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第115話 カレンの全部(挿絵有)

グレンとの決戦から、数日が経っていた。


 街はまだ、完全に元通りとは言えない。


 壊れたものは直さなければならない。

 不安になった者には説明がいる。

 魔石通信の件も、亜人集落の件も、アルフの件も、グレンの件も、何一つとして終わったわけではない。


 それでも。


 人は、少しずつ日常へ戻っていく。


 市場には声が戻り、ギルドには依頼が並び、施療院には今日も患者が来る。

 良樹たちもまた、必要な報告と確認を一つずつ片付けながら、ようやく息をつける時間を得ていた。


 そんな昼下がり。


 ギルドの奥部屋へ、一人の男が通された。


「カレン」


 低く、よく通る声だった。


 その声を聞いた瞬間、カレンの背筋がぴんと伸びた。


「……先生」


 部屋に入ってきたのは、五十をいくらか過ぎた頃合いの男だった。


 背は高い。

 肩幅もある。

 けれど、ただ大きいだけではない。


 無駄な肉がない。

 立ち方に隙がない。

 歩いているだけなのに、腰に吊るした剣まで含めて一つの形になっている。


 良樹は、その男を見た瞬間、反射的に思った。


 強い。


 ガレスとも違う。

 フィルとも違う。

 グレンとも違う。


 この男は、剣の人間だ。


 男はカレンを見た。


「久しいな」


「はい」


 カレンは胸元で両手を握ったまま、深く頭を下げる。


「お久しぶりです、先生」


「息災のようで何より」


 男の声は硬い。

 表情もほとんど変わらない。


 だが、ほんの少しだけ目が柔らかくなったのを、良樹は見逃さなかった。


 カレンは良樹の隣へ立ち、少し緊張した声で言う。


「良樹さん。こちらが、私に剣を教えてくださった先生です」


 男が良樹へ向き直る。


「リシュウと申す」


 良樹も立ち上がり、頭を下げた。


「上村良樹だ」


「聞いておる」


 リシュウは、良樹を上から下まで見る。


 値踏みではない。

 だが、ただの挨拶でもない。


 姿勢。

 呼吸。

 足の置き方。

 腕の重さ。

 目の逃げ方。


 全部を見られている気がした。


「主が、カレンの夫か」


「ああ」


 良樹は短く答えた。


「そうだ」


 その一言に、カレンの肩がほんの少し揺れる。


 リシュウはしばらく良樹を見ていた。


 それから、静かに言った。


「一つ、頼みがある」


「何だ」


「剣を合わせていただきたい」


 部屋の空気が止まった。


 リシアが眉を上げる。

 クラリスが静かに目を細める。

 カレンは思わず一歩前に出た。


「先生」


「案ずるな」


 リシュウはカレンを見ずに言った。


「勝負ではない」


「でも」


「剣で語れば、全て分かる」


 良樹は思わず天井を見た。


「……フィルさんと同じタイプかよ」


 カレンの父親代わり。

 つまり、義父。


 娘を嫁に出した男が、夫を見定めに来た。


 理屈は分かる。


 分かるが。


 どうしてこう、この世界の父親という生き物は物騒なのだろう。


 良樹は小さく息を吐いた。


「分かった」


「良樹さん……」


 カレンが不安そうに声を漏らす。


 良樹はカレンを見る。


「大丈夫だ」


「でも、先生の剣は……」


「ああ」


 良樹はリシュウを見る。


「多分、かなりヤバい」


「でしたら」


「だから受ける」


 カレンが言葉を失う。


 良樹は、少しだけ笑った。


「お前の夫を名乗るなら、受け止めなきゃいけねえんだろ」


 リシュウの目が、ほんのわずかに動いた。


   ◇


 ギルド裏の訓練場。


 そこは、冒険者たちが簡単な確認や手合わせをするための場所だった。


 大きな魔法を使うには狭い。

 だが、剣を合わせるには十分な広さがある。


 良樹とリシュウが向かい合う。


 少し離れた場所に、リシア、カレン、クラリスが立っていた。


 カレンは両手を胸の前で握りしめている。

 リシアは腕を組みながらも、いつでも風を起こせるように意識を張っている。

