第12話 見えない場所は未確認(挿絵有)
翌朝。
宿の食堂は、いつも通りの匂いがしていた。
焼いたパン。
薄いスープ。
煮込んだ豆。
冒険者たちの声。
椅子を引く音。
皿が卓に置かれる音。
良樹は、その隅の席で、昨夜から頭に残っている魔導盤の構成を考えていた。
携行盤は最大まで育った。
盤のストックは二枚になった。
見るための盤。
止めるための盤。
レーザーセンサーは、回せる。
手で振るのではなく、魔導モーターで一定速度で回す。
角度ごとに距離を拾う。
レーザースキャナ。
LiDARに近いもの。
そこまでは見えた。
だが、足りない。
距離は答えではない。
距離は判断材料だ。
近い。
遠い。
動いている。
近づいている。
止まっている。
それを全部、良樹が生で読んでいたら詰まる。
必要なのは、近いもの、近づいているもの、危ない方向だけを拾う頭だ。
PLC。
良樹の中では、名前ははっきりしていた。
だが、魔導盤の中にはまだ置けない。
なら、今できるのは、機能を増やすことではなく、余計な入力を減らすことだ。
拾うだけでは駄目だ。
拾わない条件も要る。
良樹は、木の匙を持ったまま止まっていた。
「良樹」
横から声がした。
リシアだった。
昨日より少しだけ、目が合うまでの間が長かった。
そして、目が合った瞬間、リシアはほんの少しだけ視線を逸らした。
良樹も、ほんの少しだけ視線を逸らした。
昨日の訓練場。
下から吹き上げる風。
持ち上がった布。
異常ログ。
ピンク。
その単語が、良樹の脳内に不意に浮かび、良樹は匙を置いた。
いけない。
ログを開くな。
異常履歴を不用意に参照するな。
「……何を思い出したの?」
リシアの声が低い。
「何も」
「今、明らかに何か思い出した顔をしたわよ」
「昨日のカイゼン結果だ」
「本当に?」
「……安全範囲が広がったことを」
「それだけ?」
「それだけだ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶんって言ったわね」
リシアの目が細くなる。
良樹は、咳払いをした。
そこへ、カレンがやってきた。
「あ、あの……おはようございます」
「おう」
「おはよう、カレン」
カレンは、リシアと良樹を見比べて、少しだけ首を傾げた。
「何か、ありましたか?」
「何もないわ」
リシアは即答した。
即答が早すぎた。
カレンは、さらに不思議そうな顔をした。
そこへ、クラリスが静かに歩いてきた。
白い法衣。
柔らかな微笑み。
朝の光に、淡い金の髪が少しだけ透けて見える。
いつものクラリスだった。
少なくとも、外見は。
「おはようございます、リシアさん。カレンさん」
「おはようございます、クラリスさん」
「おはよう、クラリスさん」
リシアとカレンが返す。
クラリスは、最後に良樹を見た。
そして、穏やかに微笑んだ。
「おはようございます、良樹くん」
食堂の空気が止まった。
いや、食堂全体が止まったわけではない。
周囲の冒険者たちは普通に飯を食い、普通に喋っている。
止まったのは、この卓だけだった。
リシアの手から、匙が滑り落ちた。
からん、と小さな音が鳴る。
カレンは水を飲みかけたまま固まった。
良樹は、自分が呼ばれたのだと一拍遅れて理解した。
「……クラリスさん?」
「はい、良樹くん」
「今、何て?」
「良樹くん、と」
リシアが、ゆっくりと立ち上がった。
カレンも、椅子の上で小さく跳ねた。
「なん……だと……」
「な、なん……だと……」
二人の声が重なる。
「「くん付け呼び!?」」
良樹は肩を跳ねさせた。
「何だ!? どうした!?」
「どうしたじゃないわよ!」
リシアが叫びかけて、周囲を気にして声を抑えた。
「今、クラリスさんが良樹を良樹くんって呼んだのよ!」
「聞こえてたよ」
「なら危機感を持ちなさい!」
「何の危機だよ」
カレンは胸元で両手を握りしめていた。
