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第121話 技術の前には、すべて平等

 その日の昼前。


 良樹たちは、ノーラの工房を訪れていた。


 扉を開ける前から、中が騒がしい。


 槌の音ではない。

 誰かの笑い声と、子供のはしゃぐ声。


「ロブ、もう一回!」


「待てって」

「耳を引っ張るな、耳を」


「高い!」


「そりゃ肩に乗せてるからな」


 良樹が扉を開く。


 工房の中央に、ロブが立っていた。


 その肩には、ノーラとケーンの息子であるカイルが跨がっている。


 カイルは、ロブの長い兎耳を両手で掴み、楽しそうに揺らしていた。


 ロブは嫌がっているような声を出してはいる。


 だが、降ろそうとはしていない。


「随分、懐かれたな」


 良樹が声をかけると、ロブが振り返った。


「このガキが勝手に乗ってきたんだよ」


「ロブがしゃがんでくれた!」


 カイルが元気よく訂正する。


「しゃがまねえと乗れねえだろうが」


「乗せてんじゃねえか」


「うるせえ」


 良樹は少し笑った。


 ロブの肩に乗るカイルを見ていると、昔のリナもこうして運ばれていたのだろうと思う。


 ロブにとっては、珍しいことでもないらしい。


 その横では、グレッグが作業台へ向かっていた。


 短く整えられた、茶と金の間のような髪。

 眼鏡。

 細い目。

 青を基調とした学者服。

 頭には、同じ青系の学者帽。


 かなり痩せた身体を作業台へ乗り出し、いくつもの魔石と記録紙を見比べている。


 ノーラは炉の近くで腕を組み、ケーンは小さな金具を削っていた。


「来ましたな、良樹殿!」


 グレッグが顔を上げる。


「ちょうどよいところですぞ」

「ロブ殿と、次の試験について話していたところです」


「その前に」


 ロブが口を挟んだ。


「アルフはどうなった」


 良樹の表情が少しだけ落ち着く。


「休ませてる」

「飯を食わせて、寝かせた」

「今日は試験禁止だ」


「そうか」


「次は、実際に使われてる付与道具の解除だ」

「石だけじゃなく、布、革、木、金属」

「材質ごとに、ちゃんと元へ戻せるかを見る」


 ロブは黙って聞いていた。


「それができたら、井戸だ」

「最後に、集落のみんなへかかった付与を外す」


「……そうか」


 ロブの耳が、ゆっくりと立った。


「止まってねえなら、それでいい」


「止め方を教えてんだよ」


 一瞬の沈黙。


 ロブが、鼻で笑った。


「それはそうだな」


「耳!」


 カイルが立ち上がりかける。


「立つな!」

「肩の上で立とうとすんな!」


 ロブが慌ててカイルの脚を掴む。


 リシアがすぐに近づいた。


「はい、カイルくん」

「そろそろお姉ちゃんたちと遊びましょうね」


「まだ乗る!」


「また後で乗せてもらいましょう」


 カレンも手を伸ばす。


「あ、あの……危ないですから」

「こちらへ来てください」


 クラリスは穏やかに微笑んだ。


「ロブさんのお耳も、少し休ませてあげましょう」


「耳、痛い?」


「痛くはねえ」


「では、まだ大丈夫です」


「クラリス、そっちへ行くな」


 リシアが即座に止めた。


 三人がかりで、どうにかカイルをロブの肩から回収する。


 ノーラがその様子を見て笑った。


「すっかり扱いが上手くなったね」

「あんた達、よろしくやってんのかい」


 三人妻の動きが、一瞬だけ止まった。


「ええ、まあ」


 リシアは少しだけ頬を赤くしながら答えた。


「はい……」


 カレンも顔を赤くする。


 クラリスだけは、いつものように微笑もうとして。


 少しだけ失敗した。


 今日は火曜日。


 その事実が、急に胸の奥へ落ちてきたからだ。


「クラリス?」


