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第13話 好きな場所に座る勇気(挿絵有)

 翌朝。


 宿の食堂は、いつも通り騒がしかった。


 焼いたパンの匂い。

 薄いスープの湯気。

 冒険者たちの笑い声。

 皿が置かれる音。

 椅子を引く音。


 その中で、良樹は木の匙を持ったまま、少しだけ考え込んでいた。


 昨日、クラリスと確認した魔導レーザーのことだ。


 線を回せば、面になる。


 一本の魔導レーザーでは、一方向しか見えない。

 それを魔導モーターで回せば、角度ごとに魔力反応を拾える。

 周囲の距離を、面のように見ることができる。


 レーザースキャナ。

 良樹の感覚では、LiDARに近い。


 だが、問題はまだ残っている。


 面で見えるだけでは足りない。


 味方の反応が手前で返れば、その奥は見えない。

 敵味方の区別も、危険度も、生の距離だけでは分からない。


 クラリスは、そこに一つの答えをくれた。


 表面で返さず、奥へ通す。


 味方の魔力反応で止まらず、その奥を見る。

 通してよい相手だけ、通す。

 知らない相手は、安全側として表面で返す。


 検知とは、拾うだけではない。

 拾わない設計も要る。


 そこまでは、見えた。


 だが、まだ足りない。


 そもそも、回すとは何だ。


 センサーをただ一定速度で回せばよいのか。

 全部の角度を同じ速さでなめればよいのか。

 危険な方向を、一瞬で通り過ぎてよいのか。

 見たい方向で止まれなければ、それは見たと言えるのか。


 良樹は、木の匙を置いた。


「……回すだけじゃ、駄目だな」


 小さく呟く。


 その声に、向かいのリシアが反応した。


「また朝から変なこと考えてるわね」


「変ではない」


「良樹が朝食中に匙を止めてる時は、だいたい変なことよ」


「偏見だろ」


「実績よ」


 リシアは即答した。


 隣では、クラリスが穏やかに微笑んでいる。


「昨日の魔導レーザーの続きですか?」


「ああ」


 良樹は頷いた。


「線を回すところだ。回せば面になる。でも、ただ等速で回しても使いにくい気がしてる」


「等速?」


「ずっと同じ速さで回すってことだ」


「それでは駄目なの?」


 リシアが聞く。


「実験ならいい。周囲をざっくり見るだけなら、それでもいい」

「でも実戦だと、たぶん足りない」


「どうしてですか?」


 クラリスが首を傾げる。


 良樹は、指先で卓の上に小さな円を描いた。


「たとえば、正面に敵がいる」

「右側に味方がいる」

「左後ろは死角になりやすい」

「全部を同じ速さで見ると、正面も、右も、左後ろも同じ扱いになる」


「駄目なの?」


「駄目とまでは言わない」

「でも、危ない方向は長めに見たい」

「味方が前に出ている方向は、奥も確認したい」

「死角になりやすい方向は、通り過ぎたくない」


 良樹は円の一部を指で押さえた。


「ここで止まれる必要がある」

「少なくとも、減速はしたい」

「危ないところを高速で通り過ぎたら、見てないのと変わらん」


「良樹らしいわね」


 リシアが少しだけ笑う。


「何がだ」


「動かす話をしているのに、すぐ止まる話になるところ」


「止まれないものは危ない」


「ほら」


 リシアは呆れたように笑った。


 その横で、カレンが両手で杯を持ったまま、じっと良樹を見ていた。


 カレンは昨夜から、どこか落ち着かなかった。


 昨日は、クラリスが良樹を「良樹くん」と呼んだ。

 そして良樹は、最後に「クラリス」と呼んだ。


 リシアさんは、良樹さんの隣にいる。

 クラリスさんは、良樹くんと呼ぶようになった。


 自分は。


 自分は、どこへ行きたいのだろう。


 前。


 その言葉が、胸の奥にあった。


 良樹さんの前。


 怖い。

 とても怖い。


 けれど、そこに立ちたい。


「カレン」


 突然名前を呼ばれ、カレンは肩を跳ねさせた。


「は、はいっ」


 良樹がこちらを見ていた。


 真正面から。


 カレンは、思わず杯を置いた。


「カレン」


「はい」


「付き合ってくれ」


 食堂の空気が、止まった。


 いや、食堂全体が止まったわけではない。

 周囲の冒険者たちは普通に飯を食べ、普通に喋っている。


 止まったのは、この卓だけだった。


 リシアの匙が、ぴたりと止まる。


 クラリスの微笑みが、ほんの少しだけ深くなる。


 カレンは、完全に固まっていた。


「……え」


 小さな声が漏れた。


 良樹は、その反応を見てから、一拍遅れて自分の言葉を聞いた。


「……違う」


 リシアの目が細くなる。


「良樹」


「違う。いや、違わねえが、そういう意味じゃない」


「あなた、また言ったわね」


「今回は先に気づいた」


「気づいてから言いなさい!」


「遅かった」


「遅いのよ!」


 クラリスは口元に手を添えた。


「良樹くん。何に付き合っていただきたいのですか?」


「剣の稽古だ」

「正確には、剣そのものより、動き方を見たい」


 良樹は、カレンに向き直った。


「俺は剣士になるつもりはない」

「剣で前に出るつもりもねえ」

「だが、何が危ないかは知っておきたい」


 カレンは、胸元で両手を握った。


「あ、あの……剣、ですか」


「ああ」

「それと、回りながら敵を捉える感覚だ」


「回りながら……」


「魔導レーザーを回す」

「線を回せば、面にはなる」

「でも、ただ回せばいいって話じゃない」

「回っている間に、何を見て、どこで止まって、どこへ戻るのか」

「それが分からねえ」


 良樹の声は、完全に技術の話だった。


 カレンには分かる。


 良樹は本気で魔導盤の改善を考えている。

 恋愛のつもりで言ったわけではない。

 確認期間だから浮かれているわけでもない。


 けれど。


 それでも。


 良樹が、自分を必要としてくれている。


「リシアには、蒸気破裂の風を見せてもらった」

「クラリスさんには、魔導レーザーを奥へ通す感覚を教えてもらった」

「なら、カレンにも聞かなきゃおかしいだろ」


 カレンの表情が、少しだけ曇った。


「……ぎ、義務感からですか」


 声が小さく落ちる。


 リシアとクラリスが、同時に良樹を見た。


 良樹は固まった。


「あ」


 今度は、はっきり分かった。


 言い方を間違えた。


 平等に扱う。

 三人とも、ちゃんと見る。

 そのつもりだった。


 だが、今の言い方では違う。


 リシアに言ったから。

 クラリスにも言ったから。

