第113話 娘として泣いた夜(挿絵有)
翌日の昼前。
良樹は家の庭先で、アルフへ停止回路の基礎を教えていた。
「だからな。便利なもんほど止め方を見る。動かすより先に、止められるかを考えろ」
「はい、師匠」
アルフは真剣な表情で、小さな付与板へ魔力を流す。
その時だった。
街道の向こうから、車輪の音が近付いてきた。
一台の豪奢な馬車。
磨き上げられた車体。
紋章の刻まれた扉。
その前後を護衛する衛士隊は、一糸乱れぬ隊列を保ったまま進んでくる。
この街では、まず見かけない光景だった。
「……何だ?」
良樹は思わず手を止める。
アルフも目を丸くした。
「師匠……」
「ああ。俺も分からん」
馬車は家の前で静かに止まった。
窓が開く。
中から、一人の壮年の男が顔を見せた。
年の頃は五十前後。
上質な衣服。
無駄のない所作。
それだけで、この場の誰よりも上流階級の人間だと分かる気品があった。
「馬車の中から失礼する」
落ち着いた声が響く。
「ここは、英雄・上村良樹殿の屋敷で間違いないかね」
良樹は自然と姿勢を正した。
「あ、はい。そうですが」
こんな人物を相手に、いつもの調子で話す気にはなれなかった。
男は静かに頷く。
「そうか」
「すまないが、上村殿にお会いしたい」
「取り次いでは貰えないだろうか」
良樹は一瞬きょとんとした。
俺を、屋敷の人間だと思っているのか。
とはいえ、今の自分は作業着姿だった。
汗だくで弟子に稽古をつけていたのだから、そう見えても仕方ない。
「すみませんが、あなたは?」
「おっと」
男は小さく笑った。
「これは失礼した。まだ名乗っていなかったな」
一度姿勢を正す。
「私の名は、エドガー=チューダー」
「チューダー伯爵家の現当主を務めている」
そして、静かに続けた。
「ここに、私の娘――リシア=チューダーと結婚したという英雄がいると聞き、訪ねてきた」
良樹の思考が止まった。
「…………ムスメ? ハクシャク???」
その瞬間。
「お父様!?」
家の中から飛び出してきたリシアが、その男を見て目を見開いた。
良樹はゆっくりとリシアを見る。
そして、ゆっくりとエドガーを見る。
「オトウサマ???」
完全に思考回路がショートした。
◇
数秒。
良樹は本気で頭が動かなかった。
落ち着け。
盤が止まったら復旧だ。
整理しろ。
伯爵。
娘。
リシア。
父親。
いや無理だろ。
それでも、現場屋として鍛えた思考は、どうにか主幹ブレーカーを復旧させた。
「……リシア」
リシアを見る。
「これは、一体どういうことだ」
リシアは言葉を失ったまま俯いた。
するとエドガーが、少し眉を寄せる。
「下男が、主の妻を呼び捨てにするのかね。この家では」
良樹は自分の作業着を見下ろした。
下男。
まあ、そう見えても仕方ねえか。
目の前にいるのは、明らかに上流階級の人間というやつだ。
自分は汗まみれの作業着姿。
どう見ても英雄には見えない。
「ちょっと、お父様!」
リシアが慌てて一歩前へ出る。
「この人は――」
良樹は苦笑して一歩前へ出た。
「俺が、上村良樹です」
一瞬。
エドガーは僅かに目を見開いた。
「……君が?」
「あ、はい」
「俺が上村良樹です」
エドガーはすぐに馬車の扉を開けた。
ゆっくりと地面へ降り立つと、良樹へ向き直る。
「……失礼した」
「改めて名乗ろう」
胸に手を当て、軽く頭を下げる。
「私はエドガー=チューダー」
「そこにいるリシアの父親だ」
その言葉が終わるより早かった。
馬車の反対側の扉が勢いよく開く。
「リシア!」
一人の女性が飛び出してきた。
年齢は四十代半ばほど。
上品なドレス姿。
けれど今は、そんなことなど構わず、一直線にリシアへ駆け寄る。
そして。
