。


 これまで何度も、人に期待した。


 学ぶ意思があると思った。

 分からないことを分からないと言えると思った。

 基礎から積み上げることを厭わないと思った。


 しかし、期待は何度も裏切られた。


 相手が悪いのではない。


 勝手に期待した拙者が悪いのだ。


 だからもう、一人で燻る覚悟を決めていた。


 そんな拙者の前へ連れてこられたのが、兎人族の男――ロブ殿だった。



「好きな料理は?」


 ギルドを出て、最初にそう尋ねた。


「こんな町の料理なんか知らねえ」


 ロブ殿はぶっきらぼうに答えた。


「蛇とかカエルとか食ってた」


 その言葉を聞いた瞬間、胸の奥に懐かしいものが蘇った。


 ――ああ、懐かしい。



 二人で町外れの野原へ向かった。


 グレッグが手慣れた様子で火を起こすと、ロブが訝しげに目を細めた。


「見かけによらず慣れてるな」


「昔取った杵柄ですぞ」


 それからグレッグは、当たり前のように言った。


「では、蛇やカエルを捕まえましょう」


「……本気か?」


「もちろんですな」


 蛇を締める。

 皮を剥ぐ。

 枝へ刺し、火で炙る。


 その一つ一つに迷いはなかった。


 ロブは何も言わなかった。


 だが、その目を見れば分かる。


 この男は、本当に食ってきたのだ。


 ロブ殿はそう理解したのだろう。



 グレッグは焼けた蛇肉を一つ摘まみ、小さな包みを取り出した。


「ロブ殿、素焼きも良いのですが、これを試してみてくだされ」


「なんだこりゃ」


「拙者秘伝の調味料ですな。蛇やカエルによく合うのです。焼く前にかけても、焼いてからかけても合いますぞ」


 挿絵(By みてみん)


