第116話 それぞれの妻として(挿絵有)
翌朝。
良樹は、朝食を終えるとすぐに腰袋を確認していた。
工具。
メモ帳。
簡易の魔石測定具。
試験用の小さな付与済み木片。
そして、以前ロブと試した魔石通信の記録。
それらを一つずつ確かめている良樹を見て、リシアは椅子に座ったまま首を傾げた。
「今日はギルド?」
「ああ」
良樹は腰袋の留め具を締めながら答えた。
「アルフの付与解除が、そろそろ実践段階に入る」
「見ねえわけにはいかねえ」
カレンが顔を上げる。
「付与解除、ですか」
「ああ」
「かける方じゃない」
「外す方だ」
良樹は短く言った。
「あいつがようやく、自分でかけた付与を自分で外せるようになりかけてる」
「ここを雑にやると、また誰かを壊す」
クラリスは静かに頷いた。
「大事な段階ですね」
「大事だ」
「付与できるだけじゃ駄目だ」
「解除できるか」
「途中で失敗した時に止められるか」
「外した後に変な残り方をしねえか」
「そこまで見て、ようやく次に進める」
リシアは、少しだけ目を細めた。
「アルフ君も、そこまで来たのね」
「まだ来たってほどじゃねえ」
「来かけてる」
「だから見に行く」
良樹はメモを腰袋へ入れた。
「それと、ロブの魔石通信の件も少し詰める」
「前に、あいつが言ってただろ」
「声は送れねえのか、って」
カレンは頷いた。
「魔石が光っているだけではなく、鳴っているように聞こえる、という話でしたね」
「ああ」
「今はまだ符号通信だ」
「決めた光り方と揺れ方で、用件と緊急度を送るだけ」
「でも、ロブの耳には、その揺れが音みたいに聞こえてる」
良樹は少しだけ眉を寄せた。
「声そのものを送るなんて、すぐには無理だ」
「けど、揺れ方を変えれば、声に近いものを乗せられるかもしれねえ」
「そこは、ロブの耳で確認するしかねえ」
リシアが言う。
「つまり、今日は新しいものを作る日ではなくて」
「前に出た課題の、続きだ」
良樹は即答した。
「アルフは、戻し方」
「ロブは、声の届き方」
「どっちも、便利そうだから飛びつく話じゃねえ」
「使えるかどうかと、失敗した時に何が起きるかを見る」
クラリスは、どこか嬉しそうに微笑んだ。
「良樹くんらしいです」
「そうか?」
「はい」
「とても」
カレンも小さく笑う。
「では、今日は少し長くなりますか?」
「たぶんな」
「三人は休んでてくれ」
「ここ最近、色々続いたし」
良樹は、そこで少しだけ言葉を止めた。
リシアの両親。
クラリスの父と兄。
カレンの先生であり、父のような男。
三人それぞれの大事な人たちと会い。
三人それぞれの夜があった。
良樹は、それを全部言葉にするほど器用ではなかった。
だから、少しだけ目を逸らして言った。
「無理すんなよ」
リシアは一瞬だけ顔を赤くした。
カレンも、胸元で両手を握る。
クラリスは、少しだけ目を細めた。
「良樹くんも、無理をしないでください」
「分かってる」
「本当ですか?」
「本当だ」
「信じます」
「重いな」
「重いです」
クラリスは清楚に微笑んだ。
良樹は苦笑して、玄関へ向かった。
「じゃあ、行ってくる」
「いってらっしゃい、良樹」
「いってらっしゃい、良樹さん」
「いってらっしゃい、良樹くん」
三人の声に送られて、良樹は家を出た。
扉が閉まる。
足音が少しずつ遠ざかる。
家の中が、少しだけ静かになった。
リシアは、その扉をしばらく見ていた。
それから、ゆっくりと振り返る。
「……さて」
カレンの肩が、小さく跳ねた。
「さて、とは……」
クラリスが、静かに微笑んだ。
「妻会議ですね」
「ええ」
リシアは頷いた。
「良樹がいないうちに、やるわよ」
◇
