第123話 悪夢と本音
三人の妻。
全部、俺の女。
俺を受け入れてくれた女たち。
何度も抱いた。
三人を同時に抱き、自分の腕の中で乱れる姿を見た。
求めた。
求められた。
自分のものだと言い聞かせるように抱き、三人もそれを喜んで受け入れてくれた。
幸せだった。
間違いなく。
「リシア……」
良樹の口から、掠れた声が漏れた。
「クラリス……カレン……」
目を開ける。
そこに三人はいなかった。
湿った岩肌。
僅かに差し込む薄暗い光。
冷たい洞窟の床。
火の消えた焚き火の跡。
良樹がこの洞窟へ移り住んでから、どれほどの年月が過ぎたのか。
もう数えることもやめていた。
この世界へ来てから、既に六十年。
良樹の身体は、五年に一度しか歳を取らなかった。
見た目は、まだ四十歳ほど。
だが、その目に四十歳の男の力は残っていない。
髪も髭も伸び放題だった。
服は擦り切れ、身体は痩せている。
技術屋だった男の面影は、もうどこにもなかった。
三人の妻は、とうに死んだ。
最後まで愛した。
身体が弱り、もう抱けなくなってからも、毎日抱きしめた。
名前を呼んだ。
手を握った。
一人ずつ、看取った。
最後にカレンが旅立った時。
良樹がこの世界にいる意味も、一緒に消えた。
それから良樹は、誰も探索になど来ない洞窟へ籠もった。
ただ死ぬために。
死ねば、先に行った三人に会えるかもしれない。
何の根拠もない。
技術屋なら鼻で笑っていたような願いだった。
それでも、その願いだけが良樹を動かしていた。
何度も自分で終わらせようとした。
だが、そのたびに不思議な力が邪魔をした。
刃は折れた。
毒は効かなかった。
崖から身を投げても、何かに受け止められた。
死ぬことすら許されない。
ならば、待つしかない。
世界が滅びるまで。
自分の命が尽きるまで。
「カレン……」
名を呼ぶ。
「リシア……クラリス……」
三人の名を呼ばなかった日は、一日たりともない。
会いたかった。
早く死にたかった。
三人のところへ行きたかった。
その時だった。
「ここにおいででしたか」
洞窟の入口から、凛とした女の声が響いた。
「曽祖父様」
良樹は動かなかった。
どうでもよかった。
「こ、この方が……曽祖父様、ですか?」
別の女の声。
少し怯えたような声だった。
良樹の耳が、僅かに動いた。
「ええ」
穏やかな三人目の声が答えた。
「そのようですね」
良樹は、恐る恐る顔を上げた。
三人の若い女が立っていた。
見覚えなどない。
そのはずだった。
だが、胸の奥が大きく軋んだ。
一人は、黒い髪と強い目をしていた。
一人は、胸元で手を握り、不安そうに良樹を見つめていた。
最後の一人は、白い衣服を纏い、穏やかに微笑んでいた。
「……誰だ」
長く言葉を使わなかった喉が、酷く痛んだ。
「お前らは……誰だ」
三人は顔を見合わせた。
凛とした女が、一歩前へ出る。
「世を捨てた英雄様」
その言葉を聞いた瞬間、良樹の目から光が消えた。
「どうか、もう一度」
「世界を救っていただけませんか」
「……興味がねえよ」
良樹は再び目を伏せた。
「世界が滅んだら」
「俺も、あいつらのところへ行ける」
乾いた笑いが漏れた。
「滅んじまえばいい」
「――良樹!」
身体が凍った。
「あんた、いつまでいじけてんの!」
良樹が顔を上げる。
黒髪の女が、怒った顔でこちらを見ていた。
「そうですよ、良樹くん」
「立ってください」
白い服の女が、穏やかに告げる。
「よ、良樹さん……」
「あ、あの……」
最後の女が、胸元で手を握っていた。
リシア。
クラリス。
カレン。
あの日の姿のまま。
三人が、そこに立っていた。
「……嘘だ」
「嘘じゃないわ」
「ちゃんと、ここにいるでしょ」
「幻覚だ」
良樹は頭を振った。
「俺は……おかしくなっちまってる」
「いいえ」
「私たちは、確かにここにおります」
「お前らは……」
良樹は三人を見た。
姿も同じ。
