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第114話 悪い子は、お仕置きです(挿絵有)

 ギルドの奥部屋には、いくつかの魔石と、良樹の書き散らした紙が並んでいた。


 紙の上には、丸や線や矢印が並んでいる。

 その横に、ロブが腕を組んで座っていた。


「今の合図は分かる」


 ロブは、机の上の魔石を顎で示した。


「倒れた」

「変な奴が来た」

「すぐ来い」

「後で相談」

「それくらいなら、まあ使える」


「なら十分だろ」


 良樹はそう言いながら、紙の端に符号を書き足した。


「十分じゃねぇ」


 ロブは即座に返した。


「本当に困った時ってのは、もっと細かいことを言いたくなる」

「誰が倒れたのか」

「どこが痛いのか」

「何人いるのか」

「相手が人間なのか、魔物なのか」

「そういうのを、いちいち石の光り方で決めてたら間に合わねぇ」


「まあ、それはそうだな」


 良樹は紙の上で指を止めた。


 今の魔石通信は、あくまで簡易的な符号通信だ。

 決まった魔力の揺れで魔石を共鳴させ、その反応を合図として読む。

 単純だからこそ安定している。

 だが、そのぶん伝えられる情報は少ない。


 現場で使う側からすれば、不満が出るのは当然だった。


「なあ、良樹」


「何だ」


「これ、声は送れねぇのか」


 良樹は顔を上げた。


「声?」


「ああ」


 ロブは自分の耳を軽く指で弾いた。


「この石、光ってるだけじゃねぇ」

「鳴ってる」

「普通の奴には聞こえねぇかもしれねぇけど、俺には分かる」

「細く震えてるみてぇな音がする」


「……」


「だったら、その震え方を変えりゃ、声みてぇなもんを送れねぇのか」


 良樹は黙った。


 ロブは理屈を語っているわけではない。

 魔力理論を理解しているわけでもない。

 ただ、耳で拾っている。

 通信石の共鳴を、光ではなく音のようなものとして感じている。


 それは、良樹だけでは拾えない発想だった。


「試したのか」


「少しな」


 ロブは顔をしかめる。


「声に合わせて魔力を震わせようとすると、石が鳴らなくなる」


「振動数がズレるんだろうな」


「振動数?」


「今この石は、決まった揺れじゃねえと繋がらねえ」

「そこを声に合わせて変えたら、通信そのものが切れる」


「じゃあ、声は無理か」


「今はな」


 良樹は紙に、一本の横線を書いた。

 その上に、小さな波を書き足す。


「ただ……」


「何だよ」


「何かあった気がする」


「何が」


「元の世界で、似たようなことをしてたはずだ」


 良樹は眉間に皺を寄せる。


 声。

 波。

 信号。

 電波。

 搬送波。

 変調。


 言葉の欠片のようなものが、頭の奥をかすめる。

 だが、掴もうとすると逃げる。

 知っていたはずなのに、使える形で出てこない。


「まだ思い出せねえ」

「けど、声に合わせて揺れ全部を変えるんじゃねえ」

「決まった揺れは残す」

「たぶん、その上に何かを乗せる」


「上に乗せる?」


「ああ」

「声そのものを飛ばすんじゃねえ」

「声の形を、別の揺れに乗せる」

「……気がする」


「気がする、かよ」


「今はそれが限界だ」


 良樹は紙の端に書き込んだ。


 振動数固定。

 強弱?