三人部屋。
中央の卓には、小さな灯りが置かれていた。
朝だというのに、三人はまるで夜の密談でも始めるように卓を囲んで座った。
リシア。
カレン。
クラリス。
全員、顔が少し赤い。
理由は、全員が分かっていた。
リシアは、咳払いを一つした。
「では、妻会議を始めます」
「は、はい……」
「はい」
「議題は」
リシアは、そこで一度だけ目を閉じた。
そして、覚悟を決めて言った。
「三人それぞれが、良樹にどう愛されたか」
「および」
「今後の妻としての立ち方について」
沈黙。
カレンが両手で顔を覆った。
クラリスの耳が赤くなる。
リシアも、自分で言っておきながら頬を染めた。
「……議題が強いわね」
「リシアが言ったのですが……」
「分かってるわよ」
リシアは顔を赤くしたまま、腕を組む。
「でも、必要でしょ」
「ここ最近、私たち一人ずつ、ちゃんと良樹に受け止められた」
「それを何も確認しないまま流すのは違うわ」
クラリスが頷く。
「はい」
「良樹くんには聞かせられない確認です」
「聞かせたら倒れるわね」
「倒れますね」
カレンが小さく呟いた。
「私も、倒れそうです……」
「まだ始まってないわよ、カレン」
「始まる前から怖いです……」
リシアは、少しだけ笑った。
「大丈夫」
「具体的すぎる内容は禁止」
「報告するのは、良樹がどう受け止めたか」
「私たちが何を得たか」
「そこまでよ」
クラリスが清楚に微笑む。
「適切な線引きですね」
「そうでしょう」
「守れるかどうかは、別として」
「そこを不安にさせないで」
リシアは額に手を当てた。
「それで、報告順だけど」
カレンとクラリスが、リシアを見る。
「抱かれた順の、逆にしましょう」
空気が止まった。
カレンの顔が、一瞬で赤くなる。
「な、なぜ逆なんですか……?」
「最後の人からの方が、記憶が新鮮だからよ」
「記憶……」
カレンは小さく震えた。
クラリスが、穏やかに言う。
「最後に抱かれた方ほど、今いちばん危険な状態だと思います」
「クラリス……!」
「事実ですので」
リシアは頷いた。
「では、カレン」
「報告を」
「は、はい……」
カレンは、膝の上で両手を握った。
深く息を吸う。
けれど、吸った分だけ昨夜の記憶が胸の奥から溢れてきた。
良樹の声。
良樹の腕。
良樹の目。
何度も答えた言葉。
良樹さんの女です。
良樹さんだけのものです。
思い出した瞬間、耳まで熱くなる。
「私は……」
カレンは、小さく言った。
「私は、良樹さんに」
リシアとクラリスが、真剣に聞いている。
カレンは、真っ赤な顔のまま、震える声で言った。
「ぉ、ぉかして貰いました」
部屋の空気が凍った。
リシアの目が見開かれる。
「カレン!?」
クラリスも、さすがに微笑みを止めた。
「カレン」
「それは、かなり慎重な確認が必要な言葉です」
「ち、違うんです!」
カレンは慌てて両手を振った。
「違うんです、違うんです!」
「良樹さんが悪いことをしたんじゃなくて!」
「私が、そういう風に抱いて欲しくなってしまって……!」
「そういう風」
リシアの声が低くなる。
「そういう風、とは」
「その……」
カレンは俯いた。
けれど、逃げなかった。
「良樹さんに」
「私の全部を、奪うみたいに」
「逃げられないくらい、求めてほしくて」
声が小さくなる。
「でも、怖くはなくて」
「良樹さんなら、怖くなかったんです」
「良樹さんにだけは、逃げ道を塞がれても、怖くなくて」
リシアは、少しだけ息を止めた。
クラリスの目が、柔らかくなる。
カレンは、さらに顔を赤くした。
「それで」
「良樹さんも、愛してくれながら」
「私の全部を奪うように、受け取ってくれて……」
