番外編 if-良樹の里帰り3-
残された一週間は、早かった。
最初の一日が終わり、次の日が終わり、その次の日も終わる。
上村電気の居間には、いつの間にか異世界の妻たちの声が馴染んでいた。
「カレンちゃん、包丁は怖がっていいのよ。怖いと思ってる手の方が、変な力を入れないから」
「は、はいっ」
「でも、目を閉じたら駄目」
「閉じません……!」
台所では、明恵がカレンに包丁の使い方を教えていた。
カレンは真面目だった。
真面目すぎるほど真面目だった。
野菜を切るたびに、まるで剣の型を確認するような顔になる。
良樹がそれを見て、
「カレン、玉ねぎ相手にそんな構え方しなくていいぞ」
と言った瞬間、明恵の肘が良樹の脇腹へ刺さった。
「茶化さない」
「……はい」
カレンは真っ赤になりながらも、包丁を握り直した。
「で、でも、良樹さんが好きな味なら、ちゃんと覚えたいです」
それを聞いた明恵は、少しだけ目を細めた。
「そう。じゃあ、ちゃんと覚えて帰りましょうね」
「はい」
カレンは、今度は剣士ではなく、嫁の顔で頷いた。
◇
リシアは、味付けの理屈を掴むのが早かった。
「味噌は、入れてから煮立たせすぎない」
「そう。香りが飛ぶからね」
「この出汁というのは、つまり土台なのね。料理全体の底にある味」
「そうそう。そこが分かるなら早いわ」
明恵が感心したように言うと、リシアは少しだけ得意げに胸を張った。
「魔法も料理も、基礎の流れが大事なのは同じですから」
「良樹、リシアちゃんすごいわよ」
「すげえな」
良樹が素直に言うと、リシアは一瞬だけ顔を赤くした。
「な、何よ。そこで普通に褒めるの」
「褒めたら駄目なのか」
「駄目じゃないけど」
リシアは味噌汁の鍋を見下ろしながら、小さく言った。
「……もっと早く知りたかったわね。良樹の好きな味」
その言葉に、明恵は手を止めた。
リシアは、鍋を見ている。
けれど、その横顔には少しだけ悔しさがあった。
良樹が日本で食べてきた味。
自分が知らなかった時間。
母親が先に持っているもの。
そこへ、少しでも追いつきたいと思っている顔だった。
明恵は、ふっと笑った。
「大丈夫よ。味ってね、覚えた人の手で少しずつ変わっていくものだから」
「良樹の好きな味を、リシアちゃんたちの家の味にしていけばいいの」
リシアは、少しだけ目を伏せた。
「……はい」
◇
クラリスは、料理を身体のためのものとして理解した。
「肉じゃがは、これだけで栄養の種類が多いのですね」
「そうね。お肉、じゃがいも、にんじん、玉ねぎ。あと汁まで食べるといいわ」
「良樹くんが疲れている時にも、よさそうです」
「そうねえ。あの子、疲れてても大丈夫って言うから」
「はい」
「信用しません」
「そこは即答なのね」
「実績がありますので」
明恵は、思わず笑った。
「クラリスちゃんは、本当に良樹をよく見てるのね」
「はい」
クラリスは柔らかく微笑んだ。
「良樹くんの身体を見るのは、私の役目ですから」
「身体だけ?」
明恵が聞く。
クラリスは少しだけ目を伏せ、それから静かに答えた。
「心も、です」
「ただ、良樹くんは心の痛みを身体より隠します」
「だから、先に身体を見ることが多いです」
明恵は黙った。
自分の息子のことだ。
強がるところも、弱みを隠すところも知っているつもりだった。
けれど、目の前の娘は、それを母親とは違う距離で見ている。
妻として。
仲間として。
戦場で背中を預かる者として。
明恵は、クラリスの手元を見た。
白い指が、丁寧に野菜を並べている。
「……よろしくね」
明恵が小さく言うと、クラリスは顔を上げた。
「はい」
迷いのない返事だった。
◇
上村電気の作業場では、十鉄と良樹が並んで図面を見ていた。
埃の匂い。
油の匂い。
古い工具箱。
圧着工具。
端子台。
古い制御盤の残骸。
良樹にとっては、日本の匂いそのものだった。
「これ、まだ残してたのか」
良樹が古い図面を指す。
「ああ。捨てるに捨てられん」
「この客先、まだ動いてんのか」
