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第112話 受け取った側の礼儀(挿絵有)

 施療院の裏手にある訓練場は、朝から少しだけ賑やかだった。


 踏み固められた土の広場。

 木製の打ち込み台。

 吊るされた砂袋。

 端には、古い柱と屋根付きの休憩所。


 そこに、今日はいつもと違うものが置かれていた。


 アルフの付与具。

 良樹が書いた簡易の確認表。

 そして、失敗した時にすぐ止められるよう、少し離れた位置に置かれた魔石遮断用の道具。


 良樹は、その前に立っていた。


 グレンとの戦いで負った傷は、ほとんど塞がっている。


 まだ無理をすれば身体の奥が軋む。

 腕にも、膝にも、少しだけ重さが残っている。


 だが、立って弟子の修行を見るくらいなら、もう問題なかった。


 少なくとも、良樹本人はそう判断していた。


「アルフ」


「はい、師匠!」


 アルフが背筋を伸ばす。


 その返事に、良樹は少しだけ眉間を寄せた。


「毎回そんな勢いで返事すんな」

「術の前に力む」


「す、すみません!」


「だから、それも力んでる」


「はい……!」


「分かってねえな」


 少し離れたところで、ニルが肩を震わせて笑っていた。


「いやー、アルフ、相変わらず師匠の前だと分かりやすいっすねえ」


「ニル!」


「いいじゃないっすか」

「やる気があるのは良いことっすよ」


「茶化さないでよ……」


「茶化してないっす」

「半分くらいは」


「半分は茶化してるじゃないか」


 そのさらに少し離れた場所では、ロブが腕を組んで立っていた。


 いつものように、こちらへ近づきすぎない位置。


 聞く気はない、という顔をしている。

 だが、耳はきちんとこちらを向いている。


 良樹はそれを見て、何も言わなかった。


 ロブはまだアルフを許していない。


 当然だ。


 人間化魔石は、ロブの妹であるリナだけでなく、亜人集落そのものを大きく揺らした。


 善意だった。

 悪意ではなかった。

 だから無罪、などという話ではない。


 だからこそ、アルフはここで止め方を覚えなければならない。


 その様子を、ロブが見ている。


 それだけで、今は十分だった。


「やぁ、良樹君」


 休憩所の柱にもたれるようにして、クリスが微笑んでいた。


 白い法衣を着た優男。

 芝居がかった仕草。

 軽そうな声。


 だが、良樹はもう、その軽さの奥にある目を知っている。


 クラリスの兄。


 施療院の人間。


 そして、必要な時にはちゃんと見る男。


「今日も弟子の教育かい?」

「施療院の裏庭が、ずいぶん技術者向けになってきたね」


「場所を借りてる」

「危ないなら言ってくれ」


「もちろん」

「危ないかどうかを見るために、僕もここにいるのさ」


 クリスは楽しそうに目を細める。


「それに、クラリスの夫がどんな師匠になるのか、兄として興味がある」


「見世物じゃねえぞ」


「分かっているよ」

「だから静かに見ているとも」


「その台詞を言う奴は、大体静かじゃねえ」


「ひどいな、良樹君」

「僕はいつだって空気を読む男だよ」


「読んだ上で面倒なことを言う男だろ」


「よく分かってくれている」


「褒めてねえ」


 クリスはくすりと笑った。


 良樹は息を吐き、アルフの方へ向き直る。


「始めるぞ」


「はい」


 アルフの表情が変わった。


 さっきまでの嬉しそうな顔が少しだけ引っ込み、真剣な目になる。


 目の前の付与具。

 小さな金属板。

 そこへ付与術を刻む。


 ただ強くするための付与ではない。

 便利にするための付与でもない。


 止めるための付与。


 一定時間で切れる。

 異常な負荷がかかったら落ちる。

 使用者の魔力が乱れたら戻る。

 外から強引に流された時には遮断する。


