番外編 if-良樹の里帰り1-
何か不思議な事が起こり、良樹とリシア、カレン、クラリス。
三人の妻が良樹の実家へ里帰りする事になったifストーリーです。
本編には影響ありません。
目を開けると、そこには懐かしい景色があった。
ビル。
道路。
車。
人混み。
そのどれもが、良樹には懐かしく感じられた。
秋葉原。
中央通りには人が溢れていた。
車道には車がなく、人が自由に歩いている。
店先の音。
看板。
電子部品の匂い。
どこかで聞こえる客引きの声。
日本だった。
紛れもなく、良樹が生まれ育った日本だった。
「……日本だ」
良樹は、小さく呟いた。
自分の声が、少しだけ掠れていた。
懐かしい。
そう思った。
帰ってきた。
そうも思った。
だが、不思議と胸の奥に浮かんだ言葉は、それだけではなかった。
ここは、自分が生まれた場所だ。
父に怒鳴られ、母に飯を食わされ、工具の名前を覚え、図面の見方を叩き込まれた場所だ。
けれど。
今の自分が生きる場所は、ここではない。
「良樹」
隣で、リシアが声をかけた。
その声に、良樹は振り返る。
リシアがいた。
カレンがいた。
クラリスがいた。
三人とも、見慣れない景色に目を奪われていた。
リシアは、周囲の建物と看板を見上げて眉を寄せている。
カレンは、人混みと車道と店先を同時に見ようとして、明らかに処理量を超えていた。
クラリスは、街の音に耳を澄ませながらも、良樹の顔色を見ていた。
その三人を見た瞬間、良樹の胸の奥が少しだけ落ち着いた。
ああ。
そうだ。
自分は、一人で帰ってきたわけではない。
「ここが」
リシアが、少しだけ声を落とした。
「良樹の日本なのね」
「ああ」
良樹は頷いた。
「俺が生まれた国だ」
カレンが、通りを歩く人々を見て小さく息を呑む。
「人が、多いです」
「それに、皆さん、変わった服装を……」
「こっちからすれば、お前らの方が変わった服装だぞ」
「えっ」
しばらく歩いたところで、リシアが小さく眉を寄せた。
「――なんか私たち、見られてない?」
良樹は、周囲へ軽く視線を流した。
確かに見られていた。
通りを歩く人間たちが、ちらちらとこちらを見る。
露骨に振り返る者もいる。
スマートフォンを取り出しかけて、やめる者もいた。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人とも、日本の服など着ていない。
リシアは魔法使いらしい服装。
カレンは剣士としての装い。
クラリスは白い法衣。
しかも、全員が美人だった。
秋葉原の歩行者天国でそんな三人が歩いていれば、目立たない方がおかしい。
良樹は、くくっと喉の奥で笑った。
「そりゃあ、な」
「お前らみたいな美人が、日本でそんな格好してりゃ注目はされやすいな」
「び、美人って、今普通に言ったわね」
リシアが少しだけ頬を赤くする。
「事実だろ」
「事実でも、こういう場所で急に言わないで」
カレンは周囲を見ながら、胸元で両手を握っていた。
「あ、あの……視線が多いです」
「敵意は、あまり感じません」
「でも、すごく見られています」
「敵意はない」
「珍しいだけだ」
「珍しい……」
「まあ、コスプレだと思われてるんだろうな」
「こすぷれ?」
クラリスが首を傾げる。
「日本の仮装、あるいは扮装文化でしょうか」
「だいたいそんなもんだ」
その時だった。
「あ、すみません!」
若い女性が、少し興奮した様子で近づいてきた。
真っ先に反応したのはカレンだった。
「ひゃ、ひゃい!」
完全に裏返った声だった。
女性はカレンの服装と剣を見て、目を輝かせている。
「それ、何のコスプレですか?」
「すごいですね、完成度高っ」
「あの、写真いいですか?」
そう言って、女性は手に持っていた薄い板のようなものをカレンへ向けた。
カレンの身体が、ぴしりと固まる。
何かを向けられている。
武器ではない。
殺気もない。
けれど、何をされようとしているのか分からない。
「え」
「え、え、あの」
「あの、あの、よ、良樹さん?」
助けを求める声だった。
良樹は、すぐにカレンの一歩前へ出た。
ただし、威圧するようには立たない。
相手とカレンの間に、自然に身体を置く。
「あー、わりい」
「こいつら、そういうのはNGでよ」
「見るだけなら問題ねえから、勘弁してやってくれ」
女性は、少しだけ驚いた顔をした。
「あっ、そうなんですね」
「すみません、急に」
「いや、こっちこそ悪いな」
「目立つ格好してるのは分かってんだけど、事情があってな」
「いえいえ」
「でも、本当にすごいですね」
「めちゃくちゃ似合ってます」
女性はそう言って、少し名残惜しそうにスマートフォンを下ろした。
「失礼しました」
そう言って、通行人の流れへ戻っていく。
カレンは、良樹の背中の後ろで、ほっと息を吐いた。
「……びっくりしました」
「悪い」
「先に言っとくべきだったな」
「日本じゃ、珍しい服装してると写真撮らせてくれって言われることがある」
「しゃしん……とは、何ですか?」
良樹は一瞬だけ考えた。
「今見えてる姿を、そのまま記録するものだ」
「絵みたいに残る」
「ただし、人が描くんじゃなくて、あのスマホって道具で一瞬で残す」
カレンは、去っていった女性の手元を思い出すように見た。
「一瞬で……」
「姿が、残るんですか」
「ああ」
「それは……すごいです」
「でも、少し怖いです」
「怖いか」
「はい」
「知らない間に残されるのは、怖いです」
良樹は頷いた。
「それでいい」
「嫌なら断っていい」
「日本でも、勝手に撮られていい理由にはならねえ」
その言葉に、カレンは少しだけ目を伏せた。
「はい」
「ありがとうございます」
リシアは、良樹を横から見る。
「日本も、結構面倒な場所なのね」
「まあな」
「魔物はいねえけど、別の種類の面倒は山ほどある」
良樹は財布を開いた。
中身を確認する。
千円札が数枚。
小銭。
免許証。
保険証。
古いレシート。
それだけだった。
「……残ってるな」
異世界へ飛ばされた時、腰袋も工具も残っていた。