 だからカレンにも。


 それでは、カレンは順番で呼ばれたように聞こえる。


 良樹は、匙を置いた。


「違う」


 カレンは、うつむいたまま少しだけ肩を揺らした。


「違うんだ、カレン」


「……はい」


「平等にしたいと思ったのは本当だ」

「リシアにも、クラリスさんにも頼んだ」

「だから、カレンにも頼むべきだと思った」

「それは嘘じゃない」


 良樹は一度、言葉を切った。


 それから、まっすぐカレンを見た。


「でも、それだけじゃねえ」


 カレンが、おそるおそる顔を上げる。


 良樹は、その目を見る。


 怖がっている目。

 迷っている目。

 けれど、危ない場所から逃げていない目。


「カレン」


「……はい」


「こっちを見てくれ」


 カレンは、完全に顔を上げた。


「俺は、回転しながら敵を見失わない感覚が知りたい」

「剣先が回っても、身体が流れない」

「相手を見失わない」

「戻る足を残す」

「危ない方向を、怖いからこそ見る」


 良樹は、ゆっくり言った。


「それを聞くなら、カレンだと思った」


 カレンの指が、胸元で強く握られる。


「怖い場所を見ているのは、カレンだ」

「怖がるから駄目なんじゃない」

「怖い場所を見失わないから、聞きたい」


 リシアの指が、木の匙をぎり、と鳴らした。


 クラリスの微笑みが、より清楚になった。

 清楚になったが、目は笑っていなかった。


 良樹は、それに気づかず続ける。


「だから、改めて言う」


 一拍。


「カレン、付き合ってくれ」


 今度こそ、食堂の空気が軋んだ。


 リシアが低く呟く。


「……言い直したわね」


 クラリスが穏やかに頷く。


「はい。とても丁寧に」


「丁寧に言い直すと破壊力が上がるの、何なのかしら」


「良樹くんらしい事故ですね」


「事故で済ませないで」


 カレンは真っ赤になっていた。


 耳まで赤い。

 目も潤んでいる。

 だが、先ほどのようにしょんぼりしてはいない。


「あ、あの……私で、いいんですか」


「お前がいい」


 リシアの匙が、また鳴った。


 クラリスが静かに微笑む。


「お前がいい、ですか」


「クラリスさん、復唱しないで」


「大切な確認です」


「知ってるわよ!」


 カレンは、しばらく何も言えなかった。


 良樹さんが、自分を必要としてくれた。

 順番だからではなく。

 義務だからではなく。


 怖い場所を見ている自分を。


 それを、役に立つと言ってくれた。


「……分かりました」


 カレンは、小さく頷いた。


「私でよければ」

「いえ」


 そこで、一度言い直す。


「私が、やります」


 リシアとクラリスが、ほんの少し目を開いた。


 カレン自身も驚いていた。


 でも、言えた。


 怖い。

 けれど、言えた。


「一時間後に、練武場でお願いします」


「一時間後?」


 良樹は首を傾げた。


「俺は今からでもいいんだが」


「だ、駄目です」


 カレンは、思ったよりはっきりと言った。


 良樹が目を瞬かせる。


 リシアとクラリスも、少しだけ動きを止めた。


「駄目なのか」


「駄目です」


 カレンは胸元で両手を握った。

 顔は赤い。

 声も少し震えている。


 それでも、引かなかった。


「準備が、要ります」


「剣の稽古だろ?」


「剣の稽古だからです」


「木剣なら練武場にあると思うが」


「木剣だけではありません」


「防具か?」


「それも、あります」


「他にもあるのか」


「あります」


「何が」


「……準備です」


「だから何の」


「準備は、準備です」


 良樹は、少し考えた。


 分からない。


 だが、カレンは譲っていない。

 怖がりながら、それでも必要だと言っている。


 なら、理由はあるのだろう。


「分かった」


 良樹は頷いた。


「一時間後だ」


「はい」


「装備確認、ちゃんとしてこい」

「回る動きを見るなら、引っかかるものがないかも大事だしな」


「はい」


 カレンは、妙に真剣な顔で頷いた。


「ちゃんと、してきます」


 リシアが小さく息を吐いた。


「……ちゃんと、ね」


 クラリスは、穏やかに微笑む。


「はい」

「ちゃんと、準備するそうです」


 良樹だけが、その言葉の危険度を分かっていなかった。


   ◇


 カレンは食堂を出ると、少し早足で部屋へ戻った。


 扉を閉めた瞬間、背中を扉に預ける。


 心臓がうるさい。


「……言えました」


 小さく呟く。


 私が、やります。


 自分で言った。

 逃げなかった。


 良樹さんが、自分を必要としてくれた。

 怖い場所を見る力を、必要だと言ってくれた。


 なら、ちゃんとしなければならない。


 カレンは、衣装箱を開けた。


 訓練用の上着。

 軽い革の胸当て。

 腰に巻く革帯。

 木剣を吊るための紐。

 動きやすいスカート。


 剣の稽古だ。

 回転しながら敵を捉える感覚を見せる。

 足運び。

 腰。

 肩。

 視線。

 剣先。


 良樹さんに、見てもらう。


 そう思った瞬間、顔が熱くなった。


「ち、違います」


 誰に向けてか分からない言い訳が、口から出た。


「これは、訓練です」

「剣の稽古です」

「装備確認です」


 カレンは、訓練用のスカートを手に取った。


 普段より動きやすい。

 踏み込みやすい。

 足が引っかかりにくい。


 ただし、少し短い。


 回れば、揺れる。

 踏み込めば、跳ねる。

 身体を捌けば、布は遅れてついてくる。


 それは分かっている。


 だからこそ、確認しなければならない。


「服がどう動くかも、大事です」


 声が小さい。


「装備の挙動確認です」


 さらに小さい。


「……必要な確認です」


 カレンは、そっと下着の入った小箱を開けた。


 淡い緑。

 白。

 薄い桃色。

 水色。


 指が、迷う。


 派手すぎるものは無理。

 地味すぎると、少しだけ寂しい。

 動いても変ではなくて。

 でも、もし見えてしまった時に、恥ずかしいだけでは終わらないもの。


 良樹さんに見られたいわけではない。


 そう思う。


 けれど。


 剣士だ。

 動けば、服も揺れる。

 踏み込めば、裾も跳ねる。

 回れば、布は外へ広がる。


 それは、仕方のないことだ。


 だから、もし見えてしまうなら。

 もし、良樹さんの目に入ってしまうなら。


 変ではないものがいい。

 ちゃんとしていると思われるものがいい。


 だから、仕方ない。


 仕方ない、よね?