 まだ全部は無理だ。


 今のアルフにできるのは、そのうちの本当に最低限だけ。


 だが、その最低限がなければ、何も始められない。


「入力だけ見るな」

「流れた先と、止まる場所を見ろ」


「はい」


「保持を作ったら、解除も作れ」

「動き続ける道具は、動かない道具よりたちが悪い」


「はい」


「異常時に自分が見ている前提にするな」

「使ってる奴が慌ててる時に止まる形にしろ」


「はい」


 アルフは、ひとつずつ頷きながら付与を組んでいく。


 魔力が金属板に薄く走る。


 以前のアルフの付与は、どこか真っ直ぐすぎた。


 助けたい。

 楽にしたい。

 便利にしたい。


 その思いが、そのまま前へ伸びていた。


 けれど今は違う。


 伸びる線の先に、戻る線がある。

 流れる道の途中に、切れる場所がある。


 まだ頼りない。

 細い。

 条件も少ない。


 それでも、確かに止めるための形が入っていた。


 良樹は、腕を組んだままそれを見ていた。


 アルフの額に汗が浮かぶ。


 金属板の上で、付与の光が一度揺れた。


「焦るな」

「そこで押すな」


「っ……はい」


「弱くするんじゃねえ」

「流す場所を変えろ」

「止める場所に負荷を押しつけるな」


「はい……!」


 アルフは息を整えた。


 揺れた付与の光が、ゆっくり落ち着いていく。


 細い線が、金属板の端へ回り込む。

 そこに、小さな遮断の形が刻まれた。


 良樹は少しだけ目を細める。


「――よし、止めろ」


 アルフはすぐに術を止めた。


 付与の光が静かに消える。


 暴れない。

 跳ねない。

 消え残らない。


 アルフは、はっと顔を上げた。


 今度は。


 今度は、上手くできた。


「師匠!」


 声が弾む。


 良樹は金属板を手に取り、刻まれた付与を見る。


 入力。

 保持。

 出力。

 停止。


 まだ荒い。

 遅い。

 条件も少ない。

 想定外への逃げも弱い。


 だが、形にはなっている。


「取りあえずこれで、最低限度の停止回路はつけられるようになった」


 アルフの表情が、分かりやすく落ちた。


「最低限……」


「ああ」

「最低限だ」


「……はい」


 しょんぼりする。


 本当に分かりやすい。


 良樹は、思わず息を吐いた。


「あせるな」


 アルフが顔を上げる。


「ちゃんと進んでる」


 その一言で、アルフの顔がぱっと明るくなった。


「はい、師匠!」


 ニルが手を叩いた。


「おー」

「兄貴が素直に褒めるなんて進歩してるじゃないっすか、アルフ」


「良樹君も、なかなか師匠らしくなってきたね」


 クリスも楽しそうに言う。


 良樹は二人を睨んだ。


「うるせえな」

「茶化すな」


「茶化してないっすよ」

「褒めてるっす」


「僕も褒めているよ」


「なら余計にやめろ」

「落ち着かねえ」


 アルフは、まだ金属板を見つめていた。


 最低限。


 確かに、まだ最低限だ。


 でも、進んでいる。


 昨日より、前へ。


 アルフは金属板を胸元に抱えるように持った。


「ありがとう、ニル」

「でも、まだ足りないよ」


 ニルは、少しだけ目を細めた。


「へぇ」

「それはアレっすか」


 アルフの表情が、一瞬だけ変わった。


 嬉しさだけではない。

 悔しさだけでもない。


 胸の奥にしまっている何かを、指先でそっと触られたような顔だった。


「うん」

「そうだよ」


 良樹は眉を寄せる。


「なんだ? アレって」


 ニルは、にやりと笑った。


「そいつは兄貴には言えないっす」

「男の約束なんで!」


「なんだそりゃ」


「ニ、ニル……!」


 アルフが慌てる。


 ニルはひらひらと手を振った。


「言わないっすよ」

「男の約束っすから」


