表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

125/135

第119話 十回成功してから喜べ

 翌朝。


 良樹は、目を覚ました瞬間、自分がまだ完全には解放されていないことを悟った。


 目の前が、白い。


 いや、白いというより、柔らかい。

 温かい。

 そして、息がしづらい。


「おふぁはひょう」


「あら、起きたの?」


 頭上から、リシアの声がした。


「おはよ、良樹」


 リシアは、良樹の頭を抱えたまま、ゆっくりと髪を撫でていた。


 昨夜、泣く前の子供みたいな顔をしていたから。

 そう言って、リシアは良樹の顔を胸に埋めた。


 そしてどうやら、そのまま朝まで手放さなかったらしい。


「はふぁしへふれ」


「嫌」


 即答だった。


「なんかこれ、ハマっちゃったかも」

「良樹も、直接の方が気持ちいいでしょ?」


 嫌なわけがなかった。


 良樹は、胸の奥でそう思った。


 できるなら、このふたつに挟まれたまま、何も考えずにもう一度眠りこけてしまいたい。


 そう思った矢先だった。


「……良樹さん?」


 横から、妙に静かな声がした。


 カレンだった。


 寝起きの声。

 けれど、その中に混じっているものは、眠気ではなかった。


「ふぉ」


「ふぉ、ではありません」


 カレンはゆっくり起き上がった。


 薄い掛け布を胸元に引き寄せながら、じっと良樹を見る。

 正確には、リシアの胸に顔を埋められたまま、まったく逃げられていない良樹を見る。


 そして、少しだけ頬を赤くした。


「リシア」


「あら、おはようカレン」


「おはようございます」


 カレンは丁寧に挨拶した。


 それから、真顔で言った。


「独占は、よくないと思います」


「独占じゃないわよ」

「看病よ」


「朝の看病にしては、密着度が高すぎます」


「良樹が泣く前の子供みたいな顔してたから」


「今は、泣く前ではなく、息が詰まる前の顔です」


「ふぉごっ」


 良樹が抗議した。


 だが、その抗議はリシアの胸に吸い込まれて、ほとんど意味を成さなかった。


 その時、反対側からもう一つ、柔らかい声がした。


「呼吸の確認が必要ですね」


 クラリスだった。


 いつの間に起きていたのか。

 いつもの穏やかな微笑みを浮かべながら、しかし目だけは完全に良樹の状態を見ている。


「リシア」

「良樹くんの顔を、少しだけ離してください」


「少しだけ?」


「はい」

「完全に離す必要はありません」


「クラリス?」


 リシアが眉を上げる。


 クラリスは清楚に微笑んだ。


「呼吸確認です」


「今、ものすごく便利に使ったわね」


「便利ではありません」

「必要です」


「ふぉごごご」


 良樹は、たぶん何か言っていた。


 たぶん、助けろ、とか。

 たぶん、離せ、とか。

 あるいは、そのままでもいい、などという己の本音を必死に押し殺していたのかもしれない。


 だが、言葉にはならなかった。


 リシアは、ようやく少しだけ腕を緩めた。


 良樹の顔が、ぷは、と谷間から解放される。


「……はぁっ」

「お前ら、朝から何してんだ」


「良樹を甘やかしてるのよ」


 リシアは当然のように答えた。


「甘やかし方が雑なんだよ」


「雑じゃないわ」

「丁寧に抱きしめてるでしょ」


「そういう問題じゃねえ」


 良樹が顔を逸らそうとした瞬間。


 カレンが、そっと良樹の頭を抱いた。


「良樹さん」


「何だ、カレン」


「昨日、私は思いました」

「私にも、私なりにできることがあると」


「……嫌な予感がする」


「膝枕です」


 カレンは真剣だった。


 真剣な顔で、少し顔を赤くしながら言った。


「太ももで、できます」


「朝から宣言することじゃねえ」


「でも、昨日は途中でした」


「途中って何だ」


「良樹さんが、フゴフゴ言っている途中でした」


「そこを継続扱いするな」


 良樹は頭を押さえた。


 そして、カレンの姿を見て、ほんの少しだけ視線を逸らす。


「……カレン」


「はい」


「せめて下着は着けてくれ」


「下着、ですか」


「ああ」

「その方が、いや」

「じゃねえと、朝から理性の負荷が高くなりすぎる」


 カレンの顔が、一瞬で真っ赤になった。


「り、理性の負荷……」


「高い」

「かなり高い」

「起床直後にかけていい負荷じゃねえ」


「わ、分かりました」


 カレンは、いそいそと寝台の端に置いてあった下着を身につけた。


 動きは早い。

 だが、耳まで赤い。


 リシアはその様子を見て、少しだけ目を細めた。


「カレン、あなた意外と覚悟決まってるわね」


「き、決まっていません」

「私はただ、良樹さんに休んでいただこうと」


「休ませ方が攻めてるのよ」


「せ、攻め……!」


 カレンはさらに赤くなった。


 だが、そこで引かなかった。


 寝台の上で正座になる。

 背筋を伸ばす。

 膝を揃える。


 そして、良樹へ向かって両手を伸ばした。


「良樹さん」

「どうぞ」


「……どうぞって言われてもな」


 良樹は一瞬だけ迷った。


 迷ったが。


 カレンの顔は真っ赤で、目は少し潤んでいて、それでも逃げずに良樹を見ていた。


 昨日の夜、カレンは言ったのだ。


 自分にも、自分なりにできることがあると。


 なら、拒むのも違う。


 良樹は小さく息を吐いた。


「……分かった」

「少しだけだぞ」


「はい」


 カレンの声が、嬉しそうに震えた。


 良樹は素直にカレンの方へ身を寄せる。


 そして、膝枕の位置へ頭を預けようとした。


 その瞬間。


 カレンの両手が、そっと良樹の頭を支えた。


「ん?」


 良樹が違和感に気づいた時には、少し遅かった。


 カレンは、おもむろに良樹の顔を、自分の太ももの上ではなく、もう少し上へ引き上げた。


 膝ではない。

 太ももの中央でもない。


 足の付け根に近い、柔らかく温かい場所。


 良樹の動きが止まった。


「……カレン」


「はい」


「これは膝枕か」


「膝枕です」


「膝からだいぶ離れてる」


「広義では、膝枕です」


「広義すぎる」


 良樹の声が低くなる。


「これは、理性の負荷が高い」


「で、でも」

「下着は、着けました」


「条件の穴を突くな」


「穴……!」


 カレンは自分でやっておきながら、そこで限界を迎えかけた。

 顔を真っ赤にして、唇を震わせる。


 だが、良樹の頭を抱える手だけは離さない。


 ――本当は。


 カレンは、良樹の頭を抱えたまま、胸の奥でそっと思った。


 ――下着があった方が、良樹さんは困るんです。


 裸の方が恥ずかしい。

 直接の方が大胆。

 普通なら、そう思う。


 リシアも、たぶんそう思っている。

 クラリスも、身体の確認という顔をしながら、きっとそう思っている。


 けれど、カレンは知っていた。


 良樹は、隠されているものに弱い。


 見えていないのに、分かってしまうもの。

 布越しだからこそ、意識してしまうもの。

 触れてはいないのに、そこにあると分かってしまうもの。


 そういう時の良樹の目を、カレンは知っていた。


 自分が、一番知っている。


 良樹さんは、私を抱く時。

 私がまだ身につけているものを、すごく見ます。


 脱がせたいのに。

 でも、まだ脱がせない。

 触れたいのに。

 でも、布越しだからこそ、余計に欲しくなる。


 その顔を、カレンは知っていた。


 だから。


 下着を着けたのは、良樹のお願いを聞いたからだけではない。


 良樹の理性を守るためでもある。

 けれど同時に。


 良樹の理性を、一番苦しめる形でもある。


「カレン」


 良樹の声が、少し低くなる。


「はい」


「お前、分かっててやってるだろ」


 カレンの肩が、びくりと震えた。


 けれど、逃げなかった。


 良樹の頭を抱えたまま、真っ赤な顔で小さく言う。


「……はい」


 リシアが目を細めた。


「え?」


 クラリスも、静かに瞬きをする。


「カレン?」


 カレンは、良樹の髪を撫でながら、今にも泣きそうな顔で言った。


「良樹さんは」

「何も着けていない時より」

「少しだけ、残っている時の方が」

「私を、すごく欲しそうに見るんです」


 部屋の空気が、止まった。


 リシアの頬が、一気に赤くなる。