 カレンは、そう自分に言い聞かせながら、最後に水色を手に取った。


 水色。


 派手ではない。

 けれど、何も選んでいない色でもない。


 カレンは、それを両手で持ったまま、しばらく動けなかった。


   ◇


 しばらくして、カレンは部屋を出た。


 訓練用の上着。

 軽い革の胸当て。

 腰には木剣。

 動きやすいスカート。


 本人は、普通にしているつもりだった。


 けれど、歩幅がいつもより少し小さい。

 背筋も、いつもより意識して伸びている。

 耳はまだ赤い。


 練武場へ向かう途中、廊下の端に古い姿見があった。


 宿の備品だ。

 少し歪んではいるが、身だしなみを見るには十分な大きさがある。


 カレンは周囲を見た。


 誰もいない。


 そう思った。


 だから、姿見の前で立ち止まった。


 胸当てを直す。

 上着の襟を整える。

 袖を引く。

 腰の木剣の位置を確認する。


 そこまでは、完全に装備確認だった。


 問題は、その次だった。


 カレンは、スカートの腰紐にそっと触れた。


 ほんの少し。


 本当に、ほんの少しだけ。


 布の位置を上げる。


 丈が、短くなる。


「……準備」


 廊下の角で、リシアが低く呟いた。


 隣に立つクラリスが、穏やかに微笑む。


「していますね」


 二人は、偶然そこにいた。


 いや、偶然という名の必然だった。


 カレンが一時間後と言った時点で、二人とも分かっていた。

 何かを準備する。

 そしてそれは、単なる剣の準備だけではない。


 だから、少し離れて様子を見に来た。


 そして、見てしまった。


 カレンは、姿見の中の自分を真剣に見ている。


 裾を少し下げる。

 また、ほんの少し上げる。

 横を向く。

 顔を赤くする。

 両手で頬を押さえる。


 けれど、戻さない。


「……変、ではないですよね」


 小さな声だった。


「剣の稽古です」

「回る動きも、見てもらうんです」

「だから、服がどう動くかも……確認、しないと」


 リシアは片手で額を押さえた。


「言い訳してるわね」


「はい」


「でも、戻さないわね」


「はい」


「強いわね、あの子」


「はい。とても」


 クラリスは静かに頷いた。


 カレンは色気で勝とうとしているのではない。

 少なくとも、本人にその自覚は薄い。


 ただ、見られるかもしれない自分を、自分で整えている。

 良樹に見てもらうなら、中途半端では嫌なのだ。


 それは、カレンにとって勇気だった。


「止める?」


 クラリスが静かに聞いた。


 リシアは、しばらく黙った。


 止める理由なら、いくらでもある。


 危ない。

 短い。

 良樹が処理落ちする。

 確認期間が事故る。

 間違いなく、何かが起きる。


 だが。


 自分は、良樹と二人で訓練場へ行った。

 蒸気破裂のカイゼンをした。

 そして、見られた。


 クラリスも、良樹くんと呼び、二人で練武場へ行った。

 手を取り、身体を寄せ、呼び捨てまで要求した。


 なら。


「止めないわ」


 リシアは言った。


「今日は、カレンの番でしょ」


 クラリスは、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。


「はい」

「カレンさんの番です」


 その時、カレンが最後に鏡の中の自分を見つめた。


「良樹さん……気づいてくれるでしょうか」


 その声が、廊下の角まで届いた。


 リシアの指が、壁をぎり、と掴んだ。


「……気づいてくれるでしょうか、ですって」


「はい」


「気づかれたら恥ずかしい、じゃなくて?」


「気づいてくれるでしょうか、でしたね」


「強い」


「強いですね」


 二人の意見は、一致した。


 カレンは何も知らず、木剣の位置を直してから、練武場へ向かって歩き出した。


 リシアとクラリスは、少し距離を置いてその背を見送る。


「抜け駆けではない」


 リシアが低く言った。


「はい」


 クラリスは微笑んだ。


「正当な確認活動です」


「でも、監視は必要ね」


「同感です」


「行くわよ、クラリスさん」


「はい」

「清楚に見守りましょう」


「清楚に見守るって何?」


「邪魔はしない、という意味です」


「本当に?」


「たぶん」


「たぶんって言ったわね」


 二人は、カレンに気づかれない距離を保って歩き出した。


   ◇


 練武場は、昼前の光で少し白く見えた。


 踏み固められた土の床。

 壁に掛けられた木剣。

 古びた人型の的。

 隅には水桶と、休憩用の長椅子。


 良樹は、すでに来ていた。


 腰袋を身につけたまま、壁に掛けられた木剣を眺めている。


 カレンが近づくと、良樹は振り返った。


「来たか」


「はい」


 カレンは小さく頷いた。


 良樹の視線が、一瞬だけ止まる。


 訓練用の上着。

 胸当て。

 木剣。

 そして、いつもよりほんの少しだけ短く見えるスカート。


 良樹は、すぐに視線を木剣へ戻した。


 速かった。


 速かったが、カレンには分かった。


 気づいた。


 カレンの耳が熱くなる。


「装備確認は済んだか」


「はい」


「動きにくいところは?」


「ありません」


「引っかかるものは?」


「大丈夫です」


「ならいい」


 良樹は木剣を一本取り、重さを確かめた。


「……重いな」


「訓練用なので、実戦用より少し重めです」


「なるほど。現場の練習用工具みたいなもんか」


「こうぐ?」


「こっちの話だ」


 良樹は木剣を構える。


 当然、ぎこちない。


 カレンはその姿を見て、少しだけ表情を柔らかくした。


「今日は、良樹さんに剣で勝つ方法を教えるわけではありません」


「ああ」

「俺も勝てるとは思ってねえ」


「剣士になるためでもありません」


「分かってる」

「俺が知りたいのは、危ない形だ」


 カレンは頷いた。


「はい」

「それと、回りながら敵を捉える感覚、ですよね」


「そうだ」


 良樹の目が、技術者の目になる。


「魔導レーザーを回す時に、同じ速度で全部見るだけじゃ足りない気がしてる」

「危ない方向を見失わない」

「必要なら止まる」

「戻れる位置を残す」

「それが知りたい」


 カレンは、胸元で一度だけ手を握った。


 怖い。


 見られる。

 自分の動きも。

 足も。

 腰も。

 回る時の身体も。


 それでも、見てほしい。


「分かりました」


 カレンは木剣を抜いた。


「まず、見てください」


「見る」


「剣先だけではなく」

「足と、腰と、目も」


「分かった」


 カレンは、練武場の中央へ進んだ。


 リシアとクラリスは、入口近くの壁際に立っている。

 邪魔をしない距離。

 だが、見える位置。


 カレンはそれに気づいた。


 二人は、止めない。

 邪魔もしない。


 ただ、見ている。


 それが少し怖くて。

 でも、少し心強かった。


 カレンは、木剣を構えた。


 さっきまでのおどおどした空気が、ほんの少し変わる。


 怖がりのままだ。

 呼吸は浅い。

 指先にも少し力が入っている。


