122話 独占欲だけで
翌日の昼前。
良樹は、ギルドへ昨日の試験記録を届けた帰り道を、一人で歩いていた。
急ぐ用事はない。
アルフは休ませている。
ロブとグレッグの試験も、今日は記録整理だけだ。
家へ帰れば、三人の妻がいる。
いつもなら、途中で気になるものを見つける。
傾いた看板。
緩んだ車輪。
石畳の段差。
荷車の軋む音。
けれど今日は、そういうものが目に入っても、頭へ残らなかった。
代わりに浮かぶのは、三人の顔だった。
カレン。
自分の全部を欲しがってほしいと言った。
逃げ道を塞がれても、良樹なら怖くないと答えた。
リシア。
何も欲しがらないことが、大事にすることではないと言った。
良樹の欲が欲しいと、自分から手を取った。
クラリス。
昼間から良樹を求めながら、それを口にできずにいた。
手を差し出せば、待ちきれなかったように飛び込んできた。
三人とも、望んでいた。
良樹が強く求めることを。
自分のものだと言うことを。
遠慮せず、欲しがることを。
それは分かっている。
分かっているのに。
「……本当に、それだけか」
良樹は小さく呟いた。
その時だった。
「やあ、良樹君」
聞き覚えのある、妙に爽やかな声がした。
顔を上げる。
通りの向こうから、白い法衣を着た男が歩いてきていた。
柔らかく流した髪。
整った顔立ち。
無駄のない姿勢。
黙って歩いていれば、品の良い施療院の僧侶に見える。
黙って歩いていれば、だ。
「クリス」
「久しぶりだね」
「まだ何日も経ってねえだろ」
「僕にとって、可愛い妹に会えない一日は長いのさ」
「クラリスに会いに来たのか」
「そのつもりだよ」
「妹夫婦の家へ、兄が顔を出す」
「何もおかしなことはないだろう?」
「手土産は」
「僕自身だ」
「帰れ」
「随分な歓迎だね」
クリスは楽しそうに笑った。
そのまま良樹の隣へ並ぶ。
数歩進んだところで、クリスが横目で良樹を見た。
「ところで」
「何だ」
「君は、可愛い妹と一晩過ごした翌日にしては、随分と難しい顔をしているね」
良樹の足が止まった。
「……何で知ってる」
「知らなかったよ」
「てめえ」
「今、知った」
クリスは涼しい顔で言った。
「安心してくれ」
「兄として少し複雑ではあるが、クラリスが幸せなら僕は何も言わないさ」
「何も言わねえ奴は、そんな顔で笑わねえ」
「僕はいつでも笑顔を絶やさない男だからね」
良樹は顔をしかめた。
それから、少しだけ視線を落とす。
「……クリス」
「何だい?」
「あんた、少し時間あるか」
クリスの笑みが、ほんの少しだけ薄くなった。
茶化すための笑顔ではなくなる。
「もちろん」
◇
二人は、人通りから少し外れた場所へ移動した。
町を流れる細い水路の脇。
古い石壁があり、その前に小さな腰掛けが置かれている。
市場の声は聞こえるが、会話の内容までは届かない。
クリスは石壁へ軽く背を預けた。
「それで」
「ああ」
良樹は、すぐには口を開かなかった。
何から話すべきか分からない。
妻たちへなら、もっと話しにくかった。
三人は良樹を愛している。
良樹が何を言っても、受け止めようとしてくれる。
それが嬉しい。
だが、今欲しいのは、安心させてもらうための答えではなかった。
「俺は、あいつらを愛してる」
ようやく出た言葉は、分かりきったものだった。
クリスは笑わなかった。
「ああ」
「見ていれば分かるよ」
「でも最近」
「愛してる女に向けていいのか分からねえことまで、したくなる」
クリスは黙って続きを待った。
「強く抱きたい」
「逃がしたくねえ」
「俺の女だって言いてえ」
「俺だけのもんだって、何度も確かめたくなる」
言葉にするたび、胸の奥にあったものが形になる。
「服も」
「全部脱がせるより、少し残ってる方が欲しくなる」
「自分で乱したくなる」
「下着がずれたり、傷んだりしてるのを見ると」