「何でもありません」


「顔、赤いわよ」


「炉が近いからです」


「炉は反対側だけど」


「気のせいです」


 クラリスはそう答え、カイルの手を取った。


 良樹はそのやり取りに気づかないまま、作業台へ近づいていた。


「それで」


 グレッグが記録紙を広げる。


「昨日までの試験結果ですぞ」


 紙には、いくつもの波のような線と、グレッグの細かな文字が並んでいる。


「声は届くようになった」

「しかし、まだ歪む」

「低い音は比較的残りますが、高い音が崩れやすい」

「距離を伸ばすと、雑音も増えますな」


 ロブが作業台の横へ立つ。


「声が小せえところは潰れる」

「でけえ声を出せば届くが、今度は音が割れる」


「今の方式がAMだからな」


 良樹は記録紙を覗き込んだ。


「魔石の鳴りの強さを、声の形に合わせて変えてる」

「遠くまで届かせやすい」

「ただし、途中で別の魔力の揺れを拾うと、その揺れまで声に混ざる」


 ケーンが削っていた金具を置いた。


「つまり、強くしたり弱くしたりする部分に」

「他の揺れまで入ってくるのか」


「ああ」

「この魔石で比べるなら、AMは距離を稼ぎやすい」

「その代わり、声は汚れやすい」


 ロブが腕を組む。


「なら、どうする」


 良樹は魔石を一つ手に取った。


「まずはFMだ」


 ロブとグレッグが、ほとんど同時に首を傾げた。


「えふえむ?」


「何ですかな、それは」


 その瞬間。


 リシア、カレン、クラリスの三人が顔を見合わせた。


 良樹の声が、少し弾んでいる。


 目も、先ほどより輝いている。


 説明のスイッチが入った。


「はい、カイルくん」

「お姉ちゃんたちと向こうで遊びましょうねー」


 リシアが明るく言った。


「何か飲み物をいただきましょう」


 クラリスも続く。


「ノーラさん、お手伝いします」


 カレンがカイルのもう片方の手を取る。


「お前ら、どこ行くんだよ」


 良樹が振り返る。


「邪魔しないようにするだけよ」


「この前、話を途中で聞くのを諦めただろ」


「諦めてないわ」

「経験を活かして、早めに退避してるの」


「それを諦めたって言うんじゃねえのか?」


「違います」


 クラリスが清楚に答えた。


「役割分担です」


 三人妻はカイルを連れ、ノーラと共に工房の端へ移動していった。


 良樹は少しだけ納得できない顔をした。


 だが、目の前にはロブとグレッグとケーンがいる。


 説明を聞く気がある者が三人。


 十分だった。


「FMってのはな」


 良樹は魔石を指先で転がした。


「鳴りの強さじゃなく、鳴りの高さを動かす」


「高さ?」


 ロブの耳が動く。


「ああ」

「石の鳴りの高さは、ドンピシャ一種類って訳じゃねえ」

「幅がある」

「少しくらい上や下へずれても、受け側は同じ石の音として拾える」


 グレッグが眼鏡を押し上げた。


「共鳴可能範囲ですな」


「そうだ」

「その幅を使うんだよ」


 良樹は紙へ一本の線を描く。


 その線を、声に合わせて上下へ揺らした。


「声に合わせて、魔石の鳴りを少し高くしたり、低くしたりする」

「強さが多少乱れても、高さの変化さえ読めれば声へ戻せる」

「だから、AMより雑音に強くできる可能性がある」


 ケーンが線を見つめる。


「だが、鳴りの高さを変える道具がいる」


「ああ」

「しかも、変えたものを受け側でも元へ戻さなきゃならねえ」


「今より部品が増えるな」


「増える」


 良樹は即答した。


「作る難しさも上がる」

「それに、この石だとAMより届く距離が落ちるかもしれねえ」

「だから、今すぐ全部FMに変える話じゃない」


 ロブは目を細めた。


「まず今のを使えるようにする」


「そうだ」

「AMを完成させる」