なら、財布が残っていてもおかしくはない。
ただし、金額は心許なかった。
タクシーなど論外だ。
四人で乗れば、すぐに消える。
「電車で行く」
「タクシーは無理だ」
「でんしゃ?」
カレンが首を傾げる。
「日本の乗合馬車みてえなもんだ」
「馬はいねえけどな」
「その説明、怖いわよ」
リシアが眉を寄せた。
「実物見りゃ分かる」
そう言って良樹は三人を連れて地下へ降りた。
ホームで、暗い穴の奥から鉄の箱が風を連れて現れた時、三人は揃って固まった。
「……これに乗るの?」
「乗る」
「日本人、正気なの?」
「慣れだ」
「慣れで済ませていい話じゃないわよ」
扉が開き、人が降り、人が乗る。
その流れに合わせて四人も車内へ入った。
電車が動き出すと、カレンが小さくよろける。
良樹はすぐに肩を支えた。
「足を少し開け」
「揺れに逆らうな」
「は、はい……」
「日本では、立っているだけでも技術が要ります」
「まあ、満員電車は戦闘とは別の技術だな」
「戦闘ではないんですか?」
「戦闘じゃねえ」
リシアが吊り革を掴みながら、半眼で言った。
「少し怪しいわね」
クラリスは、揺れる車内で姿勢を整えながら微笑む。
「良樹くんの日本は、思っていたより忙しい場所です」
十数分後。
北千住で降りた三人は、ホームに立っただけで少し疲れた顔をしていた。
「……乗るのも、立つのも、降りるのも」
「全部、訓練が必要です」
カレンが真剣に言う。
良樹は苦笑した。
「日本観光一発目が地下鉄で悪かったな」
「観光だったの、今の」
リシアが呆れた声を出す。
「違う」
「移動だ」
「でしょうね」
良樹は改札の先を見た。
北千住。
秋葉原とは違う、少し生活の匂いがする街。
「ここからは歩きだ」
「俺の家は、もう少し先にある」
北千住から歩いて十五分。
駅前の喧騒は、少しずつ遠ざかっていった。
大きな通りを外れ、細い道へ入る。
古い住宅。
シャッターの下りた店。
小さな作業場。
家と家の隙間に置かれた鉢植え。
電線の多い空。
リシアたちは、秋葉原とも、電車の中とも違う日本を見ていた。
「ここも、日本なのね」
「ああ」
良樹は短く答えた。
「この辺が、俺の生活圏だ」
そう言って、良樹は一軒の建物の前で足を止めた。
一階が作業場。
二階が住居。
古びたシャッター。
その横にある通用口。
壁には、少し色の褪せた看板が掛かっている。
上村電機。
その文字を見た瞬間、良樹の足が止まった。
見慣れた文字だった。
何度も見た看板だった。
学校から帰ってきた時も、現場についていく前も、父に怒鳴られた日も、母に飯だと呼ばれた日も。
ずっと、そこにあった文字だった。
作業場の中では、一人の男が椅子に腰掛けていた。
上村十鉄。
良樹の父だった。
十鉄は、タバコを指に挟んだまま、作業場の片隅で休憩していた。
背中は、良樹の記憶より少し丸く見えた。
髪にも白いものが増えている。
しばらく見ない間に、老け込んだように見えた。
良樹の胸の奥が、少し痛んだ。
「――親父」
背中に、声が届いた。
十鉄は振り向かなかった。
振り向けなかった。
今の声を、知っている。
忘れるわけがない。
忘れられるわけがない。
何度も夢に見た。
何度も耳の奥で聞いた。
仕事中、ふとした時に聞こえた気がして、そのたびに振り返りそうになった。
だが、そこには誰もいなかった。
良樹は帰ってこない。
そう思わなければ、やっていけなかった。
明恵の前でだけは、まだどこかで生きていると言い続けた。
だが、十鉄自身はもう、少しずつ諦めかけていた。
諦めなければ、毎日が終わらなかった。
なのに。
また、聞こえた。
良樹の声が。
十鉄は、フルフルと首を振った。
違う。
違う。
これは違う。
今さら未練が、声なんぞ聞かせやがった。
カップを持つ指が、わずかに震える。
見れば、終わる。
誰もいなければ、また終わる。
また、あの日からやり直しになる。
だから十鉄は、下を向いた。
「――おい、親父!」
今度は、はっきりと聞こえた。
幻聴にしては、あまりにも腹の立つ声だった。
十鉄は、ゆっくりと振り返った。
そこに、良樹がいた。
十鉄の息が止まった。
しばらく見ない間に、知らない顔になっていた。
痩せたわけではない。
弱ったわけでもない。
むしろ、どこか腹の据わった顔をしていた。
だが、良樹だった。
間違えようがなかった。
「――ただいま」
十鉄の唇が、かすかに動いた。
「……良樹、なのか?」
「ああ」
良樹は、小さく息を吐いた。
「悪い」
その瞬間、十鉄の中で何かが切れた。
「こんの、大馬鹿息子がぁ!」
怒鳴り声と一緒に、拳が出た。
考えるより先だった。
泣くより先だった。
抱きしめるより先だった。
良樹の頭に、渾身のげんこつが落ちる。
「いってぇ!」
「今まで連絡も無しに、どこに居やがった!」
「こっちはなあ!」
そこまで言って、言葉が詰まった。
言いたいことは山ほどあった。
どこにいた。
何をしていた。
なぜ帰ってこなかった。
生きていたなら、なぜ一言も寄こさなかった。
だが、全部の前に一つだけあった。
生きていた。
それだけで、喉が詰まった。
十鉄は、奥へ向かって声を張り上げた。
「母さん!」
「明恵!」
「良樹が――良樹が戻ってきた!」
「明恵!」
その声に反応して、奥の通用口が勢いよく開いた。
ばん、と大きな音が鳴る。
「良樹!」
明恵が飛び出してきた。
良樹の母だった。
記憶より小さく見えた。
記憶より細く見えた。
けれど、その声は間違いなく母の声だった。
明恵は良樹に飛びついた。
「あんた!」
「あんた、今までどこにいたの!」
「心配、したんだから……!」
最後の方は、もう言葉になっていなかった。
明恵は良樹の胸に顔を押しつけて泣いた。
良樹は、少しだけ迷ってから、その背中に手を回した。
小さくなった背中だった。
「ごめん、母さん」
「ごめん……」
そう言うしかなかった。
リシアも、カレンも、クラリスも、何も言えなかった。
「良樹……」
「良樹さん……」
「良樹くん……」
三人の声が、小さく重なる。
良樹は、母の背中を抱いたまま、しばらく目を閉じていた。