「俺があいつらをああしたんだって……」
良樹は一度、言葉を止めた。
「嬉しいと思う」
クリスは、まだ何も言わない。
「もっと悪い言葉も浮かぶ」
「悪い言葉?」
「言わせんな」
「言葉にしなければ、相談にはならないだろう?」
「……犯す、とか」
良樹の声が低くなる。
「孕ませる、とかだ」
「まだ、口にはしてねえ」
「でも、言ってやりたいと思う時がある」
水路を流れる水の音だけが聞こえた。
「それであいつらが喜ぶところを、想像する」
良樹は拳を握った。
「俺は」
「あいつらを傷つけたいのか」
クリスは、少しだけ目を細めた。
「そう思った理由は?」
「あいつらが望んでくれてるからだ」
「逆ではないのかい?」
「望まれてるから、怖くなったんだよ」
良樹は吐き出すように言った。
「カレンは、俺になら逃げ道を塞がれても怖くないって言った」
「リシアは、俺の欲が欲しいって言った」
「クラリスも、俺に強く求められることを喜んでる」
「それは良いことではないのかい?」
「本当に全部、あいつらの望みなのか」
良樹は顔を上げた。
「俺を愛してるから」
「俺が欲しがってるから」
「無理して受け入れてるんじゃねえのか」
「……」
「嫌なら言えとは言ってる」
「痛ければ止める」
「無理ならやらねえ」
良樹は、自分の言葉を自分で否定するように首を振った。
「でも」
「俺があんな顔で欲しがって」
「逃がさねえって言って」
「その後で嫌なら言えなんて言っても」
「本当に言えるのか」
「言えない空気を、君自身が作っているかもしれない」
「ああ」
良樹は短く答えた。
「それが怖い」
クリスは腕を組んだ。
「なるほど」
「それで、妻たちではなく僕か」
「あいつらに聞いたら、望んでるって答える」
「実際、望んでいるのだろう?」
「そうかもしれねえ」
「でも、俺を安心させるための答えかもしれねえ」
「三人を信用していない?」
「違う」
良樹は即座に否定した。
「信用してる」
「だからこそ、俺のために無理する可能性もあるって思ってる」
クリスは、しばらく良樹を見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「まず一つ」
「ああ」
「クラリスが君に求めたことまで、君が勝手に汚いものとして否定するなら」
「兄として、僕は少し怒るよ」
良樹は黙った。
「あの子は、君を選んだ」
「君に抱かれたいと望んだ」
「君に強く求められることを、喜んだ」
クリスは穏やかに言う。
「リシア嬢も」
「カレン嬢も」
「同じだろう?」
「……ああ」
「彼女たちの望みは、彼女たちのものだ」
「君が怖くなったからといって、取り上げてよいものではない」
「分かってる」
「本当に?」
良樹は答えられなかった。
クリスは、少しだけ笑った。
「兄の僕が言うのも何だが」
「クラリスは魅力的だろう?」
「……ああ」
「リシア嬢も、カレン嬢も、それに負けず劣らずだ」
「分かってる」
「そんな素敵な女性たちを、我がものにしたいと思うのは」
「男の素直な欲求だと、僕は思うよ」
良樹は眉を寄せた。
「それで済ませていいのか」
「済ませる?」
クリスは首を傾げた。
「欲しいと思うことと」
「その欲のまま、相手を踏みにじることは別の話だよ」
笑みが少し消える。
「我がものにしたいと思うことと」
「彼女たちを物として扱うことも、まったく違う」
「……」
「妻たちが一度受け入れたからといって」
「その返事を、いつまでも有効な許しとして使ってよいわけではない」
クリスは自分の指を一本立てた。
「昨日は嬉しかったことが、今日は嫌かもしれない」
「最初は受け止められたことが、途中で怖くなるかもしれない」
「君を喜ばせたくて、少し無理をする夜もあるかもしれない」
「だから、確認する」
「ああ」
「確認する」
「見る」
「話す」
クリスは続ける。