ぎゅっと抱きしめた。
「リシア!」
「どこにいたの……!」
「心配……心配したのよ……!」
五年間。
積み重なった想いが、その一言に全部詰まっていた。
「お母様……」
リシアの声が震える。
抱き返そうとした手が、途中で止まる。
何を言えばいいのか分からない。
何から話せばいいのかも分からない。
ただ。
母の体温だけが、五年前と何も変わっていなかった。
良樹は静かに口を開く。
「立ち話も何です」
「中へどうぞ」
エドガーは静かに頷いた。
「……世話になる」
こうして。
五年前に途切れた親子の時間が、良樹たちの家で再び動き始めた。
◇
応接に通すには、少しばかり慌ただしかった。
何しろ、相手は伯爵家の当主とその夫人である。
良樹たちの家は、作業場付きの貸家から始まり、今では英雄の屋敷として扱われているとはいえ、良樹自身の感覚はまだそれほど変わっていない。
急に伯爵夫妻が来たところで、即座に貴族向けの応対ができるはずもなかった。
「カレン、クラリス、悪い。お茶を頼めるか」
「は、はいっ」
「承知しました」
カレンとクラリスは、すぐに動いた。
アルフは完全に固まっていた。
「師匠……奥様って、伯爵令嬢だったんですか……?」
「俺が聞きてえ」
良樹は小声で返す。
アルフはさらに困った顔になった。
「ええと、僕は……」
「今日はここまでだ」
「裏で付与板の停止回路だけ復習しとけ」
「あと、今起きてることは俺にも分からん」
「はい……」
アルフはぎこちなく頭を下げて、その場を離れた。
衛士隊は屋敷の外で待機することになった。
エドガーが短く指示を出すと、彼らは一糸乱れぬ動きで整列し、門の外へ散る。
良樹はそれを見て、少しだけ眉を上げた。
よく訓練されている。
ただの飾りではない。
足の置き方、視線の配り方、間合い。
護衛として、きちんと仕事をしている人間たちだった。
応接へ入ると、エレノアはようやくリシアから少しだけ身体を離した。
だが、その手はまだリシアの両肩を掴んでいる。
「本当に……本当にリシアなのね」
「……ええ」
リシアは、少しだけ視線を逸らす。
「見ての通りよ」
強がるような言い方だった。
しかし、その声はまだ揺れていた。
エドガーは椅子に腰を下ろす前に、良樹へ向き直った。
「先ほどは重ねて非礼を詫びる」
「英雄殿を、この家の下男と見誤った」
「いや、まあ……」
良樹は自分の格好を見る。
「見た目は否定できないので」
リシアが少しだけ睨む。
「否定しなさいよ、そこは」
「いや、無理だろ」
「俺、今どう見ても作業場の兄ちゃんだぞ」
「英雄でしょう」
「英雄でも作業着は着る」
カレンが盆を持って戻ってきて、小さく息を呑んだ。
クラリスはその後ろで静かにお茶の準備を整える。
エドガーは、カレンとクラリスを見た。
「そちらの二人も、上村殿の妻と聞いている」
カレンは緊張しながら頭を下げた。
「カレンです」
「良樹さんの妻です」
クラリスも穏やかに頭を下げる。
「クラリスです」
「同じく、良樹くんの妻です」
エドガーは二人を見て、少しだけ目を細めた。
「そうか」
その声には、責める響きはなかった。
だが、測っている。
娘が選んだ男。
その男の他の妻たち。
そして、その家。
エドガーはすべてを見ていた。
リシアは、それに気づいて少し肩を強張らせる。
「お父様」
低い声だった。
「今さら、何をしに来たの」
エレノアの表情が痛む。
エドガーは黙ってリシアを見る。
リシアは続けた。
「連れ戻しに来たの?」
「それとも、チューダー家の恥を処分しに来たのかしら」
「リシア」
エレノアが小さく呼ぶ。
「違うわ」
「では何」
リシアの声は鋭かった。
「私は帰らないわ」
