第120話 だから、よくやった、だ
それから数日後。
昼を少し過ぎた頃、良樹たちの家を訪ねてきたのは、リナ一人ではなかった。
リナ。
マリカ。
トーリ。
シア。
四人とも居間へ通されたものの、どこか落ち着かない様子で顔を見合わせている。
「あの……お姉さま方」
最初に口を開いたのは、リナだった。
リシアは、四人の顔を順に見た。
「アルフくんのことね」
リナの耳だけが、兎のようにぴくりと動いた。
「どうして分かったんですか?」
「その顔で四人揃って来たら、他にないでしょ」
リシアは椅子を勧めた。
カレンが四人分の水を用意し、クラリスはリナたちの顔色を静かに確認する。
「それで」
リシアが卓の向こうへ腰を下ろした。
「アルフくんが、何をしたの?」
「ずっと修行してるんです」
リナは膝の上で両手を握った。
「朝から、夜まで」
「寝てないわけじゃないと思うんですけど、ほとんど寝てなくて」
「食事は?」
クラリスがすぐに尋ねる。
「食べたって言うんです」
「でも、持っていったものが、ほとんど減ってないんです」
マリカが困ったように続けた。
「片手で食べられるものなら、修行しながらでも食べるかと思ったんです」
「でも、それもそのままで」
「今食べるって言うんですけど、その今が全然来なくて……」
カレンの眉が、見るからに下がった。
「食べるつもりは、あるんですよね」
「はい」
リナが何度も頷く。
「嘘をついてるわけじゃないんです」
「本当に、あとで食べるつもりみたいで」
「でも、見に行くたびに、まだ同じことをしてて……」
「付与して、解除して、確認して、記録してる」
トーリが、ぽつりと言った。
「失敗したら、また最初から」
「七回は何度もできた」
「八回もできた」
「昨日は、九回までできた」
「九回まで?」
リシアが聞き返す。
トーリは頷いた。
「十回目で止まった」
「少し残ったから、自分で止めた」
「石は壊してない」
「それから、また最初から始めました」
シアは胸元で両手を重ねていた。
「アルフ様は、危ないと思った時には止まっています」
「石も壊していません」
「良樹様に教えていただいたことを、きちんと守ろうとなさっています」
シアの指に力が入る。
「でも」
「アルフ様ご自身が、止まってくださらないんです」
三人妻は、揃って黙った。
責めるような沈黙ではなかった。
あまりにも、身に覚えがありすぎた。
リシアが額へ手を当てる。
「……分かるわ」
四人が顔を上げる。
「止めても、あと少しだからって聞かないのよね」
「ここまで来たのに、今やめたら全部無駄になるって顔をして」
「もう一回だけ」
「確認だけ」
「ここまで終わったら」
「そんなことを言いながら、全然終わらないの」
マリカが大きく頷いた。
「そうなんです!」
「本当に、まさにそんな感じで……!」
カレンも困ったように微笑んだ。
「食事を持っていっても、後で食べると言うんですよね」
「それで、後から見に行っても、ほとんど手をつけていなくて」
「はい……!」
リナの耳だけが、また兎のように動いた。
「良樹さんも、そうです」
カレンは静かに頷いた。
「本人は、嘘をついているつもりではないんです」
「本当に、あとで食べるつもりなんです」
「ただ、その“あと”が、なかなか来ないんです」
「本人に無茶をしている自覚もありません」
クラリスが続けた。
「必要なことをしているだけだと思っています」
「誰かのために必要だから」
「今、自分が止まる方がいけないのだと」
「ですから、周りが止めても聞いてくださらないのです」
シアが、目を伏せた。
「アルフ様も、そう言いました」
「皆さんを戻せるようになるためだから」
「自分が頑張ればよいだけだから、と……」
三人妻は顔を見合わせた。
やがて、リシアが深く息を吐く。
「感染ってるわね」
四人が瞬きをした。
「うつってる?」
「良樹さんの悪いところが、です」
カレンが、とても困った顔で言った。
「かなり深刻に感染しています」
クラリスも静かに頷いた。
リシアは、もう一度四人を見た。
「でもね」
「悪いところだけが感染ったわけじゃないのよ」
リナたちが顔を上げる。