 けれど、足は迷っていなかった。


「行きます」


「ああ」


 一歩。


 カレンの右足が前へ出た。


 木剣が横へ流れる。

 身体が、それに合わせて回る。


 だが、流れない。


 剣先は円を描いている。

 肩も回る。

 腰も動く。


 けれど、足が全部持っていかれていない。


 前へ出たはずなのに、戻る足が残っている。

 右へ回ったはずなのに、左足が死んでいない。

 剣先は動いているのに、カレンの目は一点を見失っていない。


 良樹は、息を止めた。


「……速いな」


「速く、していません」


 カレンは小さく首を振った。


「速く回ると、怖いところを見落とします」

「だから、怖いところでは、少しだけ遅くします」


 良樹の眉が動いた。


「怖いところでは、遅くするのか」


「はい」


 カレンは、もう一度構え直した。


「怖いから、早く抜けたくなります」

「でも、見ないまま抜けると、もっと怖いです」

「敵の剣先」

「肩」

「足」

「それと、自分が戻る場所」

「そこは、見ないと駄目です」


 もう一度、カレンが動く。


 今度は、少し角度を変える。


 踏み込む。

 回る。

 剣先が弧を描く。

 身体が外へ逃げようとする。


 だが、逃げない。


 外へ膨らむ力を、腰と足で受けている。

 最初から、行かせすぎないようにしている。


 良樹の中で、魔導レーザーセンサーの回転線が重なった。


 一定速度で回す。

 それだけでは駄目だ。


 危険方向で減速する。

 確認したい角度で止まる。

 外へ逃げる力を行かせすぎない。

 停止時の行き過ぎを見込む。

 戻る基準位置を持つ。


 回転にも、戻る足がいる。


「……等速回転じゃ駄目か」


「え?」


「いや、こっちの話だ」


 カレンは、木剣を下ろさずに続ける。


「良樹さん」

「回る時は、全部回らないでください」


「全部回らない?」


「はい」

「身体を全部流してしまうと、止まれません」

「剣先は回っても、足は戻れる場所に残します」


「センサーも同じか」


「せんさー、ですか?」


「いや」

「回るものを、全部同じように流したら止まれないって話だ」


「はい」

「たぶん、そうです」


 カレンは少しだけ考え、言葉を探した。


「回る前に、終わる場所を決めます」

「止まる場所を決めずに回ると、剣に引っ張られます」

「腕だけで回すと、外へ持っていかれます」

「腰が流れて、足が遅れて、戻れません」


「外へ持っていかれる……」


 良樹は低く呟いた。


 遠心力。


 回転すれば、外へ逃げる。

 速く回せば、強く逃げる。

 止めようとすれば、遅れて暴れる。


 魔導レーザーセンサーも同じだ。


 回転軸。

 加速。

 減速。

 停止位置。

 行き過ぎ。

 戻し。


 回った。

 見えた。

 便利になった。


 それで終わるなら、ただの素人だ。


 回るなら、止め方まで見ろ。


 父の声が、頭の奥で鳴った気がした。


 動かすだけなら猿でもできる。

 止められて初めて設計だ。


「……止める前に、行かせすぎないのか」


「はい」


 カレンは頷いた。


「強く振ってから止めると、遅れます」

「だから、戻れる分だけ振ります」


「急停止じゃなくて、加速制限だな」


「すみません、難しい言葉は分かりません」


「悪い」

「でも、分かった」

「今の、かなり大事だ」


 カレンの顔が、少しだけ明るくなる。


「お役に立てそうですか」


「ああ」


 良樹ははっきり頷いた。


「かなり助かる」


 その一言で、カレンの胸の奥が熱くなった。


 怖い。

 恥ずかしい。

 でも、嬉しい。


 良樹さんの役に立てている。


「では、今度は良樹さんも」


「俺もか」


「はい」

「動かないと、分からないと思います」


「だろうな」


 良樹は木剣を握り直した。


 剣士になるつもりはない。

 だが、動かないと分からないことがある。


 良樹は一歩前へ出る。


 ぎこちない。


 カレンは近づいた。


「す、すみません。少し触ります」


「ああ。頼む」


 カレンの指が、良樹の肘に触れた。


 震えている。


 だが、直す場所は正確だった。


「ここです」

「肘を上げすぎると、剣先に持っていかれます」


「こうか」


「はい」

「それから、腰はもう少しこちらです」


 カレンの手が、良樹の腰の横へ近づく。


 一瞬、ためらう。


 けれど、触れた。


 良樹は動かない。

 茶化さない。

 急かさない。


 カレンは、ほんの少しだけ息を吐いた。


「ここまで回ると、戻れません」

「半歩、残してください」


「半歩」


「はい」

「良樹さんは、前に出たいわけじゃなくて、危ない形を知りたいんですよね」


「ああ」


「だったら、戻れない形を覚えない方がいいです」


 良樹は、少しだけ目を細めた。


「……お前、俺が何を知りたいか分かってるんだな」


「た、多分ですけど」


 カレンは小さく頷いた。


「良樹さんは、剣で勝ちたいんじゃなくて」

「剣を持った人が、どこで危なくなるかを知りたいんだと思いました」


 良樹は、何も言わなかった。


 怖がり。

 おどおどしている。

 声が小さい。


 だが、カレンは見ている。


 相手の足。

 戻る場所。

 危ない形。

 止まれなくなる角度。


 怖いから見えている。

 怖いから、止まる場所を残している。


 それは弱さではない。


 前に出るための、安全設計だった。


「もう一回、見せてくれ」


「はい」


 カレンは、少し離れた。


 木剣を構える。


 そして、回った。


 剣先が円を描く。

 身体が半歩進む。

 腰が外へ逃げる直前で戻る。

 足が残る。

 目が、良樹の置いた仮想の敵を捉え続ける。


 その動きは、美しかった。


 そして。


 回転する身体に、布もまた遅れてついてきた。


 軽い訓練用のスカートが、遠心力でふわりと広がる。


 ふわり。


 では、済まなかった。


 回転に合わせて、布が外へ逃げる。

 良樹は、カレンの足を見ていた。

 腰を見ていた。

 戻る足を見ていた。


 そして、当然のように。


 見えた。


「……」


「……あ」


 カレンも気づいた。


 身体が止まる。


 木剣の先が、空中で小さく震えた。


 良樹は、ゆっくりと視線を逸らした。


 入口近くで、リシアが壁を掴んだ音がした。


 クラリスは口元に手を添え、穏やかに微笑んでいた。


 微笑んでいたが、目が完全に状況を記録していた。


 カレンの顔が、耳まで赤くなる。


「……見え、ましたか」


 声は、消えそうに小さい。


 良樹は一拍置いた。


「……回転時の服の挙動は見えた」


「そ、そういう言い方、ずるいです……」


「悪い」


「いえ……」

「その、見てほしかったのは、足の戻し方で……」

「でも、服も、動くので……」


「……そうだな」

「装備の挙動も、確認対象だ」


「はい……」

「確認、対象です……」


 カレンは、真っ赤なままスカートを押さえた。


 良樹は、魔導盤を出していないにもかかわらず、頭の中で異常履歴が点灯した気がした。