「私はもう、チューダー家の娘として生きていない」
「市井に下ってから、ずっとただのリシアとして生きてきた」
「今は――」
リシアは一瞬だけ良樹を見た。
「上村良樹の妻よ」
良樹の胸が、少しだけ鳴った。
エドガーは、その言葉を黙って受け止めた。
「連れ戻しに来たのではない」
静かな声だった。
「怒りに来たのでもない」
「まして、お前を処分しに来たわけでもない」
「では、何をしに来たのよ」
リシアは問い返す。
エドガーは少しだけ目を伏せた。
「生きていると聞いた」
リシアの動きが止まる。
「英雄・上村良樹殿が三人の妻を娶った」
「そのうち一人の名が、リシアだと聞いた」
「黒髪で、四属性を扱う魔法使いだと」
「そして、姓を持たぬ市井の女として生きていたと」
エドガーは顔を上げる。
「その話を聞いて」
「お前ではないかと思った」
エレノアが、震える声で続けた。
「ただ……確かめたかったの」
「あなたが、生きているのか」
「本当に、そこにいるのか」
リシアの唇が、わずかに震えた。
「……探したの?」
その言葉は、思わず漏れたものだった。
エレノアの目に涙が浮かぶ。
「探したわ」
エドガーも頷く。
「ああ」
「探した」
リシアは何も言えなかった。
「お前が出て行った日から、ずっとだ」
エドガーの声は、決して大きくない。
それでも、その一言は重かった。
「領内を探した」
「街道を探した」
「冒険者ギルドにも手を回した」
「教会にも、商会にも、旅籠にも、あらゆるところへ問い合わせた」
「だが、お前は見つからなかった」
エレノアはリシアの手を握る。
「五年よ」
「五年間、あなたがどこで生きているのか分からなかった」
リシアの顔から、強がりが少しずつ剥がれていく。
「私は……」
だが、すぐに唇を噛んだ。
「でも、私はあの家にいたら」
「好きでもない相手と結婚させられていたわ」
エドガーは目を伏せる。
「……そうだ」
リシアは息を呑む。
父が、否定しなかったからだ。
「私たちは、お前の心を見誤った」
エレノアも震える声で言う。
「あなたが、あそこまで嫌がっていたことを」
「ちゃんと見ていなかった」
リシアの目に、怒りと戸惑いが混じる。
「だったら」
声が強くなる。
「だったら、私が家を出たことは間違いじゃないわ」
エドガーは黙る。
「間違いだったなんて言わせない」
「あのまま家にいたら、私は私でいられなかった」
「私は、誰かの家の道具みたいに嫁がされるために生きていたんじゃない」
「家を出なければ、私は壊れていた」
リシアの声が震える。
だが、それは弱さではなかった。
「私は」
「あの日、逃げるしかなかったのよ」
沈黙が落ちた。
カレンは胸元で手を握る。
クラリスは静かに目を伏せる。
良樹は何も言わない。
ここは、リシア自身が言うべき場所だった。
エドガーは長く息を吐いた。
「……そうだな」
リシアは目を見開く。
「お前が家を出たことを」
「私だけが責める資格はない」
エレノアも頷く。
「ええ」
「あなたが逃げたことを、ただ間違いだったとは言えないわ」
リシアの肩が揺れた。
自分は、捨てた。
そして、自分も捨てられたのだと思っていた。
だが、そうではなかった。
父も母も、探していた。
五年間。
ずっと。
「でも」
エレノアはリシアの手を握ったまま、涙をこぼした。
「生きていると」
「一言だけでも知らせてほしかった」
リシアの息が止まる。
「連れ戻せなくてもよかった」
「会えなくてもよかった」
「あなたがどこかで生きているなら」
「それだけで……」
エレノアの声が震えた。
「それだけで、よかったの」
リシアは反射的に言い返そうとした。
「そんなの――」
「リシア」
良樹が口を開いた。