「動いてる。たまに呼ばれる」
「この回路、よくこんな無理やり組んだな」
「若かったんだよ」
「親父にも若い頃あったんだな」
「当たり前だ、馬鹿野郎」
十鉄は鼻を鳴らした。
良樹は笑いながら、図面の端に書かれた手書きのメモを見た。
停止条件、要確認。
再起動防止。
扉開放時、保持切り。
後から触る奴に分かるように。
父の字だった。
良樹は、しばらくその文字を見つめた。
「……これ、向こうでも同じこと書いてる気がする」
「なら、少しは役に立ったか」
「役に立ちすぎて困ってる」
「そりゃいい」
十鉄は工具箱を開けた。
中から古い圧着ペンチを一本取り出す。
「持っていけるなら、持っていけ」
良樹は少し驚いたように見る。
「いいのか」
「使わねえわけじゃないが、今は別のもある」
「お前が向こうで使えるなら、工具としてはそっちの方が幸せだろ」
良樹は圧着ペンチを受け取った。
ずしりと重い。
子供の頃、勝手に触ろうとして怒られた工具だった。
「……持って帰れるか分からねえぞ」
「なら、置いていけ」
「だが、持って帰れるなら持っていけ」
十鉄はそう言って、図面のコピーを数枚、良樹に渡した。
「こっちは確実に持っていけ」
「工具が駄目でも、考え方は持っていける」
良樹は、紙を受け取った。
端には十鉄の字で、短く書かれていた。
動かす前に止め方。
壊れ方を見る。
後から触る奴の顔を想像しろ。
分からねえ時ほど、手を止めろ。
良樹は、紙を握った。
「……説教メモかよ」
「親父から息子への設計資料だ」
「言い方で誤魔化すな」
「誤魔化してねえ」
二人は、少し笑った。
◇
写真というものを、三人妻が理解するには少し時間がかかった。
「姿を……紙に残す?」
リシアが首を傾げる。
「ああ」
良樹はスマートフォンの画面を見せた。
そこには、浴衣姿の三人が映っていた。
リシアが濃紺の浴衣で少し澄ましている。
カレンは朝顔と金魚柄の浴衣で恥ずかしそうにしている。
クラリスは白と水色の浴衣で穏やかに微笑んでいる。
三人は、画面を覗き込んだまま固まった。
「これが、私たち……?」
カレンが呟く。
「そうだ」
「鏡とは違いますね」
クラリスが静かに言う。
「その時の姿を、後から見られるんですね」
「ああ」
「日本には、そういう技術がある」
リシアは画面の中の自分を見て、少しだけ眉を寄せた。
「不思議ね」
「過去の一瞬が、ここに残っているみたい」
「そういうものだな」
良樹は頷く。
「ただ、向こうにはないものだからな」
「持ち帰った後、どう扱うかは少し考えた方がいい」
「……誰にでも見せるものではないのね」
「そうだ」
リシアはしばらく考えてから、頷いた。
「なら、これは私たちの家族の記録ね」
その言葉に、明恵が少しだけ目を伏せた。
「そう」
「家族の記録」
それから一週間、十鉄と明恵は、少しずつ写真を撮った。
台所で料理を教わる三人。
作業場で図面を見ている良樹と十鉄。
居間で笑っている六人。
浴衣姿。
花火を見上げる横顔。
明恵に抱きつかれて少し困っている良樹。
十鉄に頭を小突かれている良樹。
三人妻に囲まれて、諦めたように笑っている良樹。
そのどれもが、短い一週間の中に詰まっていた。
◇
帰還前夜。
上村家の食卓は、いつもより少し静かだった。
料理は多かった。
明恵が作ったもの。
三人妻が手伝ったもの。
リシアが味噌汁を整え、カレンが卵焼きを少し崩しながらも焼き、クラリスが肉じゃがの味を見た。
十鉄はそれを黙って食べた。
そして、短く言った。
「うまい」
その一言で、カレンの顔がぱっと明るくなった。
「ほ、本当ですか?」
「ああ」
「良樹より上手い」
「俺と比べるなよ」
「お前は料理の見た目を現場飯に寄せすぎる」
「腹に入れば一緒だろ」
「嫁の前でそれを言うな」
十鉄が即座に言う。
良樹は口を閉じた。
リシアが半眼で良樹を見る。
「良樹」
「……味も見た目も大事です」
「よろしい」
明恵がくすりと笑った。
いつもの上村家の空気だった。
けれど、その奥には、明日がある。