「……良樹?」


「俺を見るな」


 良樹は即座に言った。


 クラリスは口元に手を添えた。


「なるほど」

「良樹くんの嗜好情報ですね」


「記録するな」


「重要情報です」


「重要にするな」


 カレンは、恥ずかしさで震えながらも、良樹の頭を離さなかった。


「だから」

「下着は、着けました」

「良樹さんのお願いは、守りました」


「守った上で、攻めてきてるんだよな」


「……はい」


 カレンは、ほとんど消えそうな声で答えた。


 リシアが額に手を当てる。


「カレン」

「あなた、たまに私より悪いわよね」


「わ、悪くないです」

「私は、良樹さんに甘えてほしくて」


「甘えさせ方が強いのよ」


 クラリスは、穏やかに微笑んだ。


「ですが、カレンらしいです」

「良樹くんをよく見ています」


「見すぎだろ」


 良樹が呻く。


 カレンは、その言葉に少しだけ嬉しそうに目を伏せた。


「はい」

「見ています」


 そして、良樹の髪をもう一度、優しく撫でた。


「だって」

「私は、良樹さんの妻ですから」


 そう言って、カレンは改めて良樹の頭を抱え込んだ。


 膝枕。


 そう呼ぶには、やはり少しだけ位置が高い。


 柔らかな太もも。

 布越しの温度。

 カレンの小さな掌。


 その全部に包まれるように、良樹の顔が落ち着く。


「……カレン」


「はい」


「これは、休息補助か」


「はい」

「休息補助です」


「……そうか」


 良樹は、もう抵抗する気が起きなかった。


 危ない。

 負荷が高い。

 理性に悪い。


 それは間違いない。


 けれど同時に、どうしようもなく落ち着いた。


 カレンの手が、そっと良樹の髪を撫でる。


 恥ずかしさで指先は少し震えている。

 それでも、撫で方は優しかった。


「良樹さん」

「少しだけ、寝てもいいですよ」


「……朝だぞ」


「はい」

「でも、少しだけです」


 良樹は、目を閉じた。


 太もも。

 布地。

 カレンの掌。

 その奥にある、カレンの体温。


 全部が近い。


 近すぎる。


 けれど、嫌なわけがなかった。


 できるなら、このまま何も考えずに眠りこけてしまいたい。


 そう思った時点で、良樹は負けていた。


「……少しだけだからな」


「はい」


 カレンの声が、嬉しそうに震えた。


 リシアが横で呆れたように息を吐く。


「本当に寝るのね」


 クラリスは、良樹の呼吸を見て、静かに微笑んだ。


「寝ていますね」

「呼吸も落ち着いています」


「朝からこれで落ち着くのもどうなのよ」


「良樹くんですから」


「便利ね、その言葉」


 そんな会話も、良樹の耳には遠くなっていった。


 カレンの手が、もう一度、髪を撫でる。


 良樹はその温かさに沈むように、少しだけ二度寝した。


   ◇


 その後。


 良樹は、三人の妻たちにひとしきり甘やかされた。


 甘やかされた、という表現で済ませていいものかどうかは、良樹にも判断がつかなかった。


 ただ、一つだけ確かなことがある。


 午前中は、完全に消えた。


 昼前。


 良樹は、再び目を覚ました。


 最初に感じたのは、顔の横にある太ももの感触だった。


 温かい。

 柔らかい。

 危ない。


 起きなければならない。


 この誘惑に抗わなければならない。


 良樹は、残っている理性をかき集めようとした。


 だが、そこで違和感に気づいた。


 感触が、少し違う。


 さっきよりも、ほんの少しだけむちっとしている。

 柔らかさの質が違う。

 髪を撫でる手つきも、カレンのそれとは少し違った。


 良樹は、目だけをわずかに額の方へ向ける。


 紫が見えた。


「……クラリス」


「はい」


 すぐに返事があった。


 声はいつものように穏やかだった。

 けれど、少しだけ弾んでいる。


 クラリスは、良樹が顔を見る前に自分だと気づいてくれたことが、たまらなく嬉しかった。


「いつ、代わった」


「良樹くんが眠ってから少しして、です」

「カレンが、足が痺れて動けなくなる前に、と」

「譲ってくれました」


「譲るものなのか、これは」


「譲るものです」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


「夫の休息補助ですから」


「便利な言葉になりすぎてるだろ」


 良樹は、今度は視線を少し下へ向けた。


 そこに、カレンがいた。


 小動物のように、良樹の腹のあたりへしがみついている。

 足が痺れたのか、少しだけ情けない顔をしているのに、それでも良樹から離れる気はなさそうだった。


「……カレン」


「はい……」

「足が、少しだけ……」


「だから動けなくなる前に代わったのか」


「はい」

「でも、離れるのは、嫌だったので……」


「お前な」


 良樹は呆れようとした。


 だが、呆れきれなかった。


 カレンは本気でそう思っている顔をしていた。


 その瞬間、背中に柔らかい圧がかかった。


 存在を叫んで主張するような、二つの柔らかいもの。


 後ろから、腕が回る。


「リシア」


「起きたの?」


 耳元で、リシアの声がした。


「もっとこうしてても良かったのに」


 そう言って、リシアは後ろから良樹をきゅっと抱きしめた。


 胸の感触が、背中に押しつけられる。


 クラリスの太もも。

 カレンのしがみつく腕。

 リシアの抱擁。


 良樹は、しばらく黙った。


 何だこれは。


 起きたはずなのに、状況が悪化している。


 いや。


 悪化ではない。


 とても良い。


 良いが、起床直後に浴びていい種類の良さではない。


「贅沢よね」


 リシアが、少し楽しそうに言った。


「こんな美女三人に囲まれて二度寝なんて」


「……そうだな」


 良樹は、諦めたように息を吐いた。


「贅沢だ」


 三人の動きが、少しだけ止まる。


 良樹が素直に認めたからだ。


 リシアは目を瞬かせた。

 カレンは、良樹にしがみついたまま顔を赤くする。

 クラリスは、嬉しそうに良樹の髪を撫でた。


「だが」


 良樹は続けた。


「そろそろ節約しねえと」

「午後からアルフの修行もある」


 沈黙。


 リシアの目が細くなる。


「……良樹」


「何だ」


「今、この状態で」

「その話をする?」


「するだろ」

「午後からだぞ」


「そういうところよ」


 カレンが、良樹の服を小さく握った。


「アルフさんの解除訓練、ですね」


「ああ」

「昨日一回成功した」

「今日は十回やる」


 クラリスが、良樹の髪を撫でる手を止めた。


「十回、ですか」


「十回だ」

「同じ石」

「同じ重量付与」

「同じ手順」

「十回連続で見る」

「成功だけじゃねえ」

「止まった時、壊れかけた時、戻りが変だった時」

「全部見る」


 リシアは、良樹の背中に額をこつんと当てた。


「本当に、あなたは良樹ね」


「どういう意味だ」


「今、とてもよく分かったわ」

「私たち三人で囲んでも、あなたの頭の中には石と付与と解除手順が入ってくるのね」


「入ってくるだろ」

「今日やるんだから」


「入ってくるのが問題なのよ」


 カレンは、少しだけ笑った。


「でも、良樹さんらしいです」


 クラリスも穏やかに頷く。


「はい」

「良樹くんらしいです」


「褒めてるのか」


「褒めています」


「半分くらいはね」


 リシアが付け足した。


「残り半分は」


「呆れてるわ」


「だろうな」


 良樹は、クラリスの太ももから起き上がろうとした。


 だが、リシアの腕が少しだけ締まる。

 カレンも服を握ったまま離さない。

 クラリスも、良樹の頭を支える手をすぐにはどけなかった。


「おい」


「もう少しだけ」


 リシアが言った。


「今度こそ、起きる前の補充よ」


「さっきも補充してただろ」


「三人分は、まだです」


 クラリスが静かに言った。


「単位を増やすな」


 カレンが小さく呟く。


「私の分は、少し足が痺れてしまったので……」


「それは補充の問題じゃねえ」


 良樹は天井を見た。


 このまま目を閉じれば、たぶんもう一度眠れる。


 それは、とても危ない。


 だが、とても魅力的でもあった。


「……あと少しだけだぞ」


 三人が、ほぼ同時に微笑んだ。


「ええ」