 クラリスは良樹の身体の状態を見ていた。


「良樹くん」


「ああ」


「無理をしたら止めます」


「頼む」


「止めても聞かなかった場合は」


「その場合は?」


「後で怒ります」


「そっちの方が怖いな」


 クラリスは清楚に微笑んだ。


「はい」


 良樹は右腕へ魔力を流す。


 胸の奥で盤が切り替わる。


 打撃腕。


 右腕の外側に、半透明の機構が現れる。


 クランク。

 リンク。

 アーム。

 軸。

 動力伝達。


 いつもの打撃形態ではない。


 今回は受ける。


 だから、良樹は打撃腕の先をブレード形態へ変えた。


 半透明の刃が、右腕の外側に沿って伸びる。


 それを見ても、リシュウは驚かなかった。


 ただ静かに、腰の剣へ手を置く。


「準備はよろしいか」


「ああ」


「では」


 リシュウの声が、すうっと低くなる。


「――いざ」


 その瞬間。


 リシュウは剣を肩口へ立てるように担いだ。


 良樹の全身に、嫌な汗が浮いた。


 知っている。


 あの構えを。


 日本にいた頃。


 時代劇で。

 漫画で。

 歴史ものの解説で。


 幾度となく目にした。


 口を揃えて「剛剣」と呼ばれた剣術流派の構え。


 良樹は思わず呟いた。


「……マジかよ」


 リシュウの目が細くなる。


「どうした」


「一つ聞きてえ」


「何だ」


「あんたの剣は、まさか一撃必殺が理念だったりするのか」


 リシュウの表情が、そこで初めてはっきり動いた。


「――主」


「当派を知っておるのか」


「ああ」


 良樹は苦笑した。


「俺が知ってるものと同じなら、日本じゃ有名なんだよ……」


「日本」


 リシュウは小さく呟く。


 良樹はそれ以上説明しなかった。


 打撃腕を構える。

 ブレード形態の刃を受けの角度へ置く。

 脚を開く。

 膝を落とす。

 逃げる気はない。


 挿絵(By みてみん)


 避ける気もない。


 これから行われるのは、戦いではない。


 結婚式で、新婦の父から新郎へ。


 新婦を預けるための儀式。


 甚だまことに物騒な様式ではあるが。


 良樹は、そう理解した。


「その意気や、良し」


 リシュウもまた、悟っていた。


 この男は、当派を知らぬ者ではない。

 あるいは、当派に極めて近い剣を知っている。


 知りながら。


 初太刀を避けずに、受けようとしている。


 不器用だ。


 私は。


 剣でしか語れない。

 剣でしか伝えられない。


 十年育てた娘への想いも。

 亡き友への義理も。

 自分は父ではないと言い張り続けてきた未練も。


 全て、この一太刀に乗せるしかない。


 だが。


 目の前の若者は、その不器用者の想いを、不器用に受けようとしてくれている。


 ――まことに、良き男を見初めたものだ。


「ちぇぇぇぇぇすとぉぉぉぉぉ!」


「叫び方まで一緒かよ!」


 次の瞬間。


 両者の剣が交差した。


 空気が破裂したような音がした。


「ぐっ、うぅぅぅ……!」


 重い。


 重いなんてもんじゃない。


 グレンの剣より重いかもしれない。


 いや。


 当たり前だ。


 これは、カレンの母親と。


 父親。


 二人分の想いの重さだ。


 受ける。


 受け切る。


 受け取ってみせる。


 そうじゃなきゃ、この不器用なカレンの父親に、夫として認められねえ。


 打撃腕のブレードが軋む。

 半透明の刃に細かな亀裂が走る。

 足元の土が割れる。


 良樹の膝が笑った。


 それでも踏ん張る。


 目が充血する。

 鼻血が一筋、唇の端まで流れた。


 喉の奥から、変な音が漏れる。


 それでも。


 膝だけは、絶対につかない。


 数瞬の後――。


 先に剣を引いたのは、リシュウだった。


「……見事」


 短い一言だった。


 良樹はすぐには返せなかった。


 息を吸うだけで、身体の奥が悲鳴を上げる。


 打撃腕の輪郭が揺れ、ブレード形態が小さく震えている。


 それでも、良樹は立っていた。


挿絵(By みてみん)


