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番外編 if-良樹の里帰り3-

 残された一週間は、早かった。


 最初の一日が終わり、次の日が終わり、その次の日も終わる。


 上村電気の居間には、いつの間にか異世界の妻たちの声が馴染んでいた。


「カレンちゃん、包丁は怖がっていいのよ。怖いと思ってる手の方が、変な力を入れないから」


「は、はいっ」


「でも、目を閉じたら駄目」


「閉じません……!」


 台所では、明恵がカレンに包丁の使い方を教えていた。


 カレンは真面目だった。

 真面目すぎるほど真面目だった。


 野菜を切るたびに、まるで剣の型を確認するような顔になる。


 良樹がそれを見て、


「カレン、玉ねぎ相手にそんな構え方しなくていいぞ」


 と言った瞬間、明恵の肘が良樹の脇腹へ刺さった。


「茶化さない」


「……はい」


 カレンは真っ赤になりながらも、包丁を握り直した。


「で、でも、良樹さんが好きな味なら、ちゃんと覚えたいです」


 それを聞いた明恵は、少しだけ目を細めた。


「そう。じゃあ、ちゃんと覚えて帰りましょうね」


「はい」


 カレンは、今度は剣士ではなく、嫁の顔で頷いた。


   ◇


 リシアは、味付けの理屈を掴むのが早かった。


「味噌は、入れてから煮立たせすぎない」


「そう。香りが飛ぶからね」


「この出汁というのは、つまり土台なのね。料理全体の底にある味」


「そうそう。そこが分かるなら早いわ」


 明恵が感心したように言うと、リシアは少しだけ得意げに胸を張った。


「魔法も料理も、基礎の流れが大事なのは同じですから」


「良樹、リシアちゃんすごいわよ」


「すげえな」


 良樹が素直に言うと、リシアは一瞬だけ顔を赤くした。


「な、何よ。そこで普通に褒めるの」


「褒めたら駄目なのか」


「駄目じゃないけど」


 リシアは味噌汁の鍋を見下ろしながら、小さく言った。


「……もっと早く知りたかったわね。良樹の好きな味」


 その言葉に、明恵は手を止めた。


 リシアは、鍋を見ている。

 けれど、その横顔には少しだけ悔しさがあった。


 良樹が日本で食べてきた味。

 自分が知らなかった時間。

 母親が先に持っているもの。


 そこへ、少しでも追いつきたいと思っている顔だった。


 明恵は、ふっと笑った。


「大丈夫よ。味ってね、覚えた人の手で少しずつ変わっていくものだから」

「良樹の好きな味を、リシアちゃんたちの家の味にしていけばいいの」


 リシアは、少しだけ目を伏せた。


「……はい」


   ◇


 クラリスは、料理を身体のためのものとして理解した。


「肉じゃがは、これだけで栄養の種類が多いのですね」


「そうね。お肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ。あと汁まで食べるといいわ」


「良樹くんが疲れている時にも、よさそうです」


「そうねえ。あの子、疲れてても大丈夫って言うから」


「はい」

「信用しません」


「そこは即答なのね」


「実績がありますので」


 明恵は、思わず笑った。


「クラリスちゃんは、本当に良樹をよく見てるのね」


「はい」


 クラリスは柔らかく微笑んだ。


「良樹くんの身体を見るのは、私の役目ですから」


「身体だけ?」


 明恵が聞く。