部屋の空気が、少し変わる。
リシアは振り返った。
「……何よ」
良樹は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「俺は、この世界に来た時から」
「俺の親父やお袋が、どうなったか分からねえ」
リシアの表情が変わる。
カレンとクラリスも、静かに良樹を見る。
「この世界に来たから、お前らに会えた」
「リシアにも、カレンにも、クラリスにも会えた」
「だから、来なけりゃ良かったなんてことは、俺は言わねえ」
良樹は少しだけ目を伏せた。
「でも」
「きっと親父とお袋には、心配をかけちまってる」
そこで、少しだけ苦笑した。
「いや、親父は心配なんかしねえか」
「どこに飛ばされても生きて帰ってこい、くらいは言いそうだしな」
だが、その笑いはすぐに消えた。
「それでも」
「たぶん、心配はしてる」
「怒鳴りながらでも」
「馬鹿息子が、どこで何してやがるってな」
良樹はリシアを見る。
「多分、お前の親父さんも、お袋さんもそうだ」
「お前が出て行った理由まで、なかったことにしろとは言わねえ」
「お前があの時、逃げるしかなかったことまで、間違いだったとは俺は思わねえ」
一拍。
「でも」
良樹の声は、静かだった。
「心配していたことは、否定してやるな」
リシアは何も言えなくなった。
「そこまで否定したら」
「たぶん、お前が苦しくなる」
それだけ言って、良樹は口を閉じた。
説教ではない。
誰かの肩を持ったわけでもない。
ただ、自分の親を思い出した男の言葉だった。
◇
リシアは、ゆっくりと両親を見る。
五年前より、少し老けた父。
目元に知らない皺が増えた母。
自分にとっての五年は、冒険者になり、仲間に出会い、良樹と出会い、妻になった五年だった。
けれど、両親にとっては。
娘が消えた五年だった。
探しても。
探しても。
見つからなかった五年だった。
「……私は」
声が震える。
「家を出たことを、間違いだったとは思っていないわ」
エドガーは頷く。
「ああ」
エレノアも涙を浮かべたまま頷いた。
「ええ」
「でも」
リシアは拳を握る。
「生きているって、知らせることくらいはできた」
「できたはずだった」
そこで、声が崩れた。
「……ごめんなさい」
リシアの目から涙が落ちる。
「お父様」
「お母様」
エレノアは耐えきれず、もう一度リシアを抱きしめた。
「いいの」
「生きていてくれたなら、それでいいの」
「よくないわよ……」
リシアは母の腕の中で泣きながら首を振る。
「それで済ませたら」
「私はまた、同じことをするもの……」
その言葉に、エレノアはさらに強くリシアを抱いた。
リシアは泣いた。
妻になってから。
英雄の妻になってから。
初めて、娘として泣いた。
エドガーは、その姿を黙って見ていた。
やがて、静かに口を開く。
「リシア」
リシアは母に抱かれたまま、父を見る。
「私も、謝らねばならない」
「お父様……」
「お前のためだと思っていた」
「家のためでもあった」
「領地のためでもあった」
「安全のためでもあった」
エドガーは目を伏せる。
「だが、お前の心を見ていなかった」
部屋の空気が静まり返る。
「お前が出て行ったことを、私だけが責める資格はない」
「すまなかった」
そして、娘の名を呼ぶ。
「リシア」
リシアの涙が、また溢れた。
「……お父様」
これは、喧嘩の勝敗ではなかった。
どちらが正しいかだけの話でもなかった。
正しかった感情と、間違えた行動。
それを分けて見るための時間だった。
◇
しばらくして。
リシアが落ち着くのを待ってから、エドガーは良樹へ向き直った。
「上村良樹殿」
「はい」
良樹は姿勢を正す。