 回転時、布が外へ逃げる。

 装備確認必要。

 視線管理必要。

 尊厳保護インターロック、再発防止未了。


 リシアが低く呟いた。


「……またログが増えたわね」


 クラリスが穏やかに頷く。


「はい」

「確認期間における重要な記録です」


「記録しなくていいのよ」


「ですが、良樹くんは覚えていると思います」


「でしょうね!」


 良樹は、天井の梁を見上げた。


 主幹はない。

 落とせない。


 だが、カレンは逃げなかった。


 顔を真っ赤にして。

 スカートを押さえて。

 それでも、木剣を握り直した。


「……続けられるか」


 良樹は聞いた。


 声は、少しだけ硬かった。


「つ、続けます」


「無理なら止める」


「大丈夫です」

「恥ずかしいだけなので……」


「それは大丈夫なのか」


「大丈夫じゃないです」

「でも、続けます」


 カレンは、良樹を見た。


 怖い。

 恥ずかしい。

 逃げたい。


 でも、ここで逃げたくない。


 良樹さんに、ちゃんと見てもらうと決めた。


「良樹さん」


「何だ」


「もう一度、見てください」


 リシアの指が、また壁を鳴らした。


 クラリスが静かに微笑む。


 良樹は、深く息を吐いた。


「ああ」


 目を逸らさず、ただし見る場所を間違えないように。


 足。

 腰。

 剣先。

 視線。

 戻る道。


 そして、回転で外へ逃げるもの。


 それら全部を、事故にしないために。


 良樹は、カレンを見る。


「見る」


 カレンは、小さく頷いた。


 怖いまま。


 前へ出た。


   ◇


 その後の稽古は、思ったより長く続いた。


 カレンは、もう一度回った。


 今度は、良樹も見る場所を決めていた。


 剣先。

 肩。

 腰。

 膝。

 足。

 戻る場所。


 そして、回転で外へ逃げるもの。


 見ないふりをしても、事故は消えない。

 見えてしまうものがあるなら、それも条件に入れなければならない。


 ただし、見る場所を間違えてはいけない。


 カレンは何度も動きを見せた。


 踏み込む。

 止まる。

 半歩戻る。

 身体を回す。

 剣先を流す。

 けれど、目は敵を捉え続ける。


 良樹も、それを真似した。


 当然、上手くはいかない。


 剣先に引っ張られる。

 肩に力が入る。

 腰が遅れる。

 足が戻らない。


 そのたびに、カレンが近づいた。


「す、すみません。ここ、少しだけ」


「ああ」


 肘。

 肩。

 腰。

 膝。

 足の向き。


 カレンの指は震えていた。

 けれど、直す場所は正確だった。


「そこまで回ると、戻れません」

「剣先は動いても、足は残してください」

「怖いところは、通り過ぎないでください」

「見てから、戻ってください」


 良樹は、その言葉を一つずつ魔導盤の中へ落とし込んでいった。


 危険方向で減速。

 確認角度で一時停止。

 回転軸の振れ抑制。

 行き過ぎ防止。

 基準位置への戻り。


 回転にも、戻る足が要る。


 カレンの剣は、良樹の中で少しずつ制御へ変わっていった。


 だが、身体は正直だった。


 一時間も経たないうちに、良樹は壁際へ歩き、木剣を下ろした。


「……無理だ」


 そのまま壁にもたれ、ずるずると床へ座り込む。


 足が重い。

 肩が張る。

 手首も痛い。

 普段使わない筋肉が、まとめて異常表示を出している。


「剣士って、すげえな」


 素直な感想だった。


 カレンは木剣を胸の前で抱え、少し離れたところに立っていた。


「良樹さんは、初めてなのにちゃんと動けていました」


「褒め方が優しいな」


「本当です」

「危ない時に、止まろうとしていました」


「止まる方かよ」


「はい」


 カレンは小さく笑った。


「良樹さんらしいです」


「それ、最近よく言われるな」


 良樹は息を吐いた。


 心臓の音が少しずつ落ち着いていく。


 カレンも、軽く息を整えていた。


 良樹ほど疲れているわけではない。

 だが、一時間近く動けば汗もかく。

 頬も赤い。

 額に少し髪が張りついている。


 カレンは、しばらく迷うように立っていた。


 それから、ゆっくり近づいてくる。


「あ、あの……」


「何だ」


「私も、座っていいですか?」


 良樹は壁にもたれたまま、少し不思議そうに顔を上げた。


「そんなの断りなしに、好きな所に座ればいいだろ」


 カレンの肩が、ぴくりと揺れた。


「好きなところ……」


 小さく、繰り返す。


 良樹は気づかない。


 気づいていない。


 少なくとも、その言葉がカレンの中でどんな意味を持ったのかは、分かっていない。


「良樹さん」


「ん?」


「本当に、好きなところに座ってもいいんですか?」


「良いも悪いもねえよ。好きな所に座れって」


 カレンは、胸元で両手を握った。


 耳が赤い。

 頬も赤い。

 目が泳いでいる。


 怖い。


 怖い。

 怖い。

 怖い。


 変に思われたらどうしよう。

 近すぎると思われたらどうしよう。

 嫌がられたらどうしよう。

 面倒な子だと思われたらどうしよう。


 でも。


 良樹さんは言った。


 好きな所に座れ、と。


 良樹さんは、じっくり見ると言った。

 確認していくと言った。


 なら。


 私も、少しだけ。


 ほんの少しだけ。


 見てほしい。


 カレンは、なけなしの勇気を振り絞った。


「し、失礼します」


「おう」


 良樹はまだ、何も分かっていなかった。


 次の瞬間。


 カレンは、良樹の前に座った。


 いや。


 正確には。


 良樹が床に広げた足の間へ、すとんと腰を下ろした。


 良樹に背を向けて。


 膝を揃えて。

 木剣を横に置いて。

 両手を太ももの上に置いて。


 良樹は固まった。


「……」


「……」


 カレンも固まっていた。


 耳まで真っ赤だった。

 首筋も赤い。

 背中が、ほんの少し震えている。


 だが、動かない。


 逃げない。


 むしろ、ほんの少しだけ。


 後ろへ体重を預けた。


 良樹の膝の内側に、カレンの腰が触れる。

 背中が、良樹の胸元から少し離れた位置に来る。


 近い。


 近いなんてもんじゃない。


 良樹の頭の中で、複数の警報が鳴った。


 近接警報。

 接触警報。

 尊厳保護インターロック。

 確認期間。

 好きな所に座れ。


 今のは、俺が言った。


 全部、自分で言った。


 逃げ道がない。


「……カレン」


「は、はい」


「そこは」


「好きなところに、座っていいと……」


「言った」


「はい」


「言ったな」


「はい……」


 カレンの声は小さい。


 だが、退かない。


 良樹は天井を見た。


 いや、練武場なので天井は高い梁だ。


 梁がある。

 主幹はない。

 落とせない。


「……俺が悪いな」


「わ、悪くないです」


「いや、これは俺の言い方が悪い」


「違います」


 カレンは、ほんの少しだけ首を横に振った。


「私が、ここに座りたかったんです」


挿絵(By みてみん) 