 包みの中には、赤茶けた粉が入っていた。


 ロブは怪しむように鼻を近づけた。


「……変な匂いしやがる」


「まずは一口。毒など入っておりませんぞ」


「当たり前だ」


 半信半疑のまま、ロブは焼けた蛇肉へ粉を振りかける。


 指で摘まみ、そのまま口へ放り込んだ。


「…………」


 噛む。


 もう一度、噛む。


 ロブの耳がぴくりと動いた。


「……うめえ」


 さらに一口食べる。


「蛇が、こんなにうまくなるのか」


「だから秘伝と申したでしょう」


 グレッグは得意げに胸を張った。


 ロブは調味料の包みと、目の前で平然と蛇肉を食べている男を交互に見る。


「……あんた、何もんだ」


「何、ただの人間ですな」


 グレッグは何でもないことのように答えた。


「幼い頃は貧しくて、蛇やカエルを食していただけの、ただの人間ですぞ」


 ロブは言葉に詰まった。


 目の前の男は上等な服を着ている。


 言葉遣いも、身のこなしも、自分がこれまで知ってきた人間とは違う。


 そんな男が、蛇の締め方も、皮の剥ぎ方も知っていた。


 火を起こす手つきにも、肉を焼く手つきにも、迷いはなかった。


「お世辞にも、良い生活とは言えませんでしたな」


 グレッグは炎を見ながら続ける。


「腹が膨れるのであれば、何でも食べました。蛇も、カエルも、野鼠も。食べられる野草の見分け方なども、嫌でも覚えましたぞ」


「……じゃあ、なんで今はそんな格好してんだよ」


「ある日、大きな出会いがあったのです」


「……なんだ、それは」


「本、ですよ」


 ロブが眉を寄せた。


「本?」


「ええ。最初は読めませんでした。文字など、ほとんど知りませんでしたからな」


 グレッグは自分の指先を眺めた。


 今では文字を書くための指。


 かつては食べ物を拾い、獲物の皮を剥ぐためだけに使っていた指だった。


「読んでも分からない。そもそも、何が書いてあるのかすら分からない。何度も投げ出したくなりましたぞ」


「なら、なんで読んだんだ」


「知りたかったからですな」


 グレッグは即座に答えた。


「そこに何が書かれているのか。自分の知らないものが、どれほどあるのか」


 火の粉が一つ、夜空へ昇っていく。


「一つ文字が読めるようになれば、一つ言葉が分かるようになる。一つ言葉が分かれば、その先にまた知らないものが現れる」


 グレッグは小さく笑った。


「読めるようになるにつれ、分かるようになるにつれ、拙者の内側で世界は広がっていきました」


「内側で?」


「外の世界が急に変わったわけではありませんぞ。腹が減ることも、寒いことも、貧しいことも変わらなかった」


 グレッグは自分の胸を指した。


「しかし、ここから見えるものは変わった」


 ロブは黙って聞いていた。


「雨が降れば、ただ濡れるだけだった。それが、なぜ雨が降るのかを考えるようになった」


「火を見れば、ただ温かいだけだった。それが、なぜ燃えるのかを知りたくなった」


「魔石を見れば、ただ便利な石だった。それが、なぜ力を宿すのかを調べたくなった」


 グレッグは炎の向こうにいるロブを見る。


「世界は最初から広かったのでしょう。しかし拙者には、それが見えていなかった」


「本が、見えるようにしてくれたのですな」


 しばらく、薪のはぜる音だけが続いた。


 ロブは手の中に残った蛇肉を見る。


「……勉強すりゃ、俺にも見えんのか」


 その声は小さかった。


 問いかけというより、独り言に近かった。


 グレッグは笑わなかった。


 すぐに励ましもしなかった。


「分かりませぬ」


「分からねえのかよ」


「何が見えるようになるかは、人によって違いますからな」


 グレッグは調味料の包みをロブへ差し出した。


「ですが、今まで見えなかったものが、何か一つくらいは見えるようになるでしょう」


 ロブは包みを受け取った。


「……文字も何も分からねえぞ」


「では、文字からですな」


「計算もできねえ」


「では、数の数え方から」


「全部分からねえ」


「結構」


 グレッグは当然のように頷いた。


「では、全部一から始めましょうぞ」


 ロブは顔を上げる。


 馬鹿にされると思っていた。


 呆れられると思っていた。


 だが、目の前の男の顔には、嘲りも哀れみもなかった。


 ただ、これから始める実験の手順を決める時のような、真剣さだけがあった。


「……途中で、嫌になったらどうすんだ」


「嫌になることなど、何度でもありますぞ」


「分からなくなったら」


「分からないと言えばよろしい」


「何度教えても分からなかったら」


「何度でも別の教え方を考えましょう」


 グレッグは焼けたカエルの脚を一つ取り、調味料を振りかけた。


「ただし」


 それをロブへ差し出す。


「逃げるのであれば、拙者は追いません」


 ロブはカエルの脚を受け取った。


「逃げねえよ」


「そうですか」


「俺は、逃げねえ」


 噛みつくように言い、ロブはカエルの肉を口へ入れた。


 先ほどよりも多めに振られた調味料が、舌を強く刺激する。


「辛え!」


「少々かけすぎましたな」


「秘伝じゃねえのかよ!」


「秘伝だからこそ、分量を学ぶ必要があるのですぞ」


「先に言え!」


 野原にロブの怒鳴り声と、グレッグの笑い声が響いた。



 その翌日。


 ロブは約束の時間よりも少し早く、グレッグのもとへやって来た。



 文字を書く。


 数を覚える。


 何度も間違える。


 分からないと言う。


 そして翌日も来る。


 ロブ殿は逃げなかった。


 何十回も同じ文字を書き直し、何度計算を間違えても、また机へ向かった。


 その姿を見て、グレッグの中に、とうに捨てたはずのものが少しずつ戻り始めた。


 期待だった。


 人へ向けることを、もうやめたはずのものだった。



 グレッグはロブへ文字と計算を教えた。


 理論を教えた。


 記録の仕方を教えた。


 実験とは、比較することだと教えた。


 だが、教えていたのはグレッグだけではなかった。


 ロブは魔石の鳴りを聞いた。


 歪みを聞き分けた。


 音の遅れを言葉にした。


 グレッグには聞こえないものを、ロブは聞いた。


 教師と生徒だったはずの二人は、いつしか同じ机を囲み、同じ魔石を覗き込むようになっていた。



 間違いない。


 間違いなかった。


 拙者は、間違っていなかったのだ。


 出身?


 種族?


 人間? 亜人?