言葉が震える。
「それが」
「嬉しかった、です……」
カレンは、両手で顔を覆った。
「私、良樹さんの女だって」
「良樹さんだけのものだって」
「何度も言ってしまって……」
「言わされてしまって……」
「でも」
「それが、すごく……安心してしまって……」
リシアは黙っていた。
茶化せなかった。
クラリスも、静かにカレンを見ていた。
「カレン」
クラリスが優しく言った。
「あなたは、怖がりです」
「はい……」
「怖い場所を見ます」
「危ない場所を探します」
「逃げ道も、退く場所も、いつも見ています」
「はい」
「だからこそ」
「良樹くんの腕の中では、逃げ道を探さなくてよかったのですね」
カレンの肩が、小さく震えた。
「……はい」
「剣を握らなくてよかった」
「前に出なくてよかった」
「怖いものを見なくてよかった」
「はい……」
カレンは、少し泣きそうな顔で笑った。
「良樹さんに捕まっていれば、よかったんです」
リシアは、深く息を吐いた。
「……なるほどね」
「リシア?」
「分かったわ」
「最初の言い方は最悪だったけど」
「うぅ……」
「でも、分かった」
リシアは、少しだけ頬を赤くしながら言った。
「カレンは、良樹に乱暴にされたかったんじゃない」
「良樹に、逃げなくていい場所を作ってもらったのね」
カレンは、小さく頷いた。
「はい」
「私が、望みました」
「良樹さんも、それを欲しがってくれました」
クラリスが静かに微笑む。
「では、報告としては」
カレンが恐る恐る顔を上げる。
クラリスは、清楚な声で言った。
「カレンは、良樹くんに壊されたのではなく」
「良樹くんに、安心してほどかれた」
「そういうことですね」
カレンの目が揺れた。
「……はい」
リシアは腕を組み直す。
「ただし」
「は、はい」
「次から、最初の言い方は禁止」
「はい……!」
「私たちの心臓に悪いわ」
「すみません……!」
クラリスは微笑んだまま、少しだけ首を傾げた。
「ですが、記録には残しましょう」
「残さないでください!」
「妻会議の重要議事ですので」
「クラリス!」
リシアは額に手を当てた。
「駄目ね」
「この会議、始まって五分で危険度が高すぎるわ」
カレンは真っ赤な顔で俯いた。
けれど、その表情は、どこか満たされていた。
◇
「次は、私ですね」
クラリスは、膝の上で指を重ねた。
いつものように清楚に微笑んでいる。
けれど、その耳はすでに赤い。
「私は、その」
「夜に一度、良樹くんと求め合って」
カレンが顔を伏せた。
リシアも、少しだけ視線を逸らす。
「そのあと、朝に早く目が覚めたんです」
「朝」
リシアが小さく呟いた。
「はい」
「良樹くんの身体を診ようとして」
そこだけは、いつものクラリスの声だった。
「寝息」
「汗」
「熱」
「呼吸」
「魔力の流れ」
「全部、見ました」
カレンが小さく頷く。
「クラリスらしいです……」
「はい」
「良樹くんに、何もないのが分かって」
「とても安心して」
クラリスは、そこで少しだけ俯いた。
「……一度だけ」
「キスしてから」
「もう一度、寝るつもりだったんです」
「「つもり……」」
リシアとカレンの声が、綺麗に重なった。
クラリスの耳が、さらに赤くなる。
「はい」
「つもり、でした」
「つまり」
リシアが腕を組む。
「一度だけでは終わらなかったのね」
「……はい」
クラリスは小さく頷いた。
「止まらなくなってしまって」
カレンが両手で口元を押さえた。
「く、クラリスが……」
「はい」
「私が、です」
クラリスは、恥ずかしそうに笑った。
「良樹くんを起こさないように」
「一度だけ、と思ったんです」
「でも」