明日、良樹たちは異世界へ帰る。
それを、誰も忘れていなかった。
◇
食後、明恵は三人妻を台所へ呼んだ。
良樹と十鉄は作業場へ行った。
女組と男組。
最初の日と同じように分かれた。
台所の灯りは、少し柔らかかった。
明恵は、棚から一冊のノートを取り出した。
「これ」
リシアが受け取る。
「これは?」
「料理ノート」
「味噌汁、卵焼き、肉じゃが、カレー。良樹が好きだったものを、簡単に書いてあるわ」
「材料は異世界で同じものが揃うとは限らないでしょうけど、考え方くらいは使えると思う」
リシアは、ノートを両手で持った。
「ありがとうございます」
カレンが覗き込む。
「字は、良樹さんに読んでもらえば……」
「読めるように教えてもらいなさい」
「は、はいっ」
クラリスはノートの表紙をそっと撫でた。
「お母様の味ですね」
明恵は少し照れたように笑った。
「そんな大げさなものじゃないわよ」
「ただの家の味」
「だから、大切です」
クラリスが言った。
明恵は、言葉に詰まった。
そして、小さく息を吐く。
「良樹はね」
三人が明恵を見る。
「昔から、弱みを見せない子だった」
「痛くても、大丈夫」
「疲れてても、大丈夫」
「怖くても、平気な顔をする」
「親の前だから余計にそうだったのかもしれないけど」
明恵は、少しだけ遠くを見るような目をした。
「でも、この一週間見ていて分かったの」
「あの子、あなた達にはちゃんと見せてた」
「全部じゃないかもしれない」
「でも、私たちには見せなかった顔を、あなた達には見せてた」
リシアは静かに頷いた。
「はい」
「良樹は、隠そうとはします」
「でも、隠し切らせません」
カレンも、胸元で両手を握った。
「一人で抱えそうになったら、止めます」
クラリスは柔らかく言った。
「壊れそうになる前に、支えます」
明恵の目が潤んだ。
「私は母親だから」
「息子には、いつまでも手の届くところにいてほしかった」
「子離れできてないって言われたら、それまでだけど」
声が震える。
「でも、あなた達三人なら」
「きっと良樹は幸せになれるわ」
「女の勘よ」
リシアの目が、少しだけ揺れた。
カレンはもう泣きそうだった。
クラリスも、静かに目を伏せている。
明恵は、三人へ頭を下げた。
「だから」
「どうか、良樹をお願いします」
次の瞬間、三人は同時に明恵に抱きついていた。
「約束します、お義母様」
「絶対です」
リシアの声は、まっすぐだった。
「お母様が教えてくださった料理もあります」
「良樹くんの身体も、心も、ちゃんと見ます」
クラリスの声は、柔らかく、強かった。
カレンは、涙目のまま必死に言った。
「良樹さんにたくさん犯していただいて、ちゃんと孕ませていただきますから!」
「お義母様も、赤ちゃんの顔を楽しみにしていてください!」
「カレェェェエン!」
「言い方ァ!」
台所の入り口から、良樹の絶叫が飛んできた。
いつの間に戻ってきたのか、そこには良樹と十鉄が立っていた。
明恵は、泣きかけていた顔のまま固まった。
そして、ゆっくりと良樹へ顔を向ける。
「……良樹」
「あんた、カレンちゃんに何言ってんの」
「母さん違う! 誤解だ!」
「いや、誤解じゃねえけど誤解なんだ!」
「何がどう誤解なの」
「それを説明したら、誤解じゃなくなるだろ!」
明恵の目が、すっと細くなる。
「リシア! クラリス!」
「お前らも何とか言ってくれ!」
そう言われたリシアとクラリスは、物の見事に動きをシンクロさせた。
二人同時に、ふいっと横へ顔を背ける。
否定の言葉はなかった。
その反応が、何より雄弁だった。
「良樹……」
「あんたまさか、カレンちゃんだけじゃなく、リシアちゃんとクラリスちゃんにも……」
「違う!」
「いや、違わねえけど、母さんが考えてるような一方的な話じゃ――」
そこで、リシアが明恵へ向き直った。
「お義母様、大丈夫です」
「私は、良樹の愛し方が特殊でも、全部受け止めますから」
「リシア?」
良樹の声が震えた。
続いてクラリスも、清楚な微笑みを浮かべる。