 そんなものは、何一つ関係なかったのだ。


 目の前にいるこの亜人の男――ロブ殿。


 彼こそが、天に愛された才の持ち主なのだ。


 技術は。


 学問は。


 やはり、誰に対しても平等であったのだ!


「グレッグ。この時の魔石の揺れ方なんだが――」


 ほら。


 もう既に、彼は拙者と同じ場所にいる。


 いや。


 同じ場所どころか、既に拙者より先へ行こうとしている。


 その才を妬ましいと思わないことはない。


 しかし、それ以上に。


 共に同じ道を歩める者がいてくれる。


 科学者として、これ以上の喜びがあろうか。


「――なんだよ。変な目で見やがって」


 ロブの耳が、ひょこひょこと動いた。


「失礼。ふむ……これは確かに、この魔石固有の揺れ方ですな」


「固有の?」


「固有魔力振動数、とでも呼びましょうか」


「固有魔力振動数?」


「全ての物体には、最も適した揺れの速さがあると言われておりますぞ」


「……それは、空気にもあるのか?」


「ええ。ありますぞ。しかし、なぜ空気を?」


「犬人族の奴らがよ、遠吠えで連絡を取り合うことがある」


 ロブは自分の耳を指で軽く弾いた。


「俺は見ての通り兎人族でな。あいつらの遠吠えは、よく聞こえるんだ」


「ふむ」


 何だ。


 この男は、何を言おうとしている。


 拙者に、何を見せようとしているのだ。


「あいつらは遠吠えの時、音の高さは変えねえ」


「……ほう」


「高さは同じままで、強さだけを変えて意思を伝えてるんだ」


 まずい。


 これは、まずい。


 拙者の目の前にある扉が、今――


「遠吠えの高さを、空気の固有魔力振動数に合わせてるとしたら――」


 開き始めている。


「魔石の固有魔力振動数に合わせたまま、揺れる強さだけを変えたらよ」


 ロブは魔石を摘まみ、目の前へ掲げた。


「犬人族みてえに、魔石同士でやり取りできるんじゃねえか?」


 開いた。


 開いた。


 開いてしまった!


「それですぞ、ロブ殿!」


 グレッグは思わず立ち上がった。


「魔石の揺れ方から、固有魔力振動数のみを取り除く!」


「残された揺れを拾い上げれば、元の音声を取り出せる!」


 理論上は。


 いや、間違いない。


 これは、できる。


「いけるのか?」


「いけますぞ!」


 グレッグは魔石とロブを交互に見た。


「理論的には、間違いなく!」


 およそ友人と呼べる者のいなかった拙者にとって、ロブ殿が友人なのかどうかは分からない。


 そんなことは、どうでもよかった。


 拙者は、この天才と共に世界へ革命を起こすのだ。


 ロブ殿一人では、理論へ辿り着くまでに時間がかかるかもしれない。


 しかし。


 しかし!


 拙者がここにいる。


 理論を知り、記録を知り、実験の仕方を知る拙者が。


 同じ志を持ち。


 同じ道を歩みたいと願う拙者が。


 今、ここにいるのだ!



 それから二人は、何度も試した。


 失敗した。


 また試した。


 眠る時間を惜しみ、食べることすら忘れ、魔石の揺れと音を追い続けた。


 そしてギルドでの初実験を終えた二人は、揃って力尽きたように倒れ込んだ。


 ロブは毛布へ沈み込みながら、途切れ途切れに呟いた。


「勉強ってなあ……楽しい、もんだ、な……」


 そのまま、眠りへ落ちる。


 グレッグは、そんなロブを見つめた。


 才能がある。


 間違いなく、天から与えられたものがある。


 だが、それだけではない。


 この男は逃げなかった。


 分からないことから。


 失敗することから。


 自分には学がないという事実から。


 そして今、ここにいる。


 拙者の隣に。


 それを誇らしく思いながら、グレッグもまたロブの隣へ倒れ込み、そのまま眠った。



挿絵(By みてみん)


