第11話 確認期間とカイゼン(挿絵有)
翌朝。
良樹は、宿の食堂でリシアを見つけるなり言った。
「リシア、付き合ってくれ」
リシアは固まった。
「――え」
その反応に、良樹は眉を寄せた。
「どうしたんだ。鳩が豆鉄砲食ったような顔して」
言ってから、少しだけ考える。
「いや、こっちでもそういうのか?」
「良樹、それって――」
リシアの声が少し上ずった。
昨日の夜のことが、頭の中で一気に戻ってくる。
三人とも好きだ。
じゃなきゃ、一緒にいない。
でも、そういうのはもっとじっくりだ。
ちゃんと見て、ちゃんと一緒にいて、それでも一緒にいたいか確認していくものじゃないのか。
確認期間。
その言葉が、胸の奥で熱を持った。
なのに。
朝一番に。
良樹が。
リシアを見つけて。
付き合ってくれ、と言った。
早い。
早すぎる。
けれど、嬉しいと思ってしまった自分がいた。
リシアは、息を整えようとして失敗した。
「良樹、それは、その……」
「ああ」
良樹は頷いた。
「昨日の蒸気破裂のカイゼンだ。リシアの水と風がないと試せねえ」
食堂の空気が、一度止まった。
リシアの中で、何かが静かに落ちた。
「……良樹」
「何だ」
「今の言い方、分かって言った?」
「何が」
「付き合ってくれ、って言ったわよね」
「ああ。訓練場に付き合ってくれって意味だ」
「その説明を最初にしなさい!」
リシアの声が食堂に響いた。
近くの冒険者が、何事かとこちらを見る。
良樹は本気で不思議そうな顔をした。
「必要だったか?」
「必要よ! 昨日の今日でそれは必要よ!」
「昨日の今日……?」
良樹は一拍考えた。
そして、昨日の夜の会話を思い出したらしく、少しだけ顔をしかめた。
「……あ」
「今気づいたのね」
「悪い」
「遅い!」
その時、食堂の入口で小さな声がした。
「あ、あの……付き合う、ですか?」
カレンだった。
寝起きなのか、髪が少しだけ柔らかく乱れている。
それでも目は完全に覚めていた。
むしろ、覚めすぎていた。
その後ろには、クラリスがいた。
いつものように清楚に微笑んでいる。
ただし、その目はすでに状況を処理し始めていた。
「良樹さん」
「はい」
「どなたと、何に、付き合うのでしょうか」
「蒸気破裂のカイゼン試験に、リシアが」
「なるほど」
クラリスは、にこりと微笑んだ。
「朝から非常に紛らわしいですね」
「そうか?」
「そうです」
カレンは胸元で手を握りしめたまま、ほっとしたような、少し残念そうな顔をした。
「試験、なんですね」
「そうだ」
良樹は頷く。
「昨日の大出力は駄目だ。三人が動ける一拍は作れた。だが、反射も熱も音も読めてねえ。俺が背中で受ける前提になってた。あれは設計じゃねえ」
リシアの怒りが、少しだけ引っ込んだ。
良樹の声は、もう完全に昨日の続きだった。
「次は、俺が倒れなくても済むように組む」
「だから、リシアの水と風が必要だ」
リシアは、少しだけ口を閉じた。
紛らわしい。
本当に紛らわしい。
朝から心臓に悪い。
けれど。
良樹は、昨日の無茶を美談にしていない。
もう次の改善を見ている。
それは、リシアが少しだけ嬉しくなるところでもあった。
「……分かったわ」
リシアは、腕を組んで言った。
「付き合ってあげる」
良樹は頷く。
「助かる」
「ただし」
「ただし?」
「次からその言い方をする時は、何に付き合うのか先に言いなさい」
「了解」
良樹は素直に頷いた。
クラリスが、横から穏やかに言う。
「では、私も付き合います」
「いや、今日はリシアだけでいい」
クラリスの微笑みが、少しだけ止まった。
「なぜですか?」
「昨日の大出力をそのまま試すわけじゃない。まず、水と風の逃がしを見る。人数を増やすと、見るものが増える」
「良樹さんが自分を壊さないか見られません」
「今日は壊すところまで上げない」
「信用してよろしいのですか?」
「昨日の今日で信用しろとは言わん。だから、戻ったら結果を報告する」