「言葉だけではなく、顔を見る」
「返事までの間を見る」
「いつもの彼女たちと違わないかを見る」
「君が昂っている時ほど、一度止まる」
良樹の目が、少しだけ細くなる。
「それでも、見落とすかもしれねえ」
「もちろん」
クリスはあっさり答えた。
「君は人間だからね」
「簡単に言うな」
「簡単なことではないよ」
「だから、終わった後にも聞けばいい」
「無理をさせていなかったか」
「次も同じことを望むのか」
「嫌だったことはないか」
「……」
「彼女たちの同意は、君の欲を正当化する免罪符ではない」
「だが同時に」
「君の罪悪感で、彼女たちの望みを否定することも誠実ではない」
良樹は、しばらく黙っていた。
やがて、小さく呟く。
「俺は」
「ずっと誠実でありたいだけだと思ってた」
「うん」
「三人とも傷つけたくなかった」
「一人だけ選んで、残りの二人を捨てたくなかった」
「三人とも妻にするなら、三人とも幸せにする責任があると思った」
「間違っていないね」
「でも」
良樹は拳を見た。
「それだけじゃなかった」
自分の中にあるものを、今度こそ誤魔化さずに見る。
「俺が三人とも欲しかった」
「誰か一人でも、他の男に渡したくなかった」
「三人全員に、俺を選んでほしかった」
良樹は苦い顔をした。
「俺は、それを誠実さだと思ってた」
「誠実さだったのだろう?」
「独占欲だ」
「両方だよ」
クリスは迷わず答えた。
「君は彼女たちを幸せにしたかった」
「そして、誰にも渡したくなかった」
「どちらも本当だ」
「……」
「良いじゃないか」
クリスは楽しそうに笑った。
「独占欲だけで、英雄にまでなった誠実な男だよ、君は」
「だから魅力的なのさ」
良樹は半眼でクリスを見る。
「褒めてんのか、それ」
「もちろん」
クリスは胸へ手を当てた。
「魅力的な女性を欲しいと思うだけの男なら、世の中にいくらでもいる」
「だろうな」
「だが君は」
「三人全員を欲しがって」
「三人全員を幸せにする資格を得るために」
「本当に英雄にまでなった」
クリスは肩を竦める。
「なかなかできることではないよ」
「英雄になったのは、それだけが理由じゃねえ」
「分かっているとも」
「だから、誠実なのさ」
良樹は、言い返せなかった。
クリスは、少しだけ良樹の表情を読む。
「それが強くなったのは」
「やはり、グレンとの戦いの後かい?」
「……多分な」
良樹は水路へ目を向けた。
「死ぬと思った」
流れる水に、空の光が揺れている。
「こいつは、本当に帰れねえかもしれねえって」
「三人のところへ」
「もう、戻れねえかもしれねえって思った」
グレンの拳。
血。
痛み。
動かなくなりかけた身体。
最後に見えた、三人の顔。
「帰って」
「あいつらを抱いた時」
「生きてるって思った」
良樹の声が、少しだけ低くなる。
「三人ともいる」
「俺もいる」
「まだ触れられる」
「俺を求めてくれてる」
拳が、ゆっくり開く。
「それからだ」
「ただ隣にいるだけじゃ、足りなくなった」
「彼女たちを、自分の腕の中へ繋ぎ止めたくなった」
「ああ」
「そして」
「君自身も、彼女たちに繋ぎ止めてほしくなった」
良樹は、クリスを見る。
「……そうかもしれねえ」
「君の『俺のものだ』は」
「同時に『僕も君たちのものだ』という言葉なのかもしれないね」
クリスは静かに言った。
「失いたくない」
「置いていきたくない」
「自分がここにいると、確かめたい」
「……ああ」
「ただし」
クリスの声が、少しだけ硬くなる。
「君が生きていることを確かめる役目を」
「すべて妻たちの身体へ背負わせてはいけない」
良樹は目を閉じた。
「分かってる」
「本当に?」
「分かってるから、怖くなったんだよ」
良樹は息を吐く。
「俺が怖かったことを」
「俺が死にかけたことを」
「あいつらに全部受け止めさせて」