「あ、あの……くん付けは、距離が近い気がします……」
「そうなのか?」
「そ、そうだと思います……!」
良樹はクラリスを見る。
「クラリスさん、急にどうしたんだ」
「急ではありませんよ」
クラリスは、にこりと微笑んだ。
「昨日から考えていました」
「昨日から!?」
リシアがまた反応する。
「ええ」
クラリスは、あくまで穏やかだった。
「私と良樹くんは、歳もこの中で一番近いですし」
リシアの眉が動いた。
「この中で一番」
カレンが小さく繰り返した。
「近い……」
「はい」
クラリスは微笑む。
「ですから、この方が自然かなと」
「自然ではないわよ」
リシアが即座に言った。
「自然です」
「自然を名乗れば何でも通ると思わないで」
「自然の理です」
「昨日の風の件を引っ張らないで!」
リシアが顔を赤くする。
カレンは、その「昨日の風の件」が何なのか分からず、少しだけ不安そうに二人を見た。
良樹は、これ以上そこに触れると事故る気がして、話題を変えようとした。
しかし、その前にクラリスが口を開く。
「それに、もう一つ理由があります」
「理由?」
良樹が聞き返す。
クラリスは、良樹の胸の少し下あたりを見た。
正確には、そこに浮かぶはずの魔導盤を見ているようだった。
「昨日の魔導レーザーについて、少しお話があります」
「魔導レーザー?」
良樹の目が変わった。
リシアが小さく息を吐く。
「出たわね。技術の話になるとすぐそれ」
「仕方ねえだろ。重要なんだよ」
「重要なのは分かるけど、今くん付け問題が発生してるのよ」
「それは俺には処理できない」
「処理しなさい!」
クラリスは口元に手を添え、少しだけ笑った。
「良樹くんの魔導レーザーの線は、少し回復魔法に似ています」
良樹の動きが止まった。
「回復魔法に?」
「はい」
クラリスは頷く。
「触れたものから返ってくるものを見る、という意味では」
「返りを見る……」
良樹は、無意識に指先を見た。
半透明の線。
魔導レーザー。
動物の魔力に反応する線。
魔物や獣には返りがある。
人にも返る。
だが、クラリスはそれを回復魔法に似ていると言った。
「ただ、今の良樹くんの線は、触れたところで返っています」
「……ああ」
「手前にあるものを拾ってしまいます」
良樹は黙った。
まさに、今朝から考えていたことだった。
カレンが前に出れば、カレンを拾う。
リシアが隣にいれば、隣の反応が常に入る。
クラリスが近くにいれば、そこも拾う。
敵を見たいのに、味方が一番近い入力になる。
「実演した方が早いと思います」
クラリスは言った。
「少し危ない技術ですので、人の少ない場所で」
良樹は、クラリスを見た。
「クラリスさん」
「はい」
「付き合ってくれ」
リシアの肩が跳ねた。
カレンも、胸元で両手を握った。
「また言ったわね」
「つ、付き合う、ですか……?」
良樹は、今度は即座に手を上げた。
「魔導レーザーの確認に、だ」
「先に言ったぞ」
リシアが悔しそうに唇を尖らせる。
「学習してる……!」
「昨日怒られたからな」
「そこだけ素直に改善しないで」
クラリスは、口元に手を添えて微笑んだ。
「はい、喜んで」
「私もずっと、良樹くんのこと――」
「待ちなさい」
リシアが、食卓に両手をついた。
「今のは明らかに違う意味を混ぜたわよね?」
クラリスは、不思議そうに首を傾げる。
「違う意味、ですか?」
「その顔で逃げないで!」
「今、完全に告白の入口だったわよ!」
「入口で止まりました」
「止まったんじゃなくて、止めたのよ私が!」
カレンは、顔を真っ赤にして小さく震えていた。
「あ、あの……今の続きは、聞いてはいけない気がします……」
「聞かなくていいわ!」
「聞いたら確認期間が初日で終わる!」
良樹は眉間を押さえた。
「魔導レーザーの確認に付き合ってくれって意味だ」
「分かってるわよ!」
「分かってるけど、クラリスさんが分かってないふりをしてるのよ!」