クラリスは少しだけ目を細めた。
「……分かりました。ただし、少しでも痛めたら報告してください」
「ああ」
カレンも、小さく手を上げた。
「あ、あの……私は」
「カレンは休んでてくれ。昨日みたいな位置取りの確認は、また別でやる。今日は危ない方向へ人を置かない」
「……はい」
カレンは少しだけ残念そうに頷いた。
リシアは、三人を見た。
昨日の夜に決めたばかりだ。
邪魔はしない。
抜け駆けもしない。
ただし、自分を知ってもらう努力は止めない。
なるほど。
確認期間は、どうやら朝から始まっているらしい。
そして今回は、自分の番らしい。
リシアは深く息を吐いた。
「良樹」
「何だ」
「あなた、昨日より危険になってるわ」
「背中は痛いが、危険ではないだろ」
「そういう意味じゃないのよ」
良樹は分からない顔をした。
カレンは少しだけ赤くなって目を逸らし、クラリスは清楚に微笑む。
食堂の隅で、昨日とは違う種類の事故が静かに起動した。
◇
訓練場へ向かう道中、良樹は昨日の依頼場所を思い出していた。
町道。
茂み。
魔物の位置。
三人の位置。
自分の位置。
大出力の蒸気破裂を放った瞬間の感覚。
空気が殴られる音。
白く広がる蒸気。
背中を叩いた熱。
耳の奥を刺した音。
予想通り、クソ痛かった。
だが、問題はそこではない。
痛かったことではない。
倒れたことでもない。
それを良樹は、訓練場へ着くなり地面へ描いた。
炭筆で、昨日の配置を簡単に示す。
「昨日の失敗は何か」
良樹は言った。
訓練場の土の上には、魔物の位置、三人の位置、自分の位置が描かれている。
今日は、カレンもクラリスもいない。
リシアだけが、良樹の隣でそれを見ていた。
「出力が大きかったこと?」
リシアが言う。
「それもある」
良樹は頷いた。
「でも、出力を下げれば解決って話じゃない。あの場面で必要だったのは、三人が動ける一拍だ。つまり、ある程度の出力は要る」
「では、問題は出力そのものではないのね」
「ああ」
良樹は炭筆で、蒸気の広がりを示す線を描く。
「問題は、術者まで被害半径に入ったことだ」
リシアの表情が変わる。
「昨日の俺は、蒸気と熱の逃げ道を前に作ったつもりだった。でも実際には反射が返ってきた。音も熱も、こっちへ来た。だから俺が背中で受ける羽目になった」
「つまり、良樹が盾にならないと成立しない形だった」
「そうだ。そこが駄目だ」
良樹は素直に認める。
「俺が前に出たことを美談にしても意味がない。次も同じことをしたら、ただの再発だ」
「再発……」
「同じ事故を、もう一回起こすってことだ」
良樹は言った。
「だからカイゼンする」
リシアが少し身を乗り出した。
「どうするの?」
「その前に、一つ確認する」
良樹は胸の前に魔導盤を展開した。
いつもの半透明の盤。
赤や青の線。
端子。
タイマー。
インバーター。
センサーの入力線。
だが、昨日までとは違った。
外形が大きくなったわけではない。
けれど、内側の余白が増えている。
線を逃がす場所がある。
部品を置ける場所がある。
盤として、明らかに器が広がっていた。
「良樹」
「分かるか」
「昨日より、詰まってない。流れが少し広くなってる」
「ああ」
良樹は魔導盤の奥を見る。
「携行盤としては、たぶんここが上限だな」
「上限?」
「これ以上は、持ち歩く盤じゃない。設置盤とか、自立盤の領域になる」
「すごいじゃない」
「すごいが、それだけじゃない」
良樹は、盤の奥にある薄い輪郭を見た。
一枚目の盤。
そして、もう一枚。
同時に展開できるわけではない。
だが、確かに置ける。
「ストックが二枚になってる」
「二枚?」
「ああ。今までは一枚しか持てなかった。今は、別の盤を置ける」
「それなら、戦いながら切り替えられるの?」
「無理だな」
「無理なの?」
「切替に一分くらいかかる。戦闘中に一分止まったら、ただの的だ」