「はい」


「はい、良樹くん」


 良樹は目を閉じた。


 午後からは、アルフの修行だ。


 解除の再現性。

 停止時の扱い。

 壊れ方。

 戻し方。

 人にはまだ使わせないこと。


 考えるべきことはいくらでもある。


 だが、今だけは。


 三人の妻に包囲されたまま、良樹はほんの少しだけ、もう一度目を閉じた。


   ◇


 午後。


「――師匠!」

「お疲れ様で……」


 アルフは、そこまで言って止まった。


 良樹は訓練場の入口に立っていた。


 怪我はしていない。

 服も乱れていない。

 歩き方も、別におかしいわけではない。


 ただ。


 妙に、疲れていた。


 顔つきはいつもの良樹だ。

 目も死んではいない。

 むしろ、仕事をする時の目には戻っている。


 けれど、どこか身体の芯だけが妙に削れているように見えた。


「……みたいですね」


 アルフは、最後の言葉を変えた。


 良樹は片手を上げる。


「気にすんな……」


「今日の修行、中止にしますか……?」

「本当に、お疲れみたいですが」


「いや、いい」

「やるぞ」


「でも」


「いいんだ」


 良樹は、妙に真剣な顔で言った。


「それに」

「今戻ったら間違いなく、色々理由を付けて喰われるのが目に見えてる」


 アルフは瞬きをした。


「喰わ、れ?」


「何でもねえ」


 良樹は即座に切った。


 切った上で、視線を逸らした。


 アルフは何か聞こうとして、やめた。


 師匠には、たぶん師匠の事情がある。


 それも、弟子が踏み込んではいけない種類の事情が。


「じゃあ今日は――」


 良樹は腰袋から小さな石を取り出した。


 昨日、アルフが一度だけ重量付与を解除できた石だ。


 訓練場の中央には、簡易の測定台が置かれている。

 重さを見るための吊り秤。

 表面を見るための布。

 反響音を見るための小さな棒。

 温度変化を見るための薄い金属板。

 記録用の板と炭筆。


 アルフは、それを見て背筋を伸ばした。


「昨日の続きですね」


「ああ」


 良樹は石を台の上に置いた。


「昨日、一回成功した」


「はい」


「今日は十回やる」


 アルフの顔が、ぱっと明るくなりかけた。


 その瞬間、良樹が言った。


「十回全部成功しても、人には使わせねえ」


 明るくなりかけた顔が、少しだけ落ちる。


「……はい」


 良樹は、その表情を見逃さなかった。


「落ち込むな」


「でも」


「喜ぶなとは言ってねえ」

「一回できたなら、それは喜んでいい」

「昨日のお前は、ちゃんと一つ前に進んだ」


 アルフが顔を上げる。


 良樹は続けた。


「その上で、もう一回やれって言ってんだ」

「一回できた、で終わるな」

「十回成功してから喜べ」

「十回成功しても、まだ次を見る」


「十回成功してから……」


「そうだ」


 良樹は、測定台の横にしゃがみ込んだ。


「同じ石」

「同じ重量付与」

「同じ解除手順」

「まずは条件を変えない」

「成功したら、重さを見る」

「表面を見る」

「反響音を聞く」

「温度を見る」

「魔力の残りを見る」

「毎回だ」


「毎回、ですか」


「毎回だ」

「一回目だけ丁寧に見る奴は、二回目で事故る」


 アルフは、息を呑んだ。


 良樹の声は怒っていない。

 責めてもいない。


 けれど、軽くもなかった。


「始める前に、止める方を見る」


 良樹はそう言って、石を台の上に置いたまま、アルフを見た。


「はい」


「昨日は戻せた」

「今日は、戻す前に止まれるかを見る」


 アルフは少しだけ目を瞬かせた。


「止まれるか、ですか」


「ああ」

「解除を始める入力だけ見ても意味がねえ」

「止める入力」

「遮断する入力」

「異常が出た時に勝手に切れる回路」

「そこを見ないまま動かしたら、ただの直入れだ」


 アルフは、昨日作った解除術式の流れを手元に浮かべた。


 付与の芯を見る線。

 外側から戻す線。

 戻りを逃がす線。

 そして、途中で切るための細い線。


 良樹はそれを見て、指を立てた。


「まず、お前が自分で止める」


「はい」


「次に、俺が外から止める」


「外から、ですか」


「ああ」

「お前が気づけなかった時に、横から遮断できるかを見る」

「それができねえなら、人の前では使わせねえ」


 アルフの表情が引き締まる。


「はい」


「それから、異常時だ」

「戻りが跳ねた」

「石の外側と内側の差が開いた」

「温度が上がった」

「魔力が濁った」

「そういう時に、自動で切れるかを見る」


「切れたら、失敗ですか」


「違う」


 良樹は即答した。


「切れたなら、安全回路が働いたってことだ」

「壊す前に止まった」

「それは、失敗じゃねえ」

「見るべき結果だ」


 アルフは、小さく息を呑んだ。


 良樹はさらに続ける。


「最後に、切れた後だ」

「勝手に再開しないこと」

「お前がもう一度確認して、もう一度始めるまで、絶対に動かないこと」

「そこまで見て、初めて一回だ」


「……解除できたら一回、じゃないんですね」


「ああ」


 良樹は石を軽く叩いた。


「解除できた」

「止まれた」

「遮断できた」

「再起動しなかった」

「壊れ方が見えた」

「全部まとめて試験だ」


 アルフは、自分の術式を見つめた。


 今まで、できることばかり見ていた。


 できた。

 戻せた。

 助けられるかもしれない。


 でも良樹は、その前に止まる場所を見ている。


「師匠」


「何だ」


「止めるところから、ですね」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「動かすだけなら誰でも喜ぶ」

「止められて初めて、使っていい道具になる」


 アルフは、深く頷いた。


「じゃあ、まず停止入力」

「俺が合図したら、自分で切れ」

「その次は、俺が横から遮断する」

「そのあとで、ようやく一回目の解除だ」


「はい!」


 アルフは石へ手をかざした。


 魔力が細く流れる。

 解除の術式が立ち上がりかける。


「止めろ」


「はい」


 アルフは即座に止めた。


 石の周囲に浮かびかけていた魔力が、ふっと消える。


 良樹は石を見た。

 表面。

 重量。

 反響。

 残留魔力。


「悪くねえ」

「もう一回」


「はい」


 二回目。

 三回目。


 アルフは、自分で止める。


 止めるたびに、少しずつ顔が変わっていった。


 最初は、解除を途中でやめることに抵抗があった。

 成功へ向かう手を、自分で止める。

 それが、何かを諦めるように感じていた。


 だが、何度か繰り返すうちに、少しずつ分かってくる。


 止めるのは、諦めることではない。


 壊さないために、戻ることだ。


「次、俺が切る」


「はい」


「お前は解除を始めろ」

「ただし、切られたら追いかけるな」

「もう一回繋ぎ直そうとするな」

「止まったら、止まったまま確認する」


「はい」


 アルフが解除を始める。


 良樹は横から魔導盤を伸ばした。


 遮断入力。


 アルフの術式に外側から細い線が触れた瞬間、解除の流れが切れる。


 石は変化しなかった。

 魔力だけが、途中で止まる。


 アルフは、思わず手を伸ばしかけた。


「追うな」


 良樹の声が飛ぶ。


 アルフの手が止まった。


「はい」


「今、何をしようとした」


「……切れた流れを、繋ぎ直そうとしました」


「何でだ」


「途中だったので」

「成功させたくて」


「それが事故る」


 良樹は短く言った。


「切れたら、一回終わりだ」

「原因を見る」

「石を見る」

「自分の術式を見る」

「それから、再開するか決める」

「勝手に再起動するな」


「はい」


 アルフは、少し悔しそうに頷いた。


 その顔を見て、良樹は言う。


「今のは良い失敗だ」


「良い失敗、ですか」


「ああ」

「手が伸びかけた」

「でも止まった」

「なら次は、伸びかける前に止まれる」


 アルフは、息を呑んだ。


「はい」


 その時だった。


「師匠してるわね」


 少し離れたところから、リシアの声がした。


 良樹とアルフが振り向く。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人が、訓練場の入口に立っていた。