「良樹くんがよく眠っているのを見て」
「良かったって思って」
「安心して」
「好きだなって思って」
声が、少しずつ小さくなる。
「それで」
「もう一度」
「もう一度だけ、って」
リシアは額に手を当てた。
「それは、もう止まらない時の言葉よ」
「はい……」
クラリスは、素直に頷いた。
「止まりませんでした」
カレンは真っ赤になった。
「そ、それで……?」
「良樹くんを、起こしてしまいました」
沈黙。
リシアが、ゆっくり聞いた。
「起きた良樹は?」
「最初は」
「私が起こしてしまったと思って」
「謝りました」
クラリスの指が、膝の上で小さく動く。
「でも、良樹くんが」
「我慢すんな、って」
「俺も同じだ、って」
クラリスの頬が、ふわりと赤く染まった。
「そう言ってくれて」
カレンは、胸元で手を握った。
「それは……」
「はい」
クラリスは微笑んだ。
「そこから、もう一度」
言葉が止まる。
けれど、十分だった。
「幸せ、でした」
リシアは、しばらく黙っていた。
茶化せなかった。
カレンも、同じだった。
クラリスが治癒者として良樹を見た。
何もないと分かって安心した。
安心したら、ただの女の子になってしまった。
そして良樹は、それを咎めなかった。
我慢するなと言った。
自分も同じだと言った。
「……なるほどね」
リシアは、深く息を吐いた。
「クラリスは、良樹を休ませたかった」
「でも、良樹が無事だって分かったら」
「今度は自分が我慢できなくなったのね」
「はい」
クラリスは、小さく頷いた。
「良樹くんを治したい私も」
「良樹くんを休ませたい私も」
「良樹くんに触れたい私も」
「全部、私でした」
カレンが、柔らかく微笑んだ。
「良樹さんは、それを受け止めてくれたんですね」
「はい」
クラリスは、少しだけ泣きそうな顔で笑った。
「治癒者としてではなく」
「妻として」
「女の子として」
「受け止めてくれました」
リシアは腕を組み直した。
「この会議、報告のたびに危険度が上がってない?」
「上がっていますね」
クラリスは清楚に微笑んだ。
「あなたが言うのね」
「はい」
「私も当事者ですので」
カレンは顔を赤くしたまま、小さく呟いた。
「朝に、もう一度……」
「カレン」
リシアが横目で見る。
「想像しない」
「し、してません……!」
「今の顔はしてる顔よ」
「リシアも、している顔です」
クラリスが静かに言った。
「してないわよ」
「そうでしょうか」
「その清楚な追撃やめなさい」
三人は、しばらく顔を赤くしたまま黙った。
そして、同時に思った。
良樹は、それぞれ違う形で、自分たちを受け止めたのだと。
◇
「最後は、私ね」
リシアは、少しだけ息を吐いた。
カレンとクラリスの報告を聞いた後だった。
もう、誤魔化しても仕方がない。
茶化して逃げるのも違う。
リシアは膝の上で指を組み、少し俯いた。
「私は、上手くできなかった」
カレンが顔を上げる。
クラリスも静かにリシアを見た。
「良樹を甘えさせたい、とか」
「私が良樹を甘やかしてあげる、とか」
「そんなこと言っちゃったけど」
リシアは、小さく笑った。
「結局、私が良樹に甘えちゃった」
その声は悔しそうで。
けれど、どこか柔らかかった。
「……その」
「私、ここ最近ちょっとおかしかったでしょ」
カレンとクラリスが、一度目を合わせた。
そして、同時に微笑む。
「可愛らしかったですよ」
「可愛らしかったです」
「……茶化さないで」
リシアは顔を赤くした。
けれど、悪い気はしていなかった。
カレンは、少しだけ首を傾げる。
「でも、本当に可愛らしかったです」
「良樹さんを見る目が、いつもより……その」