「アルフくんが一生懸命なのは分かってる」
「誰かのために頑張ってることも」
「今度こそ、ちゃんと元に戻せるようになりたいって思ってることも」
リシアは、少し困ったように笑った。
「だから、無理やり止めたくはない」
「頑張るな、なんて言いたくもない」
「できるなら、隣で支えてあげたい」
カレンが、優しく言葉を継ぐ。
「でも、このままでは無理をしてしまう」
「止めたいけれど、アルフさんの気持ちまで否定したくはない」
「一生懸命なのは分かっている」
「だから、どう声をかけたらよいのか」
「どう支えたらよいのか、分からない」
クラリスが四人へ穏やかな視線を向けた。
「そうなのでしょう?」
四人は、すぐには答えなかった。
やがて、リナが唇を噛み、小さく頷く。
「……はい」
マリカも俯いた。
「頑張ってるのは、本当に分かるんです」
「だから、もうやめてって言うのも違う気がして……」
トーリが、ぽつりと続ける。
「手伝えることがあるなら、手伝いたい」
「でも、今は声をかけると邪魔になる気がする」
シアは胸元で両手を強く握った。
「アルフ様が、私たちのために頑張ってくださっているのに」
「私たちが止めてもよいのか、分からなくて……」
「分かるわ」
リシアは迷わず答えた。
「私たちも、ずっと同じことで悩んできたもの」
カレンも頷く。
「良樹さんが誰かのために頑張っている時ほど、止めるのは難しいです」
「その優しさも」
「一生懸命なところも」
「私たちは好きですから」
「ですが」
クラリスの声が、少しだけ真剣になる。
「支えることと、無茶を見守ることは違います」
「本人だけでは止まれない時に、止める人を呼ぶことも支えることです」
リナが、ゆっくり顔を上げた。
「では、私たちは……」
「間違ってないわ」
リシアが言った。
「アルフくんを裏切ったんじゃない」
「一人で壊れるまで頑張らせないために、私たちを頼ったのよ」
カレンがリナの手へ、そっと自分の手を重ねる。
「よく相談に来てくれました」
クラリスも静かに頷いた。
「皆さんだけで止めることが難しかったのは、当然です」
「ここからは、止められる人にも働いていただきましょう」
リシアが椅子から立ち上がる。
「感染元の師匠にね」
◇
しばらくして。
作業場から呼ばれてきた良樹は、居間へ入るなり眉を寄せた。
「何だ」
「四人まで揃って」
リナたちの顔を見る。
その表情だけで、すぐに何かを察した。
「アルフに何かあったのか」
「先に座って」
リシアが椅子を指した。
「いや、アルフの話なら――」
「座って」
今度はカレンとクラリスも、黙って良樹を見た。
良樹は三人の顔を順に確認したあと、諦めたように椅子へ腰を下ろした。
「……何した、俺」
「まだ何もしていないわ」
リシアは腕を組む。
「正確には、もうしていたことが判明したところね」
「どっちだよ」
クラリスが静かに口を開いた。
「アルフさんが、ほとんど食事も睡眠も取らずに、解除術式の訓練を続けています」
良樹の表情が変わった。
「いつからだ」
「数日前からです」
リナが答えた。
「止めても聞いてくれなくて」
「十回連続で成功するまでは、まだ足りないって」
「師匠なら、これでは認めてくれないって……」
良樹は黙った。
ほんのわずかに視線を落とす。
「……俺が言ったからか」
「良樹さんの言葉だけが原因ではないと思います」
カレンが優しく言った。
「アルフさんは、自分でも納得したいんです」
「皆さんを元の姿へ戻せるようになりたい」
「道具で確実に解除できるようになるまで、人には使わない」
「そう決めて、一生懸命に頑張っています」
「悪いところだけが感染ったわけじゃないわ」
リシアも続けた。
「誰かのためなら、自分のことを後回しにするところ」
「あと少しで届くと思ったら、止まれなくなるところ」
「そこまで見事に感染ってる」
「感染って言うな」
「では、継承でしょうか」
クラリスが微笑んだ。
「もっと悪い言い方になってねえか?」
「呼び方は何でもいいのよ」
リシアの声が少し低くなる。
「良樹」
「アルフくんに、何て言ったの?」
「十回成功してから喜べ」