 クラリスは少しだけ目を伏せ、それから静かに答えた。


「心も、です」

「ただ、良樹くんは心の痛みを身体より隠します」

「だから、先に身体を見ることが多いです」


 明恵は黙った。


 自分の息子のことだ。

 強がるところも、弱みを隠すところも知っているつもりだった。


 けれど、目の前の娘は、それを母親とは違う距離で見ている。


 妻として。

 仲間として。

 戦場で背中を預かる者として。


 明恵は、クラリスの手元を見た。


 白い指が、丁寧に野菜を並べている。


「……よろしくね」


 明恵が小さく言うと、クラリスは顔を上げた。


「はい」


 迷いのない返事だった。


   ◇


 上村電気の作業場では、十鉄と良樹が並んで図面を見ていた。


 埃の匂い。

 油の匂い。

 古い工具箱。

 圧着工具。

 端子台。

 古い制御盤の残骸。


 良樹にとっては、日本の匂いそのものだった。


「これ、まだ残してたのか」


 良樹が古い図面を指す。


「ああ。捨てるに捨てられん」


「この客先、まだ動いてんのか」


「動いてる。たまに呼ばれる」


「この回路、よくこんな無理やり組んだな」


「若かったんだよ」


「親父にも若い頃あったんだな」


「当たり前だ、馬鹿野郎」


 十鉄は鼻を鳴らした。


 良樹は笑いながら、図面の端に書かれた手書きのメモを見た。


 停止条件、要確認。

 再起動防止。

 扉開放時、保持切り。

 後から触る奴に分かるように。


 父の字だった。


 良樹は、しばらくその文字を見つめた。


「……これ、向こうでも同じこと書いてる気がする」


「なら、少しは役に立ったか」


「役に立ちすぎて困ってる」


「そりゃいい」


 十鉄は工具箱を開けた。


 中から古い圧着ペンチを一本取り出す。


「持っていけるなら、持っていけ」


 良樹は少し驚いたように見る。


「いいのか」


「使わねえわけじゃないが、今は別のもある」

「お前が向こうで使えるなら、工具としてはそっちの方が幸せだろ」


 良樹は圧着ペンチを受け取った。


 ずしりと重い。


 子供の頃、勝手に触ろうとして怒られた工具だった。


 挿絵(By みてみん)


「……持って帰れるか分からねえぞ」


「なら、置いていけ」

「だが、持って帰れるなら持っていけ」


 十鉄はそう言って、図面のコピーを数枚、良樹に渡した。


「こっちは確実に持っていけ」

「工具が駄目でも、考え方は持っていける」


 良樹は、紙を受け取った。


 端には十鉄の字で、短く書かれていた。


 動かす前に止め方。

 壊れ方を見る。

 後から触る奴の顔を想像しろ。

 分からねえ時ほど、手を止めろ。


 良樹は、紙を握った。


「……説教メモかよ」


「親父から息子への設計資料だ」


「言い方で誤魔化すな」


「誤魔化してねえ」


 二人は、少し笑った。


   ◇


 写真というものを、三人妻が理解するには少し時間がかかった。


「姿を……紙に残す?」


 リシアが首を傾げる。


「ああ」


 良樹はスマートフォンの画面を見せた。


 そこには、浴衣姿の三人が映っていた。


 リシアが濃紺の浴衣で少し澄ましている。

 カレンは朝顔と金魚柄の浴衣で恥ずかしそうにしている。

 クラリスは白と水色の浴衣で穏やかに微笑んでいる。


 三人は、画面を覗き込んだまま固まった。


挿絵(By みてみん)