「身体で、俺を安心させ続けろって言ってるだけじゃねえのかって」
「なら、話せばいい」
「話したら、あいつらは受け止めるぞ」
「受け止めさせるのと」
「一緒に考えてもらうのは違うよ」
クリスは言った。
「君一人で、妻たちの限界まで決める必要はない」
「彼女たち一人一人にも、自分の望みと、自分の限界を考えてもらえばいい」
「毎回か」
「必要なら、毎回」
「面倒だな」
「愛するというのは、時々とても面倒なことなのさ」
「女を見つけるたびに褒めてるあんたが言うと、軽いな」
「失礼だね」
「僕は一人一人、真剣に褒めているよ」
「そこに真剣さを使うな」
クリスは笑った。
良樹も、ほんの少しだけ口元を緩める。
それから、自分の両手を見る。
「強い力ほど」
「止め方を先に決める」
「君らしい言葉だね」
「正常に動いてるから安全とは限らねえ」
「今まで事故が起きなかったから、次も大丈夫とは限らねえ」
「あいつらが大丈夫だと言ったからって」
「安全装置を外していい理由にはならねえ」
良樹は、ゆっくり顔を上げた。
「安全回路は」
「あいつらを信用してねえから入れるんじゃない」
「うん」
「俺自身を」
「信用しすぎねえために入れる」
クリスは満足そうに微笑んだ。
「答えは出たようだね」
「全部じゃねえ」
「全部でなくていいさ」
良樹は、少しだけ考える。
「愛してるから、大丈夫なんじゃねえ」
言葉を、確かめるように置く。
「愛してるから」
「間違えねえようにし続ける」
「うん」
「良い選び方だと思うよ」
「選び方、か」
良樹は小さく呟いた。
それでもまだ、胸の奥には引っかかるものがあった。
「でも」
「何で俺が、こういう欲を持ってるのかは分からねえ」
「分からなくてもよいのではないかい?」
「良くはねえだろ」
「では」
クリスは良樹へ身体を向けた。
「良樹君」
「何だよ」
「君は、僕を見てどう思う?」
「何が」
「僕はね」
「本当に、美しいものが美しく見えるだけなんだ」
「……」
「それが、どのような種族の女性でもね」
クリスは、いつもの柔らかな笑みを浮かべていた。
「ほとんどの人は、僕のことをおかしいと言ったよ」
「まあ」
「おかしいな」
「君は正直だね」
「今さらだろ」
「それなりに、悩んだこともある」
クリスは、少しだけ遠くを見る。
「人間の女性だけを見ればよいのか」
「亜人の女性を美しいと思う僕は、どこか壊れているのか」
「美しいと思っても、口にしない方がよいのか」
良樹は黙って聞いていた。
「でも」
「やはり、どこまでいっても自分は自分でしかないのさ」
クリスは自嘲するでもなく言った。
「僕は、なぜ自分がこうなのか説明できない」
「それは」
「きっと君も同じだろうね」
「……ああ」
「できねえ」
「開き直るつもりもない」
「でも、不誠実ではありたくない」
クリスは胸へ手を当てた。
「だから僕は、責任を持って」
「すべての美しい女性を褒めたいのさ」
良樹はしばらくクリスを見た。
「変だろう?」
「……ああ、変だ」
良樹は小さく息を吐く。
「お前も」
「俺もな」
「――クリス様!」
突然、少し離れた通りから声が飛んできた。
二人が振り向く。
数人の若い娘たちが、こちらへ駆け寄ってきていた。
人間の娘。
犬人族らしい耳を持つ娘。
額に小さな角のある娘。
羽毛に覆われた細い腕を持つ娘。
クリスがこの街へ滞在し始めてから、まだそれほど長くない。
それなのに、全員が揃って様付けで呼んでいる。
何をしてきたのかは、聞かなくても分かった。
「クリス様!」
「今日はどうしてこちらに?」
「隣にいらっしゃるのは――」
娘の一人が良樹の顔を見て、目を大きく見開いた。
「英雄様!」
「本当!」
「英雄様だわ!」
良樹が身構えるより先に、クリスが一歩前へ出た。
「やあ、みんな」
眩しいほど爽やかに微笑む。
「今日も一段と輝いて見えるね」