「言わなくていいわ」
「はい」
クラリスも穏やかに続けた。
「良樹くんに恋している女の子の顔でした」
「だから言わなくていいって言ってるでしょ!」
リシアの声が少し上ずる。
けれど、怒ってはいなかった。
怒れるほど、否定できなかった。
「……今更、ね」
リシアは、赤い顔のまま視線を落とす。
「良樹に初恋したなんて」
「自分で分かっちゃったら」
「もう頭がぐちゃぐちゃになって」
胸の奥が、また少し熱くなる。
「良樹が隣にいるだけでドキドキして」
「手が触れただけで変になって」
「声をかけられるだけで、どう返していいか分からなくなって」
リシアは、苦笑した。
「妻なのに」
「もう良樹の妻なのに」
「今さら、初恋みたいになっちゃって」
カレンは、胸元で手を握った。
「リシア……」
「だから」
リシアは小さく息を吸った。
「良樹に、助けてって」
クラリスの目が、少し柔らかくなる。
「助けて、と言えたのですね」
「……言えた、というより」
「泣きついたのよ」
リシアは少し唇を尖らせる。
「ほ、ほら」
「いきなりお父様とお母様が訪ねてきたりしたのもあったし」
「娘として泣いたりもしたし」
「そういうのも重なって……」
そこで、リシアは言葉を止めた。
そして、自分で首を振る。
「……ううん」
「言い訳」
カレンとクラリスは、何も言わなかった。
リシアは、静かに続けた。
「きっと、それはほとんど関係ない」
「良樹が、カッコよくて」
「良樹にドキドキして」
「どうしたらいいのか分からなくなって」
声が少し震える。
「それで、良樹に泣きついたの」
部屋の灯りが、少し揺れた。
リシアは、膝の上の指に力を入れる。
「そうしたら、あいつ」
「俺も、いつもお前にドキドキさせられてるから」
「これでおあいこだ、って」
リシアは俯いたまま、ぽつりと言った。
「悔しかった」
カレンが小さく笑う。
「悔しかったんですか」
「悔しかったわよ」
「こっちは、あんなにぐちゃぐちゃになってたのに」
「良樹は、そんなふうに言うんだもの」
けれど、リシアの口元は緩んでいた。
「でも」
声が、柔らかくなる。
「嬉しかった」
クラリスが静かに微笑んだ。
「良樹くんらしいですね」
「ええ」
「本当に、ずるい男よ」
リシアは、少しだけ顔を上げた。
「でもね」
「それで終わりじゃないの」
カレンが目を瞬かせる。
「終わりではない、ですか?」
「ええ」
リシアは、胸を張った。
赤い顔のまま。
恥ずかしさを抱えたまま。
けれど、はっきりと。
「やっぱり私は」
「良樹を、私にメロメロにして」
「甘やかしてあげたい」
カレンが、少し驚いたようにリシアを見る。
クラリスは嬉しそうに目を細めた。
「だって私は」
リシアは、自分の胸に手を当てた。
「ただのリシアでも」
「リシア=チューダーでもなくて」
そこで一度、言葉を切る。
「上村リシアだから」
部屋の空気が、静かに変わった。
カレンとクラリスが、わずかに息を止めた。
リシアは二人を見る。
「……何?」
「いえ」
カレンは、小さく首を振った。
「上村リシア、なんだなって」
「そりゃそうでしょ」
「私は良樹の妻だもの」
リシアは少し照れながら言う。
けれど、カレンはまだ、どこか遠くを見るような顔をしていた。
「私は、家名を名乗ったことがありません」
その声は、静かだった。
「父と母はいました」
「先生も、私を育ててくれました」
「でも、先生はずっと、自分は私の父ではないと仰っていました」
カレンは、膝の上で手を握る。
「だから」
「上村カレン、って」
「そう名乗っていいのだと思うと」
「少し、不思議で」
クラリスも、柔らかく微笑んだ。
「私もです」