帰ってきた。
日本へ。
この家へ。
父と母のいる場所へ。
けれど、それは戻るためではない。
報告するためだ。
良樹は、ゆっくりと明恵の背中から手を離した。
「親父」
「母さん」
二人が良樹を見る。
「ちゃんと説明する」
「どこにいたのかも」
「何があったのかも」
「俺が、これからどうするのかも」
良樹は、一度だけ息を吸った。
「けど」
「その前に、紹介したい奴らがいる」
十鉄が、眉を寄せた。
「紹介だあ……?」
良樹は三人を見た。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人の背筋が、自然と伸びる。
良樹は、父と母へ向き直った。
「ああ」
良樹は言った。
「俺の嫁さん達だ」
その言葉に、作業場の空気が止まった。
十鉄と明恵の顔が、同時に固まる。
「嫁さん――」
「――達?!」
二人の声が、綺麗に重なった。
明恵はまだ涙で目を赤くしたまま、良樹と三人の女性を交互に見る。
十鉄は、口を開けたまま固まっていた。
その反応に、三人の背筋がさらに伸びる。
最初に一歩前へ出たのは、リシアだった。
リシアは、普段の勝ち気な態度を少しだけ引っ込めた。
背筋を伸ばし、指先を揃え、貴族の女性としての所作で静かに頭を下げる。
「初めまして」
「お義父さま、お義母さま」
その呼び方に、明恵の肩がぴくりと跳ねた。
「良樹さんの妻の一人、リシアと申します」
「お見知り置きのほど、よろしくお願いいたします」
堂々としていた。
異世界の貴族令嬢として。
そして、良樹の妻として。
十鉄も明恵も、まだ何も言えない。
次に、カレンが一歩前へ出た。
ただし、その足取りは明らかに硬い。
「か、カレンです!」
声が大きすぎた。
カレン自身もそれに気づいたのか、顔を真っ赤にする。
「よ、良樹さんの」
「お、お嫁さんでしゅ!」
噛んだ。
完全に噛んだ。
カレンの顔が、さらに赤くなる。
「あっ」
「ち、違っ」
「お、お嫁さんです……!」
リシアが横で口元を押さえた。
クラリスは微笑みを崩さないよう努力している。
良樹は、天井を見た。
「カレン」
「はい……」
「大丈夫だ」
「気持ちは伝わった」
「伝わってほしくない部分まで伝わった気がします……」
最後に、クラリスが前へ出た。
白い法衣の裾を整え、穏やかに頭を下げる。
「クラリス、と申します」
声は柔らかかった。
けれど、逃げるような弱さはなかった。
「良樹さんをお慕いし、愛しております」
「妻として、良樹さんのお側におります」
それは、短い挨拶だった。
だが、迷いはなかった。
三人が並ぶ。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人とも、日本の街にも、作業場にも、十鉄にも明恵にも慣れていない。
それでも、良樹の隣に立つことだけは譲らない顔をしていた。
十鉄と明恵は、ぽかんとしていた。
完全に、ぽかんとしていた。
明恵は涙を拭くことすら忘れている。
十鉄はタバコを持ったまま、灰が落ちそうになっていた。
良樹は、その光景を見て、深く息を吐いた。
「中で説明する」
「取り敢えず、上がらせてやってくれ」
十鉄は、まだ三人を見ていた。
それから、ゆっくりと良樹を見る。
「……良樹」
「何だよ」
「お前、どこに行ってた」
「だから説明するって」
「いや」
「先に一つだけ聞く」
十鉄は、ひどく真面目な顔で言った。
「どこに行ったら、嫁が三人になって帰ってくる」
良樹は、目を逸らした。
「……異世界」
十鉄は、しばらく黙った。
そして、低く唸る。
「説明が必要すぎるだろうが」
「だから中で説明するって言ってんだろ」
明恵は、ようやく我に返ったように、慌てて涙を拭いた。
「あ、ああ、そうね」
「こんなところで立ち話も何だし」
「とにかく、上がって」
「ええと……リシアさん、カレンさん、クラリスさん」
三人は同時に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ありがとうございますっ」
「ありがとうございます」
明恵に案内され、四人は作業場の横を回って玄関へ向かった。
古い引き戸。
擦れた敷居。
少しだけ油と金属の匂いが混じった家の匂い。
良樹は玄関をくぐった。
その瞬間、胸の奥に何かが込み上げる。
ここから何度も出て行った。
ここへ何度も帰ってきた。
泥だらけで帰って、明恵に怒られたこともある。
十鉄に現場へ連れて行かれ、眠い目をこすりながら靴を履いたこともある。
何も変わっていないようで。
何もかもが、少しずつ違って見えた。
良樹は、廊下で待っていた十鉄と明恵を見た。
「――ただいま」
もう一度、そう言った。
明恵の顔が、また泣きそうに歪む。
十鉄は、鼻を鳴らしただけだった。
「何回言やあ気が済む」
「何回でも言っとく」
「言えなかった分だ」
十鉄は何も言い返さなかった。
良樹は、後ろの三人を振り返る。
「三人とも悪りい」
「日本の家では、中に入る時は靴を脱ぐんだ」
三人は顔を見合わせた。
「靴を?」
リシアが首を傾げる。
「ああ」
「土足禁止の馬車と同じだと思ってくれ」
「脱いだ靴は、そこに揃えて置けばいい」
リシアは一瞬だけ考え、それから頷いた。
「なるほど」
「内側を汚さないための作法ね」
「そんな感じだ」
カレンは、少し緊張した顔で足元を見た。
「ええと、向きはどうすれば」
「脱いだら、爪先を外へ向ける」
「こうだ」
良樹が自分の靴を揃えて見せる。
カレンはそれを真似た。
やたら真剣だった。
「こう、ですか」
「ああ」
「上手い上手い」
「靴を脱ぐだけなのに褒めないでください……」
クラリスは、静かに靴を脱ぎ、丁寧に揃えた。
「日本では、家と外をはっきり分けるのですね」
「まあな」
「少なくとも、うちはそうだ」
リシアも靴を脱ぎ、少しぎこちなく揃える。
「良樹」
「何だ」
「これ、慣れないと少し落ち着かないわね」
「日本じゃ逆だ」
「家の中で靴を履いてる方が落ち着かねえ」
「文化の差ってやつね」