「声が聞き取れるようにする」

「距離」

「向き」

「石の個体差」

「魔力切れ」

「混ざった時の切り分け」

「まず、そっちだ」


 グレッグは記録紙へ猛烈な勢いで書き込んでいる。


「なるほど」

「なるほど、なるほど……!」


 ロブがグレッグの紙を覗く。


「おい」

「文字が速すぎて読めねえ」


「後で清書しますぞ」


「今、読ませろよ」


「今は考える方が先です」


「教える側が読ませるの後回しにすんな」


 二人が言い合う。


 だが、どちらも楽しそうだった。


 良樹は、少しだけ口元を緩めた。


「それから」


「まだあるのか」


 ロブが良樹を見る。


「あとは、デジタル化ってのもある」


 グレッグの筆が止まった。


「でじたる?」


「ただし、これはまだ早え」

「もっと先の話だ」


「おい」


 ロブが眉を寄せる。


「そこまで言ったなら、最後まで言えよ」


「説明したら長くなるぞ」


「今さらだろ」


 良樹は一瞬黙った。


 それから、ロブを見る。


「ロブ」

「俺たちの声が、一秒に何回くらい震えてるか」

「お前、聞いて分かるか?」


「一秒に何回?」


「ああ」

「音の揺れだ」


 ロブの耳が立つ。


 片方が良樹へ向き、もう片方がグレッグへ向く。


 良樹が低く声を出す。


「あー」


 ロブは目を閉じた。


「お前の声の芯は、百何十くらいだ」

「喋ると、もっと細けえ音が上に混ざる」


「グレッグは?」


 グレッグも声を出す。


「あー」


「お前の方が少し高え」

「二百に近い」

「だが、言葉を作ってる細けえ音は、それよりずっと速い」


 良樹は思わず笑った。


「本当に聞き分けんのかよ」


「聞こえるもんは聞こえる」


「グレッグ」

「魔石の鳴りは?」


 グレッグが別の記録紙を取り出した。


「拙者らの測り方が正しければ」

「人の声に含まれる細かな揺れよりも、さらに二桁以上速いですな」

「石自体は、その速さでの変化にも追従しております」


 良樹は頷いた。


「なら、理屈の上では足りる」


「何にだよ」


 ロブが聞く。


「声を細かく区切る」

「一瞬ごとの波の大きさを、数字に置き換えるんだ」


「声を、数字に?」


「ああ」

「その数字を、二種類の状態の切り替えで送る」

「送られた数字を向こうで順番に並べて」

「また音に戻す」


 ロブの耳が、ゆっくりと立ち上がっていく。


「待て」


 作業台へ両手をつく。


「声そのものを飛ばすんじゃねえのか」


「飛ばさねえ」


「声を数字にして」

「数字だけ飛ばして」

「向こうで声へ戻す?」


「そうだ」


 ロブは黙った。


 グレッグも黙った。


 ケーンも、手元の金具を持ったまま動かない。


 工房の端から、リシアが小さく呟いた。


「……今度は、何を言い出したのかしら」


 カレンが首を傾げる。


「声を、数字にするみたいです」


「なるほど」


 クラリスが頷いた。


「全く分かりませんね」


「ええ」


 三人は、無理に分かろうとするのをやめた。


 作業台では、ロブがようやく口を開いた。


「それができたら」

「今みてえに途中で音が少し歪んでも」

「数字さえ間違ってなきゃ、元の声へ戻せるのか?」


「その可能性がある」

「だが、簡単じゃねえぞ」


 良樹は指を折る。


「声を一定の速さで拾う仕組み」

「波を数字へ変える仕組み」

「数字を順番通りに送る仕組み」

「どこからどこまでが一つの声かを揃える仕組み」

「数字が抜けたり、間違ったりした時に気づく仕組み」

「向こうで音へ戻す仕組み」


「多いな」


「多い」

「だから、その先だ」


 グレッグが震える手で眼鏡を押し上げた。


「しかし」

「不可能ではない」


「今ある魔石の速さならな」