「父様の娘で、兄様の妹で、施療院の者ではありました」
「ですが、家名を背負うという感覚は、リシアほど強くありません」
クラリスは、自分の胸に手を添える。
「上村クラリス」
「そう名乗ると」
「良樹くんと同じ家にいるのだと、はっきり分かる気がします」
リシアは、少しだけ黙った。
自分にとって家名は、背負うものだった。
チューダー家の娘として、誇りでもあり、重さでもあった。
けれど、二人にとっては違う。
初めて得る、帰る場所の名前。
「……そうね」
リシアは、少しだけ声を柔らかくした。
「私は、チューダーを捨てたわけじゃない」
「お父様とお母様の娘だったことも、消えない」
リシアは、二人を見る。
「でも、今いちばん最初に名乗りたいのは」
「上村リシアよ」
カレンが、そっと呟いた。
「上村カレン」
その響きに、自分で顔を赤くする。
「……少し、照れます」
「分かります」
クラリスも小さく頷いた。
「上村クラリス」
「……はい」
「とても、照れます」
リシアは、そんな二人を見て、ふっと笑った。
「無理に、普段から名乗らなくていいと思うわ」
カレンとクラリスが、リシアを見る。
「良樹だって、私たちにそれを押しつけたりしないでしょうし」
「私たちは、私たちの名前でいい」
「リシア」
「カレン」
「クラリス」
「普段は、それでいい」
リシアは、少しだけ胸を張る。
「ただし」
二人の目が、リシアへ向いた。
「ここは名乗るところだ、と思った時は」
「私が先に名乗るわ」
カレンの目が揺れる。
「リシアが……?」
「ええ」
「私は、家名の重さには慣れてるもの」
「だから、私が先に立つ」
リシアは少しだけ笑った。
「名乗ったあと、あなたたちを見るわ」
「その時は、こういう意味だと思って」
カレンとクラリスは、黙って続きを待った。
リシアは、まっすぐ二人を見た。
「ここは、私たちが上村の妻として立つところよ」
カレンは、胸元で手を握った。
「その時は」
「私も、名乗ります」
声は小さかった。
けれど、逃げてはいなかった。
「上村カレンです、って」
クラリスも頷く。
「私も」
「上村クラリスです、と」
リシアは二人を見て、少しだけ嬉しそうに笑った。
「ええ」
「それでいいわ」
三人は、しばらく黙った。
リシア。
カレン。
クラリス。
普段は、それでいい。
けれど、大切な時。
誰かに良樹との関係を問われた時。
良樹の妻として立たなければならない時。
その時、三人は同じ名前を名乗る。
上村。
良樹に与えられた名前ではない。
三人が、自分で選んだ名前だった。
◇
「それで」
リシアは、少しだけ空気を変えるように咳払いした。
「報告の結論をまとめるわ」
「まとめるんですか……?」
カレンが不安そうに言う。
「妻会議だからね」
「妻会議だから、で何でも通ってしまいますね……」
「便利ですね」
クラリスが微笑む。
「本当に便利ね」
リシアは呆れたように言いながらも、口元は緩んでいた。
「まず、カレン」
「は、はい」
「カレンは、良樹に安心して委ねられた」
「怖い場所を探さなくていい場所を、良樹の腕の中に見つけた」
カレンは真っ赤になったが、逃げずに頷いた。
「はい」
「次、クラリス」
「はい」
「クラリスは、良樹を治すだけの人じゃなくなった」
「休ませたい自分も、触れたい自分も、全部自分だって良樹に受け止められた」
クラリスは、静かに微笑んだ。
「はい」
「最後に、私」
リシアは少しだけ唇を尖らせた。
「私は、宣言通りにはできなかった」
カレンとクラリスは黙っていた。
リシアは続ける。
「良樹を甘やかすつもりだったのに」
「先に私が甘えた」
「良樹に助けてって泣きついた」