「それだけ?」
「十回成功しても、その次を見るとも言った」
「一回できたからって、人に使わせる気はねえ」
「休む条件は?」
クラリスが尋ねる。
良樹の口が止まる。
「食事を取る時間は?」
「……言ってねえ」
「一日に行う回数の上限は?」
「決めてねえ」
「次に良樹くんが確認する日時は?」
「……決めてねえ」
「不十分です」
クラリスは即答した。
「はい」
良樹は素直に認めた。
リシアが少し目を見開く。
「今日は早いわね」
「今、反論してる場合じゃねえだろ」
良樹は立ち上がった。
「アルフはどこだ」
「いつもの試験場所です」
トーリが答える。
「今も、まだ続けてる」
「ニルさんが傍にいてくださっています」
シアも続けた。
「ですが、ニルさんが止めても……」
「聞かねえか」
四人が頷いた。
良樹はすぐに戸口へ向かった。
その背中へ、カレンが声をかける。
「良樹さん」
「何だ」
「怒鳴らないであげてください」
良樹は足を止めた。
「アルフさんは、良樹さんに逆らっているわけではありません」
「認めてもらいたくて、頑張りすぎてしまっただけです」
「分かってる」
「本当に?」
リシアが念を押す。
「ああ」
良樹は振り返った。
「怒りに行くんじゃねえ」
「止めに行く」
クラリスが立ち上がる。
「私たちも行きます」
「来るのか」
「当然でしょう」
リシアが答えた。
「アルフくんを止めたあと」
「感染元にも、追加の指導が必要だもの」
「今やっただろ」
「今のは事前確認です」
クラリスが穏やかに答える。
「本番は後です」
「まだあんのかよ」
「あります」
「あります」
「あるわ」
三人の声が揃った。
良樹は深く息を吐いた。
「……分かった」
「説教は後で聞く」
「今はアルフだ」
リナたちも立ち上がる。
「あの、私たちも――」
「来い」
良樹は迷わず答えた。
「お前らが呼びに来てくれたんだ」
「最後まで一緒に止めるぞ」
リナは一瞬目を見開き、それから強く頷いた。
「はい、良樹様」
◇
良樹たちが試験場所へ着いた頃には、陽が西へ傾き始めていた。
まだ夕方と呼ぶには少し早い。
だが、昼の明るさはもう薄れ始めている。
「もうやめるっすよ、アル」
先に、ニルの声が聞こえた。
その声には、いつもの軽さがなかった。
「手ぇ震えてるじゃないっすか」
「もうまともに立ててもいないっすよ」
「まだ……」
アルフの掠れた声が返る。
「まだ、足りない」
「次は、できるかもしれないから」
試験台の前に、アルフがいた。
青い髪は乱れ、目の下には濃い影がある。
頬も少し痩せて見えた。
片手を石片へかざしている。
手元の術式は、まだ崩れていない。
だが、指先は小さく震えていた。
傍らには、何枚もの記録板が積まれている。
七回連続成功。
八回目停止。
八回連続成功。
九回目残留魔力。
九回連続成功。
十回目自主停止。
同じような記録が、何度も何度も並んでいた。
ニルはアルフのすぐ隣に立っている。
止めようとしている。
だが、無理に手を出せば術式を乱すと分かっているため、手を伸ばせずにいる。
良樹は二人のところへ真っ直ぐ歩いた。
「もういい」
「止めろ」
アルフの肩が跳ねた。
「師匠……」
「止めろ」
「まだ」
「まだやれます」
「まだ連続で十回、できてません……!」
「駄目だ」
良樹の声は低かった。
「止めろ」
「でも、師匠……!」
「アルフ」
良樹が名前を呼ぶ。
怒鳴ってはいない。
だが、その声に逆らえる余地はなかった。
「停止入力を入れろ」
アルフの唇が震えた。
それでも、教えられた通りに指を動かす。
解除術式の流れが切れる。
残っていた魔力が逃がし線へ流れ、石片の周囲から消えていった。
勝手な再起動はない。
アルフの術式は、きちんと止まった。
良樹は、まずそれを確認した。
それから試験台の上へ目を落とす。
小さな石片。
表面には、試験を始める前につけた確認用の印が残っている。
細かな擦れはある。
だが、新しい欠けはない。
割れもない。
「ずっと同じ石片でやってたのか」
「はい……」
「どれくらいやった」
「分かりません……」
アルフは下を向いた。
「最初は数えてました」