クラリスは清楚に微笑む。
「分かっていますよ」
「分かっててやってる方が悪い!」
「確認期間ですから」
「その言葉を恋愛兵器の起動キーにしないで!」
リシアが即座に口を挟む。
「私も行くわ」
「あ、あの……私も」
カレンも小さく手を上げた。
良樹は二人を見て、それから少し考えた。
「いや、まずはクラリスさんと二人で確認する」
リシアの目が細くなる。
「二人で?」
「ああ」
良樹は、昨日のことを思い出しながら言った。
「見る人間が増えると、見るものが増える」
「昨日、それは分かった」
「危ない技術なら、最初は人数を絞る」
リシアは口を開きかけて、閉じた。
昨日、自分は良樹と二人で訓練場へ行った。
カレンもクラリスも同行させなかった。
その上で、良樹の危険な出力を安全側へ戻した。
だから、止めにくい。
「……分かってるのよ」
リシアは、苦い顔で言った。
「だから止められないのよ」
「何の話だ?」
「こっちの話よ」
カレンは少し不安そうにクラリスを見た。
「クラリスさん、大丈夫ですか?」
「はい」
クラリスは柔らかく微笑んだ。
「大丈夫にします」
良樹が、そこに反応した。
「クラリスさん」
「はい?」
「大丈夫にする、じゃねえ」
「危ない技術なら、壊さない、だ」
クラリスの微笑みが、ほんの少しだけ止まった。
それから、ゆっくりと頷く。
「はい」
「壊しません」
良樹は、それで頷いた。
「なら行く」
クラリスは静かに立ち上がる。
「では、良樹くん」
「行きましょう」
リシアが小声で呟いた。
「くん付け、強い……」
カレンも、小さく頷いた。
「つ、強いです……」
◇
町外れの訓練場は、朝の光がまだ斜めに差していた。
昨日使った土の広場とは少し離れた、練武場に近い一角。
人は少ない。
壁際には古びた木板や、訓練用の的が置かれている。
良樹は腰袋を確かめ、胸の前に魔導盤を展開した。
半透明の盤。
細い線。
魔導レーザーセンサー。
回転用の魔導モーター。
インバーター。
昨日、構想だけは見えていた索敵盤だ。
クラリスは、少し離れた位置でそれを見ていた。
「綺麗な線ですね」
「そう見えるのか」
「はい。ただ、少し硬いです」
「硬い?」
「触れた場所で返る線です」
良樹は眉を寄せた。
「反応を見る線だからな。返ってこないと読めねえ」
「はい。ですが、全部が表面で返ると困るのでしょう?」
「そこだ」
良樹は、魔導盤の中に小さな回転線を描いた。
「昨日考えたレーザースキャナは、線を回して面にするものだ」
「面、ですか?」
「ああ。一本の線で一方向だけ見るんじゃなくて、回しながら周囲を拾う。そうすれば、どの方向のどの距離に魔力反応があるか、面みたいに見える」
良樹は、盤の中で円を描く線をゆっくり回した。
「ただし、面で見えるだけだ」
「弱点があるのですね」
「ある」
良樹は頷いた。
「俺の魔導レーザーは、木や岩を見るもんじゃねえ。動物の魔力に反応する。魔物、人間、獣。そういう生き物の魔力反応を見る線だ」
「はい」
「だから、木の裏とか岩の裏を見る話じゃない。そもそも木や岩は、この線の検知対象じゃねえ」
良樹は、盤の中に四つの反応を置いた。
前にカレン。
左にリシア。
近くにクラリス。
その奥に、魔物の反応。
「問題は、味方も敵も、同じ“動物の魔力反応”として拾うことだ」
回転線が、まずカレンの反応に触れる。
「カレンが前に出れば、カレンの魔力が面に出る」
「その奥に魔物がいても、手前のカレンで返る」
次に、リシアの反応に触れる。
「リシアが隣にいれば、隣の反応がずっと面に残る」
さらに、クラリスの反応に触れる。
「クラリスさんが俺の近くにいれば、そこも拾う」
良樹は、盤の中で線を止めた。
「つまり、敵を見たいのに、味方の反応が面を埋める」
「面で見えるようになっても、ですか?」
「ああ」
良樹は低く言った。