「……受け、切ったぞ」


 掠れた声で言う。


 リシュウは静かに頷いた。


「うむ」


 そして、剣を下ろした。


「主は、剣士ではないな」


「いきなりそれかよ……」


「らしい動きはある。だが、構えも、足も、呼吸も、未熟もいいところよ」


 良樹は鼻血を袖で拭った。


「そこまで言うか」


「言う」


 即答だった。


 だが、リシュウの目はもう鋭くなかった。


「――だが」


 その声だけが、少し柔らかくなる。


「まことに、良き男であるな」


 カレンの息が止まった。


 リシュウは良樹ではなく、カレンを見る。


「これで私も、ようやく」


 一度だけ、言葉を切る。


「この子の両親に、顔向けができよう」


 その瞬間。


 カレンの顔が崩れた。


「……先生」


 一歩。


「先生――」


 もう一歩。


 そして、子供のように泣きながら、リシュウへ飛びついた。


挿絵(By みてみん)


「お父さん……!」


 リシュウの身体が、ほんの少し固まった。


「――私は、主の父ではないと、あれほど」


「違いません……!」


 カレンは首を振った。


 涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも必死に笑おうとしていた。


「私、今すごく幸せなんです」


「カレン」


「お父さんが教えてくれた剣があったから」


 カレンはリシュウの胸元を握る。


「怖くても、前に出ることを教えてくれたから」


「私は、良樹さんに会えたんです」


 リシュウは何も言わなかった。


 言えなかった。


 カレンはずっと怖がりだった。


 両親を失った日から、何も怖くない子供になどなれなかった。


 大きな音が怖かった。

 魔物の影が怖かった。

 誰かがいなくなることが怖かった。

 自分が置いていかれることが怖かった。


 けれど、リシュウは一度も「怖がるな」とは言わなかった。


 怖いなら、見よ。


 怖いなら、構えよ。


 怖いなら、足を置け。


 怖いまま前に出られる者だけが、守るものの前に立てる。


 そう教えた。


 剣しか教えていないと、リシュウは思っていた。


 女の子らしいことは、何一つ教えられなかったと思っていた。


 髪の結い方も。

 可愛い服の選び方も。

 菓子の焼き方も。

 恋をした時の顔も。


 そういうことは、道場に出入りする人々や、近所の者たちが教えたのだと。


 自分はただ、剣しか渡せなかったのだと。


 けれど。


 カレンにとって、その剣は生き方だった。


 怖くても前を見ること。

 怖くても守ること。

 怖いからこそ、誰かの危険に気づけること。


 それを教えてくれたのは、この人だった。


「ありがとう」


 カレンは、もう一度言う。


「ありがとう、お父さん」


 リシュウはしばらく黙っていた。


 やがて、剣を持っていない方の手で、不器用にカレンの頭へ触れる。


 撫でる、というには硬い。


 稽古の後、姿勢を直す時のような手つきだった。


 それでも。


 確かに優しかった。


「……幸せか」


「はい」


「そうか」


 リシュウは目を閉じた。


「ならば、よい」


 カレンは泣きながら頷いた。


 リシアは少しだけ目元を押さえ、クラリスは静かに微笑んでいる。


 良樹は、まだ鼻血を拭いながらそれを見ていた。


 正直、身体はきつい。


 右腕も痺れている。


 膝もまだ笑っている。


 だが。


 受けてよかった。


 心底そう思った。


   ◇


 しばらくして、カレンがようやくリシュウから離れた。


 顔は赤い。

 目元も腫れている。


 それでも、どこか晴れやかだった。


 リシュウは良樹へ向き直る。