「でも、途中から」
「何回目の最初なのか、分からなくなって……」
良樹は、記録板へ目を向けた。
失敗した回も書いてある。
止めた理由も。
残留魔力の位置も。
外側と内側の戻り差も。
呼吸が乱れた時刻も。
手が震え始めた回も。
成功した回だけではない。
止まった回も、全部残している。
数え切れないほど繰り返して。
それでも、石片は壊れていない。
良樹は、しばらく何も言わなかった。
アルフの肩が、小さく震える。
「……すみません」
良樹が口を開いた。
「よくやった」
アルフの動きが止まった。
「……え?」
「数え切れないほど試して」
「壊してねえ」
良樹は、石片を指先で軽く叩いた。
こん、と乾いた音がする。
「成功の確率も上がった」
「七回」
「八回」
「九回」
「そこまで何度も通せるようになった」
次に、積み重なった記録板を見る。
「何より」
「確実に止められるようになった」
アルフは顔を上げた。
目が赤い。
「だから」
「よくやった、だ」
「でも……」
アルフの声が震える。
「十回」
「まだ、十回連続では……」
「それはあとでいい」
良樹は即答した。
「今のお前が続けても、手順を見る試験にはならねえ」
「疲れてる自分がどこまで動けるか試すだけだ」
アルフの目から、一滴、涙が落ちた。
「これなら」
「次は、道具の付与解除を試していいかもしれねえ」
「本当、ですか……?」
「ああ」
良樹は頷いた。
「ただし」
「今日の記録を、ちゃんと飯を食って、寝て」
「頭が戻ってから一緒に見直す」
「それで問題がなけりゃ、次へ進む」
アルフの唇が震える。
「はい……」
「だから今日は、もう終わりだ」
「ちゃんと飯を食って休め」
良樹は、アルフの頭へ手を置いた。
「師匠命令だ」
その一言で、アルフの顔が崩れた。
「……はい」
声が掠れる。
「はい……っ」
涙が次々と零れた。
疲労。
悔しさ。
安堵。
そして、ずっと欲しかった言葉を、ようやく師匠から受け取った嬉しさ。
それらが一度に溢れたようだった。
「ありがとうございます……」
アルフは顔を覆った。
「ありがとう、ございます……」
「ありがとう……」
膝から力が抜ける。
良樹が支えようとするより先に、ニルが横から肩を抱いた。
「まったく」
ニルは、大きく息を吐いた。
「ホント、こいつ頑固なんすよ」
アルフの腕を自分の肩へ回す。
「オレやリナたちがやめろって言っても」
「まだ」
「まだ足りないって」
「全然、聞く耳持たないんっす」
ニルは良樹を見た。
「師弟揃って、頑固っすよ」
「本当に……」
「俺まで入れるな」
「入るに決まってるじゃないっすか」
ニルは即答した。
「ほら、アル」
「肩を貸してやるから、部屋に戻るっす」
アルフは泣いたまま、小さく頷いた。
「ありがとう、ございます……」
「オレに敬語は要らないっすよ」
「ありがとう……」
「それでいいっす」
ニルはアルフの身体を支え、ゆっくり歩き始めた。
リナが反対側へ回る。
「アルフ」
「……リナ」
「ご飯、温め直すから」
アルフは泣きながら頷いた。
「うん……」
マリカは散らばった記録板を集める。
「これは持って帰るわよ」
「勝手に捨てたら、私が怒るからね」
トーリは試験台の上の石片を布で包んだ。
「石も持って帰る」
「壊してない証拠だから」
シアは、アルフの外套を肩へ掛ける。
「アルフ様」
「今度は、私たちのためにお休みください」
アルフは、また顔を歪めた。
「……はい」
四人の少女たちとニルに囲まれながら、アルフは試験場所を離れていく。
途中で一度だけ振り返った。
「師匠」
「何だ」
「ありがとう、ございます」
「ああ」
良樹は片手を上げた。
「寝ろ」
「はい」
今度は少しだけ笑って、アルフは前を向いた。
良樹は、ニルとアルフたちの背中が見えなくなるまで、その場に立っていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……通算で十回のつもりだったんだけどよ」
誰に言うでもなく呟いた。
「連続十回まで勝手に増やしやがって」
口元が、少しだけ緩む。
「いい根性してるじゃねえか」