「娘が世話になった」
「世話になったのは、俺の方です」
良樹は即答した。
「リシアがいなきゃ、俺はとっくに死んでます」
リシアが少し顔を赤くする。
「良樹……」
「事実だろ」
「そうだけど、今言うのはずるいわ」
エドガーは二人を見て、少しだけ目を細める。
「娘は、幸せか」
良樹はすぐには答えなかった。
リシアを見る。
リシアも良樹を見る。
良樹は静かに言った。
「俺が決めることじゃありません」
エドガーの眉が、わずかに動く。
「ほう」
「ただ」
良樹はカレンとクラリスも見た。
「俺は、幸せにするつもりです」
「三人とも」
カレンが小さく息を呑む。
クラリスは静かに微笑む。
「俺の妻ですから」
リシアは顔を赤くしながらも、逃げなかった。
「……幸せよ」
リシアは父と母を見る。
「私は、今」
「ちゃんと幸せ」
エレノアはまた泣きそうになった。
エドガーはしばらく黙っていた。
それから、少しだけ声を落とす。
「時に、上村殿」
「はい」
「これは、本来ならば、口外すべき話ではない」
空気が変わる。
良樹は黙って聞く姿勢になる。
「貴族家には、表に出ない記録も回ってくる」
「王家、教会、古い魔術院」
「そのあたりが持つ記録の写しだ」
リシアが父を見る。
「お父様……?」
エドガーは続けた。
「転移者が、元の世界へ戻ったという事例は、少ないがある」
その瞬間。
三人の妻の空気が凍った。
リシアの手が止まる。
カレンの顔から血の気が引く。
クラリスの微笑みが消える。
良樹は、黙ってエドガーを見た。
「ただし、方法は一定ではない」
「儀式で戻った者」
「事故のように消えた者」
「ある日突然、姿を消した者」
「そして、戻ったかどうかすら確認できぬ者」
エドガーは、慎重に言葉を置く。
「だから、これは希望ではない」
「まして、約束でもない」
「なら」
良樹は聞いた。
「なぜ、その話を?」
エドガーは、良樹を見る。
「君に聞いておきたかった」
一拍。
「もし戻れるとしたら」
「君は、元の世界へ帰りたいのかね」
部屋の中で、誰も動かなかった。
リシアが息を止める。
カレンが胸元で手を握る。
クラリスが唇を結ぶ。
良樹は、すぐには答えなかった。
夜の工場。
盤の白い光。
工具の音。
父の声。
母の飯。
元の世界に残してきたもの。
そして。
今、隣にいる三人。
リシア。
カレン。
クラリス。
良樹は、静かに息を吐いた。
「戻りてえ」
三人の息が止まった。
「良樹……?」
リシアの声が震える。
「良樹さん……」
カレンの手が固くなる。
「良樹くん……」
クラリスの声も、いつもより細かった。
良樹は三人を見た。
「ただ、一度だけだ」
三人が顔を上げる。
「こいつらを連れて行って」
「親父と、おふくろに紹介して」
「三人とも、俺の嫁さんだって言いてえ」
良樹は、少しだけ苦笑した。
「親父は、たぶん最初に怒る」
「何人嫁連れてきてんだ、この馬鹿息子ってな」
それから、少し遠い目をする。
「お袋は……どうだろうな」
「たぶん、驚いて」
「それから、飯を出すと思う」
リシアの目が潤む。
カレンは口元を押さえる。
クラリスは静かに目を伏せた。
「それで、言いてえ」
「俺は、こっちで生きるって」
「こいつらと、生きるって」
良樹は短く息を吐く。
「多分、親父もおふくろも」
「そこまで言えたら、笑って送り出してくれると思う」
少しだけ間を置く。
「いや、親父は笑わねえか」
「最後まで面倒くせえ説教して」
「それから、行けって言うと思う」
良樹の声は、静かだった。
「だから」
「帰りたくないわけじゃねえ」
「会いたくないわけでもねえ」
そして、はっきり言う。
「でも、俺はもう」
「こっちで生きるって決めてる」