「良樹殿」


「ああ」


「この子を、頼むぞ」


 良樹は一拍だけ黙った。


 そして、真っ直ぐ答える。


「元からそのつもりだよ」


 カレンが顔を上げる。


 良樹は鼻血の残った顔のまま、いつものように少しだけ口の端を上げた。


「惚れてるからな」


 カレンの顔が一気に赤くなった。


「よ、良樹さん……!」


 リシュウは目を細める。


 それから、安心したように笑った。


「そうか」


「ならば、よい」


 良樹はそこで、ふと思い出したように言う。


「――それと」


「何だ」


「孫の顔は、もう少し待ってくれ」


 リシュウの眉が動いた。


「主は、人の心が読めるのか」


「二回目なんだよ!」


 良樹は思わず叫んだ。


 リシアが静かに顔を赤くする。


 クラリスは清楚に微笑んだ。


「赤ちゃん、ですね」


「クラリス、乗るな」


 カレンはその場で完全に固まっていた。


「まご……」


 ぽつりと呟く。


「赤ちゃん……」


 さらに小さく。


「良樹さんとの、子供……」


 そして、耳まで真っ赤になる。


「カレン!?」


「あ、あの、いえ、まだ、その、でも、いつかは、えっと……!」


 良樹は頭を抱えた。


「なんで全員そうなるんだ」


 リシアは目を逸らしたまま言う。


「今の流れで、ならない方が難しいわよ」


「リシアまで……」


「私は何も言ってないわ」


「顔が言ってる」


「見ないで」


 クラリスはにこりと微笑む。


「良樹くん」


「何だ」


「お身体の確認をします。鼻血と膝と右腕です」


「急に治癒者に戻るな」


「赤ちゃんの前に、まず良樹くんの身体です」


「だから乗るなって言ってんだろ!」


 リシュウはその様子をしばらく見ていた。


 そして、低く笑う。


「良き家族であるな」


 その一言で、良樹は少しだけ黙った。


 カレンも。


 リシアも。


 クラリスも。


 みな、同じように言葉を失う。


 家族。


 その言葉が、今は妙に温かかった。


 カレンは小さく頷く。


「はい」


 涙の残る顔で、幸せそうに笑った。


「私の、大切な家族です」


   ◇


 その夜。


 昼間の出来事の余韻は、まだカレンの胸の奥に残っていた。


 先生。


 お父さん。


 そう呼んだ瞬間のことを思い出すたび、胸が熱くなる。


 十年間。


 父ではないと言われてきた。


 自分も、先生と呼び続けてきた。


 けれど、本当は分かっていた。


 あの人は、ずっと父だった。


 髪を結うのは下手だった。


 可愛い服を褒めるのも下手だった。


 甘い菓子の話も、祭りの小物の話も、ほとんど分からない人だった。


 先生はいつだって、少し困った顔でそれを見ていた。


 自分には剣しか教えられない。


 きっと、そう思っていた。


 でも。


 怖くても前へ出ること。


 怖いものから目を逸らさないこと。


 守りたいものがあるなら、足を止めないこと。


 それは、全部あの人が教えてくれた。


 だから今の自分がいる。


 だから、良樹に会えた。


 カレンは、そっと良樹の部屋の前に立った。


 今日は自分の番だった。


 リシアの夜があった。


 クラリスの夜があった。


 そして今夜は、自分の夜。


 けれど、ただ順番だから来たわけではない。


 昼間、父から良樹へ託された。


 でも、それだけでは足りない。


 カレンは、誰かに渡されるだけの女ではない。


 自分で選んだ。


 良樹を。


 良樹の妻であることを。


 良樹のものになることを。


 カレンは、小さく息を吸った。


 そして、扉を叩く。


「良樹さん」


「ああ」