 朝の姿とは違う。

 三人とも、外へ出る支度を済ませている。


 リシアはいつものように髪を整え、杖を持っている。

 カレンは少し頬を赤くしながらも、剣を帯びている。

 クラリスは法衣をきちんと整え、穏やかに微笑んでいた。


 良樹は、少しだけ目を逸らした。


「遅かったな」


「身支度よ」


「知ってる」


「本当に?」


「女は、そんなもんだと学習した」


「良樹にしては良い学習ね」


 リシアは少し楽しそうに笑った。


 カレンはアルフへ会釈する。


「アルフさん」

「おはようございます」


「お、おはようございます」


 アルフは少し緊張したように頭を下げた。


 クラリスは測定台と石、記録板を見た。


「停止入力と遮断入力の確認ですね」


「ああ」

「先に止め方を見てる」


「良いと思います」

「身体に使う術なら、止まれないものは危険です」


「まだ身体には使わせねえけどな」


「はい」

「だからこそ、今見るのですね」


 クラリスは柔らかく微笑んだ。


 カレンはアルフの顔を見た。


「アルフさん」

「焦っていませんか」


 アルフは、一瞬言葉に詰まった。


 それから、小さく頷く。


「焦っていない、と言ったら嘘になります」

「早く、戻してあげたいです」


 カレンの目が、少し柔らかくなる。


「はい」

「そうですよね」


 そして、良樹を見る。


「だから、止めてあげる人が必要なんですね」


 良樹は短く頷いた。


「ああ」

「戻したいなら、戻せるようになるまで手順を踏む」

「それを飛ばすなって話だ」


 リシアは腕を組んだ。


「当然ね」

「一回できたから人に使う、なんて言い出したら私が止めるわ」


「俺も止める」


「知ってるわ」

「だから、今のあなたは師匠なのよ」


「師匠って呼ぶな」


 アルフが、少しだけ笑った。


 良樹はそれを見て、眉を寄せる。


「お前も笑うな」


「すみません」

「でも、師匠は師匠なので」


「うるせえ」


 そのやり取りを見て、三人妻は顔を見合わせた。


 リシアは少し嬉しそうに。

 カレンは微笑ましそうに。

 クラリスは、とても穏やかに。


 三人とも、良樹が本当にアルフを弟子として扱い始めていることを見ていた。


 良樹は褒めすぎない。

 急がせない。

 成功だけを見ない。

 止まったことを、ちゃんと見させる。


 それは、ただ強くする訓練ではなかった。


 壊れないように育てる訓練だった。


「良樹」


 リシアが言った。


「何だ」


「今日、疲れてるなら」

「晩ご飯は、精のつくものでも作るわよ」


 良樹の動きが止まった。


 カレンが少しだけ顔を赤くする。


「はい」

「良樹さん、今朝から少しお疲れですし」


「疲れさせた側が言うな」


「えっ」


 カレンは真っ赤になった。


 クラリスもにこりと微笑む。


「栄養は大切です」

「午後の訓練後なら、なおさらですね」


 良樹の目が、すっと細くなった。


 危険を察知した顔だった。


「アルフ」


「はい」


「そうだ」

「それがいい」


「え?」


 良樹は急に真面目な顔で立ち上がった。


「これから河原に行く」

「泊まりがけの修行を――」


「良樹」


 リシアの声が、静かに落ちた。


 良樹の肩が止まる。


「逃げる気ね」


「違う」

「現地試験だ」


「石の解除に河原の現地性は必要?」


「水辺の温度変化が――」


「必要?」


「……場合によっては」


「今回は?」


「……なくてもできる」


 カレンが、良樹の袖をそっと掴んだ。


「良樹さん」

「今日は帰ってきますよね」


「……帰る」


 クラリスが穏やかに微笑む。


「河原は冷えます」

「疲労状態での泊まりがけ修行は、身体に良くありません」


「正論で退路を塞ぐな」


「退路ではありません」

「逃走経路です」


「言い直しが強い」


 アルフは、何を聞いていいのか分からず、ただ二人を見ていた。


「あの」

「師匠」


「何だ」


「泊まりがけ修行は、なしですか」


「なしだ」


 良樹は苦い顔で答えた。


「今日は、十回試験までだ」

「終わったら、帰る」


 リシアが満足そうに頷く。


「よろしい」


 カレンも嬉しそうに頷いた。


「はい」


 クラリスは記録板を見て言った。


「では、帰るためにも、効率よく進めましょう」


「お前らな……」


 良樹は深く息を吐いた。


 そして、アルフを見る。


「聞いた通りだ」

「泊まりはなし」

「十回やる」

「終わったら帰る」


「はい」


「ただし、手は抜かねえ」


「はい!」


 アルフは背筋を伸ばした。


 良樹は石を台へ戻す。


「じゃあ、ようやく一回目だ」

「同じ石」

「同じ重量付与」

「同じ手順」

「解除開始」

「途中で俺が止めるかもしれねえ」

「止まったら追うな」

「まず見る」

「いいな」


「はい!」


 訓練場に、もう一度静かな緊張が戻った。


 その横で、三人の妻たちは、良樹が逃げ出さない位置を自然に塞いでいた。


   ◇


 一回目。


 アルフは昨日と同じ手順で解除を始めた。


 魔力の流れが、石の表面を撫でる。

 重量付与の芯へ触れる。

 そこから、ゆっくりと付与の流れを戻していく。


「急ぐな」


 良樹が言った。


「戻すんじゃねえ」

「見ろ」


 アルフの指が止まる。


「外側」

「内側」

「付与の芯」

「戻りの逃げ道」

「止める場所」

「全部見ろ」


 アルフは目を閉じた。


 魔力の流れが、少しずつ細くなる。


 石にかかっていた重さが、ゆっくりと戻っていく。


 良樹は吊り秤を見た。

 リシアは少し離れたところで魔力の流れを見ている。

 カレンは、アルフの手元と石の表面を見ている。

 クラリスは、アルフの呼吸と顔色を見ていた。


 やがて、石が静かに台の上へ落ち着いた。


「……解除、できました」


 アルフが小さく言った。


 良樹はすぐには褒めなかった。


「重さ」


「はい」


 アルフは吊り秤に石をかける。


「戻っています」


「表面」


「異常なし」


「音」


 アルフは棒で石を軽く叩いた。


 こん、と乾いた音。


「昨日と同じ、だと思います」


「思います、じゃ弱い」

「昨日の記録と比べろ」


「はい」


 アルフは記録板を見る。


「……昨日とほぼ同じです」


「温度」


「変化なし」


「魔力残り」


「少し、外側に残っています」

「でも、すぐ消えます」


「記録」


「はい」


 アルフは炭筆を取った。


 一回目。

 解除成功。

 重量復元。

 表面異常なし。

 反響音、昨日記録と差異少。

 温度変化なし。

 外側に微量残留。自然消散。


 良樹はそれを見て、ようやく頷いた。


「よし」


 アルフの顔が、少しだけ明るくなった。


 良樹は言った。


「二回目」


「はい!」


「喜ぶのは早い」


「はいっ」


 二回目は、途中で良樹が遮断した。


 アルフは一瞬、流れを追いかけようとした。


 だが、今度は自分で止まった。


「止まれました」


「ああ」

「今のは一回目より良い」


「解除してないのに、ですか」


「解除してねえからだ」

「切れた時に追わなかった」

「勝手に再起動しなかった」

「それを見た」


 アルフは、少しだけ目を見開いた。


 三回目。


 異常時遮断の確認。


 良樹は、石の外側へわざと軽い反発を入れた。

 アルフの術式がそれに気づき、途中で細い線を切る。


 石は、戻らない。

 解除は中断。


 だが、壊れていない。


「止まりました」


「記録」


「はい」


 アルフは書く。


 三回目。

 異常検出。

 外側反発あり。

 自動遮断。

 解除未完了。

 石異常なし。

 勝手な再起動なし。


 四回目。

 解除成功。


 五回目。

 止めるタイミングが遅れ、石の表面に小さなヒビが入った。


 アルフの顔が青くなる。


「す、すみません……!」


「謝る前に見ろ」


 良樹の声は低かった。


 怒鳴ってはいない。

 だが、逃がさない声だった。


「壊れ方が一つ見えた」

「何を見落とした」


 アルフは、ヒビの入った石を見る。