良樹は、優しい目でアルフが去った方向を見ていた。
「根性で片付けてよい問題ではありません」
すぐ背後から、クラリスの声が落ちた。
良樹の肩が止まる。
「……まだいたのか」
「ずっといました」
クラリスは清楚に微笑んでいる。
だが、目はまったく笑っていなかった。
リシアは腕を組む。
「通算で十回のつもりだった?」
「ああ」
「アルフくんに、そう言ったの?」
「……言ってねえ」
「では、アルフさんに伝わるはずがありません」
クラリスが静かに言った。
「十回成功してから喜べ」
「そう言われたアルフさんが、確実に十回成功しようと考えることは不自然ではありません」
「連続で、とは言ってねえぞ」
「言っていないことが伝わると思わないでください」
クラリスの返答は早かった。
「良樹くんではないのですから」
「俺なら分かるみたいに言うな」
「良樹も分からないでしょ」
リシアが即座に刺した。
「親父さんから、あと十回やれって言われたら」
「十回終わるまで帰らなかったんじゃない?」
「……場合による」
「帰らなかったのね」
「場合によるって言ってんだろ」
カレンが、アルフたちの去った方角を見た。
「良樹さんが、アルフさんの頑張りを認めたことは間違っていないと思います」
「だろ」
「ですが」
カレンは良樹を見る。
「アルフさんは、良樹さんに認めていただくためなら」
「また同じ無理をしてしまうと思います」
「無茶したことを褒めたんじゃねえ」
「壊さずに止め続けたことを褒めたんだ」
「今のアルフさんに、その区別がついたと思いますか?」
クラリスが尋ねた。
良樹の口が止まる。
「寝不足」
「空腹」
「魔力消耗」
「強い焦り」
「そして、良樹くんに認められた直後です」
クラリスは指を折った。
「その状態で」
「良樹くんは無茶を褒めたのではない」
「安全に止めたことだけを褒めたのだと」
「正確に分けて受け取れるでしょうか」
「……後で説明する」
「最初から説明しなさい」
リシアが言った。
「良樹の悪いところが感染ったって言ったけど」
「原因の半分は、本当に良樹じゃない」
「半分で済むのか」
「増やしてほしいの?」
「いや」
「なら黙って怒られなさい」
「はい」
良樹は素直に返事をした。
リシアが、少しだけ目を細める。
「それから」
「さっきの、いい根性してるじゃねえか、も駄目」
「もうアルフには聞こえてねえだろ」
「聞こえるかどうかではありません」
クラリスが言う。
「良樹くん自身が」
「弟子の無茶を見て、内心では嬉しくなっていることが問題です」
「そりゃ、あそこまでやり切ったら――」
「やり切っていません」
クラリスが遮った。
「倒れる寸前まで続けただけです」
「……はい」
カレンは、少し困ったように微笑んだ。
「一生懸命なところは、良いところです」
「誰かのために頑張れることも」
「諦めないことも」
「良樹さんとアルフさんの、とても良いところだと思います」
「なら――」
「でも、無理をしなければ認めてもらえないと思わせてはいけません」
良樹は黙った。
カレンは続ける。
「途中でも」
「よく頑張っています、と言ってあげてください」
「まだ完成していなくても」
「前より進んでいることは、褒めてよいと思います」
「……途中で褒めるのか」
三人妻の目が細くなった。
「良樹」
「何だ」
「今まで、アルフくんを途中で褒めたことは?」
「一回成功した時に、前に進んだとは言った」
「その後は?」
「……今日まで会ってねえ」
「経過確認不足です」
クラリスが即座に判定した。
「弟子に試験を渡して」
「次に確認する日時も決めず」
「回数の上限も決めず」
「休息条件も食事条件も渡さなかった」
「はい」
「そして、数日後に来て」
「いい根性だと喜ぶ」
「……はい」
「良樹さん」
カレンが優しく、それでも逃がさない声で言った。
「アルフさんへ安全装置を教えるだけでは、足りなかったんだと思います」
良樹がカレンを見る。
「アルフさん本人が止まれない時には」
「師匠である良樹さんが、止めてあげなければいけません」
少しの沈黙が落ちた。
良樹は、アルフが去った方向へもう一度目を向けた。