「声を数字に」

「数字を魔石で送り」

「離れた場所で、再び声にする……」


 グレッグの細い目が、わずかに開いていた。


 その奥に、明らかな火が灯っている。


「面白い」


 声が震える。


「面白いですぞ、ロブ殿!」


「近えよ」


「声は、声のまま運ぶ必要がない!」

「意味を数字へ置き換えればよい!」

「ならば声だけではない」

「文字も」

「記録も」

「数も送れる!」


「まだそこまで言ってねえ」


 良樹が止める。


 だが、グレッグは止まらなかった。


「ロブ殿!」


「何だよ」


「やりますぞ」


「だから何をだよ」


「まずはAMを完成させます」

「そしてFM」

「その先に、数字で声を送る技術を作るのです!」


 良樹が口を挟む。


「順番を飛ばすなよ」

「まずはAMだ」

「それからFMだ、グレッグ」


「承知しておりますとも!」


 グレッグはロブの両肩を掴んだ。


「ロブ殿と拙者で、世界に革命を!」


「話がでけえんだよ」


「離れていても声が届く」

「誰の助けを求める声も聞き漏らさない」

「そんな世界にするのです!」


 ロブは、呆れた顔でグレッグを見た。


 だが。


 その長い耳は、真っ直ぐに立っていた。


「……まずは」

「今の声を、ちゃんと聞けるようにしてからだ」


「もちろんですぞ!」


 二人はすぐに作業台へ向き直った。


 良樹は、その背中を少しだけ眺める。


 もう自分がいなくても、二人は話を進められる。


 知識を持つグレッグ。


 人間にはない感覚で、答えの近くへ飛ぶロブ。


 二人だからこそ、行ける場所がある。


「良樹」


 リシアが隣へ来た。


「そろそろ、行く?」


「ああ」


「いいの?」

「まだ話したそうだけど」


「今は、あいつらの時間だ」


 良樹は少しだけ笑った。


「俺が混ざるより、勝手に燃やしといた方が進む」


 リシアは作業台を見る。


 ロブとグレッグは、もう良樹たちの存在を半分忘れていた。


「……そうみたいね」


   ◇


 ノーラの工房を出た良樹たちは、そのままギルドへ寄った。


 急ぎの用事ではない。


 だが、良樹には一つ、聞いておきたいことがあった。


 ギルドの奥へ入ると、ガレスが机の上の書類を睨んでいた。


「よぉ、良樹」

「なんか久しぶりに感じるな」


「そうでもねえよ、ガレス」


 良樹は空いている椅子へ腰を下ろす。


 リシア、カレン、クラリスも、その近くへ座った。


「ところで、あのグレッグなんだけどよ」


「ああ」


 ガレスは、すぐに何の話か分かったらしい。


「火がついてただろ」


「ついてたどころじゃねえ」

「ロブと二人で世界に革命を起こすそうだ」


 ガレスが吹き出した。


「そりゃまた、随分でかく出たな」


「離れてても声が届く」

「誰の助け声も聞き漏らさねえ世界にするんだと」


 ガレスは一度笑ったあと、少しだけ目を細めた。


「……グレッグらしいな」


「どんな奴なんだ、あいつ」


「変な奴だ」


「見りゃ分かる」


「お前が言うな」


 ガレスは椅子の背へ身体を預けた。


「頭が良い」

「良すぎるくらいにな」


「だろうな」


「生まれは貧しい」

「子供の頃から、食うものにも困ってたそうだ」


 リシアの表情が少し変わる。


「それで、あそこまで学んだの?」


「ああ」

「文字を覚えて」

「計算を覚えて」

「魔石を覚えて」

「食うために学んで」

「学ぶために、さらに食うものを削った」


 ガレスは鼻を鳴らした。


「前に、亜人の集落の暮らしを見せた時も」

「周りが何て声をかけるか迷ってる中で、あいつだけ平然としてた」


「何て言ったんだ」


 ガレスは、少しだけグレッグの口調を真似た。