 中から声がした。


「入っていいぞ」


 カレンは扉を開けた。


 部屋の中では、良樹が寝台の端に座っていた。


 昼間の鼻血はもう止まっている。

 右腕の具合も、クラリスがしっかり確認していた。

 それでも、少しだけ疲れが残っている顔だった。


 良樹はカレンを見る。


「大丈夫か」


 カレンは少しだけ笑った。


「それは、私の台詞です」


「俺は平気だ」


「嘘です」


「嘘じゃねえ」


「クラリスが、右腕と膝に負担が残っていると言っていました」


「……あいつは報告が正確だな」


「はい」


 カレンは良樹の前に立つ。


 昼間とは違う緊張があった。


 怖い。


 恥ずかしい。


 でも、逃げたくはない。


「良樹さん」


「ああ」


 カレンは、両手を胸の前でぎゅっと握りしめた。


「今夜」


 声が少し震える。


 それでも、言葉を止めなかった。


「私の全部を受け取ってください」


 良樹は黙って、カレンを見る。


「心も」


「体も」


「想いも」


「全部、良樹さんのものになりたいです」


 カレンは一度だけ息を吸った。


 頬が熱い。


 耳まで熱い。


 それでも、言う。


「私を……良樹さんのものにしてください」


 言い切った。


 だが、そこで終われなかった。


 小さな不安が、ぽろりと零れる。


「――おっぱいは、小さいですけど……」


 良樹は、その一言には何も返さなかった。


 慰めもしない。


 否定もしない。


 茶化しもしない。


 カレンが本当に伝えたかったことは、そこではないと知っているからだ。


 良樹は、これまでにも何度もカレンと肌を重ねてきた。


 だから知っている。


 カレンが、こういう愛され方を望む女だということを。


 だから良樹も、カレンにだけは自分の独占欲をあまり隠さずに接してきた。


 ――なのに。


 それでもまだ、カレンは足りないと言っている。


 オーガとの戦いで。


 思わず口をついて出た言葉。


 俺の女達。


 あれは紛れもない本音だった。


 そして今。


 カレンは、その本音ごと欲しいと言ってくれている。


 なら。


 もう遠慮はしない。


 カレンは俺の女だ。


 俺だけの女だ。


 その想いを。


 言葉だけではなく。


 心にも、体にも。


 徹底的に分からせてやる。


 ――なんとも身勝手な物言いだ。


 そう思う。


 それでも。


 目の前の女は、それを望んでくれている。


 良樹の中にある、少し乱暴で、少し身勝手で、けれど確かに本物の独占欲。


 カレンは、それを怖がらずに差し出してくれと言っている。


 なら。


 夫として、応えるしかない。


 良樹はゆっくりと立ち上がった。


 カレンの前へ歩み寄る。


 そして、そっと頬へ触れた。


「分かった」


 短い一言。


 それだけで、カレンの瞳が潤む。


「遠慮なく貰う」


「……はい」


「お前の全部を俺のもんにして」


 良樹は真っ直ぐカレンを見る。


「俺の女にする」


 カレンの唇が震えた。


 けれど、その顔は怯えていなかった。


 嬉しそうだった。


 泣きそうなほど、幸せそうだった。


「はい」


 カレンは、自分から良樹の胸へ身を預けた。


「お願いします」


 良樹はカレンを抱きしめる。


 細い背中。

 震える肩。

 それでも逃げない腕。


 怖がりで。


 けれど、誰よりも前へ出てきた女。


 怖いものを見つけて。

 怖い場所へ立って。

 怖いまま守ってきた女。


 そのカレンが今だけは、安心して後ろに下がろうとしている。


 良樹の腕の中へ。


 カレンは良樹の服をぎゅっと握る。


挿絵(By みてみん)