 指先が震えている。


 だが、良樹は待った。


 リシアも何も言わない。

 カレンは心配そうにアルフを見ていたが、口を挟まない。

 クラリスは、アルフの呼吸だけを見ている。


 アルフは、ゆっくり息を吸った。


「……戻りの途中で」

「外側と内側の差を、見ていませんでした」


「続けろ」


「外側だけ先に軽くなって」

「内側に重さが残って」

「戻りがずれて」

「石の表面に逃げました」


「なら次は」


「外側と内側の差を見ます」

「差が開いたら、止めます」


「よし」


 良樹は頷いた。


「それが記録だ」


 アルフは、震える手で記録した。


 五回目。

 微小破損。

 外側と内側の戻り差。

 表面に負荷集中。

 ヒビ発生。

 次回、内外差監視。

 差拡大時、停止。


 六回目。


 アルフは、途中で自分から止めた。


「差が開きました」


「石は」


「異常なし」


「よし」

「今のは成功寄りだ」


「解除していません」


「壊す前に止めた」

「なら成功寄りだ」


 アルフは、そこで初めて少しだけ笑った。


 七回目。

 解除成功。


 八回目。

 良樹が横から遮断。

 アルフは追わない。


 九回目。

 解除成功。

 ただし外側に魔力残りが多い。


 十回目。


 アルフの額には汗が滲んでいた。


 腕も震えている。

 魔力も、かなり削れている。


 だが、目は逃げていない。


「師匠」


「何だ」


「十回目、やります」


「ああ」

「やれ」


 アルフは、ゆっくりと石へ手をかざした。


 解除の流れが立ち上がる。


 外側。

 内側。

 芯。

 戻り線。

 逃がし。

 停止位置。


 見ている。


 戻そうとしているのではない。


 見ながら、戻している。


 石の重さが、ゆっくりと元に戻る。


 表面は割れない。

 音も濁らない。

 温度も上がらない。


 最後に、魔力の残りがふっと消えた。


「……解除、完了」


 アルフが呟いた。


 良樹はすぐに言った。


「重さ」


「戻っています」


「表面」


「異常なし」


「音」


 こん。


「記録と差異、少」


「温度」


「変化なし」


「残り」


「微量」

「自然消散します」


「勝手な再起動」


「なし」


「記録」


「はい」


 アルフは、十回目の欄を書いた。


 書き終えた瞬間、膝から力が抜けた。


 へたり込む。


「アルフさん!」


 カレンが一歩出かける。


 だが、良樹が手で制した。


「大丈夫だ」

「限界まで使っただけだ」


 クラリスが頷く。


「呼吸は荒いですが、危険な乱れではありません」

「少し休めば戻ります」


 アルフは地面に座り込んだまま、記録板を見ていた。


「十回……」


「ああ」


「十回、できました」


「できたな」


 アルフの顔が、ぱっと明るくなる。


 良樹は言った。


「でも、人には使わせねえ」


「はい」


 今度の返事は、落ち込んでいなかった。


「まずは道具です」


 アルフは自分で言った。


「道具で戻せないものを」

「人に使わせるわけにはいかないから」


 良樹は、少しだけ目を細めた。


「よし」


 その一言で、アルフは本当に嬉しそうに笑った。


 良樹は、少し迷ってから、アルフの頭に手を置いた。


 撫でる。


「よく見た」

「今日はそこが一番だ」


 アルフは、目を丸くした。


「成功したから、じゃないんですか」


「成功だけ見てたら、次に失敗する」

「止まったところと、壊れかけたところを見た」

「そっちの方が大事な時もある」


 挿絵(By みてみん)


 アルフは、しばらく黙った。


 それから、深く頭を下げた。


「はい」

「師匠」


「師匠って呼ぶな」


「師匠ですから」


「うるせえ」


 リシアが笑った。


「師匠ね」


 カレンも微笑む。


「師匠です」


 クラリスも頷いた。


「師匠ですね」


「お前らまでうるせえ」


 良樹はそう言ったが、声はそこまで嫌そうではなかった。


   ◇


 その日の晩飯は、本当に精のつくものだった。


 良樹は、食卓を見た瞬間に眉を寄せた。


「……本当に作ったのか」


「作ったわよ」


 リシアが当然のように答える。


「良樹、疲れてたでしょ」


「疲れた理由を考えろ」


「新婚生活ですね」


 クラリスが清楚に言った。


「その言葉を盾にするな」


 カレンは、顔を赤くしながらも器を良樹の前へ置いた。


「あ、あの」

「ちゃんと食べてください」

「午後も頑張ったので」


「カレン」

「お前が言うと、逃げ道が減る」


「逃げないでください」


「今日、それ何回言われたんだろうな」


 飯はうまかった。


 悔しいことに、かなりうまかった。


 食べると身体が少し温まる。

 胃に入ると、妙に力が戻る。

 リシアの料理に、クラリスの体調管理と、カレンの丁寧な下ごしらえが入っている。


 文句はある。

 山ほどある。


 だが、うまい。


 良樹は、結局きちんと食べた。


 食後。


 茶を飲み、ようやく息を吐いた。


「……今日は終わりだな」


 そう言った瞬間。


 三人の妻が、同時に良樹を見た。


 リシア。

 カレン。

 クラリス。


 三人とも、妙に姿勢が正しい。


 良樹は、茶器を持ったまま止まった。


「……何だ」


 リシアが言った。


「良樹」


「何だ」


「発議があります」


「発議?」


 良樹は眉を寄せた。


 嫌な予感がした。


 発議。


 この家で、その言葉が出る時は大抵ろくでもない。


 少なくとも、良樹の平穏には優しくない。


 クラリスが、いつもの清楚な微笑みで頷いた。


「はい」

「三人妻合同発議です」


「合同で来るな」


「最重要議題ですので」


 カレンは、すでに顔を赤くしていた。


 だが、目を逸らしていない。


 むしろ、胸元で両手を握りしめ、何かを決意している顔だった。


「良樹さん」


「……カレンまでその顔か」


「はい」

「大切なことです」


 良樹は茶器を置いた。


「分かった」

「聞くだけ聞く」


「聞くだけでは困ります」


 クラリスが言った。


「採決まで行います」


「家の中に採決制度を持ち込むな」


「必要です」


 リシアは卓の上に一枚の紙を置いた。


 良樹は、そこに書かれた文字を見た。


 夫婦時間配分案。


 良樹は、しばらく黙った。


「……何だこれは」


 リシアが胸を張った。


「夫婦時間配分案よ」


「読めば分かる」

「読んでも分からねえんだよ」


 クラリスが説明を始めた。


「最近、私たちは良樹くんの妻として、少しずつ良樹くんに甘えられるようになってきました」


「そこは否定しねえ」


「一方で、三人が同時に甘えると、良樹くんの体力および精神的負荷が高くなります」


「朝のことを言ってるなら、全面的に同意する」


 カレンが真っ赤になった。


「あ、朝のことは、その……」


「カレン」

「お前、かなり主犯側だったぞ」


「はい……」


 カレンは小さくなった。


 だが、すぐに顔を上げる。


「でも、嫌ではありませんでしたよね」


 良樹は黙った。


 リシアが目を細める。


「良樹?」


「……話を戻せ」


「逃げたわね」


「戻せ」


 クラリスは、にこりと微笑んで紙を指した。


「そこで、公平性、継続性、良樹くんの体調管理を考慮し、曜日ごとの担当制を提案します」


「担当制」


「はい」


 良樹は紙を見た。


 そこには、きれいな文字でこう書かれていた。


 月・木 リシア。

 火・金 クラリス。

 水・土 カレン。

 日   四人。


 良樹は、深く息を吸った。


 そして、吐いた。


「待て」


「待つわ」


 リシアが言った。


「何だこれは」


「だから、夫婦時間配分案よ」


「日曜日」


「四人の日ね」


「休息日は?」


 三人が、きょとんとした顔をした。


 良樹は、その反応を見て嫌な確信を得た。


「お前ら」

「日曜日を休息日だと思ってねえな」


 リシアは当然のように言った。


「休息するわよ」

「四人で」


「休息の意味が違う」


 挿絵(By みてみん)