「拙者も飢えた時は、その辺の蛇を捕まえて食していましたし」

「大して変わりませぬな」


 良樹は一瞬黙った。


「……筋金入りだな」


「蛇って、食べられるの?」


 リシアが聞く。


「毒さえ避けりゃ、食えるらしいぞ」

「あいつは焼けば大抵のものは食えると言ってた」


「逞しいですね……」


 カレンが小さく呟く。


 ガレスは頷く。


「だから、亜人の暮らしを見ても、驚かなかった」

「可哀想だとも」

「人間より遅れてるとも言わなかった」


 良樹はガレスを見る。


「貧しさを知ってるからか」


「それもあるだろう」

「だが、あいつの根はそこじゃねえ」


 ガレスは少しだけ真面目な顔になった。


「グレッグにとっては」

「技術の前には、全て平等なんだ」


 部屋が、少しだけ静かになる。


「人間も」

「亜人も」

「貴族も」

「貧民も」

「男も女も関係ねえ」


 ガレスは言った。


「分かる奴は分かる」

「できる奴はできる」

「知らないなら学べばいい」

「技術の前に立った時、生まれなんぞ答えを変えねえ」

「そういう奴だ」


「だから」

「ロブに教えることも断らなかった?」


 クラリスが尋ねる。


「ああ」


 ガレスは頷いた。


「お前に、ロブへ教師をつけてくれって頼まれただろ」


「ああ」


「だが、誰もやりたがらなかった」

「相手が亜人だから」

「文字も計算も知らねえから」

「どうせ教えても分からねえから」

「そんな理由ばかりだった」


 カレンが、少しだけ目を伏せる。


「最後に、グレッグへ頼んだ」


「何て言った」


「――別に、誰が相手でも同じですぞ」


 ガレスは短く答えた。


「それだけだった」


「グレッグらしいわね」


 リシアが言う。


「立派なことを言うでもなく」

「亜人だから助けるでもなく」

「本当に、誰でも同じなのね」


「ああ」


 ガレスは机の上で指を組んだ。


「ただな」

「あの頃のグレッグは、少し腐ってた」


「腐ってた?」


「自分が死ぬほど苦労して覚えたことを」

「学ぶ気もねえ奴が、分からないの一言で投げる」

「教えても聞かねえ」

「理解できねえと、話す側が悪いことにされる」


 良樹は小さく息を吐いた。


「――分かるな、それ」


 ガレスが良樹を見る。


「分かるのか」


「ああ」

「知らねえことは悪くねえ」

「分からねえことも悪くねえ」

「でも、分かろうともしねえ奴は教えようがねえ」


「お前ら、やっぱり似てんのかもな」


「やめろ」

「あそこまで変じゃねえ」


 三人妻の視線が良樹へ集まった。


「何だよ」


「何でもないわ」


 リシアが答えた。


「はい」


 カレンも頷く。


「続けてください」


 クラリスはガレスを促した。


 ガレスは少し笑う。


「まあ、そんなだから」

「グレッグは、誰に教えても同じだと思ってたんだろうよ」


「同じ?」


「どうせ本気で聞く奴はいねえ」

「どうせ、自分の話を理解できる奴なんていねえ」

「誰が相手でも同じ」

「そういう諦めも混じってた」


 良樹は、工房で見たグレッグを思い出す。


 作業台へ身を乗り出し。

 眼鏡の奥の細い目に、火を灯していた男。


「最初に会わせた時は、暗い目をしてた」


 ガレスが続ける。


「だが、一日」

「二日と経つうちに変わった」


「ロブが、教えたものを吸収したからか」


「それだけじゃねえ」


 ガレスは笑った。


「教えたそばから覚える」

「覚えたことを、すぐ使う」

「分からなければ、何度でも聞く」

「そして」


 ガレスは片手を上げた。


「グレッグが教えた知識に」

「ロブにしか聞こえねえ音を持ち込んできた」


 犬人族の遠吠え。


 魔石の鳴り。


 声の強弱。


 共鳴のずれ。


「グレッグが何年もかけて覚えた理屈を」