声も同じ。
表情も、仕草も。
どう見ても三人だった。
なのに。
違う。
三人ではない。
「お前らは、誰だ!」
三人は、同じ顔のまま良樹を見つめた。
「あなたの妻になる女です」
「……三人じゃ、ない」
良樹の声が震えた。
「何を言ってやがる」
凛とした女が、静かに頭を下げる。
「曾祖母様方のご遺言です」
「もし、再び英雄の力が必要となる時が来たなら」
「かつての曾祖母様方によく似た子孫を選び」
「英雄様を迎えに行くように、と」
穏やかな女が続けた。
「世界を救ってくださるのであれば」
最後の少女も、震えながら頭を下げる。
「私たちは、この身を英雄様へ捧げます」
「やめろ」
三人が顔を上げた。
「やめろ……!」
良樹は耳を塞いだ。
「あいつらの声で!」
「あいつらの姿で!」
喉が裂けるほど叫ぶ。
「俺を英雄なんて呼ぶんじゃねえ!」
洞窟が震えた。
「俺が英雄なんてもんになったのはなあ!」
三人の顔を見た。
リシアに似た顔。
カレンに似た顔。
クラリスに似た顔。
「俺が、あいつら三人を全部欲しかったからだ!」
誰にも渡したくなかった。
自分を選んでほしかった。
三人とも、自分の女にしたかった。
「俺のもんにしたかったからだ!」
声が掠れた。
「それだけだ!」
三人は、黙って良樹を見ている。
「代わりなんかいねえ」
良樹の膝から力が抜けた。
「いねえんだよ……!」
三人の顔をした女たちは、同じ声で呼びかけた。
「英雄様」
「俺に近づくな!」
「英雄様」
「偽物ども!寄るんじゃねえ!」
「英雄様」
「やめろ!俺に触るんじゃねえ!」
「英雄様」
「その声で、俺をそう呼ぶな!」
「英雄様」
「その姿で、俺を見るなぁぁぁぁ!」
世界が歪んだ。
三人の姿が崩れていく。
声だけが、何度も良樹を呼び続ける。
英雄様。
英雄様。
英雄様。
違う。
自分はそんなものではない。
世界を救うための英雄ではない。
三人を愛していた、ただの良樹だ。
「良樹」
声がした。
「良樹さん」
別の声が重なる。
「良樹くん」
違う。
今度の声は違った。
英雄を求める声ではない。
役目を求める声でもない。
良樹自身を呼ぶ声だった。
「――起きなさい!」
◇
良樹は、身体を大きく震わせて目を開けた。
冷たい洞窟はなかった。
薄暗い岩壁も。
死を待ち続けた自分も。
代わりに目の前にあったのは、柔らかな肌だった。
温かい身体。
まだ何も身につけていない三人の妻が、寝台の上で良樹を囲んでいた。
リシア。
カレン。
クラリス。
「……ほん、もの?」
自分の声とは思えないほど震えていた。
「俺は……洞窟に……ずっと……」
「本物以外の何に見えるのよ」
リシアが眉を寄せる。
自分たちの姿を見下ろし、僅かに頬を赤らめた。
「昨日だって、散々抱いたくせに……」
「待ってください」
カレンが良樹の顔を覗き込む。
「良樹さん」
「すごく怖いものを見た顔です」
良樹の頬へ、そっと手を添える。
「怖い夢を、見たんですか?」
「……夢?」
「はい」
クラリスが良樹の身体を抱き寄せた。
その頭を、自分の胸元へ抱え込む。
柔らかな肌。
温かな体温。
耳元へ伝わる、確かな鼓動。
赤ん坊が乳を求めて泣き、与えられた温もりに安心して泣きやむように。
クラリスは、自分の胸を良樹へ与えていた。
「はい」
「夢です」
良樹の髪を、ゆっくりと撫でる。
「そして」
「これは現実です」
「柔らかいでしょう?」
「私の鼓動も」
「きちんと伝わっているはずですよ」
とくん。
とくん。
クラリスの心臓が動いている。
生きている。
「ちょっと、クラリス!」
リシアが良樹の背中へ抱きついた。
「一人だけ抜け駆けしないでよ!」
「な、仲間外れにしないでください!」
カレンも、反対側から良樹へ抱きつく。
三人の腕が良樹を包んだ。
三人の肌が触れる。
三人の体温がある。
三人の鼓動がある。
「あ……」
声が漏れた。
「あ、う……」