「私は、良樹くんにも同じ言葉を返していますので」
「ご心配ありがとうございます」
「おまえらああああ!」
良樹の絶叫が、上村家に響いた。
「こいつら今、説明するふりして誤解を広げてるだけだろうが!」
「夫婦ごとに事情が違うんだよ!」
「事情が三通りあることを、自分から認めたわね」
「仕方ねえだろ!」
「嫁が三人いるんだから!」
良樹が叫んだ瞬間。
上村家が、しんと静まり返った。
明恵が目を細める。
十鉄は、何とも言えない顔で息子を見た。
「……良樹」
「何だよ親父!」
「まだ若いとはいえ、お前、もう三十近いんだぞ」
「お盛んなのもいいが、節操は弁えろよ……」
「親父まで何を誤解してんだ!」
「誤解じゃねえんだろ」
「誤解じゃねえけど誤解なんだよ!」
「それはさっきも聞いたわよ!」
明恵の怒号と、良樹の必死の訴えが、上村家いっぱいに響き渡った。
「あ、あの!」
珍しく大きなカレンの声に、騒いでいた親子が揃って口を閉じた。
全員の視線が集まり、カレンは一瞬だけ怯んだ。
それでも、胸元で両手を握り締め、明恵と十鉄をまっすぐ見た。
「良樹さんは、私たちが嫌がることはしてません……」
「私たち三人が、それぞれ欲しい形で愛してくれてるんです」
「だから、怒らないであげてください……」
良樹が、目を見開いてカレンを見る。
「カレン……」
リシアが、その隣へ並んだ。
「カレンの言う通りよ」
「良樹は、私たちの気持ちを無視して、自分の望みだけを押しつけるような人じゃないわ」
「私たちが何を望んでいるのか、ちゃんと見てくれている」
「だから、私たちは良樹の傍にいるの」
クラリスも、カレンの反対側へ静かに並んだ。
「良樹くんは、私たち一人一人を、別の人間として愛してくださっています」
「私たちの望みがそれぞれ違うから、応え方も違うだけです」
「節操なく扱われたと思ったことは、一度もありません」
三人は、良樹を守るように並んでいた。
明恵はしばらく、その顔を順番に見つめた。
カレンは真っ赤になりながらも、視線を逸らさない。
リシアは堂々と胸を張っている。
クラリスは静かに微笑んでいる。
やがて、明恵は息を吐いた。
「良樹」
「……なんだよ」
散々責められた良樹は、明らかに拗ねた声で返した。
明恵は、そんな息子を少しだけ見つめた後、柔らかく笑った。
「あんた、本当にいい子を見つけたんだね」
「それも、三人も……」
良樹は何も言わなかった。
ただ、隣に並ぶ三人を順番に見る。
カレンはまだ顔を赤くしたまま、良樹を心配そうに見上げている。
リシアは、当然だと言わんばかりに胸を張っていた。
クラリスは、いつもの清楚な微笑みを浮かべている。
「……ああ」
良樹は、小さく答えた。
「それだけは、俺もそう思う」
明恵は、もう一度三人を抱きしめた。
「良樹のこと、よろしくね」
「はい、お義母様」
三つの声が、今度は穏やかに重なった。
ひとしきり騒いだ後、良樹と十鉄は、もう一度作業場へ戻った。
◇
しばらくして、作業場へ戻った十鉄と良樹は、机を挟んで向かい合っていた。
机の上には、古い工具と図面。
そして、もう一つ。
小さな魔石が置かれていた。
淡く光る、透明に近い石だった。
「それが、例のやつか」
十鉄が言う。
「ああ」
良樹は頷いた。
「アルフが作った」
「俺も仕組みを見た」
「ただ、便利なもんじゃねえ」
「聞いた」
「毎日話せるわけじゃない」
「困った時に呼べるわけでもない」
「日本側から起動することもできない」
「何かを送ることもできない」
「年に一回」
「数秒だけだ」
「映像も粗い」
「声も短い」
「こっちから、生きてるってことを送るだけに近い」
良樹は、石を見る。
「それでも」
言葉が詰まった。
「それでも、生きてることくらいは、送れる」
十鉄はしばらく石を見ていた。
制御盤でもない。
リレーでもない。
電線でもない。
理屈の分からない異世界の石。
だが、息子が持ってきたものだった。
十鉄は短く言った。
「十分だ」
良樹は顔を上げる。