「……あなたらしい制限ね」
「制限がある方が信用できる」
良樹は短く言った。
「でも、これで役割を分けられる。昨日のは、盤としても無茶だった」
「どういうこと?」
「斥候盤に、牽制出力まで無理やり積んでた。索敵して、逃げ道を見て、移動補助して、その上で蒸気破裂まで鳴らす。そりゃ重い」
「今は違うの?」
「分けられる。見るための盤と、止めるための盤だ」
良樹は一枚目の盤へ意識を向けた。
脚力モーター。
脚力用インバーター。
魔導レーザーセンサー一基。
レーザーセンサー回転用モーター。
回転用インバーター。
線が繋がる。
センサーが一点を見る。
そこへ小さな魔導モーターをつける。
回す。
ただし、直結で回さない。
速すぎれば返りを拾えない。
遅すぎれば死角が長く残る。
だから、回転にもインバーターを挟む。
加速。
定速。
減速。
停止。
「昨日の魔導レーザーセンサーは、一方向しか見えなかった」
「ええ。良樹が向けた方向だけだったわね」
「あれを、回す」
「回す?」
「センサーを手で振るんじゃない。一定の速さで回して、周りの距離を順番に拾う。要するに、レーザースキャナだ。LiDARに近い」
「らい……?」
「名前はどうでもいい。距離を点じゃなく、角度ごとに拾う」
リシアは盤を覗き込んだ。
小さなセンサーの線が、盤の中でゆっくり円を描く。
返りの光が、角度ごとに点滅する。
「すごい……」
「すごいが、実戦でそのまま使えるかは別だ」
「どうして?」
「ゴブリン戦で分かった。手で振るのは駄目だ。体を動かして、センサーを振って、値を見て、判断して、また動く。実戦中にそんなことやってられねえ」
「なら、回せばいいんじゃないの?」
「回す。だが、早く回せばいいって話じゃない。一周分の距離が次々返ってくる。それを全部俺が読むなら、結局俺が詰まる」
「遅く回したら?」
「見てない時間が長くなる。その間に回り込まれたら終わりだ」
リシアは黙った。
良樹は、回転するセンサーの返りを見ていた。
前。
右前。
右。
後ろ。
左。
数字は返る。
距離は拾える。
だが、それは答えではない。
「距離は答えじゃねえ。判断材料だ」
良樹は低く言った。
「材料が増えても、判断する頭がないと意味がない」
「頭?」
「ああ。生の距離を全部俺に見せるんじゃなくて、近いもの、近づいてるもの、危ない方向だけを拾って警報にする頭だ」
「それが、まだないの?」
「ない」
良樹は、盤の中央にある空白を見た。
「使えないことはねえ。実験なら使える。低速で回して、距離を見るだけなら十分だ。だが、これだけじゃやっぱり足りねえ」
「……良樹が全部見ることになるから?」
「ああ」
リシアは少しだけ考えた。
「じゃあ、今日は?」
「索敵盤はここまで。これ以上は、今いじると泥沼になる」
「泥沼?」
「必要な頭がないのに、リレーとタイマーで無理やり組み始めるやつだ。動くかどうかで言えば、たぶん動く。でも、読みにくい。止めにくい。壊れた時に追えない」
「それは……良くないのね」
「現場を殺す」
良樹は魔導盤を一度閉じた。
「昨日、未確認の出力を上げて事故った。今日、未確認の制御まで盛ったら、ただの馬鹿だ」
リシアは、少しだけ目を細めた。
できるのに、やらない。
容量があるのに、足さない。
それが良樹なのだと、リシアは思った。
「できることを、全部やるわけじゃないのね」
「ああ」
「できるのに?」
「できることと、やっていいことは違う」
「……良樹らしいわ」
「褒めてるのか」
「半分くらい」
「残り半分は」
「面倒だと思ってる」
「だろうな」
良樹は、二枚目の盤へ意識を移した。
「今日は、こっちだ」
「蒸気破裂?」
「ああ。牽制盤だ」
赤い線。
青い線。
ヒーター。
水バルブ。
タイマー。
魔導インバーター。
前より余裕はある。
だが、良樹の眉は緩まなかった。
「蒸気破裂も同じだ。今は、熱を入れて、水を入れて、弾けさせてるだけだ」