リシアの涙が落ちた。
「良樹……」
カレンも、震える声で呼ぶ。
「良樹さん……」
クラリスも小さく呟く。
「良樹くん……」
エドガーは、その答えを黙って聞いていた。
しばらく沈黙が続く。
やがて、エドガーは静かに頷いた。
「……なるほど」
良樹を見る。
「君は、娘を元の世界へ奪う男ではない」
「娘と共に、こちらの世界で生きると決めた男なのだな」
良樹は背筋を伸ばした。
「はい」
エドガーは、もう一度深く頷く。
「ならば」
リシアを見る。
そして、良樹を見る。
「リシアを頼む」
「はい」
良樹は短く、しかし確かに答えた。
その瞬間。
リシアが涙を拭いながら、一歩前に出た。
「お父様」
声はまだ少し震えている。
けれど、逃げてはいなかった。
「私は、頼まれるだけの娘じゃないわ」
エドガーはリシアを見る。
リシアは良樹の隣に立つ。
「私は、良樹と一緒に生きるの」
「守られるだけじゃない」
「一緒に行くの」
良樹は、少しだけ笑った。
「ああ」
「知ってる」
リシアは父をまっすぐ見る。
「私は、リシア=チューダーだった」
「家を出てからは、ただのリシアとして生きてきた」
そして、良樹の隣で胸を張る。
「でも今は」
「上村リシアよ」
良樹が一瞬だけ固まった。
「……いや、俺そのへんの正式な手続きとか」
「今、聞いたでしょう」
「そういう問題か?」
「そういう問題よ」
リシアは涙の残る顔で、それでも少しだけ笑った。
「私は、良樹の妻だから」
カレンとクラリスが、静かに微笑む。
エドガーはリシアを見た。
五年前、家を出て行った娘。
その娘は今、自分で選んだ家名を名乗り、自分で選んだ男の隣に立っている。
エドガーは、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「強くなったな、リシア」
リシアは涙を拭い、胸を張った。
「ええ」
「良樹の妻だから」
良樹は眉を寄せる。
「そこで俺を出すな」
「出すわよ」
「夫なんだから」
エレノアが涙を拭きながら、小さく笑った。
カレンも。
クラリスも。
そしてエドガーも、ほんの少しだけ笑った。
五年分の涙の後に。
家族の空気が、少しだけ戻った。
◇
その夜。
良樹は自分の部屋の寝台に寝転がっていた。
明らかに今日は情報量過多だった。
リシアが伯爵令嬢だった。
父親が訪ねてきた。
母親が泣いた。
チューダー家。
上村リシア。
転移者の帰還記録。
どれもこれも、朝の時点では想像すらしていなかった話ばかりだった。
「……そりゃ、頭も落ちるわ」
良樹は天井を見ながら呟く。
しかし、落ち着いて考えれば、思い当たるところはあった。
リシアの食事の仕方。
何気ない仕草。
人との距離の取り方。
怒った時ですら、どこか姿勢が崩れきらないところ。
本人の勝気な性格に引っ張られて、それらを見ているようで見えていなかった。
「ガチガチのお嬢様かよ……」
良樹は苦笑しかけた。
その時。
扉が、控えめにノックされた。
「良樹」
リシアの声だった。
「入って、いい?」
「おう」
「開いてるぞ」
扉が静かに開く。
リシアが部屋に入り、後ろ手に扉を閉めた。
カチリ、と小さな音がする。
鍵の音だった。
良樹は寝台の上で身を起こしかける。
「リシア?」
リシアは少しだけ俯いたまま、寝台のそばまで来た。
「今日は――」
一度、言葉を切る。
「ありがと」
「礼を言われるようなことはしてねえよ」
「したわよ」
リシアは小さく息を吐いた。
「私一人だったら、たぶん」
「心配していたことまで、否定していたと思う」
良樹は何も言わなかった。
リシアは顔を上げる。
目元はまだ少し赤い。
けれど、それだけではなかった。