「……親父」
「十分だっつってんだ」
「年一回、数秒でも顔が見えるならな」
「海外に出た息子から年賀状が来るようなもんだ」
「海外の範囲が広すぎるだろ」
「似たようなもんだ」
「似てねえよ」
「俺が似てるっつったら似てるんだよ」
十鉄はそう言って、魔石を手に取った。
大きな手の中で、小さな石が淡く光る。
「母さんに渡しておく」
「あいつは、たぶん俺より見る」
「だろうな」
「だが、俺も見る」
「……ああ」
良樹は頷いた。
十鉄は魔石を机に置き直した。
「良樹」
「何だ」
「親不孝だと思ってるか」
良樹は、すぐには答えなかった。
作業場の匂い。
父の声。
日本の家。
それを残して、自分は異世界へ帰る。
「……思わねえって言ったら、嘘になる」
「そうか」
十鉄は頷いた。
「なら、前にも言ったな」
「親孝行かどうかは、親が決める」
「……ああ」
「俺はな」
「お前が帰ってきて、顔を見せて、嫁を連れてきて、自分の口で生きる場所を言った」
「それで十分だ」
良樹は、拳を握った。
「でも」
「でもじゃねえ」
十鉄の声が少しだけ強くなる。
「帰るなとは言わねえ」
「帰れとも言わねえ」
「お前が決めた場所で生きろ」
良樹は、十鉄を見る。
十鉄は、作業場の灯りの下で息子を見ていた。
「ただし、忘れんな」
「お前は日本で生まれた」
「俺と母さんの息子だ」
「そこは、異世界へ行こうが変わらねえ」
「……親父」
「それから」
十鉄は、少しだけ目を細めた。
「お前が殺した人間のことも、忘れんな」
良樹の表情が変わった。
十鉄は続ける。
「正しかったかどうかなんざ、俺には分からん」
「その場にいたわけじゃねえ」
「お前が背負うしかねえことだ」
「だが、忘れるな」
「忘れずに、それでも生きろ」
「お前の嫁たちを泣かせたなら、泣いた後まで見ろ」
「逃げんな」
良樹は、ゆっくり息を吸った。
「……ああ」
「分かってる」
「本当か」
「分かってる」
「怪しいな」
「おい」
十鉄は鼻を鳴らした。
「だがまあ」
一拍。
「しばらく見ねえ間に、一端の男の顔にはなった」
良樹は、少しだけ目を見開いた。
「……褒めてんのか」
「事実確認だ」
「素直に褒めろよ」
「調子に乗るな」
良樹は笑った。
笑ってから、少しだけ目を伏せた。
「俺、帰ってきてよかった」
十鉄は、当然のように言った。
「当たり前だ」
「帰ってきて悪い家なんざ、作った覚えはねえ」
良樹は、今度こそ何も言えなかった。
◇
帰還の朝。
上村電気の居間には、六人が揃っていた。
リシア、カレン、クラリスは、異世界へ戻るための装いに戻っていた。
浴衣ではない。
日本の服でもない。
彼女たちが異世界で生き、戦い、良樹の隣に立つための服だった。
けれど、その表情には日本の一週間が残っていた。
味噌汁の味。
花火の光。
浴衣の感触。
作業場の匂い。
明恵の手。
十鉄のぶっきらぼうな声。
全部を抱えている顔だった。
明恵は、最後に一冊のアルバムを持ってきた。
厚すぎない。
けれど、しっかりした表紙のアルバムだった。
「良樹」
「何だ」
「これ、持っていきなさい」
良樹は受け取る。
「アルバム?」
「そう」
明恵は、少しだけ笑った。
「あんたの子供の頃の写真のコピー」
「それから、この一週間で撮った写真」
「家族六人の、短い思い出」
良樹の手が止まった。
アルバムを開く。
小さな頃の自分がいた。
作業場の隅で、ヘルメットをかぶらされている幼い良樹。
小学生の良樹。
工具箱の前で怒られているらしい良樹。
十鉄と並んで写る良樹。
明恵に弁当を持たされている良樹。
そして、ページが進む。
リシアが味噌汁を見ている写真。
カレンが包丁を握って緊張している写真。
クラリスが明恵と並んで肉じゃがを見ている写真。
十鉄と良樹が作業場で図面を見ている写真。
浴衣の三人。
花火を見上げる四人。
居間で笑う六人。
良樹は、しばらく言葉を失った。
「母さん」
「こっちにも同じものがあるわ」
「だから、持っていきなさい」