「これが、私たち……?」


 カレンが呟く。


「そうだ」


「鏡とは違いますね」


 クラリスが静かに言う。


「その時の姿を、後から見られるんですね」


「ああ」

「日本には、そういう技術がある」


 リシアは画面の中の自分を見て、少しだけ眉を寄せた。


「不思議ね」

「過去の一瞬が、ここに残っているみたい」


「そういうものだな」


 良樹は頷く。


「ただ、向こうにはないものだからな」

「持ち帰った後、どう扱うかは少し考えた方がいい」


「……誰にでも見せるものではないのね」


「そうだ」


 リシアはしばらく考えてから、頷いた。


「なら、これは私たちの家族の記録ね」


 その言葉に、明恵が少しだけ目を伏せた。


「そう」

「家族の記録」


 それから一週間、十鉄と明恵は、少しずつ写真を撮った。


 台所で料理を教わる三人。

 作業場で図面を見ている良樹と十鉄。

 居間で笑っている六人。

 浴衣姿。

 花火を見上げる横顔。

 明恵に抱きつかれて少し困っている良樹。

 十鉄に頭を小突かれている良樹。

 三人妻に囲まれて、諦めたように笑っている良樹。


 そのどれもが、短い一週間の中に詰まっていた。


   ◇


 帰還前夜。


 上村家の食卓は、いつもより少し静かだった。


 料理は多かった。

 明恵が作ったもの。

 三人妻が手伝ったもの。

 リシアが味噌汁を整え、カレンが卵焼きを少し崩しながらも焼き、クラリスが肉じゃがの味を見た。


 十鉄はそれを黙って食べた。


 そして、短く言った。


「うまい」


 その一言で、カレンの顔がぱっと明るくなった。


「ほ、本当ですか?」


「ああ」

「良樹より上手い」


「俺と比べるなよ」


「お前は料理の見た目を現場飯に寄せすぎる」


「腹に入れば一緒だろ」


「嫁の前でそれを言うな」


 十鉄が即座に言う。


 良樹は口を閉じた。


 リシアが半眼で良樹を見る。


「良樹」


「……味も見た目も大事です」


「よろしい」


 明恵がくすりと笑った。


 いつもの上村家の空気だった。


 けれど、その奥には、明日がある。


 明日、良樹たちは異世界へ帰る。


 それを、誰も忘れていなかった。


   ◇


 食後、明恵は三人妻を台所へ呼んだ。


 良樹と十鉄は作業場へ行った。


 女組と男組。


 最初の日と同じように分かれた。


 台所の灯りは、少し柔らかかった。


 明恵は、棚から一冊のノートを取り出した。


「これ」


 リシアが受け取る。


「これは?」


「料理ノート」

「味噌汁、卵焼き、肉じゃが、カレー。良樹が好きだったものを、簡単に書いてあるわ」

「材料は異世界で同じものが揃うとは限らないでしょうけど、考え方くらいは使えると思う」


 リシアは、ノートを両手で持った。


「ありがとうございます」


 カレンが覗き込む。


「字は、良樹さんに読んでもらえば……」


「読めるように教えてもらいなさい」


「は、はいっ」


 クラリスはノートの表紙をそっと撫でた。


「お母様の味ですね」


 明恵は少し照れたように笑った。


「そんな大げさなものじゃないわよ」

「ただの家の味」


「だから、大切です」


 クラリスが言った。


 明恵は、言葉に詰まった。


 そして、小さく息を吐く。


「良樹はね」


 三人が明恵を見る。


「昔から、弱みを見せない子だった」

「痛くても、大丈夫」