「良樹さん」


「ああ」


「私」


 声が震える。


「怖がりで」


「ああ」


「すぐ赤くなって」


「ああ」


「ちゃんと女の子らしいかも、分からなくて」


「ああ」


「でも」


 カレンは顔を上げた。


「良樹さんのものになりたいです」


 良樹は、もう何も迷わなかった。


「知ってる」


 そう言って、カレンの唇を奪った。


 カレンは一瞬だけ震えた。


 それから、ゆっくりと良樹へ応える。


 良樹の手が、カレンの背を支える。


 カレンの身体から、少しずつ力が抜けていく。


 委ねている。


 ただ流されているのではない。


 自分の意思で。


 良樹を信じて。


 良樹へ預けている。


 良樹は唇を離し、カレンの額へ自分の額を合わせた。


「カレン」


「はい」


「今日は、逃がさねえぞ」


 カレンの顔が真っ赤になる。


 けれど、目は逸らさない。


「……逃げません」


 良樹の中の何かが、静かに決まった。


 カレンがそう言われて、どうしようもなく安心することを、良樹はもう知っていた。


 怖がりのカレンが、怖い場所を探す目を閉じるために。

 いつも剣を握る手から、力を抜くために。

 自分から選んだ男の腕の中でだけ、全部を預けられる女になるために。


 そういう言葉を欲しがっていることを、良樹は分かっていた。


 そして同時に。


 良樹自身も、その言葉を欲しがっていた。


 カレンを俺の女だと思っている。

 カレンを俺だけのものにしたい。


 その独占欲を、一方的に押しつけるのは違う。

 そう思って、今まで何度も飲み込んできた。


 けれど、目の前の女は、それを望んでくれている。

 怖がりながら。

 恥ずかしがりながら。

 それでも、良樹の独占欲ごと受け取りたいと言ってくれている。


 なら、もう隠さない。


 良樹はカレンを抱き上げる。


 カレンは小さく声を漏らし、反射的に良樹の首へ腕を回した。


「良樹さん……」


「お前から言ったんだ」


「はい」


「全部貰う」


「はい」


 寝台へ、そっと横たえる。


 月明かりの中で、カレンが良樹を見上げていた。


 恥ずかしそうに。


 怖そうに。


 それでも、嬉しそうに。


「良樹さん」


「ああ」


「私を」


 カレンは、もう一度言った。


「良樹さんだけの女にしてください」


 良樹は答えず、もう一度唇を重ねた。


 今夜は。


 十年育てた父から託された娘を。


 そして、自分の意思で全てを差し出してくれた妻を。


 一人の男として。


 一人の夫として。


 心の底から受け取る夜だった。


   ◇


 夜は、静かに更けていった。


 外の音は遠い。


 月明かりも、いつの間にか薄くなっていた。


 カレンは良樹の腕の中で、浅く息を整えていた。


 身体は熱い。


 心も、まだ熱い。


 それでも、不思議なほど穏やかだった。


 怖くなかったわけではない。


 恥ずかしくなかったわけでもない。


 でも。


 全部、良樹に受け止められた。


 全部、良樹に貰ってもらえた。


 その事実だけで、胸の奥が満たされていた。


 昨夜、何度も答えた言葉が、まだ胸の奥に残っている。


 良樹さんの女。


 良樹さんだけのもの。


 言葉にするたび、恥ずかしくて、泣きそうで、それなのにたまらなく嬉しかった。


 良樹は分かっていた。

 カレンがそう言われると、どうしようもなく安心してしまうことを。

 そう言わされると、怖いものを探す目も、剣を握る手も、全部ほどけてしまうことを。


 分かっていて、言わせてくれた。


 そして、きっと。


 良樹自身も、その答えを欲しがってくれていた。


 それが、カレンには嬉しかった。


「カレン」


 良樹の声が近くで聞こえる。


「はい」


「大丈夫か」


 カレンは少しだけ笑った。


「はい」


 それから、良樹の胸元に頬を寄せる。


「怖くありません」


「そうか」


「はい」


 カレンは目を閉じる。


「だって」


 小さく呟いた。


「一番怖いところが」


「一番安心できる場所になりましたから」


 良樹は何も言わなかった。


 ただ、カレンを抱く腕に少しだけ力を込めた。


 それだけで、カレンには十分だった。


 怖がりの自分。


 剣しか教えられなかったと思っている父。


 その剣で出会えた夫。


 全部が、今ここに繋がっている。


 カレンは、幸せそうに息を吐いた。


「良樹さん」


「ああ」


「私、今」


 少しだけ笑う。


「すごく、幸せです」


 良樹は、カレンの髪へ口づけた。


「俺もだ」


 カレンはその言葉を胸に抱いたまま、ゆっくりと眠りへ落ちていった。


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