リシアがアルバムを覗き込んだ。
「これが、良樹の子供の頃……」
カレンが小さく息を呑む。
「小さい良樹さん……」
クラリスは、そっとページに触れた。
「良樹くんの日本での時間ですね」
明恵は頷いた。
「そう」
「この子が日本で生きてきた時間」
「そして、この一週間で、あなた達も入った時間」
良樹はアルバムを閉じた。
胸の奥が熱かった。
「……持って帰る」
「ええ」
明恵は笑った。
「ちゃんと持って帰りなさい」
◇
玄関ではなく、作業場から帰ることになった。
上村電気らしい、と十鉄が言ったからだ。
「来た時は玄関だったが、行く時はここでいいだろ」
「お前の根っこは、だいたいここにもある」
良樹は何も言えず、頷いた。
魔石が淡く光る。
帰還のための魔力が、静かに場を満たしていく。
十鉄は腕を組んで立っていた。
「じゃあ、行ってこい」
「気にすんな」
「外国に永住したとでも思えば、似たようなもんだ」
良樹は眉を寄せた。
「全然似てねえよ」
「似たようなもんだ」
「雑すぎる」
「親父の方便に文句を言うな」
十鉄はそう言って、少しだけ口元を緩めた。
明恵は三人の前に立った。
「リシアちゃん」
「カレンちゃん」
「クラリスちゃん」
三人は背筋を伸ばした。
「はい、お義母様」
三つの声が重なった。
明恵は一度だけ息を吸った。
「良樹のこと、お願いします」
声が震えた。
「昔から、弱みを見せない子だった」
「けれど、あなた達にはちゃんと見せてた」
明恵の目に涙が浮かぶ。
「私は母親だから」
「息子には、いつまでも手の届くところへいて欲しかった」
「子離れできてないって言われたら、それまでだけど」
それでも、明恵は三人を見た。
「あなた達三人なら」
「きっと良樹は幸せになれるわ」
「女の勘よ」
リシアの目が潤む。
カレンの唇が震える。
クラリスが静かに目を伏せる。
「だから」
「どうか、良樹をお願いします」
三人は、もう一度明恵に抱きついた。
明恵も、三人を抱きしめた。
リシアが言う。
「約束します、お義母様」
「絶対です」
クラリスが続ける。
「お母様が教えてくださった料理もあります」
「良樹くんが疲れた時、ちゃんと作ります」
カレンは、涙をこぼしながら、それでも明るく言った。
「赤ちゃんの顔も、楽しみにしててください!」
前夜の騒動を思い出したのか、カレンは言い切った直後に耳まで真っ赤になった。
良樹が変な咳をした。
「ごほっ」
リシアも顔を赤くしながら横目で良樹を見る。
クラリスは口元に手を添えて微笑んだ。
明恵は、泣きながら笑った。
「……そうね」
「まだ、絶対に会えないなんて決まったわけじゃないものね」
「赤ちゃんの顔だって、見られるかもしれない」
「は、はい……!」
カレンは真っ赤なまま頷いた。
明恵は、涙を拭った。
そして、良樹へ向き直る。
「良樹!」
「はい」
「あんた、この子達を泣かせたら承知しないわよ!」
良樹は、少しだけ目を逸らした。
「……ああ、分かってる」
もう何度も泣かせている、とは言えなかった。
それを見た十鉄が、すぐに目を細める。
「おい、母さん」
「こりゃ前科ありの顔だぞ」
「おい親父!」
明恵の目が鋭くなった。
「良樹」
「いや、あの」
「あんたって子は!」
「待て、話せば分かる」
「泣かせたのね?」
リシアが少しだけ視線を逸らす。
カレンが耳まで赤くなる。
クラリスが清楚に微笑む。
良樹は天井を見た。
「……色々ありまして」
「全くもう」
明恵は呆れたように言って、それから良樹を抱きしめた。
強く。
子供を抱きしめるように。
「元気でね」
良樹は、一瞬だけ固まった。
それから、ゆっくり母を抱き返した。
「……ああ」
明恵は離れた。
十鉄が一歩前に出る。
「良樹」
「何だ」
「お前が選んだ道だ」
「俺らがどうこう言う筋じゃねえ」
十鉄の声は、ぶっきらぼうだった。
けれど、深かった。
「ただ、一度決めたならスジは貫き通せ」
「いいな」
「ああ」
「リシアちゃん」
「カレンちゃん」
「クラリスちゃん」
三人が十鉄を見る。