「疲れてても、大丈夫」

「怖くても、平気な顔をする」

「親の前だから余計にそうだったのかもしれないけど」


 明恵は、少しだけ遠くを見るような目をした。


「でも、この一週間見ていて分かったの」

「あの子、あなた達にはちゃんと見せてた」

「全部じゃないかもしれない」

「でも、私たちには見せなかった顔を、あなた達には見せてた」


 リシアは静かに頷いた。


「はい」

「良樹は、隠そうとはします」

「でも、隠し切らせません」


 カレンも、胸元で両手を握った。


「一人で抱えそうになったら、止めます」


 クラリスは柔らかく言った。


「壊れそうになる前に、支えます」


 明恵の目が潤んだ。


「私は母親だから」

「息子には、いつまでも手の届くところにいてほしかった」

「子離れできてないって言われたら、それまでだけど」


 声が震える。


「でも、あなた達三人なら」

「きっと良樹は幸せになれるわ」

「女の勘よ」


 リシアの目が、少しだけ揺れた。


 カレンはもう泣きそうだった。

 クラリスも、静かに目を伏せている。


 明恵は、三人へ頭を下げた。


「だから」

「どうか、良樹をお願いします」


 次の瞬間、三人は同時に明恵に抱きついていた。


「約束します、お義母様」

「絶対です」


 リシアの声は、まっすぐだった。


「お母様が教えてくださった料理もあります」

「良樹くんの身体も、心も、ちゃんと見ます」


 クラリスの声は、柔らかく、強かった。


 カレンは、涙目のまま必死に言った。


「良樹さんにたくさん犯していただいて、ちゃんと孕ませていただきますから!」

「お義母様も、赤ちゃんの顔を楽しみにしていてください!」


「カレェェェエン!」

「言い方ァ!」


 台所の入り口から、良樹の絶叫が飛んできた。


 いつの間に戻ってきたのか、そこには良樹と十鉄が立っていた。


 明恵は、泣きかけていた顔のまま固まった。


 そして、ゆっくりと良樹へ顔を向ける。


「……良樹」

「あんた、カレンちゃんに何言ってんの」


「母さん違う! 誤解だ!」

「いや、誤解じゃねえけど誤解なんだ!」


「何がどう誤解なの」


「それを説明したら、誤解じゃなくなるだろ!」


 明恵の目が、すっと細くなる。


「リシア! クラリス!」

「お前らも何とか言ってくれ!」


 そう言われたリシアとクラリスは、物の見事に動きをシンクロさせた。


 二人同時に、ふいっと横へ顔を背ける。


 否定の言葉はなかった。


 その反応が、何より雄弁だった。


「良樹……」

「あんたまさか、カレンちゃんだけじゃなく、リシアちゃんとクラリスちゃんにも……」


「違う!」

「いや、違わねえけど、母さんが考えてるような一方的な話じゃ――」


 そこで、リシアが明恵へ向き直った。


「お義母様、大丈夫です」

「私は、良樹の愛し方が特殊でも、全部受け止めますから」


「リシア?」


 良樹の声が震えた。


 続いてクラリスも、清楚な微笑みを浮かべる。


「私は、良樹くんにも同じ言葉を返していますので」

「ご心配ありがとうございます」


「おまえらああああ!」


 良樹の絶叫が、上村家に響いた。


「こいつら今、説明するふりして誤解を広げてるだけだろうが!」

「夫婦ごとに事情が違うんだよ!」


「事情が三通りあることを、自分から認めたわね」


「仕方ねえだろ!」

「嫁が三人いるんだから!」


 挿絵(By みてみん)