「変なことじゃねえだろうな」


 良樹が言う。


 ニルは、少しだけ真面目な顔になった。


「変なことじゃないっすよ」

「むしろ、いいことっす」


「なら言えよ」


「いいことだからこそ、今は言えないんすよ」


「……余計に分からん」


 良樹は怪訝そうに二人を見る。


 アルフは少しだけ俯いた。

 だが、その顔に逃げはなかった。


 ニルは知っている。


 アルフが以前、ぽつりと零した言葉を。


 いつか、師匠みたいな英雄になりたい。


 それは、軽い憧れではなかった。


 今のアルフは、その言葉を良樹には言えない。

 ロブにも言えない。

 リナにも言えない。


 自分には、まだそれを口にする資格がないと知っているからだ。


 人間化魔石を作った。

 亜人たちの身体を変えた。

 善意だった。

 助けたかった。


 それでも、戻し方も、後始末も、まだできていない。


 そんな自分が「英雄になりたい」などと口にすれば、それは逃げになる。

 綺麗な夢で、自分の失敗を上書きすることになる。


 だから、まだ言えない。


 せめて、亜人たちの姿を元に戻せたら。


 戻るか。

 戻らないか。


 それぞれが、自分で選べるところまで返せたら。


 その時は、胸を張って言いたい。


 僕は、師匠みたいな英雄になりたい。


 今はまだ、その夢を口にできる相手は一人だけ。


 友達のニルだけだった。


 ニルはそれを知っている。


 だから言わない。


 男の約束として。


「若いね」


 クリスが小さく言った。


 良樹が振り返る。


「何か分かってんのか」


「全部は分からないよ」

「でも、言えない願いというのは、大抵軽くない」


 クリスはアルフを見た。


「なら、軽く扱わない方がいい」


 良樹は一瞬だけ黙った。


 それから、肩をすくめる。


「……なら聞かねえ」


 アルフが、はっと顔を上げた。


 良樹は金属板をアルフへ返す。


「今言えねえなら、今は言わなくていい」

「ただし、変な方向に行きそうなら止める」

「それだけだ」


 アルフは、金属板を受け取り、強く頷いた。


「はい」


 良樹は、その返事を聞きながら、少しだけ胸の奥が妙な感覚になるのを覚えた。


 自分は師匠なんてものには、まだまだ早いと思っていた。


 分不相応とさえ思っていた。


 だが、成り行きとはいえ、いざ弟子を取ってみると。


 こんなに可愛いものかと、思い始めていた。


 素直。

 愚直。

 努力家。

 同年代とも仲が良い。

 失敗すれば落ち込み、進めば素直に笑う。


 危なっかしい。

 まだまだ甘い。

 これから何度も止めなければならない。


 それでも。


 ちゃんと進んでいる。


 ロブはまだ離れた場所にいる。

 許したわけではない。

 それでも、去ってはいない。


 ニルは茶化している。

 だが、アルフの何かをちゃんと守っている。


 クリスは軽い顔で見ている。

 そのくせ、見るべきところは外していない。


 面倒なことになった。


 本当に、面倒なことになった。


 だが。


 悪くなかった。


「……ったく」


 良樹は、小さく息を吐いた。


 気が緩んだのだと思う。


「This ain't a song for――」


 気づけば、口ずさんでいた。


 小さな声だった。


 はっきり歌うつもりなどなかった。

 誰かに聞かせるつもりもなかった。


 それでも、旋律は自然と口から漏れていた。


 現場へ向かう父の作業車。


 夜間工事へ向かう道。


 工具と油の匂い。


 助手席で聞いていた、あの曲。


 良樹自身、少し驚いた。


「師匠!」


 アルフがぱっと顔を上げた。


「それ、何の呪文ですか!」


「いや、これは――」


「――歌だろ」


 少し離れたところから、ロブが言った。