「そこは、まだ負け」
「負け、ですか」
クラリスが柔らかく言う。
「私の中ではね」
リシアは、少しだけ笑う。
「でも、それで終わりじゃない」
「私は、良樹が辛い時、真っ先に甘えてくるような女になる」
「上村リシアとして、そうなる」
カレンは、まっすぐリシアを見た。
「リシアなら、なれます」
「そう?」
「はい」
クラリスも頷く。
「なれます」
「良樹くんは、きっとリシアに甘えるのが下手です」
「ですが、下手な人ほど、受け止め方を知っている人が必要です」
「……そうね」
リシアは、少しだけ照れたように笑った。
「なら、私が上手くするわ」
「良樹が、ちゃんと甘えられるように」
カレンは、小さく微笑んだ。
「その時は、報告してください」
「え?」
リシアが顔を上げる。
クラリスも、すぐに頷いた。
「必ず報告してください」
「良樹くんがリシアに甘えた記録は、妻会議において非常に重要です」
「あなたたち、食いつきが早すぎない?」
「聞きたいです」
カレンが真剣に言う。
「私もです」
クラリスも真剣だった。
リシアは額に手を当てた。
「……分かったわよ」
「その時は報告する」
カレンとクラリスが、嬉しそうに頷いた。
リシアは、小さく息を吐いた。
照れくさい。
恥ずかしい。
けれど、悪くない。
良樹に甘えたこと。
良樹を甘やかせなかったこと。
それを二人に話しても、責められない。
むしろ、受け止められる。
この三人で良かった。
リシアは、そう思った。
◇
会議が終わりかけた頃。
外から、遠くに人の声が聞こえた。
良樹の声ではない。
近所を通る誰かの声だろう。
それでも、三人は一瞬だけ玄関の方を見た。
良樹が帰ってきたわけではない。
まだ、しばらくは戻らないはずだ。
良樹は今頃、アルフの付与解除を見ているのだろう。
かけたものを、どう外すか。
外し損ねた時、どう止めるか。
その先に何が残るか。
あるいは、ロブの耳と魔石通信を見ているのかもしれない。
届かない声を、どう届けるか。
ただ光るだけの石に、どう揺れを乗せるか。
良樹は外で、戻し方と届け方を見ている。
そして、その間に。
三人はこの家で、自分たちの名前と立ち方を決めた。
リシアは立ち上がった。
「さて」
「良樹が帰ってくる前に、お昼の準備をしましょう」
カレンも立ち上がる。
「はい」
クラリスも、静かに続いた。
「良樹くんが帰ってきたら、まず身体を見ます」
「そこは変わらないのね」
「はい」
「変わりません」
カレンは、少し笑った。
「私は、玄関の方を見ておきます」
「良樹さんが帰ってきたら、すぐ分かるように」
「カレンも変わらないわね」
「はい」
「変わりません」
リシアは、二人を見た。
クラリスは良樹の身体を見る。
カレンは良樹の帰ってくる場所を見る。
なら、自分は。
「私は」
二人がリシアを見る。
リシアは、少しだけ照れくさそうに笑った。
「良樹が帰ってきた時に、ちゃんと笑って迎えるわ」
「おかえり、って」
カレンとクラリスは、顔を見合わせた。
そして、柔らかく微笑む。
「はい」
「はい」
三人は階段を下りた。
リシア。
カレン。
クラリス。
普段は、その名前でいい。
けれど、いざという時。
良樹の妻として立つべき時。
リシアは先に名乗るだろう。
上村リシア、と。
そして、カレンとクラリスを見るだろう。
ここは名乗るところよ、と。
その時、カレンは震えながらも前を見て名乗る。
上村カレンです、と。
クラリスは静かに一歩出て名乗る。
上村クラリスです、と。
三人が選んだ名前。
良樹と同じ家の名。
その響きを胸の奥にしまって、三人は良樹の帰る家を整え始めた。