娘たちの顔が、一斉に赤くなる。
「君たちは一体、幾つ罪を重ねれば気が済むんだい」
クリスは少しだけ目を伏せ、苦悩するような表情を作った。
「美しさという名の罪を」
「きゃあああ!」
「クリス様!」
「今日も素敵です!」
良樹は無言でクリスを見る。
さっきまでの真面目な話は何だったのか。
いや。
むしろ、さっきの話をそのまま実行している。
本当に責任を持って全員を褒めていた。
娘の一人が、良樹とクリスを交互に見る。
「でも」
「どうしてクリス様と英雄様が、お二人で?」
「まさか……」
別の娘が両頬へ手を添えた。
「まさか、英雄様とクリス様は」
「そういうご関係!?」
「きゃあああ!」
先ほどとは違う種類の歓声が上がった。
良樹の顔が引きつる。
「ちげえ!」
思わず声を張り上げる。
「俺が愛してんのは、三人の嫁だけだ!」
「そういう趣味はねえ!」
一瞬。
娘たちが静まり返った。
良樹は肩で息をする。
今度こそ伝わった。
そう思った。
「きゃあああああ!」
「英雄様に、あんなふうに言われてみたい!」
「三人の奥様だけを愛してるって!」
「奥様方、羨ましい!」
「素敵!」
「何でだよ!」
良樹の叫びは、歓声に飲まれた。
クリスが困ったように微笑む。
「みんな」
「よしてあげてくれ」
娘たちがクリスを見る。
「僕の義弟が困っているからね」
「えっ」
「義弟?」
「ということは……」
娘たちの視線が、再びクリスの顔へ集まる。
「クリス様って」
「クラリス様のお兄様!?」
「そうだよ」
「きゃあああ!」
「似てらっしゃる!」
「本当!」
「兄妹揃ってお美しいわ!」
「そんなクリス様と、クラリス様の旦那様である英雄様が」
「二人きりで……」
一人の娘が、夢見るように目を閉じた。
「やっぱり、そういうご関係なのね……!」
「だから違うっつってんだろうが!」
良樹の声が、通り中へ響いた。
娘たちはしばらく騒いだあと、満足そうに手を振りながら去っていった。
「クリス様、またお会いしましょう!」
「英雄様、奥様方を大切になさってくださいね!」
「してる!」
良樹は即座に返した。
その返事に、また遠くから歓声が上がる。
良樹は頭を抱えた。
「お前が全部ややこしくしてんだろうが」
「心外だな」
「僕は事実を伝えただけだよ」
「その事実の選び方が悪いんだよ!」
クリスは、少しだけ目を細めた。
「そうさ」
「選び方さ」
良樹の動きが止まる。
「それは、自分次第だろう?」
先ほどの話が、一気に戻ってきた。
自分の欲が、なぜ生まれたのか。
完全には説明できない。
消せるかどうかも分からない。
けれど。
どう扱うかは選べる。
妻たちを傷つけるために使うのか。
愛という言葉で正当化するのか。
自分は間違えないと、安全装置を外すのか。
それとも。
欲があることを認めた上で。
相手の望みを聞き。
止め方を持ち。
何度でも確認し続けるのか。
「……チッ」
良樹は、悔しそうに顔をしかめた。
それから、クリスを見る。
「そうだな」
一拍。
「その通りだ!」
クリスは嬉しそうに笑った。
「君は本当に、素直で魅力的な男だね」
「男に言われても嬉しくねえ」
「そこは相変わらずだね」
「変わるか」
二人は並んで、良樹たちの家へ向かった。
◇
家の扉を開ける。
「ただいま」
良樹が声をかけると、奥から三つの声が返ってきた。
「おかえり、良樹」
「おかえりなさい、良樹さん」
「おかえりなさい、良樹くん」
三人が居間から顔を出す。
そして。
良樹の後ろにいる男を見て、クラリスがわずかに目を見開いた。
「お兄様?」
驚いた声だった。
けれど、その奥には隠しきれない喜びがある。
「どうして良樹くんとご一緒に?」
「なに」
クリスは柔らかく笑った。
「ちょっとそこで、ばったり会ってね」
「少し世間話をしただけさ」
そう言って、良樹へ片目をつぶってみせる。