 クラリスが静かに首を傾げた。


「夫婦の休息です」


「俺の休息は?」


「含まれています」


「含め方が怖え」


 カレンが、おずおずと手を上げた。


「あ、あの」

「でも、決まっていた方が、待てます」


 良樹はカレンを見る。


 カレンは真っ赤だった。


 真っ赤なのに、逃げずに言った。


「今日は私の日だと思えば」

「ちゃんと、お願いできます」

「それに、他の日は、待てます」


 良樹は言葉に詰まった。


 その言い方はずるい。


 責めにくい。


 カレンは、自分の欲を言っている。

 けれど同時に、他の二人を尊重しようとしている。


 リシアも腕を組んで頷いた。


「このままだと、絶対に揉めるわ」

「私たちは良樹の妻だけど、三人いる」

「だったら、ちゃんと決めましょう」


 クラリスも続ける。


「良樹くんの体力にも限界があります」

「その日の担当が決まっていれば、過剰な取り合いも減ります」

「看病、疲労、依頼後の状態によっては、三人で調整します」


「調整項目が本格的すぎる」


「生活ですから」


「生活なのか、これは」


「新婚生活です」


 クラリスは清楚に言い切った。


 良樹は頭を抱えた。


「……俺の意見は?」


「聞くわよ」


 リシアが即答した。


「なら、週一くらい完全休養日を」


「日曜日が休養日です」


「四人の日って書いてある」


「四人で休む日よ」


「お前ら、言葉を便利に使いすぎだ」


 カレンが、少し不安そうに良樹を見る。


「……嫌、ですか」


 良樹は止まった。


 それを聞かれると弱い。


 嫌か。


 嫌ではない。


 大変だ。

 負荷は高い。

 明らかに生活の中で自分の逃げ道が減っている。


 だが、嫌ではない。


 むしろ。


 嬉しい、と思ってしまっている自分がいる。


 良樹は、しばらく沈黙した。


 リシアが少しだけ表情を緩める。


「嫌じゃない顔ね」


「読むな」


「読めるわよ」


 クラリスも微笑む。


「良樹くんは、嫌な時はもっとはっきり嫌な顔をします」


「お前ら、本当に俺をよく見てるな」


「妻ですから」


 三人の声が、ほとんど揃った。


 良樹は天井を見た。


 負け戦だった。


 最初から勝ち目がない。


「良樹、観念なさい」


 リシアは、まっすぐ良樹を見た。


 からかう顔ではなかった。


 悪女ぶった笑みでもない。

 妻として、三人のうちの一人として、そして三人の関係を守ろうとする女の顔だった。


「今までは、私たちが上手くやってきたから」

「こんな多重婚でも、何とかなってきたのよ」


 良樹は、黙ってリシアを見る。


 リシアは続けた。


「でも、これからは違う」

「私たちはもう、良樹の妻なの」

「遠慮だけで何とかする時期は、もう終わったのよ」


 カレンが小さく息を呑んだ。


 クラリスは、静かに目を伏せる。


「ちゃんと規則を決めて暮らさないと」

「揉めた時に困るわ」


「揉める前提かよ」


「揉めたくないから決めるのよ!」


 リシアの声が、少し強くなった。


 良樹は反射的に口を閉じた。


 リシアは、拳を胸元で握る。


「私だって」

「カレンやクラリスと、そんな風になりたくないの」


 その言葉だけは、少し震えていた。


「三人で良樹の妻になった」

「三人で支えるって決めた」

「三人で良樹を一人にしないって、そう決めた」


 リシアは、カレンを見る。


 カレンは真っ赤な顔で、それでも頷いた。


 次にクラリスを見る。


 クラリスも、穏やかに頷いた。


「でもね」

「自分の欲だけで動いたら」

「おかしくなるかもしれないの」


 リシアは、自分の胸に手を当てた。


「私だって、良樹を独り占めしたい日がある」

「カレンだって、きっとある」

「クラリスだって、ある」


「あります」


 クラリスが、静かに言った。


 その声に、良樹は少しだけ目を見開く。


 カレンも、小さく頷いた。


「……あります」

「私も、あります」


 リシアは良樹へ向き直る。


「だから、規則が必要なの」

「我慢しすぎないために」

「誰か一人が譲り続けないために」

「誰か一人が抜け駆けしたみたいにならないために」

「私たち三人が、これからもちゃんと三人でいられるように」


 良樹は何も言えなかった。


 紙に書かれた曜日割り。


 さっきまで、良樹にはそれが妙な運用規定に見えていた。


 だが、違う。


 これは三人の欲のためだけの紙ではない。


 三人の関係を壊さないための、三人なりの安全回路だった。


「これが」


 リシアは紙を指差した。


「三人で話して」

「一番公平だって思えるルールなの」


 部屋が静かになった。


 良樹は、リシアを見た。


 カレンを見る。

 クラリスを見る。


 三人とも、顔は赤い。


 だが、目は逃げていなかった。


 良樹は、ゆっくり息を吐いた。


「……英雄婚ってのは、そういうことか」

「三人を妻にするって言った以上、三人が揉めねえ仕組みまで、俺の責任なんだな」


「そうよ」


 リシアは即答した。


「良樹が私たち三人を妻にしたの」

「私たちもそれを望んだ」

「だったら、好きだから大丈夫、だけじゃ駄目なの」

「好きだからこそ、決めるのよ」


 クラリスも静かに頷いた。


「後で傷ついてから話し合うより」

「傷つく前に決めておく方が、良樹くんらしいと思います」


 カレンも、良樹の手をそっと握った。


「私は、リシアやクラリスと争いたくありません」

「でも、良樹さんに来てほしい日は、あります」

「だから、決まっていた方が……安心します」


 良樹は、握られた手を見た。


 そして、もう一度紙を見る。


 月木、リシア。

 火金、クラリス。

 水土、カレン。

 日、四人。


「……つまり、お前らは」

「揉めてから仲直りするんじゃなくて」

「揉める前にインターロックを入れたいってことか」


「そうよ」


 リシアが頷いた。


「良樹くんの言葉で言うなら、そうなります」


 クラリスが微笑む。


「壊したく、ないです」


 カレンが、小さく言った。


 良樹は、額に手を当てた。


「……その言い方されると、俺が反対できねえだろ」


「だから観念しなさいって言ってるの」


 リシアは少しだけ笑った。


「……分かった」


 三人の表情が、少しだけ動いた。


「試験導入だ」


「またそれ?」


 リシアが半眼になる。


「大事だろ」

「いきなり本採用するな」

「運用して、不具合見て、必要なら改定する」


 クラリスが、ぱっと顔を明るくした。


「良いと思います」

「運用後の見直し条項ですね」


「乗るな」


「必要です」


 カレンも、小さく笑った。


「では、試験導入から、ですね」


 リシアは腕を組み、少しだけ得意げに笑った。


「いいわ」

「試験導入で許してあげる」


「何で俺が許される側なんだ」


「夫だからよ」


「最近そればっかりだな」


「便利だから」


「便利って言ったぞ」


 リシアは笑った。


 クラリスも、紙に新しい一文を書き足す。