 良樹が叫んだ瞬間。


 上村家が、しんと静まり返った。


 明恵が目を細める。


 十鉄は、何とも言えない顔で息子を見た。


「……良樹」


「何だよ親父!」


「まだ若いとはいえ、お前、もう三十近いんだぞ」

「お盛んなのもいいが、節操は弁えろよ……」


「親父まで何を誤解してんだ!」


「誤解じゃねえんだろ」


「誤解じゃねえけど誤解なんだよ!」


「それはさっきも聞いたわよ!」


 明恵の怒号と、良樹の必死の訴えが、上村家いっぱいに響き渡った。


「あ、あの!」


 珍しく大きなカレンの声に、騒いでいた親子が揃って口を閉じた。


 全員の視線が集まり、カレンは一瞬だけ怯んだ。


 それでも、胸元で両手を握り締め、明恵と十鉄をまっすぐ見た。


「良樹さんは、私たちが嫌がることはしてません……」

「私たち三人が、それぞれ欲しい形で愛してくれてるんです」

「だから、怒らないであげてください……」


 良樹が、目を見開いてカレンを見る。


「カレン……」


 リシアが、その隣へ並んだ。


「カレンの言う通りよ」

「良樹は、私たちの気持ちを無視して、自分の望みだけを押しつけるような人じゃないわ」

「私たちが何を望んでいるのか、ちゃんと見てくれている」

「だから、私たちは良樹の傍にいるの」


 クラリスも、カレンの反対側へ静かに並んだ。


「良樹くんは、私たち一人一人を、別の人間として愛してくださっています」

「私たちの望みがそれぞれ違うから、応え方も違うだけです」

「節操なく扱われたと思ったことは、一度もありません」


 三人は、良樹を守るように並んでいた。


 明恵はしばらく、その顔を順番に見つめた。


 カレンは真っ赤になりながらも、視線を逸らさない。

 リシアは堂々と胸を張っている。

 クラリスは静かに微笑んでいる。


 やがて、明恵は息を吐いた。


「良樹」


「……なんだよ」


 散々責められた良樹は、明らかに拗ねた声で返した。


 明恵は、そんな息子を少しだけ見つめた後、柔らかく笑った。


「あんた、本当にいい子を見つけたんだね」

「それも、三人も……」


 良樹は何も言わなかった。


 ただ、隣に並ぶ三人を順番に見る。


 カレンはまだ顔を赤くしたまま、良樹を心配そうに見上げている。

 リシアは、当然だと言わんばかりに胸を張っていた。

 クラリスは、いつもの清楚な微笑みを浮かべている。


「……ああ」


 良樹は、小さく答えた。


「それだけは、俺もそう思う」


 明恵は、もう一度三人を抱きしめた。


「良樹のこと、よろしくね」


「はい、お義母様」


 三つの声が、今度は穏やかに重なった。


 ひとしきり騒いだ後、良樹と十鉄は、もう一度作業場へ戻った。


   ◇


 しばらくして、作業場へ戻った十鉄と良樹は、机を挟んで向かい合っていた。


 机の上には、古い工具と図面。

 そして、もう一つ。


 小さな魔石が置かれていた。


 淡く光る、透明に近い石だった。


「それが、例のやつか」


 十鉄が言う。


「ああ」


 良樹は頷いた。


「アルフが作った」

「俺も仕組みを見た」

「ただ、便利なもんじゃねえ」


「聞いた」


「毎日話せるわけじゃない」

「困った時に呼べるわけでもない」

「日本側から起動することもできない」

「何かを送ることもできない」

「年に一回」

「数秒だけだ」

「映像も粗い」

「声も短い」

「こっちから、生きてるってことを送るだけに近い」


 良樹は、石を見る。


「それでも」


 言葉が詰まった。


「それでも、生きてることくらいは、送れる」


 十鉄はしばらく石を見ていた。


 制御盤でもない。

 リレーでもない。

 電線でもない。

 理屈の分からない異世界の石。


 だが、息子が持ってきたものだった。


 十鉄は短く言った。


「十分だ」


 良樹は顔を上げる。


「……親父」


「十分だっつってんだ」

「年一回、数秒でも顔が見えるならな」

「海外に出た息子から年賀状が来るようなもんだ」


「海外の範囲が広すぎるだろ」


「似たようなもんだ」


「似てねえよ」


「俺が似てるっつったら似てるんだよ」


 十鉄はそう言って、魔石を手に取った。


 大きな手の中で、小さな石が淡く光る。


「母さんに渡しておく」

「あいつは、たぶん俺より見る」


「だろうな」


「だが、俺も見る」


「……ああ」


 良樹は頷いた。