「それでは駄目なの?」
「低出力ならいい。でも昨日みたいな一拍を安定して作るなら足りない。熱が残ってる時と、冷えてる時で違う。水が多い時と少ない時で違う。風が強い時と弱い時で、返りも違う」
「確かに」
「本当は、返りを見ながら出力を調整する制御が要る」
良樹の頭に言葉が浮かんでいた。
PID。
比例。
積分。
微分。
ズレた分だけ戻す。
残ったズレを見る。
変化の勢いを見る。
だが、今の魔導盤にはまだ置けない。
「強すぎたら弱める。弱すぎたら足す。残った揺れを見て次を変える。急に変わりすぎたら先に抑える。そういう調整だ」
「それ、魔法の圧を安定させる時と似てるわ」
「そうなのか」
「ええ。雑に押すと形が崩れる。弱すぎると届かない。遅れて直すと、揺れる」
「それだ」
良樹は、白く消えていくはずの蒸気を想像した。
圧は、逃がせば安全になる。
だが、逃がす方向を絞れば力になる。
その先に弾体を置けば、撃てる。
そこまで考えて、良樹はすぐに思考を止めた。
今ではない。
今の盤ではない。
今の制御では、ただの暴発だ。
「良樹」
「何だ」
「今、何か危ないこと考えたでしょ」
「考えた。だから止めた」
「止めたのね」
「ああ。今考えるには危ない」
リシアは、少しだけ笑った。
「本当に、止めるのが好きね」
「好き嫌いじゃねえ。止まらないものは危ねえんだよ」
「で、今日は何をするの?」
「できる範囲で、安全側に入れる」
「できる範囲」
「ああ。全部は無理だ。でも、昨日の危険を一つ減らすことはできる」
「それが、私の風?」
「ああ」
良樹は、地面へ矢印を描いた。
上から下。
それを消す。
「上から押さえると、蒸気が地面で跳ねてこっちに返る可能性がある。閉じ込めるのも駄目だ。破裂の逃げ道を塞いだら、余計に暴れる」
次に、下から斜め上へ矢印を描いた。
「だから、下から吹き上げる」
「下から?」
「ああ。破裂した瞬間、足元から風を入れて、衝撃と熱を斜め上に逸らす。真正面に受けない。味方側にも返さない。逃がす」
リシアは、その矢印をじっと見た。
「風を、下から斜め上へ」
「できるか?」
「できると思う。ただ、細く安定させる必要があるわね」
「そうだ。強すぎると蒸気そのものが散りすぎる。弱すぎると返ってくる。欲しいのは壁じゃなくて、逃がしだ」
「……良樹」
「何だ」
「あなた、また面倒なことを言ってる」
「必要な面倒だ」
「PIDの代わり?」
「代わりじゃない。でも、今の俺に足りない調整を、お前の魔法で補える」
リシアの頬が、少しだけ熱くなった。
「……そういう言い方、ずるいわね」
「何が」
「必要だって言ってるみたい」
「必要だ」
即答だった。
リシアは、一瞬だけ言葉に詰まった。
良樹は、盤を見ている。
技術の話をしている。
昨日の危険を減らす話をしている。
けれど、必要だと言われた。
良樹の盤に。
良樹の設計に。
自分の風が。
リシアは、誤魔化すように杖を握った。
「……分かった。やってみる」
◇
試験は慎重に行われた。
一発目。
良樹は小型蒸気破裂を最低出力で鳴らす。
リシアはその直前、足元から細い風を立ち上げた。
ぱん。
白い蒸気が弾ける。
だが、昨日までとは広がり方が違った。
蒸気は良樹たちの方へ返らず、斜め上へ逃げた。
熱も、顔や胸元へ来ない。
音も少しだけ上へ抜ける。
良樹は魔導盤を見た。
「……返りが少ない」
リシアが目を見開く。
「本当に逸れてる」
「もう一回」
二発目。
今度は少しだけ出力を上げる。
「リシア、風はさっきより半歩手前。角度を少し寝かせてくれ」
「分かった」
ぱん。
蒸気が弾ける。
下からの風がそれを拾い、斜め上へ逃がす。
リシアは、自分の風の流れを見ていた。
ただ吹かせているのではない。
押さえつけるのでもない。
閉じ込めるのでもない。
逃がす。
良樹の言った通り、壁ではなく、逃げ道だった。