 良樹の呼吸が止まった。


 カレンは、言った。

 言ってしまった。


 自分でも、信じられなかった。


 けれど、言えた。


 怖い。

 とても怖い。


 でも、ここに座りたかった。


 リシアさんは隣にいる。

 クラリスさんは良樹くんと呼んだ。

 なら私は。


 私は。


 良樹さんの前にいたい。


 背中を向けているのに。

 守られるような位置なのに。

 それでも、良樹さんの腕の中に近い場所。


 そこに、少しだけいたかった。


 良樹は、何も言えなかった。


 茶化せない。

 怒れない。

 動けとも言えない。


 カレンの背中は震えている。

 それでも、逃げていない。


 これは、カレンの勇気だ。


 そう分かってしまった。


「……嫌なら、言ってください」


 カレンが小さく言う。


「すぐ、どきます」


 良樹は息を吐いた。


 ゆっくりと。


「嫌じゃねえよ」


 カレンの肩が、びくりと揺れた。


「……本当ですか」


「ああ」


 良樹は視線を逸らしながら答えた。


「ただ、心臓に悪い」


「す、すみません」


「謝るな。嫌じゃねえって言っただろ」


「はい……」


 カレンは、少しだけ力を抜いた。


 ほんの少しだけ、背中が良樹に近づく。


 良樹は両手を宙に浮かせたまま固まっていた。


 置き場がない。


 肩に置くのは違う。

 腰は論外。

 床に置くと、それはそれで距離が近い。

 どうする。


 手の置き場が分からない。


 人生でここまで工具以外の置き場に困ったことがあっただろうか。


 たぶんない。


「良樹さん」


「何だ」


「少しだけ、このままでいいですか」


「……少しだけな」


「はい」


 カレンは、小さく笑った。


 背中越しなので、良樹には見えない。


 けれど、その声だけで分かった。


 怖がっている。

 恥ずかしがっている。

 それでも、嬉しそうだった。


 しばらく、そのままだった。


 カレンは良樹の脚の間に座り、背中を向けたまま小さく息を整えている。

 良樹は壁にもたれ、両手の置き場に困ったまま、天井の梁を見ていた。


 近い。


 近い。

 近いが、動けない。


 動けばカレンが傷つく気がした。

 動かなければ自分の心臓がもたない気がした。


 どちらにしても、設計条件が悪すぎる。


「良樹さん」


「……お、おう」


 カレンの声がした。


 背中越し。

 少し震えている。

 けれど、逃げていない声。


「今日は、何色でしたか」


 良樹の呼吸が止まった。


 入口の方で、何かが小さく軋んだ。


 たぶん、リシアが壁を掴んだ音だった。


 クラリスが、口元に手を添えたまま目を細める。


 良樹は、ゆっくりと目を閉じた。


 見ていない。


 そう言うことはできた。


 だが、それは嘘だった。


 稽古中、何度も見えた。

 見えてしまった。

 カレンが動くたびに、いつもより裾が揺れた。

 自分は視線を逸らした。

 だが、情報は入った。


 昨日、リシアに言った。

 予想通り痛かった。

 見ていた。

 分かっていた。


 嘘をつくのは違う。


 良樹は、絞り出すように言った。


「……水色」


 カレンの肩が、ぴくりと揺れた。


 一拍。


 それから、彼女の耳が、真っ赤になった。


「……はい」


 小さな返事だった。


 けれど、どこか嬉しそうだった。


 良樹は天井を見上げた。


「……今の確認、必要だったか?」


「はい」


 カレンは即答した。


 即答した自分に驚いたのか、少し背中が跳ねる。


「必要、でした」


「そうか」


「はい」


 良樹は、もう何も言えなかった。


 入口で、リシアが低く呟いた。


「水色……」


 クラリスが穏やかに頷く。


「確認材料ですね」


「確認材料にしないで」


「ですが、カレンさんは自分で確認しました」


「そこが強いのよ……!」


 リシアは額を押さえた。


 カレンは、良樹に背を向けたまま、膝の上で両手を握っていた。


 怖かった。

 死ぬほど恥ずかしかった。

 でも、聞けた。


 良樹さんは、答えてくれた。


 嘘をつかずに。


 それが嬉しかった。


「良樹さん」


「何だ」


「……ありがとうございます」


「何に対してだよ」


「ちゃんと、答えてくれて」


 良樹は、少しだけ黙った。


「嘘ついても仕方ねえだろ」


 カレンは、背中越しに小さく笑った。


「はい」


 その笑い声が、妙に近かった。


 良樹は胸の奥で、存在しない非常停止を探した。


 見つからなかった。


   ◇


 練武場の入口。


 リシアは、壁に手をついていた。


 クラリスは、隣で口元に手を添えている。


 二人とも、何も言わない。


 言えなかった。


 見てしまった。


 カレンが、良樹の脚の間に座った。


 背を向けて。

 真っ赤になって。

 それでも逃げずに。


 しかも良樹は拒まなかった。


 リシアは、ゆっくりと息を吸った。


「……クラリスさん」


「はい」


「これは、抜け駆け?」


「難しいですね」


 クラリスは穏やかに答えた。


「良樹くんが、好きなところに座っていいと言いました」


「そこなのよ」


「カレンさんは、その言葉に従っただけです」


「従い方が強すぎるのよ!」


 リシアは小声で叫んだ。


 クラリスは、少しだけ目を細める。