 さらに時は流れた。



 魔石越しに、互いの声が届く。


「聞こえてるぞ!」


「ロブ殿なのですな!」


 一瞬の静寂。


 そして二人は、遠く離れた場所で同時に叫んだ。


「「うおおおおおおおっ!!」」



 ロブとグレッグは、その夜、街の酒場にいた。


 店内には仕事を終えた冒険者や職人たちの声が飛び交い、焼いた肉と酒の匂いが満ちている。


 初めてこの街へ来た頃なら、ロブは周囲を警戒し、壁際の席を選んでいただろう。


 しかし今は、店の中央に近い席で、当然のように酒杯を掲げている。


 ロブも、随分と街へ馴染んできたようだった。


「「乾杯!」」


 木の酒杯を勢いよく打ち合わせる。


 二人は競うようにエールを喉へ流し込み、ほとんど同時に空になった杯を卓上へ置いた。


「やりましたな!」


 グレッグは口元の泡を拭うこともせず、満面の笑みを浮かべた。


「やりましたぞ、ロブ殿!」


「ああ、やったな!」


 二人は顔を見合わせる。


 そして、また笑った。


挿絵(By みてみん)


 魔石越しに互いの声が届いた瞬間から、何度同じ言葉を口にしたか分からない。


 それでも、言わずにはいられなかった。


 自分たちは、やったのだ。


 誰も成し遂げたことのないことを、二人で成し遂げた。


 酒を追加し、料理を頼み、二人は実験の話を繰り返した。


 あの時の揺れはどうだった。


 もう少し距離を延ばせるのではないか。


 途中に魔石を置けば、さらに遠くまで届くのではないか。


 成功を祝う酒の席だというのに、気づけば次の実験の相談になっている。


 それもまた、いつもの二人だった。


 やがて料理も半分ほどなくなり、二杯目の酒杯が空きかけた頃。


「グレッグ」


「何ですかな?」


 呼ばれて顔を上げると、ロブは酒杯を握ったまま視線を落としていた。


 耳が落ち着かなそうに、何度も小さく動いている。


「どうしたのですかな。あなたらしくもない」


「……うるせえよ」


 ロブは眉間にしわを寄せた。


 だが、怒っているわけではない。


「その、だな……」


 言葉を探すように、一度口を閉じる。


 それから意を決したように顔を上げた。


「ありがとう」


 グレッグは目を瞬いた。


「あんたのおかげだ」


 ロブは途中で逃げるように、早口で続けた。


「学のねえ俺が、こんなことをできるようになるなんてよ。こんなことが分かるようになるなんて、思ってもなかった」


「ロブ殿……」


「文字も、計算も、魔石のことも。最初は何一つ分からなかった」


 ロブは自分の手を見た。


 かつては食べ物を探し、獲物を捕らえるためだけに使っていた手。


 今は文字を書き、数値を記録し、魔石を調整する手になっていた。


「俺一人じゃ、絶対にここまで来られなかった」


 だから。


 ロブは、もう一度口にした。


「ありがとう、グレッグ」


 ――ありがとう、か。


 そんなことを、拙者はあなたに何度思ったことだろう。


 最早、数え切れませぬ。


 教えても逃げずに翌日も来てくれた。


 分からないことを、分からないと言ってくれた。


 拙者の話を面白そうに聞いてくれた。


 そして拙者一人では決して思いつかなかった景色を、何度も見せてくれた。


 止まっていた拙者の人生を、もう一度動かしてくれた。


「こちらこそ、感謝しております」


 グレッグは静かに酒杯を置いた。


「ロブ殿のおかげで、拙者の人生は再び輝きを取り戻しました」


「……何だよ、それ」


「心から感謝しておりますぞ」


 グレッグは深く頭を下げた。


 ロブは居心地悪そうに耳を震わせる。


「んだよ。大袈裟だな」


 照れ隠しのように、残ったエールを一気に飲む。


「一杯でもう酔っ払ったのか?」


「……そうかもしれませんな」


 グレッグは顔を上げる。


 目の前には、同じ道を歩いてきた男がいる。


 教師でも、生徒でもない。


 人間でも、亜人でもない。


 未知の扉を見つければ、共に手をかけ、二人でこじ開ける相手。


「しかし、今日は良いではありませんか」


「何がだよ」


「大いに酔い、大いに喜びましょうぞ」


 グレッグは新たな酒杯を掲げた。


「我ら二人の成功に!」


 ロブも笑い、酒杯を持ち上げる。


「おう!」


 再び、二つの杯が音を立てて重なった。


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