「昨日より、怖くない」
リシアは呟いた。
「どこが」
「こっちに来る感じが少ない。戻ってくる熱が、上へ抜けてる」
「いい。それが欲しかった」
良樹は頷いた。
三発目。
昨日なら、すでに怪しかった出力。
良樹は息を整える。
「昨日危なかった範囲まで上げる」
リシアが真剣な顔になる。
「分かった。風は?」
「下から。斜め上。俺たちの手前で拾って、向こうへ逃がす」
「任せて」
リシアの杖先が、地面すれすれをなぞった。
見えない風が、足元から立ち上がる。
強すぎない。
細い。
だが、芯がある。
良樹は魔導インバーターの上限を、昨日の危険域手前まで引き上げた。
「いくぞ」
「ええ」
熱。
水。
膨張。
逃げ道。
そして、風。
ばん。
昨日に近い音が鳴った。
だが、違う。
白い蒸気は良樹の方へ返ってこなかった。
下から吹き上げる風に乗り、斜め上へ流された。
熱が散る。
衝撃が抜ける。
音の圧が、顔面ではなく上へ逃げる。
良樹は目を見開いた。
魔導盤の赤い線は揺れている。
だが、昨日ほど暴れていない。
背中は熱くない。
耳も刺されていない。
足元の反射も少ない。
「……入った」
低く呟いた。
「昨日まで危険だった出力が、安全範囲に入った」
リシアが、一瞬だけ遅れて理解した。
「成功?」
「ああ」
良樹は顔を上げた。
「成功だ」
リシアの顔が明るくなる。
「やった!」
「やったな!」
二人は、ほとんど同時に手を上げた。
ぱん、と音が鳴る。
ハイタッチだった。
良樹の手と、リシアの手。
昨日、良樹が背中で受けた出力。
それが、今日は安全側へ逃げた。
リシアの風が、良樹の設計に入った。
良樹の盤が、リシアの魔法を必要とした。
二人で、昨日の失敗を一つ潰した。
だから、嬉しかった。
純粋に、嬉しかった。
リシアは笑っていた。
良樹も、珍しくはっきり笑っていた。
その瞬間。
下からの風は、まだ止まっていなかった。
自然の理として。
下から吹き上げる風は、軽いものを上へ持ち上げる。
熱を逃がす。
蒸気を逃がす。
衝撃を逸らす。
そして。
布も、持ち上げる。
「……あ」
最初に気づいたのは、リシアだった。
魔法衣の裾が、ふわりと浮いた。
訓練場に立つリシア。
良樹と向かい合ってハイタッチをした姿勢。
片手はまだ上がっている。
意識は成功の喜びに向いている。
足元からは、制御された風が吹き上げている。
裾が、持ち上がる。
ふわり、では済まなかった。
ばさり、と。
魔法衣の裾が、思った以上に持ち上がった。
太もも。
腰。
普段は魔法衣の下に隠れている、薄く引き締まった腹部。
そして、小さなヘソ。
そこまで見えてしまった。
良樹は、反射的に視線を逸らした。
遅かった。
人間の視界に、入力遮断の非常停止は付いていない。
「止めて!」
「停止!」
良樹とリシアの声が、ほぼ同時に重なった。
風が消えた。
蒸気も消えた。
訓練場に、静寂が落ちた。
リシアは、ゆっくりと手を下ろした。
そして、魔法衣の裾を押さえた。
良樹は、視線を逸らしたまま固まっている。
「……見た?」
リシアは、裾を押さえたまま低く言った。
「見てねえ」
良樹は即答した。
即答が早すぎた。
「何色?」
「ピンク」
さらに即答だった。
訓練場の空気が、完全に止まった。
良樹は、一拍遅れて自分の口を押さえた。
「……違う。今のは」
「見たんじゃない!」
リシアの声が、誰もいない訓練場に跳ねた。
顔が熱い。
耳まで熱い。
今すぐ氷魔法で地面ごと凍らせたい。
良樹に見られた。
下から風が吹き上がって、裾が持ち上がって。
普段なら絶対に見えないところまで。
見られた。
恥ずかしい。
ものすごく恥ずかしい。
なのに。
ここには誰もいない。
カレンもいない。
クラリスさんもいない。
見たのは、良樹だけ。
知っているのは、自分と良樹だけ。
その事実が、なぜか恥ずかしさをさらに強くした。
そして、ほんの少しだけ、胸の奥を熱くした。