そんな良樹と三人のやり取りを、十鉄と明恵は黙って聞いていた。
日本の家では。
土足禁止の馬車。
良樹が、当たり前のように三人へ説明している言葉の一つ一つが、妙に遠かった。
日本の家では、とは何だ。
なら、こいつは今まで、日本ではない場所にいたのか。
馬車とは何だ。
この子たちは、そんなものが日常にある場所から来たのか。
それでも、三人の様子を見れば分かる。
普通の場所ではない。
この日本の玄関先で、靴を脱ぐだけで真剣になっている三人。
良樹の説明を、一つも聞き漏らすまいとしている三人。
そして、その三人を自然に気遣っている良樹。
十鉄は、眉間に深い皺を寄せた。
聞きたいことは山ほどある。
ありすぎて、どこから聞けばいいのか分からない。
明恵は、三人の足元を見て、それから良樹を見た。
本当に、この子はどこにいたのだろう。
けれど今は、問い詰めるより先に、家へ入れるべきだと思った。
良樹が連れてきた人たちなのだ。
それも、嫁だと言った。
三人とも、良樹の隣に立つために、ここまで来た顔をしている。
「親父、母さん」
良樹が言った。
「取り敢えず、居間に」
十鉄は短く息を吐いた。
「……そうだな」
「玄関で聞く話じゃねえ」
明恵も頷く。
「そうね」
「お茶、淹れるから」
「リシアさん、カレンさん、クラリスさん。どうぞ、上がって」
三人は少し緊張したまま、揃って頭を下げた。
「ありがとうございます」
「ありがとうございますっ」
「ありがとうございます」
良樹は、三人が上がるのを見届けてから、懐かしい廊下へ足を踏み出した。
日本の家。
自分が生まれ育った家。
そこに今、異世界で出会い、妻となった三人がいる。
その事実が、どうしようもなく不思議で。
どうしようもなく、現実だった。
居間に通され、良樹たちは向かい合って座った。
十鉄と明恵。
その前に、良樹。
その横に、リシア、カレン、クラリス。
茶が出された。
だが、誰もすぐには手をつけなかった。
十鉄は腕を組み、良樹を睨んでいる。
明恵はまだ目元を赤くしたまま、良樹と三人を交互に見ていた。
良樹は、一度だけ息を吸った。
「単刀直入に言う」
十鉄の眉が動く。
「俺はあの日、工場で停電があった日から今まで」
「異世界に居た」
十鉄と明恵は黙っている。
良樹は続けた。
「そこで、こいつらに惚れて」
「三人とも嫁さんになってもらった」
少しだけ間を置いて、良樹は言った。
「以上」
沈黙。
十鉄のこめかみが、ぴくりと動いた。
「良樹」
「何だよ」
「その報告の仕方は、俺が叩き込んだもんだがな」
「ああ」
「流石に詳細を省きすぎだ!」
十鉄の怒鳴り声が居間に響いた。
明恵も、泣きそうな顔のまま声を上げる。
「そうよ、良樹!」
「異世界って何!?」
「それに、三人もお嫁さんなんて」
「あんたをそんな子に育てた覚えはないわよ!?」
良樹は反論しかけた。
だが、その前にリシアが口を開いた。
「お義母さま」
明恵が、はっとリシアを見る。
「リシアちゃん、だったかしら」
「あなた達は、それで納得しているの?」
「良樹に無理を言われたとか、そういうことは――」
「ありません」
リシアは、きっぱりと言った。
その声には、貴族の娘としての芯があった。
「私たちは三人とも、望んで良樹さんの妻になりました」
明恵は言葉を失う。
クラリスが、静かに続けた。
「それに、私たちの世界でも、重婚は基本的には認められておりません」
「基本的に?」
明恵の目が丸くなる。
「なら、なんで!」
カレンが、そこで身を乗り出した。
「良樹さんは、私たちみんなを妻にするために、英雄になってくれたんです!」
言った後で、カレンの顔が赤くなる。
しかし、目は逸らさなかった。
十鉄と明恵は、今度こそぽかんとした。
「英雄?」
十鉄が低く呟く。
「こいつが?」
「親父」
「黙ってろ」
「今、俺はこの子たちから聞いてる」
良樹は口を閉じた。
リシアが頷く。
「私たちの世界では、英雄になれば複数の妻を持つことが許されます」
「勿論、それは並々ならぬことです」
「名乗れば済むようなものではありません」
クラリスが、良樹を見る。
「良樹さんは、私たちに恥をかかせないように、英雄になると宣言されました」
カレンも続ける。
「それで、本当に英雄になって」
「私たち三人を、お嫁さんに、してくれたんです」
最後の言葉は少し小さかった。
けれど、誇らしそうだった。
十鉄は、しばらく三人を見ていた。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人とも、冗談を言っている顔ではなかった。
夢を見ている顔でもない。
騙されている顔でもない。
良樹の隣にいると、自分で決めた女たちの顔だった。
明恵は、震える声で言った。
「……三人とも、本当にいいの?」
「はい」
リシアが答える。
「はい」
カレンも答える。
「はい」
クラリスも答える。
三人の声が、同じ場所に揃った。
明恵は、膝の上で手を握りしめた。
「良樹」
「何だ」
「あんた」
「本当に、この子たちを幸せにできるの?」
良樹は、すぐには答えなかった。
十鉄が、じっと良樹を見る。
昔なら、良樹は勢いで答えていたかもしれない。
できる。
任せろ。
大丈夫だ。
だが、良樹はそう言わなかった。
「幸せにできる、なんて簡単には言えねえ」
明恵の表情が揺れる。
良樹は続けた。
「俺は、多分これからも間違える」
「泣かせることもある」
「怖い思いをさせることもある」
三人は、黙って良樹を見ていた。
「でも」
「泣いた後を、見捨てねえ」
「怖い場所から、目を逸らさねえ」
「壊れたら、直す」
「壊れそうなら、止める」
「それだけは決めてる」
十鉄の目が、わずかに細くなった。
それは、聞き覚えのある言葉だった。
止める。
直す。
後を見る。
自分が、良樹に叩き込んだものだった。
十鉄は、深く息を吐いた。
「……お前が英雄だなんてのは、今でも信じられねえ」
「俺もそこは同感だ」
「だがな」
十鉄は、三人を見た。
「この子たちが、お前をそう言うなら」