「面で取れるのは、反応の場所と距離だ」
「その面が、誰なのか」
「敵か味方か」
「手前の反応の奥に、別の反応があるのか」
「そいつが危ない動きをしてるのか」
「そこまでは分からねえ」
クラリスは、静かに聞いていた。
「距離の面は取れる」
「だが、危険の面は取れねえ」
良樹は、盤の中の反応を見た。
「レーザーを回せば、線は面になる」
「でも、面は表面反応の集まりだ」
「手前で返れば、その奥は未確認のまま残る」
クラリスは、少しだけ目を細めた。
「では、味方の魔力だけを、表面で返さずに通せれば」
良樹が顔を上げる。
「その面の奥を、少し見られるようになりますね」
良樹は、しばらく黙った。
それから、ゆっくり頷いた。
「そうだ」
「味方を消すんじゃない」
「味方がいないことにするわけでもない」
「味方のところで返さない」
「通して、その奥で返す」
良樹の声が、少しだけ低くなる。
「それができれば、一基でもかなり使える」
「カレンが前に出ても、その奥を拾える可能性が出る」
「リシアが隣にいても、隣の反応で面が潰れにくくなる」
「クラリスさんが近くにいても、そこで止まらない」
「はい」
クラリスは頷いた。
「ただし、通してよい魔力だけです」
「知らない魔力を通すのは危険です」
「敵か味方か分からないものは、表面で返すべきです」
「ああ」
「そこは安全側だ」
良樹は魔導盤を見つめた。
「拾うだけじゃ駄目だ」
「拾わない条件も要る」
「ただし、拾わない相手を間違えたら事故る」
クラリスは、穏やかに微笑んだ。
「良樹くんらしいですね」
「そうか?」
「はい」
「見ることより、見ない条件の危険を先に考えています」
「そこを間違えると死ぬからな」
クラリスは、近くにあった薄い木板を一枚手に取った。
それを台に立てる。
その奥に、訓練場に置かれていた粘土板を立てた。
「良樹くん」
「何だ」
「透勁という技をご存じですか?」
「言葉だけならな」
「表面じゃなく、奥に通す打撃だろ」
「近いです」
クラリスは、木板の前に立つ。
「私が使うものは、人の身体を傷つけず、衝撃だけを後ろへ通す技術です」
「手前を壊さず、奥へ作用させます」
「それ、普通に怖い説明だな」
「怖い技術です」
クラリスは否定しなかった。
「壊すためにも使えます」
「ですが、回復魔法では、もっと弱く、診るために使います」
「診るため?」
「はい」
「皮膚で止めるのか」
「筋肉の奥へ通すのか」
「骨の際で返すのか」
「診る場所を選びます」
良樹は、ゆっくりと息を吐いた。
「表面で返さない」
「通して、奥で返す」
「はい」
クラリスは微笑んだ。
「良樹くんの魔導レーザーにも、似たことができるかもしれません」
クラリスは、薄い木板に掌を添えた。
音は、ほとんどしなかった。
叩いたようにも見えない。
押したようにも見えない。
ただ、クラリスの掌が木板に触れた。
次の瞬間。
木板の奥に置かれていた粘土板が、ぽこりと凹んだ。
手前の木板は、割れていない。
表面に傷もほとんどない。
良樹は、その光景を見て固まった。
「……おい」
「はい」
「今、手前を抜いたのか」
「はい」
「通しました」
良樹は木板と粘土板を交互に見る。
手前で返さない。
奥で返す。
味方を透かす。
その奥を見る。
良樹の中で、魔導レーザーの線が一瞬だけ形を変えた。
見えた気がした。
だが、足りない。
回路としての輪郭は見える。
だが、手触りがない。
どう通すのか。
どこで返さないのか。
どこで返すのか。
それが分からない。
「クラリスさん」
「はい」
「今の、俺に撃ってくれ」
クラリスの動きが止まった。
「良いのですか?」
「良くはねえ」
良樹は即答した。
「普通に怖えよ」
クラリスは、良樹をまっすぐ見た。
良樹も、目を逸らさなかった。
「でも、見ただけじゃ掴めねえ」
「俺の魔導レーザーに落とすには、身体で感覚を取る必要がある」