 十鉄は魔石を机に置き直した。


「良樹」


「何だ」


「親不孝だと思ってるか」


 良樹は、すぐには答えなかった。


 作業場の匂い。

 父の声。

 日本の家。


 それを残して、自分は異世界へ帰る。


「……思わねえって言ったら、嘘になる」


「そうか」


 十鉄は頷いた。


「なら、前にも言ったな」

「親孝行かどうかは、親が決める」


「……ああ」


「俺はな」

「お前が帰ってきて、顔を見せて、嫁を連れてきて、自分の口で生きる場所を言った」

「それで十分だ」


 良樹は、拳を握った。


「でも」


「でもじゃねえ」


 十鉄の声が少しだけ強くなる。


「帰るなとは言わねえ」

「帰れとも言わねえ」

「お前が決めた場所で生きろ」


 良樹は、十鉄を見る。


 十鉄は、作業場の灯りの下で息子を見ていた。


「ただし、忘れんな」

「お前は日本で生まれた」

「俺と母さんの息子だ」

「そこは、異世界へ行こうが変わらねえ」


「……親父」


「それから」


 十鉄は、少しだけ目を細めた。


「お前が殺した人間のことも、忘れんな」


 良樹の表情が変わった。


 十鉄は続ける。


「正しかったかどうかなんざ、俺には分からん」

「その場にいたわけじゃねえ」

「お前が背負うしかねえことだ」

「だが、忘れるな」

「忘れずに、それでも生きろ」

「お前の嫁たちを泣かせたなら、泣いた後まで見ろ」

「逃げんな」


 良樹は、ゆっくり息を吸った。


「……ああ」

「分かってる」


「本当か」


「分かってる」


「怪しいな」


「おい」


 十鉄は鼻を鳴らした。


「だがまあ」


 一拍。


「しばらく見ねえ間に、一端の男の顔にはなった」


 良樹は、少しだけ目を見開いた。


「……褒めてんのか」


「事実確認だ」


「素直に褒めろよ」


「調子に乗るな」


 良樹は笑った。


 笑ってから、少しだけ目を伏せた。


「俺、帰ってきてよかった」


 十鉄は、当然のように言った。


「当たり前だ」

「帰ってきて悪い家なんざ、作った覚えはねえ」


 良樹は、今度こそ何も言えなかった。


   ◇


 帰還の朝。


 上村電気の居間には、六人が揃っていた。


 リシア、カレン、クラリスは、異世界へ戻るための装いに戻っていた。


 浴衣ではない。

 日本の服でもない。

 彼女たちが異世界で生き、戦い、良樹の隣に立つための服だった。


 けれど、その表情には日本の一週間が残っていた。


 味噌汁の味。

 花火の光。

 浴衣の感触。

 作業場の匂い。

 明恵の手。

 十鉄のぶっきらぼうな声。


 全部を抱えている顔だった。


 明恵は、最後に一冊のアルバムを持ってきた。


 厚すぎない。

 けれど、しっかりした表紙のアルバムだった。


「良樹」


「何だ」


「これ、持っていきなさい」


 良樹は受け取る。


「アルバム?」


「そう」


 明恵は、少しだけ笑った。


「あんたの子供の頃の写真のコピー」

「それから、この一週間で撮った写真」

「家族六人の、短い思い出」


 良樹の手が止まった。


 アルバムを開く。


 小さな頃の自分がいた。


 作業場の隅で、ヘルメットをかぶらされている幼い良樹。

 小学生の良樹。

 工具箱の前で怒られているらしい良樹。

 十鉄と並んで写る良樹。

 明恵に弁当を持たされている良樹。


 そして、ページが進む。


 リシアが味噌汁を見ている写真。

 カレンが包丁を握って緊張している写真。

 クラリスが明恵と並んで肉じゃがを見ている写真。

 十鉄と良樹が作業場で図面を見ている写真。

 浴衣の三人。

 花火を見上げる四人。

 居間で笑う六人。


 良樹は、しばらく言葉を失った。


「母さん」


「こっちにも同じものがあるわ」

「だから、持っていきなさい」


 リシアがアルバムを覗き込んだ。


「これが、良樹の子供の頃……」


 カレンが小さく息を呑む。


「小さい良樹さん……」


 クラリスは、そっとページに触れた。


「良樹くんの日本での時間ですね」


 明恵は頷いた。


「そう」

「この子が日本で生きてきた時間」

「そして、この一週間で、あなた達も入った時間」


 良樹はアルバムを閉じた。


 胸の奥が熱かった。


「……持って帰る」


「ええ」


 明恵は笑った。


「ちゃんと持って帰りなさい」


挿絵(By みてみん)