「……そうだな」
短く息を吐く。
「俺が師匠なら」
「弟子がどう壊れるかも、見なきゃならねえ」
三人妻は顔を見合わせた。
リシアが頷く。
「分かればよろしい」
「次から、確認日を決める」
「一日の上限も決める」
「飯と睡眠を削った試験は、記録として認めねえ」
「連続十回じゃなくて、まず通算十回だって言う」
「休息は試験条件ではなく、前提です」
クラリスが訂正した。
「……休息を前提にする」
「食事もです」
「食事も前提にする」
「途中で褒めますか?」
カレンが尋ねる。
良樹は少しだけ顔をしかめた。
「進んだところがあれば、褒める」
「よろしいです」
カレンが微笑んだ。
リシアは腕を組んだまま、さらに続ける。
「それから」
「まだあんのか」
「あるわよ」
「事前確認で、本番は後だって言ったでしょう」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「これからが本番です」
良樹は空を見上げた。
夕方には、まだ少し早い。
だが。
この三対一のお説教が終わる頃には、夕方になっているかもしれなかった。
◇
夕刻を回り、夕食も終わった。
アルフがきちんと食事を取り、そのまま眠ったという知らせも、ニルから届いている。
良樹はようやく肩の力を抜き、食後の茶へ手を伸ばした。
「良樹くん」
クラリスの声がした。
良樹の手が止まる。
その声の調子には覚えがあった。
話し合いを始める時の声だ。
「……今度は何だ」
「改めて、夫婦時間配分案の確認を行います」
クラリスは、折り畳まれた紙を卓の上へ置いた。
良樹は目を閉じた。
「まだ正式運用してなかったのか」
「試験導入すると決めただけで、開始日を決めていなかったでしょう?」
リシアが当然のように答える。
「誰かさんが、最後まで今夜が何曜日扱いなのか確認しなかったから」
「確認させる空気じゃなかっただろ」
「聞けば答えたわよ」
「絶対ろくな答えじゃなかった」
カレンが、少しだけ困ったように笑った。
「でも、始める前に、もう一度確認しておいた方がよいと思います」
「何をだ」
「担当の日だからといって、必ず何かをしなければならないわけではありません」
良樹はカレンを見る。
カレンは少し顔を赤くしながらも、きちんと続けた。
「一緒にお話をするだけでも」
「手を繋いで眠るだけでも」
「疲れているなら、そばで休むだけでもいいんです」
「その日の担当が、良樹とどう過ごしたいかを決める」
リシアが紙を指で叩いた。
「ただし、良樹が本当に疲れている時や、具合が悪い時は無理をしない」
「これは変わらないわ」
「本当に、の判定は?」
良樹が尋ねる。
「三人で行います」
クラリスが即答した。
「俺の自己申告は」
「参考にはします」
「参考かよ」
「今日もアルフさんを止めたあと、記録板を読み始めようとしていましたから」
「少し見ただけだ」
「その“少し”を信用しない制度です」
良樹は反論できなかった。
リシアは腕を組む。
「良樹もアルフくんに言ったでしょう?」
「飯を食べて、寝て、頭が戻ってから記録を見ろって」
「ああ」
「なら、良樹も同じよ」
「疲れてる時は休む」
「でも、照れて逃げてるだけなら休息扱いにはしない」
「逃げ道が狭えな」
「逃げ道ではなく、戻り道は残してあるわ」
リシアは少しだけ笑った。
その言い方に、良樹は一瞬黙った。
逃げ道ではなく、戻り道。
自分が何度も三人へ作ってもらったものだった。
「……分かった」
良樹は卓の上の紙を見る。
「担当の日は、その妻がどう過ごすか決める」
「本当に無理なら延期」
「無理じゃねえのに作業場へ逃げるのは禁止」
「はい」
「そうよ」
「はい、良樹さん」
三人が揃って頷いた。
「四人の日は?」
「三人で相談して決めます」
クラリスが答える。
「良樹くんの体調も確認します」
「そのうえで、四人で過ごします」
「そこも変わらねえんだな」
「変えません」
良樹は茶を一口飲んだ。
「で」
三人を見る。
「結局、今日は何曜日扱いなんだ」
三人の視線が、リシアへ集まった。
リシアは椅子に座ったまま、少しだけ背筋を伸ばす。
顔は平静を装っている。