「怖いのに、受けるのですか?」
「怖いから確認するんだろ」
良樹は言った。
「それに、クラリスさんを信じる」
「お前が壊さないって言うなら、壊さねえんだろ」
「ビビってはいるけどな」
クラリスの微笑みが消えた。
ほんの少しだけ。
それは、崩れたのではない。
真面目になったのだと、良樹には分かった。
「……分かりました」
クラリスは、静かに言った。
「治せるからではありません」
「壊さずに、通します」
良樹は、少しだけ目を細めた。
「俺の台詞、覚えてたのか」
「忘れません」
クラリスは、良樹の右腕を見た。
「右前腕で行います」
「胸、腹部、頭部は避けます」
「心臓や内臓に近い場所へ、最初から通すのは危険です」
「その判断が出るなら、任せる」
「はい」
クラリスは、良樹の右前腕に指を添えた。
白い指。
細い手。
僧侶らしい、柔らかな手。
だが良樹は、その手が魔物を殴り飛ばせることを知っている。
杖で関節を絡め、重心を崩し、呼吸を止めることを知っている。
治す手であり、壊す場所を知っている手でもある。
怖い。
良樹は、それを否定しなかった。
怖いものを怖くないと言う方が危ない。
「いきます」
「ああ」
クラリスの指が、わずかに動いた。
衝撃はなかった。
叩かれた感覚もない。
押された感じもない。
ただ、皮膚の下を、細い何かがすっと通った。
筋肉の表面ではない。
もっと奥。
骨に届く手前。
そこを、冷たくも熱くもない線が通り抜けた。
「っ……!」
良樹の肩が跳ねた。
「痛いですか?」
「痛くはねえ」
「では?」
「気持ち悪い」
クラリスは少しだけ目を丸くした。
「正直ですね」
「悪い意味じゃない」
「表面じゃなかった」
「奥へ行った」
良樹は、自分の右腕を見た。
何も変わっていない。
皮膚に跡もない。
痛みもない。
だが、確かに何かが通った。
「これか」
「返さずに、通すって感覚」
「はい」
クラリスは頷く。
「表面で止めず、奥へ通す」
「ただし、壊さない」
良樹は、胸の前に魔導盤を開いた。
魔導レーザーの線を一本、細く伸ばす。
クラリスは、その先に手を差し出した。
「まず、私の手で試してください」
「いいのか」
「はい」
「今の良樹くんなら、強く押しすぎる前に止められます」
「信用が重いな」
「信じています」
良樹は、魔導レーザーを伸ばした。
半透明の細い線が、クラリスの手に触れる。
返った。
すぐに返った。
「返ったな」
「はい」
クラリスは静かに言う。
「表面を叩いています」
「叩いてるつもりはねえんだが」
「線がそうなっています」
「難しいな」
「難しいです」
クラリスは、良樹の横へ来た。
「もう一度です」
良樹は線を調整する。
弱く。
細く。
表面で返さないように。
だが、弱くしすぎれば奥へ届かない。
強くすれば表面で返る。
「駄目です」
「今のもか」
「はい。表面で止まりました」
「加減が分からねえ」
「では、手をお借りしますね」
クラリスが、良樹の背後に回った。
「手?」
「はい」
クラリスの右手が、良樹の右手に重なる。
左手が、良樹の肘を支える。
身体が近づく。
近い。
近いだけではない。
柔らかいものが、良樹の腕や背中に何度も触れていた。
最初は偶然だと思った。
手を取って教えているのだから、距離が近いのは仕方がない。
肘を支えるなら、身体の位置も限られる。
だが、何度目かで良樹は気づいた。
これは、避ける気がない。
「クラリスさん」
「はい?」
「さっきから、そのな」
「はい」
「いや、当たってるんだ」
「ええ、知っていますよ」
「当てていますから」
良樹は、しばらく黙った。
「……当ててんのか」
「はい」
クラリスは良樹の手を支えたまま、いつものように清楚に微笑んだ。
「嫌ですか?」
「いや、嫌ではねえというか」
「むしろ、役得というか……」
「では、このままですね」
「待て」
「今のはそういう意味で言ったんじゃない」