 声を上に乗せる。

 ロブの耳で確認。


「思い出せたら伝える」


「忘れんなよ」


「忘れた知識を思い出せたらな」


「面倒くせぇ言い方だな」


「記憶ってのは面倒くせぇんだよ」


 良樹はそう言って、ようやく羽根ペンを置いた。


 話はそこで一区切りついた。

 魔石通信の音声化は、今すぐできるものではない。

 だが、課題として残った。

 そして、ロブの耳がその鍵になるかもしれない。


 少し離れた席で話を聞いていたクリスが、そこで口を開いた。


「二人とも、ずいぶん熱の入った話をしていたね」

「石の向こうに、まだ誰も聞いたことのない声を探しているようだった」


 ロブが、心底呆れたようにクリスを見る。


「その言い方、毎回よく思いつくな」


「僕は僕の感じたままを言葉にしているだけさ」


「それが一番面倒くせぇんだよ」


 良樹がぼやく。


「作ってねぇのかよ」


 ロブが言う。


「作っていた方がよかったかな?」


「いや、素でそれなのが一番タチ悪い」


「手厳しい義弟だね」


「悪友枠に落ちてんだよ、お前は」


「それは光栄だ」


 クリスは楽しそうに笑った。


 良樹はため息をつく。

 ロブも似たような顔をしている。


 年が近いせいもあるのだろう。

 良樹にとって、クリスは義兄というより、少し面倒な悪友に近くなっていた。

 ロブにとっても同じだ。

 クリスは施療院の人間であり、信頼できる相手ではある。

 だが、いちいち言い回しが遠い。

 そこを雑に突っ込める程度には、すでに距離が縮まっている。


「良樹くん」


 その時、クラリスが静かに声をかけた。


「今日は、ここまでですね」


「まだ試験すらしてねえぞ」


「はい」

「ですから、今日はここまでです」

「試験する前に止めています」


 良樹は言葉に詰まった。


 確かに、今の自分は試したかった。

 紙の上に浮かんだ欠片を、実際に魔石へ流してみたかった。

 だが、それをやれば、きっと止まらない。

 思い出せそうな感覚に引っ張られて、必要以上に魔力を使う。


 クラリスは、それを見ていた。


「……正しいから腹が立つな」


「正しいことは、時々腹が立つものです」


「誰に似たんだ、その言い方」


 良樹がぼやくと、クリスがふとクラリスを見た。


「母上かな」


 クラリスの手が、少しだけ止まる。


「母様に、ですか」


「ああ」


 クリスは、懐かしむように目を細めた。


「母上は、痛みが言葉になる前に手を伸ばす人だった」

「誰かが無理をする前に、そっと止める人だった」


 クラリスは静かに目を伏せる。


「母様は、とても優しい方でした」


 その言葉に、ロブが眉を寄せた。


「あの人が、か?」


 クラリスが顔を上げる。


「何か、母様に含みのある言い方をされていますね」


「含みっつうか……」


 ロブは困ったように頭をかいた。


「お前らは知らねぇのかよ」

「俺らからしたら、フィルさんよりソフィアさんの方が怖かったもんだぜ」


 クラリスとクリスの動きが止まった。


 良樹も顔を上げる。


「ソフィアさんが?」


「ああ」

「何回ゲンコツもらったか覚えてねぇよ」


「「「ゲンコツ?!」」」


 三人の声が、綺麗に重なった。


 ロブはその反応に、逆に少し引いた顔をする。


「何だよ、その反応」

「あの人、悪いことしたガキには普通に落としてたぞ」

「人間にも」

「亜人にも」

「分け隔てなくな」


 挿絵(By みてみん)