「少なくとも、お前は何かをやってきたんだろう」
良樹は黙って頷いた。
明恵は、三人を見ていた。
リシア。
カレン。
クラリス。
息子が連れてきた、三人の妻。
異世界。
英雄。
重婚。
日本には残らない。
話だけ聞けば、荒唐無稽もいいところだった。
今すぐ信じろと言われても、信じられるはずがない。
けれど。
分かった。
分かってしまった。
この子たちは、本気で良樹のことを好いてくれている。
同じ女だ。
分からないはずがなかった。
良樹のことを話す時。
良樹の隣に座る時。
良樹が下を向きかけた時、同じように顔を上げた時。
三人の目にあったものは、演技ではない。
でなければ、こんな荒唐無稽な話の中で、息子のことを話す時に、あんな顔はできない。
話を今すぐ信じられるわけではない。
異世界にいた。
英雄になった。
三人を妻にした。
そんなことを、はいそうですかと飲み込めるほど、明恵は物分かりのいい母親ではない。
けれど。
この子たちの、息子への愛情だけは。
疑う余地がなかった。
母の直感だった。
そして、女の直感だった。
昔、何度も良樹に言ったことがある。
あんた、良い人の一人や二人、いないの。
そのたびに良樹は、面倒くさそうに顔をしかめていた。
仕事だの現場だの、今はそういうのじゃないだの。
そんなことばかり言っていた。
それが。
まさか、一気に三人も連れてくるなんて。
明恵は、泣きたいのか笑いたいのか、自分でも分からなくなった。
本当にもう、この子は。
お父さんに似て、やる時はとことんやるんだから。
良樹は、父と母を正面から見た。
「親父」
「母さん」
明恵の手が、膝の上でぎゅっと握られる。
十鉄は、黙って良樹を見ていた。
「俺は、異世界で生きるよ」
良樹は言った。
「決めたんだ」
リシアが、少しだけ息を呑む。
カレンが、膝の上で手を握る。
クラリスは、静かに良樹を見守っていた。
「今まで育ててもらって」
「苦労も迷惑もかけて」
「親孝行もできないうちに、こんなこと言って」
良樹の視線が、少しだけ落ちかける。
「本当に、ごめん」
その瞬間、十鉄が低く言った。
「良樹」
「……何だ」
「下を向くな」
「俺と母さんの顔を見ろ」
良樹は、ゆっくりと顔を上げた。
十鉄を見る。
明恵を見る。
逃げなかった。
リシアも、カレンも、クラリスも。
良樹の隣で、同じように二人を見た。
三人の目は、怯えていなかった。
申し訳なさはある。
緊張もある。
日本という知らない場所にいる不安もある。
それでも、その目は逸らさない。
十鉄と明恵は、何も言えなかった。
言っていることは、荒唐無稽もいいところだった。
異世界。
英雄。
嫁が三人。
そして、日本には残らない。
そんな話を、今すぐ全部信じろと言われても無理がある。
夢でも見ているのかと思う。
良樹が帰ってきたこと自体、まだ現実感がない。
けれど。
この三人の眼差し。
そして、良樹の顔。
変わった。
明らかに変わっていた。
いなくなる前の良樹ではない。
十鉄に怒鳴られて、口答えして、それでも現場についてきた息子とは違う。
何かを見た顔だった。
何かを背負った顔だった。
何かを選んだ顔だった。
今すぐ全部を信じてやることはできない。
けれども。
こういう目をした時の良樹は、曲がらない。
それは分かる。
だって、親だから。
十鉄は、長い息を吐いた。
「……親孝行もできねえうちに、だと?」
良樹は黙っている。
十鉄は、目を細めた。
「馬鹿野郎」
「親孝行かどうかは、親が決める」
良樹の眉が、少し動いた。
「お前が勝手に決めるな」
明恵が、口元を押さえた。
十鉄は続ける。
「生きて帰ってきた」
「顔を見せた」
「嫁だって女たちを連れてきた」
「それで、俺たちの顔を見て、自分で決めたことを言った」
十鉄は、少しだけ視線を逸らした。
「それを親孝行じゃねえって決める権利は、お前にはねえ」
「親父……」
「ただし」
十鉄の声が、急に低くなる。
「許したわけじゃねえぞ」
「そこは分かってる」
「分かってねえ」
「お前は昔から分かった顔だけは上手かった」
「そこまで言うかよ」
「言うに決まってんだろうが」
「こっちは、お前が死んだかもしれねえと思ってたんだぞ」
良樹は、何も言い返せなかった。
明恵が、震える声で言った。
「良樹」
「……うん」
「本当に」
「本当に、日本には残らないの?」
良樹は、母を見た。
明恵の目は、涙で濡れていた。
それでも、良樹から目を逸らさなかった。
良樹は、胸の奥が痛むのを感じながら、頷いた。
「ああ」
「俺は、異世界で生きる」
明恵の顔が歪む。
だが、泣き崩れはしなかった。
明恵は、リシアを見た。
カレンを見た。
クラリスを見た。
三人とも、明恵を見つめ返していた。
明恵は、小さく息を吸った。
「あなたたちは」
声が震えていた。
「良樹と一緒に、生きてくれるのね」
リシアが、真っ直ぐに答える。
「はい」
カレンも、少し涙ぐみながら頷いた。
「はい」
「良樹さんと、一緒に生きます」
クラリスは、両手を膝の上で揃え、静かに言った。
「お義母さま」
「私たちは、良樹さんを一人にはしません」
その言葉に、明恵の涙がこぼれた。
「……そう」
明恵は、泣きながら笑おうとした。
「そうなのね」
明恵は、涙を拭った。
まだ、受け入れられたわけではない。
良樹が異世界にいたことも。
英雄になったことも。
三人の妻を連れて帰ってきたことも。
そして、日本には残らないと言ったことも。
何一つ、心が追いついていない。
けれど、良樹は下を向かなかった。
三人も、良樹の隣で目を逸らさなかった。
ならば。
母親として、聞かなければならないことがある。
「……あんた達」
明恵は、震える声で尋ねた。
「いつまで日本に居られるの」
良樹は、少しだけ口を閉じた。
そして、正直に答える。
「長くて一週間ってところだ」
「それ以上は、異世界に戻れなくなる」
明恵の肩が、わずかに揺れた。
一週間。
戻ってきた息子と過ごせる時間。
息子の妻だという三人を知る時間。
そして、また送り出すまでの時間。
あまりにも短い。
短すぎる。