「嫌ではないのでしょう?」
「嫌ではないが」
「では、このままです」
良樹は、天井のない練武場の空を見上げた。
青い。
とても青い。
だが、今は空を見ている場合ではない。
「確認期間、危険すぎるだろ」
「危険ではありません」
「確認です」
「その言葉、万能工具みたいに使うな」
「便利ですね」
「認めるな」
クラリスは、良樹の手を軽く押さえた。
「良樹くん。逃げないでください」
「逃げてねえよ」
「逃げています」
「怖い時と、照れている時で、少しだけ身体が後ろへ逃げます」
「観察が細けえんだよ」
「身体を見るのが私の役目ですから」
良樹は、言い返せなかった。
クラリスの声は柔らかい。
だが、逃がさない。
「押さないでください」
「叩かないでください」
「表面で返さないでください」
クラリスの手が、良樹の手の動きを少しだけ導く。
「触れて、通します」
「通して、奥で返る場所を選びます」
「注文が多い」
「危ない技術ですから」
クラリスは静かに言う。
「今のは強すぎます」
「それでは痛めます」
「悪い」
「謝る前に、弱めてください」
「了解」
「今のは弱すぎます」
「奥まで届いていません」
「難しいな」
「はい」
「でも、良樹くんならできます」
「信用が重いって」
「重くしています」
「さらっと言うな」
良樹は、息を整えた。
表面で返さない。
奥へ通す。
でも、壊さない。
強く押さない。
弱く逃げない。
通していいものだけを通す。
クラリスの手。
クラリスの魔力。
そこに当たって返るのではなく、その奥へ。
魔導レーザーの線が伸びる。
クラリスの手に触れる。
いつもなら、そこで返る。
動物の魔力に反応して、表面で止まる。
だが、今は違った。
線は、クラリスの魔力に触れたまま、表面で返らなかった。
薄く揺れながら、その奥へ抜ける。
そして、クラリスの手の後ろに置かれた小石から、かすかな返りが来た。
良樹は、息を止めた。
「……抜けた」
クラリスの手が、良樹の手の上で少しだけ止まる。
「はい」
「クラリスさんの魔力で返らずに、奥が返った」
「はい」
「まだ揺れていますが、通っています」
良樹は、魔導盤の中を見た。
線がある。
返りがある。
だが、途中で止まらなかった。
味方を透かす。
そう呼んでいいかは分からない。
完全に見えなくなるわけではない。
存在が消えるわけでもない。
物理的にそこにいる。
だが、魔導レーザーの返りとしては、クラリスの魔力を表面で拾わなかった。
「一基でも、かなり使える」
良樹は低く呟いた。
「敵を拾う前に、味方を拾わない条件を作る」
「検知ってのは、拾うだけじゃ駄目だ」
「拾わない設計も要る」
「良樹くんらしいですね」
「そうか?」
「はい」
「何を見るかだけでなく、何を見ないようにするかを考えるところが」
良樹は、クラリスの手を見た。
「ただし、万能じゃねえ」
「はい」
クラリスは頷く。
「知らない魔力は通せません」
「通してよい相手か分からないものを通すのは危険です」
「そして、面で見えても、危険かどうかを判断する頭は別に必要です」
「ああ」
「PLCが要る」
「良樹くんが言っていたものですね」
「まだ置けねえけどな」
「では、それまでは?」
「人間が見る」
「俺だけじゃなくてな」
クラリスは、嬉しそうに目を細めた。
「はい」
良樹は少しだけ黙った。
昨日は、リシアの風がなければ水蒸気弾を安全側へ入れられなかった。
今日は、クラリスの透勁がなければ魔導レーザーの味方透過を掴めなかった。
一人で何でもできる盤ではない。
四人で使える盤へ、少しずつ変わっている。
「良樹くん」
「何だ」
クラリスは、良樹の手を離さなかった。
「私のことは、クラリスと呼んでください」
良樹は、動きを止めた。
「今それが要るのか」
「要ります」
クラリスは静かに言った。
「良樹くんは、私を信じて身体を預けてくださいました」