「母上が……?」


 クリスは、珍しく素で驚いていた。


「母様が……?」


 クラリスもまた、信じられないものを聞いたような顔をしている。


「お前らが知らねぇのは当たり前だろ」

「お前ら、いい子だったんだろうが」


「それは、まあ」

「母上に拳骨を落とされるようなことは、していないつもりだね」


「私も、母様に叱られた記憶はありますが……ゲンコツは……」


「だから知らねぇんだよ」


 ロブは肩をすくめた。


「ロブたちは?」


 良樹が聞く。


「悪ガキだった」


「即答かよ」


「否定できねぇことは否定しねぇ」


 ロブはそう言ってから、少しだけ遠くを見る。


「ソフィアさんは、優しかったよ」

「怪我したら、すぐ診てくれた」

「泥だらけでも、獣臭くても、嫌な顔ひとつしなかった」

「泣いてる奴がいたら、しゃがんで目ぇ合わせてくれた」


 クラリスは黙って聞いていた。


 自分の知っている母と、ロブの語る母。

 重なるようで、どこか違う。


 だが、知らない人の話を聞いている気はしなかった。


「でもな」


 ロブは鼻を鳴らした。


「悪さしてると、後ろから声がするんだよ」


「声、ですか?」


「ああ」

「静かで、優しくて、逃げ道のねぇ声だ」


「それもう怖ぇ声じゃねえか」


 良樹が言う。


「怖ぇよ」


 ロブは、当時の声を思い出すように、少しだけ肩をすくめた。


「あなた達」


 ロブの声が、わずかに細くなる。


「――悪い子は、お仕置きです」


 言い終えたロブは、自分の頭を指で軽く叩いた。


「で、ゴチンだ」

「人間にも、亜人にも、同じようにな」


「聖女の拳骨か」


 良樹が呟く。


「洒落にならねぇぞ」


 ロブは真顔で返した。


「母上が……」


「母様が……」


 クリスとクラリスは、まだ衝撃から戻ってこない。


「いい子には優しい母親だったんだろうさ」

「悪ガキには、優しいだけじゃ済まねぇ母親だった」


 ロブは、そこでクラリスを見た。


「でもな」

「だから信用できた」


「信用?」


「ああ」

「俺らを哀れんで優しくしてたんじゃねぇ」

「ちゃんと悪ガキとして怒ってくれた」

「子供として扱ってくれた」


 クラリスは言葉を失った。


 亜人だから優しくされたのではない。

 可哀想だから手を差し伸べられたのでもない。

 悪いことをした子供として、きちんと叱られた。


 ロブにとって、それは優しさの証だった。


「だから、今のあんたは似てる」


 ロブは言った。


「私が、ですか」


「ああ」

「昔のあんたは違った」

「ぶっ壊して、治せばいいって顔してた」


 クラリスは否定しなかった。


 良樹に会う前の自分なら、確かにそうだった。

 敵なら制圧する。

 壊れても治せる。

 命があれば戻せる。

 それでいいと思っていた。


「でも今は違う」

「あんた、良樹が壊れる前に止めるだろ」


 ロブは顎で良樹を示した。


「無茶する前に見てる」

「逃げようとしたら、清楚な顔で逃げ道を塞ぐ」


「そこまで言うか」


「言う」


 ロブは短く返した。


「そこが似てる」

「ソフィアさんに、よく似てる」


「私が……母様に……」


 クラリスは、小さく呟いた。


 母の真似をしていたつもりはない。

 母の代わりになろうとしていたわけでもない。

 ただ、良樹と出会い、良樹を好きになり、良樹の妻になった。


 そして、良樹が壊れそうになるたびに思った。


 止めなければ、と。


 その自分が、母によく似ていると言われた。

 しかも、母の別の顔を知っているロブから。


 胸の奥が、少しだけ温かくなった。


「なるほど」


 クリスは静かに息を吐いた。


「僕たちの知らない母上、か」


「お前らが知らなすぎただけだろ」


 ロブが言う。


「それは耳が痛いね」


「耳なら俺の方がいい」


「そこは認めよう」


「認めんのかよ」


 良樹が突っ込むと、空気が少しだけ緩んだ。


 その緩んだ空気の中で、クリスがふと良樹を見る。


「ところで良樹君」


「何だ」


「早く甥か姪の顔を――」


「兄様」


 クラリスの声は、いつも通り穏やかだった。


 清楚に。

 柔らかく。

 にこりと微笑んだまま、クラリスは兄を見た。


「その話は、よしてくださいと」

「言っておきましたよね?」


 クリスの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。


「い、いや、これは父上からも――」


「父様が、と?」


 クラリスは、変わらず微笑んでいた。


 ただ、その右手が。

 本人も気づかないほど自然に、軽く握られていた。


 良樹はその拳を見た。

 クリスも見た。

 ロブも見た。


 少しの沈黙。


 ロブが、ぼそりと呟いた。


「――似てるなんてもんじゃねぇわ」

「生き写しだ……」


「え?」


 クラリスだけが、きょとんとしていた。


「何か?」


 清楚に首を傾げるクラリス。


 その拳は、まだほどけていなかった。


挿絵(By みてみん)