 良樹はロブを見る。


「流石だな」

「この距離で今の声が聞こえるのか」


「兎人族舐めんな」


「耳が良すぎんだよ」


「褒め言葉として受け取っとく」


「褒めてねえ」


 クリスも微笑んだ。


「良い声だったよ、良樹君」

「少なくとも、悪くない」


「聞かなかったことにしろ」


「それは難しい」

「僕も耳は悪くないのでね」


 ロブが横目でクリスを見る。


「俺ほどじゃねえだろ」


「それは認めるよ」

「兎人族の耳に張り合うほど、僕は無粋ではない」


 ロブは、少しだけ鼻を鳴らした。


 アルフは目を輝かせている。


「歌ですか!?」

「師匠の好きな歌なんですか!」

「教えてください!」

「弟子なので!」


「おまえ、クラリスに影響されてねえか……」

「あと、よせ」

「人前で歌うような柄じゃねえ」


 ニルが、すかさず口を挟んだ。


「んじゃ、意味くらいならいいんじゃないっすか?」

「なあ、アルフ」


 アルフはブンブンと首を縦に振った。


 まるで飼い犬だ。


 良樹はそう思った。


「僕も聞きたいな」


 クリスが言う。


「異世界の歌に込められた意味というのは、なかなか興味深い」


「お前は絶対あとで面倒なこと言うだろ」


「もちろん」

「良い言葉なら、良い言葉として拾うよ」


「それが面倒なんだよ」


 良樹は頭をかいた。


 それから、少しだけ空を見る。


「元は英語……って言っても分からねえか」


 アルフが首を傾げる。


「えいご?」


「俺の世界の言葉の一つだ」

「まあ、意味だけなら」


 歌詞そのものではない。


 自分の中に残っている意味。


 父の作業車で聞き続け、いつの間にか身体に染み込んでいたもの。


 良樹は、ゆっくり言った。


「俺の言葉で言うなら、だ」


 アルフが背筋を伸ばす。


 ニルも少しだけ黙る。


 ロブは腕を組んだまま、耳だけをこちらへ向けている。


 クリスは軽口を挟まなかった。


「誰かに用意された生き方を、そのまま選ぶ気はねえ」

「負けたまま伏せてるための歌でもねえ」

「神様に全部預けて、どうにかしてくださいって祈る歌でもねえ」


 良樹は、少しだけ息を吐いた。


「これは俺の人生だ」

「だから俺が選ぶ」

「今やるのか、やらねえのか」

「誰かが決めてくれるのを待つんじゃねえ」

「いつまでも生きられるわけじゃねえ」

「だったら、今、自分の足で立つ」


 そこで言葉を切る。


「……そういう歌だ」


 誰も、すぐには喋らなかった。


 最初に口を開いたのは、アルフだった。


「師匠」


「何だ」


「それ、すごく……師匠の歌ですね」


 良樹は眉を寄せる。


「いや、俺が作った歌じゃねえよ」


「でも、師匠の歌です」


 アルフは真っ直ぐに言った。


「だって師匠は、いつもそうしています」

「自分で決めて」

「自分で責任を取って」

「それで、僕にも止め方を教えてくれています」


 良樹は、言葉に詰まった。


 ニルが、にやりと笑う。


「おー」

「アルフ、いいこと言うじゃないっすか」

「兄貴、今のは素直に受け取るところっすよ」


「うるせえ」


 良樹は短く返した。


 だが、その声にいつもの棘はなかった。


 クリスが静かに微笑む。


「弟子は、師の背中をよく見ているものだね」


「だから茶化すな」


「茶化していないさ」

「今のは、本当にそう思った」


 良樹は目を逸らした。


 ニルが興味深そうに身を乗り出す。


「兄貴の親父さんって、どんな人だったんすか」


 良樹は即答した。


「面倒くせえ人」


 ニルが吹き出した。


 アルフも少し笑う。


 クリスは楽しそうに目を細めた。


「口が悪い」

「すぐ怒る」

「人の甘いところを見つけるのがやたら上手い」

「現場に向かう車で、その歌をよく流してた」


 良樹は、自分の手を見る。