「なら、私も少し近い場所にいたいです」
「呼び方の話と、今の話が繋がるのか」
「繋がります」
「難易度が高い」
「では、練習しましょう」
「出たな、練習」
クラリスは、良樹の正面へ回った。
手はまだ、良樹の手を軽く取っている。
「良樹くん」
「……はい」
「クラリス、と」
「クラリス……さん」
「さん、は不要です」
「難しいんだよ」
「難しくありません」
「先ほど、信じると言ってくださいました」
「それとこれとは」
「同じです」
「同じなのか」
「私にとっては」
良樹は、しばらく黙った。
クラリスは待っていた。
急かさない。
でも逃がさない。
柔らかく、清楚に、距離を詰めてくる。
良樹は息を吐いた。
怖い技術を受けた。
壊さないと信じた。
クラリスは、本当に壊さなかった。
その手を、今も取られている。
なら。
「……クラリス」
名前が、思ったより自然に出た。
クラリスの目が、ほんの少しだけ見開かれた。
それから、ゆっくりと微笑む。
「はい、良樹くん」
良樹は、また何かの主幹を入れてしまった気がした。
だが、今度は止めなかった。
◇
その後、二人はもう少しだけ練習を続けた。
魔導レーザーの味方透過は、まだ安定しない。
クラリスの手なら通せる。
腕も、ゆっくりなら通せる。
だが、動きながらでは揺れる。
距離が離れると崩れる。
クラリスの補助がないと、すぐ表面で返る。
実戦投入にはまだ遠い。
それでも、良樹にとっては十分だった。
できることが増えたのではない。
見方が変わった。
センサーは、拾うだけではない。
拾わない条件を作る。
手前で返さない。
通して、奥で返す。
面で見えるのは、反応の表面だ。
その奥は、まだ見えない。
敵味方も、危険度も、盤だけでは判断できない。
だから、全部を機械任せにはできない。
ただし、味方の魔力で面が潰れる問題は、少しだけ減らせる。
クラリスの透勁を知ったことで、良樹の魔導レーザーは一つだけ奥へ進んだ。
良樹は魔導盤を閉じた。
「今日はここまでだな」
「はい」
クラリスは頷いた。
「無理に続けると、良樹くんの手首が疲れます」
「分かるのか」
「分かります」
「怖いな」
「身体を見るのが私の役目ですから」
「便利な言葉だな、それ」
「はい。便利です」
良樹は苦笑した。
「クラリス」
「はい」
「助かった」
クラリスは、また少しだけ目を見開いた。
呼ばれた名前を、確かめるように。
「どういたしまして、良樹くん」
良樹は胸の奥で、存在しないブレーカーを探した。
やはり見つからなかった。
クラリスは、そんな良樹を見て、穏やかに微笑む。
「良樹くん」
「何だ」
「もう一度だけ、練習しましょうか」
「今日はもういい」
「ブレーカーが落ちる」
「魔導レーザーのですか?」
「俺のだ」
「では、少し休みましょう」
クラリスは、清楚に微笑んだ。
「大丈夫です」
「壊さずに、休ませますから」
「言い方が怖えよ」
良樹はそう言って、空を見上げた。
昨日は、リシアの風が、良樹の危険な出力を安全側へ逃がした。
今日は、クラリスの透勁が、良樹の魔導レーザーを奥へ通した。
どちらも、完成ではない。
どちらも、まだ実戦でそのまま使えるわけではない。
だが、一つずつ進んでいる。
見るもの。
見ないもの。
通すもの。
返すもの。
拾うもの。
拾わないもの。
良樹の魔導盤は、少しずつ、一人の盤ではなくなっていた。
そのことを、良樹はまだうまく言葉にできなかった。
ただ、クラリスに右手を取られたまま、ひとつだけ分かった。
面で見えても、分からないものがある。
近くに見えても、奥に隠れるものがある。
自分だけでは、見えない場所がある。
見えていない場所は、安全ではない。
未確認だ。
そして、自分には見えない場所を、見てくれる人がいる。
その事実は、良樹の魔導盤にとっても。
良樹自身にとっても。
少し危険で、少し心強い更新だった。