「クラリス」


「はい」


「拳」


「……拳?」


「握ってる」


「まあ」


 クラリスは自分の右手を見て、少しだけ頬を赤らめた。


「無意識でした」


「それが一番怖ぇんだよ」


 ロブが呟く。


「俺に言わせれば、完全にソフィアさんだったぞ」


「そんなにですか?」


「そんなにだ」


 良樹が頷く。


「良樹くんまで……」


「でも、いいんじゃねえか」


「いいのですか」


「真似してるわけじゃねえんだろ」

「だったら、それはもうクラリスのもんだ」


「私のもの……」


「ああ」

「お前の優しさだ」

「お前の手だ」

「お前の拳骨だ」


「拳骨まで、私のものなのですね」


「そこは間違いねぇ」


 ロブが即答した。


「僕も異論はないね」


 クリスも頷く。


「もう……」


 クラリスは困ったように微笑んだ。


 だが、その笑みはどこか嬉しそうでもあった。



 その夜。


 良樹の隣にいたのは、クラリスだった。


 三人で決めた順番。

 その中の、クラリスの番。


 部屋の灯りは落とされている。

 外の喧騒も遠い。

 昼間のギルドでのやり取りが、今は少しだけ遠い出来事のように思えた。


 それでも、クリスの言葉はクラリスの中に残っていた。


 甥か姪。


 つまり、良樹くんとの子供。


 欲しくないわけがない。


 クラリスは、隣にいる良樹を見つめた。


 もし授かれたら。

 良樹くんに似た子だったら。

 自分に似た子だったら。

 リシアさんやカレンさんにも甘やかされて。

 良樹くんが困ったように笑って。

 その子が、自分たちの間で笑っていたら。


 それはきっと、どうしようもないほど幸せな未来だ。


 けれど。


 今ではない。


 今、良樹に必要なのは、父になることではない。

 未来を急ぐことではない。

 家族を増やすことでもない。


 今、目の前にいる良樹は、まだグレンとの戦いから帰りきれていない。


 身体の傷は治った。

 魔力の流れも、大きく乱れてはいない。

 呼吸も、脈も、日常に戻りつつある。


 だが、心は違う。


 良樹はまだ、背負っている。


 俺が殺した。

 俺の都合で殺した。

 俺が選んだ。

 俺が背負う。


 その声が、良樹の奥にまだ残っている。


 クラリスには、それが見える気がした。


「良樹くん」


「ん?」


「昼間、兄様が言ったことですが」


「ああ……悪い」

「あれはクリスが勝手に――」


「怒っているわけではありません」


 良樹は少し黙った。


「良樹くんとの子供が欲しくないわけでは、ありません」


「……クラリス」


「もし、いつか授かれたら」

「きっと、とても幸せです」

「良樹くんに似ていても」

「私に似ていても」

「リシアさんやカレンさんに甘やかされても」

「きっと、幸せです」


 クラリスはそこで、少しだけ笑った。


「ですが」

「今夜は、そのためではありません」


「そのためじゃない?」


「はい」


 クラリスは、良樹の胸にそっと手を置いた。


「今夜は」

「良樹くんを、休ませてあげたいのです」


「俺は休んでるぞ」


「身体は、です」


 良樹は言葉に詰まった。


 クラリスは、その沈黙を逃がさなかった。


「グレンさんのことを」

「まだ、考えていますよね」


「……考えない日はねえよ」


「はい」

「良樹くんは、そういう方です」

「忘れてしまえる方ではありません」


「忘れちゃいけねえと思ってる」


「分かっています」

「だから、忘れてくださいとは言いません」


 クラリスは顔を上げた。


「グレンさんを殺したことを、なかったことにはできません」

「良樹くんが背負ったものを、軽くすることもできません」

「正しかったから苦しまなくていいなどと、そんな軽い慰めを言うつもりもありません」


 一拍。


「でも」

「私に触れている間だけでも」

「私を抱いている間だけでも」

「その声を、聞こえなくしてあげたいのです」


「クラリス……」


「母様なら」


 クラリスは少しだけ微笑んだ。


「悪い子には、お仕置きです、と言ったのでしょう」


「俺は悪い子か?」


「はい」


「即答かよ」


「自分を痛めつける良樹くんは、悪い子です」


 良樹は笑おうとして、笑いきれなかった。


「ですが」

「今夜のお仕置きは、拳骨ではありません」


「じゃあ、何だ」


 クラリスは良樹の背に腕を回した。


 逃がさないように。

 支えるように。

 そして、自分ももう逃げないように。


「私に、溺れてください」


「クラリス――」


 良樹が何かを言おうとした。


 けれど、その言葉は最後まで形にならなかった。


 クラリスが良樹を抱き込んだまま、身体を傾けた。

 寝台が柔らかく軋む。


 クラリスは自分が下になるように倒れ込み、良樹をその上へ受け止めた。


 良樹が息を呑む。


「待て、クラリス」


「待ちません」


 クラリスは静かに微笑んだ。

 清楚に。

 けれど、もう良樹を逃がすつもりのない女の顔で。


「良樹くんが、待ってしまうからです」


 そう言って、クラリスは良樹の唇を奪った。


 優しいだけの口づけではなかった。

 縋るように。

 求めるように。

 良樹の中に残る苦しみごと、自分の中へ沈めてしまうように。


 良樹の息が乱れる。


 クラリスは唇を離し、今度はその熱を良樹の首筋へと這わせた。