 工具を持ち続けてきた手。


 父に何度も小突かれた手。


「動かす前に止め方を考えろって、何度も何度も叩き込んできた」


 アルフの顔が真剣になる。


「師匠の師匠、ですか」


「まあ、そうだな」


 良樹は少しだけ苦笑した。


「親父は、俺に師匠って呼ばせたら工具で小突いてきそうだけどな」


「でも、師匠の師匠です」


 アルフは譲らなかった。


「師匠が僕に教えてくれていることは、その人から受け取ったことでもあるんですよね」


 良樹は、アルフを見た。


 父から受け取ったもの。


 藤田から受け取ったもの。


 この世界で受け取ったもの。


 それを、自分で止めていいはずがない。


「……そうだな」


 良樹は短く言った。


「俺も、受け取った側だ」


「受け取った側?」


「ああ」


 良樹は、アルフの前に置かれた金属板を見る。


 まだ粗い停止回路。


 最低限でしかない回路。


 だが、確かに昨日より進んでいる。


「受け取ったなら、腐らせるな」

「自分の手柄だけにするな」

「次に必要な奴へ渡せ」


 アルフは、瞬きをした。


「それも、師匠の世界の言葉ですか?」


「親父から叩き込まれた言葉だ」


 良樹は言った。


「受けたものは、次へ渡せ」

「ただし、綺麗事で渡すな」

「止め方も、壊れ方も、後始末も一緒に渡せ」

「それが、受け取った側の礼儀だ」


 アルフの胸の奥が、少し痛んだ。


 英雄になりたい。


 その夢は、まだ口にできない。


 けれど。


 止め方を覚えること。

 戻し方を探すこと。

 後始末から逃げないこと。


 それを越えた先でなければ、自分はその夢を口にしてはいけない。


 だから、アルフは背筋を伸ばした。


「はい」

「覚えます」

「絶対に」


 少し離れた場所で、ロブが言った。


「……なら、ちゃんと覚えろよ、アルフ」


 アルフはロブを見る。


 ロブは視線を逸らしたまま続ける。


「お前がまた変なもん作ったら、迷惑する奴が出る」

「だから覚えろ」

「それだけだ」


 アルフは、深く頷いた。


「うん」

「覚える」

「絶対に」


 ニルが、にししと笑った。


「おー、ロブも先生みたいになってきたっすね」


「うるせえ」


「兎人族先生っすか」


「黙れ」


 クリスがくすりと笑った。


「良い教室だ」

「教師が二人に、弟子が一人」

「そして茶化し役が一人」


「俺っすか?」


「君以外にいるかな?」


「ひどいっすねえ」


 良樹は頷いた。


「否定できねえだろ」


「兄貴まで!」


 男たちの間に、少しだけ笑いが広がった。


 良樹はまた、気づけば小さく口ずさんでいた。


「This ain't a song for――」


 今度は、最初より少しだけ声が出ていた。


 アルフは嬉しそうに聞いている。

 ニルはにやにやしている。

 ロブは耳を伏せ、聞こえていないふりをしている。

 クリスは何も言わず、ただ微笑んでいた。


 挿絵(By みてみん)


   ◇


 少し離れた場所で、カレンとクラリスはその様子を見ていた。


 二人とも、戦いを見る目ではなかった。

 警戒でもない。

 心配でもない。


 楽しげに笑う男たちを、幸せそうに眺めていた。


 カレンが、くすくすと笑う。


「良樹さんたち、楽しそうですね」


「ええ、本当に」


 クラリスも柔らかく微笑んだ。


「殿方だけの中でしか癒せないものも、あるのでしょう」


「そういうものなのでしょうか」


「たぶん」

「私たちには、全部は分からないものかもしれません」


 クラリスはそう言ってから、ふと視線を横へ向けた。


「ところで――リシアは、あそこで何を?」


 カレンもそちらを見る。


 リシアは、柱の影に隠れるようにして良樹を見ていた。


 挿絵(By みてみん)