「ロブは教えられたそばから吸収する」

「そのうえで、自分の耳から得た答えを返してくる」


 良樹は、ゆっくり頷いた。


「教え甲斐のある生徒って話じゃねえな」


「ああ」


「学ぶ姿勢なんて、最初から通り越してる」


 良樹は言った。


「グレッグは」

「初めて自分と対等に話せる奴を見つけた」


 少し考え、言い直す。


「いや」

「自分より先へ行くかもしれねえ奴を見つけたんだ」


 ガレスは頷いた。


「そういうことだろうよ」


「ロブの天才性に惚れた」


「惚れた?」


「俺のいたところの言い方なら」

「脳を焼かれたってやつだ」


「何だそりゃ」


「一度見たら」

「もう前と同じじゃいられねえくらい、そいつの才能にやられたってことだよ」


 ガレスは一度考えた。


 そして笑った。


「なら、焼かれたんだろうな」


「光が戻った、くらいじゃねえ」


「ああ」


 ガレスは静かに言った。


「火がついた」


 良樹は椅子の背へ身体を預けた。


「本当は」

「ロブには俺が教えるつもりだったんだけどな」


「忙しかったから、俺に教師を探せって投げた」


「投げてねえ」

「頼んだんだよ」


「似たようなもんだ」


「違う」


 ガレスは笑った。


「だが、お前が教えなくて正解だったかもしれねえな」


 良樹は反論しなかった。


 自分が教えていたら。


 ロブの才能は見つけられたかもしれない。

 通信の形も、ある程度は作れたかもしれない。


 だが。


 あの二人の関係は生まれなかった。


「俺は」

「ロブに先生をつけたつもりだったんだけどな」


 良樹は小さく笑った。


「逆だったのかもしれねえ」

「グレッグにも、ロブが必要だった」


「そうだな」


 ガレスは頷く。


「お前は本当に」

「埋もれてる変な奴を見つけて、火をつけるな」


「俺がつけたんじゃねえよ」

「ロブとグレッグが、勝手に燃えたんだ」


「薪を同じ場所へ置いた奴が、何言ってやがる」


「置いただけだ」


「火の近くへな」


 良樹は何も言えなくなった。


 リシアが、少しだけ笑う。


「また人たらしが増えたわね」


「増えてねえよ」


「増えましたね」


 クラリスが穏やかに言う。


「ロブさんとグレッグさんですから、二人です」


「数えるな」


 カレンも、小さく笑っていた。


   ◇


 ギルドを出て。


 家へ向かい始めた頃から。


 クラリスは、どこか落ち着かなかった。


 良樹はまだ、先ほどまでの興奮が冷めていないらしい。


「数字を送るなら、基準になる刻みが要るよな」

「送る側と受ける側で速さがずれたら、途中から全部違う数字になる」

「いや、その前に魔石を二状態へ切り替える方法を――」


 歩きながらも、時折ぶつぶつと考え込んでいる。


 クラリスは、その横顔をそっと盗み見た。


 堂々と見ればよい。


 自分は良樹の妻なのだから。


 普段の自分なら、そう言う。


 そして、実際にそうする。


 良樹くんを見たいから見ています。

 何か問題がありますか。


 そう平然と言えるはずだった。


 けれど今は、できなかった。


 今日は、火曜日。


 自分の番。


 そう意識した瞬間から、良樹の姿を見るだけで胸の奥が熱くなる。


 もう一度、横顔を見る。


 ――かっこいい。


 技術の話を考えている時の、真剣な顔。


 少し眉間に皺を寄せ。

 見えない盤を頭の中で組んでいるような目。


 良樹の腕へ視線が落ちる。


 太くて、逞しい腕。


 あの腕に、もうすぐ抱かれる。


 服の上から分かる胸板を見る。


 厚くて。

 男らしくて。


 あの胸へ顔をつけて、寄りかかりたい。


 良樹の匂いと体温を、すぐ近くで感じたい。


 挿絵(By みてみん)