「カレンさん、勇気を出しましたね」


「分かってる」


 リシアは苦い顔で言った。


「分かってるのよ。だから邪魔できないのよ」


 カレンは怖がりだ。

 人との距離を詰めるのが苦手だ。

 嫌がられたらどうしようと、いつも考えている。


 そのカレンが、あそこに座った。


 それは確かに、勇気だった。


 だから、止められない。


 止められないが。


「……強い」


「はい」


 クラリスは微笑んだ。


「天然は、強いです」


「今回は天然だけじゃないわよ」


「そうですね」


 クラリスは、良樹とカレンを見た。


「勇気のある天然です」


「最悪じゃない」


「最強では?」


「言い直さないで」


 二人はしばらく、入口からその光景を見守った。


 不戦協定は破られていない。


 邪魔はしない。

 抜け駆けもしない。


 ただし、良樹に自分を知ってもらう努力は止めない。


 カレンは、確かに努力した。


 努力した結果、良樹の脚の間に収まっていた。


 リシアは、額を押さえた。


「確認期間、初日から濃すぎるでしょ」


「はい」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


「とても順調ですね」


「順調の意味を確認したいわ……」


 そこで、良樹がようやく入口の二人に気づいた。


「……お前ら、いつからいた」


 リシアは腕を組んでいた。

 クラリスは、いつものように清楚に微笑んでいた。


「さっきから」


「少し前からです」


「見てたのか」


「見てたわよ」


「見守っていました」


「言い方が違うだけで同じだろ」


 良樹はそう言いながらも、動けなかった。


 なぜなら、カレンがまだ足の間に座っていたからだ。


 カレンは背中を向けたまま、耳まで赤くしている。

 だが、動かない。

 ほんの少しだけ、良樹に背中を預けている。


 これはこれで、どうすればいいのか分からない。


 良樹が困っていると、リシアがつかつかと近づいてきた。


「良樹」


「何だ」


「カレンだけ、ずるい」


「ずるい?」


「ずるい」


 リシアはそう言うと、良樹の右側に腰を下ろした。


 壁にもたれて座る良樹の右隣。

 肩が触れそうな距離。


「おい」


「何よ」


「近い」


「カレンよりは近くないわ」


「比較対象がおかしい」


「おかしくないわよ」


 リシアは、少し赤い顔でそっぽを向いた。


「確認期間だもの」


「その言葉、万能工具みたいに使うな」


 すると、反対側からクラリスが静かに歩いてきた。


「では、私は左ですね」


「クラリスさん?」


「はい、良樹くん」


 クラリスはにこりと微笑み、良樹の左側へ座った。


 自然に。

 当然のように。

 距離も遠慮も置かずに。


「何してるんだ」


「身体確認です」


「腕を抱く必要あるか?」


「あります。けど」


 クラリスは、良樹の左腕を抱いたまま、にこりと微笑んだ。


「私は、クラリス、と呼び捨てにしてほしいとお願いしたはずですが」


「……今、その確認も入るのか」


「はい」


「身体確認と呼称確認を同時にするな」


「確認期間ですから」


「便利すぎるだろ、その言葉」


 クラリスは、良樹の左腕をほんの少しだけ抱き寄せた。


「では、もう一度」


「もう一度?」


「クラリス、と」


「……クラリスさん」


「さん、は不要です」


「難易度が高い」


「慣れれば大丈夫です」


「慣れていいのか?」


「はい」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


「私が許可します」


 右側で、リシアが低く言った。


「許可制なの、それ」


 カレンは良樹の脚の間で、背を向けたまま小さく呟く。


「クラリスさん、強いです……」


「ありがとうございます、カレンさん」


「褒めてるのかしら、それ」


 良樹は天井を見上げた。


 左腕はクラリスに抱かれている。

 右側からはリシアの視線が刺さっている。

 足の間にはカレンがいる。


 その状態で、呼び捨ての練習を要求されている。


 状況が悪い。

 あまりにも悪い。


「……クラリス」


 良樹は、観念して言った。


 クラリスの微笑みが、ほんの少しだけ深くなった。


「はい、良樹くん」


 リシアが息を呑んだ。


 カレンの肩がぴくりと揺れた。


 良樹は、自分がまた何かの主幹を入れてしまったことを察した。


「……今の、まずかったか?」


 リシアが即答した。


「まずいわよ」


 クラリスは穏やかに言う。


「いいえ。とても自然です」


「自然じゃないわよ!」


 カレンが小さく言った。


「で、でも……少し、いいなって思いました」


「カレンまで!?」


 リシアが右腕を抱く力を、ほんの少しだけ強めた。


「良樹」


「何だ」


「私も確認するわ」


「何を!?」


 リシアは良樹の右腕を取った。


 そして、負けじと抱きついた。


「リシア!?」


「何よ」


「お前まで何してるんだ!」


「魔力の流れを確認してるの」


「腕を抱く必要は!?」


「あるわ」


「ないだろ!」


「あるの!」


 リシアは顔を赤くしながら、しかし離さなかった。


 クラリスが左腕。

 リシアが右腕。


 良樹は両腕を完全に封じられた。


 その状態で、前にはカレンがいる。