何かを言おうとしても、言葉にならない。
良樹は三人へ腕を回した。
リシアを抱く。
カレンを抱く。
クラリスを抱く。
「ああ……あああぁぁ……!」
喉の奥から、壊れたような声が溢れた。
「生きてる……」
三人を抱く腕に力が入る。
「生きてる……!」
涙が止まらなかった。
「一緒に……生きてる……!」
三人の妻は、良樹を抱いたまま顔を見合わせた。
「どんな夢を見たのかしら」
リシアが良樹の背中を撫でる。
「良樹が、ここまで取り乱すなんて……」
「すっごく、怖かったんですね」
カレンは良樹の頬へ自分の頬を重ねた。
「もう、大丈夫ですよ」
「私たちがいますから」
「はい」
クラリスも、良樹の頭を胸へ抱いたまま微笑む。
「私たちは」
「いつでも良樹くんのそばにいます」
良樹は答えられなかった。
三人に抱かれながら、ただ子供のように泣き続けた。
◇
「……すまねえ」
しばらくして、ようやく良樹が声を出した。
「取り乱した」
目元を手の甲で拭う。
「情けねえところ、見せたな」
「私たちは別に……」
リシアは、まだ良樹の背中へ腕を回していた。
「たまには、そういう姿も見せてくれて嬉しいっていうか」
言ってから、少し気まずそうに視線を逸らす。
「いや」
「嬉しいって言い方も変だけど」
「変だろ」
「うるさいわね」
「言いたいことは分かるでしょ」
クラリスは、良樹の胸元へ手を当てていた。
「まだ、心拍が少し乱れていますね」
「もう大丈夫だ」
「良樹くんの大丈夫は、信用できません」
「こんな時までそれかよ」
「こんな時だからです」
その横で、カレンが良樹の顔を覗き込む。
「良樹さん」
「何だ」
「良樹さんが、怖いものを見たなら」
子供をあやすような、ゆっくりとした声だった。
「私も」
「それを見ます」
良樹の頬を、優しく撫でる。
「だから」
「話していいんです」
「怖かったって」
「寂しかったって」
「言っていいんです、ね?」
良樹は、暫く黙っていた。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人の顔を順番に見る。
「……夢の中で」
良樹は、三人に抱かれたまま口を開いた。
「ずっと、死にてえと思ってた」
三人の腕が、僅かに強くなる。
「お前らに会いたかった」
「死んだら」
「また、お前らのところへ行けるんじゃねえかって」
「それだけ考えてた」
三人は何も言わず、続きを待った。
「そうしたら」
良樹は息を吸った。
「お前らにそっくりな奴らが現れた」
「姿も」
「声も」
「ほとんど、お前らそのものだった」
「なのに」
良樹の指が震える。
「俺を、英雄って呼ぶんだ」
リシアの眉が寄った。
「世界を救え」
「そうしたら妻になるとか」
「この身を捧げるとか」
「お前らの顔で」
「お前らの声で」
「そんなことを言いやがるんだ」
カレンが、良樹の頬を撫でる。
「良樹さん……」
「俺は」
良樹は三人を見た。
「そいつらに言った」
「俺が英雄なんてもんになったのは」
「お前ら三人が、全員欲しかったからだって」
リシアの目が揺れた。
「三人とも」
「誰にも渡したくなくて」
「俺の女にしてえって」
「俺のもんにしてえって」
「それだけで」
「英雄になったんだって」
良樹は顔を歪めた。
「夢の中のお前らじゃねえ」
「その姿で」
「その声で」
「俺を英雄って呼ぶんじゃねえって」
「俺が欲しいのは」
「お前らの代わりじゃねえって」
声が再び震える。
「それでも」
「そいつらは」
「俺のことを、英雄って呼び続けたんだ」
「怖かった」
短い言葉だった。
けれど、三人には十分だった。
「お前らの姿なのに」
「お前らじゃなかった」
「お前らの声なのに」
「俺を呼んでなかった」
「良樹じゃなくて」
「英雄を呼んでた」
良樹は目を閉じる。
「でも、その時」
「お前らの声がした」
リシアを見る。
「良樹、って」
カレンを見る。