昼間、父と母の前で泣いていた顔とは違う。
良樹を見ている。
じっと。
逃げずに。
良樹はふと、先ほど考えていたことを口にした。
「お前、ガチガチのお嬢様だったんだな」
「流石に驚いた」
リシアの眉が、ぴくりと動く。
「何よ、それ」
「いや、言われてみれば確かに」
「仕草に上品なところとかあるなーって――」
言いかけて。
良樹は寝台に押し倒されていた。
「お、おい」
「リシア――」
リシアが、良樹の上から見下ろしていた。
その顔は赤い。
怒っているようで。
泣きそうなようで。
それでも、目だけは逸らしていなかった。
「私ね」
リシアが言う。
「最近、変なの」
良樹は動きを止めた。
「前までは平気だったの」
「なのに、ダメなの」
「……何が」
リシアは唇を噛む。
「前から、あなたのこと好きだったわ」
声が震える。
「一緒に戦った」
「妻になった」
「抱いてもらった」
そこまで言って、リシアは苦しそうに眉を寄せた。
「でも」
「なんで私、今さら良樹に、こんなにドキドキしてるの?」
良樹は黙って聞く。
「なんで今さら」
「良樹のことが、こんなに格好良く見えちゃうの?」
リシアの目が潤む。
「今日だって本当は」
「ずっと良樹に見とれてたの!」
良樹は小さく苦笑した。
「……なんだそりゃ」
「ちゃんと聞いて!」
リシアの声が跳ねる。
「苦しいの!」
良樹の表情が変わった。
リシアは止まらなかった。
「最近ずっと、良樹のことばかり考えてるの」
「切ないの」
「胸が苦しいの」
「なのに、会うともっと苦しくなるの」
涙が落ちそうになる。
「なんで今さらこんな」
「初恋みたいなことに、私なってるの!?」
良樹は、息を呑んだ。
妻になってから。
抱いてから。
戦ってから。
隣に立ってから。
それでも今、リシアは恋をしていた。
もう一度。
いや、初めてのように。
「順番だって決めたの」
リシアは震える声で続ける。
「私が最初って」
良樹の目がわずかに細くなる。
「そこで私、言ったわ」
「良樹を、甘えさせてあげたいって」
「それは本当」
一拍。
「でも、今はそれだけじゃなくて」
「私も甘えたいの」
リシアは、良樹の胸元に手を置いた。
「ねえ、良樹」
「助けて」
声はもう、懇願だった。
「私、このままじゃ」
「どうにかなっちゃう」
リシアは、良樹を見つめていた。
娘として泣いた顔。
恋する少女の顔。
妻として甘えたい女の顔。
その全部をさらけ出して、良樹を求めていた。
良樹は、静かに息を吐いた。
「……三人で順番、決めたのか」
リシアは、こくんと頷く。
「……うん」
良樹はリシアを見る。
カレンとクラリスも了承している。
三人で決めた。
三人で守っている。
なら。
良樹は、リシアの頭に手を回した。
「分かった」
「俺が助ける」
そう言って、リシアを自分へ近づける。
唇が重なった。
リシアの肩が震える。
良樹はゆっくり離れ、額が触れそうな距離で聞いた。
「楽になったか?」
リシアは首を振った。
「……まだ」
「足りないわ」
良樹は、リシアの髪を撫でる。
「なら」
「足りるまでだ」
リシアは涙を浮かべたまま、少しだけ笑った。
「……本当に、ずるいわね」
灯りが落ちた。
その夜。
リシアは娘ではなく、上村良樹の妻として抱かれた。
◇
翌朝。
リシアは、ゆっくりと目を覚ました。
隣には、無防備な顔で眠る最愛の人がいる。
昨日まで胸を締め付けていた、あの苦しいほどの鼓動は消えていない。
けれど今は、それよりも。
ただ、この人が愛しい。
そう思えた。
リシアはそっと良樹の髪を撫で、小さく微笑む。
「おはよう、良樹」
まだ返事はない。
それでも構わなかった。
上村リシアの一日が始まった。