だが、頬にはうっすらと赤みが差していた。
「月曜日よ」
「……つまり?」
「私の日」
リシアは、はっきりと言った。
良樹はクラリスを見る。
「合ってるのか」
「はい」
次にカレンを見る。
「本当にいいのか」
「はい」
カレンは少し寂しそうにするでもなく、柔らかく微笑んだ。
「今日は、リシアの番ですから」
リシアは二人を見た。
「ありがとう」
「ただし」
クラリスが静かに付け加える。
「本日の良樹くんは、アルフさんの件で精神的に少し疲れています」
「無理はさせないでください」
「分かってるわよ」
「睡眠時間も確保してください」
「分かってる」
「明朝の状態によっては――」
「クラリス」
「はい」
「私の日よ」
リシアが少しだけ目を細めた。
クラリスは清楚に微笑む。
「承知しました」
「お任せします」
良樹は、三人のやり取りを見ながら眉間を押さえた。
「なんで俺の夜の運用について、引き継ぎまで発生してるんだよ」
「三人妻だからよ」
「今さらです」
「よろしくお願いします、リシア」
カレンまで丁寧に頭を下げる。
「だから、なんでカレンがお願いするのよ」
「良樹さんを、です」
「それは分かってるけど!」
リシアの顔が赤くなる。
良樹は天井を見上げた。
「確認じゃなかったのか」
「完全に決定事項じゃねえか」
「確認したでしょう?」
リシアは立ち上がった。
そして良樹の前へ回り、そっと右手を差し出す。
「良樹」
「今日は、私の日よ」
強気な声だった。
けれど、差し出された指先は少しだけ震えていた。
良樹は、その手を見る。
それからリシアの顔を見た。
「……分かった」
その手を取る。
「よろしく頼む」
「ええ」
リシアは嬉しそうに笑った。
「任せなさい」
◇
夜。
良樹が自室の寝台に腰掛けていると、扉が控えめに叩かれた。
「良樹、入るわよ」
「ああ」
扉がゆっくりと開く。
姿を見せたリシアは、少しだけ緊張した顔で部屋へ入ってきた。
「お邪魔、します」
「今さらだろ」
「そうだけど」
リシアは扉を閉め、良樹の前に立つ。
深い葡萄酒色の、透けるように薄いネグリジェ風のナイトウェア。
その下には、鮮やかな赤い下着が覗いていた。
良樹は、しばらく言葉を失った。
リシアは、そんな良樹をじっと見る。
「それより先に、何か言うことはないの?」
「……似合ってる」
「それは当たり前」
「当たり前なのかよ」
「私が聞きたいのは、別のこと」
「……?」
良樹が本気で分からない顔をする。
リシアは小さく息を吐いた。
「全くもう……」
そう言って、良樹の隣へ腰を下ろす。
ただ座るだけではない。
肩と肩が触れるほど近くへ。
隙間を残さず、ぴたりと身体を寄せた。
良樹の肩が、わずかに固くなる。
リシアはその反応を見逃さなかった。
良樹の耳元へ唇を近づける。
「……私が欲しくないの?」
囁きが耳へ触れた瞬間、良樹の身体が小さく跳ねた。
そのまま、リシアは良樹へ抱きついた。
腕を首へ回し、胸元へ身体を預ける。
「あなたの妻よ」
柔らかな声だった。
けれど、逃げ道を与えない声でもあった。
「あなたの女よ」
良樹の服を、指先がきゅっと掴む。
「あなただけのものよ」
「リシア……」
「欲しいって言っても、誰も責めないわ」
「カレンも」
「クラリスも」
「私も」
リシアは良樹の顔を覗き込んだ。
頬は赤い。
けれど、目は逸らしていなかった。
「良樹は、いつも私たちを大事にしてくれる」
「傷つけないように」
「怖がらせないように」
「私たちが嫌がらないように」
リシアの指が、良樹の頬へ触れる。
「でもね」
「大事にすることと」
「何も欲しがらないことは、違うわ」
良樹は何も言わなかった。
リシアは、さらに身体を寄せる。
「私は、あなたの欲が欲しいの」
その言葉に、良樹の目が揺れた。
「良樹が私を見て」
「触れたいって思って」
「自分のものにしたいって思ってくれることが」
「私は、嬉しいの」
「……それを言ったら」
「何?」
「止まれなくなるかもしれねえ」
リシアは、ほんの少しだけ笑った。
「今日は、止まらなくてもいいのよ」
良樹の喉が動く。
それでも、最後の一線だけは良樹から越えなかった。