 良樹の喉が小さく震える。


 その震えに、クラリスの胸の奥も熱を帯びた。


 癒してあげたい。


 けれど、それだけではない。


 欲しい。


 良樹くんが欲しい。

 良樹くんに、私を欲しいと思ってほしい。

 良樹くんが、私以外のことを考えられなくなるくらいに。


 クラリスの指が、良樹の服にかかった。

 ひとつずつ、逃げ道をほどくように。

 良樹を責任からではなく、今夜だけは苦しみから解くように。


 良樹の手もまた、迷いながらクラリスへ伸びた。


 その指がクラリスの服へ滑り込んだ瞬間、クラリスは小さく息を震わせた。


「良樹くん」


 クラリスは、良樹を見上げる。


「抱いてください」


 その声は、震えていた。

 けれど、迷ってはいなかった。


「良樹くんの、好きなように」


 良樹の目が揺れる。


 クラリスはその目を見つめたまま、良樹の服をさらに引き寄せた。


「私も」


 息が触れる距離で、囁く。


「私も、好きなように良樹くんを求めます、から……」


 良樹の中に残っていた最後の躊躇が、そこで崩れた。


 クラリスは目を閉じる。


 良樹を癒すために。

 良樹を求めるために。

 そして、自分も良樹に溺れるために。


 夜は、二人を静かに包み込んだ。



 夜明け前。


 クラリスは、ふと目を覚ました。


 部屋の中はまだ暗い。

 窓の向こうが、ほんの少しだけ白み始めている。


 隣では、良樹が静かに眠っていた。


 クラリスは、まず息を殺した。


 起こさないように。

 触れる指先に力を入れすぎないように。


 良樹の寝息を聞く。

 呼吸は深い。

 乱れはない。


 額に手を添える。

 熱はない。


 首元に触れる。

 汗はかいている。

 けれど、悪い発汗ではない。


 脈を確かめる。

 落ち着いている。


 魔力の流れも、大きく乱れてはいなかった。


 よく眠っている。


 クラリスは、胸の奥で小さく息を吐いた。


 良かった。


 昨夜、良樹くんは少しだけでも私に溺れてくれた。

 その間だけでも、グレンさんのことを。

 自分を責める声を。

 遠くへ置いてくれた。


 そう思うと、胸の奥が温かくなる。


 クラリスは、良樹を起こさないように顔を近づけた。


 昨夜の余熱を確かめるように。

 自分がちゃんと良樹のそばにいると確かめるように。


 そっと、唇を重ねる。


 一度だけ。


 一度だけで、やめるつもりだった。


 けれど。


 唇が離れた瞬間、クラリスの中で何かがほどけた。


 もう一度。


 今度は少しだけ長く。


 良樹の寝息が、微かに揺れる。


 起こしてはいけない。

 そう思った。


 思ったのに、止まらなかった。


 治癒者として確認していたはずの頭が、少しずつ塗り替えられていく。


 寝息。

 体温。

 昨夜、自分を抱いた腕。

 自分を求めてくれた声。

 自分に溺れてくれた良樹。


 気づけば、クラリスの中に残っていたのは、ただのひとつだった。


 良樹くんが好き。


 どうしようもなく、好き。


 もう一度、唇を重ねようとした時だった。


「クラリス」


 低い声がした。


 びくり、とクラリスの全身が跳ねた。


 慌てて顔を離し、そのまま良樹に背を向ける。

 寝たふりをする。


 無理がある。

 自分でも分かった。


 耳まで熱い。

 顔も、首も、全部が熱い。


「……起こして、ごめんなさい」


 背中越しに、クラリスは小さく言った。


「よく……眠れましたか」


 少しの沈黙。


 それから、良樹の声がした。


「――ああ」

「クラリスのお陰でな」


 良かった。


 クラリスは、心の底から安堵した。


 良樹くんは、少しの間だけでも私に溺れてくれた。

 私の中で、休んでくれた。


 嬉しい。


 そう思った瞬間、余計に顔が熱くなる。


「クラリス」


「……はい」


「こっちを向いてくれ」


 逃げたい。


 けれど、逃げたくない。


 クラリスは、真っ赤な顔のまま、ゆっくりと良樹の方へ向き直った。


 次の瞬間。


 良樹が、クラリスの唇を奪った。


「ん……っ」


 突然のことで、クラリスは固まった。


 けれど、良樹の唇は離れない。

 昨夜より穏やかなのに、確かに求めてくる口づけだった。


 固まっていた身体から、少しずつ力が抜ける。


 抜けた場所へ、昨夜の余熱が戻ってくる。


 消えたと思っていた火が、また灯る。


 だめ。


 朝です。

 良樹くんは、ようやくよく眠れたばかりです。

 我慢しなければ。


 クラリスは必死に自分を抑えようとした。


 けれど、良樹は唇を離し、すぐ近くで囁いた。


「我慢、すんな」

「俺も同じだ」


 クラリスの胸が、きゅっと締めつけられた。


 この人は。


 普段は鈍く見えるのに。

 こういう時だけは、絶対に外さない。


 出会った時から、ずっと。


「……もう一回だけ」


 クラリスは、震える声で言った。


「溺れて、いい?」


挿絵(By みてみん)


 良樹は、困ったように。

 けれど、逃げない顔で笑った。


「俺もな」


 夜明け前の薄い光が、窓の向こうに滲んでいた。


 その朝、二人が起き出すには、まだ少しだけ早かった。


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