――カレンばかりじゃ、嫌だし。
そんな声が、心の奥で小さく鳴った。
リシアは、その声を全力で踏みつけた。
違う。
これは事故。
完全に事故だ。
喜ぶようなことではない。
絶対に、ない。
でも、確認期間なのだ。
良樹は、ちゃんと見て、ちゃんと一緒にいて、それでも一緒にいたいか確認すると言った。
なら。
これくらいは。
ほんの少しだけなら。
そう思ってしまった自分に、リシアはさらに顔を赤くした。
「見えてしまった情報が、脳内の異常ログに残っただけだ」
「ログに残さないで!」
「不可抗力だ!」
「色まで答えておいて!?」
「聞かれたから!」
「答えなくていいのよ!」
「無理だろ、記憶は消せねえ!」
「努力しなさい!」
「努力で消える記憶と消えない記憶がある!」
「残すな!」
「だから不可抗力だって!」
「不可抗力でも、言い方ってものがあるでしょう!」
「いや、でも……」
良樹は、完全に追い詰められていた。
責められている。
それは分かる。
悪いのは自分ではない、とは言い切れない。
見ようとしたわけではない。
だが、見えた。
見えてしまった。
そして色まで答えた。
どうにか、リシアの怒りを落とさなければならない。
そう思った。
思った結果、良樹の口は、最悪の方向へ動いた。
「ピンクでよく似合ってたんだから、そんなに怒るなよ」
沈黙。
訓練場の空気が、完全に止まった。
リシアの顔から、赤みが一度引いた。
次の瞬間。
耳まで、いや首筋まで、一気に赤くなった。
「……良樹」
「はい」
「今、何て言ったの」
「いや、だから、その」
「似合ってた?」
「……はい」
「見た上に、感想まで言ったのね?」
「違う。怒るなって意味で」
「火に油を注ぐって知ってる?」
「知ってる」
「今それをやったのよ!」
「すみませんでした!」
良樹は頭を下げた。
リシアは裾を押さえたまま、真っ赤な顔で良樹を睨む。
怒るべきだ。
いや、怒っている。
間違いなく怒っている。
見られた。
色まで答えられた。
そのうえ、似合っていたと言われた。
最低だ。
最低のはずだ。
なのに。
似合っていた。
その言葉が、胸の奥に変な刺さり方をした。
違う。
喜んでいない。
喜ぶところではない。
でも、カレンばかりでは嫌だった。
自分も、良樹に女の子として見られたかった。
ほんの少しだけ。
それを、よりによってこんな事故で。
よりによってこんな言い方で。
リシアは、顔を真っ赤にしたまま杖を握った。
「褒めれば許されると思ったの?」
「少し」
「正直に言わないで!」
「嘘はよくないだろ」
「今は嘘でもいいのよ!」
「難しいな」
「難しくしてるのは良樹よ!」
リシアは深く息を吸った。
風が、足元で小さく渦を巻く。
良樹が一歩身構えた。
「リシア」
「何」
「凍らせるのはなしで頼む」
「風で転がすのは?」
「それもなしで頼む」
「……次から、風を止めてから喜びなさい」
「ああ」
「それと」
「それと?」
「ログは、消せなくても、口には出さないこと」
「了解」
「絶対よ」
「了解」
良樹が真面目に頷く。
その真面目さが、また少しだけ困った。
これは、二人だけの事故だ。
そう思ってしまったから。
リシアは、裾を片手で押さえたまま杖を握り直した。
「……でも」
「でも?」
「昨日より安全になったのは、本当なのよね」
「ああ」
良樹は頷いた。
「昨日まで危険だった出力が、安全側に入った」
「なら、もう一回やるわ」
「いいのか?」
「いいわよ。成功したんだから」
リシアは、まだ赤い顔のまま良樹を見た。
「今度は、私も対策する」
良樹は一瞬だけ黙った。
それから、少しだけ笑う。
「ああ」
魔導盤が、再び薄く灯る。
「カイゼン継続だ」
「ええ」
リシアは、裾をしっかり押さえたまま頷いた。
「ただし、次に変なことを言ったら、撃つわ」
「何を」
「風を」
「了解」
◇
その後の確認は、ひどく真面目に行われた。