良樹は、男にそんなことをされても嬉しくねえ、という顔をした。
「……ああ」
「そうだな」
それだけだった。
けれど。
リシアは少しだけ目を細めた。
カレンも、良樹の顔をじっと見る。
クラリスは兄と良樹を交互に見た。
家を出た時より。
良樹の顔が、少しだけすっきりしている。
三人には、そう見えた。
「それで良樹君がね」
クリスが、何でもないことのように続ける。
「せっかくだから、夕食でも一緒にどうだ、と誘ってくれたのさ」
「――なっ」
良樹が勢いよく振り返った。
「てめえ!」
「図々しいぞ!」
「たまにはいいじゃないか」
クリスは涼しい顔で言う。
「兄弟揃って、食卓を囲むのもね」
リシアが、自分を指差した。
「……それって」
「私たちも入ってるの?」
カレンが、少し考えるように首を傾げる。
「クラリスのお兄さんですから」
「私たちにとっても、お兄さん……なのでしょうか?」
クラリスも、少し困ったように兄を見る。
「そう……なるのでしょうか?」
「細かいことは言いっこなしさ!」
クリスは両腕を広げた。
「皆で食卓を囲んで」
「話して」
「笑えばいいんだよ」
そして、楽しそうに良樹を見る。
「そうだろう?」
「義弟君」
「義弟っていうな!」
良樹の声が家中へ響いた。
リシアが吹き出す。
カレンも口元へ手を当てて笑う。
クラリスは、兄と夫を見ながら、嬉しそうに微笑んだ。
結局。
その日の夕食には、いつもより一人多く席が用意されることになった。
◇
夜。
夕食を終え、クリスが満足そうに帰っていったあと。
家の中は、ようやくいつもの静けさを取り戻していた。
リシアとクラリスは二階の三人部屋へ戻っている。
今夜、良樹の寝室にいるのはカレンだった。
寝台の端へ腰掛けたカレンは、膝の上で両手を重ねている。
頬は少し赤い。
緊張している。
けれど、それ以上に期待していた。
良樹が近づいてくることを。
自分へ触れてくれることを。
今夜も、自分だけを強く求めてくれることを。
良樹は、そんなカレンの前に立っていた。
「カレン」
「……はい」
返事は小さい。
だが、目は良樹から逸れていなかった。
「正直に言う」
「……?」
「俺は、お前を愛してる」
カレンの表情が柔らかくなる。
「私も、です」
「けど」
良樹は拳を握った。
「それだけじゃ、済まねえんだ」
カレンは黙って良樹を見つめた。
昼間、クリスへ話したこと。
自分の中にある欲。
綺麗な言葉へ置き換えず、今度は本人へ伝えなければならない。
「お前は、俺の女だ」
カレンの肩が、わずかに震えた。
「俺の妻だ」
「俺のもんだ」
頬の赤みが、少しずつ濃くなる。
「誰にも渡したくねえ」
「……はい」
「俺のもんだっていう証拠に」
良樹は一度、息を止めた。
「お前を犯して」
「孕ませてやりてえ」
カレンの目が大きく開いた。
良樹は逃げずに続ける。
「そんなことを、考えちまってる」
「……」
「お前を愛してる」
「でも、愛してるだけじゃなくて」
「俺のものにしてえ」
「逃げられねえくらい、俺だけの女にしてえ」
良樹の声が、少し掠れる。
「それでも」
「お前は俺のことが好きなのかって」
「本当に、愛してるのかって――」
言い終わる前だった。
カレンが立ち上がる。
良樹の肩へ両腕を回し、そのまま唇を重ねた。
「んっ……」
華奢な身体。
軽い体重。
そのすべてを預けるように、カレンは良樹を寝台へ押し倒した。
唇を離さない。
これが答えです、と言わんばかりに。
分かってください、と伝えるように。
何度も、深く、良樹へ口づける。
やがて唇が離れると、カレンは良樹の胸の上で息を整えた。
「良樹さん」
「……カレン」
「私はこの前」
「私の全部を貰ってくださいって、言いました」
「ああ」
「それを、疑ってますか」
「……そんなことは、ねえ」
良樹は言葉を詰まらせた。
「けど」
「私は――」