「よろしく頼んだぜ」
三人は、同時に頭を下げた。
「はい」
良樹は、アルバムを胸に抱えた。
魔石の光が強くなる。
時間だった。
「そろそろ行く」
誰も、止めなかった。
良樹は、父と母を見る。
「……親父」
「母さん」
二人が良樹を見る。
良樹は、喉の奥に詰まるものを押し込めた。
そして、笑った。
「行ってきます」
十鉄と明恵は、同時に答えた。
「行ってらっしゃい」
その言葉が、作業場に落ちた。
次の瞬間、光が広がる。
リシアが良樹の左手を握る。
カレンが右側に寄る。
クラリスが背中に手を添える。
良樹は最後まで、父と母を見ていた。
十鉄も。
明恵も。
最後まで、息子を見ていた。
そして。
四人の姿は、二人の目の前で消えた。
◇
作業場に、静けさが戻った。
さっきまで六人いた場所に、十鉄と明恵だけが残っている。
魔石は淡く光を失い、机の上に置かれていた。
明恵は、しばらく何も言わなかった。
十鉄も黙っていた。
やがて、十鉄が舌打ちをした。
「ちっ」
明恵が見る。
「しばらく見ねえ間に、一端の男の顔になってやがった」
明恵は、涙を拭きながら笑った。
「寂しいわよ」
「ああ」
「でも……ちゃんと、行ってらっしゃいを言えたわ」
「ああ」
十鉄は、作業場の机に手を置いた。
「なら、上出来だ」
明恵は、机の上に置かれた魔石を見た。
「年に一度、見られるのよね」
「らしいな」
「ちゃんと見逃さないようにしないと」
「見逃すなよ」
「あなたも見るのよ」
「見るに決まってんだろ」
十鉄は鼻を鳴らした。
明恵は、もう一度涙を拭いた。
そして、机の上に置かれた、もう一冊のアルバムをそっと撫でた。
そこには、家族六人の一週間が残っていた。
◇
光が収まった時、良樹たちは見慣れた場所に立っていた。
空気の匂いが違う。
畳の匂いも、味噌汁の匂いも、夏の花火の煙もない。
代わりにあるのは、土の匂い。
木の匂い。
遠くから聞こえる町の音。
そして、自分たちが生きてきた異世界の空気だった。
良樹は、しばらく何も言わなかった。
胸にはアルバムがある。
父の声。
母の手。
上村電気の作業場。
台所の匂い。
夏の花火。
家族六人の写真。
全部、置いてきたわけではない。
持って帰ってきた。
リシアが、そっと隣に立つ。
カレンが、反対側から良樹の手を握る。
クラリスが、背中に静かに手を添えた。
良樹は一度だけ目を閉じた。
日本には、父と母の家がある。
異世界には、三人の妻と作った家がある。
どちらかを捨てたわけではない。
帰る場所が、二つになったのだ。
良樹はゆっくり息を吐き、それから三人を見た。
「――帰るか」
三人が良樹を見る。
良樹は、少しだけ笑った。
「俺たちの家へ」
リシアが微笑む。
「ええ」
カレンが、嬉しそうに頷く。
「そうですね」
クラリスが、良樹の背中に添えた手を少しだけ強めた。
「はい」
四人は歩き出した。
良樹は日本を失ったわけではない。
父の声も。
母の味も。
夏の花火も。
上村電気の作業場も。
その全部を抱えたまま。
上村良樹は、三人の妻と共に、自分たちの家へ帰っていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
長かった良樹の里帰り編も、今回でひと区切りとなります。
ifストーリーとはいえ良樹にとって日本は、もう戻れない過去ではなく、
父と母が待っている、もう一つの帰る場所になりました。
そして十鉄と明恵にとっても、
突然帰ってきた息子が三人の妻を連れてきた一週間は、
戸惑いながらも、新しい家族を迎える時間になったのだと思います。
最後まで湿っぽいだけでは終われず、
カレンの爆弾発言から良樹の家庭内裁判が始まった辺りは、
この一家らしい別れになりました。
良樹たちが再び日本へ帰れる日が来るのか。
年に一度、魔石がどんな景色を映すのか。
その辺りも、いつかまた書ければと思います。
改めまして、里帰り編を最後までお読みいただき、
本当にありがとうございました。