「良樹さん、って」
クラリスを見る。
「良樹くん、って」
「英雄じゃなくて」
「俺の名前を呼んだ」
良樹は三人へ縋るように腕を回した。
「それで」
「目が覚めた」
少しの沈黙。
最初に動いたのはリシアだった。
良樹の頬を両手で挟み、真っ直ぐ目を見る。
「良樹」
カレンも、良樹へ身体を寄せる。
「良樹さん」
クラリスは、良樹の耳元へ唇を寄せた。
「良樹くん」
三人の声。
夢の中とは違う。
英雄を求める声ではない。
ただ、愛する男の名を呼ぶ声だった。
「ここにいるわ」
「はい」
「私たちです」
「誰の代わりでもありません」
「……ああ」
良樹は三人を抱きしめた。
「お前らだ」
「本物の」
「俺の女たちだ」
暫く、誰も何も言わなかった。
良樹が呼吸を整えている一方で、リシアとカレンの顔が、少しずつ赤くなっていく。
「……ほんと」
リシアが、良樹の胸元へ顔を寄せたまま呟いた。
「あんた」
「自分が今、何を言ったか分かってるのかしら」
「何がだ」
「何が、じゃないわよ」
リシアは顔を上げる。
「私たち三人を失ったら」
「何十年経っても死にたいくらい寂しくて」
「私たちと同じ姿と声でも」
「別の女じゃ絶対に駄目で」
「英雄になったのも」
「私たち三人が全部欲しかったからだって」
言葉にするほど、リシアの顔が赤くなる。
「それを」
「朝起きてすぐ」
「本人たちの前で全部言ったのよ」
「……夢の話だぞ」
「夢の中でも、言ったのはあんたでしょ」
カレンも、耳まで真っ赤になっていた。
「よ、良樹さん」
「何だ」
「それは、もう」
「ほとんど……」
一度、恥ずかしそうに目を伏せる。
「愛の告白です」
「今さらだろ」
「今さらでもです!」
カレンは思わず声を上げた。
「私たちがいなくなったら」
「死にたいほど会いたいって」
「私たちの代わりなんて」
「誰にもできないって」
「三人とも欲しくて」
「全部、良樹さんのものにしたかったって」
自分で口にして耐えられなくなったように、良樹の胸へ顔を埋める。
「そんなこと」
「一度に言われたら……」
クラリスは、良樹の頭を胸へ抱いたまま、穏やかに微笑んでいた。
だが、その頬も僅かに赤い。
「朝起きてすぐ」
「これほど情熱的な愛の告白をいただけるとは思いませんでした」
「告白のつもりじゃねえ」
「良樹くんにそのつもりがなくても」
「私たちには、十分すぎるほど伝わりました」
クラリスは良樹の髪へ口づける。
「良樹くん」
「私も、愛しています」
カレンが慌てて顔を上げた。
「わ、私も愛しています!」
「良樹さんだから」
「大好きです!」
リシアは一度だけ視線を逸らした。
「……愛してるに決まってるじゃない」
それから、良樹を真っ直ぐ見る。
「良樹」
夢の中で聞いたものと同じ呼び方。
だが、今度は間違いなく本物だった。
「あんた、本当に私たちのことが好きなのね」
「今さら何言ってんだ」
「分かってたわよ」
リシアは少し笑った。
「でも」
「ここまでとは思ってなかったの」
カレンも嬉しそうに頷く。
「はい」
「良樹さんは」
「私たちのことが、大好きですね!」
「お前、朝から随分はっきり言うな」
「本当のことですから」
クラリスは、良樹を抱いたまま静かに息を吐いた。
「女冥利に尽きる」
「そう表現するのでしょうか」
「夫が」
「自分たちの代わりは世界のどこにもいないと」
「夢の中でさえ叫んでくださったのですから」
良樹は三人から目を逸らした。
「……忘れろ」
「忘れるわけないでしょ」
「忘れません」
「絶対に忘れません」
三人の声が揃った。
「お前らな……」
良樹は額を押さえようとした。
だが、その腕すら三人に抱き込まれている。
逃げられない。
三人の身体は温かかった。
三人の鼓動が、確かに動いていた。
「良樹」
「良樹さん」
「良樹くん」
誰も、良樹を英雄とは呼ばない。
良樹は目を閉じた。
今度はもう、怖くなかった。