   ◇


 玄関ではなく、作業場から帰ることになった。


 上村電気らしい、と十鉄が言ったからだ。


「来た時は玄関だったが、行く時はここでいいだろ」

「お前の根っこは、だいたいここにもある」


 良樹は何も言えず、頷いた。


 魔石が淡く光る。


 帰還のための魔力が、静かに場を満たしていく。


 十鉄は腕を組んで立っていた。


「じゃあ、行ってこい」

「気にすんな」

「外国に永住したとでも思えば、似たようなもんだ」


 良樹は眉を寄せた。


「全然似てねえよ」


「似たようなもんだ」


「雑すぎる」


「親父の方便に文句を言うな」


 十鉄はそう言って、少しだけ口元を緩めた。


 明恵は三人の前に立った。


「リシアちゃん」

「カレンちゃん」

「クラリスちゃん」


 三人は背筋を伸ばした。


「はい、お義母様」


 三つの声が重なった。


 明恵は一度だけ息を吸った。


「良樹のこと、お願いします」


 声が震えた。


「昔から、弱みを見せない子だった」

「けれど、あなた達にはちゃんと見せてた」


 明恵の目に涙が浮かぶ。


「私は母親だから」

「息子には、いつまでも手の届くところへいて欲しかった」

「子離れできてないって言われたら、それまでだけど」


 それでも、明恵は三人を見た。


「あなた達三人なら」

「きっと良樹は幸せになれるわ」

「女の勘よ」


 リシアの目が潤む。

 カレンの唇が震える。

 クラリスが静かに目を伏せる。


「だから」

「どうか、良樹をお願いします」


 三人は、もう一度明恵に抱きついた。


 明恵も、三人を抱きしめた。


 リシアが言う。


「約束します、お義母様」

「絶対です」


 クラリスが続ける。


「お母様が教えてくださった料理もあります」

「良樹くんが疲れた時、ちゃんと作ります」


 カレンは、涙をこぼしながら、それでも明るく言った。


「赤ちゃんの顔も、楽しみにしててください!」


 前夜の騒動を思い出したのか、カレンは言い切った直後に耳まで真っ赤になった。


 良樹が変な咳をした。


「ごほっ」


 リシアも顔を赤くしながら横目で良樹を見る。


 クラリスは口元に手を添えて微笑んだ。


 明恵は、泣きながら笑った。


「……そうね」

「まだ、絶対に会えないなんて決まったわけじゃないものね」

「赤ちゃんの顔だって、見られるかもしれない」


「は、はい……!」


 カレンは真っ赤なまま頷いた。


 明恵は、涙を拭った。


 そして、良樹へ向き直る。


「良樹!」


「はい」


「あんた、この子達を泣かせたら承知しないわよ!」


 良樹は、少しだけ目を逸らした。


「……ああ、分かってる」


 もう何度も泣かせている、とは言えなかった。


 それを見た十鉄が、すぐに目を細める。


「おい、母さん」

「こりゃ前科ありの顔だぞ」


「おい親父!」


 明恵の目が鋭くなった。


「良樹」


「いや、あの」


「あんたって子は!」


「待て、話せば分かる」


「泣かせたのね?」


 リシアが少しだけ視線を逸らす。

 カレンが耳まで赤くなる。

 クラリスが清楚に微笑む。


 良樹は天井を見た。


「……色々ありまして」


「全くもう」


 明恵は呆れたように言って、それから良樹を抱きしめた。


 強く。

 子供を抱きしめるように。


「元気でね」


 良樹は、一瞬だけ固まった。


 それから、ゆっくり母を抱き返した。


「……ああ」


 明恵は離れた。


 十鉄が一歩前に出る。


「良樹」


「何だ」


「お前が選んだ道だ」

「俺らがどうこう言う筋じゃねえ」


 十鉄の声は、ぶっきらぼうだった。


 けれど、深かった。


「ただ、一度決めたならスジは貫き通せ」

「いいな」


「ああ」


「リシアちゃん」

「カレンちゃん」

「クラリスちゃん」


 三人が十鉄を見る。


「よろしく頼んだぜ」


 三人は、同時に頭を下げた。


「はい」


 良樹は、アルバムを胸に抱えた。


 魔石の光が強くなる。


 時間だった。


「そろそろ行く」


 誰も、止めなかった。


 良樹は、父と母を見る。


「……親父」

「母さん」


 二人が良樹を見る。


 良樹は、喉の奥に詰まるものを押し込めた。


 そして、笑った。


「行ってきます」


 十鉄と明恵は、同時に答えた。


「行ってらっしゃい」


 その言葉が、作業場に落ちた。


 次の瞬間、光が広がる。


 リシアが良樹の左手を握る。

 カレンが右側に寄る。

 クラリスが背中に手を添える。


 良樹は最後まで、父と母を見ていた。


 十鉄も。

 明恵も。


 最後まで、息子を見ていた。


 そして。


 四人の姿は、二人の目の前で消えた。


挿絵(By みてみん)