カレンは良樹の胸へ手を置いた。
「いえ」
「私たちは、良樹さんのものです」
良樹がカレンを見る。
「でも」
カレンは、はっきりと言った。
「私は、私なんです」
「……」
「良樹さんのものになったから」
「私が何も考えられなくなったわけではありません」
「良樹さんが望むことを、全部我慢して受け入れているわけでもありません」
カレンの指が、良樹の服を握る。
「私が欲しいんです」
「良樹さんに強く求められることも」
「逃がさないって言われることも」
「俺の女だって、言ってもらうことも」
カレンの声が震える。
恥ずかしい。
それでも、今は隠さなかった。
「私は、良樹さんに強引に奪われて」
一度、唇が止まる。
「ぉ……犯されて」
頬が真っ赤になる。
「孕まされて」
それでも目は逸らさない。
「それで、喜ぶ女なんです」
良樹は何も言えなかった。
「何でそうなのか」
「自分でも、分かりません」
昼間のクリスの言葉が、良樹の頭をよぎった。
自分がなぜそうなのか、説明できない。
それでも、どこまでいっても自分は自分でしかない。
「でも」
カレンは良樹の服を、さらに強く握った。
「それでも信じてもらえないなら」
「良樹さんのものにしてください」
「カレン」
「犯して」
カレンの目が潤む。
「孕ませて」
「その後に」
「私が良樹さんのことを愛しているか、聞いてください」
声は震えていた。
けれど、迷いはなかった。
「絶対に」
カレンは言い切った。
「愛してますって」
「そう言いますから!」
良樹はしばらく、カレンを見つめていた。
自分の恐れ。
自分の疑い。
それがカレンの意思より正しいと思い込もうとしていた。
カレンはもう分かっている。
自分が何を望んでいるのか。
どんな形で良樹を愛したいのか。
良樹よりずっと前に。
「……分かった」
良樹が言う。
カレンの目から、涙が一粒だけ落ちた。
「でも」
良樹はカレンの頬へ触れる。
「嫌なら言え」
「はい」
「痛かったら言え」
「はい」
「途中で怖くなったら」
「俺を止めろ」
「はい」
「何度でも聞く」
良樹はカレンを見つめた。
「そのたびに答えてくれ」
カレンは涙を浮かべたまま、嬉しそうに微笑んだ。
「はい」
「何度でも答えます」
カレンは良樹の上から身体を起こした。
「良樹さん」
そう言って、寝台へうつ伏せになる。
顔はすでに真っ赤だった。
良樹への宣言。
自らの欲。
その両方を欲しがる女が、そこにいた。
カレンは震える指を、自分の腰へ伸ばした。
自分からショーツを少しずらす。
「見て、ください」
良樹は息を呑んだ。
「もう」
「こんなになってるんです」
布地には、隠しようのない染みができていた。
「良樹さんに」
「犯してもらえると思って」
「期待して」
カレンの声が、涙を含む。
「こんなふうになるんです」
少しだけ顔を伏せる。
「……こんな女でも、良かったら」
泣きそうな声だった。
けれど、それは拒絶を恐れるだけの声ではない。
自分の全部を差し出し、その形で愛してほしいと求める声だった。
「犯してください」
「孕ませてください」
カレンは、振り返って良樹を見る。
「愛して、ください」
良樹は答える代わりに、カレンの上へ身体を重ねた。
「カレン」
「はい」
「お前は俺の女だ」
カレンは幸せそうに目を閉じた。
「はい」
「俺だけの女だ」
「はい」
「誰にも渡さねえ」
「はい」
良樹は、カレンを抱き締めた。
その夜。
良樹は何度も、カレンを自分の女だと呼んだ。
カレンも何度も、自分を良樹のものにしてほしいと求めた。
二人が互いの愛を確かめ合う声が止むまで。
夜は、静かに更けていった。
◇
朝。
柔らかな光が、寝台の上へ差し込んでいた。
良樹が目を開ける。
すぐ目の前に、カレンの顔があった。
頬にはまだ、昨夜の名残のような赤みが残っている。
カレンは良樹の胸元へ身体を寄せ、幸せそうに彼を見つめていた。