 早く、抱かれたい。


 もう、待ちきれない。


 けれど、まだ家にも着いていない。


 夕食もある。

 片付けもある。

 湯浴みもしなければならない。


 我慢しなくては。


 クラリスは、また良樹の顔を盗み見る。


 目が合いそうになり、慌てて逸らした。


「――クラリス」


 耳元で、リシアの声がした。


 クラリスの肩が小さく跳ねる。


「はい?」


「あとちょっとよ」

「頑張りなさい」


「……何のことでしょうか」


 反対側から、カレンもそっと囁く。


「ご飯は、なるべく簡単なものにしましょう」

「さっと済ませてしまいましょうね?」


「――え?」


 クラリスは二人を見る。


 リシアは呆れたように。

 けれど楽しそうに笑っていた。


「顔に出すぎよ」


 カレンも頬を少し赤くしながら、柔らかく微笑む。


「待ちきれないですよね」


 クラリスは口を開いた。


 違います。


 何でもありません。


 そう言うつもりだった。


 だが、言葉が出てこない。


 リシアとカレンは顔を見合わせる。


 そして、声を揃えた。


「「だから、早く帰りましょう」」


 クラリスは、しばらく二人を見つめたあと。


 頬を赤くしたまま、こくんと頷いた。


「何の話だ?」


 少し前を歩いていた良樹が振り返る。


「何でもないわ」


 リシアが即答した。


「今日は、夕食を早めにしましょうという話です」


 クラリスが、どうにか平静を装う。


「そうか」

「なら、帰ったら俺も手伝う」


「良樹は座ってなさい」


「何でだよ」


「いいから」


 良樹は首を傾げた。


 だが、三人の歩く速さが少し上がったため、考える間もなくその後を追った。


   ◇


 家へ帰ってからの三人妻は、妙に手際が良かった。


 夕食は、簡単に温められる煮込みとパン。


 いつもより皿も少ない。

 片付けも早い。


 良樹が手を出そうとすると、リシアに座らされ。


 クラリスが立ち上がろうとすると、カレンに止められた。


「今日は、私がします」


「ですが」


「いいんです」

「クラリスは、準備がありますから」


「準備?」


 良樹が聞く。


 カレンの顔が真っ赤になった。


「あ、あの」

「明日の、準備です」


「明日?」


「何でもないわよ」


 リシアが強引に話を切る。


 クラリスは俯いたまま、煮込みを口へ運んだ。


 味は分かる。


 だが、何を食べているのかは、半分くらい頭に入っていなかった。


 良樹が向かいにいる。


 今夜。


 もう少し。


 あと少しだけ。


 夕食が終わる。


 皿を片付ける。


 湯浴みを済ませる。


 髪を乾かす。


 用意していたものへ着替える。


 一つずつ終わるたびに、心臓の音が大きくなった。


   ◇


 夜。


 良樹の部屋の扉が、控えめに叩かれた。


「良樹くん」

「……入っても、よろしいですか」


「ああ」


 扉が、ゆっくりと開く。


 そこに立っていたクラリスを見て、良樹は少しだけ目を見開いた。


 白いブラとショーツ。


 その上には、薄い白のベビードール。


 柔らかな布地が、クラリスの身体を淡く包んでいる。


 いつもの白い法衣とは違う。


 身体を隠すための白ではない。


 良樹に見てもらうための白だった。


 クラリスは、真っ赤な顔で俯いていた。


 心臓の音が、やたらとうるさい。


 良樹くんの顔を見たい。


 どんな目で自分を見ているのか、確かめたい。


 けれど、顔を上げられなかった。


 普段なら、堂々と見ればよいと言う。


 自分は良樹の妻なのだから、と。


 けれど今は、それができない。


「――ああ」


 良樹が、小さく笑った。


「今日は、そっちなんだな」


 クラリスは反射的に顔を上げた。


「……そっち、ですか?」


「ああ」

「可愛い方のクラリスだ」


 クラリスの目が、わずかに揺れる。


 良樹は、すぐに続けた。


「いや」

「いつも可愛いんだけどよ」


 少しだけ言葉を探す。


「清楚な顔で、俺を困らせに来る時と」

「こうやって、自分の方が困ってる時って意味だ」


「……困っているように、見えますか」


「見える」


 良樹は即答した。


「顔、真っ赤だぞ」


 クラリスは、また俯いた。


「……見ないでください」


「その格好で来て、それは無理だろ」


「では……」


 クラリスは、指先でベビードールの裾を握る。


「見てください」

「良樹くんに、見ていただくために着てきました」


 良樹は、しばらくクラリスを見つめた。


「似合ってる」

「すげえ綺麗だ」


 クラリスの肩が、わずかに震える。


「……可愛くは、ありませんか」


「可愛い」


「綺麗なのですか」

「可愛いのですか」


「両方だ」


 良樹がそう答えると。


 クラリスはようやく、ほんの少しだけ笑った。


 挿絵(By みてみん)