   ◇


 作業場に、静けさが戻った。


 さっきまで六人いた場所に、十鉄と明恵だけが残っている。


 魔石は淡く光を失い、机の上に置かれていた。


 明恵は、しばらく何も言わなかった。


 十鉄も黙っていた。


 やがて、十鉄が舌打ちをした。


「ちっ」


 明恵が見る。


「しばらく見ねえ間に、一端の男の顔になってやがった」


 明恵は、涙を拭きながら笑った。


「寂しいわよ」


「ああ」


「でも……ちゃんと、行ってらっしゃいを言えたわ」


「ああ」


 十鉄は、作業場の机に手を置いた。


「なら、上出来だ」


 明恵は、机の上に置かれた魔石を見た。


「年に一度、見られるのよね」


「らしいな」


「ちゃんと見逃さないようにしないと」


「見逃すなよ」


「あなたも見るのよ」


「見るに決まってんだろ」


 十鉄は鼻を鳴らした。


 明恵は、もう一度涙を拭いた。


 そして、机の上に置かれた、もう一冊のアルバムをそっと撫でた。


 そこには、家族六人の一週間が残っていた。


   ◇


 光が収まった時、良樹たちは見慣れた場所に立っていた。


 空気の匂いが違う。


 畳の匂いも、味噌汁の匂いも、夏の花火の煙もない。


 代わりにあるのは、土の匂い。

 木の匂い。

 遠くから聞こえる町の音。

 そして、自分たちが生きてきた異世界の空気だった。


 良樹は、しばらく何も言わなかった。


 胸にはアルバムがある。


 父の声。

 母の手。

 上村電気の作業場。

 台所の匂い。

 夏の花火。

 家族六人の写真。


 全部、置いてきたわけではない。


 持って帰ってきた。


 リシアが、そっと隣に立つ。

 カレンが、反対側から良樹の手を握る。

 クラリスが、背中に静かに手を添えた。


 良樹は一度だけ目を閉じた。


 日本には、父と母の家がある。


 異世界には、三人の妻と作った家がある。


 どちらかを捨てたわけではない。


 帰る場所が、二つになったのだ。


 良樹はゆっくり息を吐き、それから三人を見た。


「――帰るか」


 三人が良樹を見る。


 良樹は、少しだけ笑った。


「俺たちの家へ」


 リシアが微笑む。


「ええ」


 カレンが、嬉しそうに頷く。


「そうですね」


 クラリスが、良樹の背中に添えた手を少しだけ強めた。


「はい」


 四人は歩き出した。


 良樹は日本を失ったわけではない。


 父の声も。

 母の味も。

 夏の花火も。

 上村電気の作業場も。


 その全部を抱えたまま。


 上村良樹は、三人の妻と共に、自分たちの家へ帰っていった。


挿絵(By みてみん)


ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


長かった良樹の里帰り編も、今回でひと区切りとなります。


ifストーリーとはいえ良樹にとって日本は、もう戻れない過去ではなく、

父と母が待っている、もう一つの帰る場所になりました。


そして十鉄と明恵にとっても、

突然帰ってきた息子が三人の妻を連れてきた一週間は、

戸惑いながらも、新しい家族を迎える時間になったのだと思います。


最後まで湿っぽいだけでは終われず、

カレンの爆弾発言から良樹の家庭内裁判が始まった辺りは、

この一家らしい別れになりました。


良樹たちが再び日本へ帰れる日が来るのか。

年に一度、魔石がどんな景色を映すのか。


その辺りも、いつかまた書ければと思います。


改めまして、里帰り編を最後までお読みいただき、

本当にありがとうございました。

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