リシアは立ち位置を変えた。
風を止めるタイミングを早めた。
裾を押さえるための姿勢も、少しだけ調整した。
良樹は魔導盤側へ、次回対策をいくつも書き込むように意識する。
下方吹き上げ時は衣服固定。
立ち位置確認。
風停止タイマー。
衣服保護インターロック。
「最後の名前を変えなさい」
「じゃあ尊厳保護インターロック」
「もっと悪くなったわよ!」
怒られた。
だが、試験そのものは成功だった。
最低出力。
中出力。
昨日危なかった範囲の手前。
どれも、リシアの風を入れた時の方が返りは少なかった。
完全ではない。
大型水蒸気弾が完成したわけでもない。
PID制御が組めたわけでもない。
PLCで自動判定できるようになったわけでもない。
だが、昨日より一つ進んだ。
昨日、良樹の背中へ返った熱は、今日はリシアの風に乗って斜め上へ逃げた。
それは、間違いなく成果だった。
リシアは、最後の白い蒸気が空へ消えていくのを見上げた。
「良樹」
「何だ」
「私の風、役に立った?」
「ああ」
良樹は、迷わず答えた。
「かなり助かった」
「助かった、じゃなくて」
リシアは、少しだけ頬を赤くした。
「必要だった、でしょ」
良樹は一瞬だけ黙った。
それから、真正面から言った。
「必要だった」
リシアは、満足そうに頷いた。
「よろしい」
◇
夕方、二人は宿へ戻った。
クラリスとカレンは、食堂の隅で待っていた。
「戻ったわよ」
リシアは、いつもより少しだけ顔が赤かった。
良樹は、いつもより少しだけ視線を合わせない。
クラリスは、二人を見て微笑んだ。
「何かありましたね」
「何もないわ」
リシアは即答した。
即答が早すぎた。
カレンが小さく首を傾げる。
「あ、あの……リシアさん、耳が赤いです」
「風の調整で熱くなっただけよ」
良樹は黙っていた。
リシアが横目で睨む。
「良樹」
「何も言ってねえ」
「言わないで」
「了解」
クラリスは、そのやり取りを見て、にこりと微笑んだ。
「なるほど」
「クラリスさん、何がなるほどなの」
「いえ。確認期間とは、いろいろな確認が発生するのだな、と」
「分析しないで」
「大切な知見です」
「知見にしないで」
カレンは、良樹とリシアを見比べた。
何があったのかは分からない。
けれど、二人の間に、今日だけの何かがあるのは分かった。
胸の奥が、少しだけきゅっとした。
「あ、あの……良樹さん」
「何だ」
「今度、私も……怖いところを見ます」
「ああ。頼む」
カレンは、小さく頷いた。
クラリスも、穏やかに言う。
「私も、良樹さんが自分を壊さないか見ます」
「監視だよな、それ」
「大切な確認です」
リシアは、その二人を見て、少しだけ口元を緩めた。
今日の実験は、自分と良樹のものだった。
けれど、ここから先は四人で見ることになる。
それは、少し悔しくて。
少し安心した。
良樹は食堂の隅で魔導盤を小さく開いた。
携行盤は、最大まで育った。
盤は二枚になった。
見るための盤。
止めるための盤。
レーザーセンサーは、回せるようになった。
蒸気破裂は、リシアの風で昨日より安全側に入った。
だが、まだ足りない。
距離を、判断へ変える頭。
出力を、安定へ寄せる調整。
PLC。
PID。
良樹には、まだ置けないものがある。
それでも、昨日より一つだけ進んだ。
昨日、良樹の背中へ返った熱は、今日はリシアの風に乗って斜め上へ逃げた。
安全範囲は、少し広がった。
ただし。
その風は、余計なものまで持ち上げた。
なお。
その日以降、リシアの衣装箱の中で、淡い桃色の布が占める割合が少しずつ増えていったことを、良樹は知らない。
リシア本人に言わせれば、ただの気分転換である。
確認期間とは関係ない。
良樹の発言とも関係ない。
絶対に、関係ない。
関係ないにしては、桃色が増えた。
良樹は、胸の奥で存在しないブレーカーを探した。
もちろん、見つからなかった。