リシアは、それも分かっていた。
だから、自分から良樹の手を取る。
その手を、自分の腰へ置いた。
「言って」
「……」
「良樹」
「私が欲しいって、言って」
良樹の腕に力が入った。
リシアの身体が、強く引き寄せられる。
「お前が欲しい」
低い声だった。
いつものぶっきらぼうな声ではない。
押し込めていたものが、ようやく外へ出た声だった。
「リシア」
「お前が欲しい」
リシアの目が、嬉しそうに細くなる。
「うん」
「俺のもんだ」
「うん」
「俺だけの女だ」
「そうよ」
リシアは良樹の首へ腕を回した。
「私は、良樹のものよ」
唇が重なる。
最初は確かめるように。
けれど、すぐにそれだけでは足りなくなる。
良樹の腕がリシアを抱き締める。
リシアも、その熱を一つも逃がさないように抱き返した。
夜は、静かに更けていった。
◇
朝。
良樹がゆっくりと目を開けると、すぐ目の前にリシアの顔があった。
リシアは、少し先に目を覚ましていたらしい。
片腕を寝台へ預け、少しだけ身を起こしながら、良樹の顔をじっと見つめている。
長い黒髪が寝台へ流れ落ちている。
深い赤のナイトウェアは肩から少し滑り、青い瞳には昨夜の余韻が残っていた。
良樹と目が合う。
リシアは、無邪気さと妖艶さが混ざった顔で、ふわりと笑った。
「おはよう、旦那様」
「……おう」
「それだけ?」
「朝から近えんだよ」
「夫婦なんだから、いいでしょ」
リシアは楽しそうに言い、さらに少しだけ顔を近づけた。
良樹は視線を逸らそうとして、その途中で寝台の端に落ちているものに気づいた。
昨夜、リシアが身につけていた赤い下着。
細い留め紐が切れ、レースの一部も少し傷んでいる。
良樹の顔が固まった。
「……リシア」
「何?」
「あれ」
良樹が視線で示す。
リシアも赤い下着へ目を向けた。
「ああ」
「ああ、じゃねえよ」
「悪かった」
「何が?」
「分かってんだろ」
「昨日、俺が駄目にした」
リシアは、赤い下着へもう一度だけ目を向けた。
それから、何でもないことのように良樹へ笑いかける。
「いいのよ」
「よくねえだろ」
「いいの」
リシアの指先が、良樹の唇へ触れた。
「下着なんて、何度でも買えるもの」
「そういう問題か?」
「そういう問題よ」
リシアは悪戯っぽく笑った。
「それに」
「良樹がああしたくなるくらい、私に夢中になってくれた証拠でしょ?」
「……」
「だったら、私には嬉しいことよ」
可愛らしく笑っている。
けれど、その青い瞳には、昨夜と同じ艶が残っていた。
「何度でも、あなた好みの下着を買うわ」
リシアは良樹の胸元へ指を滑らせる。
「可愛いものも」
「綺麗なものも」
「良樹が好きそうなものを、いくらでも」
そして、少しだけ顔を傾けた。
「その代わり」
「……何だよ」
「そのたびに、また私にメロメロになってね?」
良樹が息を止める。
リシアは、無邪気さと妖艶さが入り混じった顔で微笑んだ。
「遠慮しないで」
「あなたの女だって思って」
「欲しいだけ欲しがって」
そして、良樹の頬へそっと触れる。
「その代わり」
「何度でも、ちゃんと愛してね?」
良樹はしばらく黙ったあと、リシアの腰へ腕を回した。
「……もう、どうしようもねえくらい愛してる」
「うん」
リシアは満足そうに目を細めた。
「じゃあ、次の下着も楽しみにしててね」
「また買うのかよ」
「当たり前でしょ」
リシアは、さらに良樹へ身体を寄せる。
「今度は、もっとメロメロにしてあげる」
「もうなってるだろ」
「駄目よ」
「何がだ」
「もっと」
リシアは良樹の胸へ身体を預け、耳元へ唇を近づけた。
「今日より明日」
「明日より、その次」
「毎日もっと、私にメロメロになって」
「欲張りだな」
「良樹の妻だもの」
リシアは当然のように答えた。
「それくらい欲張ってもいいでしょ?」
良樹は小さく息を吐き、リシアを抱き寄せる。
「ああ」
「好きなだけ欲張れ」
「うん」
リシアは嬉しそうに笑い、良樹の胸へ頬を寄せた。
「おはよう、私の旦那様」
「おう」
「おはよう、俺の女」
その呼び方を聞いた瞬間。
リシアは、昨夜よりも幸せそうな顔で笑った。