 夫婦時間配分案、試験導入。

 運用後、必要に応じて妻会議にて改定。

 良樹の意見は聴取する。

 ただし、逃走目的の異議申し立ては却下する。


「最後」


 良樹が低く言った。


「消せ」


「重要です」


「重要よ」


「重要、です」


 三人の声が揃った。


 良樹は、深くため息を吐いた。


「それから」


 クラリスが、折り畳みかけた紙をもう一度開いた。


「追加条項があります」


「まだあるのか」


 良樹は疲れた顔で言った。


「はい」

「体調不良時、依頼後の疲労時、修行後の消耗時は原則中止」

「これは良樹くんの条件として記載します」


「そこは大事だ」


「ですが」


 クラリスは、にこりと微笑んだ。


「妻側の看病、食事、休息補助、魔力調整、精神的な甘やかし等によって良樹くんの状態が回復し」

「かつ、良樹くん本人がその気になった場合は、実施可とします」


 良樹は黙った。


 リシアが腕を組む。


「妥当ね」


 カレンも、顔を赤くしながら頷いた。


「は、はい」

「良樹さんが本当に疲れている時は駄目です」

「でも、少し休んで、食べて、甘えてもらって」

「それで大丈夫になったなら……」


 カレンは、そこで声を小さくした。


「私たちも、良樹さんに甘えたいです」


 良樹は額に手を当てた。


「……お前ら」

「条項の作り方が妙に現実的だな」


「生活ですから」


 クラリスが清楚に言った。


「新婚生活よ」


 リシアも当然のように続ける。


「新婚生活、です」


 カレンも小さく言った。


 良樹は、しばらく紙を見ていた。


 そこには、追記としてこう書かれていた。


 疲労・消耗時は原則中止。

 ただし、妻側の献身により良樹の体調・気力が回復し、本人が明確に望む場合は可。

 無理強いは禁止。

 良樹の「本当に無理」は最優先。

 ただし、照れ隠し、逃走、作業場への退避はこの限りではない。


「最後の一行」


 良樹が低く言った。


「何で入れた」


「実績があるからよ」


 リシアが即答した。


「今朝、河原へ泊まりがけ修行に逃げようとしました」


 クラリスが淡々と補足する。


「逃げようとしていました」


 カレンも小さく頷いた。


「満場一致で逃走でした」


「三人で証言するな」


「事実だもの」


 リシアは紙を指で叩いた。


「本当に無理なら止める」

「でも、逃げなら止める」

「疲れてるなら休ませる」

「でも、元気になったなら遠慮しない」


「……制度が強い」


「妻が三人いますから」


 クラリスは穏やかに微笑んだ。


「運用設計は重要です」


「俺の家庭生活を制御盤みたいに設計するな」


「良樹くんが一番納得しやすい形式かと」


「納得しかけるのが腹立つ」


 良樹は深くため息を吐いた。


 だが、口元は少しだけ緩んでいた。


「それから」


 リシアが、紙を覗き込みながら言った。


「追加でもう一つ」


「まだ増えるのか」


 良樹は茶器を置いた。


 もう嫌な予感しかしなかった。


 リシアは、悪びれない顔で続ける。


「三人の合意がある場合」

「どの日でも、四人の日にできるものとする」


 良樹は目を細めた。


「待て」

「それは日曜の意味がなくならねえか」


「なくならないわ」


 クラリスがすぐに補足した。


「その場合、その日の担当分は日曜日と入れ替えます」


「……入れ替え?」


「はい」

「例えば、水曜日がカレンの日だったとします」


 カレンの肩が小さく跳ねた。


「は、はい」


「その日に三人全員が、今日は四人の日にするべきだと判断した場合」

「水曜日を四人の日に変更します」

「代わりに、日曜日がカレンの日になります」


 良樹は少し考えた。


「……担当が消えるわけじゃねえのか」


「消しません」


 クラリスは穏やかに言った。


「それは不公平ですから」


 カレンが、ほっとしたように頷いた。


「はい」

「自分の日がなくなるのは、少し寂しいので……」


「正直だな」


「妻なので」


「最近その言葉が強い」


 リシアは紙に追記する。


 三人の合意がある場合、任意の担当日を四人の日へ変更できる。

 その場合、当該日の担当分は日曜と入れ替える。

 担当権は消滅しない。

 良樹の体調を見て、三人協議により適用する。


 良樹はその文面を見た。


「……だんだん労務規定みたいになってきたな」


「生活規定よ」


 リシアが言った。


「夫婦生活規定です」


 クラリスが清楚に言った。


「その言い方はやめろ」


「ですが、正確です」


「正確だからやめろ」


 カレンは、少し恥ずかしそうに紙を見た。


「でも、これがあれば」

「三人で一緒にいたい日も、ちゃんと決められます」


 その声は小さかった。


 けれど、良樹は黙った。


 ただ欲張るだけではない。


 三人は、良樹を取り合いたい。

 けれど、三人で良樹を愛したい。


 どちらも本当なのだ。


 だから、こうして紙にする。


 揉めないために。

 我慢しすぎないために。

 誰か一人だけが譲り続けないために。


 良樹は、深く息を吐いた。


「……まあ」

「担当が消えねえなら、理屈は分かる」


 三人の顔が明るくなる。


「認めるのね?」


「試験導入だ」

「何度でも言うが、試験導入だ」


「はい」

「試験導入として記録します」


 クラリスは嬉しそうに追記した。


 良樹はその筆先を見ながら、ふと気づいた。


「待て」


「何?」


「三人の合意ってことは」

「俺の合意は?」


 三人は、少しだけ黙った。


 リシアが目を逸らす。


 カレンが顔を赤くする。


 クラリスが清楚に微笑む。


「良樹くんの体調と意思は、別条項で保護されています」


「保護って言葉で薄めるな」

「俺の合意は?」


 クラリスは、すらすらと追記した。


 ただし、良樹が本当に無理な場合は適用しない。


「そこはさっきもあっただろ」


「重要なので重ねて記載しました」


「俺が本当に無理じゃない場合は?」


 リシアがにっこり笑った。


「なら、大丈夫ね」


「何がだよ」


 良樹が低く言った。


「拒否権はちゃんと残せ」

「俺が本当に無理だって言ったら、止まれよ」


「当然よ」


 リシアはすぐに頷いた。


「はい」


 クラリスも穏やかに頷く。


「はい、良樹さん」


 カレンも、少しだけ安心したように頷いた。


 良樹は三人を見る。


「本当だな」

「俺が本当に無理だって言ったら、止まれよ」


「もちろんです」


 クラリスが微笑んだ。


「良樹くんを壊すための規則ではありませんから」


「本当に嫌なら、止まるわ」


 リシアも言う。


「……本当に、な」


 良樹は少しだけ目を細めた。


 そこで、三人の間に一瞬だけ沈黙が走った。


 言葉にはならない。


 けれど、目だけで通じた。


 クラリスが、ほんのわずかにカレンを見る。


 ――カレン、お願いします。


 リシアも、カレンを見る。


 ――カレンなら良樹の反論を潰せるわ。お願い!