それでも、ゼロではなかった。
「――そう」
明恵は、もう一度涙を拭った。
それから、リシアを見た。
カレンを見た。
クラリスを見た。
三人は、少し緊張した顔で明恵を見返している。
明恵は、泣きそうな顔のまま、それでもはっきりと言った。
「じゃあ、一週間でこの子達に」
「上村家の嫁としての心構えや、料理や、なんやら全部」
「教えなくちゃね」
良樹が目を見開いた。
「母さん」
「何よ」
「いや」
「その……いいのか」
明恵は、良樹を睨んだ。
「いいも悪いもないでしょう」
「あんたが嫁だって連れてきたんでしょうが」
「それは、そうだけど」
「だったら」
「私から見れば、この子達はもう他人じゃないの」
明恵の声が、少しだけ震えた。
「一週間しかないなら」
「泣いてるだけじゃ、足りないじゃない」
リシアの目が揺れた。
カレンは、膝の上で手を握りしめる。
クラリスは、静かに頭を下げた。
「お義母さま」
「よろしくお願いいたします」
リシアも、貴族の所作で頭を下げる。
「私も、教えていただけるなら嬉しいです」
「良樹さんの日本での家を、少しでも知りたいですから」
カレンは、少し遅れて慌てて頭を下げた。
「わ、私もです!」
「料理も、作法も、頑張ります!」
明恵は、三人を見た。
良樹の妻たち。
そう思った瞬間、また涙が込み上げた。
けれど、今度は泣き崩れなかった。
「いい返事ね」
明恵は、涙を拭いながら笑った。
「じゃあ、忙しくなるわよ」
「一週間で、できるだけ詰め込むからね」
その後、自然と男組と女組に分かれた。
明恵はリシア、カレン、クラリスを台所へ連れて行った。
良樹は十鉄に顎で示され、作業場へ戻ることになった。
作業場には、さっきまでのタバコの匂いが残っていた。
制御盤の外箱。
古い図面棚。
圧着工具。
電線の切れ端。
端子台。
汚れた作業机。
何もかもが懐かしい。
良樹が黙って見回していると、十鉄が灰皿の横に置いていたタバコを一本取り出した。
「良樹」
「何だよ」
「なんで三人ともなんだ」
責める声ではなかった。
だが、軽く聞いている声でもなかった。
良樹は、少しだけ黙った。
それから、作業机の端に視線を落とす。
「……仕方ねえだろ」
「三人から、誰も選べないくらい惚れちまった」
十鉄は黙っている。
良樹は続けた。
「親父が、よく言ってただろ」
「女に恥をかかせるなって」
十鉄の眉が、わずかに動いた。
「だから、重婚ができる英雄になった、か?」
「……ああ」
良樹は頷いた。
「そうすりゃ、ちゃんと三人とも嫁さんにできたからな」
「誰か一人を選んで、残りの二人に泣いてもらうなんて、俺にはできなかった」
十鉄は、タバコを咥えたまま火をつけなかった。
しばらく、良樹の顔を見ていた。
「色々あったんだろ」
「ああ」
「楽な道程じゃねえんだろ」
「……あったさ」
良樹の声が、少しだけ低くなる。
「人も殺した」
作業場の空気が、少し重くなった。
十鉄は何も言わなかった。
良樹も、それ以上は言わなかった。
しばらくして、十鉄はタバコに火をつけた。
深く煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
「…………そうか」
それだけだった。
許すとも。
責めるとも。
聞かせろとも言わなかった。
ただ、そうか、とだけ言った。
良樹は、その言葉に少しだけ救われた気がした。
十鉄は、煙の向こうから良樹を見る。
「お前、少し背ぇ伸びたか?」
「伸びるわけねえだろ」
「もうすぐ三十だぞ、俺」
「そうか」
「そうだったな」
十鉄は、少しだけ目を細めた。
いつもゲンコツをくれてやっていた息子だった。
図面の読み方を間違えれば怒鳴った。
工具の扱いが雑なら叩いた。
現場で気を抜けば、容赦なく殴った。
その息子が、今は嫁を三人連れて帰ってきた。
ふざけた話だ。
信じがたい話だ。
異世界だの英雄だの、今でも頭が追いついていない。
けれど。
さっき居間で見た良樹は、昔のままではなかった。
あの三人の前で下を向かず。
自分の決めたことを口にし。
人を殺したことまで、逃げずに言った。
一家の大黒柱の顔をしていた。
きっと、いい子たちなのだろう。
そうでなければ、良樹があんな顔で立てるはずがない。
「良樹」
「なんだよ」
十鉄は、短く煙を吐いた。
それから、少しだけ不器用に言った。
「結婚」
「おめでとう」
良樹は、目を見開いた。
まさか、そんな言葉が十鉄の口から出るとは思っていなかった。
「……親父」
「勘違いするなよ」
「全部飲み込んだわけじゃねえ」
「ああ」
「嫁三人ってところも、納得したわけじゃねえ」
「ああ」
「人を殺したって話も、聞き流したわけじゃねえ」
「分かってる」
「だが」
十鉄は、良樹の顔を見た。
「それでも、お前は帰ってきて、俺と明恵に紹介した」
「嫁だって、胸張って言った」
十鉄は、灰皿に灰を落とす。
「なら、そこだけは祝ってやる」
良樹は、しばらく黙っていた。
それから、深く頭を下げた。
「ありがとう」
「頭下げんな」
「嫁持った男が、そう簡単に下向くんじゃねえ」
良樹は顔を上げた。
十鉄は、いつものようにぶっきらぼうな顔をしていた。
けれど、その目だけは少しだけ優しかった。
その頃、台所では明恵が三人の妻たちを前に立たせていた。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人とも、先ほどまでの緊張をまだ残している。
だが、その目は真剣だった。
明恵は冷蔵庫から野菜を取り出し、まな板の上に置く。
「いい?」
三人の背筋が伸びた。
「これから、良樹の好きな食べ物や、我が家の味付けを教えるから」
「覚えられる限り、覚えてね」
「はい」
リシアが頷く。
「はい!」
カレンも頷く。
「はい、お義母さん」
クラリスは静かに頭を下げた。
明恵は、包丁を手に取った。
「一週間でできることは少ないけど」
野菜に刃が入る。
とん、とん、とん、と、懐かしい音が台所に響いた。
「あの子が異世界に帰っても」
「この味だけは忘れないように」