 カレンは背中越しにその気配を感じた。


 右と左で、リシアとクラリスが良樹の腕を抱いている。


 自分は、良樹の脚の間に座っている。


 負けてはいない。


 負けてはいない、はず。


 けれど、何かが足りない気がした。


 カレンは耳まで赤くなったまま、小さく息を吸った。


 そして、ほんの少しだけ。


 後ろへ体重をかけた。


「っ」


 良樹の呼吸が止まった。


 カレンの背中が、良樹の身体へ近づく。

 完全に預けるほどではない。

 だが、明らかにさっきより近い。


「カレン」


「は、はい」


「今、何をした」


「す、少しだけ……休ませていただいています」


「休憩の姿勢じゃねえ」


「剣の稽古で、疲れました」


「俺より疲れてないだろ」


「疲れました」


 カレンは小さな声で言い切った。


 リシアが右腕を抱いたまま、低く呟く。


「カレン……強いわね」


 クラリスが左腕を抱いたまま、穏やかに頷く。


「はい。とても」


「お前らが言うな」


 良樹は天井を見上げた。


 右腕はリシア。

 左腕はクラリス。

 足の間にはカレン。


 両腕は動かない。

 前にも出られない。

 後ろは壁。


 完全拘束。


 しかも、敵意はない。

 むしろ好意しかない。


 だから余計に困る。


「……これは、何の状態だ」


 良樹が低く呟く。


 リシアが答える。


「確認」


 クラリスが続ける。


「身体確認です」


 カレンが小さく言う。


「休憩、です……」


「三者三様に嘘をつくな」


「嘘じゃないわよ」


「嘘ではありません」


「う、嘘では……ないです」


 良樹は目を閉じた。


 心拍が上がる。

 呼吸が浅くなる。

 肩に力が入る。


 クラリスが、左腕を抱いたまま言った。


「良樹くん。心拍が高いです」


「お前のせいだ」


「私だけではありません」


「それはそう」


 リシアが右腕を抱く力を、ほんの少しだけ強めた。


「良樹」


「何だ」


「嫌?」


 良樹は黙った。


 嫌か。


 嫌ではない。


 嫌なわけがない。


 だが、嫌ではないからこそ困っている。


「……嫌じゃねえよ」


 リシアの肩が、ぴくりと揺れた。


 クラリスが、柔らかく微笑む。


「そうですか」


 カレンが、前で小さく息を止める。


「……よかったです」


「ただし」


 良樹は、どうにか声を絞り出した。


「心臓に悪い」


 リシアが少しだけ笑った。


「それは、慣れて」


「慣れていいやつか?」


 クラリスが穏やかに言う。


「少しずつ慣れましょう」


「お前ら、俺を何に慣らそうとしてるんだ」


 カレンが、背中を向けたまま小さく言った。


「……私たち、ですか?」


 良樹は答えられなかった。


 右にリシア。

 左にクラリス。

 前にカレン。


 全部、近い。


 近すぎる。


 良樹は、存在しない逃げ道を探した。


 ない。


 どこにもない。


 右にリシア。

 左にクラリス。

 前にカレン。


 全部、近い。


 近すぎる。


 昨日、自分は何と言った。


 三人とも好きだ。

 じゃなきゃ、一緒にいない。

 でも、そういうのはもっとじっくりだ。

 ちゃんと見て、ちゃんと一緒にいて、それでも一緒にいたいか確認していく。


 確認。


 確認期間。


 今朝から、その確認が始まっている。


 リシアは隣で腕を抱いている。

 クラリスは良樹くんと呼びながら左腕を離さない。

 カレンは自分の脚の間で、背中を預けている。


 良樹は、ようやく理解した。


「……ひょっとして」


 小さく呟く。


「俺は、とんでもないことを口走ってしまったんじゃねえか」


 リシアが、右隣で少し笑った。


「今気づいたの?」


 クラリスが、左隣で穏やかに言う。


「確認は大事ですね、良樹くん」


 カレンが、前で小さく言う。


「私は……嬉しかったです」


 良樹は、さらに天井を見た。


 工場なら、作業前に危険予知をする。


 どこで挟まれるか。

 どこに巻き込まれるか。

 どの位置が危ないか。

 どの手順で事故るか。

 誰がどこに立つか。


 KYT。


 危険予知トレーニング。


 あれほど叩き込まれていたはずなのに。


 恋愛方面の危険予知は、完全に抜け落ちていた。


「KYTは……」


 良樹は、乾いた声で呟いた。


「どこに行った……」


 リシアが首を傾げた。


「また変な言葉が出たわね」


「危険予知だ」


「できてないじゃない」


「言うな」


 クラリスが、良樹の左腕を抱いたまま微笑む。


「では、今から確認していきましょう」


「その確認が怖えんだよ」


 カレンが、ほんの少しだけ後ろへ体重を預けながら言った。


「あ、あの……でも、今はまだ、終わりにしないでほしいです」


 良樹は目を閉じた。


 もう駄目だった。


 魔導盤の回転には、戻る足が入った。


 けれど、確認期間の方は違う。


 戻る場所どころか、まず今どこに立っているのかすら怪しい。


 そしてその中心で、良樹だけがようやく気づいた。


 これは、カイゼン活動ではない。


 いや、カイゼン活動でもある。


 ただし同時に。


 恋愛方面の、三方向同時確認だった。

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