 カレンは、二人の視線を受けて固まった。


 ――えぇぇ……。


 顔がみるみる赤くなる。


 けれど、逃げない。


 逃げないあたりが、カレンだった。


 カレンは、良樹の手を両手でそっと包んだ。


「良樹さん」


「……何だ」


 嫌な予感がした。


 良樹は逃げ道を探した。


 だが、右にリシア。

 左にクラリス。

 正面にカレン。


 逃げ道は、すでに封鎖されていた。


 カレンは、潤んだ目で良樹を見上げる。


「私たちと、するの」

「いや、ですか?」


 八割、本気だった。


 残り二割は、恥ずかしさで震えているだけだった。


 良樹は、言葉に詰まった。


「ぐっ……」


 リシアが少しだけ目を逸らす。


 クラリスは清楚に微笑んでいる。


 カレンは、良樹の手を握ったまま、じっと答えを待っている。


 良樹は、天井を見た。


「……お前ら」


「何?」


 リシアが何食わぬ顔で返す。


「カレンを使うのは汚ねえぞ」


「使ってないわよ」


「嘘つけ」

「今、完全に目で指示出してただろ」


「家族の連携です」


 クラリスが穏やかに言った。


「言い方を綺麗にするな」


 カレンは真っ赤になったまま、小さく言う。


「あ、あの」

「でも、私も……聞きたかったので」


 良樹は止まった。


「……カレン」


「はい」


「お前、そこで本気を混ぜるな」

「逃げ道がなくなる」


「逃げないでください」


 カレンは、震えながらも言った。


「本当に嫌なら、止まります」

「でも」

「嫌じゃないなら」

「逃げないで、ください」


 良樹は何も言えなくなった。


 リシアとクラリスの策は汚い。


 だが、カレンの言葉は真っ直ぐだった。


 良樹は深く息を吐く。


「……嫌じゃねえよ」


 カレンの顔が、一瞬で明るくなる。


 リシアがにやりと笑う。


 クラリスは、満足そうに紙へ一文を書き足した。


「良樹くん、拒否権確認済み、と」


「書くな!」


「大切な記録です」


「大切にするな!」


 リシアは良樹の肩に手を置く。


「観念した?」


「させられたんだよ」


「でも、嫌じゃないんでしょう?」


「……嫌じゃねえ」


 カレンが、良樹の手をぎゅっと握った。


「ありがとうございます」


「礼を言う場面なのか、これ」


「はい」

「ちゃんと答えてくれたので」


 良樹は、もう一度ため息を吐いた。


「だから」


 リシアは、少しだけ頬を赤くしながら言った。


「その、担当の日にどうするかは」

「それぞれに任せるわ」


 良樹は、紙から顔を上げた。


「任せる?」


「そうよ」


 リシアは少しだけ目を逸らす。


「シて、もいいし」

「一緒に寝るだけでもいい」

「甘えるだけでもいい」

「話をするだけでもいい」


 カレンが、小さく頷いた。


「はい」

「その日の人が、良樹さんとどう過ごしたいか決める日、です」


 クラリスも続ける。


「義務ではありません」

「担当日だから必ず何かをしなければならない、というものではありません」

「その妻が、良樹くんと過ごす権利を持つ日です」


「権利って言い方が強いな」


「大切ですから」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


 良樹は紙を見た。


 月木、リシア。

 火金、クラリス。

 水土、カレン。

 日、四人。


 担当日。

 振替。

 疲労時の例外。

 三人合意による四人の日への変更。


 どんどん本格的になっていく。


「四人の日は?」


 良樹が聞くと、リシアは少しだけ胸を張った。


「四人の日は、どうするか三人で話して決める」


「四人の日なのに三人なのかよ」


 良樹のツッコミは、かなり素直だった。


 リシアは即答した。


「四人の日だからよ」


「意味が分からん」


「良樹をどう甘やかすか、三人で決める必要があるでしょ」


「俺本人は?」


 クラリスが穏やかに言った。


「良樹くんの体調と意思は確認します」


「決定権は?」


 三人は少しだけ黙った。


 リシアが咳払いする。


「拒否権はあるわ」


「決定権は?」


 カレンが、申し訳なさそうに目を伏せた。


「……相談権、です」


「俺の立場が弱すぎる」


 クラリスは、さらさらと紙に追記した。


 四人の日の内容は、妻三人で事前協議する。

 良樹の体調および意思を確認する。

 良樹が本当に無理な場合は中止または休息日に変更。

 ただし、照れ隠し、逃走、作業場への退避は三人協議により判定する。


「最後」


 良樹が低い声で言った。


「消せ」


「重要です」


「重要よ」


「重要、です」


 三人の声が揃った。


 良樹は頭を抱えた。


「なんで俺の逃走判定だけ、こんなに厳密なんだよ」


 リシアは当然の顔で言った。


「実績があるからよ」


「今朝、泊まりがけ修行に逃げようとしました」


 クラリスが補足する。


「河原に、です」


 カレンも小さく頷いた。


「はい」

「河原に、でした」


「三人で証言するな」


「事実だもの」


 リシアは紙を指で叩いた。


「良樹」

「これは縛りたいだけじゃないの」

「私たちが、ちゃんと三人で良樹の妻を続けるための決まりよ」

「その日の担当が何を選ぶかも、大事」

「四人の日を三人で決めるのも、大事」


 良樹は、リシアを見る。


「どうしてだ」


「四人の日は、誰か一人の欲だけで決めちゃ駄目だから」


 リシアは静かに言った。


「三人で良樹を囲む日なの」

「だから、三人で決める」

「誰か一人が我慢しすぎないように」

「誰か一人だけが得をした気持ちにならないように」

「三人とも、ちゃんと納得してから、良樹のところへ行く」


 カレンが続ける。


「そうしたら」

「安心して、四人でいられると思います」


 クラリスも頷いた。


「四人の日は、三人の合意があって初めて四人の日になります」

「そうでなければ、ただの取り合いになってしまいます」


 良樹は黙った。


 まただ。


 また、反論しづらい理屈を持ってくる。


 しかも、正しい。


 欲がある。

 独占したい気持ちもある。

 でも、三人で妻でいたい。


 だから、決める。


 それは良樹がずっと言ってきたことと、よく似ていた。


 動かす前に、止め方を見る。


 良樹は深く息を吐いた。


「……分かった」

「四人の日は、三人で決める」

「ただし、俺の拒否権はちゃんと残せ」


「当然よ」


「はい」


「はい、良樹くん」


 三人はすぐに頷いた。


 良樹は少しだけ目を細める。


「今の返事、信用していいんだな」


 リシアは笑った。


「本当に嫌なら、止まるわ」


 クラリスも微笑む。


「良樹くんを壊すための規則ではありませんから」


 カレンは、良樹の手をそっと握った。


「良樹さんと、長く一緒にいるための規則です」


 良樹は、その手を見た。


 そして、もう一度紙を見る。


 奇妙で。

 妙に実務的で。

 ところどころ逃走防止が厳しすぎる。


 だが、そこには確かに、三人が三人のまま良樹の妻でいようとした跡があった。


「……観念するしかねえな」


 良樹が呟くと、リシアが満足そうに笑った。


「最初からそう言ってるでしょ」


 クラリスは紙を丁寧に畳む。


「では、試験導入で記録します」


 カレンは嬉しそうに微笑んだ。


「よろしくお願いします、良樹さん」


「仕事の契約みたいに言うな」


「夫婦の約束です」


 良樹は天井を見た。


「……新婚生活って、もっとこう、ふわっとしたもんじゃねえのか」


 リシアが即答した。


「三人妻の新婚生活よ」


 クラリスが続ける。


「英雄婚ですから」


 カレンが、小さく笑った。


「良樹さんが、三人とも妻にしてくれたからです」


 良樹は、何も言えなくなった。


 それを言われると、負けるしかなかった。


 良樹は、もう一度、紙を見た。


 夫婦時間配分案。

 疲労時例外。

 四人の日移動。

 担当権保護。

 逃走判定。


 まるで制御仕様書だった。


 だが。


 そこに書かれているのは、三人の妻たちが良樹と暮らしていくための、彼女たちなりの止め方だった。


 壊したくない。

 揉めたくない。

 誰か一人だけが我慢したくない。

 良樹を、三人で愛したい。


 その全部が、妙に実務的な紙の上に乗っている。


「……なんて家だ」


 リシアが笑う。


「あなたの家よ」


 クラリスが微笑む。


「私たちの家です」


 カレンが、良樹の手を握ったまま言った。


「帰る場所、です」


 良樹は、その言葉に少しだけ黙った。


 そして、観念したように頷いた。


「……そうだな」


 三人の妻たちは、嬉しそうに笑った。


 なお。


 その夜が何曜日扱いになったのかについて、良樹は最後まで確認できなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