「してあげて、ね」
三人は、一瞬だけ言葉を失った。
明恵の声は、震えていた。
けれど、包丁を持つ手は止まらない。
泣いている時間すら惜しい。
そう言っているようだった。
三人は、顔を見合わせた。
そして、揃って頭を下げる。
「はい、お義母さん」
「はい、お義母さん」
「はい、お義母さん」
明恵は、少しだけ目を細めた。
「いい返事」
それから、手元の野菜を切りながら、何気ない調子を装って聞いた。
「ねえ」
三人が明恵を見る。
「あなた達は、あの子のどこを好きになってくれたのかしら」
包丁の音が、また響く。
とん、とん、とん。
リシアが、少しだけ目を伏せた。
「……変な人でした」
明恵の手が、一瞬だけ止まる。
「変な人?」
「はい」
「初めて会った時から、ずっと変でした」
リシアは、ほんの少しだけ笑った。
「私の世界の誰とも違っていました」
「魔法を見ても、奇跡みたいに騒ぐのではなく」
「どう動くのか、どう止めるのか、壊れたらどうなるのか」
「そんなことばかり考えていました」
明恵は、思わず苦笑した。
「……あの子らしいわね」
「はい」
「でも、その変なところに、私は何度も助けられました」
「良樹さんは、強いことより先に、止め方を考える人です」
「だから私は、この人の隣にいれば、怖くても前に進めると思いました」
リシアは、真っ直ぐに明恵を見る。
「それが、好きになった理由です」
明恵は、何も言わずに頷いた。
次に、カレンが少し慌てたように口を開く。
「わ、私は」
言いかけて、顔が赤くなる。
「私は、良樹さんが、私の怖がるところを否定しなかったからです」
「怖がるところ?」
「はい」
カレンは、手元のエプロンをぎゅっと握った。
「私は、怖いものが多いんです」
「危ない場所も、痛そうなものも、人の悪意も」
「見えてしまうと、足が竦むことがあります」
明恵は、静かに聞いていた。
「でも良樹さんは」
「怖いなら見るな、とは言いませんでした」
「怖いなら、ちゃんと見ろ」
「怖いと思えるなら、それは大事な目だって」
「そう言ってくれました」
カレンの声が、少しだけ震える。
「私は、その言葉に救われました」
「だから、良樹さんと一緒に怖い場所を見たいと思いました」
明恵は、カレンを見た。
この子は、優しいだけではない。
怖がりなだけでもない。
怖いものを見る覚悟を、息子と一緒に持とうとしている子なのだ。
「そう」
明恵は、小さく頷いた。
「良樹、そんなこと言えるようになったのね」
カレンは、少しだけ笑った。
「はい」
「良樹さんは、すごい人です」
明恵は、少し困ったように笑う。
「母親の前でそう言われると、くすぐったいわね」
最後に、クラリスが口を開いた。
「私は」
その声は、静かだった。
「良樹さんが、戻ってくる人だからです」
明恵の目が、クラリスへ向く。
「戻ってくる?」
「はい」
クラリスは、両手を前で揃えた。
「良樹さんは、逃げることがあります」
「迷うこともあります」
「自分を悪く言うこともあります」
「けれど、責任から逃げ切らない人です」
明恵は、包丁を止めた。
「誰かを傷つけた時」
「誰かを泣かせた時」
「何かを壊してしまった時」
「良樹さんは、見なかったことにはしません」
クラリスは、少しだけ微笑む。
「戻ってきて、直そうとする人です」
「私は、そういう良樹さんを、愛しています」
台所が、少しだけ静かになった。
明恵は、三人を見た。
リシア。
カレン。
クラリス。
三人とも、違うところを見ている。
違う言葉で、良樹を語っている。
けれど、その奥にあるものは同じだった。
この子たちは、本当に良樹を見ている。
良いところだけではない。
格好いいところだけでもない。
弱いところも、面倒なところも、危ういところも。
その上で、好きだと言ってくれている。
明恵は、目頭が熱くなるのを感じた。
「……そう」
明恵は、もう一度包丁を動かした。
とん、とん、とん。
「じゃあ、安心ね」
三人が明恵を見る。
明恵は、少しだけ笑った。
「あの子、自分のことは雑に扱うところがあるから」
「三人でちゃんと見張ってて」
リシアが、すぐに頷いた。
「はい」
「そこは任せてください」
カレンも真剣な顔で頷く。
「良樹さんが無茶をしたら、止めます」
クラリスは、にこりと微笑んだ。
「必要なら、叱ります」
「ええ」
「叱っていいわ」
「あの子、昔から叱られないと止まらない時があるから」
リシアが少し笑う。
「そこも、今と変わらないのですね」
「変わらないわよ」
「本当に、昔からああなの」
明恵は、刻んだ野菜を皿に移そうとした。
その時だった。
「――っ」
小さく息を呑む。
包丁の刃が、指先をかすめていた。
ほんの少しだけ、赤い血が滲む。
「お義母さま!」
真っ先に反応したのは、クラリスだった。
明恵は、慌てて笑ってみせる。
「大丈夫、大丈夫」
「これくらい、なんてことないから」
「いえ」
クラリスは、明恵のそばへ寄った。
「お手を、こちらへ」
「え?」
「見せてください」
明恵は、不思議そうにしながらも、指先を差し出した。
クラリスは、その手を両手でそっと包む。
次の瞬間、柔らかな光が灯った。
白く、温かい光だった。
明恵は目を見開く。
痛みが、すっと消えた。
滲んでいた血が止まる。
開いていたはずの小さな傷が、見る間に塞がっていく。
クラリスは、指先を確認してから、ほっとしたように微笑んだ。
「――これでよし、です」
カレンが感心したように頷く。
「さすがクラリスですね」
リシアも、少しだけ肩をすくめた。
「私、回復魔法は使えないからなあ」
その二人の反応は、あまりにも自然だった。
驚いていない。
慌ててもいない。
奇跡を見た顔ではない。
クラリスが傷を治すことを、当たり前のこととして受け止めている。
明恵は、自分の指を見た。
傷がない。
血もない。
痛みもない。
さっきまで、確かに切れていた。
包丁の刃が触れた感覚もあった。
赤い血も見た。
それなのに、今は何もない。
異世界。
魔法。
貴族。
英雄。
本当に?
そんなことがあるの?