「――おはようございます」
「……おはよう、カレン」
良樹はまだ寝ぼけていた。
目は開いている。
だが、頭はほとんど動いていない。
そんな良樹を、カレンはじっと見つめる。
「聞いてください」
「……何を」
「聞いてください」
もう一度。
カレンは、愛の言葉を催促するように言った。
良樹はしばらく瞬きをする。
それから。
昨夜交わした約束を思い出した。
「ああ――」
ようやく頭が動き始める。
「そうか」
「はい」
カレンは待っている。
良樹が尋ねるのを。
昨夜、何度も求められた言葉の、その先を。
「カレン」
「はい」
「俺は昨日」
「何度も、お前を犯した」
「はい」
カレンの頬が赤くなる。
けれど、目は逸らさない。
「お前を、孕ませようとした」
「はい」
「俺の女だって」
「何度も言った」
「はい」
カレンは、良樹の胸へ手を置いた。
「私も、何度もそう言わされました」
「犯してくださいって」
「孕ませてくださいって」
「良樹さんのものにしてくださいって」
良樹はカレンを見る。
「でも」
カレンは微笑んだ。
「良樹さんに言わされたから」
「仕方なく言ったんじゃありません」
「私が、そう言いたかったから言いました」
良樹は黙って聞いていた。
「私」
カレンは少しだけ息を吸った。
「最初から、こういうことをしてほしくて」
「良樹さんを好きになったんじゃありません」
「良樹さんだったから、好きになったんです」
カレンの声は穏やかだった。
「私が怖がることを」
「弱いことにしなかった」
「守られるだけの女にしなかった」
「私が見つけた危険を」
「必要なものだと言ってくれた」
「良樹さんの隣に」
「私がいる場所を作ってくれた」
良樹は何も言えなかった。
「だから」
「好きになりました」
カレンの指が、良樹の胸をそっと撫でる。
「それからです」
「良樹さんを好きになって」
「良樹さんに触れられて」
「良樹さんに求められて」
「私は」
「自分が、どんなふうに愛されたい女なのか分かったんです」
カレンの頬が、さらに赤くなる。
それでも、言葉は止めなかった。
「触られるだけで」
「染みができるほど濡れてしまうのも」
「犯すって言われただけで」
「身体が熱くなるのも」
良樹の呼吸が止まる。
「犯してくださいって言いたい相手も」
「孕ませてくださいって言いたい相手も」
「愛してる相手も」
カレンは一つずつ、自分の心を確かめるように言葉を置いた。
「全部」
良樹をまっすぐに見つめる。
「良樹さんだからです」
カレンは良樹の胸へ、そっと頬を寄せた。
「だから」
「私は、良樹さんの女です」
良樹の腕が、自然とカレンの背へ回る。
「私にとっては」
カレンは良樹の腕の中で続ける。
「犯してくださいも」
「孕ませてくださいも」
「愛してくださいも」
一度、目を閉じる。
「きっと、全部同じなんです」
「それで喜ぶ女です」
「良樹さんを好きになって」
「良樹さんに愛されて」
「私は、自分がそういう女なんだって分かりました」
カレンは顔を上げた。
「だから」
「聞いてください」
良樹は、カレンの頬へ手を添えた。
昨夜の自分。
欲を向けた自分。
それを受け止め、同じだけの欲を返したカレン。
良樹は、もう逃げなかった。
「俺を、愛してくれるか」
カレンの瞳が揺れる。
良樹は、さらに言った。
「愛してくれ、カレン」
カレンは、言葉で答えるより先に良樹の唇へ自分の唇を重ねた。
そのまま舌を差し入れる。
二人の舌が絡み合う。
良樹も、逃げずに受け止めた。
やがて唇が離れる。
唾液が、二人の間で細い糸を引いた。
カレンは良樹のすぐ目の前で、幸せそうに目を閉じた。
「はい」
カレンは微笑んだ。
「愛しています」
一度だけ、良樹の頬へ触れる。
「良樹さんを」
迷いなく。
昨夜よりも確かな声で。
「愛しています」