 いつもの、何もかも見通しているような清楚な微笑みではない。


 良樹の言葉に安心した、一人の女の子の笑顔だった。


 良樹は、その顔を見て口元を緩める。


「今日は、一緒に寝るだけか?」


 クラリスは目を見開いた。


 次の瞬間。


 大きく首を横に振る。


 違う。


 それだけは、絶対に違う。


 昼間から、ずっと待っていた。


 早く抱かれたいと。

 何度も良樹を盗み見ていた。


 そのために、この姿でここまで来たのだ。


 必死なクラリスの様子を見て、良樹は小さく笑った。


「冗談だ」


 声が、少し低くなる。


「そんな格好で来られたら」

「俺に抱かれるために、その格好で来たんだと思うと」


 良樹は、クラリスへ手を差し出した。


「俺が我慢できねえ」


 クラリスの心臓が、大きく跳ねる。


「来い、クラリス」

「抱かせろ」


 もう、俯いてはいられなかった。


 クラリスは良樹の顔を見つめる。


 自分を求めてくれている男。


 自分の夫。


「……はい、あなた」


 震えていた声が、甘くほどける。


「抱いてください」


 その言葉を口にした瞬間。


 張り詰めていたものが、切れた。


 良樹に引き寄せられるのを待つことさえできなかった。


 クラリスは自分から一歩踏み込み、その唇を奪う。


「クラ――」


 名前を呼び終える前に、唇が深く重なった。


 待ちきれなかった。


 昼間からずっと、こうしたかった。


 ただ、良樹が欲しかった。


 良樹の腕が、クラリスの背へ回る。


 クラリスも、その身体を逃がすまいと首へ腕を絡めた。


「クラリス」


「良樹くん……」


 もう一度、唇が重なる。


 最初は、確かめるように。


 けれど、すぐにそれだけでは足りなくなる。


 良樹がクラリスを強く抱き締める。


 クラリスもまた、その体温を一つも逃がさないように抱き返した。


 二人は互いを求めるまま、もつれるように寝台へ倒れ込む。


 どちらが先に求めたのか。


 どちらが相手を引き寄せたのか。


 もう、分からなかった。


「愛してます、良樹くん」


「ああ」

「俺も愛してる」


 その夜。


 クラリスは何度も良樹の名を呼び。


 良樹の身体を、最後まで離そうとはしなかった。


   ◇


 朝。


 良樹が目を覚ますと、クラリスはまだ眠っていた。


 白金の髪を寝台いっぱいに広げ、枕へ頬を預けている。


 白いベビードールは、寝台の端へ半分落ちかけていた。


 白い下着は、どうにかクラリスの身体へ残っている。


 もっとも、きちんと身につけているとは言い難い。


 肩紐は片方ずれ。

 布地も、昨夜のまま少し乱れている。


 普段のクラリスなら、良樹より先に目を覚ましていてもおかしくない。


 呼吸を確かめる。


 顔色を見る。


 身体に痛むところがないか尋ねる。


 いつもなら、そうしているはずだった。


 けれど今朝は、良樹が目を覚ましても目を開けない。


 穏やかな寝息を立てながら。


 両腕で、良樹の身体を抱き込んでいる。


「……珍しいな」


 良樹は小さく呟いた。


 昨夜のことを思い出す。


 部屋へ入ってきた時には、顔を上げることさえできなかったクラリス。


 けれど、良樹が手を差し出した途端。


 待ちきれなかったように、自分から唇を重ねてきた。


 その後も。


 クラリスは何度も良樹を抱き締めた。


 まるで、離れてしまうことを怖がるように。


「……やりすぎたか」


 良樹は小さく呟いた。


 クラリスの頬へかかった髪を、そっと指で払う。


「……良樹、くん……」


 クラリスが、眠ったまま名前を呼んだ。


 腕が無意識に良樹を探す。


 見つけた身体を、さらに強く抱き込んだ。


 良樹は少しだけ目を丸くする。


「起きてねえのかよ」


 返事はない。


 ただ。


 クラリスの口元へ、満ち足りたような微笑みが浮かんでいた。


挿絵(By みてみん)


 良樹は、その寝顔をしばらく見つめる。


 それからクラリスの身体を抱き寄せ、もう一度枕へ頭を戻した。


「……逃げねえよ」


 聞こえているかも分からない声で告げる。


 するとクラリスは、安心したように良樹の胸へ頬を押しつけた。


「……はい」


「起きてるじゃねえか」


 良樹が言うと。


 クラリスは、ゆっくりと目を開いた。


 青い瞳が、良樹を捉える。


 次の瞬間。


 昨夜のことを思い出したらしい。


 クラリスの顔が、一気に赤くなった。


「……おはようございます、良樹くん」


「ああ」

「おはよう」


 良樹は少し笑う。


「今日はまだ、可愛い方なんだな」


 クラリスは何か言い返そうとして。


 結局、良樹の胸元へ顔を隠した。


「……今は、見ないでください」


「昨日は、見てくれって言っただろ」


「昨日と今朝は、別です」


「そういうもんか」


「そういうものです」


 クラリスは顔を隠したまま、良樹の身体へ腕を回し直した。


「良樹くん」


「何だ」


「もう少しだけ」

「このままでいても、よろしいですか」


「ああ」


 良樹も、クラリスの背へ腕を回す。


「今日は、急ぐ用事もねえ」


「はい」


 クラリスは安心したように目を閉じた。


 その朝。


 二人が寝台を離れたのは、いつもよりずっと遅い時間になってからだった。


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