 見ていた。


 いや、見つめていた。


 話しかけたい。

 でも、恥ずかしい。

 今行ったら、自分の顔がどうなっているか分からない。

 でも、良樹が歌っているところなんて初めて見た。

 楽しそうにしているところを、もっと見ていたい。


 そんな感情が、隠しきれずに顔に出ていた。


 それは、妻として夫を見る顔ではなかった。


 初めて恋を知った少女が、好きな人を遠くから見つめてしまう時の顔だった。


 カレンは、ふわりと目元を緩めた。


「リシア、可愛らしいです」


 クラリスも、少しだけ目を細める。


「その……ひょっとして、私もあのような?」


 カレンは、少し考えた。


 それから、穏やかに笑った。


「はい」

「クラリスも、あんな風に可愛いことがよくありますよ」


 クラリスは、一瞬だけ目を瞬かせた。


 それから、少し頬を赤くして、けれど嬉しそうに微笑んだ。


「――なら、私も満更ではないのですね」


「はい」


 カレンも笑った。


「とても、満更ではありません」


 二人は顔を見合わせて、小さく笑い合った。


   ◇


 リシアは、柱の影から良樹を見ていた。


 何よ、良樹のやつ。


 歌なんて歌っちゃって。


 そんなの、初めて見るわよ。


 いつもは工具だの盤だの停止条件だの、面倒くさいことばかり言っているくせに。


 弟子と、その友達と、少し離れたロブに囲まれて。


 クリスに見られて少し照れながら。

 ニルに茶化されて少し怒ったふりをしながら。

 それでも、どこか楽しそうにしている。


 知らない顔だった。


 自分の夫なのに。


 もう、夫なのに。


 まだ知らない良樹がいる。


 それが、悔しいような。

 嬉しいような。

 胸の奥を、そっとくすぐられるような。


 リシアは、自分の胸元にそっと手を当てた。


 顔が熱い。


 良樹が、また小さく歌を口ずさんだ。


 今度は少しだけ、さっきより声が出ていた。


 楽しそうだった。


 男たちが笑っている。

 アルフが目を輝かせている。

 ニルが茶化している。

 ロブが呆れたように耳を伏せている。

 クリスが静かに笑っている。


 その真ん中に、良樹がいる。


 リシアは、思わず口元を押さえた。


 ――何よ、かっこいいじゃない……。


 そう思った後、リシアの目は再び良樹に釘付けになっていった。


 少し照れながら。

 少し怒ったふりをしながら。

 それでも、どこか楽しそうに歌っている良樹。


 知らない顔だった。


 けれど、見ていたい顔だった。


 もっと近くで聞きたい。

 隣に行きたい。

 でも、今行ったら、きっと自分の顔が隠せない。


 リシアは柱の影に隠れたまま、しばらく動けなかった。


「アルフー! みなさーん!」


 その時、明るい声が響いた。


「お昼ご飯、出来ましたよー!」


 リナだった。


 台所の方から顔を出したリナが、元気よく手を振っている。


 その声に、アルフがぱっと振り返った。


「リナ!」


 ニルも腹を押さえるように笑う。


「待ってたっす!」


 良樹も、少しだけ肩の力を抜いた。


「もうそんな時間か」


 クリスも微笑んだ。


「ありがたいね」

「若者たちの修行を見ていると、こちらまで腹が減ってくる」


 その瞬間。


 リナの視線が、柱の影へ向いた。


「……あれ?」


 リシアと目が合った。


「ひゃあっ!」


 リシアは、情けない声を上げて肩を跳ねさせた。


 リナが不思議そうに首を傾げる。


「リシア様、そこで一体何を……?」


「な、何でもないわ」

「何でもない、何でもないんだから!」


 リシアは慌てて柱の影から出た。


 出たが、顔は真っ赤だった。


 そして当然、何でもない顔などまったく出来ていなかった。


 少し離れたところで、カレンとクラリスがくすくすと笑っていた。


 リシアは二人を見る。


「……あなたたち」


「はい」


 クラリスがにこりと微笑んだ。


 カレンも、柔らかく笑いながらリシアの傍へ寄ってくる。


挿絵(By みてみん)