信じられなかった。
けれど、今、目の前で起こったことは、ただ事実だった。
明恵は、ゆっくりと三人を見る。
「あなた達――」
声が、少し震えた。
「本当に」
「異世界から、来たの?」
三人は、迷わなかった。
「はい」
「はい」
「はい」
即答だった。
明恵は、もう一度自分の指を見る。
治っている。
息子が連れてきた三人の嫁。
綺麗で、礼儀正しくて、良樹のことを本気で好きだと言う子たち。
その子たちは、本当に。
良樹が言った通りの場所から来たのだ。
明恵は、しばらく黙っていた。
それから、小さく息を吐く。
「……そう」
もう一度、指を見る。
「そうなのね」
クラリスが少し不安そうに尋ねる。
「驚かせてしまいましたか」
「驚いたわよ」
明恵は正直に答えた。
「ものすごく驚いたわ」
「申し訳ありません」
「謝らないで」
「助けてくれたんでしょう」
明恵は、クラリスの手をそっと握った。
「ありがとう、クラリスちゃん」
クラリスの表情が、少しだけ柔らかくなる。
「はい」
明恵は、リシアとカレンも見た。
「リシアちゃん」
「カレンちゃん」
「はい」
「は、はい」
「私、まだ全部は分からない」
「良樹がどんなところにいたのかも」
「あなた達がどんな世界で生きてきたのかも」
「すぐに全部信じられるほど、頭は追いついていない」
三人は黙って聞いていた。
「でも」
明恵は、治った指を軽く握る。
「あなた達が、日本の子じゃないことは」
「今、少しだけ分かったわ」
リシアは、静かに頷いた。
「はい」
「私たちは、良樹さんのいた日本とは違う世界から来ました」
カレンも真剣な顔で言う。
「ですが、良樹さんと一緒に生きています」
クラリスは、明恵を見つめた。
「そして、これからも一緒に生きます」
明恵は、三人の顔を見た。
そして、ゆっくりと頷いた。
「……なら、なおさらね」
「なおさら?」
リシアが首を傾げる。
「一週間で、教えられるだけ教えなくちゃ」
明恵は、少しだけ笑った。
「異世界に帰るなら」
「日本の良樹の味を、ちゃんと持って帰ってもらわないと」
三人は、少しだけ顔を見合わせた。
それから、同時に頷いた。
「はい、お義母さん」
「はい、お義母さん」
「はい、お義母さん」
明恵は、今度こそ包丁を持ち直した。
「じゃあ、続き」
「今度は私が怪我しないように、ちゃんと見ててね」
クラリスが微笑む。
「はい」
「すぐ治せますが、怪我をしない方が良いですから」
「それ、良樹が好きそうな言い方ね」
リシアが笑った。
「ええ」
「良樹なら、まず怪我をしない仕組みにしろって言うわ」
カレンも頷く。
「包丁の持ち方と、手の置き方を確認すると思います」
明恵は、思わず笑った。
「あの子、異世界でもそんななのね」
三人は、同時に頷いた。
「はい」
「はい」
「はい」
今度の即答には、少しだけ笑いが混じっていた。
その晩。
上村家の食卓には、久しぶりに賑やかな声が響いていた。
明恵が作った料理。
リシアたちが手伝った料理。
良樹が日本で食べていた味。
三人は慣れない箸に苦戦しながらも、明恵に教わりながら少しずつ食卓に馴染んでいった。
そして、十鉄は。
「いやあ、息子の嫁にお酌をしてもらうのは、男の共通の夢だなあ!」
完全に浮かれていた。
「それもこんなべっぴんな嫁さんが三人もだ!」
「母さん! もっとビール出してくれ!」
明恵が台所から呆れた声を返す。
「あなた、浮かれすぎですよ」
「ごめんなさいねえ、リシアちゃん、カレンちゃん、クラリスちゃん」
良樹は、上機嫌の十鉄を見て深くため息をついた。
「親父……」
リシアは、少しだけ笑って缶ビールを手に取る。
「いえ、このくらいさせてください」
「お義父さまには、良樹さんのことでたくさんお聞きしたいこともありますし」
カレンは真剣な顔で缶を構えた。
「お義父さまへお酒を注ぐのが、日本の作法、ですね!」
「いや、それは別に全家庭共通じゃねえぞ」
良樹が横から口を挟む。
しかしカレンは真面目だった。
「ですが、明恵さまがそうしていました」
「母さんは親父の扱いに慣れてるだけだ」
クラリスは、にこにこと十鉄のグラスを見た。
「さ、お義父さま」
「もう一杯いかがですか?」
「おお、クラリスちゃん、分かってるねえ!」
十鉄は満面の笑みでグラスを差し出す。
注がれたビールを一気に飲み、盛大に息を吐いた。
「っぷはぁーー!」
「酒がうめえ!」
良樹は額を押さえた。
「親父、ペース早えぞ」
「うるせえ」
「息子が生きて帰ってきて、嫁を三人も連れてきたんだ」
「飲まずにいられるか」
その言葉に、良樹は一瞬だけ黙った。
十鉄は、赤くなった顔で良樹を指さす。
「おい、良樹ぃ」
「何だよ」
「よくこんな上玉な嬢ちゃんたち捕まえられたもんだなあ!」
「よっ、色男!」
「おい、親父」
「その辺に――」
「で、夜はどうしてんだァ?」
「四人でいっし――」
その瞬間だった。
ビールの追加を持ってきていた明恵の右肘が、十鉄の頭頂部へ見事に突き刺さった。
ごすっ。
鈍い音がした。
「ぐおっ!?」
十鉄がテーブルに突っ伏す。
良樹は思わず身を引いた。
リシアは目を丸くする。
カレンは「は、速い……!」と小さく呟く。
クラリスは十鉄の頭を診ようとして、明恵の顔を見てそっと手を止めた。
明恵は、にこにこと笑っていた。
「あなた」
「……はい」
「嫁入り前じゃないけど、嫁入り後でも」
「女の子の前で言っていいことと悪いことがありますよ」
「……はい」
「分かりましたね」
「……分かりました」
十鉄は頭を押さえながら小さくなった。
良樹は、ぽつりと言う。
「親父」
「あ?」
「母さんにまだ勝てねえんだな」
「勝とうと思ったことがねえよ」
「命が惜しいからな」
明恵が笑顔のまま、良樹を見る。
「良樹」
「はい」
「あなたもですよ」
「俺、何も言ってねえだろ」
「顔に出てました」
「理不尽だろ」
「上村家では、顔も対象です」
リシアが吹き出した。
カレンもつられて笑う。
クラリスは口元に手を当てて、肩を震わせていた。
十鉄は、頭をさすりながらも、どこか嬉しそうにまたグラスを持った。
「まあ、何だ」
少しだけ声が柔らかくなる。
「リシアちゃん」
「カレンちゃん」
「クラリスちゃん」
三人が十鉄を見る。
「良樹は面倒くせえ男だ」
「理屈っぽいし、変なところで頑固だし」
「自分のことは後回しにしやがる」
「親父」
「黙ってろ」
十鉄は、三人へ向き直った。
「だが」
「悪い男じゃねえ」
三人の表情が、少しだけ和らぐ。
「だから」
「まあ」
「その」
十鉄は、言葉を探すように視線を泳がせた。
明恵が横から小さく笑う。
「あなた、ちゃんと言いなさい」
「分かってる」
十鉄は咳払いをした。
「良樹を、よろしく頼む」
リシアは、静かに頷いた。
「はい」
カレンも、背筋を伸ばした。
「はい、お義父さま」
クラリスは、柔らかく微笑む。
「お任せください」
十鉄は、満足そうに頷いた。
そして、またグラスを掲げる。
「よし」
「じゃあもう一杯」
「あなた」
「……半分で」
明恵の笑顔に、十鉄は即座に譲歩した。
良樹は、その光景を見て、少しだけ笑った。
日本の家。
父と母。
三人の妻。
同じ食卓。
あり得ないはずの景色が、そこにあった。