「リシア」


 クラリスが呼ぶ。


「何よ」


 リシアは、精一杯いつもの顔を作ろうとした。


 作ろうとしたが、失敗していた。


 カレンが、少しだけ楽しそうに言う。


「良樹さんの歌、格好良かったですね」


「っ……!」


 リシアの顔が、さらに赤くなった。


「べ、別に、私は……」


「格好良かったですね」


 カレンは、もう一度言った。


 今度は少しだけ、嬉しそうに。


 クラリスも微笑む。


「ええ」

「良樹くん、とても楽しそうでした」


 リシアは、何か言い返そうとした。


 いつものように。

 強気に。

 照れ隠しに。


 だが、言葉が出なかった。


 少しだけ唇を尖らせて。


 それから、小さく。


 本当に小さく。


 こくん、と頷いた。


 カレンとクラリスは、顔を見合わせて笑った。


 からかう笑いではなかった。


 大切なものを見つけた時のような、柔らかい笑いだった。


 クラリスが、リシアの手を取る。


「さぁ、リシア」


「な、何よ」


「妻の仕事です」

「ご飯の支度をしましょう」


 カレンも、反対側からリシアの手を取った。


「行きますよ、リシア」


「ちょ、ちょっと」

「自分で歩けるわよ」


「はい」

「でも、今のリシアは少し逃げそうなので」


「逃げないわよ!」


「では、一緒に行きましょう」


 クラリスが清楚に言った。


「妻ですから」


 リシアは真っ赤な顔のまま、二人に手を取られて台所へ向かった。


 背中の方では、男たちの楽しげな声がまだ聞こえている。


 良樹の声も混じっていた。


 それだけで、また胸が跳ねる。


 リシアは、俯きながら小さく息を吐いた。


 ――何よ。


 ――本当に、かっこいいじゃない。


 そう思いながら、リシアは二人に連れられて、昼食の支度へ向かった。


   ◇


 昼食の準備が始まり、訓練場の空気は少しだけ緩んだ。


 アルフは、手の中の金属板をもう一度見下ろしていた。


 最低限の停止回路。


 良樹はそう言った。


 確かに、まだ最低限だった。


 条件は少ない。

 戻り線も弱い。

 想定外の入力には、まだ危うい。


 けれど。


 昨日よりは、前へ進んでいる。


 アルフは、その小さな金属板を握りしめた。


「アルフ」


 ニルが横から声をかける。


「飯っすよ」


「うん」


「腹減ってる時に考えすぎると、ろくなことにならないっす」


「そうなの?」


「たぶんそうっす」

「俺は腹減ってると、大体ろくなこと考えないっす」


「ニルはお腹が空いてなくても、時々ろくでもないことを考えてるよね」


「ひどいっすね、アルフ」


 二人は笑った。


 少し離れたところで、ロブがそれを見る。


 許したわけではない。


 今でも、アルフのしたことを思えば腹の奥が重くなる。


 リナのこと。

 集落のこと。

 人間になった者たちの戸惑い。

 戻れないかもしれない恐怖。


 それは消えない。


 けれど、アルフが止め方を覚えようとしていることは、見た。


 逃げずに、最低限の回路を刻んだことも、見た。


 だからロブは、そっぽを向いたまま言った。


「……明日もやんのか」


 アルフが顔を上げる。


「うん」

「やるよ」


「なら、ちゃんと覚えろ」


「うん」


 アルフは、真っ直ぐに頷いた。


「覚える」


 良樹は、そのやり取りを見ていた。


 自分が師匠に向いているとは、まだ思っていない。


 アルフもまだ、付与術師として足りていない。


 ロブもまだ、許したわけではない。


 ニルは軽く笑っているが、アルフの夢を茶化すつもりはなかった。


 クリスは、それらを静かに見ていた。


 最低限の停止回路は、ついた。


 道具にも。


 人にも。


 関係にも。


 まだ不十分で、まだ危うくて、まだ何度も見直しが必要な回路。


 けれどそれは確かに、昨日より一つ前へ進んでいた。


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